じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

マナンのパン 

2013-12-28 16:31:52 | ネパール旅日記 2013
 
 11月19日 マナンにて。

 マナンにはパン屋が多い。
パンは途中の村でも売っていたが、パン屋とはっきりしたものを認めたのはフムデの街からだった。
そして、ムジュの小さな村にもパン屋があった。
それ以前の村や街では、ベシサハールでパン売りの屋台を二台見掛けたきりだ。
何故にこんな山奥に入ってからの方が本格的なパンと巡り会ったのか?考えてみた。

 答えは、小麦ではないかと推測するが・・・。
標高が低いと稲作が可能だが、それより上はたぶん麦などを作って居るのではないかと思うのだ。
米が出来ずに麦が有り、外国人のトレッカーが大勢立ち寄るとなれば、ピザやパスタと同様にパンが作られるのは必然ではないかと思うのだ。

 これはかなり当っているとは思うのだが、しかし、標高の低い村でも麦畑はあったし、醗酵させないチベットパン(ホットケーキ様のものとお好み焼き様のものとあり)や、パンケーキと称するものは有ったのだから技術的な事になるのか?との考えも捨て難い。

 第二の考察としては、マナンの村は色々な事情が有ってとても豊かなのだ。(豊かな理由はムキナートの村を例に後ほど説明したい)
マナンの村からは海外へ留学している子供も多く、それらが本格的なパンの製造方法や、ひょっとするとイースト菌なども持ち帰った事からパン焼きが始まったのかもしれない。
そして、マナンの街で興ったパン焼きが近隣の村にも伝わった。
だから、あまり離れた村へは伝播していないとも考えられる。
ちなみに、マナンのパン屋の品揃えはどの店も殆ど同じで、アンパンやジャムパンやコロッケパンなどは無かった。

 じつは、宿で食べたパンは精白していない小麦だったと思うのだが、下の方で食べたチベットパンやパンケーキは大麦ではないかと思うのだ。
小麦はパンや麺にして粘りが出るが大麦でパンを焼くと固くパサパサになってしまい美味く無い。
ひょっとすると、標高の違いで栽培される麦が大麦と小麦に別れやしないかなどと思うのだが、麦を見ただけで見分けることは自分には出来ず、分からない。

 アンナプルナサーキットを歩いた事をネタに何かを書こうなどと意気込んでいたのだから、この手の話しの裏付けを探りに街へ出て聞き込みをしてくれば良いとは思ったのだが、しかし、日が暮れると急激に寒くなるし、一度覗いたパン屋では自分の英語が良く通じなくて話しが聞けなかったと言う事も有り、興味は有ったのだが追いかける迄には至らなかった。
こんな事では「目指せ物書き」の道は遠く危ういと分かってはいるのだが。

 マナンには大地主が多く、街道沿いでホテルなどを経営して富を蓄えているものが多い。
それは、先祖伝来の土地を守ってきたからだろうと思う。
そして、人が集まる所には道が開け、それがやがてアンナプルナサーキットとして世界中のトレッカーに広まり、宿や茶店で収入を得られるようになったのだろう。

 チベット文化の影響を受けた地方は、ネパールでも「一婦多夫」制であった。
この制度は一族が土地を維持するのに必要な制度として今でもネパールのムスタン地方やチベットでは維持されているらしい。
理屈は簡単で、兄弟がそれぞれに嫁を娶って独立すれば、その度に財産の分与が行われ土地は小さく分割され続けて行く。
何代かを経たらヤクも山羊も満足に飼えない狭い土地になってしまい一族の勢力は衰退する。
「一婦多夫」の第一目的は農地の維持なのだ。

 そして、第二の目的は、子孫繁栄であった。
男は広大な農地で放牧をして暮らす為に数ヶ月も家を留守にする。
その間にも嫁は家に残る夫と過ごし、子孫繁栄に努めるのだ。
昔の事とて気候風土の厳しい土地で放牧などしていると命を落とす事も珍しく無い。
そんな時にも複数の夫がいれば家は安泰に保たれる、と言う事らしい。

 夫が複数いて生まれた子供はどうするのかと言うと、日本のように家長制度が有る訳ではないのでどの子が家督と言う事も無い。
従って、誰の子かを特定する意味も薄く、母系社会で子供は家の子になるようだ。

 日本の家長制度も田畑を細かくせずに維持する為の制度であったが、長男最優遇でややもすると次男以下は日陰者的扱いを受けた日本の制度よりもとても公平で良いとも思える。

 余談だが、チベット旅行記を記した河口慧海はこの制度を忌み嫌い、鬼畜の如き因習と書いていた。
しかし、河口慧海ほどの人があの荒涼たるチベットやネパールの高地で牧畜や放牧で生きて行く為には悪く無い制度であったと思い及ばなかったのか、少し残念な気がした。

