tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

運転免許更新

2006年07月18日 01時06分23秒 | Weblog
話は日曜日に戻るが、自動車の普通免許の更新があった。
私は、免許を取ったのが遅かった。世間では、高校を出てすぐ、あるいは大学生の間に取って、ある程度レジャーで使いこなし、就職して営業で使うといったパターンが多いから、私の場合、相当遅れたわけだ。それでもまだ就職をしていたわけでもなく、大学の研究生だったから、日中時間があって、可能になったといえよう。

今年の免許でゴールドカードになった。免許を取った当時は、それなりに乗っていたのだが、今では乗ることもない。おかけで無事故無違反になった。

ところで、今回の更新では懸案事項があった。適性検査、すなわち視力検査で問題になるのではないかと不安になった。仕事でパソコンを使う頻度が高いが、その傍らで、細かい文字を読むなんてことも行っているから、だんだん目が悪くなる。この一年で衰えたものといえば、視力もあげられる。

こうなるとあらかじめ眼科で検診を受けてから行くほうがよさそうだが、もういいやという感じで、奈良県の運転免許センターへ。

初代神武天皇が即位した橿原神宮に近いともいえる新の口に免許センターがあって、ここで私は過去に運転免許の学科試験と更新を行っている。駅からそう遠くもないが、さすがに暑い。

一通りの手続きを行うが、過去私は安全協会費の使途が不明であることを、このブログで書いた。受付窓口のマニュアル通りの対応は結構巧妙で、「ご協力いただけますか?」と聞かれるが、「せっかくですがご辞退します」と言った。

読者の諸君!約束は守ったぞ!!

並んで前の人を見ていると、窓口を離れる際に、持ち物が違うようだが、あれで入会したかしなかったがわかる。と言うのは、入会すれば何かパンフレットらしきものを渡されるのである。勿論私はもらっていない。

で、視力検査。「0.1無い?」と聞かれて、「ないです」と答える。
前回は二回で終わったが、今回は4回くらい試されたと思う。そこで、そそくさとハンコを押されて渡されたが、そこには条件に眼鏡と押されていて、「合格」の印だ。

それらが終わると窓口へ提出して、写真撮影へ。今回取った写真は5年間同居するから、うまく写りたい。そこで赤めの服を着ていった。少し顔を下向けて取るが、どの道悪人ヅラだ。取った写真は悪人顔だが間抜け顔ではなくなった。

優良者講習は30分で終了。主にここ4年ほどの法改正が講義の主体だった。ビデオは見ていない。

結局何事もなく今回の更新も終了だ。
確かこの辺はといザらすがあったはずだがなくなっていた。どうも移転したみたいだ。ここのといザらすは現ブッシュ大統領の父親が大統領だったときに、外資系ショッピングセンターの出店状況視察に訪れた。結構話題になったものだ。

5年経ったらあの辺、だいぶん変わるだろうな。

またまた誕生日

2006年07月10日 23時26分34秒 | Weblog
というわけで、今年も誕生日。

しかも今年は運転免許の書き換えの年でもある。
生きていれば人間、一年に一回はやってくる日だが、年を取るごとに、それほど気にしなくなってくる。むしる、これから先何をやるのかということを考える日でもある。この日以降、一つ年を取るわけだから、転職するにも結婚するにも、少し難しくなる。このまま進むのか(ダラダラと)、エイやっ!と新しいことを始めるのかを考える日でもある。
私のほうにしてみれば、一年前から今日までやってきたことは、自分の中で少し「退化」ではなかったのかと思うときがある。それはまた自分がしっかりしていなかった部分でもあるし、その部分が帰って安全という状況に追いやっているということと、そこへ安住しているという現実。
だけど、このままじゃダメだから、どうにかしなければならないということが、大きくのしかかる日でもある。特に今年の第3四半期は多くの個人的課題がのしかかる時期でもある。

いうほど特別な日でもないのだが、この土日で使ったお金の中から、少し多めに出して、書店で専門書を購入し(あの『現代思想』で有名な青土社の5000円クラスの本だ)早々と家に帰った。

家人が小ぶりなケーキを用意してくれていた。

ありがとう!

