蛭ケ岳1673回登頂を目指して 

あとは蛭ケ岳の標高の高さまで通えるのかです
それまで足が持ってくれれば良いのだが
乗りバス(三ケ木⇒橋本)が好きです

竹内洋岳 ヒマラヤ8000メートル峰全14座を登りきる 山でもらった命だから山で使う。竹内は穏やかな表情でそう言い切った。

2017-03-17 19:17:55 | マラソン・駅伝関係
2012年5月26日、夕暮れの迫る17時30分。竹内洋岳は標高8167メートルのダウラギリ山頂に辿り着いた。1995年に24歳で8463メートルのマカルーの頂に立ってから17年の年月をかけて、ヒマラヤ山脈の8000メートル峰14座すべてを登りきった瞬間。世界では14座の登頂は30人近くが達成しているが、日本では最強の登山家と言われた山田昇も9座目に登った後で遭難死、この志を継いだ名塚秀二も10座目のアンナプルナで命を落とすなど、これまで10座の壁に阻まれてきた日本の山岳界にとっても呪縛から解放された瞬間だった。

竹内洋岳(たけうちひろたか)は、日本人で初めて8000m峰の全14座に登頂したプロ登山家である。2012年5月26日にダウラギリ(8167m)に登頂したことで、地球上にある8000m峰全14座を登り切ることに成功した。竹内は『日本人初の8000m峰全14座登頂の記録』について、9座まで登頂した後に亡くなった山田昇(やまだのぼる,1950-1989)・名塚秀二(なづかひでじ,1956-2004)に続いて全14座を登ろうとした日本人がいなかったことが、自分が初になれた最大の理由だと語る。また、現代の軽量かつ高性能な登山の道具や世界の高山に関する豊富な情報があったからこそ、自分は全14座登頂を成し遂げられたのだと謙遜した口調で語っている。

登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

竹内洋岳という登山家の異常なまでのタフネスと身体能力の高さ、高度順化のスムーズさが印象的であり、6000~7000メートルくらいの高所で阿蘇・中島が『高度順化による体調不良』に喘いで寝込んだり苦しんだりしている時に、竹内氏だけはピンピンとして元気な様子なのである。
中島氏から見た竹内洋岳の最初の印象は、『普段は何もトレーニングをしてなさそうだし、見た目もヒョロヒョロしているし、本当に山に登れるのだろうか?』というものだったそうだが、実際にチョー・オユー登山を一緒にしてみると『竹内氏の高度順化の早さ・歩く登る速度の速さ』が超人的に並外れていて驚かされている。チョー・オユーの頂上はだだっ広い台形上でどこが頂上なのか分からないくらいの広さだというが、竹内氏は頂上からC2へ降りる途中で『道迷い』をしてしまう。8000mの高さでの道迷いだから、下手をすれば死んでしまう致命的なミスであり、実際、竹内氏は丸二日間、若干の睡眠を取りながら歩き続けてバテバテになってC2に帰ってきた。
仮眠を取っていた場所で顔見知りのシェルパに会って下山を急かされなければ、竹内氏は落命していた可能性もあるが、ここで竹内氏を救ったのは『偶然の幸運』と『400mを登り返すという判断』だった。竹内氏は道に迷って何度も幻覚に襲われて、右足が凍傷になりながらも、何とか生還して最後のダウラギリに挑むことになった。普通の登山でも自分が道迷いをしたかもしれないと思って、来た道を引き返してもう一回登り返すというのは『面倒できつい判断』であり、ついつい『もう少しこの道を歩いたら降り口が見つかるんじゃないか』という甘くて楽な判断に傾いてしまう。しかし、この時の竹内氏がその甘くて楽なほうの判断をしていたら、それ以上進めない場所で行き詰まってしまい命を落としていた可能性が高いだろう。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。

14座 竹内洋岳
 9座 山田昇 (故人)
     名塚秀二 (故人)
     田辺治 (故人)
     近藤和美
 8座 加藤慶信 (故人)
     谷川太郎
 7座 山本篤
 6座 尾崎隆 (故人)
     宮崎勉
     後藤文明
     三谷統一郎
     高橋和弘
     北村俊之
     天野和明


