Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印が趣味です。
生きた証として好き勝手に書いております。(笑)

東本願寺(2022年1月22日参拝)

2022年05月06日 | 仏閣


本日の京の冬の旅の特別拝観第二弾は東本願寺です。

冬の旅で本願寺系は例年参加されていませんが、
今年は東西の本願寺が参加されていて、
東本願寺の特別拝観は巨大な阿弥陀堂門です。

各宗派本山の山門に登ってきましたが、
この阿弥陀堂門は滅多に登れない山門。

それが特別拝観として登れるとあって楽しみです。


所在地:京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
宗派 :浄土真宗大谷派
御本尊:阿弥陀如来
創建:慶長7年(1602)
開基:教如上人(本願寺第12世)


【縁起】
東本願寺は1272年に鳥辺野北辺の大谷に収められていた宗祖・親鸞聖人の遺骨を、
娘の覚信尼と門弟らが吉水の北の辺に改葬して廟堂を建てたのが始まりといわれています。
廟堂は覚信尼が留守職として護持し、本願寺の基礎を築きました。
1321年には第3代の覚如によって寺院化され大谷本願寺と呼称するようになります。

本願寺の中興の祖とも言われる第8代・蓮如によってその教えが広まりましたが、
そのことが原因となり1465年、比叡山延暦寺西塔の衆徒によって破却されてしまいます(寛正の法難)。
その後、1483年に本願寺は山科で新たに山科本願寺が造営され、
さらに1532年大坂・石山のかつて蓮如の隠居所だった大坂御坊へと移転。

1570年から11年間におよぶ織田信長との戦い(石山の戦い)に敗れた後は、
紀伊・鷺森へ退去しますが、豊臣秀吉の時代になり、
1591年には本願寺が京都に帰ることを許されます。
そこで第11代・顕如が京都・六条堀川へ阿弥陀堂・御影堂を作り本願寺した。

第11代・顕如の入滅に伴い、長男の教如が本願寺を継承しましたが、
教如は大坂本願寺の退去時に顕如上人と意見が対立していたこともあり教団内では内部分裂。
そして関ヶ原の戦い後、教如を第12代宗主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)と、
准如(顕如の三男)を第12世宗主とする本願寺教団(浄土真宗本願寺派)とに分裂。

教如は1602年に徳川家康から京都・烏丸通七条の寺地を寄進され、
そこに阿弥陀堂・御影堂を建立し、もう一つの本願寺を完成。
これが現在の東本願寺となっています。
なお准如が継いだ京都・六条堀川の本願寺は現在の西本願寺となっています。

その後、明治時代になると新政府による仏教弾圧の動きや幕末戦火において、
両堂を失い苦境にも立たされましたが、全国の門徒によって財政再建を果たしました。


【駐車場】


西本願寺は大型の無料駐車場がありますが、
東本願寺も小さいながらも無料駐車場があります。

花屋町通り沿いの門から入ると駐車場ですので参考にしてください。


【境内】


右が大玄関、左が玄関門、真ん中に京都タワーです。


【京都タワー】



【玄関門】


明治44年(1911)再建されたもの。


【大玄関】


東本願寺境内最古の現存建造物で慶応3年(1867)再建されたもの。


【菊の門】




元は慶長9年(1604)に徳川家康が寄進した勅使門は火災で焼失。
現在の門は明治44年(1911)再建されたもの。


【大寝殿】


東本願寺正殿として重要な法要儀式の場が大寝殿。

明治元年(1868年)再建されたもの。


【御影堂】






重要文化財。

まずはお参り。
さすがに大本山だけあって堂内は広く厳かでした。


【御影堂門】



【阿弥陀堂】






御影堂の方が大きいのでそちらが本堂と思われがちですが、
こちらの阿弥陀堂が本堂になります。

勿論阿弥陀如来が祀られています。

重要文化財。


【御影堂門】





【京都タワー】



【鐘楼堂】


重要文化財。。

明治27年(1894)再建、梵鐘は平成22年(2010)造。


【慶長撞鐘】


慶長7年(1603)徳川家康から京都烏丸六条の寺地の寄進を得た教如上人が、
同9年(1604)9月の御影堂の造営に合わせて鋳造したもの。







【乳】


どう見てもオッパイだなぁと煩悩丸出しで思っていました。(^^;

これは「にゅう」と呼ばれるもので108の煩悩の数あるそうです。
でも乳という名前が付いてるからやっぱりオッパイなんでしょうね。(笑

さて、長くなりましたので続きは次回へ。


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