「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

九曜の星 Long Good-bye 2021・06・25

2021-06-25 05:15:00 | Weblog
  


   今日の「お気に入り」は、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」で 読んだ「 坊城俊民 ( ぼうじょう

  としたみ ) 」さん についての 記事 です。

   坊城俊民 さん は、1963年 ( 昭和38年 ) ころ 、筆者が通っていた 都立北園高等学校の 教頭職 をお務めで、

  筆者が高校 一年生のとき、先生 の 「 古文 」の授業 を 週一回 楽しく聴講しておりました。 北園高校 の校歌

  「 九曜の星 」は、同校が 東京府立第九中学校 だったころの「 九 」の字に因んで、坊城先生 が 作詞 されたもの

  と記憶します。

  うろ覚えですが、 確か「 九曜の星は 高くして ・・・・・・ ここ北園の 学び舎に 柊の葉は 緑なり 。

      柊の葉は 緑なり( リフレイン ) 」 だったような。

        ( 筆者註: 東京都 の ホームページ に 坊城先生が作詞された、校歌 の 歌詞全文 がありました。
             ( www.metro.ed.jp/kitazono-h/school_life/symbols.html )
              歌詞 は 3番 まであり、次の通り です。
              1番は、静かで穏やかなメロディーで始まり、2番で転調し、3番は1番と同じメロディーです。
              56年 の 時を経て、筆者の脳裏に 格調高い歌詞 の 全文 が 甦りました。

           「 校歌  ●作詞 坊城 俊民 ●作曲 横田 勇

              1 
              九曜(くよう)の星は高くして 深き歩みをしるべせむ
              我等自由の乾坤(けんこん)に まことの道を踏み分けむ
              2
              君ともしびをかゝげてよ われこの旗をうち立てむ
              聞け若草の萌ゆる音 遠しほさゐのとよみあり
              3
              時世(ときよ)の色はうつろへど
              こゝ北園の学び舎(まなびや)に ひゝらぎの葉はみどりなり  」 )


  「 坊城 俊民( 1917 ( 大正6 ) 年 3月29日 - 1990 ( 平成2 ) 年 4月6日 )は、日本の国文学者、教育者 。

  「 人物
   東京市にて、堂上華族 の 嫡子 として誕生。
   父・坊城俊良(としなが)は 伯爵 で 宮内官 。母 は 子爵 入江為守 の娘・朔子(叔父に、昭和天皇 の 侍従長 を
   務めた 入江相政 )。神田区駿河台 と 麻布区笄町 に育つ。

   1935年( 昭和10年 )から翌年にかけ、親友・ 長與道夫 の 叔父 ・ 長與善郎( 作家 )の 邸宅 にて、 中世国文学
   の研究者 風巻景次郎 の指導で 源氏物語 を初めて読み、 文学的に大きな影響を受ける 。


   学習院 では 文芸部委員 をつとめ、校友会誌『 輔仁会雑誌 』に詩や散文を発表すると共に、文芸部発行の
   『 雪線 』誌 に 自伝的小説『 鼻と一族 』などを発表。学習院高等科 ( 旧制 ) 在学中、 三宅徳嘉(フランス文学
   者)の紹介で ヴィリエ・ド・リラダン の作品を知り傾倒 する。

   1937年( 昭和12年 )秋、学習院高等科 ( 旧制 ) 3年 のとき、当時 中等科 ( 旧制 ) 1年 の 平岡公威 ( 作家 ・
   三島由紀夫、〈 ひらおか きみたけ 〉1925年〈 大正14年 〉1月14日 - 1970年〈 昭和45年 〉11月25日 )と相識る。
   三島の文才を最も早く認めた者 の一人 で、 三島 と大部の文学的な手紙 を 毎日やりとりし、三島 の短篇
   『 詩を書く少年 』の R のモデルとなった。


   1939年( 昭和14年 )、東文彦 との 共著 の形で 作品集 『 幼い詩人・夜宴 』を 刊行する話 が持ち上がった
   ため、東の両親と懇意な 美術史家 児島喜久雄 の 紹介 で 志賀直哉 へ 序文を貰いに伺った が、『 作品として
   甘い 』ことを理由に 序文執筆 を拒絶 される。

   1941年( 昭和16年 )、東京帝国大学 文学部 国文科 卒業 。このころ経験した恋愛を題材に、1941年( 昭和
   16年 )から 1942年( 昭和17年 )にかけて 小説 『 舞 』 を執筆 。しかし、この 恋愛が原因 で 三島 や 東 や
   徳川義恭( 兄は 侍従 の 義寛 ) から 見捨てられた形 になる( このため、 三島 、 東 、 徳川 の 同人誌
   『 赤絵 』創刊 に加えてもらえなかった )。

   三島 が、「 しかし 坊城さん は いつまで 志賀 、芥川 、 リラダン から お脱け出になれない のでせう 」
   ( 1943年2月3日付 東文彦宛書簡 )と嘲った ように、1943年( 昭和18年 )2月 には 二人の関係 は 冷却 して
   いたが、坊城 の側では 三島 への友情を断ち切れず、1943年(昭和18年)、同人誌 『 赤絵 』に対抗する気持ち
   から 50部限定 の 豪華な小冊子 『 縉紳物語 』を発行 。扉に 『 三島由紀夫に捧ぐ 』と記した。

    ( 筆者註 : 1942年 ( 昭和17年 ) 、1943年 ( 昭和18年 ) は、太平洋戦争の真っ最中、真っ只中 。25、6歳の坊城さん
          や 18、9歳の平岡さん が 息をしてらっしゃった 東京 、彼ら若い文学青年たち の周囲 に 戦争は 全く
          影をおとしていないかのようです。空襲 が始まる前の 日本国内 、束の間の平和 。
          無力感から、文学、芸術にのめりこんでいく彼らの心情が察しられます。思い出すのは、平安時代の
          歌人・藤原定家( 1162 - 1241 ) の日記『 明月記 』の 一節、『 世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。
          紅旗征戎吾ガ事二非ズ 』。 )

