tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー3ー

2008年12月31日 15時11分34秒 | Weblog


「お前の苦労話ばかりで、表題とは違って来たな」という声が聞こえてきそうだ。

今年9月までのアウトラインは書ききった。その間、本当に悪い事ばかりだったのか。

話は、2007年初頭へさかのぼる。どこかの国の(アホな)首相は、先頃(2008年末)にハローワークに行って、そこでの検索を行う求職者と対話した中に、「やりたいことをしぼって探すと良いよ」とほざいたらしい。しかし、ほとんどの求職者はやりたい事などしぼると、仕事が見つからないことを知っている。できそうで、やったことのない仕事を探しているのが現状ではないか。
私もまたカウンセリングなどというものを受けさせられた。「何がやりたいか」を言うのは難しいので、大体35とか40の節目で、何をしておきたいかを言ってください・・・と言われた。そこで私は「40歳で本を出したい。自費出版じゃなく、出版社から依頼を受けるような形で・・・」でと言った。かなり現実味のない将来像である。「では、それに即した仕事を探してみましょう」と言われて探す訳だが、当然の事ながら見つかる訳が無い。にもかかわらず、それに則ってさがして、なんだか目標から、とっても遠いあの「コールセンター」の業務である。一度、入社を承諾したのは、カウンセラーが「もうここにしておけ」という、助言をくれたからだ。そして、私はこの話を断った。それ以降、ハローワークへカウンセラーから逃げながら、検索に行くはめになった。

さて、その年の末になると、窓口の担当者まで私が行くと求職の履歴を見て、イヤな顔をするようになった。「営業か工場でも探されたら如何ですか」工場はともかく、営業はかなり以前から選択肢に含めている。それにも関わらずである。「派遣の方が決まりやすいですかね」と聞いたことがある。しかし、ハローワークの担当者はこの派遣に対して、否定的だ。曰く「契約が切れたらまた探さなければなりませんからね」

さて、最近の家電メーカの工場閉鎖にともない、大量の派遣契約解除者が新聞などでクローズアップされているが、事務業の派遣は、実際のところどうなのであろうか。

どうあっても、やはり人ごとのようにしか扱いようがないハローワークに、神経を苛まれながら出入りするくらいならば、望む事務方で派遣社員になった方が遥かに良いと考えた私は、大量募集のかかっていた市税事務所の業務にエントリーし、そこが決まるのだが、それまでのつなぎとして、母校の図書館の整理アルバイトに入った。これぞ、かのリクルートの短期バイトで探した結果である。そのバイトで出会った現地のリーダーこそが母校の生協が出す同人誌の執筆メンバーであった。

さて、先に私は「本を出したい」などという途方もない夢を語った。お声がかかるには、まず、自腹を切ってでも人様の眼につく場所に、文章を置かねばならない。今の私には研究誌は敷居が高い。

だから、正月に南円堂を訪れたとき、何を考えたか、「本を出すような仕事に就きたいです」とお願いしたと思う。

私は、リーダーに古本屋で買った本を見せて「これで何か(エッセーでも)書いてみたいですね」と言った。すると、「書いてみろ、編集者を紹介する」と言われた。私の恩師も投稿していたあの雑誌に対して、掲載審査を受ける場所まで到達できたのである。しかし、この審査で残るかどうかが分かれ目である。もう何年もまともな文章を書いていなかった。4回は確実に書き直しを行い、編集者に見せると、若干の修正を施して、私の書いた駄文は、9月の終わりに同人誌の数ページを割いて掲載されることとなった。いま、私は次の掲載予定の執筆に追われている。

話を前回の最後に戻そう.
仲間にも恵まれた書類整理の仕事が終わると、私は母校に向けて派遣会社を通す形で、「提案書」を提出したが、全く応答がなかった。この時、私は大学という教育機関が横風に弱い事を知る。一般企業ならば、3ヶ月で社内が落ち着かない場合、おそらく会社が傾くであろう。しかし、大学という場所は世間から遊離しているのである。それがために組織的決断もまた非常に「ゆるい」のである。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー2ー

