tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

近鉄資料室特別展示「近鉄発祥の地・上本町」

2006年03月01日 14時42分13秒 | 都市論
(資料室開設20周年記念展示  2月24日まで)

一月の中ごろだったと思うが、いつも乗り降りする近鉄難波駅の改札口近くの目立つようで目立たない場所に、展示案内のポスターが貼られた。改札を通る人が目にするから、「目立つ」のだけど、通り道だから、通り過ぎることが多く、立ち止まって見るような場所でもない。ゆえに、目立たないのである。模造紙に、普通のプリンターで印刷したような、博物館の案内で、よく見るいかにも「ポスター」のつくりではない。普通の企画展示ならば、見逃すだけだが、大きくはられた写真が目に付いた。かつて上本町にあった、大軌ビルディングである。(別の写真はこちら)この建物の存在を知ったのも、大学院に入ってからで、それも山本編『百貨店の文化史』(世界思想社 1999)においてである。大阪-奈良間の路線で、かつては大阪側の終着駅が、上本町であった。現在は、先ほど書いた難波駅である。上本町から難波まで延伸したのは昭和40年代の話であり、結果的に、このことが上本町の衰退を招く結果となったが、皮肉なことに、昭和44年に、かつて終着駅だったこの上本町に、近鉄百貨店が開店している。この近鉄百貨店の開店が一期工事であり、二期工事には、大正15年に建設された大軌ビルディングの取り壊しと、それに代わる建築物の建造であった。この工事は、昭和48年までに完成している。かつての上本町は、大阪外大の旧校舎があって、戦後のヤミ市の発展形態ともいえる、商店街があるにぎやかな町だった。しかし、源流は先ほども書いたとおりだったから、外大の第二生協ともいわれた、その商店街の構造は簡単に理解できるものではなかったらしい。これは予備校時代に私が習っていた先生から教えられたことだ。

そこで本論。上記の企画展示は金曜日の午前中に、休みを取って行ってきた。土日祝日が休館日だったからだ。資料室は上本町の駅のすぐ目の前だ。近鉄小劇場として使われていた場所の隣にある。近鉄小劇場の前身は映画館だった。ここもまた、大衆の娯楽の変化に伴い、町の姿を変えた場所である。地下へ降りていくと、図書室のような雰囲気の場所があって、そこが資料室。言い直せば図書室の一部を仕切って、展示を行っている。ケースやパネルも少なめだが、内容はかなり濃かった。予想に反して入館している人は多い。が、私が帰るころは、誰もいなくなっていた。

パネルの写真は、なかなか充実しているが、撮影年月日と人々の服装が一致していない。7月に撮ったはずなのに、人々がコートを着ているような、厚着をしている写真を見た。ケースの展示物は、大軌ビルディングの中にあった食堂のメニューや大正の沿線名所案内があった。かつては駅数も少なく。奈良県に入ると生駒ー富雄ー西大寺ー奈良の4箇所のみ。(現在は8箇所)今では護岸工事ですっかり川底へも近寄れない富雄川の蛍が名所のひとつになっていた。

古きよき穏やかな時代が見えてくる。

特別展「東大寺公慶上人」

2006年01月04日 00時23分23秒 | 都市論
奈良国立博物館で開催。副題は「江戸時代の大仏復興と奈良」)

家で取っている新聞の販売所は時々、美術展のチケットをくれる。今回は、奈良国立博物館のチケットをもらった。

この奈良国立博物館は全国にある4箇所の国立博物館(東京・京都・奈良・九州)の一つであり、かつては奈良帝室博物館と称した。この博物館の年間行事で最もメインなのは11月の上旬に行われる、奈良時代から伝わる東大寺正倉の宝物展示である、「正倉院展」だが。それ以外にも年間を通じて何回か展示を行う。

ちなみに、文豪、森鴎外は亡くなるまでの5年間、こうした国立博物館の総監になっていた。毎年正倉院展の時期になると、奈良へ視察に訪れたのだが、その時期に子ども達に送った手紙が残っている。その一部を書くと、

奈良の郵便局は、とてものろい。東京の手紙は、三日午後三時発のが、四日の昼時に来る。それに、奈良から毎日出しているのに、一日のも届いていないらしい。大阪へ書物の事を尋ねたが、中二日おいて返事が来ない。電車で一時間で行くところじゃないか。この手紙なども、おれが帰ってから後に着くかも知れない。
(小堀鴎一郎、横光桃子編『鴎外の遺産』幻戯書房 2005)