Hirotaka Takeuchi

竹内洋岳は、『マカルー→エベレスト→K2→ナンガパルバット→アンナプルナ→ガッシャブルムⅠ峰→シシャパンマ→カンチェンジュンガ→マナスル→ガッシャブルムⅡ峰(雪崩遭難に見舞われて背骨・肋骨を骨折する大怪我をしたが1年後に再度挑戦して登頂)→ブロードピーク→ローツェ→チョー・オユー→ダウラギリ』という順番で8000m以上の高山の全14座に登頂している。

ピンキリである8000メートル以上の高山の登山費用についての話も興味を惹かれるが、無酸素でシェルパを使わず、特別な道具も新たに調達しないという条件であれば、“100万円前後”くらいで8000m峰にチャレンジできるのだという。

13座目のチョー・オユー登山では、それまで長年パートナーを組んでいたラルフ・ドゥイモビッツ(1961-)とガリンダ・カールセンブラウナー(1970-)が既にチョー・オユーとダウラギリに登っていた事もあって、ブログで新たに別のパートナーを募集することにした。ネパールの首都カトマンズに集合・解散で、年齢・性別・経験は不問、資金はなければ貸し付けも可能という条件で、竹内洋岳はチョー・オユー登山のパートナーを募集したのだが、8000m峰でこういったパートナー募集は異例の試みだろう。

無論、竹内洋岳氏らが挑戦している低コストのアルパインスタイルの8000m峰の登山は、一般的な登山家が容易に真似できるものではない、シェルパもつけず酸素ボンベも持たないという厳しい条件だと、日本の3000m峰の冬山にある程度登り慣れている人でも恐らく無理なのではないかと思う。



 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。



――達成感や満足感に浸ることはない、ということですか?

 「ダウラギリの頂上は、そうですね、このテーブルくらいかな」

 竹内が指したテーブルは、ほぼ畳一畳分くらいの大きさである。

 「風が強かったし、頂上にいたのは2、3分くらいだったと思います」

 最終キャンプから頂上まで15時間以上かかっているのに、たった2、3分?

07年、竹内自身、まさに日本にとっては鬼門の10座目のガッシャーブルム2峰で、雪崩に遭い300メートル流され、背骨の破裂骨折、肺が潰れ、肋骨5本骨折という瀕死の遭難事故を経験している。300メートルといえば東京タワーのてっぺんから落ちるようなもの。生還が奇跡のような大事故で、この時、一緒に登っていた2人の仲間が命を落としている

プロの覚悟を定めた翌年にガッシャーブルムでの大事故に見舞われたわけだが、その覚悟に揺るぎはなかったという。だから、治療法も再び山に登れる可能性に賭けて最先端手術を迷いなく選んだ。そして、1年後に同じガッシャーブルム2峰に挑んでいる。事故の記憶が生々しい山は後回しにすることもできたのに、あえて同じ山に同じルートで登る。

 「僕の山登りは、自分の足で登って自分の足で下りること。本来、自分の足で下りてないことは死んでるということなのに、自分の足で下りてないのに生きていることがどうしても納得できなくて。体も痺れが残っていて十分ではなかったけれど、這ってでもいいから事故現場までは行きたかった。身勝手な決着のつけ方ですが、そこからもう一度自分の足で下りる。同時に、雪崩をなぜ避けられなかったのかわかるのではないか、亡くなった二人の仲間を感じることができるかも、そんな思いもありました」

ガッシャーブルムを後回しにすることはできなかった。でも、登り直しても何も変えられないという山の現実の中で、いくばくかの期待も感傷も打ち砕かれて、竹内の覚悟は強靭さを増したと言えるのかもしれない。自分が今生きている不可思議さは、遭難した時に近くにいた各国の登山隊を初め多くの人たちが、自らの危険を顧みずに救助活動にあたり、ヘリでの輸送や帰国までのすべてに力を尽くして命を繋ぎ止めてくれた結果なのだと改めて実感することで、素直に受け止められた。

