「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

鬼の目にも涙 その2 Long Good-bye 2022・04・30

2022-04-30 14:30:00 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
 「 ローフス・ミシュ 」の経歴記事 。享年97 。

   筆者が74年生きてきて 、多分 、初めてお目にかかるお名前 、ドイツのお方 。
   有名人ではないが 、歴史の生き証人 。
   1945年4月 、独裁者とその夫人が二人してこの世を去るまでの 8年間 、独裁者の身近
  に居て 、係わり合いをもった人物 、ローフス・ミシュ あるいは ミッシュ 。
  
  引用はじめ 。

  「 ローフス・ミシュ( Rochus Misch , 1917年7月29日 - 2013年9月5日 )は 、武装親衛隊
   に所属していたドイツの元兵士 。最終階級は親衛隊曹長 ( Oberscharführer ) 。アドルフ・
   ヒトラーの側近 、文書の運搬人 、ボディガード 、および電話交換手 。1945年4月30日
   のヒトラー自殺の際にベルリンの総統地下壕にいた人物のうち 、最後の生存者だった 。
   姓はミッシュとも表記 。身長 182 cm 。

   経 歴

   オーバーシュレージエン( ドイツ語版 )地方のオペルン近郊のアルト=シャルコヴィ
   ッツ( ドイツ語版 )( 現ポーランド領 )に生まれる 。父親は第一次世界大戦に出征
   し 、ミシュが生まれる直前に戦傷により死亡した 。2歳の時に母親も死去して孤児と
   なり 、祖父母や叔母に育てられる 。はじめペンキ職人となるが 、1937年に武装親衛
   隊に志願して入隊 。武装親衛隊に志願したものの 、ミシュ自身はヒトラーの我が闘
   争を読んだことはおろか 、買ったことすらもなく 、ヒトラーユーゲントにも加入し
   たことがなかった 。武装親衛隊入隊後 、ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・
   ヒトラー ( LSSAH ) に配属される 。

   ドイツ軍のポーランド侵攻に参加し 、モドリンの戦い( 英語版 )で降伏勧告の特使
   として派遣された際に胸部貫通銃創の重傷を負う 。ミシュの実戦経験は一発の銃弾
   を撃つこともなくここで終わる 。回復した後 、上官である中隊長ヴィルヘルム・
   モーンケは彼を礼儀正しく忠実な兵士と見込んで 、ベルリンの総統官邸に勤務する
   総統警護隊に欠員が1人出たことも相まって 、補充の兵士として推薦した 。そこで
   ヒトラーの側近となる 。その最初の任務は 、ウィーンにいるヒトラーの妹パウラに
   手紙を届けることだった 。以後は司令部 、別荘 、官邸など 、ヒトラーの行く先々
   に常に随行した 。ミシュはヒトラーから唯一地下壕での武器の携帯を許されていた 。

   彼は総統地下壕に最後まで常駐した数少ない人物で 、ヒトラーの護衛兼電話交換手
   という同所での仕事柄 、真っ先に全ての文書に目を通すことができた数少ない人物
   であった 。ベルリン市街戦の最中の1945年4月30日にヒトラーと夫人のエーファ・
   ブラウンが自殺すると 、その遺言によりゲッベルスが首相となった 。彼はゲッベ
   ルスやその夫人マクダ夫妻の6人の子供たちとも親しく 、マクダ夫人が子供たちを
   殺害した前後の様子も目撃している 。

   5月1日 、絶望して自決を決めたゲッベルスはミシュに総統地下壕を去るように命
   じた 。彼はすでに数日前から脱出に備えて必要な物資をリュックサックに詰めて
   いた 。同日 、ミシュは地下壕の機械設備工のヨハネス・ヘンチェル( 英語版 )
   とお互いに妻宛ての手紙を交換してから 、地下壕を脱出した 。ミシュ本人が戦後
   知るところによれば 、ミシュが脱出した5分後にゲッベルス夫婦は自殺したという 。

   ミシュは逃走中にハインツ・リンゲらがいるグループと落ち合い 、地下鉄を通っ
   て逃げ延びようとしたが 、地上を偵察したミシュの先遣部隊が味方のドイツ兵を
   見つける 。無事ソ連軍の包囲を逃げ切ったと思い 、地上に出たミシュ達だったが 、
   地上にいたドイツ兵達は捕虜となっていた兵士達で 、ミシュ達も敢えなく捕虜と
   なった 。

   捕虜となったミシュはヒトラーのパイロットであったヨハン・バウアと出会う 。
   ヨハン・バウアは片足を失っており 、包帯を絶えず交換する必要があり 、ミシ
   ュはヨハン・バウアの介護のため 、彼と行動を共にすることになる 。その後は 、
   各地の収容所を転々とする 。ヒトラーに親しく接していたことで赤軍によって
   ルビャンカ刑務所に収容され 、取り調べを受けた 。ヒトラーの自殺を信じてい
   なかったスターリンは捕虜となっていたミシュやオットー・ギュンシェ( ヒト
   ラーの副官 )、ヨハン・バウアに『 真相 』を話すよう強要した 。9年後によ
   うやくミシュは釈放され 、ドイツにいる妻のゲルダ と娘のもとに戻った 。
   その後は内装業を営み 、1980年代中頃に引退した 。

   1970年代からドキュメンタリー映画に登場するようになり 、特に1990年代以降 、
   ヒトラーや第二次世界大戦に関する番組によく登場していた 。2006年にも『 最
   後の証人‐ロフス・ミシュ 』と題するテレビ・ドキュメンタリー番組に出演した 。
   同年 、1940年から45年に関する回顧録をフランスで出版 、世界各国語に訳され
   ており 、ドイツや日本でも出版されている 。

   ミシュは戦後もヒトラーやナチ党に対する一定の親近感を隠さず 、ヒトラーに
   関しては『 優しく情け深い上司だった 』と弁明を行っていた 。2004年に公開
   された映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』については 、( 存命にもかかわら
   ず )映画のスタッフや原作者( ヨアヒム・フェスト )は自分のところに来な
   かったことに不満を述べ 、作中にあった乱痴気騒ぎなどは無かったことを主張
   し 、映画の出来についても酷評している 。2005年のインタビューでも 、ナチ
   スが引き起こした戦争犯罪の数々について懐疑論を主張し 、ネオナチについて
   は『 ネオナチなどというものはない 。国を憂う愛国者たちだよ 』と擁護して
   いた 。また 、『 毒殺されたゲッベルスの子供たちも戦争犠牲者である 』とし
   て 、彼らの追悼施設を造るべきだと主張 。このためホロコーストの犠牲者遺族
   やユダヤ人団体などから糾弾されてきた 。

   娘のブリギッタによると 、妻ゲルダはユダヤ人の血を引いていたが 、彼女は
   それについて言及せず 、またミシュもそれを知ることを拒んでいたという 。
   ミシュは娘とは不和で 、ミシュの孫はフランクフルトのユダヤ人学校で教育
   を受けていた 。

   2013年9月5日にベルリンで死去した 。96歳没 。 」

   引用おわり 。



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鬼の目にも涙 Long Good-bye 2022・04・30

2022-04-30 04:30:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
 「 エヴァ・ブラウン こと エヴァ・ヒットラー 」の経歴記事 。享年34 。
  
  引用はじめ 。

  「 エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウンEva Anna Paula Braun 、1912年2月6日 - 1945年4月30日 )は 、
   ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーの妻だった女性 。1945年4月29日に結婚し正式な妻となったが 、
   その翌日ヒトラーと共に地下壕にて自殺した 。13年間恋人であったがその関係は公開されなかった 。

    なお、ドイツ語の発音にもっとも近いカタカナ表記は、エーファ・アナ・パオラ・ブラオン

   生 涯

   ヒトラーに出会うまで
   エヴァ・ブラウンは父フリードリヒ・オットー・ヴィルヘルム・ブラウン( Friedrich Otto
   Wilhelm Braun , 通称フリッツ・ブラウン )と母フランツィスカ( Franziska )の次女として 、
   1912年2月6日にミュンヘンに生まれる 。

   両親はバイエルン出身で 、父は教員 、家族には3歳年上の姉 イルゼ・ブラウン( 英語版 、
   ドイツ語版 )、3歳年下の妹 グレートル・ブラウン( 英語版 、ドイツ語版 )
  ( マルガレーテ: Margarete )がいる 。

   エヴァは16歳の時 、修道院運営の職業訓練校に1年間通うが 、体操以外では平凡な成績
   であった 。卒業後 、診療所の事務員として数ヶ月勤務した後 、ナチ党党首アドルフ・ヒト
   ラーの専属カメラマン 、ハインリヒ・ホフマンのモデル兼助手として雇われる


   ヒトラーとの出会い
    1929年10月のある日、17歳のエヴァは23歳年上のヒトラーにホフマンのスタジオで
   出会う 。エヴァはこの時のヒトラーの印象を『 おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で 、
   イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた 』と友人に語って
   いる 。ヒトラーの方は 、エヴァの目の色がヒトラーの母クララにとてもよく似ていると
   評している 。

    出会ったその日からヒトラーはエヴァに惹かれ 、エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラ
   ーの視線に気づいている 。その日 、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食を
   とったが 、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたという 。その後 、ヒトラーは彼女
   をドライブに誘うが拒絶されている 。

   エヴァはヒトラーのことを知らず 、ホフマンに聞いて初めてヒトラーが政治家と知った 。
   エヴァが父にヒトラーについて聞くと 、父はヒトラーをよく思っていないことを告げた
   が 、エヴァはかえってヒトラーに興味を抱くようになる 。

   しかしその後 、何度もヒトラーはエヴァを誘っており 、いつしか二人は交際するように
   なった 。この頃 、エヴァは写真店の店員仲間に『 ヒトラーと婚約している 』と見栄か
   ら来た嘘をついており 、ホフマンに叱責されている 。

    エヴァとヒトラーの近親者たちはいずれもこの2人の接近に大反対であった 。中でも
   エヴァの父フリッツとヒトラーの異母姉 アンゲラ・ヒトラー( 英語版 )は 、この交際
   を認めなかった 。

   嫉妬と2度の自殺未遂
    夫に先立たれたアンゲラ・ヒトラー( アドルフ・ヒトラーの異母姉 )は 、1928年から
   バイエルン・アルプスの美しい町 ベルヒテスガーデン の近郊の山腹オーバーザルツ
   ベルクにある山荘 ベルクホーフ に居住し 、ヒトラーの身の回りの世話をしていた 。
   同居していた彼女の娘 ゲリ は叔父 ヒトラー から大変可愛がられていたが 、次第に
   それは束縛に変わっていった 。

   1931年9月 、ヒトラーとの口論の後 、ゲリは拳銃自殺を遂げた 。この直前 、ゲリは
   エヴァからヒトラーに宛てた手紙を読んで破いていたことを家政婦は証言している 。
   エヴァはゲリの存在を知らされていなかった 。

    ヒトラーはゲリの死にショックを受け憔悴するが 、結局は19歳のエヴァがゲリの
   代わりにヒトラーの傍で暮らすことになる 。エヴァの日記によるとその時期は1932
   年の春頃とされる 。しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり 、女優の
   レナーテ・ミュラー( ドイツ語版 )( 1907年 - 1937年 )への嫉妬はエヴァを苦し
   めた 。エヴァはヒトラーに対して深い愛情を抱いており 、あまり男性としての自信
   が無かったヒトラーに『 性的満足も得たいのなら 、他の男と付き合いなさい 』と
   忠告されても離れることは無かった 。

   1932年11月1日 、エヴァは自らの胸を拳銃で撃ち 、自殺を図った 。しかし 、弾は
   それて頸動脈付近にとどまり 、自殺は未遂に終わった 。ヒトラーはこの自殺未遂に
   ショックを受け 、以降は他の女性との交際を控えていった 。ヒトラーは『 自分は
   ドイツと結婚した 』と主張し続けていたため 、“ 妻 ”エヴァの存在は山荘の側近だけ
   が知るものであった 。

    ヒトラーは1933年の首相就任や1934年の総統就任などで多忙な日々を送るようにな
   り 、エヴァのもとを訪れる回数も減少した 。エヴァはヒトラーの愛情に疑問を抱き 、
   1935年5月28日 、睡眠薬の服用による2度目の自殺を図る 。エヴァが飲んだ睡眠薬
   は危険性が低いものであり 、命に別状はなかった 。この時 、エヴァの姉イルゼは
   自殺が狂言と見られることを恐れ 、エヴァの日記を破り取っている 。また 、9月に
   は父親のフリッツがヒトラーに『 娘を家族の元に帰してくれるように 』という趣旨
   の手紙を書いた 。この手紙はフリッツに託されたホフマンを通じてエヴァに渡り 、
   彼女は手紙を破り捨てた 。また 、母のフランツィスカも直接ヒトラーに同じ趣旨
   の手紙を書いたが 、この返事もなかった 。

