ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

狂人独裁者 その存在と非在

2017-09-09 11:58:56 | 日記
最近、横光利一の小説「微笑」を読み始めた。朝日新聞のコラム「天声人
語」で、以下のような文章を目にしたのがきっかけである。


正気を失っているのか、それとも本当の天才か。横光利一の短編小説「微
笑」に出てくる青年は数学者を自称し、海軍で殺人光線を開発中だとい
う。成功すれば、太平洋戦争末期の不利な戦局を一気にひっくり返せると
いうのだ。(中略)昔読んだ小説を思い出したのは北朝鮮が核実験を強行
したとの報に接したからだ。核ミサイルさえ開発すれば体制は滅びないと
いう、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長のあせりだろうか。国
際社会からの非難を無視する暴挙である▼北朝鮮への制裁は強まりつつあ
り、石油の輸出禁止も取りざたされる。追い込まれる前のあがきが度重な
るミサイルの発射、そして核実験なのか。石油を止められ無謀な戦争に向
かった過去の日本がだぶって見える。

この記事を目にした日、さっそく Googleplay で「青空文庫」の閲覧ア
プリをダウンロードし、横光利一の「微笑」をインストールした。縦書き
表示なので、違和感がない。読み始めると、これがなかなか面白い。独自
の小宇宙を作り上げていて、金正恩を入り込ませる余地などどこにもない。
そこにあるのは、紛れもなく敗戦を間近にした日本の姿である。

ただ、この小宇宙に、私はなぜかのめり込めないでいる。作品世界にどっ
ぷりと浸って、我を忘れ、今の日常を忘れることができないのだ。タブ
レットなどという電子機器で読むせいだろうか。いつもタブレットで読む
ネット上の文章は、きわめて短時間で簡単に読めてしまう。同じ感覚で、
70年も前に書かれた純文学作品の文章に臨むと、どうにも勝手が違い、
遅々として読み進むことができない。タブレットを手にしながらの、読書
のスピードはまだるっこくも感じられる。

当分は読了しそうにもないので、この作品について書かれた文章を、ネッ
トからいくつか拾っておこう。

『微笑』(びしょう)は、横光利一の短編小説。横光の遺作で、晩年の傑
作といわれることの多い作品である。作者死後の1948年(昭和23年)、
雑誌『人間』(第3巻第1号)1月号に掲載され、単行本は同年3月25日
に斎藤書店より刊行された。海軍の武器研究生に引き抜かれた数学の天才青
年との出会いから、ある俳人が彼との心の交流、別れまでを綴った物語。敗
戦の色濃い大東亜戦争末期の日本の焦燥を背景に、日本の絶対的勝利が確実
となると信じ、光線照射兵器の夢を語る青年と、彼の美しい微笑に魅せられ
た俳人の心の軌跡が綴られ、戦中を真摯に生きた者たちの叙情が描かれてい
る。( Wikipedia より)

篠田一士は『微笑』を、「これこそ横光の文学的生涯の最後をかざるにふ
さわしい作品である。敗戦に至った過ぐる大戦を彼がどんなに真摯に生き
たかを、心の隅々まで照らしだしてみせた、じつにすがすがしい傑作と
いっていいだろう」と評している。そして、横光が挑んだ未完の長編小説
『旅愁』を未読の読者でも、『微笑』や『比叡』、『厨房日記』、『睡蓮
』、『罌粟の中』を読むことにより、後年の横光文学の「豊かな成熟」を
堪能できるとし、『旅愁』は、最後の短編『微笑』のなかに「ようやく安
息の場所を見いだしたともいってみたいような作品だ」と解説している。

河上徹太郎は、『微笑』の青年・栖方には、これに近い人物が実在してい
たと思われるとし、「モデルは二十歳位の一高校生で、数学の天才であ
り、そのために一躍海軍大佐級に抜擢され、原爆に類する新兵器を研究し
ている。それが又俳句を嗜み、作者の句会らしいものに出席するのである
」と述べ、その事実関係がどこまで本当かは保証しないと前置きした上
で、以下のように評している。

この青年が数学の天才でなくて特攻隊員であっても構わない。横光氏はこ
ういう端正な頭脳と美しい意志を持った日本の青年を愛惜しているのだ。
『微笑』という題がそれを現し、これが戦後の作品であることの意味もそ
こにある。

『微笑』について三島由紀夫は、「(横光)氏の晩年の作品では、『微笑
』が傑作と思はれ、又その文章は、青春時代の叙情をよみがへらせたふし
ぎなみづみづしさをもつてゐる」と高い評価をしている。
                     ( Wikipedia より)

上にコピペした Wikipedia の文中にあるように、河上徹太郎は、この
作品に描かれる青年を「端正な頭脳と美しい意志を持った日本の青年」だ
としている。「天声人語」の筆者が言うのとは違って、この青年に金正恩
の姿を重ねることができないのは、両者の間にあるイメージのギャップが
あまりにも大きすぎるからだろう。70年も前の横光には、あの豚魔大王
の太鼓腹は想像もできなかったに違いない。

太鼓腹の狂人独裁者。その存在と非在。今と当時とでは、時代背景も大き
く異なっていたように思われる。
コメント
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