「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

生れた家はその子の一生を決める 2013・09・30

2013-09-30 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家」より。

  「 父の部屋には、私の背丈より高い書架が三つ並んでいて、そこには大人の本がたくさん
   並んでいた。本の匂いを、私はあの部屋で憶えた。新しい本なのに、懐かしい匂いがし
   た。いわゆる円本ブームの少し後だったのだろう。書架の本は、全集が多かった。『明治
   大正文学全集』、『世界文学全集』、『俳句文学全集』に『短編文学全集』、『現代大衆
   文学全集』もあったし、『漱石全集』もあった。ところが不思議なことに、それらの分厚
   い本には読んだ形跡がほとんどないのだった。父は大掃除の日に、あっちの全集とこっち
   の全集の位置を替えることはしても、読んではいなかったのである。それではあまりに勿体
   ないので、父の代りに私が読んだ。そのころの本は、漢字にすべて仮名が振ってあったので、
   とりあえず読むだけは、五歳の子にも読めたのである。父の目を盗んで、私は乱歩の『人で
   なしの恋』や『人間椅子』を読み、岡本綺堂の『半七捕物帳』を読んだ。読んだだけではな
   く、とり憑かれた。八幡の藪知らずみたいな、不思議の世界の迷子になり、迷ったまま今日
   まできた。――生れた家は、その子の一生を決める。」

   (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

   「八幡の藪知らず」と言われてピンとくるのは昭和十年代生れの人くらいかも知れません。
   スーパー大辞林には、「千葉県市川市八幡にある竹藪」で、「ここに入った人は二度と出て
   来られないと言い伝えられたところから」生れた成句、とあります。


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2013・09・29

2013-09-29 07:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家」より。

  「 阿佐ヶ谷の家には、生れてから十年近く住んだことになる。私はいまでも、その家の間取りから
   調度の並び具合まで、正確に描くことができる。それくらい馴れ親しんだ家だった。そしていま、
   私は妙なことに気づく。――私の中にいまあるもののほとんどは、あの家に暮らしていた年月の
   間に芽生えたのではなかろうか。――私はターナーが好きである。カンスタブルの細密な風景画
   が好きである。それは、阿佐ヶ谷の家の玄関の脇にあった応接間に架かっていた絵であった。白
   いレースのカーテンが作る縞模様の中で、それらの泰西名画は、私に遠い異国への憧れを呼び覚
   ましてくれた。畏れもあったし、親しみもあった。美しさも見ただろうが、虚しさも知ったのだ
   ろう。もしあの部屋に、ルドンやモローの絵が架けられていたら、私は別の人間になっていたか
   もしれない。」

    (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・28

2013-09-28 07:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家」より。

  「 杉並区というだけあって、界隈には背の高い杉の木が多く、茂みからはムクドリやメジロや、
   ときには野鳩の啼く声が聞こえて長閑(のどか)な町ではあったが、これが日暮れになると急に
   私たちにとっては怖い町に変わる。住宅街なので、暗くなりはじめると途端に人通りが少なく
   なるのである。それを待っていたように、蹴りそびれた虚無僧(こむそう)の尺八が近づいてく
   る。私は二階の窓を細めに開けてみる。黒の着流しに深編笠をかぶり、胸に明暗と書かれた箱
   を下げた虚無僧が、歯医者の角の薄暗い街灯の輪の中に現れて、ゆっくりした足どりでやって
   くる。私の家の前で一際高く尺八を吹き鳴らし、虚無僧はふと立ち止まるように見える。私は
   激しく動悸していた。痩せた脇の下を冷たい汗が流れた。
    風の音も怖かった。杉の梢を揺らし、電線を震わせて、夜更けの風は女の悲鳴のようだった。
   日本家屋なのでどこかから隙間風が入ってくるのか、電灯の笠はいつもかすかに揺れていた。
   その影が増幅されて、襖に映るといくぶん大きく揺れている。電灯といったところで、そのころ
   は六畳で六十ワット、廊下で三十ワット、手洗いになると十五ワットだった。影というものは、
   ぼんやりしているほど怖い。その影が揺れている。私には、それが暗闇の囁きのように思われた。
    あのころは、停電も多かった。変電所の故障というのもあったが、雷が近づいてくると、すぐ
   に電気が消えた。稲妻が走る度に、仏壇に並んでいる仏具の金箔が光り、床の間の七福神の毘沙
   門天がカッと目を見開き、壁に架かった岸田劉生の《麗子像》がこっちへ歩いてくるようで怖か
   った。すると台所から母が蠟燭に火を点して、ソロソロとすり足で廊下をやってくる。薄闇で身
   を竦めていた子供たちは、ようやくホッとする。いちばん小さかった私は飛んで出て、入ってき
   た母と出くわす。下から揺らめく蠟燭の焔に照らされた母の顔は、蒼白いのっぺら坊だった。
   ――あのころは、怖いものが多すぎた。」