2008年12月30日 21時07分32秒 | Weblog


秋が過ぎて、冬になった。正社員にこだわった私の仕事は決まらない。そのまま2007年の末を迎えようとした。そして私は、手っ取り早く、お歳暮の配達のバイトを取ろうとした。目指すはクロネコである。昔、ここのお歳暮のアシストをやったことがあるからだ。電話をかけ、面接の予約を入れた。確かその日は東大阪にある娯楽遊具の会社のDTP制作部門の面接を受ける日だったと覚えている。見るからにガタイの大きな営業系の社長が出て来て、さんざん質問に答えたあげく、数日後、不採用の通知をもらった。が、すでにその時点でバイトの方は8割決まりかかっていた。

だが・・・・。

以前は必要としていなかった健康保険証が必要だと言い出す。前回にも書いたが、こんなしゃれたもの持っていない。今、ホームレスとなって、住所がなくなり、仕事が決まらない人々が多くなっている。そんな気持ちになった。もっとも屋根がある場所に居る分、私はまだ恵まれているのだが。不思議と私は、次の手を打った。郵便局である。

知る人ぞ知る、夜中の仕分けのバイトである。比較的若い人で充足されるコースであるが、それなりに年を取った人も見られた。中には退職者もいる。鉄鋼関係に勤め、最後は取締役にもなった人であった。おそらく長年勤めた前職で、体を酷使したのだろう。私の父とそう年齢が変わらないにもかかわらず、10年は多めに歳を取っているように見えた。

年賀状の区分け自体は機械で行うが、機械で判別できなかった物に関しては、手で区分けを行う。夜の区分けは18歳以上でないと出来ないから、朝になると高校生と入れ替わる事になる。やはり夜中の作業であるからか。入れられたシフトをきちんと守れない人もいた。比較的その範疇で仕事をこなし、なおかつ二時間程度の残業もしていたから、いつの間にやらバイトのリーダーになっていた。面白いのは、日中、高校生がのんびり行う区分けよりも、我々は約3倍近い数をさばいたということである。

2008年1月1日になった瞬間を、私は郵便局の区分け機械の前で迎えた。いままで、こんな迎え方をしたこともなかった。そして、来年もここで迎える事になるんだろうなと思った。年賀区分けのバイトが終了する直前、私は、郵便局から「スカウト」された。他のアルバイトからも残れと言われた。そう多くはない数の人間に声がかかったようだ。しかし、アルバイトのままでいることには不安があった。夜中バイトして、日中は就職活動。そんな選択肢もあったが、夜中に働くというのは、期間が決まっているから出来る事であって、よほどの意志がなければ、かなり難しい。

毎年家族と行く春日大社の初詣は、バイトでつぶれて行く機会を逃した。そこで、一人で行って来た。不思議な事に、同日、興福寺南円堂に足が向いた。以降、奈良へ行くと必ず興福寺南円堂に向かう。

アルバイトの終わった私は、就職活動を継続したが、やはり芳しくない。そんな中、3月は短期で大阪市の市税事務所の派遣の仕事が決まったこともあって。しばらく中止する事にした。4月に入ると別の、しかも大手の派遣会社を使って、探すことになる。

ところで、なぜ、ニュースで報じられる派遣は工場勤務が多いのか? 答えは至って簡単である。仕事が探しやすく、決まりやすいからである。誰でもそうだが、わざわざ決まりにくい事務職、しかも男性で事務職を狙って探すよりも遥かに決まりやすいし、多くの人間は今日や明日の日銭が必要なのだ。しかし、これには一つの問題もあって、技術の蓄積やホワイトカラーへの移動が極めて困難になる可能性も大きい。私はそこが凄く不安であった。だから工場系への手出しは避けた。