   1948年( 昭和23年 )、自伝的短篇集 『 末裔 』を上梓 。三島から、『 少年期における私の最初の芸術的
   衝動の萌生え は、これを悉く 坊城氏 に負ふと言つても過言ではない 」と 跋文 を寄せられてはいた が、
   三島との関係は このとき 既に冷却していた 。


   1955年( 昭和30年 )ごろ、西銀座の路上で偶然に出会った三島から『 よう! 』と挨拶され、その不遜な
   態度に感情を害す 。以後、永らく絶交状態が続く 。


   1969年( 昭和44年 )2月20日 前後 に、発刊間もない『 豊饒の海 第一部・ 春の雪 』 の感想を、三島へ
   書き送り、 1969年( 昭和44年 )3月12日付の 返書 で、『 永い 御無沙汰をお詫びいたします 』、『 ほめ
   ていただいたことは、何よりも確実性のある喜びであります 。 正にお墨附きを頂いたようなもの 』と礼を
   述べられ、これがきっかけとなり 旧交が復活 。さらに 三島 は、 菊田一夫演出 の『 春の雪 』 芸術座公演
   の上演プログラムにも、『 堂上華族 の 坊城俊民氏 が、これを読んで太鼓判を捺してくれたところから、
   私の描いた 貴族生活 は、少なくとも 太宰治 の 『 斜陽 』のやうな イカサマもの ではない と思はれる 』
   と寄稿している。

   1970年( 昭和45年 )1月17日 、銀座の 『 マキシム・ド・パリ 』にて 三島夫妻 と 晩餐 。1970年( 昭和
   45年 )2月27日 から 4月3日 にかけて、フジテレビ( 当時、末弟・ 坊城俊周 が勤務していた )で『 春の雪 』
   が ドラマ化( 主演は 吉永小百合 と 市川海老蔵 〈 12代目 市川團十郎 〉)。 その際 三島の要望 により
   時代考証 を 担当 した 。


   1970年( 昭和45年 )11月19日付 で 三島は、 坊城に宛てた最後の書簡 を書き、一節に、『 十四、五歳の
   ころが、 小生の黄金時代 であつた と思ひます 。実際 あのころ、家へかへると、すぐ『 坊城さんのお手紙
   は来てなかつた ? 』ときき、 樺いろ と 杏子いろ の 中間のやうな色 の 封筒 をひらいたときほどの 文学的
   甘露には、その後 行き会ひません 』と筆記した 。

   1941年( 昭和16年 )旧制芝中学校( 私立 )を経て 1943年( 昭和18年 )から 公立学校教員( 地方公務員 )
   となり
東京府立第二十四中学校( 東京都立 北園高等学校 内に設置 )および、東京府立 第二十四中学校
   設置中止にともない 東京府立第九中学校 ( 東京都立北園高校 )で 国語教師 を務める( - 1964年 )
   東京都立池袋商業高校校長 、東京都立志村高校校長( 2007年( 平成19年 )東京都立板橋有徳高校に統合 )。

   終生にわたり、式部職嘱託(歌会始講師〈こうじ〉)を務めた。」


   

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文政の三蔵 Long Good-bye 2021・06・23

2021-06-23 05:21:00 | Weblog





  今日の「お気に入り」は、「 文政 」の「 ぞう 」さん の 二人目、近藤重蔵 さん の 紹介 です。

  フリー百科事典「 ウィキペディア 」には 、近藤重蔵 さん について、次のような解説、書き込みがあります。


 「 近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、

  江戸時代後期 の 幕臣 、探検家 。
諱 は 守重(もりしげ)、号は 正斎・昇天真人 。

  間宮林蔵 、平山行蔵 と共に“ 文政の三蔵 ”と呼ばれる。」

「 生涯
  明和8年(1771年)、御先手組与力 ・ 近藤右膳守知 の 三男 として 江戸駒込 に生まれる。
  山本北山 に 儒学を師事 する。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。
  幼児の頃から 神童 と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開く
  など、並々ならぬ学才の持主であった。
  生涯、60余種1500余巻の著作を残している。


  父の隠居後の寛政2年(1790年)に 御先手組与力 として出仕、 火付盗賊改方 としても
  勤務 する。
  寛政6年(1794年)には、 松平定信 の行った 湯島聖堂 の 学問吟味 において 合格 する。
  寛政7年(1795年)、長崎奉行手付出役 、寛政9年(1797年)に江戸へ帰参し 支払勘定方 、
  関東郡代付出役 と栄進する。


  寛政10年(1798年)、幕府 に 北方調査の意見書 を 提出 して 松前蝦夷地御用取扱 となる。
  4度蝦夷地(北海道)へ赴き、 最上徳内 と 千島列島、択捉島を探検 、同地に
  「 大日本恵土呂府 」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献する。
  蝦夷地調査 、 開拓 に 従事 し、 貿易商人 の 高田屋嘉兵衛 に 国後から択捉間の航路 を 調査させる 。


  1798年の探検の帰路、広尾にて悪天により足止めになり道の悪さを痛感、私費を投じて
  道路を開削させた。いわゆる「ルベシベツ山道」(現、広尾町ルベシベツ-ビタタヌンケ間)
  であり、北海道における道路建設(開削)の嚆矢となった。

  享和3年(1803年)、譴責 により 小普請方 となる。

  文化4年(1807年)にロシア人の 北方侵入( フヴォストフ事件、文化露寇 )に伴い 再び
   松前奉行出役 となり、5度目の 蝦夷入り となる。その際利尻島や現在の札幌市周辺を
  探索する。