 「彼らは“ミッション”だと言いました。普段軽く使っちゃいますが、まさに使命。命と引き換えなんですよね。自分は本当はあの時に死んじゃってて、みんなから命を少しずつ分けてもらったんだと思いました。助けてくれた方々へのお礼は、14座を登りきることでしか返せない、ああ、あの時のアイツ、山をやめずに登ったんだなって見てもらうしかない」


 「8000メートル級の山の頂上って本当に生命感のない、非常に危険だということがヒシヒシと伝わってくるところなんですよ。頂に到達した時に最初に思うことはね、その先には空しかありませんから、ああ、もう登らなくていいんだという安堵感。で、次に感じるのは恐怖感です。明らかに生き物が生きていける場所じゃない。生き物の自分がそこにいることがあまりに不自然に思えて、怖くなってくるんです。だから早く下りたいと思う」

ダウラギリはとてもいい山で、昔から登りたかった山でもあります。何といってもカッコいい。でも、到達したら、早く離れる。生命の危機を感じる者こそが、頂上から帰って来られるのではないでしょうか。「クライマーズ・ハイ」という言葉がありますが、達成感や満足感が頭のなかに涌き出たら、正確な判断のできない危険な状態だと私は思います。
いまのところはそういうことがなくて、それゆえに私は登れたのではなく、降りてこられました。ベースキャンプへ帰ってこないと、そこまで降りてこないと、次の山には登れません。登って降りる、を繰り返していかないと、14座は登り切れない。ですから、登れたのではなく、登って降りてこられた、というのが私の感覚です。


生と死が隣り合わせる極限の世界で、竹内洋岳は挑戦を続けてきた。自らの限界に挑み、逞しくも笑顔で乗り越えてきた。
今年5月、世界に14座ある8000m峰──そのすべてがヒマラヤにある──の完全登頂を、竹内は日本人で初めて成し遂げた。1995年のマカルー登頂から18年に及んだチャレンジはついに幕を閉じ、地球上で29人目の〈14サミッター〉が日本から誕生したのだ。
竹内が成し遂げた快挙は、登山界はもちろん日本中を駆けめぐった。興奮と感動を巻き起こした。
ところが、本人は意外なほどに冷静なのである。
「日本人初ということには、意味さえ感じません」と語るのだ。
プロフェッショナルマウンテンクライマーの胸中で、いま膨らんでいる思いとは。

 日本山岳界の悲願ともいうべき世界の8000メートル峰、最後の14座目を目指していたプロ登山家の竹内洋岳(ひろたか、41歳、ICI石井スポーツ所属)が26日、ネパール北部のヒマラヤ山脈のダウラギリ1峰(8167メートル、第7位)登頂に成功し、超人ラインホルト・メスナー(イタリア)以来、世界で29人目の「14サミッター」に、日本人として初めて名を連ねた。 

 今年のヒマラヤは天候が不安定で、長くBC(ベースキャンプ=4700メートル)に停滞を余儀なくされたが、それから解放されるかのように、23日早朝、竹内洋岳とカメラマンの中島ケンロウが元気に出発した。

■足かけ18年、世界29人目の快挙

 途中C2(キャンプ2、6600メートル)からC3(7200メートル)に向かって6800メートルにさしかかったところ、中島が体調不良を訴え、チョー・オユーに続く登頂はならず、下山した。

ここからは竹内が単独で頂上を目指すことになった。C3に25日14時20分到着。山岳気象のスペシャリスト「ヤマテン」の猪熊隆之から「26日の風はこの数日でもっとも弱い状態になる」との朗報が入っていた。

 竹内は順調に高度を稼いで26日についに頂上に立った。C3を午前1時半に出発し、頂上にたどりついたのが午後5時半。16時間がかりのアタックだった。14座目の頂上は風が強く、視界が悪かったという。