   回復後 、ヒトラーはエヴァに対しミュンヘン郊外に邸宅 、メルセデス・ベンツの
   専用車 、運転手 、メイドを与えるが 、エヴァはすぐにベルクホーフ山荘に戻って
   しまう 。ヒトラーの首相就任後もヒトラーの異母姉アンゲラとナチス閣僚の妻たち
   はエヴァの存在を依然として認めようとしなかった 。しかし 、アンゲラは再婚を
   きっかけにエヴァの近くに住むことを禁じられ 、ドレスデンへ移住した 。

   ベルクホーフ山荘での生活
    ヒトラーは『 独身であることで婦人票が得られる 』と考えていたため 、第二次
   世界大戦が終わり 、自らが死ぬまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはな
   かった 。また 、オーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ 、
   外交や政治の舞台となったが 、エヴァの存在が表に出ることはなかった 。

   もっとも 、エヴァは政治にもヒトラーの思想にも無関心であり 、生涯ナチ党員に
   なることはなく 、興味があったのは流行のファッション 、音楽 、映画だった 。
   ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず 、友人や両親 、親類を招いて夕食を共
   にすることが多かった 。

    軍需相アルベルト・シュペーアの回顧録による と、2人はベルクホーフ山荘 、
   ベルリンの総統官邸や地下壕でも寝室は別々であり 、もし閣僚などが政治の話を
   するために部屋に入ってくると 、すぐさまエヴァは部屋を出て行った 。ヒトラー
   はエヴァに対して時に侮蔑した態度を取ることもあり 、彼女に喫煙や自分以外の
   男性とのダンスを禁じており 、エヴァはそうした束縛に不満を募らせ 、しばしば
   口論していた 。

    大戦中 、エヴァは恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費
   やすほか 、写真にも関心があり 、裸で日光浴をする写真など 、自らを被写体と
   した写真が多数残っている 。自分の暗室も持っており 、ヒトラーのスチール写真
   や映画を現像することもあった 。

    また 、1940年から総統護衛部隊の隊員としてヒトラーに仕えたローフス・ミシュ
   の回顧録によると 、カトリック教徒だったエヴァは 、ベルヒテスガーデンのカト
   リック教会に通うこともあったという 。

    1944年6月 、妹のグレーテルが親衛隊の将校ヘルマン・フェーゲラインと結婚す
   る折 、ヒトラーはエヴァが人前に出ることを許可する 。結婚パーティーはオー
   バーザルツベルクのもう一つの山荘ケールシュタインハウス( 通称 鷲の巣 )で
   行われた


    山荘での生活中 、ヒトラーは国家元帥ヘルマン・ゲーリングに対して 、『 エヴァ
   は私にとって生涯の女性だ 。戦争が終わったら引退してリンツの町へ行き 、彼女
   を妻にする
』と発言している 。

   ヒトラーとの結婚と心中
  『 総統地下壕 』、『 アドルフ・ヒトラーの死 』、および『 アドルフ・ヒトラーの
   遺書( 英語版 、ドイツ語版 )』も参照
    1945年3月 、エヴァはヒトラーの反対を押し切ってベルクホーフを後にしてミュン
   ヘンへ移り 、4月初旬 、既に戦火に曝され 、荒廃した首都ベルリンへ入るが 、4月
   中旬には総統地下壕へと避難せざるを得なくなる 。両親や姉妹が再三ベルリンを離
   れるよう説いても 、エヴァは最後までヒトラーと共にいることを選んだ 。

   ソ連内務人民委員部によるヒトラー側近の調書によれば 、エヴァは『 奇跡が起こら
   なければ 、死が最後の逃げ道になるでしょう 。そのときには法的な妻としてあの方と
   一緒に死ぬことを 、わたしは心から望んでいます 。』と発言したという 。

   総統誕生日の4月20日 、赤軍がベルリンに侵攻 。ヒトラーとエヴァは 4月29日未明
   に総統官邸地下壕内で簡素な手続きによって結婚した 。この結婚式ではヨーゼフ・
   ゲッベルス夫妻とマルティン・ボルマンが立会人をつとめた 。式にあたり 、エヴァ
   は青色のシルクドレスを着けていたとされる 。彼女は結婚証明書の署名欄に『 Eva
   B… 」と書きかけたが 、すぐに気がついて線を引いて訂正 、「 Eva Hitler 」と書き
   直した 。

   ヒトラー自身はエヴァを『 フロイライン・ブラウン( ブラウン嬢 )』と呼んでいた 。
   式の後 、地下壕の者たちが『 フロイライン 』と呼びかけたところ 、エヴァは誇らし
   げに『 もう 、フラウ・ヒトラー( ヒトラー夫人 )と呼んでくれていいのよ 』と言
   ったという 。

   翌30日午後3時30分頃 、エヴァは青酸カリのカプセルを嚥下して服毒自殺 、ヒトラー
   は銃弾の貫通痕から 、青酸カリのカプセルを噛んだ直後 、顎の下から拳銃で頭を撃ち
   抜いて死んだと推察されている 。2人の遺体は総統官邸の庭園で 、ガソリンをかけた
   上で焼却された 。

   遺体の行方
   赤軍が発見した男女の遺体は 、ヒトラーを診察した歯科医フーゴー・ブラシュケ( ド
   イツ語版 )の助手によって鑑定され 、ヒトラーとエヴァのものであると確認された 。

   その後 、ヒトラー夫妻の遺体はゲッベルスや妻のマクダ、ゲッベルスの子供たち 、
   クレープス参謀総長とブルクドルフ陸軍人事局長( ドイツ語版 )、ヒトラーの愛犬
   ブロンディの遺体とともにスメルシの指揮で頻繁に埋葬地を変更され 、最終的には
   1946年2月21日にマクデブルクのクラウスナー通り沿いのスメルシュ施設の前中庭
   の舗装区域の下の目印のない墓に埋葬された 。この場所は厳重に秘匿された 。

   しかし 、遺体の埋葬地は1970年にKGBのコントロール下 、東ドイツ政府に移譲さ
   れることになった 。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れたKGB
   議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた 。KGBの発掘
   チーム『 アルヒーフ 』は詳細な埋葬場所を指示され 、1970年4月4日 、秘かに10
   体の遺骸を掘り出して完全に焼却し 、灰をエルベ川の支流に散骨した 。

   エヴァの一族
   エヴァの父フリッツは戦争を生き延びた後 、病院で職に就き 、1964年に死去した 。
   母のフランツィスカはバイエルンの農村で生涯を過ごした後 、1976年に96歳で死去 。

   姉イルゼはナチズムに懐疑的だったため 、エヴァのいる山荘を訪れることは稀で 、
   妹の生活を非難することもあった 。1979年に71歳で死去した 。

   妹グレーテルは 、夫フェーゲラインの子を身ごもったが 、夫は敗戦が決定的になると
   別の女性を伴ってスウェーデンへの逃亡を企てたとして捕らえられ 、ヒトラーの命に
   よって銃殺された 。グレーテルは当時妊娠8ヶ月で 、姉の死の5日後に生まれた女児に
   姉の名を取り 、エヴァ・バーバラと名づけたが 、1975年に自殺し た。その後1954年
   に織物商のクルト・ベルリングホフ( Kurt Berlinghoff )と再婚、1987年に72歳で死去
   した 。 」





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同盟国のためにアメリカは死なない Long Good-bye 2022・04・29

2022-04-29 04:29:00 | Weblog



 今日の「 お気に入り 」 。

 「 アメリカは信用できるか 、とよく聞かれる 。イエスともノーとも答えようがない 。
  アメリカが自分を犠牲にしてまでも 、日本を助けると思いこむことこそ 、そもそも
  現実離れした話なのだ 。すべての国は自国の利益を優先させる 。とくに自分の国が
  生き残るかどうかという瀬戸際には 、自国のことを先に考えるのがとうぜんなのだ


   ハーバード大学大学院行政学科の修士課程にいたとき 、わたしは 、ヘンリー・A・
  キッシンジャー助教授 ( 当時 ) の国防セミナーに出ていた 。正規の修士学生は二十名
  だけだった 。ただし週一回三時間のセミナー当日には 、アメリカ国防総省 ( ペンタ
  ゴン ) から将官や文官が 、特別聴講生として三十名ほどくわわる 。
   このセミナーでは 、ときどき通称「 ウォー・ゲーム 」と呼ばれる戦況演習が行なわ
  れた 。ウォー・ゲームは 、仮定の状況を設けて 、政治・軍事面の政策決定者を大学
  院生から選び 、議論しあい 、事態がどう発展するかを研究するもので 、経済学の
  ケース・スタディにあたる 。

   あるとき 、日本が 、ウォー・ゲームの対象国に選ばれた 。状況は 、こうだ 。
   ソ連・中国・北朝鮮の連合兵力が極東でことを起こし 、朝鮮半島と日本列島に " 敵 "
  が上陸 、空挺 (くうてい ) 降下し 、アメリカ軍が危険になる 。核攻撃はなく 、核報
  復もない 。

   在日米軍司令官にされたアメリカ人学生 ( 現役の空軍大佐 ) は 、この架空演習でい
  ともあっさり言った 。

   『 半島と列島の重要軍事基地 、港湾 、交通 、産業施設を可能なかぎり使用不可能
  にし 、米軍は引きあげる 。撤退前に工作員を残し 、近い将来の反攻に備える 。な
  お必要ならば 、撤退後 、敵の占領地区に爆撃と艦砲射撃を継続的に実施する
。』

   日本政府の要人役を割り当てられていたわたしにコメントが求められた 。

   『 客観的な状況判断とアメリカ側の考えかたからすれば 、ただいまの発言に異議
  はない 。わたしも逆の立場なら 、そうする 。ただゲームを離れて主観的に申し上
  げると 、アメリカ軍撤退後の爆撃作戦は中止していただきたい


   ここでみな笑いだした 。かまわず 、わたしはつづけた 。

   『 それと 、万一 、わたしが 、ほんとうに要人になれば 、このゲームを思い出し
  て 、こういう事態を招かない防衛努力をするとともに 、アメリカへの客観的なク
  ールな見かたを忘れないようにする


   今度はだれも笑わなかった 。キッシンジャーの助手をしていたモートン・ハルぺ
  リンが 、とりなすように言った 。

   『 日本だけのことではない 。アジアの他の国でも 、ヨーロッパでも同じことだ

   余談になるが 、このハルぺリンは 、のちに国防省次官補代理をへて 、国家安全保
  障会議にはいり 、ウォーターゲート事件ではキッシンジャーを電話盗聴で告訴した 。
  わたしなどは 、この師弟の皮肉な運命のめぐり合わせに 、おどろいたものだ 。」

  ( 出典 : 桃井 真 ( まこと ) 著 「 戦略 ( グランド・デザイン ) なき国家は 、挫折する
       ー アメリカが見捨てる 、ソ連が牙 ( きば ) をむく 」 光文社 刊 )

   他国のためにどの国も死ぬ気はない という国際関係のつめたい現実 。







右へ行こうか 、左へ行こか 、いっそ生垣のりこえて 。
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老人支配国家 Long Good-bye 2022・04・27

2022-04-27 05:27:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の記事
  の中から ふたつ 。

  プーチン・ロシアによって再び 開けられた「 パンドラの箱 」。地政学などお構いなし 。
  まさかのちゃぶ台返しに 、右往左往する西欧文明社会 。
  エコノミック・アニマルのお株は 、疾うに中国に取られたし 、
  バナナマン 日本国 も旗色を鮮明にせずばなるまいて 。

  この世は 、造っては壊れ 、造っては壊し の繰り返し 、災害であれ 、戦災であれ 😢 。
  この世に 、老人支配のない国はない 。軍事パレードの雛壇 ( ひなだん ) 見ててそう思う 。  

  「 日本の核武装 」が政策の選択肢として 現実味をもって 語られる日が 生きてるうちに
  来ようとは思わなんだ 。

  プーチン・ロシアがやったことは 、岸田・日本がある日 、北方領土や竹島の奪回に
  乗り出すようなもの 、と考えれば わかりやすい 。東京にミサイルが飛んできても 、
  モスクワに黒い雨が降っても 、おかしくはないでしょ 。相手は軍隊持った独立国
  なんだから 、あの「 モスクワ 」を見舞ったミサイルが 、数百キロ先の「モスクワ 」
  に飛んできても不思議はない 。
  
   核兵器を持たず 、同盟国もいない 独立国 ウクライナ は 、竹槍で大国に立ち向かう
   フリーハンド を持っている ・・・ 窮鼠猫を噛む !?
  「 コサック 」なめんなよ !