  江戸に帰国後、将軍 徳川家斉 に 御目見 を許される。その際、札幌地域の重要性を説き、
  その後の札幌発展の先鞭を開いた。

  文化5年(1808年)に 江戸城 紅葉山文庫 の 書物奉行 となる。
しかし 自信過剰で豪胆な性格が
  見咎められ、文政2年(1819年)に 大坂勤番御弓奉行 に 左遷 される。この時、大塩平八郎
  と会ったことがあり、重蔵は大塩に「 畳の上では死ねない人 」という印象を抱き、大塩も
  また重蔵を「 畳の上では死ねない人 」という印象を抱いた。
   ( 筆者註:まるで誰かが聞いてきたみたい !? 「自信過剰で豪胆な性格が見咎められ」って何の咎(とが) ?
    因みに、「 『 大塩平八郎 』の乱(おおしおへいはちろうのらん)」は、江戸時代の天保8年(1837年)に、
    大坂(現・大阪市)で 大坂町奉行所 の 元与力 大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした 江戸幕府に対
    する反乱で、「 大塩の乱 」とも言う。大河ドラマ で 採り上げられる テーマ になることは ない。 )


  文政4年(1821年)に 小普請入差控 を命じられ、 江戸 滝ノ川村 に 閉居 する。


 鎗ヶ崎事件
  重蔵は本宅のほかに、三田村 鎗ヶ崎(現在の東京都 目黒区 中目黒 2-1 )に広大な 遊地 を 所有
  しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に 富士山 を 模した
  富士塚( 目黒富士 )を 築造 した。目黒新富士 、近藤富士 、 東富士 などと呼ばれて 参詣客 で賑い、
  門前には露店も現れた。

  文政9年(1826年)に上記の 三田の屋敷の管理 を任せていた 長 男の 近藤富蔵 が、 屋敷の敷地争い
  から 町民7名 を 殺害 ( 無礼打ち? ) して 八丈島 に 流罪 となり、父の 重蔵 も 連座 して 近江国 大溝藩( 藩主は 分部
  光寧 。現在の 滋賀県 高島市 )に 預けられる 。


 配流
  大溝藩 は緊急に 陣屋敷地内 に 牢屋敷 を 増築 し、配流人 を迎えた。光寧 は 重蔵 を 丁重に扱った と
  言われている。時の 著名人 でもあった 近藤 は、小藩といえど 京 に近く学問や見識を得ることへ
  の関心が高かった 大溝藩 において、重蔵 は格好の 珍客 とも言えた。 流人 ではあったが 近藤 は
  書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士 と 漢詩を唱和 したりしていたことが
  伝わる。近藤 は 大溝 で 本草学書 『 江州本草 』 全30巻 を著した。大溝 を中心とした 近江国の
  植物 の、いわゆる 植物図鑑 であったとされるが、 現存 しない 。近藤 は 流罪中の罪人 であり、
  当初の監禁状態が緩んでいたとしても 陣屋周辺の散策採集 であり、近江国内を自由に出歩く
  ようなことはできなかったため、当然ながら 大溝藩内部の協力 があったと推測される。

  配流 のまま、文政12年6月16日(1829年7月16日)に 同地にて 死去 。享年 59 。大溝藩 内の 円光禅寺
  の塔頭 瑞雪院 に葬られた。死後の万延元年(1860年)に 重蔵 の 連座処分 は 赦された が、長男の
  富蔵 は半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父の墓参は、富蔵の流刑から53年を経た明治13年
  (1880年)にようやく実現した。

  明治44年( 1911年 )、正五位 を追贈された 。



  間宮林蔵 さん 、近藤重蔵 さん 、平山行蔵 さん 、

  「 文政の三蔵 」は、お三方とも、ほんの 200年ほど前の 日本国 で、あるがまま、情熱の赴くままに、

  生きた方たち だったような ・・・ 。奇人、変人 揃い 、でも、皆さん、畳の上で亡くなったようで ・・・ 。
 











#文政の三蔵 #近藤重蔵 #高田屋嘉兵衛 #司馬遼太郎 #菜の花の沖 #梟の城 #葛籠重蔵
#千島列島 #択捉 #エトロフ #大日本恵土呂府  #大塩平八郎 #畳の上では死ねない人
#目黒富士 #近江国大溝藩
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御庭番 Long Good-bye 2021・06・22

2021-06-22 05:19:00 | Weblog





   今日の「お気に入り」は、「 いつか役に立つかもしれないムダ知識 」という タイトルのもと綴られた、どなたか の ブログ

  の中で見た言葉「 文政 の 三蔵 」。

  「 文政 ( ぶんせい ) 」は、日本の元号(年号)。江戸時代 の 1818年 から 1830年 まで、 仁孝 ( にんこう ) 天皇 の代の元号。

  前元号は文化 ( ぶんか ) 。次元号は 天保 ( てんぽう ) 。1818年( 文化15)4月22日改元。仁孝天皇 の 即位 にともない

  行われた 「 代始改元 」 だそう。「 今 は 昔 」ではありますが、ほんの 200年ほど 前 の 時代 です ・・・ 。 

  200年って、「 きんさん、ぎんさん 二人分 」 。 

   「 文政 の 三蔵 」とは、間宮林蔵( まみやりんぞう、1780 - 1844 )、

               近藤重蔵( こんどうじゅうぞう、1771 - 1829 )、

                 平山行蔵( ひらやまこうぞう、1759 - 1829 ) のお三方のことだそうです 。

   お三方とも、「 江戸時代後期 の 幕臣 」 だったという共通点があります。

  間宮林蔵 さん と 平山行蔵 さん には、徳川将軍家 の 「 御庭番 」を務めていた、という共通点もあるようです。

  また、間宮林蔵 さん と 近藤重蔵 さん は、ともに 「 蝦夷地 や 北方 の 測量 調査 、 探索 」に従事していた

  と言う共通点があるようです。

   うろ覚えですが、 「 近藤重蔵 」 は 、司馬遼太郎 さんの 「 菜の花の沖 」の 中に、廻船業者 で 海商 の

  「 高田屋嘉兵衛 ( 1769 - 1827 ) 」 の絡みで出てきた お名前 だったような。また「 重蔵 」は、司馬遼太郎

  さんの 小説「 梟の城 」の主人公「 伊賀者 葛籠(つづら) 重蔵 」の名前でもあります。

   ただ 近藤重蔵 さん は、他の二人の 「 ぞう 」さんと違い、同じ幕臣と言っても、隠密ではなく、父親の

  隠居後に 「 御先手組与力 」として出仕し、「 火付盗賊改方 」としてのお務めも されていた方のようです。

   近藤重蔵 さん については、日を改めて 紹介 したいと思います。

 紹介 その一、一番目の「 ぞう 」さん:

  フリー百科事典「 ウィキペディア 」には、 間宮林蔵 さんについて 次のような 解説、書き込み があります。

   「 忍者 」の項:

     「 薩摩藩 の 鹿児島城 に 潜入 して 城中の蘇鉄 に 名前 を 刻んだ『 偉業 』 ( ? ) で知られる 公儀隠密 。

     伊能忠敬 の弟子でもあり、ロシアの南下に際し 幕府の 命 を受け、樺太の調査 を行う。

     今でも 日本の地図 には、 樺太 と シベリヤ の 海峡 に 間宮海峡 として名を残している 。


   「 間宮林蔵 」の項:

     「 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期 の 徳川将軍家 御庭番 、探検家 。名は倫宗(ともむね)。
      元武家 の 帰農した 農民出身 であり、幕府で 御庭番 を務めた 役人 であった。生年は 安永4年( 1775年 )とも。
      樺太(サハリン)が島である事を確認 し 間宮海峡 を発見した事で知られる 。
      近藤重蔵、平山行蔵と共に『 文政の三蔵 』と呼ばれる。 」

     「 経歴
       常陸国筑波郡上平柳村(後の 茨城県つくばみらい市 )の 小貝川のほとり に、 農民の子 として誕生 。
       戦国時代 に 後北条氏 に仕えた 宇多源氏 佐々木氏分流 間宮氏 の 篠箇城主 の 間宮康俊 の 子孫 で 間宮清右衛門
       系統の 末裔 。

       当時幕府は利根川東遷事業を行っており、 林蔵 の生まれた近くで 堰( 関東三大堰 のひとつ、 岡堰 )の普請
       を行っていた。この作業に加わった 林蔵 は 幕臣・村上島之丞 に 地理や算術の才能を見込まれ 、後に 幕府の
       下役人 となった。
寛政11年(1799年)、国後場所( 当時の範囲は 国後島 、 択捉島 、 得撫島 )に 派遣 され
       同地に来ていた 伊能忠敬 に 測量技術を学び 享和3年(1803年)、 西蝦夷地( 日本海岸およびオホーツク
       海岸 )を測量 し、ウルップ島 までの 地図を作製 した。


       文化(1807年)4年4月25日、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所 から分立。択捉島)の 紗那会所元
       に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られた ニコライ・レザノフ が復讐のため部下の ニコライ・フヴォ
       ストフ たちに行わせた同島襲撃( 文化露寇 )に巻き込まれた。この際、 林蔵 は 徹底抗戦を主張 するが受け入れ
       られず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、 林蔵 は 抗戦を主張したこと が認められ
       て 不問に付された 。

       文化5年(1808年)、幕府の命により 松田伝十郎 に従って 樺太を探索 することとなり、樺太南端のシラヌシ
       (本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。
        林蔵 は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、
       再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ
       (久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで 松田 と合流した。

       林蔵 は アイヌ語 もかなり解した が、樺太北部にはアイヌ語が通じない オロッコ と呼ばれる 民族 がいることを
       発見、その生活の様子を記録に残した。 松田 と共に北樺太西岸ラッカに至り、 樺太 が 島 であるという推測を
       得てそこに『 大日本国国境 』の 標柱 を 建て 、文化6年6月(1809年7月)、 宗谷 に帰着した。
       調査の報告書を提出した 林蔵 は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身 樺太 へ向かった。

       林蔵 は、現地で アイヌの従者 を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進ん
       で 黒竜江 河口 の対岸に位置する 北樺太西岸 ナニオー まで到達し、 樺太が半島ではなく島である 事を確認した。
       更に 林蔵 は、樺太北部に居住する ギリヤーク人(ニヴフ) から聞いた、 清国の役所が存在 するという 黒竜江
       ( アムール川 )下流の町『 デレン 』の存在、および ロシア帝国 の動向を確認すべく、 鎖国を破る ことは 死罪
       に相当することを知りながらも、 ギリヤーク人らと共に 海峡を渡って アムール川下流 を 調査 した。
       その記録は『 東韃地方紀行 』として残されており、ロシア帝国 が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず 、
        清国人 が 多くいる状況 が報告されている。なお、現在ロシア領 となっているアムール川流域の 外満州 は ネル
       チンスク条約 により 当時は清領 であった。

       間宮林蔵 は 樺太が島 であることを確認 した人物 として認められ、シーボルト は後に作成した 日本地図 で 樺太・
       大陸間の 海峡最狭部 を『 マミアノセト 』と命名した 。海峡自体 は『 タタール海峡 』と 記載 している。

       樺太北部の探索を終えた 林蔵 は文化6年旧暦9月末(1809年11月)、宗谷 に戻り、11月に 松前奉行所へ出頭 し
        帰着報告 をしている。 松前 において 探索の結果報告 の 作成 に取りかかり、師の 村上島之丞 の養子である 村上
       貞助 に 口述を筆記 させ、『 東韃地方紀行 』、『 北夷分界余話 』としてまとめ、文化8年(1811年)1月、江戸
       に赴いて 地図と共に 幕府に提出 した。

