「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

知らぬが仏のこんこんちき 2018・05・27

2018-05-27 14:20:00 | Weblog




 今日の「お気に入り」。

 「 暮れてなお 命の限り 蝉(せみ)しぐれ 」

 100歳の誕生日に合わせてコメントを発表した

 群馬県高崎市生まれの中曽根康弘元首相の句だそう。

 フリー百科事典「ウィキペディア」の記事の中に、

 最近若き日の同氏の名前をお見かけしたばかりです。

 その記事のタイトルは、発端から終息まで49年かかった

 「安中公害訴訟」。

 群馬県と長野県との境界に位置する碓氷峠に源を発し、

 群馬県高崎市常盤町で烏川に合流する、利根川水系の

 一級河川「碓氷川(うすいがわ)」は、昔も今も、

 群馬県安中市を流れています。

 1937年当時は、碓氷川の魚の大量死があったとか。

 1937年は、元号で言えば昭和12年、因みに公害裁判が

 終息した1986年は昭和61年です。

 桑の葉を食べていたカイコは生育不良になったのに、畑で

 採れた野菜や果物など農作物、穀類を、1937年以降、何年

 も何十年も食べ続け、排煙を吸い続けた住民には何の影響

 も被害もなかったんでしょうか。

 戦前、戦中、戦後の「公害垂れ流し」の時期に工場周辺

 地域で十代、二十代を過ごした人々に何らの悪影響も与

 えなかったとは到底思えません。首都圏にある北関東の

 地には、「富岡」という「世界遺産」以外に「足尾」や

 「安中」という「負の世界遺産」とでも言うべき場所が

 あります。下流域の住民も、戦中、戦後、影響を受け続

 けていたんでしょうね。 " Ignorance is bliss ! "

 記事の一部を引用します。

 「安中公害訴訟(あんなかこうがいそしょう)は、1937年

  から1986年まで、群馬県安中市付近で起きた公害事件。

  及び、それに付随する訴訟。

  事件名としては『安中公害』、『安中公害裁判』、『安

  中鉱害』とも呼ばれる。

  原因企業は『東邦亜鉛』。

  『東邦亜鉛安中製錬所』の排煙、廃液によるもので、原因

  物質は『カドミウム』。

  付近の田畑で稲や桑の立ち枯れ、カイコの生育不良、碓氷

  川の魚の大量死などが主な被害である。

  1986年に、東邦亜鉛が責任を認め、付近農民らに4億5000

  万円を賠償する形で和解が成立。

  同時に公害防止協定も締結された。

  1審で企業側の故意責任を認めたことが特異な事件である。


  1937年に設立された日本亜鉛製錬株式会社は、安中町(現

  安中市)に安中製錬所を設置。

  6月に操業を開始したところ、操業当日(翌日説あり)から

  公害が発生した。

  当時の被害は主にカイコの生育不良であったが、カイコは育

  て方など他の要因でも生育不良になることがあるため、当初

  は公害被害だとは認識されなかった

  当初、日本亜鉛製錬は、設置する工場は高度鋼という、鉄兜

  に使う特殊な合金を製造する工場をつくると住民に説明した

  が、操業2日目に高度鋼の看板を取り外し、『亜鉛』につけ

  かえたという。

  1938年ごろから公害は大規模になり、公害反対運動が始まる

  最初に住民と工場との交渉の仲介をしたのは、地元の駐在所

  の巡査だったという。

  伝承によれば、この巡査は、直後に仲介を行ったことを理由

  に左遷された。巡査の名は伝わっていない。

  1941年2月29日、工場側は、戦前唯一の補償の覚書を住民と

  取り交わす。

  しかし、この覚書では被害で耕作できなくなった農民の土地

  を工場が安価で引き取るかわりに、その場所を防毒林にする

  という内容であったにもかかわらず、工場側はその土地を使

  って勝手に工場を拡張したため、さらに住民らと紛争になった。

  同年、日本亜鉛製錬は、東邦亜鉛に社名を変更。

  1949年、工場が拡張する計画が明らかになる。

  1949年10月27日、農民らは群馬県知事に拡張を許可しない

  よう嘆願するが、県は拡張を推進した。

  1950年1月8日には東邦亜鉛被害地区農民大会が開かれ、
当時

  国会議員だった中曽根康弘は直筆の手紙を送り、『昭和の田中

  正造』になるつもりだと宣言した。

  1950年代は、中曽根のほか、福田赳夫も農民らに協力的だった

  といわれる。

  ただし、これらの国会議員は農民の益になる活動はほとんど行

  わず、1968年以降、公害運動が社会党、共産党の支援を受ける

  時代になるとほぼ断絶状態となった。

  東京大学による水質検査、土壌調査あり、労組スト、組合切り

  崩し、第二組合組織、第一組合消滅とかありの当時としてはお

  定まりの展開。

  安中公害訴訟が前橋地裁に受理されたのは1972年、1985年

  東京高裁によって和解勧告、和解が成立したのは1986年。」

  中仙道の街道筋の街 「安中 」、いまは「 公害 ゼロ 」 なん

  でしょうか

   塵も積もれば山となるんじゃないのかなあ  (;´д`) 。

   なかった昔に戻したい 。








 知らんかったん 、とってんしゃん 。

 みんなで忘れたがっている 不都合な事実 。 

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蕪村 2018・05・15

2018-05-15 10:00:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」。


     「 愁(うれ)ひつゝ 岡にのぼれば 花いばら 」

                     ( 与謝蕪村 )







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