奈良の郵便に、鴎外先生、大変ご立腹である。現代ならブログを御勧めするところだが・・・。

さて、東大寺大仏殿は戦火で二度消失している。早い話が、大仏さんは二回火あぶりになったのだ。一回目は平安時代の末期、平清盛の息子に当たる平重盛が焼き討ちを行い消失。後に鎌倉時代になって、重源上人が再興した。そのときに大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式の南大門が作られ、東大寺再興と同じく文化史でも名前が出てくる。勿論高等学校の日本史にもしっかり出ているが、二回目はどのように消失したのかと言うと、奈良の人間でも詳しく知る者が少ない。二回目は戦国時代である。この周辺を統治していた三好衆は、配下の松永久秀に攻め込まれる状況にあって、東大寺大仏殿に陣取る事になった。1567年、この松永の夜討ちに遭い消失。大仏も頭部が溶け落ちた。その後、時の権力者の援助も受けながら、両手・肩と銅板貼りの頭部で修復されるが、板つけの『仮』大仏殿は、強風で吹き飛ばされるほどであり、百年以上、大仏は鎌倉のそれと同じく雨ざらしの状態であった。

大仏と大仏殿の修復は、江戸時代、それも徳川綱吉の治世であった。その再興の中心人物が、今回の特別展の主役である公慶上人(こうけいしょうにん)である。公慶は12歳のときに東大寺に入り、雨ざらしの大仏をみて、再興を志したといわれる。

公慶は修業熱心であり、寒さ厳しい二月の「お水取り」の中心である連行衆も18年間勤め、教学にも精通した学僧であった。その知識は徳川綱吉にも進講したほどである。これにより、幕府に近づく事が出来、大仏殿再興のための寄進を募る「勧進(かんじん)」の許可も得たといわれるが、それでもかなりの困難を伴った。

最終的に大仏殿の再建まではこぎ付けたが、その規模は天平の頃と比べるとかなり小さなものになった。しかも、大仏復興を見た1705年に全国行脚の過労から死去。その死から4年がたってようやく大仏殿が再建された。ちなみに昨年が没後300年であり、それを偲ぶ形での展示である。

また公慶は今日、我々が見るような観光地としての奈良町の基礎を作った。
本展覧会は、1大仏殿炎上、2公慶上人、3江戸時代の奈良の三部構成になっていたが、1と2を主体とした内容で、3が少し少なかったの残念である。ただし、大仏殿の炎上から再建までの内容が非常に充実していた事が特筆に値する。

団地住まいのメンタリティー

2005年11月03日 22時05分14秒 | 都市論
昨日の続き。

そもそも今回の話の発端は月曜日の朝日新聞に載った特集が発端で、団地に住む人々は、常に隣人の生活を監視していた。この監視とは、隣人の生活水準のことであり、それは隣人がいつテレビを買ったとか、クーラーを、冷蔵庫を・・といったことを知りたがり、その水準を子供が「お邪魔」して調べるといった具合であり、隣人が、文化の「最高水準」であった、ピアノを買うと、すぐに自分のところも買うと言う、いわば生活水準の同質化や均質化が行われていたのだ。

それでいて、60年代や70年代でも非常に珍しかった、バス・トイレつき、上下水道完備、都市ガス完備という「破格」の生活条件ににもかかわらず、こうした団地に住む人々の不満は「狭い」という一言に集約され、いつかここを抜け出す(引っ越す)という目標が作られる現実があった。実際、どこそこの家はどこへ一戸建てを買って引っ越していったと言うのが、主婦同士の会話の一つであり、不満(ルサンチマン)であり、夢であったことを母から聞いた。

実際に母は、引っ越すと言うことが近所に知られると、嫌味にも似た憎しみを相手から受けたそうだ。

どうも聞くと、こうした住宅に住むのは、かつて広い家に住んでいた人が多かった。勿論、その家の持ち主は親世代であり、当人たちの社会的な収入などで購入した家ではない。確かに、都会にあるような長屋的な住宅を子供の頃からの「家」としてきた人はいたが、大部分の入居者は農家の一軒家といったような、集合住宅に住むこととは縁の無かった人が多いようだ。ここにはやはり、高度成長期の労働力の移動を背景とした、都会あるいはその周辺への人口集中があった。

それゆえ、かつて住み慣れた「広い実家」から出て、まだまだ昔のような近所付き合いが残った壁一枚向こうが隣人の住居という場所ではストレスにも似たような状況が起きたことも考えられる。

いま、こうした集合住宅に住むことによってもたらされたメンタルとは何であったかを考えているところだ。


郊外の一歩手前「団地」

2005年11月02日 19時24分04秒 | 都市論
1990年代の後半、社会学や心理学、あるいは工学さえも巻き込む形で、「郊外」論が盛んだった時期があった。もちろん今でもくすぶっているのだが。