       江戸において 林蔵 は 伊能忠敬 の邸に出入りして 測量技能 の 向上 に努めた。

       文化8年(1811年)4月、 松前奉行支配調役下役格 に 昇進 。同年12月、 ゴローニン事件 の 調査 のため 松前に
       派遣 される。文政5年(1822年)、 普請役 となる。文政11年(1828年)には 勘定奉行 ・ 村垣定行 の 部下 になり、
       幕府の 隠密 として 全国各地を調査 し、 石州浜田藩の密貿易の実態を掴み 、大坂町奉行 矢部定謙 に報告し 検 挙に
       至らせる( 竹島事件 )などの活動に従事する。


       探索で培った、蝦夷・樺太方面 に対する豊富な知識や海防に対する見識が高く評価され、老中 大久保忠真 に
       重用 され、 川路聖謨 や 江川英龍 らとも 親交 を持った。また、当時 蝦夷地 の 支配 を 画策 していた 水戸藩主 徳川
       斉昭 の招きを受け、 水戸藩邸等に出入り して 斉昭に献策 し、 藤田東湖 らと 交流 を持った。

       晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。天保15年2月26日(1844年4月13日)、江戸深川
       蛤町か本所外手町において没した。梅毒を死因とする説もある。アイヌ人女性との間に生まれた実子がおり、
       子孫が現在でも北海道に在住しているが、家督は浅草の札差青柳家から養子に入った鉄二郎(孝順)が相続
       した。
       墓所は、東京都江東区の 本立院 及び、茨城県つくばみらい市上柳の 専称寺 にある。
       1904年(明治37年)4月22日、贈 正五位 。 」

     「 蝦夷地測量
       伊能忠敬 が 間宮 に 測量の技術を教授 し、 間宮の測量の精度があがった という。忠敬 がスケジュールの都合上、
       蝦夷地を測量できなかったとき、蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、 大日本
       沿海輿地全図 の 蝦夷以北の地図 は最終的に 間宮の測量図 になった。


      
      間宮林蔵 さんの 墓所である東京都江東区の 本立院 の境内には「 1955年(昭和30年)に、当時 総理大臣 であった

       鳩山一郎 揮毫 による 記念碑『 間宮林蔵先生之塋域 』が建てられた。
」とも記述されています。


 紹介 その三、二番目を飛ばして三番目の「 ぞう 」さん:

   「 三蔵 」の一人である 「 平山行蔵 」さん についての「ウィキペディア」の 解説 には 、次のような 記述 がなされています。

     「 江戸幕府御家人 、平山勝籌( 甚五左衛門 )の子。行蔵 は 伊賀組同心 として 30俵2人扶持 の 微禄 でありながら、
       四谷北伊賀町 ( 現新宿区三栄町 ) 稲荷横丁 の 自宅 に 道場 『 兵聖閣武道塾 』を構えていた。 」

     「 行蔵 は 背丈が低かった にもかかわらず、3尺8寸( 約115cm )という 長い刀 を差していた。毎朝 起きると
      7尺の棒を振ること500回、長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこと200回 - 300回、読書をしながらケヤ
      キの板を両拳で叩いて拳骨を鍛え、書に倦むと水風呂に入って惰気を払うといった生活で、61歳になるまでは
      土間に寝、夜具を用いなかった。居間には長刀、木刀、長竹刀、槍など数十本に始まり、大砲、抱え筒、鉄砲、
      鉄棒、薙刀などの武具、具足櫃、木箱が乱雑に詰め込まれ、庭は草ボウボウという有様だった。( 誰かが見てきたみたい!? )

      扶持米を俵のまま玄関に起き、玄米をそのまま炊いて食べた。居間の押し入れに酒の入った4斗樽を据え付けて
      冷や酒を呑むことは、晩年、中風のために起居が不自由になってもやめなかった。『 べらぼうめ 』が口癖で、
      世の文弱な風潮に憤激しながら没したという。

      事理一体観に基盤を置いた近世稀に見る ( 評価の根拠不明 ) 兵法家であり、総数2980巻、1085部の莫大な和漢の兵書名、
      362種の戦地兵器類を収集していた。1828年(文政11年)12月14日没。享年70。四谷愛住町、
      永昌寺に葬る。

      行蔵の門人
      門人のうち、別格筆頭が相馬大作事件の相馬大作(下斗米秀之進)である。このほか、吉里信武(呑敵斎、
      呑敵流)、妻木弁之進、小田武右衛門、松村伊三郎を『 平山門の四天王 』という。 勝海舟の父、 勝小吉
       行蔵 に学んでおり、『平子龍先生遺事』という著作がある。」


    「 三蔵 」の中でも、並み外れた、奇人 、変人 だったようです。

     









  

        

    

        




#文政の三蔵 #間宮林蔵 #近藤重蔵 #平山行蔵 #伊賀組同心 #御庭番 #隠密 
#伊能忠敬 #測量 #大日本沿海輿地全図 #地図
#蝦夷地 #北方 #文化露寇 #ネルチンスク条約 #大日本国国境 
#国後 #クナシリ #択捉 #エトロフ #樺太 #カラフト #樺太は島 #ゴローニン事件 #竹島事件 #鳩山一郎
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寒夜母を思ふ Long Good-bye 2021・06・19