結局、隣の国とは仲良くやっていけない国

2006年07月05日 22時58分40秒 | ニュース
北朝鮮からミサイルがボコボコ打ち込まれている。普通なら戦争である。
私も会社で話が出るたびに
「ピョンヤンを空爆すべきだ!!」
と主張してきた。しかも今日一日で3回は言っていたように思う。それにしても、つくづく日本は隣の国と仲良く出来ないことを思い知らされる。それは日本側の責任だったり、隣の国の責任だったり。結局、隣の人々よりも、遠くの国の人々のほうが、仲良く出来るんじゃないかと思う。一時期盛んに中国に未来を感じますとか、将来性を感じますとか言う人がたくさんいたが、今日ではどの程度いるのかと思う。会社でもタイやベトナムに行ってきたという人はたくさんいるけど、自分が一番行きたい国はヨーロッパのフランスだし、その根拠ともなるヨーロッパ系の言語や文学を勉強してきたものにとっては、アジアってそれほど魅力に写らない。自分の中でヨーロッパから脱却しても、目が向いたのは日本という国だった。中国や韓国ではない。そういえば、大学の仏文科の先生でもアジアについて語る人はいなかったように思う。

価値判断の研究

2006年07月04日 23時54分49秒 | Weblog
文化社会学と社会心理学の泰斗、見田宗介先生がこのタイトルで書いていたような。欲しい本の一つだったが、数年前ジュンク堂で見たきりで、その後見かけない。amazonなどで検索すると、この本の評価は非常に厳しく書かれている。ほんとうのところは、読んでみないとわからない。

さて、私のネタは、昼休みの外食に関する価値意識という、見田先生の本とはまったく関係がないところの提起だ。

さて、人によってさまざまで、そのとき財布にいくら入っているかで決まるのだが、昼休みの食事にいくらかけることができるかということだ。大体、この価値機銃は、おおむね次の二つに分かれる。すなわち、

「100円でも安く食べることを目的とする」

考え方と

「100円出したら、更にうまいものが食べられるので、こっちで行く」

という考え方だ。要は、前者の考え方は所得が低く、あるいは月々の出費が多く、弁当はもてないが、外で食べるしかなく、そこでも金を浮かさざる得ないという人々である。正直なところ、DTP業界では毎日の昼食を牛丼ですごさねばならない人間も少なくない。また喫茶店のランチメニューたる、少ないスパゲッティで空腹を満たさねばならない人間もいる。

だけど、私の場合、どちらかというと後者の考え方に近い。とはいっても、昼食の値段にも相場というものが存在して、1000円を超えたら、高いと思うことが多い。私にとっての相場は、大体700円から800円である。ここから100円の内外という話だから、対してすごいことでもないだろう。実は大阪の中心では、「安かろう、悪かろう少なかろう」というのがほとんどなくて、この700から800円というのが確たる相場で、この値段でありながら、「たいしたボリュームではない食事」と「確実に内容のある食事」が確実に線引きできるほどに、玉石混合な状況である。従って、ほとんどの人間にとってみれば、後者の同じ位のお金を出して、納得のできる昼食を取ることができる店を探すというサバイバルが、日々繰り返されるのである。

ちなみに本日の私の昼食は、「焼きそば定食」。この選択はまったく悪くない。というのも、焼きそばの中に、そば、キャベツ、にんじん、豚肉、もやし、ピーマンなどが入っていて、そばと野菜炒めを一緒に食べているようなものだ。またそこへご飯と味噌汁と漬物というお決まりの組み合わせがついてくる。量はそこそこだが、確実にお腹が一杯になるのだ。これで780円だ。まあまあな昼食である。更に100円足して何か別のものを食べればよかったという考えも起こらないくらいに満足できる。

ブヒブヒ

2006年07月03日 23時39分23秒 | Weblog
金曜日の深夜の事。飲んで帰ってきたのはいいが、途中から歩きにした。
夜中にトボトボ歩くと、中高生がたむろしていて色々と危険なのだが、まあ大丈夫だった。
家の近くに近づくと、一人中年の男性が歩いている。顔を伏せるようにして歩いているが、何が起こるかわからないから、足早にすれ違う。空き家を物色している空き巣がいると聞いた。その類かもしれない。
公園に近づくと、ガシャンと大きな音が鳴った。さすがにこれには驚く。動物らしきものが目の前を通り過ぎるが、とっさに傘で身構える。猫?らしきものが通り過ぎて空き地の方へ入っていった。