人々が都会から離れ、そうした郊外に生活の基盤を求めるようになって、そこで起こるいい意味でも悪い意味である「問題」。しかし、いきなりこうした人口の移動が起きたわけではない。都会から同心円を描くようにして、徐々に開発が進められていったことは誰の目に見ても明らかである。そうした移動の初期の段階を眺めてみると、団地の建設というキーワードにぶち当たる。

高度成長期であった1960年台から1970年代にかけて、盛んに公団としての団地が建設された。奈良では一部高級住宅地と化してしまった学園前や高の原にこうした建物が存在する。tyokutakaも幼い頃、この高の原ニュータウンという団地に住んでいた。両親は結婚してしばらくたった後、ここへ移り住んだ。

ここで社会学を研究している人間にとって、ひとつの疑問が起こる。
こうした住宅に入居する社会階層、おしなべてその人々の出身階層がどのようなものであったのかという疑問である。というのも、東京の周辺ならばこうした住宅に入ることは普通である。特に高度成長期、農家に長男を残し、その次男三男坊が都会に出て住む場所を持つのである。しかし、ここは関西、しかも奈良である。

母に聞くと、どうも社会階層的に高めの人々が集まってくるところであったと聞く。
書く時間がなくなったのでまた明日。

一ヶ月以上たって(阪急梅田コンコース取り壊し)

2005年10月22日 17時33分50秒 | 都市論
コンコースの閉鎖から一ヶ月たった。まだまだブログで紹介していく。

今、書き続けるのも重要ではないかと思う。と言うのも、時間が経ち人々の記憶から薄らいでいくことで、あの場所への関心が薄れ、なし崩し的に何もなかったような工事が行われることが一番の問題なのではないかと思う。実際、工事はゆっくりだが、確実に進行している。工事そのものが悪いわけではない。もう一度確認しておきたいのは、あれだけの近代建築が何もなかったことのように、取り壊され、忘れられていくことの問題性である。そしてまた、同じものが作られないということの問題性でもある。だとすると残すことの意味はかなり巨大なものであると思われる。

あの場所に、大げさとも受け止めれるような意義を見出すことを不思議に思う人がいるかもしれない。
ウォルター・ベンヤミンも次のように書いている。

美術学校によって建築は造形芸術の側に入れられてしまった。「これは建築にとっての災厄でもあった。バロックにおいては芸術と建築の一体性は完全であり、また自明の事柄であった。ところが一九世紀が進むうちにこの一体性は分裂し、偽りのものになってしまった。」(ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』)この箇所はバロックについての重要な観点を提示しているだけではない。同時にこれは、歴史的に見てもっとも早く芸術という概念から抜け出たのが建築であることを示している。あるいはこういった方がいいのかもしれない。建築は「芸術」として鑑賞されることをもっとも嫌うものとなった、と。もっとも、一九世紀は、これまで想像も出来なかった規模で、しかも結局のところいままで以上にはっきりした根拠があったわけでもないのに、精神的想像力の所産に芸術と言う名を押し付けたのだが。
(ウォルター・ベンヤミン『パサージュ論 1』岩波現代文庫 2003 357ページ)

この示唆は重要である。既に19世紀に入る前に、建築は芸術としての認定を受けることを忌避してきた。つまり、他者の評価を退けてきたのである。そしてまた、「あれは美しい」という行為、すなわち「芸術」としての認定が、ただそのように見たいと思う人々の押し付けの概念ではなかったのかとも言われる。

確かに、あの梅田のコンコースを美しいと感じ、残したいと思っている人々(同時にその中に私も入るのだが)は、そう見たいと思っているだけの人なのだろう。

しかし、つい最近立てられた建築を「この建築、50年くらい経って、高い芸術的評価が出ますか?」と聞いたときに、今答えられる人はいないだろう。なぜなら、もう既に建築が芸術から離れた場所にあるから、誰も評価できない。

作ったすぐに評価が出ず、時間が経って評価が定まるものを新しく作る欺瞞。そして、既に高い評価が出ているものを壊す矛盾。

(評価の対象になりにくい)芸術が多くある中、確実に、「残すもの」として評価できる存在として、コンコースを挙げたいのだ。

空虚な空間の否定(阪急コンコース取り壊し)

2005年10月13日 14時01分39秒 | 都市論
阪急グループの創立者、小林一三は1873年山梨県で生まれた。
小さい頃に両親をなくし、親の愛情を知らぬまま育ったことは否めない。
成人し、東京の慶応義塾へ入学する。慶応在学中は、山梨日日新聞に小説を連載するほどの文学青年だったが、卒業後は、三井銀行に入行する。9年在籍したが、彼にとっては、「人生でもっとも不幸だった時期」であったらしい。入行後すぐに大阪勤務を命ぜられる。初めて大阪に赴任したとき、彼は次のように感じた。(『逸翁自叙伝』)