4月に入ると、その「大手」の派遣会社から、NTTコミュニケーションズなどのかなり大手の仕事が紹介された。しかし、細部をつめて行くと、どうしても最終的な審査で残る事が出来なかった。4月の終わり、私は自分の母校の事務職員、しかも学長室勤務の紹介を受け、面接が行われた。万事調子よく行くと思われたが、面接の次の日、大麻所持で学生が捕まり、危機管理の中枢たる学長室は大混乱。結局この話は流れたかに見えた。いよいよ食うに困った私は、以前の派遣会社に泣きつき、市税事務所の仕事を再度、紹介してもらう。その傍らで、別の話を進め、佐川急便の子会社が経営するコンピュータ会社で、大量の書類整理の仕事をもらった。

これも短期だった。というのも、かの母校事務職員の混乱は3ヶ月もあれば収まるという目論見があったからだ。夏の間は、延々整理書類のナンバリングという「判子押し」を行った。この頃から、周囲の人間関係に恵まれるような状況が現れる。

派遣の事務業を男性が行うのは、本当にしんどいものがある。そもそも、そこに居る人間のほぼすべてが「派遣は女性が行うもの」という公式を持っているからだ。ある時、私は、あたかもサンドバックを殴るように、人から暴言を投げかけられたことがある。20人の女性を連れて来て、男性は私一人という歪な人間構成の時もあった。このとき、私は派遣会社の「格」を考えるようになった。そう考えると、H社よりもA社の方が遥かに格が上だった。集めてくる人間の人間性は良かったし、H社の派遣社員でさえも、A社である我々をうらやましがったくらいだった。「A社さんところの社員さんは、楽しそうに働いている」と。

さて、契約の切れた9月・・・。


南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー1ー

2008年12月29日 19時21分54秒 | Weblog
ジョルジュ=バタイユの最古の執筆作品が「ランスのノートル・ダム大聖堂」である。ランス大聖堂は2006年にフランスへ行った際に訪れた場所である。もっとも、パッケージ旅行のオプショナルツアーで「シャンパンの本場に飲みに行こう」というコースで「ついでに」見てこようという感じだったが、実際に行ってみると、シャンパンどころではなくなったくらい、その巨大さと美しさに圧倒される。先のバタイユの文章の中には、つぎのような1文がある。

そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。(酒井健 訳『ランスの大聖堂』ちくま学芸文庫 2005)

全く仕事に恵まれていなかった私は、2006年末まで勤めた会社でその「不幸」が極まったように感じられた。自分を活かす訳でもなく、ただ、居ててこなすだけの毎日。その年末、私は会社を辞した。これほど、仕事に不満を持って辞めた事はかつてない。
それから、しばらく仕事を探す日々が続いたが、失業保険給付が終わる頃、ある会社の正社員に決まった。「マーケティング」の会社ではあったが、結局のところ、電話口の質問を繰り返す「コールセンター」である。私が電話をかけるのではない、その管理を行い、先々クライアントとの交渉や営業を行うというもの。面接も二回あるはずが、面接日に行くと、担当者が居なくて、出て来たのはその会社の若い「会長」。たかだか30分ばかりしゃべって、次の日に内定が出た。

しかし・・・

正直言って、自分の中にある「コード」ではない。自分の中で引っかかるものがある。すぐに働けるにも関わらず、入社まで一ヶ月も待たされ、その間に不安だけが倍増していった

さて、入社日当日。それまで私はせいぜい多くて50人の会社で働いていたが、しかし、その大半は正社員と契約社員くらいであった。都度、派遣社員を若干入れていたというところか。

だが、その会社は派遣だけで60人以上いて、それを10名に満たない正社員がコントロールする会社であった。これは普通なのかも知れない。でも私の中では「普通」ではない。

5月の半ばに入ったが、6月の初めまでいる「派遣さん」を教育する。人間は出たり入ったりするわけである。少なくとも私はこちらがわの人間ではなく、あちら側の人間、すなわち派遣社員の方だった。人の出入りが激しいと、やはり心は荒んでくる。それは以前の就業先で知った事だった。私は他人から見てそのように見えないのだが、その日パニックを起こし、胃が痛かった。これだけの症状が初日の午前中だけで起こったのである。次の日、私は会社を辞した。