2021-06-19 05:30:00 | Weblog



  今日の「お気に入り」は、作家 井伏鱒二 さん ( 1898 - 1993 ) の 「 寒夜母を思ふ 」 と題した 詩 一篇 。


  「 今日ふるさとの母者から
    ちょっといいものを送って来た
    百両のカハセを送って来た
    ひといきつけるといふものだらう

    ところが母者は手紙で申さるる
    お前このごろ横着(わうちゃく)に候
    これをしみじみ御覧ありたしと
    私の六つのときの写真を送って来た

    私は四十すぎたおやぢである
    古ぼけた写真に用はない
    私は夜ふけて原稿書くのが商売だ
    写真などよりドテラがいい

    私は着たきりの着たきり雀
    襟垢は首にひんやりとする
    それで机の前に坐るにも
    かうして前こごみに坐ります

    今宵は零下何度の寒さだらう
    ペンのインクも凍(い)てついた
    鼻水ばかり流れ出る
    それでも詩を書く瘦せ我慢

    母者は手紙で申さるる
    お前の瘦せ我慢は無駄ごとだ
    小説など何の益にか相成るや
    田舎に帰れよと申さるる

    母者は性来ぐちつぽい
    私を横着者だと申さるる
    私に山をば愛せと申さるる
    土地をば愛せと申さるる
    祖先を崇(あが)めよと申さるる

    母者は性来のしわんばう
    私に積立貯金せよと申さるる
    お祖師様を拝めと申さるる
    悲しいかなや母者びと     」

   ( 井伏鱒二著 「 厄除け詩集 」 講談社文芸文庫 所収 )




       

 フリー百科事典「 ウィキペディア 」には、作家の 井伏鱒二 さん について次のような解説が載っています。

  「 井伏 鱒二( いぶせ ますじ 、1898( 明治31年 ) - 1993 ( 平成5年 ) )は、
   日本の小説家。本名は 井伏 滿壽二( いぶし ますじ )
   広島県 安那郡 加茂村 (現・ 福山市 )生まれ 。筆名 は 釣り好き だったことによる。
   文化勲章受章 。」

  「 来歴
    1898年、広島県 安那郡 加茂村 粟根 に父・ 井伏郁太 、母・ ミ ヤの 次男 として生まれた。
    井伏家 は 室町時代 の 1442年 ( 嘉吉 2 年 )まで遡れる旧家で、『 中ノ士居 』の屋号をもつ代々の
    地主 である。 5歳 のときに 父を亡くし、特に 祖父 にかわいがられて育つ。

    1905年、加茂小学校 入学。

    1912年、旧制 広島県立 福山中学校 (現 広島県立 福山誠之館高等学校 )に進学した。
    同校の庭には池があり、2匹の 山椒魚 が飼われていて、これがのちに 処女作 として発表され、
    世に知られることとなる『 山椒魚 』に結びついた。
    作文は得意 だったが 成績はあまり振るわず、中学校3年生ころ から 画家 を志し、卒業すると
    3か月間奈良・京都を 写生旅行 。そのとき泊まった宿の主人が偶然 橋本関雪 の知り合いと聞き、
    スケッチを託して 橋本関雪に入門を申し込んだが断られ 、やむなく 帰郷 する。

    後に、同人誌に投稿などをしていた 文学好きの兄 からたびたび勧められていたこともあり、
    井伏は 文学に転向 することを決意、 早稲田大学 文学部 仏文学科 に 入学 する。
    そこで同じ学科の 青木南八 と親交を深める一方、文壇で名を成していた 岩野泡鳴 や 谷崎精二
    らのもとを 積極的に訪ねる ようになる。

    しかし1921年、三回生の時、井伏 は担当の 片上伸教授 と『 衝突 』し、やむなく 休学 し 帰郷 、
     母と兄の配慮 により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、 御調郡(旧・ 因島市 、現・ 尾道市 )
    因島三庄町千守の 土井医院 2階へ逗留することとなった。

    約半年後に帰京、 復学の申請 をするが、 同教授が反対した ためかなわず、やむなく 中退 となった。
    さらにこの年、無二の親友だった 青木南八 が 自殺 するに及んで、井伏は 日本美術学校 も
     中退 してしまう。

    1923年、同人誌『 世紀 』に参加し、『 幽閉 』を発表。翌年、 聚芳社 に入社するが、 退社 と 再入社 を
    繰り返した 後、 佐藤春夫 に師事するようになる。


    以上、「 ウィキペディア 」に載っている 井伏鱒二 さんの 人生の黎明期 ( 出生から25歳時まで )

   の「 履歴 」です。

    はじめて自作を世に問うたのが 1923年 ( 大正12年 ) 、25歳の時ですから、

    御年95歳になられた1993年 ( 平成5年 ) 《 この年の6月24日、荻窪の東京衛生病院に緊急入院し、

   7月10日に肺炎で亡くなる ⦆ までの 約70年間、ひたすら文学者、作家としての人生を歩まれたことになります。



    


    「 幽閉 」を改作した 「 山椒魚 」は、筆者が接した最初の井伏作品で、「 屋根の上のサワン 」が二つ目。

   確か、中学校の教科書で読んだのが「 山椒魚 」で、夏休みの宿題の読書感想文の課題図書が「 屋根の上

   のサワン 」だったような。いずれも1929年 ( 昭和4年 ) の作品です。

   直木賞を受賞された「 ジョン萬次郎漂流記 」が1938年 ( 昭和13年 ) 、文芸春秋の「 本日休診 」が

   1950年 ( 昭和25年 ) 、そして 新潮の「 黒い雨 」 ( 野間文芸賞 ) が 1966年 ( 昭和41年 ) で、

   この年 68歳で 文化勲章 を受章されています。

   筆者が社会人になった 1970年 ( 昭和45年 ) には、御年72歳、日本経済新聞に「 私の履歴書( 半生

   記 ) 」を連載しておられました。

   


#井伏鱒二 #寒夜母を思ふ #福山 #山椒魚 #屋根の上のサワン #ジョン萬次郎漂流記 #本日休診 #黒い雨 
#私の履歴書 #文化勲章 #辛坊治郎漂流記 #ロビンソン漂流記
  
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厄除け詩集 Long Good-bye 2021・06・18

2021-06-18 05:19:00 | Weblog






  今日の「お気に入り」は、作家の 井伏鱒二 さん( 1898 - 1993 )の「 厄除け詩集 」の中にある 「 訳詩 『 復愁 』 」 です。


  ドコモカシコモイクサノサカリ

  オレガ在所(ザイショ)ハイマドウヂヤヤラ

  ムカシ帰ツタトキニサヘ

  ズヰブン馴染(ナジミ)ガウタレタサウナ



  井伏鱒二さんが 近代日本語 に 翻訳 されたのは、中国・盛唐 の 詩人 杜甫 の「 復愁 」と題する五言絶句です。

  横書きには適しませんが、原詩 と 読み下し文 は、以下の通りです。

   復愁 ( またうれふ )     杜甫 ( と ほ )