   核攻撃がなくても 、核報復はありうる 。
  ミサイルが小型の核弾頭を積んでるかどうかはわからない 。
  本当に 、核兵器は「 抑止力 」として万能なんだろうか 。

   どの派の論者もめげません 、正解などないのですから 、皆々言いたい放題 、ダメとムダ 。
   繫栄するのは 軍需産業 。裾野は広く 、民需 と 軍需 に 境い目 など ありませぬ 。
   ウクライナ製の艦船が 、中国の空母になって化けて出るのですから 、奇々怪々 。
   どこの国も 一枚岩 ではありません 。

  八月や 六日九日 十五日
  しょうわの日 けんぽ記念日 みどりの日
  ヒトは みな 認知症 で 死ぬ 、例外はない 。
  プーチンだって 、バイデンだって 、あのトランプだって、 いずれ 死ぬ 。
  どこかの若い衆が 、〇〇は自害しろ 、なんて言ってたとか 、言ってなかった とか 。

   待てば 海路の 日よりかな 。→

  ( ” If you wait , there will be a sunny day on the sea route . " )

  待てば海路の日和あり → 待てば甘露の日和あり 。

  引用はじめ 。

  1.文春新書『老人支配国家日本の危機 』の著者エマニュエル・トッドさんの提言や意見

  ・「 日本への核武装提言

    2006年 、朝日新聞のインタビューにおいて 、『 核兵器は偏在こそが怖い 。
    広島 、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたからで 、米ソ冷戦期には
    使われなかった 。インドとパキスタンは双方が核を持った時に和平のテー
    ブルについた 。中東が不安定なのはイスラエルだけに核があるからで 、
    東アジアも中国だけでは安定しない 。日本も持てばいい 。』と述べ 、
    日本の核武装を提言した 。さらにトッドは 、ドゴール主義的な考えだと
    して 、『 核を持てば軍事同盟から解放され 、戦争に巻き込まれる恐れ
    はなくなる 』と指摘する 。ほか 、被爆国である日本が持つ核への国民
    感情については 、『 国民感情はわかるが 、世界の現実も直視すべき 』
    とした 。
    フランスの核武装については 、何度も侵略されてきたことが最大の理由
    とし 、『 地政学的に危うい立場を一気に解決するのが核だった 』と指
    摘した 。
    日本が核兵器を持った場合に派生する中国とアメリカと日本との三者関係
    については 、『 日本が紛争に巻き込まれないため 、また米国の攻撃性
    から逃れるために核を持つのなら 、中国の対応はいささか異なってくる 』
    との見通しを出したうえで 、『 核攻撃を受けた国が核を保有すれば 、
    核についての本格論議が始まり 、大きな転機となる 』と指摘した 。

     2010年 、日本経済新聞のインタビューでは 、日本と中国との不均衡な
    関係に対して 、ロシアとの関係強化を提言した 。

    ” 日本は非核国なのに対して中国は核保有国です 。経済でも日本は高い
     技術力を持つ先進国なのに比べて 、中国は輸出や生産の規模は大きい
     が技術力は低い 。日中両国は 、均衡が取れていません 。不均衡な関
     係は危険です 。実際 、中国は国内の不満をそらすために反日ナショナ
     リズムを利用しています 。中国をけん制するには 、地政学的に見て
     ロシアとの関係強化が有効なのです 。”

     その後も 、『 文藝春秋 』2022年5月特別号に寄稿した記事『 日本
    核武装のすすめ 』において 、『 アメリカの核の傘は幻想であり 、
    日本は核武装をするべきである 』という主旨の提言を行っている 。」

  ・ 「 日本と周辺諸国間における歴史認識問題について

    日本と周辺国における歴史認識問題については 、『 欧州でもユダヤ人
   虐殺の贖罪意識が大きすぎるため 、パレスチナ民族の窮状を放置しがち 』
   としてヨーロッパの状況をふまえたうえで 、『 日本は戦争への贖罪意識が
   強く 、技術・経済的にもリーダー国なのに世界に責任を果たせないでいる 。
   過去を引き合いに出しての " 道徳的 " 立場は 、真に道徳的とはいいがた
   い
。』として日本の態度を批判した 。」

 2.エマニュエル・トッドさんの略歴と論考

  「 エマニュエル・トッド ( Emmanuel Todd , 1951年5月16日 - ) は 、フランスの
   人口統計学者 、歴史学者 、人類学者 。学位はPh.D.( ケンブリッジ大学・1976年 )。
   研究分野は 歴史人口学 、家族人類学 。人口統計を用いる定量的研究及び
   家族類型に基づく斬新な分析に
よって広く知られている 。フランスの国立
   人口学研究所に所属していたが 、2017年に定年退職した 。2002年の『 帝国以後 』
   は世界的なベストセラーとなった 。経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を
   捉え 、ソ連の崩壊 、英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した 。

   来 歴
   エマニュエル・トッドは 、フランス人作家のポール・ニザン( 1905 - 1940 )の娘
   アンヌ=マリー( Anne-Marie 、1928-1985 )と 、ジャーナリストのオリヴィエ・
   トッド( Olivier Todd )の息子として 、1951年にサン=ジェルマン=アン=レーで
   生まれた 。父方の祖父はオーストリアとハンガリーにルーツを持つユダヤ人の建築家
   であったが 、彼はオリヴィエが生まれる前に妻子を捨てたことや 、両親が第二次世界
   大戦中にカトリックに改宗したことから 、ユダヤ人としての教育は受けていない 。
   1967年から1969年までフランス共産党員だった 。

   パンテオン・ソルボンヌ大学の学部生の頃 、単位を取る必要から歴史人口学を履修し 、
   ジャック・デュパキエ( フランス語版 )の授業を受けた 。
   パリ政治学院を卒業後 、父の友人であるエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリの勧めで
   ケンブリッジ大学に入学した 。1971年から1975年まで 、家族制度研究の第一人者で
   あるピーター・ラスレットの指導を受け 、1976年に同大学より Ph.D. の学位を取得 。
   学位論文は「 工業化以前の欧州における七つの農民共同体 。フランス 、イタリア
   及びスウェーデンの地方小教区の比較研究 ( Seven peasant communities in pre-industrial
   Europe . A comparative study of French , Italian and Swedish rural parishes ) 」である 。
   当時ラスレットは 、アングロ・サクソンが工業化以前から核家族であったことを発見
   しており 、核家族が世界に普遍的な家族構造であることを示そうとしていたが 、博士
   論文において家族構造の多様性を見出していたトッドはそれに反対し 、ラスレットの
   下を去った 。

   なお 、トッドは精神疾患を患っていたため 、徴兵検査で「 軍隊のような規律の厳しい
   集団生活には耐えられない 」と判定されて兵役を免除されており 、軍隊経験は有して
   いない 。

   研 究
   『 最後の転落 』
      1976 年、最初の著作である『 最後の転落 』 ( La Chute finale ) において 、
    10年から30年以内のソビエト連邦崩壊を人口統計学的な手法で予想し 、注目さ
    れた 。この本は7か国語に訳され 、25歳にして国際的に知られるようになった 。
    前年にベトナム戦争が北ベトナムの勝利で終結し 、ソビエトの威信が高まる中 、
    フランスでは 、ソビエトでは全体主義に順応した新しいソビエト的人間が生ま
    れ育っているので体制崩壊はない 、という主張があった 。これに対しトッドは 、
    ロシア人女性が識字率上昇の後に出産率が下がるという人類の普遍的傾向に従って
    近代化していることを示し 、ソビエト的人間説を否定した 。また通常は下がり
    続ける乳児死亡率が 、ソビエトでは 1970年から上がり始めたことを指摘し 、
    体制が最も弱い部分から崩れ始めたと主張した 。ソビエト連邦は実際に 1991年
    に崩壊し 、トッドは予言者と見なされることとなった 。
 
   『世界の多様性』
     トッドはその後 、1983年に『 第三惑星 』 ( La Troisième Planète ) 、
    1984年に『 世界の幼少期 』 ( L'Enfance du monde ) を著した 。後に
     この二作は『 世界の多様性 』 ( La Diversité du monde ) として一冊に
    まとめられた 。トッドはこの中で世界の家族制度を分類し 、大胆にかつて
    の家族型と社会の関係を示した 。ピエール・ショーニュ( フランス語版 )、
    エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ、アンリ・マンドラーズ( フランス語版 )、
    ジャン=フランソワ・ルヴェルらフランスの歴史学者 、社会学者に支持され 、
    非常に活発な議論を引き起こした 。
 
    トッドが示した家族型は以下のとおりである 。

    絶対核家族 ( la famille nucléaire absolue )

    子供は成人すると独立する 。親子は独立的であり 、兄弟の平等に無関心で
    ある 。遺産は遺言に従って分配される 。イングランド 、マン島 、オラン
    ダ 、デンマーク 、ノルウェー南部 、イングランド系のアメリカ合衆国 、
    カナダ ( ケベック州を除く ) 、オーストラリア 、ニュージーランド

    見られる 。基本的価値は自由である 。世界の他の地域に比べ 、女性の
    地位は高い 。これは 、核家族が本質的に夫婦を中心にするため 、夫と
    妻が対等になるからである 。一方 、基本的価値が自由であることから 、
    子供の教育には熱心ではない 。個人主義 、自由経済を好む 。移動性が
    高い 。

    平等主義核家族 ( la famille nucléaire égalitaire )

    子供は成人すると独立する 。親子は独立的であり 、兄弟は平等である 。
    遺産は兄弟で均等に分配される 。パリを中心とするフランス北部 、スペ
    イン中南部 、ポルトガル北東部 、ギリシャ 、イタリア南部 、ポーランド 、
    ルーマニア 、ラテンアメリカ 、エチオピア
に見られる 。基本的価値は
    自由と平等である 。女性の地位は 、娘が遺産分割に加わる社会( フランス
    北部 )では高いが 、そうでない地域ではやや低い 。絶対核家族と同様 、
    個人主義であり 、子供の教育には熱心ではない 。核家族を絶対核家族と
    平等主義核家族に分け 、平等への態度が全く異なることを示したのは
    トッドが最初である 。

    直系家族 ( la famille souche )

    子供のうち一人( 一般に長男 )は親元に残る 。親は子に対し権威的で
    あり 、兄弟は不平等である
。ドイツ 、スウェーデン 、オーストリア 、
    スイス 、ルクセンブルク 、ベルギー 、フランス南部 ( 地中海沿岸を
    除く ) 、スコットランド 、ウェールズ南部 、アイルランド 、ノルウェ
    ー北西部 、スペイン北部( バスク )、ポルトガル北西部 、日本 、朝鮮
    半島 、台湾 、ユダヤ人社会
、ロマ 、カナダのケベック州に見られる 。
    イタリア北部にも弱く分布し 、また華南に痕跡的影響がある 。多くは
    いとこ婚を禁じるが 、日本とユダヤではいとこ婚が許され 、ロマにおい
    ては優先される
基本的価値は権威と不平等である 。子供の教育に熱心
    である 。女性の地位は比較的高い 。秩序と安定を好み 、政権交代が少な
    い 。自民族中心主義が見られる


      ( 筆者註 : 文中の『 ロマ 』について 、『 ロマ( Roma 、単数はロム )は 、
            ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に
            由来し 中東欧に居住する移動型民族である 。移動生活者 、放浪
            者とみなされることが多いが 、現代では定住生活をする者も多い 。
            ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオ
            タイプは18世紀後半に作られたものであり 、ロマでない集団
            との関係は不明である 。 』と( ^ω^)・・・ 。 )


    外婚制共同体家族 ( la famille communautaire exogame )

    息子はすべて親元に残り、大家族を作る 。親は子に対し権威的であり 、
    兄弟は平等である 。いとこ婚は禁止されるか少ない 。ロシア 、フィン
    ランド 、旧ユーゴスラビア 、ブルガリア 、ハンガリー 、モンゴル 、
    中国 、インド北部 、ベトナム 、キューバ 、フランスのリムーザン地
    域圏およびラングドック=ルシヨン地域圏とコートダジュール 、イタリア
    中部( トスカーナ州やラツィオ州など )
に見られる 。基本的価値は権威
    と平等である 。これから 、共産主義との親和性が高い 。トッドがそも
    そも家族型と社会体制の関係に思い至ったのは 、外婚制共同体家族と共産
    主義勢力の分布がほぼ一致する
事実からである 。子供の教育には熱心では
    ない 。女性の地位は一般に低いが 、ロシアは共同体家族の歴史が浅く例外
    的に高い 。

    内婚制共同体家族 ( la famille communautaire endogame )