そこから貯金を食いつぶす時間が始まる。次の仕事はなかなか決まらない。

やる気のない社長とか、廊下の蛍光灯がチカチカ点滅しているとか、隣の人事担当者とボソボソ喋りながら、時々、独り言を言っているのかわからないような口調で質問してくる専務。カタコトの日本語を喋る機会商社の社長・・・・実に『変な』面接や会社を受けた。こうした会社はみんなハローワークで見つけたものだが。

だんだんとやる気の方が後退していった。ひどい事に、マーケティング会社に内定した頃からかかっていた鬱病にも似た症状が悪化しはじめていた。しかし、病院にも行けない。バカ高い国民健康保険を払い続けてまで、保険証を持つ事が嫌だったからだ。大体、前職で渡されていた保険証を2年間に行使したのは一回だけ、軽いカゼのときである。配偶者や小さな子どもがいるならともかく、私ひとりでは必要ない。

夏が過ぎて、秋になり、私は楽に死ねる方法を考えた。

結局、この近畿では望む仕事が見つからず、東京へ行く事も考えた。私はあれほど忌避していた外国語校正の仕事を行う会社の面接をうける約束を取り付け、東京へ行くバスを予約したのは、10月の中頃。時間だけは沢山あった。

10月17日、この日は一年で一日だけ奈良の興福寺にある南円堂が開かれる。中には国宝 不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)が安置される。偶然にもこのことを知り、何かに動かされるように、わたしはそこへ向かった。

正直いって、仏像に関する知識など何も無い、ましてそれは美しいのかどうなのかということは全くわからない。でも「これほどやさしい顔はない」という強い衝撃を得た。東京は、「何のために呼んだんだろう」という感想を持つだけに終わった。

そして私は奈良に帰り、目減りして行く貯金をセーブすべく、バイトを探した。

これが最後の製品だと思いたくない

2008年12月02日 21時47分54秒 | エアーガン/実銃
私は持っていないのだが、タナカのカシオペアが実銃と認定され、警察の回収がすすんでいる。
M500とピースメーカーの合計二千丁近くが流通しているらしいが、実際に回収されたのは500丁ほど。
あってはならないことなのだが、現実的にすべての回収は無理のようだ。未だに、1985年ごろ発売された国際のパワーアップマグナムやアサヒファイアーアームズのM40が回収リストとしてでてくるくらいだからだ。

つい最近、私はタナカの出すコルトディティクティブスペシャルを手に入れた、表面仕上げはスチールゴールド。タナカは実に多くの表面仕上げを知っている。ただ、雑誌媒体で発表される以前に店頭で見かけたときは、少しみて買うのをためらった。初め見たときは3丁箱があったはず。ただ、この銃は人気が高い割に、市場に出回る数が少ない。めざとく見つけたコレクターが買って行くから、次に見せに行ったときはまず無いことが多い。

だから、

やはり買うべきだと思った。その考えに至ったのは見た次の日。それから次の日に行くと、既に最後の一丁となっていた。勿論これを押さえた。店主の話では、市場に出回った数は非常に少なく、すでに問屋にも在庫が無いと聞く。いくつかの雑誌記事が伝えたのは、新製品ではなく、新しく出て、既に幻の品となった「残光」であった。

しかし、同時にタナカの窮状も聞く。預かり票を根拠として、そのすべてに定価で補償するそうだ。事実上、メーカの利益の二倍近い損失が出る事になる。しかし、こうでもしない限り、ユーザは安心して任意提出という「協力」を行わないのかも知れない。それを考えれば妥当な判断だ。ただ、かかるリスクはあまりにも大きい。不況が進む現在、メーカの持ち直しもかなり難しいところまできている。

つい最近見たエアーガンを記事としている雑誌、月刊Gun、コンバットマガジン、アームズマガジンの三誌を読んでいて気がついたのは、月刊GunにKSC製SIG SP2022の記事があるのに対し、他の二誌には無かった。また広告も他の二誌には無かった。広告を雑誌媒体で打つことに二の足をふむメーカーが増えていることの証拠でもある。

すでに業界の疲弊はかなりのところまで来ている。そんななか、メーカの数が減るということがユーザにとって一番痛いことでもあるのだ。