「ンゴンゴブヒブヒ」

と鳴いていた。猫かと思ったが、次の瞬間にはあの「ブヒブヒ」の声を反芻する。
そう、どうやらこの近くの山には、イノシシがいるようで、山から下りてきたらしい。狸とイタチがいることはわかっていたが、イノシシは意外であった。
これからさきもあの山でエアーガンが撃てるか心配だ。

書評:クロード・S・フィッシャー著 『友人達のあいだで暮らす』

2006年07月03日 00時35分35秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(書誌データ:松本康・前田尚子 訳  未来社 2002 (原著は1982年))

こないだ奈良県立図書情報館で借りてきたのが本書である。それ以前に早川書房の『アップル』という本を読んでいた。しかしこちらはマッキントッシュを作っている会社の草創期から現在の最高経営責任者たるジョブスが追放され、再び帰り咲くまでの一連の社内経営陣の動向を追ったノンフィクションでありながら、全くと言っていいほど面白くない。それでも読み続けたのだが、一週間経っても、100ページもすすまないくらいであった。仕事の方も行き詰まっていた時だから、気力も落ちて、本を読むスピードも落ちたのかとがっかりしていた。

本書の存在を知ったのは一昨年の冬だったと思う。書店の社会学の棚に想定のきれいな本がささっていて、タイトルも面白そうな付け方をしている。読んでみたいと思ったが、値段が6800円と結構高額な本であった。

その後、この本を天神橋筋商店街のある古本屋で見かけるが、こちらも結構な値段がついていて、あきらめにも似たためらいがあった。しかし、驚いたのは当分その本屋に近寄らず、ある日行ってみると、この本が売れていたという事。あの値段で手を出した人がいるのかと思った。

で、こないだ図書館にあったから、散財する前にどんな本か見ておこうと借りてきたのが始まり。本を読む時間も限られているし、読む場所も限られている。私の場合それが電車の中であり、通勤の途中だ。にもかかわらず、本体部分だけで400ページ近くあるこの本を5日くらいで読み上げた。やはり「昔取った杵柄」である。私もこれを隠して生きていこうと思った事もあるが、やはり出てくるところでは出るもので、受け入れて使っていこうと思うようになった。ただその後本書の内容を自分の中で咀嚼するのに手間取った。

著者のフィッシャーは社会心理学や都市社会学の学者だから、シカゴ学派の流れを汲むのだろう。シカゴ学派とは前世紀の初頭から大都会だったシカゴで栄えた社会学の一学派だ。彼らの対象は都市だが、当時のシカゴは社会不安の固まりみたいな場所であった。貧困や犯罪など。そういったところを調査というスタイルで分析し、社会改善の提唱を行っていくというのが、この社会学のスタイルでもあったが、見方を変えれば、政治学や社会政策学のような部分も見る事が出来る。しかし、本質的に社会学は政策などの提唱を行う事が主任務ではないと私も考えるようになったから、同じ社会学といっても、ある意味では方向が少し異なる分野に見える。

ちなみに私も都市とかには関心があるが、それでもその都市に内在する歴史とか建築物とかの「文化」の方向だから。最近では自分の専門を文化社会学としている。もともとそうありたかったのだが受け入れるのに相当な時間がかかった。

肝心の本書の内容だが、21世紀に入ってから日本語に訳されて、刊行されたにもかかわらず、原著は1980年代の初頭に出されている。原著作成の根拠となった調査自体は、1970年代の後半にかけて行われた訳だから、古いと言えば古い。しかし、作者はこの本が少しも古びていない事は指摘しているし、21世紀を迎えた現代でも充分通じると考えたからこそ、日本語に訳されたとするべきであろう。

ところで都市社会学は社会病理の部分を全面に出した結果、都市社会学の研究対象となる「都市」とは人間疎外が起こり社会的な紐帯(ちゅうたい)が弱まる場所としての「悪」という前提で断じられる部分があった。

確かに、都会は田舎に比べて人間関係は希薄である事は今日の日本でも感じる事であるといえる。ただ、この前提となる概念は本当に正しいのかというところから出発したのが、本書の内容である。筆者はこの問題に対して、個人間のネットワーク、すなわちどのような友人を作るのか、どのような互いの嗜好の一致が起こっているのか、どのような階層の分化が起こっているのかというところを調査している。かつて階層と嗜好の問題になるとピエール・ブルデューの研究が有名だろう。