 1995年のマカルー1峰登頂から足かけ18年、14座最後となるダウラギリ峰の無酸素登頂を果たし、感激もひとしおだろう。

14座登頂の意味

――14座完全登頂というのは、やはり大きな意味を持っていますか?
記録としては、すでに「いまさら」のものです。イタリア人のラインホルト・メスナーが14座完全登頂を初めて果たしたのは、いまから25年近く前の1986年です。世界中で30人近い登山家が達成していて、記録としての珍しさもない。私自身、14座を達成した登山家を、何人も間近で見てきました。私はすべて無酸素での登頂ではありませんし、記録としては平凡です。
1989年に亡くなられた山田昇さん※が達成していたら、年代的におそらく世界で3、4人目になっていたと思います。私の記録より、もっと大きな意味があったはずです。しかし、すでに多くの人が達成しているいまでは、日本人初という意味さえあまり感じません。すべて人間がやることなんですから、国籍をどうこう言うようなものでもない気がします。
しかし、日本人にとってはすごく、すごく特別な記録であることは確かです。世界的には「いまさら」な記録を、日本人がいまだに達成していないのはそもそも大問題で、私はそれが悔しくてしかたがなかった。マナスルを初登頂したのは日本隊なのに。14座に挑戦できる環境に身をおいているゆえに、本当に悔しかったのです。

いまとなっては、山田さんや名塚秀二さん※らの14座を目ざして命を落とした皆さんのことも、忘れられてしまうような気がしていました。命を賭けるというのは、崇高なことだと私は思います。山田さんや名塚さんの功績が忘れられ、それどころか日本人が14座を達成していないことから目を背けるような様子が、私には悔しくして腹立たしくてしかたがなかったんです。ならば私が、と思ったのは事実です。

※山田昇…1950年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に12回登頂。1989年に冬季マッキンリー登攀中に遭難死。
※名塚秀二…1956年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に登頂。2004年、10座目となるアンナプルナⅠ峰に挑戦中、雪崩により死亡。
――最初から14座を目指していたわけではなかったのですね?
最初から、ではありません。違いました。ドイツ人のラルフとオーストリア人のガリンダというパートナーに出会い、「3人で14座達成しよう」と決めたときに、日本人初の14座サミッターになり、山田さん、名塚さんらの先人の功績が少しでも振り返られる状況を作りたい、と。そういうことも含めて、14座というのは、私にとってすごく大切な、特別なものです。それが、やっと、終わりました。

――2007年にガッシャブルムⅡ峰で、雪崩に巻き込まれて背骨を折る大ケガを負いました。それでも14座への挑戦を続けた原動力とは?
いや、特別な原動力はあまりないですよ。本当なら私はガッシュブルムで死んでいたわけです。たまたまそこにいた多くの人たちが助けてくれたから、いまもこうしてここにいる。私の命は、彼らに新しくもらったもの。山でもらった命です。だから、山で使い切っていいと思うんですよ。

――それにしても、再び山と立ち向かう際に、恐怖心はなかったのですか?
いやあ、ないですね。人間ですからどこかにあったかもしれませんが、それを上回るぐらいに登りたい意思があったと思います。自分で登って降りてこないと、山登りにならない。ガッシャブルムは、自分で降りてきていない。私が考える登山になっていなくて、それが気持ち悪くて腹立たしかった。
自分なりの勝手な決着のつけ方ですが、せめて事故があったところまで行って、自力で降りてこないと、どうにも納得がいかなかったんですね。それをしないで生きていくのはおかしい、と。それだけに、ガッシャブルムを登り直した際には、得も言われぬ感情が沸き起こってきました。

――どんな感情が爆発しましたか?
泣きました。涙が出た理由はひとつではなく、悲しい、痛い、悔しい、嬉しいといった感情の発露として泣いたわけでもなく、いっぱいになった頭のなかを整理するために、泣くという行為をしたのかしれません。