   (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・27

2013-09-27 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家』より。

「つい最近、兄から聞いた話によると、私が生れたころ、高円寺から阿佐ヶ谷、荻窪界隈の新興住宅地を、古くからの土地の人たちは《胴村(どうむら)》と呼んでいたそうである。横溝正史を連想するような気味の悪い名前である。その由来が、退役の軍人や役人、定年になった大学教授、そういった人たちの家が多かったからだと言われても、私にはよくわからなかった。それがどうして《胴村》なのだろう。答えを聞いて、私は笑ってしまった。首になって胴体だけになった人たちだというのである。退職金で手に入れ、年金で暮らすのに手ごろな住宅地だったのだろう。そう言えば、父に手を引かれて散歩にいった朝の天祖神社の境内で、そうした初老の人たちの姿をよく見かけた。茶色い犬を連れた半白の人や、鉢巻きをして体操をしている痩せた老人、賽銭箱の脇に腰を下ろして朝刊をゆっくり読んでいる人に、絵馬堂の前で絵馬を一枚一枚、丹念に眺めているステッキの人――あれが《胴村》の住人たちだったのである。
 そんな静かな人たちが多かったせいか、阿佐ヶ谷は子供たちにとってもいい町だった。すこし天沼に向って歩けば小さいけれど森があり、夏の日暮れには蜩(ひぐらし)が啼き、朝早く草の露を踏んでいくと木の洞(ほら)に鍬形(くわがた)虫や玉虫が眠っていた。森にはきっと花も咲いていたのだろう。足音を忍ばせて歩く私たちの頬を掠めて飛ぶのは、紫に輝く翅(はね)の揚羽蝶である。原っぱもあちこちにあったし、天祖神社や、世尊院(せそんいん)という尼寺の境内も自由に出入りできたので、私たちは遊び場所に事欠かなかった。ほかにも、人の棲んでいない空き家や、廃屋になっている元病院なんかもあって、私たちの毎日の《冒険》はヴァラエティに富んでいた。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・26

2013-09-26 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

 「 一枚だけ助かった布団があった。郡部の親戚の土蔵に預けてあった。羽毛の布団
  だった。戦前に、父が上海で買ってきたものだった。そのころ、羽布団というもの
  は、日本では珍しかったので、母はそれを大切にしまって一度も使わなかったらし
  い。繻子(しゅす)のような光る布に木蓮の花の刺繍がある、美しい布団だった。戦争
  のころ、虫干しの日にだけ、私たちはそれを見ることができた。それは、母の自慢
  だった。父は、母のためにその羽布団を買ってきたというのである。その話をする
  とき、母はちっとも恥ずかしそうではなかった。むしろ、胸を張って威張っている
  ようにさえ見えた。自分の子供たちに、そんなことを自慢するなんて、変な母親だ
  と私は思った。
   戦争が終わり、父は復員して間もなく、病気で死んだ。母が上海の羽布団を着る
  ようになったのは、そのころからだった。それからはほぼ三十年の間、母は毎年、
  冬になるとその布団を取り出し、それ以外の布団を使おうとはしなかった。もう子
  供たちに自慢することもなくなった代り、母は黙ってその布団に小さな体を包まれ
  て、父を思い出していたのかもしれない。
   三十年経って、母は七十半ばを越えていた。さすがに上海の羽布団も無残な姿に
  なったが、それでも母は手放そうとはしなかった。私は姉と兄と相談して、新しい
  羽布団を母に買ってやることにした。新しい布団を前にして、母は嬉しいような、
  嬉しくないような顔をした。これは有り難く使わせてもらう。だけど、父の買って
  くれた羽布団も捨てないと言うのである。私たちは呆れたが、母の思い通りにさせ
  ることにした。

   それから更に二十年が経って、ことし終戦五十年である。田圃の中を先頭切って
  走った母は、恐ろしいことに九十五になった。上海の羽布団を、母はいまでもどこ
  かに隠し持っているのだろうか。訊いてみたいとも思うが、耳の遠くなった母に上
  海の羽布団ということを伝えるだけで疲れてしまう。それに、突然思い出して、ま
  たあれを着るなどと言いだされたら事だから、私は何も言わない。」