    息子はすべて親元に残り 、大家族を作る 。親の権威は形式的であり 、兄弟
    は平等である 。父方平行いとこ( 兄と弟の子供同士 )の結婚が優先される 。
    権威よりも慣習が優先する 。トルコなどの西アジア 、中央アジア 、北アフ
    リカ 、フランス領コルシカ島に見られる 。イスラム教との親和性が高い 。
    子供の教育には熱心ではない 。女性の地位は低い 。

    非対称共同体家族 ( la famille communautaire asymétrique )

    母系のいとこの結婚が優先される 。親は子に対し権威的であり 、兄弟姉妹は
    兄と妹 、または姉と弟は連帯するが 同性では連帯しない 。インド南部に見ら
    れる 。子供の教育に熱心である 。女性の地位は高い 。カースト制度において
    自らを下位に位置づける 。

    アノミー的家族 ( la famille anomique )

    基本的に核家族に近いが 、はっきりした家族の規則は見出しにくい 。東南
    アジア ( ベトナムを除く ) 、太平洋 、マダガスカル 、アメリカ先住民に
    見られる 。社会の結束が弱い 。宗教に寛容であり 、上座部仏教を中心と
    してイスラム教やカトリックも存在する 。

    アフリカ・システム ( le système des familiaux africains )

    一夫多妻が普通に見られる 。この一夫多妻は母子家庭の集まりに近く 、父親
    の下に統合されるものではない 。女性の地位は不定だが 、必ずしも低くはな
    い 。離婚率が高い 。それ以外は多様であり 、民族により共同体家族的でも
    直系家族的でもあり得る 。北アフリカとエチオピアを除くアフリカに見られ
    る 。

   トッドはこれら家族制度こそが 、社会の価値観を生み出すのだと主張した 。
   これを先験的( アプリオリ )と表現する 。すなわちこれらの価値観は 、
   特定の家族制度のもとに生まれることで自動的に身につけるからである 。

   例えば、多民族からなる帝国を築くには平等を基本的価値として持っていな
   ければならないとする 。ローマ帝国 、イスラム帝国 、唐帝国は 、それぞ
   れ平等主義核家族 、内婚制共同体家族 、外婚制共同体家族の帝国であり 、
   先験的な平等意識に支えられている 。一方 、直系家族であるドイツ 、日本 、
   かつてのアテネは 、どれも自民族中心主義から脱することができず 、帝国を
   築くのに失敗している 。イングランドは大帝国を築いたが 、間接統治であり 、
   他の民族を自国に統合するものではなかった 。

   トッドの理論は様々な疑問を説明する 。例えば 、なぜ共産主義体制はマルクス
   が予想したような資本主義先進国ではなくロシアや中国で実現したのか 、なぜ
   遠く離れたドイツと日本の社会制度が似ているのか 、なぜアメリカ人は自由と
   独立を重視するのか 、などである 。説明があまりに明快で決定的だったため 、
   マルクス主義が失墜しつつある当時にあって 、新たな決定論であるとして激し
   い攻撃を受けることとなった 。トッドはこれを 、倫理的な判断によって事実を
   否定するものであるとし 、事実を事実として認める者だけが事実を乗り越えら
   れる
と述べている 。

   またマルクスに代表される 、経済を下部構造とするモデルは説明能力が無いとし 、
   家族構造から識字率と経済を説明するべきである
とした 。これより 、直系家族で
   ある日本がヨーロッパに追い付くが追い越しはしないこと 、東南アジアおよび
   南インドが近いうちに中南米を追い越すこと 、女性の地位が低い西アジア・中央
   アジアと北インドが世界で最も遅れた地域となり 、いずれギニア湾岸諸国に抜か
   れること 、などを予想した


   共同体家族システムの起源

   トッドは当初 、家族型の分布は偶然であり 、何ら環境的要因はないとしていた 。
   すなわち 、ドイツと日本が似ているのは同じ直系家族だからだが 、両民族が直系
   家族なのは偶然の一致だと見ていた 。しかし後に 、言語学者のローラン・サガー
   ルの指摘により 、家族型の分布が 、中心から革新が伝播して周辺に古形が残ると
   いう周圏分布をなすことを示した 。これは言語地理学の重要な原則であり 、日本
   では柳田国男の「 カタツムリ校 」でよく知られている
。ユーラシア内陸に外婚制及び
   内婚制の父系共同体家族があり 、その外側のドイツや日本に直系家族があり 、
   さらにその外側のイングランド 、フランス 、東南アジアに核家族が存在する 。
   これは 、父系共同体家族が最も新しく 、次に直系家族が新しく 、核家族が最も
   古い残存形態である
ことを表している 。

     ( 筆者註 : 文中の 、柳田国男の『 カタツムリ校 』 、正しくは『 蝸牛考 』。 )

   トッドとサガールによれば 、ユーラシア中心部で生まれた父系共同体家族は 、
   兄弟の連帯に基づく巨大な集団を作る点で軍事的に優位であり 、征服を通して
   広まり 、集団主義と女性の低い地位をもたらした 。かつてバッハオーフェンが
   主張した母権制から父権制への移行は歴史的事実ではないが 、父系社会のほうが
   新しいという直感は正しかったのである 。アングロサクソンの自由主義や女性の
   高い地位が 、近代性ではなく辺境の古さに由来するという結論
には驚くべきもの
   がある 。

   トッドらは 、いつ父系共同体家族に変わったかをいくつかの地域について示して
   いる 。中国が共同体家族になったのは秦による中国統一からである 。秦の軍事
   的優位の一因として共同体家族制を挙げる 。東方六国は儒教に明示される直系
   家族であった 。これに対し 、共同体家族の価値観を反映するのは法家思想で
   ある 。秦以降の儒教は共同体家族の価値観によって変化し 、兄弟の序列を重視
   しなくなった 。

   エジプトでは 、ローマ帝国時代においてもまだ父系的でなく 、イスラム帝国に
   よるアラブ化により共同体家族となった 。」

   引用おわり 。

   団塊世代の天下 は 、続く 。

   本 買わなくても 、ウィキ で十分なようではある 。



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HEMINGWAY 孤独 Long Good-bye 2022・04・24

2022-04-24 06:55:00 | Weblog
  



   今日の「 お気に入り 」は、ウクライナ侵略戦争が始まった頃に 、衛星放送で視聴した
  アメリカ映画「 誰が為に鐘は鳴る 」 。
   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の記事二つ 。

   引用はじめ 。

  1.1943年の映画

   「『誰が為に鐘は鳴る』(たがためにかねはなる 、原題 : For Whom the Bell Tolls )は、
    1943年のアメリカ合衆国の戦争映画 。監督はサム・ウッド 、出演はゲイリー・クーパー
    とイングリッド・バーグマンなど 。アーネスト・ヘミングウェイの小説『 誰がために
    鐘は鳴る 』の映画化作品 。映画の邦題では『 為 』という漢字が使用されている
    ( 正規版 DVD も同様 )。

    ストーリー
    スペイン内戦に義勇軍として参加したロベルトは 、ゴルス将軍の指令を受けて山間部に
    あるフランシスコ・フランコ軍の橋を爆破するため 、ジプシーのアンセルモと共に山間
    部を根城にする山賊パブロに協力を求める 。しかし 、かつて人民戦線派の戦士だった
    パブロは戦いに興味をなくし 、協力を拒む 。パブロの卑屈な態度に愛想を尽かした妻
    ピラーは 、夫に代わりジプシーたちをまとめて作戦に参加し 、ロベルトは彼らに匿わ
    れていた市長の娘マリアと心を通わすようになる 。橋の爆破には脱出用の馬が必要だ
    ったが 、パブロは馬の提供を拒み 、吹雪の夜に馬を連れて姿を消してしまう 。ピラー
    たちは『 彼を殺すべきだった 』と後悔するが 、ロベルトはジプシーのリーダーである
    エルソルドに協力を求める 。エルソルドは仲間と共にフランコ軍から馬を強奪すること
    を計画し 、同時に改心したパブロがアジトに戻り 、協力を申し出る 。エルソルドたち
    は馬を強奪することに成功するが 、吹雪が止んでしまったためフランコ軍に追撃されて
    しまう 。ロベルトたちは雪山を偵察中に追撃中のフランコ軍に出くわしそうになるが 、
    エルソルドたちが注意を引き付けたため気付かれずに済む 。ジプシーたちは包囲された
    エルソルドたちを助けようとするが 、ロベルトは作戦を優先して救助を拒否し 、エル
    ソルドたちはフランコ軍の爆撃を受け全員戦死する 。( ← 援助に反対したのはピラー 、
    エルソルドがロベルトの作戦を支援するために意図的にフランコ軍を誘導していると
    判断したため ) 。同じ頃 、別行動を取っていたパブロは恐怖に駆られてアジトに戻り 、
    ロベルトが用意していた爆弾の起爆装置を破壊してしまう 。ロベルトは作戦の中止を
    決め 、ゴルツ将軍に作戦の中止を伝える文書を送るが 、文書が到着するのが遅れて
    しまい 、既に部隊は出撃していた 。ピラーたちは作戦の続行を主張し 、そこにパブロ
    が戻り『 今度こそ作戦に協力する 』と申し出る 。ロベルトは説得を受け 、手動で爆弾
    を起動させる作戦を立案し 、予定通り作戦を決行する 。( ← 作戦を中止したのは作戦
    情報が漏れたと判断したため 。ロベルトの指示 、それでも作戦を実行したのは 、ゴル
    ツ将軍のの部隊の出撃を確認したため ) 。

    ロベルトたちは橋に爆弾を仕掛けるため橋の警備隊と銃撃戦を展開しながら爆弾を設置
    するが 、人民戦線派を破ったフランコ軍の戦車部隊が接近し 、仲間たちが次々と死ん
    でいく 。ロベルトは手筈通り橋を爆破し 、マリアやピラー 、パブロたちと共に脱出を
    試みる 。しかし 、フランコ軍の砲撃でロベルトが負傷し 、馬に乗ることが出来なく
    なってしまう 。ロベルトは一人残ってフランコ軍を迎え撃つことに決め 、その場に留
    まろうとするマリアと別れを告げ 、彼女をピラーたちに任せて戦場に留まる 。ロベル
    トは迫り来るフランコ軍の大軍を前に 、機関銃の引き金を引く 。


    監督 サム・ウッド
    脚本 ダドリー・ニコルズ
    原作 アーネスト・ヘミングウェイ 『誰がために鐘は鳴る』
    製作 サム・ウッド
    製作総指揮 B・G・デシルヴァ
    出演者 ゲイリー・クーパー イングリッド・バーグマン
         エイキム・タミロフ カティーナ・パクシヌー
    音楽 ヴィクター・ヤング
    撮影 レイ・レナハン(英語版)
    編集 シャーマン・トッド(英語版) ジョン・F・リンク(英語版)
    配給 パラマウント映画
    公開 アメリカ合衆国  1943年7月14日  日本  1952年10月16日
    上映時間 170分(オリジナル)
         134分(米国再公開時)
         130分(米国外)
         157分(特別復元版)
    製作国 アメリカ合衆国
    言語   英語 スペイン語
    製作費 $3,000,000( 見積値 )
    配給収入 1億425万円 日本

  2.原作者・ノーベル文学賞受賞者・ヘミングウェイ

   「 アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ( Ernest Miller Hemingway
    1899年7月21日 - 1961年7月2日 )は 、アメリカ合衆国出身の小説家・詩人 。
    ヘミングウェイによって創作された独特で 、シンプルな文体は 、冒険的な生活
    や一般的なイメージとともに 、20世紀の文学界と人々のライフスタイルに多大
    な影響を与えた 。
    ヘミングウェイは 、ほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期に書き
    上げて 、1954年にノーベル文学賞を受賞するに至った 。
    彼は 、6つの短編集を含めて7冊の小説と2冊のノンフィクションを出版した 。
    死後 、3冊の小説 、4つの短編集 、3冊のノンフィクションが発表された 。
    これらは 、アメリカ文学の古典として考えられている 。

    生 涯
    イリノイ州オークパーク( 現在のシカゴ )に生まれる 。
    父は医師 、母は元声楽家で 、ヘミングウェイには1人の姉と4人の妹がいた 。
    彼は幼い時 、母の変わった性癖によって強制的に女装をさせられており 、
    彼はそのような母の性癖を子供心に疎んじていたという 。一方 、父は活動的な
    人物で 、ヘミングウェイは父から釣りや狩猟 、ボクシングなどの手ほどきを
    受け 、生涯の人格を形成していった 。父は後に自殺している 。

    高校卒業後の1917年 、カンザスシティの地方紙「 カンザスシティ・スター
    ( 英語版 )」( 英 : The Kansas City Star )紙の見習い記者となるも退職 。
    翌年 、赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ
    戦線に赴くが 、その戦線で負傷兵を助けようとして自らも瀕死の重傷を負う 。
    この時に病院で出会った7歳年上の看護婦に恋をしたが 、この恋は実らずに
    終わった 。

    戦後はカナダ・トロントにて「 トロント・スター 」( 英 : Toronto Star )紙
    のフリー記者をつとめ 、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの
    知遇を得て小説を書き始めた 。

    行動派の作家で 、1930年代には人民戦線政府側としてスペイン内戦にも積極的に
    関わり 、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした 。
    『 誰がために鐘は鳴る 』『 武器よさらば 』などはそうした経験の賜物であり 、
    当時のハリウッドに映画化の素材を提供した 。

    短編には簡潔文体の作品が多く 、これらはダシール・ハメット 、レイモンド・
    チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている 。

    1954年 、『 老人と海 』が大きく評価され 、ノーベル文学賞を受賞 。同年 、
    二度の航空機事故に遭う 。二度とも奇跡的に生還したが 、重傷を負い授賞式
    には出られなかった 。以降 、これまでの売りであった肉体的な頑強さや 、
    行動的な面を取り戻すことはなかった 。

    晩年は 、事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされるようになり 、
    執筆活動も次第に滞りがちになっていった 。1961年7月2日の早朝 、散弾銃
    による自殺を遂げた( 当初は銃の手入れの際に起きた暴発による事故死と
    報じられたが 、後に遺書が発見されたため 、自殺と断定された )。」

    引用おわり 。

    
    長い 、長いテーブルの両端に座る大統領と大統領 。
    長い 、長いテーブルの片隅に不安げに座る軍幹部と遠く離れて対座する大統領 。
    短い 、短いテーブルをはさんで対座する外務大臣と大統領 。
    とてもシュールで 、メタフォリカルな風景 、演出 。

    He can do whatever he wants.
    