――ケガからほぼ1年後の登頂は、「奇跡的な回復」とメディアに伝えられました。
それは大げさです(笑)。翌年にもう一度ガッシャブルムへ行くとなると、必然的に時期は決まります。登山ができる時期は、限られていますから。リハビリが間に合わなくても、日本を出ちゃおうと思っていました。1年でパーフェクトな身体になるとは思っていなかったですし、這ってでも行くつもりでしたので。
まずはとにかく、ベースキャンプまで辿り着く。ベースキャンプへ着いたら、次はキャンプ1を、その次はキャンプ2を目ざす。山頂への過程も含めて、リハビリという理解でした。
事故のダメージがちゃんと抜けたのは、去年ぐらいでしょうか。ただ、事故前の身体とは違います。日常生活に支障はなく、山でも特別な問題はありませんが、指先まで神経が通っている感覚は、右足と左足では異なります。背骨の骨折とは別に、肋骨が変形治癒しているのもありまして……(といってシャツをめくり、右手で肋骨を示す)。

――あっ、左側の肋骨がポッコリと浮き上がっていますね。
飛び出しているような感じでしょう? 息が荒くなると痛んでくるんです。事故翌年のガッシャブルムではあまり気にならなかったんですが、09年のローツェは標高がガッシャブルムより500mほど高いので、どうしも呼吸が乱れるんです。そうすると、痛くて、痛くて。手で抑えて胸が開かないようにしたら、余計に苦しくなったり(笑)。

――苦しみという意味では、今回のダウラギリではビバークをしましたね。下山時に日が沈み、キャンプ3へ戻るルートが見つけられなかったそうで。
キャンプ3から頂上を目ざしているときから、たとえ遅くなっても今日のうちに山頂へ行き、帰りはビバークも有り得ると覚悟を決めました。ですから、登る途中でビバークできそうなところをいくつか探しておきました。山登りは想像のスポーツで、色々なことを想像して楽しむんですね。いかに他方向に、多重に想像できるかを山のなかで競い合う。いっぱい想像した者が、いっぱい楽しめる。
大きくいえば、あの山のあのルートを、あんなふうにして登りたい、という想像からすべてが始まっているのかもしれません。誰も登っていない山の、誰も登っていないルートを、誰も登っていない方法で登る。それを思い描けた者が、実際に行ける。想像力を競争している、ともいえるでしょう。

日本の登山は14座の呪縛から自由に


ダウラギリのC2、6600m付近。撮影:中島ケンロウ


――これからの目標も、すでに描いているのでしょうか?
どこまで登山を続けていけるのかに、私は挑戦しています。そのなかにきっと、14座があったんです。死なずに続けられたからこそ14座に到達したのであって、14座を登り切ったとは思っていない。地球上には無数の山があるわけで、裏返せばまだその14コしか登っていません。登り切ったとは、とてもじゃないですが言えないですよ。いままでも好きな山に登ってきたので、これからも好きな山に登るのかなあ。いずれにしても、ここから先は新しい登山のスタートです。

――と、いいますと?
14座をやり残してきたがゆえに、日本には“古い登山”が残ってしまっていたと私は考えています。古いものが混じった増築の登山ではなく、これからは新しい登山、新しい14座がスタートしていいでしょう。
たとえば、私はマカルー、エベレスト、K2で酸素を使っていますから、次はすべて無酸素の14座に挑むとか、ノーマルノートではなくバリエーションルートで14座を目ざすとか、そういうことをやってみたいと思う人が出てきたらいいですね。
私はこれで、過去の人間になっていきます。古い時代は終わりました。「竹内洋岳」ではなく、14座とかヒマラヤが、人々のなかに残っていけばいい。地図帳でしかみたことのなかったヒマラヤに行ってみたい、せめてカトマンズの街まで行ってみたい、できたら自分も登山をしてみたい、といった人が少しでも増えてくれたら、というのが私の願いです。
今回こうして取材を受けているのも、私がヒマラヤの話をすることで、8000mの山々を立体的に感じる人がいるかもしれない。私は幸運にも14座への挑戦を続けることができました。恵まれた環境にいるわけですから、これは義務でも使命でもなく、続けられた者がなすべき役割だと思っています。

