このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

「悟性」を備えた共同体であることの幸せ⑥

2019年06月18日 | 政治・経済
(「韓国人から日本人に帰化」と書いたら名誉棄損!?)・・・前編
高山:形容矛盾(互いに矛盾した二つの概念を結びつけること:「三角な円形」とか「ゴム製の鉄板」などがその例)のようですが、日本人であることにささやかな自負心を持てるということがいかに凄いことかを、今の日本人はもっと知るべきです。それを空気のように当たり前と思っているけれど、自らの出自に自負心を持てるということは、実は世界を見渡せば当たり前とは言えない。

もう8年ほど前になりますが、英国人女性のルーシー・ブラックマンという英国航空のスチュワーデスが遺体で発見された事件など、計10人の女性に対する準強姦致死などの罪で織原城二という男が逮捕されました。

織原は、一審東京地裁でルーシーさん事件については「直接的証拠がない」として無罪、他の9人に対する犯行については求刑どおり無期懲役の判決を受けたのですが、ルーシーさん事件以外にも、平成4年2月にオーストラリア人女性が死亡した事件について無罪を主張し、東京高裁に控訴しました。

この事件について、いま上海にいるハワード・フレンチが、「日本人には、紅毛碧眼(こうもうへきがん)の女性に対する異常な性的妄想癖があって、織原はそれを妄想にとどめられず実際に殺害にまで及んだ」というような与太話をまたぞろ『ニューヨーク・タイムズ』に書いたんです。

私は、『週刊新潮』のコラムで、「こんな失礼な話はない。織原をジャパニーズとするには留保がいる。織原は日本に帰化したコリアン・ジャパニーズであり、安直な『日本人は~』というステレオタイプ的な書き方は許せない」と黒人のフレンチに対して批判を書いたんです。

ところが、これを織原が読んでいて、私と新潮社を名誉毀損(きそん)で訴えてきた。私だけでなく、彼を“元在日”と書いた漫画の版元と作者も提訴しています。この民事訴訟の一審は勝ったのですが、今年(平成20年)5月末の控訴審判決では負けてしまった。

なぜかというと、「ルーシーさん殺害」は、刑事裁判の審理では認定されなかったのだから、殺したと書くのは織原の品性を貶める名誉毀損だという。一審では、そう推断して書く根拠があり、表現には妥当性があったとされたのですが、今回は認められず20万円の賠償命令が来た(苦笑)。

もう一つ、「韓国人から日本人に帰化した」と書いたのは名誉を損なうという。おかしいじゃないか。元韓国人というのが恥ずかしいことなのか。そういう陳述書を提出したんですが、認められませんでした。名誉棄損で訴えてきた織原の心理を読めば、彼は在日韓国人という出自が恥ずかしく、それを隠して日本人になったということです。私は、韓国人として胸を張って生きている人たちに対する韓国人自身による侮辱だと思います。

日下:本当にそうですね。そこは大きなところです。かつてアメリカに移民した日本人たちが、日本出身であることを隠したという話は聞いたことがありません。移民の地位はその出身国の実力を反映しますから、一世紀近く前にアメリカに渡った日本人の苦難は大変なものだった。当時は、アメリカに同化するよりも、故郷に錦を飾るために外地で一旗揚げようという気分が濃かったけれど、やがて日本が国力を上昇させ、太平洋を挟んでアメリカと対峙するようになると、日系人たちは否応なく「日本か、アメリカか」を選ばなければならなくなった。

大東亜戦争中、移民の国アメリカで“敵性外国人”として収容所に強制収容されたのは日系人だけです。ドイツ系も、イタリア系もそんな目には遭(あ)わなかった。戦争の遠因の一つとなった排日移民法に見られるように、日系人だけが、単に交戦国であるという理由だけでなく、人種によって排除された。アメリカで生きることを決めた日系人たちは、アメリカ国家への忠誠を示すために軍隊に志願し、主に欧州戦線に投入され苛酷な戦場の先頭に立って戦いました。

とくに有名なのがハワイ出身の日系人主体で編成された陸軍の歩兵第442連隊(砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊だった)です。1944年1月から2月にかけてドイツ防衛線のグスタフ・ラインの攻防戦に投入されたのを始め、5月にはローマ南方のカエサル・ライン突破に活躍し、イタリア戦線最大の激戦地と言われたモンテ・カッシーノの戦闘では多大な犠牲を払って米軍の進撃を支えた。

とくに442連隊の名を高めたのは、1944年10月、ドイツ軍に包囲されて救出困難とされ、「失われた大隊(Lost Battalion)」と呼ばれたテキサス大隊の救出に成功したことです。ルーズベルト大統領から救出命令を受け取った彼らは、休養が十分でないにもかかわらず、待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘に突入、日系隊員たちは「バンザイ」と叫んで突撃を繰り返した。

戦闘から5日目の10月30日、442連隊はついにテキサス大隊を救出するのですが、テキサス大隊の211名を助けるために442連隊は約800名の死傷者を出した。救出直後、テキサス大隊の隊員たちは小柄な442連隊の日系隊員たちに抱きつき、涙を流して感謝したとされるけれども、ある白人兵が、「ジャップじゃないか」と吐き捨てたのに、「われわれはアメリカ陸軍第442連隊である」と“抗議”したという逸話も残されている。

この戦闘のあと、あるアメリカ人少将が442連隊を閲兵して、集合整列した兵士があまりに少ないので「全員を整列させろ」と怒ったという話もある。その少将は、歴戦の442連隊がいかに傷つきながらやってきたかを知らなかったらしい。編成時に2800名だった連隊は1400名にまで減っていたのです。

余談をさらに続ければ、442連隊下の第552砲兵大隊は、その後ドイツ国内に進撃し、そこでもドイツ軍と激闘の末にミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所を解放した。しかし日系人の部隊が強制収容所を解放したという事実は、長く秘匿(ひとく)され1992年まで米国内でも公にされることはなかった。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「悟性」を備えた共同体であ... | トップ | 「悟性」を備えた共同体であ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治・経済」カテゴリの最新記事