 










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マナン へ No.15

2013-12-28 10:36:19 | ネパール旅日記 2013
 
 11月19日 火曜日 快晴

 ローピサン~マナンへ

 昨夜は最悪の夜になった。
ドルジの御陰で曲がりなりにも登頂が出来た事は感謝していた。
しかし、そんな気分をすっかり吹き飛ばすだけのインチキを奴は仕掛けて来たのだ。

 寝袋に入ってすぐ、ドルジが部屋のドアをノックした。
面倒だったが話しがあると言うので部屋に入れるると、「クライミング用品のレンタル料を立て替えてあるから払ってくれ」と言って合計欄に110ドルと記された黄色い紙を見せた。
それにはテント、ガスコンロ、スノーバー、サングラス、クライミングロープなどが書かれていた。
しかし、買った物とレンタル品が混じっている上に日付が書き換えられているし、良く見ると項目の下の方はボールペンのインクの色も違っていた。
一目見て改ざんした古い伝票である事は分かったが頭ごなしに怒鳴りつけたりしたら後が厄介だと思った。
さりとて、どう対処したものか一瞬では考えつかなかった。
米ドルをそこそこ持っているのを見られているので「金が無い」は使えなかった。
思い浮かんだのは、トレッキングの終わりにはボーナスを払うつもりだったのだから、ここは110ドルを払って事を収めておき、カトマンズに戻って安全が担保されたら爆発させるか?と言う手だった。
しかし素直に110ドルを手渡してしまったらもっと付け込まれる可能性も考えられるので、ここはやんわりとインチキを指摘し、一くさり嫌みの一言も言っておくべきだと思い、伝票の改ざんと、サングラスは誰のものだ、と言ってみた。
ドルジは読み書きが出来無いので自分の買った物が含まれている事さえ分からずに伝票を見せていたのだ。
それは、一目では数字と判断できかねるような汚い字で書き直されている上に、項目の合計は110ドルになっていなかった。
その事も指摘するとドルジは伝票を引ったくるようにして財布に仕舞い込んだ。
その時の顔はばつが悪いと言うよりは明らかに怒っていた。
部屋を出て行こうとするドルジに「ボーナスの先払いだと思ってくれ」と言って110ドルを手渡した。

 念願の6000m峰の登頂に成功して最高の気分で眠れるはずの夜が、たった110ドルの嘘で台無しになってしまった。
しかし、疲れていたのだろう、すぐに寝入った。

 この話しにはまだ続きがあって、朝になると、誰に書いてもらったのか、きちんとした文字で、テント・ロープ・ガスカートリッジ・スノーバー・フィックスロープと書き込まれた伝票を持ってドルジが部屋にやって来た。
それは合計が100ドルになっていて、10ドルは間違いだったと返そうとして来た。
自分は「それはお前のボーナスの先払いだから取っておけ」と言って受け取らなかった。
次第に腹がたってきた自分は「もうそんな小細工は止めろよ、気分良くこの先を歩きたいから110ドルを出したんだ。お前がトイレットペーパー一つでもピンハネをしている事を俺は知っているけど黙っていたんだ。もう沢山だからお前もナーランもここから戻れ。もしもお前らがトロン・ラ・パス方向へ行くと言うのなら俺がカトマンズへ戻る。何れにしても誤摩化される気遣いをしながらお前らと一緒に行く気はない」と言い放った。

 ドルジは顔を真っ赤にして何やらわめきながら出て行ったが、直ぐにナーランを伴って戻って来た。
自分は「何も聞きたく無い。ましてや言い訳や嘘の上塗りをするんなら本当に許さないぞ。お前らが俺に言うべき言葉はI'm sorryしかないだろう?」と言った。

 自分は、トレッキングの要領は掴めていたしトレッキングパーミットは紛失したと言って次のチェックポイントで幾許かの金を払って再発行して貰えば良い事も知っていた。
だからこの先は一人で行くつもりでパッキングをし直していた。
幸いな事にピッケルや重たいクライミングの道具類はナラバードルが持って既に出発していた。

 ナーランが自分を部屋の外に連れ出し小声で「ドルジの悪い所はポカラに着いたら会社に連絡する。ドルジも拙い事をしたと思って反省しているので許してやってくれないか」と言った。

 自分は返事をせずに部屋に戻り無言で寝袋を押し込んでいた。
突っ立ったままそれを見ているナーランとドルジに「今までの日本人は知っていても黙っていただけで誰一人として騙された奴なんか居なかったんだ。何故黙っているか分かるか?争いたく無いからだ。たぶん、ここはお前達の国だから怒らせたら厄介な事になりはしないかと怖れたのだ」と言った。
「ネパールのトレッキングに来る日本人はお金を持っている人が多い。だから、少しのお金の事で揉めるよりは黙ってやり過ごしてしまう。しかし、嫌な思いをした人は日本に帰ってから悪口しか言わないだろう。ネパール人は最悪だ、と・・・どう思う、ナーラン」と問いかけた。
「俺が聞きたいのはI'm sorry, I do not say lie anymoreだ。ドルジが俺にI'm sorry,と言ったら一緒に行くが、それが嫌ならお前らとはさよならだ」と強く言った。

