私がミネソタでとても貴重な体験をして、その後の人生観に大きな影響を与えただろうことについて少し触れてみます。
先日、子供たちの学校公開日がありました。
娘のQ-ちゃんは社会が苦手で一番の課題でした。
ですので私も社会に力を入れるようやり方を変えてみました。
Q-ちゃんは塾をやめてから最終的に主要5科60点以上アップすることができました。特に社会については劇的に改善できました。
勉強方については後日詳しく書きますが、そんな訳で社会の先生が出す問題はかなり難易度も高いということもあり
次回の一番大切な期末テストに向けて攻略するつもりで授業を見に行きました。
30分程見て帰るつもりだったのですが、、、授業は第一次世界大戦のところ、先生は身振り手振り、時には素早く絵も描いて実にテンポよく息つく間もなく授業を進めていきました。そして気がついたら私は先生の授業に引き込まれ最後までいました。
授業の中で先生は戦争の悲惨さをひたすら子供たちに伝えていましたがその中である小説の話をしていました。
戦争で目が潰れ、耳がもげ、口も聞けなくなり、手足もふっとばされ、ダルマのようになり、ただベッドの上でじっと自ら命を絶つこともできず生きているだけの兵士。その兵士が看護婦に対して頭をベッドに打ち付けることでしか伝えることのできなかった自分の意思=モールス信号、それは
「kill me」
のたった一言でした。
ミネソタのハイスクールで私はCHOIRという音楽のクラスを選択していました。
そこではみな机もなく教室に入るとひな壇になった舞台に座って先生の説明を聞いたあとすぐ歌を歌い始めます。
一年の後半に差し掛かった頃だと思います。
今まで仕上げてきた歌を日本で言う老人ホームや教会、障害者施設などあちこちへ行って発表するようになりました。
その中である日とても大きくてきれいな障害者施設へ行きました。
全米の中でもかなり大きな施設だと説明を受けた記憶があります。
私たちはいつものようにゴスペルシンガーのように青いローブをはおって、おそらく舞台となるちょっと薄暗いカフェテリアのようなところに通されました。
そしてひな壇に整列しながら視界に入ってくるものに異常に違和感を感じました。
目の前に座っている人たちは確かに障害者であるということは一目でわかりましたが私が認識している事と何かが違ってました。
中学生の頃「母は枯れ葉剤を浴びた」という本を読み非常に衝撃を覚えました。
ベトナム戦争で枯れ葉剤を浴びた兵士や女たちがやがて子供を授かりその子供を産み落としてみるとベトちゃん、ドクちゃんのように胴体がつながっていたり、手足がない、足が一本しかない、脳がない、、、そんな子供たちがたくさん生まれたそうです。
そして枯れ葉剤を浴びたのはベトナム兵だけではありません。
アメリカ兵もその影響を受けていますしアメリカへ逃れてきたベトナム難民も数多くいます。
歌い始めたものの私は目の前に現実にあの本で見た子供や大人がいることにワナワナと震え始めました。無脳症と言われる要はおでこに目がついた人が叫びながら私たちの方へ向かってきた時、たくさんのチューブにつながれた子を見れば顎から頭のてっぺんまで40、50㎝程の大きさがあり、それに対し体が同じように40、50cmほどしかない人を見た時、当時17歳だった私にはあまりにも信じがたい現実がそこにあったのです。
その日は帰ってからすぐ自分の部屋にこもり、いろんなことを深く考えました。
それから約1年後、高校での留学を終え再び大学へ行くためにミネソタへ戻ってきた私はダウンタウンからほど近い、キャンパスの近くに住み始めました。
田舎で治安がいいと言われているミネアポリスでも絶対一人では歩いてはいけないと言われていましたが確かある日友達との約束で道がわからなくなりダウンタウンに迷い込んでしいました。
そこには酒びんを紙袋で包んでふらふらしている浮浪者がちらほらといましたが私は何故だか怖く感じず彼らを観察していました。
すると、うっかり目が合ってしまい
そのうち一人が近づいてきて私に
「Are you Japanese?」
と聞いてきました。髪はぐちゃぐちゃで髭もぼうぼうでしたがそうしたことを除けばまだまだ精悍な美男子でした。
私は怖々「Yes...」と答えるとその浮浪者は私に握手を求め
「聞いてくれ、、、自分はベトナム戦争に行ったんだ、、。戦争は悲惨なんだよ、、ほんとうに悲惨なんだよ、、、わかるかい、、?何もかも狂わせてしまうんだ、、戦争なんかしちゃいけないんだよ、、、そうだよな?そう思わないか?」
と悲痛な声で泣きながら繰り返し私に訴えてきました。
私は
「Yeah,I think so,too」
と答えました。
その男の人は
「You understand...Thank you...Thank you」
(わかってくれるんだね、、、ありがとう)
と嬉しそうに私の手を握って言いました。
私はその人のごわごわした細長い手のぬくもりを今でも覚えています。
当時1989年、ベトナム戦争が終結してからたった14年しか経っていない頃のことです。
その人は戦争で何を見たのでしょう?何を失くしたのでしょう?どんな恐ろしい現実を、地獄を、見たのでしょう?
