夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

女の子のお人形さん遊び

2017年04月11日 17時22分54秒 | 日記

どうして、男の子は棒を持ち、女の子はお人形さんで遊ぶようになるのだろうか?

人類がサルもどきの生き物から進化したと言う人、説明してくれ。チャールズ・ダーウィンが正しいならば倫理、道徳、法治、クソクラエ!弱肉強食が自然の理である。サメを見て見ろ、弱ったものを食って海洋の浄化に寄与している。

だから俺は直感的に人間は神さんが創ったと信じている。クドクド説明はしない。解らん人、あなたは解らんのではない、解りたくないだけだ。馬を水場に曳いて行くことは出来るが飲みたくないなら水を飲ませる事は出来ない。

俺思うに、多分男は地球の管理者として創られたのだ。女はその男にインスピレーションを与える者として創られた。実際の処、人類の歴史に産めよ増えよの道具としてだけの女しか存在しなかったら地上世界は実にくだらないものになっていただろう。

随ってノーベル賞も偉大な芸術も全て、実は女の存在の功績である。しかしたったひとつ例外がある、我が家である。こんなオオマカな、感性の目が粗いのと連れ添って極めてデリケートな詩人である俺は若干疲れた。

それを連れて来て俺に与えたのは母だ。お人形さん遊びが嵩じて俺を生き人形として弄くり回して結果俺は社会で通用しないモノになっていた。母が一所懸命に着せた全てのものを脱ぎ捨ててマルハダカから自分を構築し直した、苦しい恥多い思い出したくない人生だった。

ところが、二人の息子達がなんと、あろうことか女に捕まって身ぐるみ剥がされその女好みの衣装に着替えさせられているではないか。ああ、かくて歴史は繰り返す・・・結局ステキな出会いなどと美辞麗句をものして大きなお人形で遊んでいるのではないか?

 

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リュートとギター

2017年04月11日 17時17分57秒 | 日記
 年月の過ぐるは隙行く駒の歩みの如し!お会いしたのは2014年の秋だったと記憶します。昨年6月19日に再度参上、ラウレンティス・グライフのデッドコピーを戴きました。非常に気に入っています。
 
 昨年秋、ふと思い立って5年余り壁に掛けていたモダンギターを弾いてみました。結果、両刀使いになりました。そして自分の演奏技量がまるでダメな事に気落ちしています。
 
 それには理由があります。どうやら私はパフォーマンスに余り興味がない、どちらかと言うとクリエーターで、職業が設計であるのもそのせいかもしれません。
 
下記は Roman Turovsky氏の採譜編曲によるウクライナの歌謡です。ロシア式七弦ギターでの演奏です。
 
https://www.youtube.com/watch?v=D4qOq9IpUMs
 
その曲をリュートのタブラチュアで弾いてみましたがギターの方が合うと思い、モダンギター用に書き直してみました。 ff-dd-a-d-A-BBと変調弦します(6コースが鳴るギリギリのところでこれをB音と見做して)。下の 3コースの音は指使いなどの都合で原譜通りに出来ず【耳】で弄っています。
 
ある人のブログでバロック・リュートを弾く、とは読書のようなものだ、とありました。大賛成!一言付け加えるとこの楽器と音楽は【世捨て人或はあの世】の楽器であり、音楽。一方ギターは【現世の楽器、現世の音楽】・・。ギターからやってきた人は中々リュートが上達しないと仰る先生がおいでのようですがその根っこのところにはこれがある、と思って居ます。リュートの音は響き、モザイク様でpassionを唄わない。ギターの音はサスティーン、ポリフォニーの音楽に合わないが和声進行のうねりとさざ波のような歌には適。ヴァイスのロジー伯のトンボーをリュートの演奏で聴くとギターとまるで違う、そして私はリュートでの演奏の方が好きです。
 
ヴァイス、バッハ、古典派、ロマン派と音楽の様式が変遷する中でギターもバロックギター、18世紀ギター、19世紀ギター、そしてファン・ブレーシングのトーレス型モダン・ギターに変わって来た理由が分かるようでもあります。
 
楽器受け取りの際、先生に一手ご指南戴きました。そうか!これは仙人の楽器で仙人の音楽なんだ。・・・時として百の演奏技術指南よりも一見の方が効果絶大、ということもあろうかと愚考します。

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四季派

2017年04月11日 17時11分03秒 | 日記
法**寺ご住職殿、お礼がおそくなって恐縮に存じます。
 
 昭和10年代から30年代にかけて【四季派】と呼ばれる詩人達が居ました。その代表的な詩人は丸山薫、三好達治、伊藤整・・。
日本が経済発展と称して、利潤追求、効率重視、理財尊重、物質重視に傾くと日本語の、国文学の、歴史から退場して行きました。
限りない哀惜の情を以て、田中冬二氏と三好達治氏の詩をご紹介します。
 
梨の花とお寺の奥さん    田中冬二
 
梨の花の見える庫裏で 村の娘たちに お針を教えているお寺の奥さん
梨の花もさびしいが 奥さんのかおも白くさびしい
 
舞姫のような春はもう行きます
 
奥さん・・・青葉に小暗く法燈もしめやかに  裏の林に時鳥をきく頃になったら
またあのお寺のつめたい水の くずそうめんを食べさせてください
 
むかしの匂いのする蒔絵のお椀に・・・
梨の花のようにさびしいお寺の奥さん

甃のうえ      三好達治
 
あはれ花びらながれ おみなごに花びらながれ おみなごしめやかに語らひ歩み
うららかの跫おと空にながれ

おりふしに瞳をあげて 翳りなき み寺の春をすぎゆくなり 

み寺の甍みどりにうるおひ 廂ひさしに 風鐸のすがたしずかなれば

ひとりなるわが身の影を歩まする甃のうえ

日本は得たものよりも失ったもののほうが大きく貴重だった。

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