 結局ドルジは謝らなかった。
お前は誤解している、と繰り返していた。
自分は Buddha watches you. understand? と怒鳴った。

 ナーランが躊躇いながらダッフルバッグに荷物を詰めていた。
そして「俺はポカラまで案内するよ」とドルジの顔を見た。
ドルジは何も言わずに部屋を出て行った。

 ナーランがダッフルバックを背負ったのを確認してピサンの宿を出た。
ドルジが後から着いて来るのが分かったが無視して歩いた。

 ピサンピークへ登っている時に西の方に飛行場が見えていたのがフムデの村で、トレッカーのチェックポイントが有り、そこを目指した。
小さな飛行場はポカラからの定期便と、チャーターのヘリなどが飛んでいるらしかった。
ピサンピークだけを目標にする場合はここまで飛行機かヘリで来てキャラバンを省いて体力の温存と言う手も使うとナーランが言った。
しかし、標高3280mのフムデまで一気に来てしまった時の高度順化は難しいような気がする。

 ピサンからフムデまでは急に500m程も下って登り返すきつい道だったが、途中で振り返るとピサンピークの全貌が見え苦にならなかった。
ピサンの村から見える穏やかな丸い頂上ドームとは違った山容で、鋭く尖った三角錐は紛れも無くヒマラヤの山であることを誇示していた。

 フムデが近づくとドルジが自分らを追い越して先に行った。
チェックポイントでの手続きをするつもりなのだろうと思ったが何も言わずに先に行かせた。
案の定チェックポイントではドルジが手続きをしていた。
そこで思い出した、そうだった、彼らもチェックポイントで証明書を貰わないと宿泊先で優遇してもらえないのだった。
ドルジは否が応でも付いてくるしか無かったのだ。
いや,実費で宿に泊まりバス代を払って帰るつもりならそれも可能だったが、110ドルをくすねるのに汲々とする奴だからそんな金は出さないだろう。

 休憩で茶店に入ったら様子を見て、あの話しは有耶無耶のままに今後の予定の確認をしてみるかと思っていた。
しかしドルジはチェックポイントを出てからも一向に休む気配も無く、フムデの街は間もなく終わろうとしていた。
ナーランにこの先にも茶店はあるかと聞くと、もう無いと言う。
ドルジはさっさと先を歩いて行った。
嫌がらせのように歩き続けるドルジの態度に怒りが込み上げて来て「ドルジの糞馬鹿野郎、てめぇぶち殺すぞ、俺の前を歩くんじゃねぇ」と日本語で叫んだ。
自分の大声に何事かと立ち止まったドルジのもとに駆けて行き、襟首を捉まえ「俺がボスだ、パーミットを出せ、お前はクビだ」と英語で宣告した。
今にも殴り掛かりそうな剣幕に驚いたナーランが自分の腕を押さえてネパール語で何かを言ったが「ドルジ、てめぇは何を勘違いしてやがるんだ、ふざけんな」と日本語で怒鳴り続けた。

 ドルジが青ざめた顔でナーランに何か言っているがおかまい無しにザックを力づくで降ろさせ中から書類の入った袋を取り出した。
トレッキングパーミットを手にした時にドルジが「I'm sorry」と言った。

 書類の入った袋を突き返し「二度と逆らうな」とドルジの目を睨んだが奴の目は承服してはいなかった。

 気拙い思いで歩いてもアンナプルの山は見事だった。
ピサンピークが見える間は幾度も振りその度に同じような写真を撮った。
ナーランに自分を入れて写真を撮ってくれと言うとカメラの扱いを知らないからドルジに頼め、と言った。
それならいいや、と、カメラを仕舞おうとするとドルジが作り笑いを浮かべてカメラを受け取りシャッターを切った。

 八時に出発して三時間半歩き続けムジュと言う小さな集落でやっと昼食休憩をとれた。
昨日の今日なので足は疲れていたが標高が高く無いので呼吸は楽で済われた。
しかし、ナーランの調子が悪いようで大した登りでもなかったがムジュの手前から遅れ出した。