    大統領の孤独






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オリエント急行 ORIENT EXPRESS Long Good-bye 2022・04・22

2022-04-22 04:40:00 | Weblog




    先日 、衛星放送 NHK BSP で1974年制作のイギリス・アメリカ合衆国の映画 " Murder
  on the Orient Express "
(「 オリエント急行殺人事件 」)を視聴しました 。
    今日の「 お気に入り 」は 、映画に出てくる 230G 353号蒸気機関車・客車 、そして
   除雪のために駆けつける「 ラッセル車 」 ・・・ そして イングリッド・バーグマン
    そう言えば 日本に「 国鉄 」があった頃 、冬の北国では毎年ラッセル車が出動していまし
   たね 。
    昔々のそのまた昔 、特急「 つばめ 」が大阪・東京間をたしか8時間50分で飛ぶように
   走っていた時代 。米原 - 熱海間が電化されておらず 、その間はC62がけん引 。
    その1950年の夏休み 、大阪・東京間 、小学生の兄弟二人だけで 、往復乗車しました 。
    記憶の走馬灯 。

    ( 筆者註 :「 ひらがな表記(正式名)による 特急『 つばめ 』 は 、東海道本線を代表する特急列車
          として 、1950年1月1日に登場し EF58電気機関車とC62蒸気機関車が牽引した 」、
          「 戦後初の国鉄特急、特急へいわ号が1949年9月から東京駅~大阪駅間で運転を開始し、
          愛称公募により改称してつばめ号となった 」とか 。幼い頃 、特急つばめ の運転手さん
          から 「 線路の上を線路に触れずに浮かんで走るよう 」と運転の感想を聞いた記憶があり
          ます 。
          ついでながら 、ロータリー車( JNR Class DD14 diesel snowplough locomotive
           DD14 1 )なんてのもありましたね 、・・・ 今もあるんかな 。)


   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」に載っている記事を適宜引用します 。
   
   引用はじめ 。

  「『 オリエント急行殺人事件 』(オリエントきゅうこうさつじんじけん Murder on the Orient
   Express
)は 、1974年のイギリス・アメリカ合衆国のミステリ映画 。監督はシドニー・ルメ
   ット 、主演はアルバート・フィニー 。アガサ・クリスティの『 オリエント急行の殺人 』を
   映画化した作品で 、豪華なキャストが話題になった 。

   映画は1974年11月24日に北米で公開されヒットを記録 、アメリカ国内でおよそ3500万ドル 
   の興行収入を挙げた 。同年度の第47回アカデミー賞では 、主演男優賞 、助演女優賞 、脚色
   賞 、撮影賞 、作曲賞 、衣装デザイン賞の6部門でノミネートされた 。
   そのうちイングリッド・バーグマンが助演女優賞を受賞した 。

   ストーリー
   イスタンブールで事件を解決した私立探偵エルキュール・ポアロは 、新しい事件のためオリ
   エント急行で急遽ロンドンに向かうことになった 。ところが列車はそのシーズンにしては
   珍しく混んでおり 、一等寝台車は満室であった 。ポアロはホテルで友人のビアンキに再会
   する 。オリエント急行を所有する国際寝台車会社の重役である彼の計らいにより 、ポアロ
   はなんとかオリエント急行に乗り込むことに成功する 。イスタンブールを出て2日目の夜 、
   雪のために列車はバルカン半島内のある場所で停車してしまう 。そしてその翌朝 、一等車
   に宿泊していた裕福なアメリカ人の乗客ラチェット・ロバーツが死体で発見される 。ポア
   ロは彼から命を狙われていると相談を受けたが 、嫌悪感から断っていたのである 。

   ポアロとビアンキは 、二等車への乗車にて捜査対象外とされたギリシャ人医師コンスタン
   ティン 、フランス人車掌ピエール・ミシェルと共に捜査に乗り出す 。コンスタンティン
   医師の検死により 、ラチェットは合計で12回刺されており 、そのうち少なくとも3回
   が致命傷になるほど深かったことが分かった 。被害者のポケットにあった止まった時計 、
   そして容疑者たちの当夜の行動によるポアロの推理により 、ラチェットは深夜1時半頃
   に殺されたと判断された 。死亡推定時刻は雪によって列車が停車した時間よりも前であり 、
   積雪に犯人が逃亡した跡がなかったこと 、一等車から他の車両への通路に鍵が掛けられて
   いたことから 、犯人は『 一等車の乗客の中にいる可能性が極めて高い 』と思われた 。

   以上の手掛かりを元に 、ポアロは一等車の乗客の尋問を開始する 。そしてポアロは『 ラ
   チェットの隠された過去 』を暴き出す 。実はラチェットは 、カッセッティと呼ばれるマ
   フィアのボスだったのだ 。数年前 、カッセッティとその部下は 、アメリカに移住した裕
   福なイギリス人のアームストロング大佐の赤ん坊デイジーを誘拐した 。その赤ん坊は身
   代金が支払われた後に死体で発見され 、次の子供を妊娠していたアームストロング夫人
   は死産の末に命を落とし 、犯人の一味と誤解されたメイドのポーレットは自殺し 、そし
   て一連の悲劇に疲弊したアームストロング大佐も自ら命を絶ってしまった 。その後 、カ
   ッセッティの共犯者は逮捕されたが 、カッセッティ本人は国外逃亡して罪を免れていた 。

   ラチェットは 、正義の名の下に殺されてもやむをえないような人物だった 。かといって 、
   このまま殺人犯を見逃すわけにもいかない 。果たして殺人を遂行したのは一体誰なのか ?
   国際色豊かな乗客たちには相互に何のつながりもないと思われたが 、彼らには他の乗客を
   証人とする完璧なアリバイがあった 。ポアロの灰色の脳細胞が導き出した事件の真相は 、
   予想もつかないものだった 。」

  「 監督  シドニー・ルメット  脚本 ポール・デーン(英語版)
    原作  アガサ・クリスティ 『 オリエント急行の殺人 』
   製作   ジョン・ブラボーン(英語版) リチャード・グッドウィン
   出演者  アルバート・フィニー
   音楽   リチャード・ロドニー・ベネット  撮影 ジェフリー・アンスワース
   編集   アン・V・コーテス
   製作会社 G.W. Films
   配給    EMIフィルムズ(英語版)・パラマウント映画・ CIC/Par
   公開   イギリス  1974年11月21日 アメリカ合衆国  1974年11月24日
        日本  1975年5月17日
   上映時間 128分
   製作国  イギリス・アメリカ合衆国
   言語   英語
   興行収入 アメリカ合衆国・カナダ $27,634,716 」

  「 原作と本映画
   原作者
   原作者であるアガサ・クリスティは 、それまで自作を映画化したものが全て不満足な出来で
   あったため 、自作の映画化を非常に嫌っていた 。しかし本作で製作プロデューサーを務めた 、
   イギリス女王の従兄弟でもあるジョン・ブラボーン(英語版)卿の説得により 、映画化が可
   能となった 。また 、本作の成功でブラボーンはクリスティからの信頼を勝ち取り 、以降クリ
   スティ作品の映画化を数多く手がけることとなる 。

   相違点
   原作とは若干登場人物の名前が異なる 。例えば鉄道会社の重役ブークがビアンキに 、被害者
   の召使マスターマンがベドウズに変更されている 。また原作では事件発生前 、ポワロはシリ
   アで現地フランス陸軍の事件を解決するが 、本作ではイギリス軍の事件を解決している 。

   ポワロの事件解決後 、乗客たちはワインで乾杯を行う 。DVD特典映像の監督インタビューに
   よれば 、本作はオールスターキャストであるので 、カーテンコールの意味合いで設けたシー
   ンであるという 。

   ( 中 略 )

   ポアロ役
   探偵ポアロを演じたアルバート・フィニーは観客が素顔を忘れてしまうほどの凝った役作りで
   好評だったが 、彼のポアロ役はこの一作きりで 、以後 、アガサ・クリスティ原作の映画化は
   全てピーター・ユスティノフがポアロを演じている 。原作の設定などに比べて非常に若いポア
   ロであった( 当時38歳 、初登場時のユスティノフやリメイク版のケネス・ブラナーはいずれも
   57歳 )。 」 

   引用おわり 。

   ついでながら 、原作小説のおおよそのストーリーは 、・・・ 。

   「 シリアでの仕事を終えたポアロは 、イスタンブール発カレー行きのオリエント急行に乗り 、
    イギリスへの帰途に就く 。一等車両にはポアロの他 、様々な職業・国籍の乗客が乗り合わせ 、
    季節外れの満席となっていた 。

    その中の1人 、アメリカの富豪サミュエル・ラチェットがポアロを見知り 、話しかけてきた 。
    彼は脅迫状を受け取っており 、身の危険を感じてポアロに護衛を依頼したのだった 。しかし 、
    ポアロはラチェットの態度に良い印象を持たず 、事件そのものにも興味を示さなかったため 、
    彼の依頼を断ってしまう 。

    列車はヴィンコヴツィとブロドの間で雪の吹き溜まりにはまり 、立ち往生する 。翌朝ラチェ
    ットの死体が彼の寝室で発見される 。死体には刃物による12箇所の刺し傷があった 。現場
    には燃えさしの手紙があり 、『 小さいデイジー・アームストロングのことを忘れ 』という
    文章が読みとれた 。

    調査の結果 、ラチェットは富豪アームストロング家の令嬢であるデイジーの誘拐殺害犯で
    あることが判明する 。その事件では第1容疑者であるデイジーの子守り役の少女が投身自
    殺 、身重のアームストロング夫人も事件のショックで早産して母子ともに死に 、夫のアー
    ムストロング大佐は夫人の後を追って自殺していた 。

    事件の顛末を知っていたポアロはラチェットの正体に気づき 、捜査を始める 。ポアロは友
    人で国際寝台車会社( ワゴン・リ )重役であるブークと 、乗り合わせた医師コンスタンテ
    ィンと共に事情聴取を行う 。犯人は雪で立ち往生している列車から逃げられないはずだが 、
    乗客たちのアリバイは互いに補完されており 、誰も容疑者に該当しない 。

    困惑しながらもポアロは真相を導き出し 、乗客たちに二つの解答を提示する 。一つは 、何
    らかの理由でラチェットと対立していたギャング等の人物が途中の駅で列車に乗り込んでラ
    チェットを殺し 、すでに列車から降りたというもの 。列車がすでに違う標準時に入っている
    ことをラチェットや乗客たちが忘れていたとすれば 、乗客たちの証言との辻褄は合う 。

    しかし 、それはあり得ないと反論するコンスタンティンたちに対し 、ポアロはもう一つの
    解答を話し始める 。 」

    映画と原作それぞれの 、ネタバレにならない 「 あらすじ 」を足して二で割ると話の筋が
   よくわかる プロのお仕事 。

    もう一つおまけ 、原作者のフルネーム 、アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ
   ( Dame Agatha Mary Clarissa Christie 、DBE 、旧姓:ミラー ( Miller ) 、
    1890年9月15日 - 1976年1月12日 )。





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MEN WITHOUT WOMEN Long Good-bye 2022・04・17