   万国尚戎馬      万国 尚(な)ほ 戎馬(じゅうば)
   故園今奈何     故園 今 奈何 (いかん)
   昔皈相識少     昔 かえりしとき 相識 少(まれ)に
   蚤已戦場多     蚤(はや)く 已(すで)に 戦場 多かりき






#井伏鱒二 #中国 #漢詩 #盛唐 #杜甫 #復愁 #戦場 #いくさ #戎馬 #銃器 #黒い雨
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春眠暁を覚えず Long Good-bye 2021・06・17

2021-06-17 06:17:00 | Weblog





  今日の「お気に入り」は、作家の 井伏鱒二 さん( 1898 - 1993 )の「 厄除け詩集 」の中にある 「 訳詩 『 春暁 』 」 です。


  ハルノネザメノウツツデ聞ケバ

  トリノナクネデ目ガサメマシタ

  ヨルノアラシニ雨マジリ

  散ツタ木ノ花イカホドバカリ



  団塊世代なら、 高校時代の「漢文」の教科書で お馴染みの、 中国・唐代 の 詩人 孟浩然 の 五言絶句「 春暁 」。

  上記のように 井伏鱒二さんが 現代語 に 巧みに 翻訳 されました。

  横書きには適しませんが、原詩 と 読み下し文 は、以下の通りです。

   春暁 ( しゅんぎょう )     孟浩然 ( もう こうねん )

   春眠不覚暁      春眠 暁 を 覚えず.
   処処聞啼鳥     処処 啼鳥 (ていちょう) を 聞く
   夜来風雨声     夜来 風雨 の 声
   花落知多少     花 落つること 知る 多少


   春の朝を詠んだ詩歌・詩句としては、清少納言 の「 枕草子 」の冒頭の「 春はあけぼの。

  やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」が 「 古文 」の教科書に

  載ってましたっけ。

   筆者の「 古文 」の 先生は、歌会始 の 講師 ( こうじ、詠み人 ) を終生 務められた 坊城俊民 ( ぼうじょう としたみ、

  1917年〈 大正6年 〉3月29日 - 1990年〈平成2年〉4月6日 )さん でした。




#井伏鱒二 #中国 #漢詩 #唐代 #孟浩然 #春暁 #訳詩 #春眠不覚暁 #枕草子 #春は曙 #厄除け詩集 #夜来風雨声
#孤独
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昨日は「 恋と革命のインドカリーの日 」 Long Good-bye 2021・06・13

2021-06-13 11:19:00 | Weblog



  今日の「お気に入り」は、作家 井伏鱒二 さん ( 1898 - 1993 ) の 「シンガポール 所見 」 と題した 詩 一篇 。

  「 シンガポール 所見
   ―― 戦争中、徴用 されて シンガポール に住む。某日、意外にも キリネー・ロード にて、
     東京 新宿中村屋 の ボースさん を見る。

    走る走る―― 一人の印度人が
    紫外線よけの眼鏡をかけ
    いま熱狂の歓声をあげ
    絵から抜け出た韋駄天だ

    いつさんに自動車を追つて行く
    その車蓋のない自動車に

   これは意外
   にこにこ笑ひながら
   やはり紫外線よけの眼鏡をかけ
   新宿中村屋のボースさんが乗ってゐる

   自動車の行手には
   印度人集会場の草原に たくさんの人だかりだ

   見よ――青空を――あの集会堂の尖塔に
   翩翻(へんぽん)としてひるがへる印度独立の三色旗  」

   ( 井伏鱒二 著 「 厄除け詩集 」講談社文芸文庫 所収 )



    久しぶりにこの詩を読んで、子供の頃、一度か二度、東京 新宿中村屋 の 「 チキンカリー 」を

   食べに、家族連れだって出かけたことを 思い出しました。

    インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」には、「 新宿中村屋 」について

   以下の記事が載っています。勉強になりますナ~。

   「 1901年( 明治34年)12月 - 現文京区本郷の東京大学正門前にあったパン販売店中村屋を

    相馬愛蔵・良夫妻が買い取り、個人経営で創業。夫婦ともに学校出であったことから『 書生パン

    屋 』と呼ばれて繁昌した。」


   「 相馬愛蔵 ( 創業者 )