――そうした啓蒙的な活動と並行して、登山も続けていくわけですよね?
組織に属していないといけない、お金がないと行けないというのが、1990年代までの古い登山でした。でも、実際には来週行くことだってできるんです。サッカーだって、国内を飛び出して世界でプレーしている選手がいるじゃないですか? あれと同じです。現代の登山は、ずっとずっと自由です。だからこそ、どんどん行ってほしいと僕は思っています。
ベースキャンプなんて、壮大な秘密基地ごっこですよ。何を持っていこう、何をして遊ぼう、テーブルクロスは何色にしようかなあ、どんな絵を飾ろうかなあ、なんて考えるのは、最高に楽しいじゃないですか!






世界8000m峰完登者一覧
 全ての8000m峰の登頂に成功した最初の人物はラインホルト・メスナーで、1986年10月16日に達成した。その1年後、イイジ・ククチカが2人目の達成者となった。日本人では2012年5月26日、竹内洋岳が世界で29人目の日本人初の達成者となった。
名前 達成年 国籍
1 ラインホルト・メスナー 1970-1986 イタリア
2 イイジ・ククチカ 1979-1987 ポーランド
3 エアハルト・ロレタン 1982-1995 スイス
4 カルロス・カルソリオ 1985-1996 メキシコ
5 クシストフ・ヴィエリツキ 1980-1996 ポーランド
6 フアニート・オヤルサバル 1985-1999 スペイン
7 セルジオ・マルティーニ 1976-2000 イタリア
8 朴英碩(パク・ヨンソク) 1993-2001 韓国
9 厳弘吉(オム・ホンギル) 1988-2001 韓国
10 アルベルト・イニュラテギ 1991-2002 スペイン
11 韓王龍(ハン・ワンヨン) 1994-2003 韓国
12 エド・ベスターズ 1989-2005 アメリカ
13 シルビオ・モンディネッリ 1993-2007 イタリア
14 イバン・バレーホ 1997-2008 エクアドル
15 デニス・ウルブコ 2000-2009 カザフスタン
16 ラルフ・ドゥイモビッツ 1990-2009 ドイツ
17 ベイカー・グスタフソン 1993-2009 フィンランド
18 アンドリュー・ロック 1993-2009 オーストラリア
19 Jo?o Garcia 1993-2010 ポルトガル
20 Piotr Pustelnik 1990-2010 ポーランド
21 エドゥルネ・パサバン 2001-2010 スペイン
22 Abele Blanc 1992-2011 イタリア
23 Mingma Sherpa 2000-2011 ネパール
24 ゲルリンデ・カルテンブルンナー 1998-2011 オーストリア
25 Vassily Pivtsov 2001-2011 カザフスタン
26 Maxut Zhumayev 2001-2011 カザフスタン
27 Jae-Soo Kim 2000-2011 韓国
28 マリオ・パンツェリ 1988-2012 イタリア
29 竹内洋岳 1995-2012 日本
30 金昌浩(キム・チャンホ) 2005-2013 韓国
31 ラデック・ヤロス 1998-2014 チェコ
<参考>
 代表的な日本人登山家
 ・山田昇   8000m峰9座に延べ12度登頂
 ・名塚秀二 8000m峰9座登頂
 ・田辺治   8000m峰9座登頂
 ・小西浩文 8000m峰のうち6座を無酸素登頂
 ・戸高雅史 8000m峰のうち5座を無酸素登頂