2022-04-17 05:25:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、村上春樹著「女のいない男たち」についての 「 ウィキペディア 」
  掲載記事 。日本語版 、英語版 それぞれ適宜抜粋して引用します 。
   
  まず「 日本語版 」から 、引用はじめ 。

   「 『 女のいない男たち 』( おんなのいないおとこたち )は 、村上春樹の短編小説集 。

    概 要
    2014年4月18日 、文藝春秋より発売された( 奥付の発行日は4月20日 )。表紙と裏
    表紙の絵 、扉絵は信濃八太郎 。装丁は大久保明子 。

    2016年10月7日 、文春文庫として文庫化される 。同日 、電子書籍版が配信開始 。

    本書には長めの『 まえがき 』が寄せられている 。『 中国行きのスロウ・ボート 』
    のまえがき( ただし文字数としては200字に満たない )と『 カンガルー日和 』単
    行本のあとがきと『 ノルウェイの森 』単行本のあとがきを除けば 、著者の長編小
    説 、オリジナル短編集としては異例のことである 。「 余計なことかもしれないが 、
    いくつかの事実を『業務報告』的に記させていただきたいと思う 」と村上は述べて
    いる 。『 ドライブ・マイ・カー 』と『 イエスタデイ 』の内容が単行本収録にあた
    って変更された事情についても述べられている 。

    『 ドライブ・マイ・カー 』は 、雑誌発表直後の2013年12月 、梁億寬( ヤン・オク
    グァン )により韓国語に翻訳された 。掲載誌は季刊誌『 世界の文学 』( 民音社 )。
    各国における単行本の翻訳は下記を参照のこと 。

    翻 訳
    海外の翻訳版は『 恋するザムザ 』も収録している 。

    翻訳言語  タイトル      翻訳者         発行日   発行元
    英語    Men Without Women フィリップ・ガブリエル
                    テッド・グーセン   2017年5月9日 Harville Secker (英)
                                      Knopf (米)
    フランス語 Des hommes sans femmes Hélène Morita 2017年3月2日 Belfond
    ドイツ語  Von Männern, die keine Frauen haben 
                       Ursula Gräfe 2014年10月4日 
                                     DuMont Buchverlag
    スペイン語 Hombres sin mujeres Gabriel Álvarez Martínez 
                              2015年3月3日 Tusquets Editores
    カタルーニャ語 Homes sense dones Albert Nolla Cabellos
                    Jordi Mas López  2015年3月4日 Editorial Empúries
    ポルトガル語 Homens sem mulheres Eunice Suenaga  
                             2015年10月1日 Alfaguara(ブラジル)
    イタリア語 Uomini senza donne Antonietta Pastore   2015年    Einaudi
    オランダ語 Mannen zonder vrouw ヤコバス・ウェスタホーヴェン
                                2016年3月1日 Atlas-Contact
    デンマーク語 Mænd uden kvinder  Mette Holm      2015年    Klim
    スウェーデン語 Män utan kvinnor  Eiko Duke , デューク雪子 2015年4月29日 Norstedts
    フィンランド語 Miehiä ilman naisia Juha Mylläri    2016年8月29日  Tammi
    ポーランド語 Mężczyźni bez kobiet Anna Zielińska-Elliott 2015年10月21日 Muza
    チェコ語 Muži, kteří nemají ženy Klára Macúchová    2015年 Odeon
    ルーマニア語 Barbati fara femei Iuliana Oprina, Florin Oprina 2014年   Polirom
    リトアニア語 Vyrai be moterų  Gabija Čepulionytė  2015年10月30日  Baltos lankos
    トルコ語 Kadınsız Erkekler Ali Volkan Erdemir    2016年7月1日   Doğan Kitapçılık
    中国語 (繁体字) 沒有女人的男人們 頼明珠       2014年10月27日  時報文化
    中国語 (簡体字) 没有女人的男人們 林少華、毛丹青、竺家栄ほか 2015年2月 上海訳文出版社
    韓国語 여자 없는 남자들     梁潤玉(ヤン・ユンオク) 
                              2014年8月28日 ムンハクトンネ 」

  ( 次は「 英語版 」 。)

  「 " Men Without Women ( Japanese : 女のいない男たち , Hepburn : Onna no inai otokotachi ) is
   a 2014 collection of short stories by Japanese author Haruki Murakami , translated and
   published in English in 2017 . The stories are about men who have lost women in their lives ,
   usually to other men or death . The collection shares its title with Ernest Hemingway's second
   short story collection .
" 」

  「 Synopsis ( あらすじ )
   " Drive My Car " ( ドライブ・マイ・カー )
    Kafuku, a veteran and widowed actor, hires twenty-four year old driver Misaki Watari
    to chauffeur him around Tokyo due to his license being revoked due to a D.U.I. and
    glaucoma. During their trips, Kafuku occasionally tells her about his life as an actor
    and his late wife's extramarital affairs. One tale includes how he befriended her final
    lover, Takatsuki, with the intention of harming him. However, over the course of their
    six month friendship which was spent mostly binge drinking at local bars, he was
    never able to find any damning information and instead sympathizes with Takatsuki's
    observations. He also never learns of his wife's motives, calling it a "blind spot" in
    his knowledge of her. After hearing his story, Misaki notes that perhaps his wife having
    affairs had had nothing to do with love and that was a good enough reason to do so.
    After contemplating this propositions, he falls asleep as she continues driving.
    Dealing with actors and the world of theatre, " Drive My Car " could be considered as
    an example of what Graham Wolfe calls "theatre-fiction".

   " Yesterday " ( イエスタデイ )
    Tanimura remembers a time in his early twenties when he worked in a restaurant with
    his friend Kitaru. Kitaru has a few idiosyncrasies that cause his girlfriend Erika to feel
    uneasy about their relationship; he speaks in a Kansai dialect despite living all his life
    in Tokyo, does not want to study hard despite having university aspirations, and seems
    to be asexual around her. One day, Kitaru proposes that Tanimura go on a "date" with
    Erika to which Tanimura reluctantly agrees. On their date, both talk about their personal
    lives. Tanimura's girlfriend could not commit to him while Erika admits that she is seeing
    another man because of Kitaru's apathy. Despite her "unfaithfulness," she admits that
    Kitaru holds a special place in her heart, and has vivid dreams of them as a couple.
    Tanimura retells his experience with her to Kitaru during their next shift, omitting certain
    details. A week later, Kitaru quits and Tanimura loses contact with both Kitaru and Erika.


     Sixteen years later, in his thirties, Tanimura sees Erika at a wine tasting event. He
    reveals that he is married, but Erika is still single. As far as she knows, Kitaru is a
    sushi chef in Denver and is also still single. He goes on to ask whether she had
    sex with the man she mentioned on their date years ago; she replies yes, but that
    it did not lead to anything and that she still thinks about Kitaru on occasion.

    The title of the story comes from The Beatles' "Yesterday" and how, upon hearing it,
    Tanimura is reminded of Kitaru's playful mistranslation of the lyrics into " Kansai Japanese ."


   " An Independent Organ " ( 独立器官 )
    Tanimura tells of a time in his life when he regularly played squash with Dr. Tokai,
    a fifty-two year old cosmetic surgeon and bachelor who has never lived long-term
    or fallen into a serious relationship with anyone. However, for the past thirty-six
    year old married mother and asks Tanimura for advice. During their conversation,
    Tokai mentions how he is struggling with the question, "Who in the world am I?"
    and retells a story of a Jewish doctor who lost everything but his life at Auschwitz
    and how that could have been him. Tokai also notes that for the first time in his life,
    he feels rage.

    Tokai suddenly stops coming to the gym soon after and it is not until two months
    later that Tanimura learns of his death from Tokai's office assistant Goto; they
    arrange to meet and discuss Tokai. Goto tells of how the doctor suddenly changed
    his habits at work: he gave off a different aura than before. After Tokai stopped
    showing up at work, Goto grows concerned and goes to Tokai's apartment and
    finds him bedridden and feeble. He learns that Tokai has given up on life after
    the woman Tokai loves abandoned both him and her husband for a third lover.
    Tokai, lovesick and heartbroken, condemns himself to a slow death by anorexia.
    Goto concludes by giving Tanimura a squash racket Tokai wanted him to have
    and asks Tanimura to not forget Tokai.

    The title of the story comes from Tanimura's memory of Tokai's observation that
    women have "an independent organ" that allows them to lie with a clear conscience.

   " Scheherazade "  ( シェエラザード )
    Unable to go outside of his apartment, Habara relies on a female nurse he dubs
    "Scheherazade" for his provisions. Despite being married with children, she visits
    him regularly to have sex with him; after each session, she tells him a story. She
    also notes that she was a lamprey in her previous life and can sometimes access
    those memories of being in the sea.

    Over the course of several encounters, Scheherazade tells of how she was madly
    in love with a boy from high school, so much so that she discreetly broke into his
    house several times with a hidden doormat key during school hours. While inside,
    she surveys his stuff, lies on his bed, and "exchanges" her stuff for his, too afraid
    to be a burglar. On her first two visits, she trades a tampon for a pencil and then
    three strands of her own hair for a small soccer badge. On her third visit, she finally
    steals one of his worn shirts. Upon remembering how infatuated she was with him
    at the time, she asks Habara to have sex with her again; he finds this session more
    passionate than any other.

    Upon returning for her fourth break-in, Scheherazade notices that the locks have
    changed and reluctantly goes back to her regular schooling. Eventually, she begins
    to forget the boy, but during nursing school, she saw the boy again through the
    boy's mother. Noticing that evening is upon them, she tells Habara that she will tell
    him the circumstances during her next visit. Eager but careful, he acquiesces, but
    that night in bed, he worries that he will never see her again.

  " Kino "  ( 木野 )
    Kino, with the help of his retiring aunt, decides to open up a bar after he finds his
    wife cheating on him. At first no one shows up but a cat, which he lets stay indefinitely.
    A week later, a mysterious man, Kamita, begins to frequent the bar because he finds
    the establishment a soothing place to read. Some time after, two customers cause a
    ruckus and Kino asks them to leave. They react threateningly, but Kamita insists and
    they redirect their enmity towards him. The three customers go outside, and shortly
    afterwards, Kamita returns and says that those men will not disturb Kino again.

    A week later, Kino notes a particular woman who frequents the bar, but on this
    occasion, her male companion is absent; she interests him because of their mutual
    fondness of jazz. After everyone else has left, she reveals her body to him; she has
    many scars, the result of cigarette burns. They subsequently have sex all night in
    Kino's upstairs bedroom.

    After his divorce is finalized, his wife comes to his bar to settle a few last matters.
    She says sorry, but Kino is unable to even understand the meaning of the apology.
    Some time later, the cat disappears and does not return; snakes begin to show up
    regularly instead. He calls his aunt for advice, and she suggests that it could be an
    omen. Kamita returns, and tells him that he has been working for his aunt and
    insists that he temporarily close the bar and go on a trip to soul search. During his
    trip, he sees people happy doing mundane work and wonders about his own life.
    During a night when he perceives there is strange knocking on his door, he comes
    to terms with himself, realizing that he has been living for so long in apathy.

   " Samsa in Love "  ( 恋するザムザ )
    Gregor Samsa wakes up in a bedroom of a two-story house, sure of who he is but
    unsure of his surroundings. He is hungry, so he slowly goes downstairs to the kitchen,
    getting accustomed to moving his body. Food is already prepared on the table, so he
    eats everything. He then notices that he is naked, so he searches the house until he
    finds a gown.

    When the doorbell rings, he opens it to find a young, hunchbacked female locksmith
    who says that she is here to fix a lock in the house. Hesitant, he tells her that one of
    the room's lock upstairs needs fixing. As they interact, Samsa notices that he is
    unable to understand some of the common words she uses. When she tells him
    that she needs to take the lock to her family of locksmiths for further work, he asks
    her why she rotates her arm so often. She says that her brassiere is uncomfortable
    on her; while telling him this she notices that he has a visible erection. Offended,
    she scorns him before he says that he has no idea what he is doing. Before she
    leaves, he asks her if she could return so that they could talk, as he is still confused
    about most of the world. She says perhaps they can do so when she returns the lock,
    before she walks back to her family through military-occupied Prague.

   " Men Without Women "  ( 女のいない男たち )
    An unnamed narrator receives a phone call in the middle of the night telling him
    that his former lover, who he dubs M, has committed suicide, the caller being M's
    husband. He is unbearably anguished upon learning of this news.

    The narrator tells of how he imagines himself meeting M when they were fourteen
    and in junior high school. He asks her for an eraser in class and she breaks hers
    in half and gives the piece to him; this meeting warms his heart. She then breaks
    his heart by running off with sailors who promise to show her the world. He chases
    her, but is never able to catch up.