     1901年の創業以来、妻の相馬黒光(良?)とともに独創的なパン・食品を作り続けた。

     1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリ

     ームパンを考案した。1927年には現在の中華まんのもととなる『 中華饅頭 』

     を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。」

   「 1918年に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボース ( 通称 中村屋のボース、

    チャンドラ・ボースとは別人 ) から米(白目米)や鳥(軍鶏)にまでこだわった本格的な

     カリーの調理を学び、1927年(昭和2年)6月12日に当時の日本では珍しい

     純インド式カリー を販売している。本店のカリーのキャッチフレーズ『 恋と革命の味

     はここから生まれ、引き継がれている。

    また中村屋では発売開始日の6月12日を『 恋と革命のインドカリーの日 』と定めている。」

    「 フランスパン を日本で最初に発売した京都の 進々堂 創業者の 続木斎 や、山﨑製パン 創業者の

      飯島籐十郎
相馬のもとで勤務していた

      新宿本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。

     その中にロシアの童話作家 ヴァスィリー・エロシェンコ もおり、彼がレシピを伝えた ボルシチ も、

     前述のカリーと並び本店レストランの開店以来の人気メニューである。ただし、この ボルシチ は

    テーブルビート の代わりに トマト を使用した物である。また、エロシェンコ が着用していた ロシ

    ア の民族服 ルバシカ も、その機能性から店員制服として採用されている。」

  「 逸話

    寺山修司 は プレイボーイ誌 で 人生相談欄 を担当していたとき、自殺願望の青年の葉書に対し、

   『 君は 新宿中村屋のカリー を食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ 』と返答した。


   おぼろげな記憶ですが、昔、食べた 新宿中村屋の「 チキンカリー 」には、色んなスパイスの他に、

   すりおろしたリンゴ が 隠し味 に入っていたような 気がします。

   今の レトルトカレー とは 随分と違ったお味 だったような ・・・ 。

   そう言えば、ネパール ・カレーのテイクアウトのお店で買った「チキン・バター・カレー」を食べた

   昨日 6月12日は、中村屋さんの『 恋と革命のインドカリーの日 』。

   一緒に食べた ナン は、やけに甘かったナ~、パンケーキほどではないけれど ・・・、

                  ナン専用の業務用小麦粉、 甘さ控えめにお願いしたい、日清製粉さん。




   
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老人の顔 Long Good-bye 2021・06・11

2021-06-11 06:11:00 | Weblog




  今日の「お気に入り」は、早朝のラジオで耳にした、どなたかのお言葉、七つ、八つ。

   「 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる 」

   「 人口多けりゃ百難隠す 」

   「 隠すより現 ( あらわ ) る 」

   「 人生 ゼロ ( 0 ) と イチ ( 1 ) では 割り切れない。」

   「 三十 過ぎたら、得意な こと しかやらない。 短所 を 直そうとしない、無駄 だから。

      不得手なこと は、人 に 任せる ・・・。 」

   「 ひん尿 は 続くのに、かい便 は 続かない。 」

   「 『 ミツバチ は 僕 のために 働いている 』と 考える クマ の プーさん みたいな 人 は、

            ヒトの上に立ってはいけない タイプ ( 立たせてはいけない ? だったかも ) 。」


      


   ・ 何でも AI が 答え を 出してくれるとは限らない、でも助かるよナー 、・・・ ウおシュレット。

     居てくれるだけでいい 、失ってはならない 強ーい味方 、・・・ ウおシュレット。


     イグノーベル賞 、あげたい 。

      


   ・ 公け の 目 にさらされる ヒト は、公人であり、私利 私欲 が 露わに なるような 真似 は慎まないとネ 。

     クニ だって そうだよナ~ 、小
内閣 にならないように 。

     関係各位、各員、人生 調子に乗ってはいけない 、常に 自戒 を 怠ってはいけない ということでしょーか。

    議員さん、大臣さん だけではありません。

     経産省の若手官僚二人の不祥事、コロナ禍を悪用しただけに、モラルのかけらもなく、きわめて悪質。

     国家公務員 、それも 上級職 がおこした 刑事事件 、学業成績だけ見てる 採用官に人を見る目がなかった ことは歴然としている。

     この大変なときになんてことをしてくれる、と臍をかんでも 時 遅し。


      


   ・ まだ 弁護士でもなんでもない 素人が 折衝相手 との 会話 の 内容を ( ひそかに ) 録音してました、なんてことを、

     公開文書に書いて出してしまったことは、取り消すことの出来ない、取り返しのつかない、凡ミス ではありませんか。

     上辺だけでは窺い知れない、お人柄が知れてしまいました。

     専門職業人である法律家がアドバイザーについてて、あれだもんなあ。

     筋が悪ーい 、若気の至り、としか言いようがありません。

     残念至極、専門バカ。
でも、わかってよかったのかも。まだ、間に合います。

     磯野家であれば、父親の波平さんが、人たらし に 見込まれた 未熟な娘 サザエさんを、一喝すればいいところ ですが ・・・ 、

     ここは 関係各位、主家のため、どなたか、嫌われ役 を、買って出なさいまし 。

     官房機密費の使いどこ?。


     「 変な ムシ コナあズ 」付けときゃよかったなあ。

     それにつけても ガード が 甘すぎます。

     身元調査なんぞしなくても、「 公開情報 確かめて、家庭訪問 するだけ 」で、二の足、三の足 踏みそうなのに。

     「 公開情報 確かめて、家庭訪問 するだけ 」、たったこれだけの、 人を行かせて 確かめれば済む 常識的なことを、

     最初に、誰も やってない 。親子二代、男系が自死している 「 事実 」に 、誰も着目せず、突っ込みを入れないのは、

     何故 ?? 人権派弁護士 が 就いてるから ??

     大銀行も、大弁護士事務所も、調べない筈がないことを、みんなが みんな、 誰かに、何かに、忖度 しまくった結果

     見過ごしている というのが、真相 か 。

     「 スルーする 」という「 不作為 の 作為 」、・・・ イ・ケ・ズ 。

     宮様を補佐して、お家全体に 目配りする 家令 、執事 は、おられないのか、平成、令和の宮家には 。

     無責任きわまりなし 。国益 損なう にも ほどがある 。

     いつ 本家 になるかも知れない 分家 を ないがしろにしては なりませぬ 、お役人さま 。


      


   ・ コロナ禍 でこの始末、平和利用も、軍事利用も、世界中 原子力一辺倒 で、 この先 人類 は 生き残れるんだろうか。

     コントロールできなくなる クニ が どこか 出てきそうだナ~。

     スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマ、・・・、

     ヒロシマ、ナガサキ、・・・、

     どこの国かナ~。

   ・  「 再生可能エネルギー 」じゃあ 「 GUNDUM 」は飛べないなー。

     「 GUNDUM 」 は、たしか「 核融合 」の エネルギー でしたっけ。

   ・ 何用あって、Fossa Magna に 穴 開けて、磁力で浮き上がって、 大阪 へ ?

     万博 あるから ? 無重力体験 の 宇宙旅行 とおんなじで、身体に悪そう。 

     今年の大河が、「 青天を衝け 」な ワケ ? 

     お札の顔 ?       















  









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