  (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・25

2013-09-25 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

 「 逃げる私たちを掠(かす)めて、油脂焼夷弾が斜めに降る。あれは、投下されたときは、
  箍(たが)で括られているが、数秒後にそれが外れ、中の四十八発の焼夷弾が空中にばら
  撒かれる仕掛けになっているそうである。何千メートルの上空から落ちてくる焼夷弾の
  音は、鋭い笛の音に似ている。それが、私たちから数メートルも離れていない田圃の上
  に、重い音を立てて突き刺さる。いったいあの赤い布団は、何のためにかぶっていたの
  だろう。直撃されたら、濡れ布団ぐらいでは何の役にも立たない。振り返ると、町は何
  十メートルの高さの炎を上げて燃えていたが、私たちの周囲に火はなかった。それなら
  少しでも身軽になって、つまり布団など捨てて逃げればいいものを、私たちは律儀にそ
  れをかぶりつづけた。
   その布団は、戦争が終わっても、しばらくの間、私の家にあった。母がいくら洗って
  も、こびり着いた焼夷弾の脂はとれなかった。何度干しても水気が抜けず、黒ずんだそ
  の布団は、いつまでもあの夜とおなじように重かった。それでも母は、捨てようとしな
  かった。天気のいい朝、未練がましく物干し竿に干してあるその布団の傍を通ると、焦
  げ臭い匂いがした。私は、空襲のあくる朝、道路に並べられていたたくさんの死体を思
  い出した。一つの死体に、一つの濡れた布団が掛けられていた。それは、死者たちがそ
  れぞれに持っていた自前の布団だったに違いない。」

   (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・24

2013-09-24 08:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

 「 春の朝の縁側でふっくらと広がっている布団は幸せだが、水に濡れた布団ほど惨めな
  ものはない。昭和二十年夏、助かるために疎開したはずの富山で、母と姉と私は戦災に
 遭って何もかもなくした。夜の八時ころ警戒警報が鳴ったと思ったら、五分もしないうち
 にそれが空襲警報に変わった。防空演習では何度も聞いていたが、本物の空襲警報ははじ
 めてだった。足元から急き立てられるような、病人の荒い呼吸みたいなサイレンである。
 予定どおり非常食を背負い、ゲートルを巻き、庭へ駆け出した。母が仏壇の脇の押入から、
 ふだん見たことのない赤い布団を引っ張り出している。たぶん客用の高価なものなのだろ
 う。せめてその一枚だけでも助けたいと、母は考えたのかもしれない。真っ暗な中を、人
 の群れが走っていく。よく映画なんかでは、叫んだり泣いたりしているが、ああいうとき、
 人は声を出さないものである。変に静かに、足音さえひそめるように、人が走っていく。
 家の裏は八月の田圃である。私たち三人は、とにかく走った。畦道を辿って逃げるつもり
 が、私が足を滑らせて水を張ったどろどろの田圃に落ちた。それまで決心のつきかねてい
 た母が、いきなり抱えていた布団を田圃の水に漬けた。防空演習で教わった通り、濡れた
 布団を三人でかぶって逃げるのである。泥水をいっぱいに吸った布団は、女二人と十歳の
 私とで、ようやく持ち上げられるくらい重かった。ふと気がつくと、空は敵機でいっぱい
 だった。爆音と町の燃える音で耳鳴りがしているようだった。田圃に足を取られながら、
 私たちは走った。いちばん背の小さい母が先頭、左後ろに姉、右後ろが私だった。母の蔭
 になって視界はまったく見えない。ただ母の背を見て走っていく。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・23