また本書では「下位文化」の概念を用いている。下位文化、すなわちサブカルチャーという事になり、これはカルチュラルスタディーズの手法が入ってくるのだが、こうした既成の概念とは少し異なる視点で書かれている。それもそうだろう、原著が1980年代の初頭の発刊となると、それほどカルチュラルスタディーズが認知されていたとは思えないからだ。フィッシャーが用いる「下位文化」の概念は末端(ここではミクロな単位としての個人の意味で使う)の人間達が嗜好する文化の事であり、貴族的な上位概念を含む文化現象に比して、下位に置かれる文化という意味ではない。またそうして見えてきた文化にいわゆる階層と文化に関する明確な区分は、少なくともカリフォルニア(あのアメリカのカリフォルニア!)では見る事が出来なかった。その証拠に、安い賃金のトラック運転手の「好む」というより「こだわり」という意味における酒が、高価なワインであったり。比較的知識人階級のサラリーマン(大学教授と思われる)が好む新聞誌が大衆的な一般紙であったりという事例を挙げている。これらは少ないサンプルデータから導きだされた特殊な事例の誇張ではない。むしろ個人が有する文化の多様さをまとめあげることが出来ないくらいであったそうだ。

本書の調査の核心部分たる、都市における人間関係の側面によると、都市という場所に住む人々の疎外感はそれほど深刻なものでもなく、どの階層においても比較的広いコミュニティーネットワークを形成していることを明確にしている。しかし、この部分もまた非常にゆらぎの大きな結果でもある。

本書はフィールドワークの調査結果や事例をまとめたものであり、フィッシャーが導きだした、あるいは仮説として建てた理論の部分は、他の著書にまとめられているそうだ。これも日本語版が出ている。そのうちまた借りてきたい。

古書ブックフェア

2006年07月01日 23時23分55秒 | Weblog
昨日は会社の同僚の送別会だったが、かなりぼろぼろになった。
飲みが過ぎたわけではない。終電を逃し、途中まで乗って、山越えにタクシーを使った。第二阪奈道路を使わせたが、結構な出費となった。それで欲しかった専門書(普通の書店で買う予定の)が一冊吹っ飛んだくらいだ。帰ってきたのが2時半くらいだったから、次の日もそれほど体が動かない。今週の土曜日は日帰りで東京へ行って、次の日曜日はマッチの予定だから、金曜日に飲みいく約束は延期してもらわないと大変なことになる。

さて、あまり本調子でない状態で「古書ブックフェア」に行ってきた。名前を登録してあるので、ここ数年ずっとダイレクトメールが来て、この時期に開催される古書市に出かける。この古書市は近畿中から店舗を集めて、大阪の天満橋にあるOMMビルの中の大広間を借りて行う。だから冷房も効いていて、本を探しやすいが、日本最大規模と謳うくらいだから、出店数が多く、見てるだけですごく疲れてくる。ただ、京都の下賀茂神社で行われる市は屋外で行われて、しかも8月だからどうにもならんくらい暑い。ただし、こちらは結構安価な本が出品されることが多いので穴場といえよう。こんな状態だから、ここ7年は行っていない。

さて、古書市といっても必ずしも安く手に入るわけではない。値段が折り合えばというところだ。ハートとネグりの『帝国』が半額くらいで出ていたが、定価5600円、販売価格が2800円だったから、そのままにしてウロウロしていると他の人に持っていかれた。

今回手に入れたのは、立岩真也『私的所有論』(勁草書房 1997年)定価6000円を3150円である。内容は医療問題における自己決定の問題について考察した本だ。他にも橋川文三の論文集があったが、これは過去に発表したものをまとめた本で、その過去版の方を持っているから、今回は見送った。

やっぱり頭が回らないと、必要な本を見つけるカンが鈍る。帰りは同じ天満橋にあるジュンク堂に行ったが、買おうかなと思っていた中公新書の『安田講堂』を帰るときにはすっかり忘れて、本屋を出てしまい買い逃した。かなり重症だ。

明日は図書館でも行ってこようかな。本棚の間を回るだけでも、ずいぶんと違ってくる。