二十一歳の夏であった。明治二十六年九月、日は忘れたが十日前後の午後四時ごろと記憶する。その前日東京新橋駅から汽車に乗って、車中一夜をあかし暑さに疲れ果てた昼過ぎ、朝日ビールの大きな広告を右手に見て、次がいよいよ大阪だ。
荷物を片付けて、独りぽっちの梅田ステーションに降りたときは心細かった。

このとき彼が降りた駅は、国鉄である。国鉄の駅は広さだけが支配する空間であった。身寄りのいなかった小林にすれば、どこの土地で生きようとかまわないと考えるのは素人の判断である。彼にはこだわりがあったのだ。そこから見ると梅田のコンコースは言うほど広くないが、温かみのある空間であることはほとんどの人が頷くであろう。

コンコースの印象(梅田コンコース解体へ)

2005年09月27日 23時40分19秒 | 都市論
1980年代の初頭から、東京にまつわる研究が盛んだ。人はそれを都市論と言うが、それに10年近く遅れて、大阪をフィールドとする都市研究が盛んになってきた。その切り取り方は、東京をフィールドにしたものと少し違うような気がする。
原武史早稲田大学教授は、『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社選書メチエ 1998)の中で、梅田コンコースを次のように取り上げている。

ターミナルの玄関口には、1929年に完成した阪急百貨店がある。その一階部分と二階部分はドーム状の屋根をもち、シャンデリアがいくつもつり下げられた吹き抜けのコンコースとなっており、アルカイックな雰囲気が醸し出されている。このコンコースは、阪急百貨店の完成に合わせて竹中工務店が設計したものであり、それを覆う大ドームの装飾も、百貨店が出来た当時から変わっていない。
さらにこのコンコースは、阪急百貨店と駐車場やオフィスなどが入った複合テナントビル「阪急グランドビル」(阪急32番街)の間に作られた巨大な吹き抜けの通路と一体となっている。そこでは、ヨーロッパの教会を思わせるような四方の壁面をステンドグラスで固めたアーチ状の「グランドドー
ム」をはじめ、駅空間としてはいささか贅沢な意匠を随所に発見することができる。

(ブログ作者注:以下、藤田実「関西私鉄王国私観」からの引用を行っている)

「梅田の阪急百貨店宮殿の一階のコンコースを歩めば、ロココまがいの装飾の時計や壁面のデザインにとりかこまれ、さらにパイプオルガンの音が聞こえて、仰げば柱列の間にステンドグラスが見え隠れする壮麗な王宮付属礼拝堂に迎えられ、(中略)いやがうえにも王朝文化の雰囲気にむせかえる仕組みになっている」とされるゆえんである。


イコン(旧阪急梅田駅コンコース解体へ)

2005年09月27日 00時04分14秒 | 都市論
東ローマ帝国の文化は、ロシアに継承された。
そんな文化の中に、イコンというモザイク画がある。
ちょうど、こんな風な絵だ。

東ローマは、聖像崇拝を禁止した。
絵を描くということは、神に似せて書くからだ。
しかし、神を描くと言うのは、祝祭空間を作り上げることになる。

空間を満たすものは、絵だけではなかったはずだ。

壁画(旧阪急梅田駅コンコース解体へ)

2005年09月26日 23時58分46秒 | 都市論
壁画に関しては、保存が決定しているらしい。

かの文豪、夏目漱石は高等学校のころ、建築家を目指したらしい。
永久に残る、建築物を作りたいというのが理由だった。しかし、友人に反対されて、文筆業に志望を変更したらしい。確かに、どんな有名な建築家の作品でも、老朽化を理由に壊すことが多いからだ。

まだ未来を見せてくれた70年の大阪万博。
当時作られた、まさしく芸術的な建築物の大部分は、近年、老朽化を理由にして、取り壊されている。

その後(旧阪急梅田駅コンコース解体へ)

2005年09月26日 23時50分23秒 | 都市論
旧阪急梅田駅コンコース解体問題が、ブログ内ではすごい反響を及ぼしている。
Posted by hankyu13 さんの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」(TBしていただいています)の中に書き込まれた、多くの人々の思いは、非常に深いものがある。

私のブログでも、たくさんの人々が訪れていただいて、トラックバックをしていただいている。
何よりも、これだけ多くの人々の関心を呼んでいるのがすごいと思う。

もう既に、シャンデリアがおろされ、写真をとる人は少ない、と言うより、いないくらいだ。こうして、人々の記憶の中から消えていくのかとも思う。

もう少し写真を載せたい。