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コリント人への第一の手紙

2018-05-10 11:11:38 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第11章>
主の晩餐(11・17-34)
27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血を犯すのである。
28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。

随処に主となれと臨済は説く

2018-05-10 10:00:57 | 日記
現象が動く時に
その現象という影法師を動かす(司る)主人公を
曇りない眼で(迷いなき覚たる眼で)はっきり認識する必要があると
臨済禅師は
臨済録(朝比奈宗源訳註・タチバナ教養文庫)の中で
説いている。
その現象の変化を動かす「人」を
明らめなければならない、
とも言っている。
ここにおいては、
現象を動かす(現象変化において説法する)「仏」なるものと、
現象の動きをしかと見届けている「仏」なるものの両方があって、
実はそれは一つの仏の「はたらき」であるということである。
臨済録の訳註は
元臨済宗建長寺派の管長であった朝比奈宗源氏であるからこそ
臨済禅師のお悟りの内容を
かくも生き生きと伝えているのである。
本来「仏」なる人間は
現象が「仏」(三界)として説法していると同時に
「仏」としてその三界の説法を聴いている存在であるという真理は
道元禅師も「正法眼蔵行仏威儀の巻」で同様のことを説いていて、
大変興味深い。
臨済禅師は
現象の動きがいかなるものであろうとも
その動きを自己なりとしかと見届けている「無依の道人」という覚体があり、
またその「無依の道人」こそ自己の主人公なのだと云い、
「随処に主となれば立つ所皆真なり」
と書いているのである。
臨済録という本は
この「無依の道人」を
もっぱら説いている。
だが朝比奈宗源以外の学者の訳註したものは、
仏という生きた実在をとらえていないと見られるので
朝比奈さん以外の訳註本では真理を捉えることは不可能である。