 ムジュの村に来て初めてヤクを見た。
もっと大きなものなのかと思っていたが意外と小さくて驚いた。
チベッタンブレッドと言うホットケーキの揚げパンのようなものに蜂蜜をたっぷり掛けて食べ、ミルクコーヒーを飲んでいるとドルジがやって来てリンゴを1個くれた。
「ドルジ、ヤクってあんなに小さいのか?」と問うと、「あんなのばかりじゃない、特にエベレスト街道の荷揚げをするヤクはとても大きい」と言った。
そして「来年は皆でアイランドピークへ行くのだからエベレストベースキャンプへ荷揚げするヤクのコンボを見られる」と言って笑った。
ドルジの前歯は歯が一本無くて笑うと間が抜けていて可笑しかった。
自分はリンゴを齧りながらドルジの間抜け面に釣られて笑ってしまった。
ドルジが「お替わりはミルクコーヒーか?ミルクティーか?」と言ってまた前歯の無い間抜け面で意味も無く笑った。

 自分には怒りや嫌悪を持続するのは無理だった。
そもそも、フィリピンでは散々騙されまくってこんな事は慣れっこなはずの自分が、たった110ドルでここまでいきり立つ必要も無かったなと思い始めるから良く無い。
豊かでない国の、隙あらば金をくすねようとする人にはこちらの甘い気持ちが読めるようで、怒りを解いたと思えばまた仕掛けて来るに決まっているのに。
しかし、ドルジの悪さや誤摩化しは取り敢えず治まって行った。

 12時半マナンの街に着いた。
三階の日当りの良い角部屋が取れた。
アンナプルナ3とガンガプルナが南側に迫って見えた。
ここのベランダからなら労せずしてアンナプルナと星空が撮れるかもしれないと期待した。
しかし、遠目には素敵なロッジに見えた宿はやはりネパール規格の宿だった。
宿の看板には「24時間ホットシャワーOK」と大きく書かれていたのだが、お湯は出なかった。

 マナンの街は大きくて開けていた。
街を貫く街道沿いには小綺麗そうなホテルが数軒並び、またパン屋や雑貨屋も見られた。

 ドルジもナーランも宿に着くなり居なくなった。
たぶん茶店でロキシーでも飲んで自分の悪口を言い合っているのだろうと思ったがそれは違っていた。
後で聞いた話しだが、ドルジが休憩も取らずに先を急いだのはマナンの街で選挙結果を知りたかったからなのだとか。
そしてマナンに着くなり彼らは茶店で選挙談義に花を咲かせ、ロキシーをあおって酔っぱらったのだった。

 マナンはこれから5416mのトロン・ラ・パスを越えるトレッカーが高度順化の為に数日滞在するので賑わう街だった。
人によってはこの先のヤクカルカ(4000m)やレダー(4200m)に登ってみて高度順化を試し、駄目ならマナンに戻って仕切り直しをする。
だからマナンはトレッカーで賑わい、そして潤っていた。

 部屋は陽が当たって暖かかった。
ティーポットで紅茶を貰い日記を書いていたら隣の部屋に客が入った。
女性の二人連れが男性と少し大きな声で口論気味に話しているのが聞こえた。
男はトレッキングガイドで、客の女性がガイドに苦情を言い、注文を着けている様子だった。
成る程なぁ~ネパールのトレッキングで客とガイドが揉めるのは普通の事なのかもしれないと思った。

 そうだった、今日の昼飯を食べている時にもトレッキングガイドがシンガポールからの客を捜していたっけ。
ナーランに事情を聞くと、ガイドと揉めた客が怒ってどこかへ消えてしまったのだとか。
そうか、嫌な思いをしながら歩いているのは自分だけじゃないのかと思うと少し嬉しくなった。
そう言う国民性なんだよな、ドルジが特別外れた訳じゃないんだ、ナーランのように人畜無害なポーターに当っているだけラッキーなのかもしれないと思えて来るから不思議だ。
人は、どうにもならない状況には目を瞑り、受け入れ易くする為に自分の物差しを短くするものなのかも知れない。

 日没前に宿は殆ど満員になっていた。
6時に夕食を予約してダイニングに行くと満席だった。
4人掛けのテーブルに男性二人が座っていたので相席を頼むと、あの、ドイツ人とポーランド人だった。
自分はピサンピークアタックをしていたのでまだこの辺りを歩いているのだが普通にトレッキングをしていたらとっくにトロン・ラ・パスを越えているはずだった。
聞けば、ポーランド野郎が高度順化が進まずトロンフェディーから引き返して来たとの事だった。
自分はポーランド野郎に「お前は俺のピサンピークアタックに、諦めも選択肢として大切だと言ったんだぞ。フムデに戻ってポカラ行きの飛行機と言う手も有るんじゃないか?」と嫌みを言ってやった。
ポーランド野郎が「面目ない」と言って笑った。

 ドイツもポーランドもあまりお喋りな方では無く会話は続かなかった。
自分はベジタブルカレーライスとオニオンスープを食べて部屋に戻った。

 7時に消灯し就寝。
写真を撮ろうと思って12時頃に起きたが中途半端な月が出ている上にマナンの街には街灯まで灯っていて諦めた。










 

 




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