2013-09-23 08:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

「あの夜の布団には、暖かな日向の匂いがした。母は天気のいい朝は、かならずと言っていいほど、家族たちの布団を縁側に並べて干した。その上を私が歩くと、ひどく叱った。昭和十年代の家庭は、どこでもそうだったのだろうか。母は三日か四日ごとに、白い布団カヴァーを取り替えていたようである。布団の裏側をすっぽりと覆い、表は十数センチばかりを縁取ってあったから、布団の柄で誰の布団かわかるようになっていた。父のは茶系の縞模様だったと思う。母は臙脂で、牡丹に蝶がとまっていた。姉と兄のは忘れたが、私の布団は、赤い鳥居や、でんでん太鼓や、奴凧の絵が描いてあったような気がする。子供っぽい柄だった。私は早く大きくなって、大きな布団で寝たいと思った。
 衿のところには、別の白い布がかかっていた。黒い繻子(しゅす)や、手拭ではなかった。糊がきいていて、最初の夜は首筋や顎が痛かった。だから私は、布団と言えばまず白が目に浮かぶ。その白の中に柄があったのである。しかし、その家によって布団はいろいろらしい。たとえば、幸田文さんなどは、人は一生の三分の一は布団の中で過ごすのだからといって、その柄を大きく見えるようにして楽しんでいたという。最近出た青木玉さんの『幸田文の箪笥の引き出し』(新潮社)に、こんなことが書いてある。青木玉さんは文さんの一人娘である。《……そういうこともあってか母の布団はきれいだ。好んで掛けていた柔らかい赤に白で宝相華(ほうそうげ)の唐草が出ているものは、冬、雪の静かに積る夜その中に休む時は楽しいと喜んでいた》。玉さんが、遺された文さんの布団を日当たりのいい縁側に並べて母を偲ぶ文章は温かいだけに、胸にしみて悲しい。《ふくふくのお布団、陽に干した匂い、綿の入ったものは懐かしさを持っている。それは遠い幼い日の夢につながってゆく母親の温かさだと私には思えるのだ。母は幼くして生母を失くした。この柔らかい布団のぬくもりの中に母親の懐かしい夢を見ていたのかと思っている》。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・22

2013-09-22 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「布団の上で跳びはねる」より。

 「 私が、家の中で飼っている生後六カ月のポメラニアンの子犬は、夜、布団を敷くと、
  むやみに興奮してその上を転がり回る。押入の戸を開けるだけで、もう目の色が変わ
  るのである。そう言えば、ずっと昔、三、四歳のころ、私も布団に興奮した憶えがあ
  る――九つ年上の姉と、七つ上の兄と、私たち姉弟は、そのころ二階の六畳の和室に
  三人で寝ていた。どういう意味かはわかりかねるが、八時になると母が押入から三人
  分の布団を出して、そこに積み重ねたまま出ていく。後は自分たちでやれということ
  だったのだろうか。それからの十五分にも満たない短い時間が、私にとっての一日で
  いちばん楽しい時間だった。姉や兄は、学校から帰ってきても、宿題があるから末っ
  子の私を相手にしてくれない。私も勉強の邪魔をしてはいけないから、聞き分けよく、
  一人で本を読んで夜を待つ。夕飯が終わり、姉たちの夜の予習も済んで、順番にお風呂
  に入っている間に、母は布団を出すのである。私はまず、自分の身の丈よりも高い布団
  の山に攀(よ)じ登る。姉か兄かが、お尻を支えて助けてくれる。私はフカフカした布団
  の山の頂上で、思い切り跳びはねる。姉たちが囃し立ててくれるから、益々私は興奮す
  る。そのうち山が崩れ、私は悲鳴を上げて畳に転げ落ちる。それを待って、誰かが部屋
  の電灯を消すのである。暗闇の中で、二人が私に襲いかかり、私はもう一度声をかぎり
  に絶叫するのだった。
   毎晩おなじ段取りで、布団の山が崩れ、部屋が真っ暗になるのはわかっていても、
  布団を広げて襲ってくる姉と兄は怖かった。私は、そこら中に乱れた布団の上を転がり
  回り、頭から掛け布団ですっぽり全身をくるまれ、その上に重い敷布団を次々に積まれ
  て呼吸が苦しくなる。でも布団が重くて身動きができない。そのうち、意地悪な四本の
  手が、私の小さな体を探りにくる。お腹をくすぐる手がある。腿をつねる手がある。
  いまになって思うのだが、あの夜毎の遊びを、姉も兄も結構愉しんでいたのではあるま
  いか。暗闇で末っ子の体を思うままに嬲って、姉たちはあれで本気で興奮していたので
  はなかろうか。そして私だって、いま思い出しても胸がドキドキするところをみると、
  あれは秘かなマゾヒスティックな悦楽だったのかもしれない。」

  (久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・21

2013-09-21 07:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、朝日新聞朝刊の「天声人語」より。

 「『クレタ人は皆うそつきだ』と、クレタ人Aが言った。Aの言葉が正しいとすると、

  Aもうそつきということになり、クレタ人が皆うそつきかどうかは真偽不明となる。

  よく知られたパラドックスである。」






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