    In reality, he knew her for only about two years in his adult life and they only saw
    each other a few times a month. She loves elevator music, and always plays
    "A Summer Place" when they have sex. He notes that because of her death, he
    now considers himself the second-loneliest man in the world, after her husband.
    He is also in a state called " Men Without Women ," a period of sudden and intense
    misery after a man learns of the death of a beloved woman.


   Critical reception
    Reception for the collection has been mostly positive. Lucy Scholes, writing for
    The Independent, states that the stories " strung together [a]re a sparkling strand
    of precious stones, the light refracted from each equally brilliant but the tones
    varying subtly ." Heller McAlpin, writing for The Washington Post, states that
    " [ Murakami's ] meandering, mesmerizing tales of profound alienation are driven
    by puzzling circumstances that neither his characters nor readers can crack —
    recalling existentialist Gabriel Marcel’s assertion that ' Life is not a problem to
    be solved but a mystery to be experienced . '
"

   Adaptation
    The short stories " Drive My Car " and, to a lesser degree, "Scheherazade",
    served as the basis for the 2021 film of the same name by Ryusuke Hamaguchi .

 
  引用おわり 。

   仮に 、日本人でノーベル文学賞に手が届きそうな現役作家のリストがある
  とすれば 、村上春樹さんは 、今でもそのトップ・ランナーであるらしい 。
   短編小説集「 女のいない男たち 」のタイトルを英訳すれば 、" Men without Women "
  になること 、言い換えれば ノーベル文学賞作家 アーネスト・ヘミングウェイ
  の短編小説集 " Men without Women " と同名になることは 、編集者・事務所
  スタッフは勿論 、作家も承知して、一連の短編小説執筆に着手したようで 、
  短編集の「 まえがき 」にわざわざ次のような一節を書き加えた理由もわかる
  というもの 。

   「 『 女のいない男たち 』と聞いて 、多くの読者はアーネスト・ヘミングウェイ
     の素晴らしい短編集を思い出されることだろう 。 僕ももちろん思い出した 。
     でもヘミングウェイの本のこのタイトル " Men Without Women " を 、高見
     浩氏は『 男だけの世界 』と訳されているし 、 僕の感覚としてもむしろ
     『 女のいない男たち 」よりは『 女抜きの男たち 』 とでも訳した方が原題
     の感覚に近いような気がする 。しかし本書の場合はより即物的に 、文字通り
     『 女のいない男たち 』なのだ 。いろんな事情で女性に去られてしまった男
     たち 、あるいは去られようとしている男たち 。
     どうしてそんなモチーフに僕の創作意識が絡め取られてしまったのか( 絡め
      取られたというのがまさにぴったりの表現だ )、僕自身にもその理由はよく
      わからない 。そういう具体的な出来事が最近 、自分の身に実際に起こった
     わけではないし( ありがたいことに )、身近にそんな実例を目にしたという
      わけでもない 。ただそういう男たちの姿や心情を 、どうしてもいくつかの
      異なった物語のかたちにパラフレーズし 、敷衍してみたかったのだ 。
      それは僕という人間の『 現在 』の 、ひとつのメタファーであるのかもしれ
      ない 。あるいは遠回しな予言みたいなものなのかもしれない 。
      それとも僕はそのような『 悪魔払い 』を個人的に必要としているのかもしれ
      ない 。そのあたりは僕自身にも説明できない 。しかしいずれにせよこの本の
      タイトルが『 女のいない男たち 』になることは最初から決定されていたよう
      だし 、それが揺らぐことはなかった 。言い換えるなら 、僕はおそらくこの
      ような一連の物語を心のどこかで自然に求めていたのだろう
。」

    作品が多様な言語に翻訳される 、コンテンポラリーかつ 国際的な作家 になるのは実に大変
   なのだ !?
    そう言えば 、村上作品に「 チエーホフの『 ワーニャ伯父さん 』 」は出てくるけれど 、
   村上作品がロシア語に翻訳されることはなさそう 。文化的には 、明治以来 、露→日の一方通行
    なのかな 。
    ついでながら 、「 ウィキペディア 」の「 村上春樹 」解説記事の中で 、筆者の目を引いた記述を
   いくつか 。

    「 国外の評価
      ・ イギリスのカズオ・イシグロは 、現代作家のなかで最も興味のある作家に村上を挙げ 、
       『 世界中の人が彼のことを日本人と考えることができません 。国を超えた作家です 。
       現時点で 、村上春樹は現代文学の中で非常に関心を引く何かを象徴しています 。』と
       述べている
。」

    「 発言・エピソード
      『 作家は批評を批評してはならない 』
      『 まず妻より始めよ 。あとの世間は簡単だ

      『 個人と組織が喧嘩をしたら 、まず間違いなく組織のほうが勝つ 』         多勢に無勢だから

      ・ 好きな日本の小説家は吉行淳之介等の第三の新人や夏目漱石 、谷崎潤一郎などで 、
       川端康成はそれほど好きではない 、という 。また 、太宰治や三島由紀夫などが書く
      『 いわゆる自然主義的な小説 、あるいは私小説はほぼ駄目 』、としており 、その理由
       について『 そういう小説には 、どうしても身体が上手く入っていかないのです 。サ
       イズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです 。」と
       述べている 。
      ・ 選択的夫婦別姓について賛同する 。『 結婚したからどちらかが姓を変えなくちゃ
       ならないというのは 、憲法に保障された男女同権とあきらかに矛盾することです 。
       そんなの不公平ですよね 」と述べている 。
      ・ 村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』にでてくる作家デレク・ハートフィ
       ールドは架空の人物であり 、大学図書館などでは、『 デレク・ハートフィールドの
       著作を読みたい 』という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかし
       げるという誤解が後を絶たない 。『 図書館司書という仕事 』久保輝巳著「 1章
       ある図書館司書の生活 」はこのエピソードを描いたものである 。
      『 締め切りは嫌い 。〆切のある仕事はしない 』
      ・ エディンバラのイベントで作家になった理由を『 団体に所属する必要もないし 、
       会議に出る必要もなく 、上司を持たなくてもいいからだ
」と答えた 。
      ・ 1983年時の自身の談話によれば 、『 29歳にもなって小説を書いていること
       が恥ずかしく 、妻に隠れて執筆し 、群像新人文学賞にはペンネームで応募した 』
       という 。 」





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COMMITMENT かかわり Long Good-bye 2022・04・16

2022-04-16 05:55:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
    作家 村上春樹さんの経歴や40年超の文筆活動の紹介記事 。
   学園紛争が吹き荒れた1960年代後半の時期に学生生活を送った筆者と同じ団塊世代 。
   四 、五歳頃までは 、同じ土地の空気を吸って育ったような 。
   母親が大阪・船場の商家の娘であった 、というところも似ているような ・・・ 。
   タイトルに心惹かれることはあっても 、この有名作家の数多ある著作を一つも読んだことが
   なかったのは 、ひとつ違いの年齢のせい !? マスコミ露出が多いせい!?
   短編集「 女のいない男たち 」が初見の書なのは 、我ながら 驚きではある 。
   書店で手に取ってみるきっかけがなかった現代作家は他にも何人もいらっしゃるよう
   なのが 、もっと 驚き 。
   遅まきながら 、めいどの土産に代表作だけでもぼちぼち読んでみましょ 。キンドルで 。
   誰の為にもならないけれど 。

   ちょっと長いが 、引用はじめ 、備忘のため 。

  「 村上 春樹(むらかみ はるき、1949年( 昭和24年)1月12日 - )は 、日本の小説家・
   文学翻訳家。

   京都府京都市伏見区に生まれ 、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ早稲田大学在学中に
   ジャズ喫茶を開く 。1979年 、『 風の歌を聴け 』で群像新人文学賞を受賞しデビュ
   ー 。1987年発表の『 ノルウェイの森 』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベス
   トセラーとなり 、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる 。その他の主な作品に
   『 羊をめぐる冒険 』、『 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』、『 ね
   じまき鳥クロニクル 』、『 海辺のカフカ 』、『 1Q84 』などがある 。

   日本国外でも人気が高く 、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ
   作家の一人と評している 。2006年 、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し 、
   以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている 。精力的に 、
   フィッツジェラルドやチャンドラーの作品などを翻訳 。また 、随筆・紀行文・ノン
   フィクション等も多く出版している 。


   経 歴
   生い立ち
   1949年 、京都府京都市伏見区に出生する 。親が甲陽学院中学校の教師として赴任
   したため 、まもなく兵庫県西宮市の夙川に転居 。父は京都府京都市蹴上安養寺住
   職の息子であり 、日中戦争に巻き込まれ 、それによって深くトラウマを負った 。
   母は大阪・船場の商家の娘であった 。また両親ともに高校の国語教師であり 、本
   好きの親の影響を受け読書家に育つ 。1955年に西宮市立浜脇小学校入学 。4年生
   の頃から 、急に本が好きになり 、ジュール・ヴェルヌや 、デュマの小説 、ホーム
   ズシリーズやルパンシリーズを読むようになった 。また 、娯楽がなかったため 、
   父・千秋に連れられ 、西部劇や戦争映画を見た 。西宮市立香櫨園小学校卒業 。芦
   屋市立精道中学校卒業 。

   1964年に兵庫県立神戸高等学校に進学 。この頃から 、国語教師であった父に『 枕
   草子 』や『 平家物語 』といった古典文学を暗唱させられ 、その反動で海外文学に
   興味を移す 。最初に読んだ長編小説は 、ショーロホフの『 静かなドン 』だった。
   この頃は 、ツケで本が買え 、親が購読していた河出書房の『 世界文学全集 』と
   中央公論社の『 世界の文学 』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした 。また
   中学時代から中央公論社の全集『 世界の歴史 』を繰り返し読む
。在学中には新聞
   委員会に所属し 、2年生の時には編集長も務めた 。

   1年の浪人生活ののち 、1968年に早稲田大学第一文学部に入学 、演劇専修へ進む 。
   在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり 、映画脚本家を目指してシナリオを
   執筆するなどしていたが 、大学へはほとんど行かず 、新宿でレコード屋のアルバ
   イトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る 。1970年代初め 、東
   京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶『 水道橋スウィング 』の従業員となった 。


   結婚とジャズ喫茶開業
   1971年10月 、高橋陽子と学生結婚したが 、子供は持たないようにした 。一時文
   京区で寝具店を営む夫人の家に間借りする 。二人は昼はレコード店 、夜は喫茶店
   でアルバイトをして250万円を貯めた 。さらに両方の親と銀行から借金し 、総額
   500万円を開業資金とした 。大学在学中の1974年 、国分寺駅南口にあるビルの地
   下でジャズ喫茶「 ピーター・キャット 」を開店( 場所は殿ヶ谷戸庭園のすぐ近く)。
   店名は以前飼っていた猫の名前から採られた 。夜間はジャズバーとなり 、週末は
   生演奏を行った 。

   1975年 、7年間在学した早稲田大学を卒業 。卒業論文は「 アメリカ映画における
   『 旅 』の思想 」でアメリカン・ニューシネマと『イージー・ライダー』を論じた 。
   指導教授は印南高一( 印南喬 )。1977年 、ビルの持ち主から増築を理由に立ち
   退くように言われ 、『 ピーター・キャット 』を千駄ヶ谷に移す 。

   1978年4月1日 、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦 、ヤクルト×広島を外野席の芝
   生に寝そべり 、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ 。それは
   1回裏 、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間
   のことだったという 。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら 、毎晩キッチンテー
   ブルで書き続けた 。


   デビュー 、人気作家となる
   1979年4月 、『 群像 』に応募した『 風の歌を聴け 』が第22回群像新人文学賞を
   受賞 。同作品は『 群像 』1979年6月号に掲載され 、作家デビューを果たす 。
   カート・ヴォネガット 、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を
   受けた清新な文体で注目を集める 。同年 、『 風の歌を聴け 』が第81回芥川龍之
   介賞および第1回野間文芸新人賞候補 、翌年『 1973年のピンボール 』で第83回
   芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる 。

   1981年 、専業作家となることを決意し 、店を人に譲る 。同年5月 、初の翻訳書
   『 マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集 』を刊行 。翌年 、本格
   長編小説『 羊をめぐる冒険 』を発表し 、第4回野間文芸新人賞を受賞 。1985年 、
   長編『 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』発表 、第21回谷崎潤一
   郎賞受賞 。

   1986年10月 、ヨーロッパに移住( 主な滞在先はギリシャ 、イタリア 、英国 )
   1987年 、「 100パーセントの恋愛小説 」と銘うった『 ノルウェイの森 』刊行 、
   上下430万部を売る大ベストセラーとなる 。1988年 、『 羊をめぐる冒険 』の続
   編『 ダンス・ダンス・ダンス 』発表 。

