副題:東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出
奈良国立博物館ホームページはこちら
『大勧進 重源』の詳細についてはこちら
今日は奈良国立博物館の展示を見に行ってきた。もう奈良も夏の暑さだ。日差しはきつく、少し自転車に乗ると、汗が出てくるくらいだ。
重源上人は歴史の教科書などで比較的簡単に見ることができる。東大寺大仏殿の復興に寄与した人物である。正月に、「公慶上人展」が同じ国立博物館で行われたが、今回もまた重源上人の800回遠忌を記念しての展示である。
奈良時代、聖武天皇が建てた大仏殿は平安時代の末期、平重盛らの南都焼き討ちによって灰燼に臥した。どうしたことかわからないが、この大仏殿を焼いた人物は、その後、僧兵に捕まり、殺されたそうだ。今日では観光客が集まり、天気のいい日は甲羅干しを行う亀を見ることのできる奈良の猿沢の池であるが、このとき、僧兵が取ってきた敵軍の首を池の周りにずっと並べたという逸話が残っている。
とにもかくにも、大仏殿が焼けたわけであるが、あの戦国時代の焼き討ちでも大仏殿が焼けただけで大仏そのものは残った。しかし、このときの焼き討ちでは完全に大仏そのものが溶けた状態までになったそうだ。それを復興するには莫大な資金と労力が必要であったが、重源上人はこの偉業に臨んだ。実に60歳のときだったそうだ。
彼の年賦を見るとこの60歳の時の転機以降はかなりの行数を費やすのだが、それ以前についてはあまり多くが語られていない。紀氏の出身であり、13歳で醍醐寺に入り、比叡山などの寺を回り、宋へ渡航。いわば碩学の人である。しかしこれだけの学問を積みながらも、大仏復興という大偉業がなければ、今日では本当に専門家しかわからない人生を歩んでいたかもしれないのである。そしてまた、彼が東大寺の復興を担当したからこそ、中国の文化を取り入れた日本の文化が花開くのである。
現在、東大寺大仏殿の前には南大門があるが、この門はこのときに作られたものである。両方に位置する仁王像は運慶・快慶の作といわれる(この二人だけではないらしいが)
正月の展示もそうだったが、今回もまた重源上人の坐像が展示されている。ほとんどは歴史の資料集でしか見ないあの坐像である。そしてまた、ガラスでおおっているものではないので、直に見るくらい近寄れる。実は個人的にこういった坐像を見るのが結構好きなのだ。ほりの深さや両目の大きさの違いまで、実によくあらわされている。
他の展示物を見ているとお経が聞こえてきた。大体予想がついていたが、しばらくして見にいくとやはり重源上人の前で読経している。他にも多くの人が後ろから見守っている。そう、あの坐像を私たちは「重源上人の坐像」として見るけれど、持ち主たる東大寺にとっては、自らが輩出した功労者という以上に、もう御仏なのである。しばらく貸し出して、何もしないのではなく、一日に一回くらい東大寺の僧侶が普段と同じように、ああしておまいりするのであろう。その様子を見守っていた人々の中にも、同じように手を合わせる人がいた。
本当に重源上人の遺徳を偲ぶワンシーンである。
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今日は奈良国立博物館の展示を見に行ってきた。もう奈良も夏の暑さだ。日差しはきつく、少し自転車に乗ると、汗が出てくるくらいだ。
重源上人は歴史の教科書などで比較的簡単に見ることができる。東大寺大仏殿の復興に寄与した人物である。正月に、「公慶上人展」が同じ国立博物館で行われたが、今回もまた重源上人の800回遠忌を記念しての展示である。
奈良時代、聖武天皇が建てた大仏殿は平安時代の末期、平重盛らの南都焼き討ちによって灰燼に臥した。どうしたことかわからないが、この大仏殿を焼いた人物は、その後、僧兵に捕まり、殺されたそうだ。今日では観光客が集まり、天気のいい日は甲羅干しを行う亀を見ることのできる奈良の猿沢の池であるが、このとき、僧兵が取ってきた敵軍の首を池の周りにずっと並べたという逸話が残っている。
とにもかくにも、大仏殿が焼けたわけであるが、あの戦国時代の焼き討ちでも大仏殿が焼けただけで大仏そのものは残った。しかし、このときの焼き討ちでは完全に大仏そのものが溶けた状態までになったそうだ。それを復興するには莫大な資金と労力が必要であったが、重源上人はこの偉業に臨んだ。実に60歳のときだったそうだ。
彼の年賦を見るとこの60歳の時の転機以降はかなりの行数を費やすのだが、それ以前についてはあまり多くが語られていない。紀氏の出身であり、13歳で醍醐寺に入り、比叡山などの寺を回り、宋へ渡航。いわば碩学の人である。しかしこれだけの学問を積みながらも、大仏復興という大偉業がなければ、今日では本当に専門家しかわからない人生を歩んでいたかもしれないのである。そしてまた、彼が東大寺の復興を担当したからこそ、中国の文化を取り入れた日本の文化が花開くのである。
現在、東大寺大仏殿の前には南大門があるが、この門はこのときに作られたものである。両方に位置する仁王像は運慶・快慶の作といわれる(この二人だけではないらしいが)
正月の展示もそうだったが、今回もまた重源上人の坐像が展示されている。ほとんどは歴史の資料集でしか見ないあの坐像である。そしてまた、ガラスでおおっているものではないので、直に見るくらい近寄れる。実は個人的にこういった坐像を見るのが結構好きなのだ。ほりの深さや両目の大きさの違いまで、実によくあらわされている。
他の展示物を見ているとお経が聞こえてきた。大体予想がついていたが、しばらくして見にいくとやはり重源上人の前で読経している。他にも多くの人が後ろから見守っている。そう、あの坐像を私たちは「重源上人の坐像」として見るけれど、持ち主たる東大寺にとっては、自らが輩出した功労者という以上に、もう御仏なのである。しばらく貸し出して、何もしないのではなく、一日に一回くらい東大寺の僧侶が普段と同じように、ああしておまいりするのであろう。その様子を見守っていた人々の中にも、同じように手を合わせる人がいた。
本当に重源上人の遺徳を偲ぶワンシーンである。