もっとも、18年かかったといっても、竹内の意識のなかでは、2001年の4座目のナンガパルパットから彼の本来の登山が始まっている。

 10人ばかりの国際公募隊に誘われて参加した。費用をシェアし、お互いをファーストネームで呼び合うフランクな関係に竹内は組織登山にはない喜びと自由を見いだす。

ここで山岳会などの大がかりな組織登山と「離別」した。無酸素登頂も彼らのスタイルでは当たり前で、ここからすべて無酸素登頂となる。

 オーガナイザーのラルフ・ドゥイモビッツ(50、ドイツ)は、竹内の実力をすぐに認めパートナーとして欠かせない存在となる。

 彼らとパーティーを組む。「メールが来て、山が決まり、カトマンズでの集合日時だけで、それで出発」。ヒマラヤは遠いところでなく、来週行こうと思えば行ける山だという。そうして先鋭的登山に生まれ変わり、彼らの中でもまれて共通の目標が「14サミッター」となったのだ。

 そのラルフは09年に達成、彼の妻のガリンダ・カールセンブラウナー(41、オーストリア)も昨年達成した。

■「『征服』と言わないでください」

 「14座を征服した竹内」と書きたいところだが、竹内はそれをよしとしない。

 「征服などという言葉には、自然に対して人間の増長した気持ちが込められている。私はそんな気持ちで登っていない」と。だから、「頂上に立ったと書いて下さい」と真面目な顔で注文されるのだ。

冷静沈着、素直で純粋な心を持ち続ける面は冒険家植村直己のようである。半面、軽妙快活なブログにファンは多く、愛されるプロクライマーとして新しいスタイルを築いている。

 シェルパも酸素も使わない少人数の先鋭的なスタイルは一度の遠征で複数の山頂を狙う「高峰継続登山」などを可能にしている。目指すのはよりコンパクトでシンプルな究極のスポーツ登山だ。

 07年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下した。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡と言うしかない。

 10座目は日本人にとって大きな壁となって立ちはだかっていた。最強のアルピニストといわれた山田昇、名塚秀二、田辺治が相次いで10座目にたどり着かず命果てている。竹内が、「14」をあえて意識するようになったのは、彼らの悔しさを引き継ぐ決意をしたこともある。

 東京に搬送され入院1カ月。パートナーの2人も巻き込まれ亡くなったことで「なぜ私が生き残って彼らが死んだのか」と苦しみ抜いた。

■300メートル落下の事故乗り越えて

 翌年、「自分の心を拾い上げ、そこから一歩踏み出す」ために、再度、落下した同じ山に挑み、連続で11座目のブロードピークにも立っている。

 頂上で相棒のフィンランド人のベイカー・グスファッソンと抱き合い号泣した。「私だけの登頂ではない。いろんな人が押し上げてくれた」という感謝の思いがこみ上げて山で初めて涙を流した。14座達成時も思いは同じだろう。

 竹内の成功の陰には山岳気象を専門とする「ヤマテン」代表の猪熊隆之の存在がある。天候不順のため登頂予定が二転三転したが、「5月にこれだけ強いジェット気流が長く停滞するのは異例。当初の25日はおすすめできない」と判断。28日以降も考えられたが、それは「気温上昇によるルート崩壊等のリスクもある」ため、26日を選んだ。

 その日は、強いジェット気流も弱まるという予想。ヒマラヤの天候をピンポイントで予報するその能力に、登山家の絶大な信頼が寄せられている。世界にも誇れる異能の二人三脚でさらにスピーディーで新たな冒険の世界が開けるだろう。


たけうち ひろたか 1971年生まれ、41歳。東京都出身。立正大卒。プロフェッショナルマウンテンクライマー。ICI石井スポーツ所属。身長180センチ、体重65キロ。祖父の影響を受けて幼少からスキーと登山に親しむ。高校、大学で山岳部に所属、登山の経験を積み、20歳でヒマラヤの8000メートル峰での登山を体験。95年にマカルーの新ルート、東稜(りょう)下部初登はんで頂上に。96年はエベレスト、K2の連続登頂などで力をつけ、2001年からは各国の少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパを使わずにアルパインスタイルを積極的に取り入れた速攻登山で8000メートルII峰を攻略していった。しかし、07年のガッシャーブルム2峰で雪崩に巻き込まれ腰椎破裂骨折の重傷を負った。再起も危ぶまれたが、1年後に同峰に再び挑み登頂に成功した

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