社会の先生は授業も終盤に差し掛かる頃、こう生徒達に話しました。
「ざんごうに一人で入って戦い、一日中頭の上を大砲が通り、時には肺を焼く毒ガスがまかれ、あちこちで人の手が飛び、足が飛び、頭が飛び、毒ガスで胸をかきむしって死んでいく姿を見る。そんな恐怖に耐える状況がたった一人穴の中で何日も続いたら人間はどうなると思いますか?」
(生徒)「・・・・・」
「人は・・・・最後には、狂うのです」
先日、子供たちの学校公開日がありました。
娘のQ-ちゃんは社会が苦手で一番の課題でした。
ですので私も社会に力を入れるようやり方を変えてみました。
Q-ちゃんは塾をやめてから最終的に主要5科60点以上アップすることができました。特に社会については劇的に改善できました。
勉強方については後日詳しく書きますが、そんな訳で社会の先生が出す問題はかなり難易度も高いということもあり
次回の一番大切な期末テストに向けて攻略するつもりで授業を見に行きました。
30分程見て帰るつもりだったのですが、、、授業は第一次世界大戦のところ、先生は身振り手振り、時には素早く絵も描いて実にテンポよく息つく間もなく授業を進めていきました。そして気がついたら私は先生の授業に引き込まれ最後までいました。
授業の中で先生は戦争の悲惨さをひたすら子供たちに伝えていましたがその中である小説の話をしていました。
戦争で目が潰れ、耳がもげ、口も聞けなくなり、手足もふっとばされ、ダルマのようになり、ただベッドの上でじっと自ら命を絶つこともできず生きているだけの兵士。その兵士が看護婦に対して頭をベッドに打ち付けることでしか伝えることのできなかった自分の意思=モールス信号、それは
「kill me」
のたった一言でした。
ミネソタのハイスクールで私はCHOIRという音楽のクラスを選択していました。
そこではみな机もなく教室に入るとひな壇になった舞台に座って先生の説明を聞いたあとすぐ歌を歌い始めます。
一年の後半に差し掛かった頃だと思います。
今まで仕上げてきた歌を日本で言う老人ホームや教会、障害者施設などあちこちへ行って発表するようになりました。
その中である日とても大きくてきれいな障害者施設へ行きました。
全米の中でもかなり大きな施設だと説明を受けた記憶があります。
私たちはいつものようにゴスペルシンガーのように青いローブをはおって、おそらく舞台となるちょっと薄暗いカフェテリアのようなところに通されました。
そしてひな壇に整列しながら視界に入ってくるものに異常に違和感を感じました。
目の前に座っている人たちは確かに障害者であるということは一目でわかりましたが私が認識している事と何かが違ってました。
中学生の頃「母は枯れ葉剤を浴びた」という本を読み非常に衝撃を覚えました。
ベトナム戦争で枯れ葉剤を浴びた兵士や女たちがやがて子供を授かりその子供を産み落としてみるとベトちゃん、ドクちゃんのように胴体がつながっていたり、手足がない、足が一本しかない、脳がない、、、そんな子供たちがたくさん生まれたそうです。
そして枯れ葉剤を浴びたのはベトナム兵だけではありません。
アメリカ兵もその影響を受けていますしアメリカへ逃れてきたベトナム難民も数多くいます。
歌い始めたものの私は目の前に現実にあの本で見た子供や大人がいることにワナワナと震え始めました。無脳症と言われる要はおでこに目がついた人が叫びながら私たちの方へ向かってきた時、たくさんのチューブにつながれた子を見れば顎から頭のてっぺんまで40、50㎝程の大きさがあり、それに対し体が同じように40、50cmほどしかない人を見た時、当時17歳だった私にはあまりにも信じがたい現実がそこにあったのです。
その日は帰ってからすぐ自分の部屋にこもり、いろんなことを深く考えました。
それから約1年後、高校での留学を終え再び大学へ行くためにミネソタへ戻ってきた私はダウンタウンからほど近い、キャンパスの近くに住み始めました。
田舎で治安がいいと言われているミネアポリスでも絶対一人では歩いてはいけないと言われていましたが確かある日友達との約束で道がわからなくなりダウンタウンに迷い込んでしいました。
そこには酒びんを紙袋で包んでふらふらしている浮浪者がちらほらといましたが私は何故だか怖く感じず彼らを観察していました。
すると、うっかり目が合ってしまい
そのうち一人が近づいてきて私に
「Are you Japanese?」
と聞いてきました。髪はぐちゃぐちゃで髭もぼうぼうでしたがそうしたことを除けばまだまだ精悍な美男子でした。
私は怖々「Yes...」と答えるとその浮浪者は私に握手を求め
「聞いてくれ、、、自分はベトナム戦争に行ったんだ、、。戦争は悲惨なんだよ、、ほんとうに悲惨なんだよ、、、わかるかい、、?何もかも狂わせてしまうんだ、、戦争なんかしちゃいけないんだよ、、、そうだよな?そう思わないか?」
と悲痛な声で泣きながら繰り返し私に訴えてきました。
私は
「Yeah,I think so,too」
と答えました。
その男の人は
「You understand...Thank you...Thank you」
(わかってくれるんだね、、、ありがとう)
と嬉しそうに私の手を握って言いました。
私はその人のごわごわした細長い手のぬくもりを今でも覚えています。
当時1989年、ベトナム戦争が終結してからたった14年しか経っていない頃のことです。
その人は戦争で何を見たのでしょう?何を失くしたのでしょう?どんな恐ろしい現実を、地獄を、見たのでしょう?
社会の先生は授業も終盤に差し掛かる頃、こう生徒達に話しました。
「ざんごうに一人で入って戦い、一日中頭の上を大砲が通り、時には肺を焼く毒ガスがまかれ、あちこちで人の手が飛び、足が飛び、頭が飛び、毒ガスで胸をかきむしって死んでいく姿を見る。そんな恐怖に耐える状況がたった一人穴の中で何日も続いたら人間はどうなると思いますか?」
(生徒)「・・・・・」
「人は・・・・最後には、狂うのです」
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