   1989年10月 、『 羊をめぐる冒険 』の英訳版『 Wild Sheep Chase 』が出版された 。
   1990年 、米ザ・ニューヨーカーに短編「 TVピープル 」が翻訳掲載される 。
   これを皮切りに続々と短編が同誌に掲載され 、1993年には同誌と優先掲載の契約
   を結ぶ 。これが国際的な作家となる強力な足掛かりとなった 。

   1991年 、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米
   する 。前後して湾岸戦争が勃発 。『 正直言って 、その当時のアメリカの愛国的
   かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった 』とのちに述懐してい
   る 。翌年 、在籍期間延長のため客員講師に就任する 。現代日本文学のセミナー
   で第三の新人を講義 、サブテキストとして江藤淳の『 成熟と喪失 』を用いる 。

   『 デタッチメント 』から『 コミットメント 』へ
   1994年4月 、『 ねじまき鳥クロニクル 』第1部 、第2部を刊行 。 1995年6月 、
   アメリカから帰国 。同年8月 、『 ねじまき鳥クロニクル 』第3部を刊行 、翌年
   第47回読売文学賞受賞 。

   1996年6月 、「 村上朝日堂ホームページ 」を開設 。1997年3月、地下鉄サリン事件
   の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『 アンダーグラウンド 』
   刊行 。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が 、
   社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた 。1999年 、『 アンダー
   グラウンド 』の続編で 、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『 約束
   された場所で 』により第2回桑原武夫学芸賞受賞 。

   2000年2月 、阪神・淡路大震災をテーマにした連作集『 神の子どもたちはみな
   踊る 』刊行 。

   この時期 、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて 、村上自身は
   以下のように『 コミットメント 』という言葉で言い表している 。

    「 それと 、コミットメント( かかわり )ということについて最近よく考えるん
    です 。たとえば 、小説を書くときでも 、コミットメントということがぼくに
    とってはものすごく大事になってきた 。以前はデタッチメント( かかわりの
    なさ )というのがぼくにとっては大事なことだったんですが 」「『 ねじまき
    鳥クロニクル 』は 、ぼくにとっては第三ステップなのです 。まず 、アフォリ
    ズム 、デタッチメントがあって 、次に物語を語るという段階があって 、やが
    て 、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです 。そこの部
    分で 、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね 。ぼくもま
    だよく整理していないのですが


   『 コミットメント 』はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され
   多数の評論家に取り上げられた 。阪神の震災と地下鉄サリン事件の二つの出来
   事について 、『 ひとつを解くことはおそらく 、もうひとつをより明快に解く
   ことになるはずだ 』と彼は述べている 。このため 、短編集『 神の子どもたち
   はみな踊る 』に収められている作品はすべて 、震災が起こった1995年の1月と 、
   地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いて
   いる 。

   2000年代の活動
   2002年9月 、初めて少年を主人公にした長編『 海辺のカフカ 』を発表する 。
   2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダ
   ーク』を発表する。

   2005年 、『 海辺のカフカ 』の英訳版『 Kafka on the Shore 』が『 ニューヨ
   ーク・タイムズ 』の " The Ten Best Books of 2005 " に選ばれ国際的評価の高
   まりを示した 。2006年 、フランツ・カフカ賞 、フランク・オコナー国際短編
   賞( Frank O'Connor International Short Story Award )と 、国際的な文学賞を
   続けて受賞 。特にカフカ賞は 、前年度の受賞者ハロルド・ピンター 、前々年
   度の受賞者エルフリーデ・イェリネクがいずれもその年のノーベル文学賞を受
   賞していたことから 、2006年度ノーベル賞の有力候補として話題となった 。
   同年の世界最大規模のブックメーカーである英国のラドブロークス ( Ladbrokes )
    のストックホルム事務所による予想では 、34倍のオッズが出され 18番人気に
   位置( 受賞は同予想で1位のオルハン・パムク )。2007年の同予想では11倍の
   オッズ 、6番人気とさらに評価を上げた 。また近年の年収は海外分が既に国内
   分を上回っており 、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという 。

   2008年6月3日 、プリンストン大学は村上を含む5名に名誉学位を授与したこと
   を発表した 。村上に授与されたのは文学博士号である 。

   2009年1月21日 、イスラエルの『 ハアレツ 』紙が村上のエルサレム賞受賞を
   発表 。当時はイスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されており 、この受
   賞については大阪の市民団体などから「 イスラエルの戦争犯罪を隠し 、免罪
   することにつながる 」として辞退を求める声が上がっていた 。村上は2月15日 、
   エルサレムで行われた授賞式に出席し記念講演( 英語 )を行う 。スピーチ内
   容は全文が直ちにメディアによって配信され 、それを日本語に翻訳した様々な
   文章がインターネット上に並んだ 。『 文藝春秋 』2009年4月号に村上のインタ
   ビュー『 僕はなぜエルサレムに行ったのか 』が掲載される 。スピーチの全文
   ( 英語と日本語の両方 )も合わせて掲載された 。なお授賞式では 、スピーチ
   の途中からペレス大統領の顔がこわばってきたのが見えたという 。

   2009年5月 、長編小説『 1Q84 』BOOK 1およびBOOK 2を刊行する 。同年11月
   の段階で併せて合計223万部の発行部数に達した 。同作品で毎日出版文化賞受賞 。
   同年12月 、スペイン政府からスペイン芸術文学勲章が授与され 、それにより
   Excelentísimo Señorの待遇となる 。

   2010年代以降の活動
   2011年6月 、カタルーニャ国際賞を受賞 。副賞である8万ユーロ( 約930万円 )を
   東日本大震災の義捐金として寄付する 。授賞式のスピーチでは日本の原子力政策を
   批判した 。

   2012年1月2日 、1月3日に放送された箱根駅伝のTVコマーシャルのナレーションを
   執筆した 。制作はサッポロビール 。監督は是枝裕和 。

   同年9月28日 、『 朝日新聞 』朝刊にエッセイ「 魂の行き来する道筋 」を寄稿した 。
   その中で 、日中間の尖閣諸島問題や日韓間の竹島問題によって東アジアの文化交流
   が破壊される事態を心配して 、「 領土問題が『 感情 』に踏み込むと 、危険な状況
   を出現させることになる 。それは安酒の酔いに似ている 。安酒はほんの数杯で人を
   酔っ払わせ 、頭に血を上らせる 。」「 しかし賑やかに騒いだあと 、夜が明けてみ
   れば 、あとに残るのはいやな頭痛だけだ 。」「 安酒の酔いはいつか覚める 。しかし
   魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない 。」と警告した 。

   2013年4月12日 、『 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 』を発表する 。
    2014年4月18日 、短編集『 女のいない男たち 』を発表する 。

   2015年1月15日 、期間限定サイト『 村上さんのところ 』を開設した 。同日から1月
   31日までの間に37,465通のメールが寄せられた 。4月30日に更新終了 。読者との
   やりとりは約3,500問に及んだ 。

   同年8月4日 、『 風の歌を聴け 』と『1 973年のピンボール 』の新訳英語版が Harvill
   Secker から出版された 。翻訳はテッド・グーセン 。

   2017年2月24日『 騎士団長殺し 』を発表する 。2020年7月18日短編集『 一人称単数 』
   を発表する 。2021年には 、ユニクロから 、関連するTシャツが販売され 、日本のみ
   ならず 、海外にも販売された 。また 、同年10月1日には 、早稲田大学4号館を改築し 、
   早稲田大学国際文学館( 通称『 村上春樹ライブラリー 』)が開館した 。『 村上春樹
   ライブラリー 』は 、建築家の隈研吾が村上の要望で設計を担当した 。

  ( 後 略 )
                                      」

  引用おわり 。




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CHAOS 渾沌 Long Good-bye 2022・04・09

2022-04-09 05:50:00 | Weblog




  今週の「 お気に入り 」 。
  遠くの戦地のことを報道番組で見聞きしたベトナム戦争の頃とおんなじ気分 。
  北爆あり 、ソンミ村の事件起き 、大国と小国の中越戦争まであった 、役者は違えど
  いつか来た道 。

  1 . 気晴らしに 、衛星放送で視聴した三つの映画 、
   「 武士の家計簿 」、「 レナードの朝 」、「 我等の生涯の最良の年 」。

   「 武士の家計簿 」を見るのは二度目 、佳作 。
   「 レナードの朝 」と「 我等の生涯の最良の年 」は初見の映画 。

    パーキンソン病 や認知症といった脳神経系の疾患がまだ当たり前でない頃のアメリカの
    精神病院が舞台の「 レナードの朝 ( 原題 : AWAKENINGS ) 」。
    このごろ 、日本でも当たり前になってきた風景 。
    ロバート・デ・ニーロ 、ロビン・ウィリアムス 、二人それぞれに 、難しい役を好演 。
    生きる哀しみが伝わる 。

    用済みになったB29やB17が大量にスクラップにされていく大戦後のアメリカ 、
    帰還兵三人の社会復帰を描く1946年制作の「 我等の生涯の最良の年 ( 原題 : THE
    BEST YEARS OF OUR LIVES ) 」。
    駐留軍の戦車が近所の国道を往く朝鮮動乱の頃の風景や制服をきっり着込んで坂道を
    降りてくる黒人の将校だか下士官だかを路傍で見上げた幼時の記憶が脈絡もなく突然
    よみがえる 。
 

    それぞれの作品について 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
    掲載の記事にある解説 。備忘のため引用 。

   ・「 武士の家計簿 」

    「 江戸時代後半 。代々加賀藩に会計係 “ 御算用者 ” として仕える下級武士の一家
    に生まれた猪山直之は 、卓越したそろばんの腕で出世するも 、親戚づきあい 、
    養育費 、冠婚葬祭と出費がかさみ 、借金返済の見通しもたたなかった 。ついに
    直之は猪山家の “ 家計立て直し計画 ” を宣言 。家財を売り払い 、妻・お駒に支え
    られ 、家族一丸となって倹約生活を実行する 。堺雅人と仲間由紀恵が仲むつまじい
    夫婦を好演するユーモアにあふれた時代劇 。
    【プロデューサー】元持昌之 【監督】森田芳光 【原作】磯田道史 
    【脚本】柏田道夫 【撮影】沖村志宏 【音楽】大島ミチル
    【出演】堺雅人 、仲間由紀恵 、伊藤祐輝 、草笛光子 、西村まさ彦 、松坂慶子 、中村雅俊 ほか
    製作国:日本 製作年:2010 」

   ・ 「 レナードの朝 」

    「 ロバート・デ・ニーロ 、ロビン・ウィリアムス共演 、実話をもとにした感動の
    ドラマ 。1969年 、ブロンクス 。精神障害で身体も自由に動かせない患者たち
    の病院に医師セイヤーが赴任する 。セイヤーは 、患者たちがボールを受け止める
    反射神経があるのを発見し 、30年間も半こん睡状態のレナードに新薬による治療
    を試みる 。ある日レナードは奇跡的に目覚めるが … 。
     女性監督ペニー・マーシャルの端正な演出 、2大名優の名演技が光る 。
    【製作】ウォルター・F・パークス 、ローレンス・ラスカー
    【監督】ペニー・マーシャル 【原作】オリバー・サックス
    【脚本】スティーブン・ザイリアン 【撮影】ミロスラフ・オンドリチェク
    【音楽】ランディ・ニューマン
    【出演】ロバート・デ・ニーロ 、ロビン・ウィリアムス 、ジュリー・カブナー ほか
    製作国:アメリカ 製作年:1990
    原題:AWAKENINGS

   ・ 「 我等の生涯の最良の年 」

    「 アカデミー作品賞・監督賞など8部門を受賞した名匠ウィリアム・ワイラー監督の
    傑作ヒューマン・ドラマ
。第2次大戦が終わり 、3人の兵士が同じ故郷ブーン・シティ
    に帰ってきた 。中年の歩兵軍曹アル 、飛行大尉フレッド 、そして両腕を失った若き水兵
    ホーマー 。戦場での立場や戻ってからの境遇も異なる3人が 、戦争で心も体も傷つきな
    がらも社会に復帰しようと懸命に生きる姿と 、彼らを支える家族や恋人を感動的に描く 。
    【製作】サミュエル・ゴールドウィン 【監督】ウィリアム・ワイラー
    【原作】マッキンレー・カンター 【脚本】ロバート・E・シャーウッド
    【撮影】グレッグ・トーランド 【音楽】ヒューゴー・フリードホーファー
    【出演】ダナ・アンドリュース 、フレデリック・マーチ 、ハロルド・ラッセル 、
        テレサ・ライト ほか
    製作国:アメリカ 製作年:1946
    原題:THE BEST YEARS OF OUR LIVES

  2 . プライムビデオ 500円で視聴した映画 、「 ドライブ・マイ・カー 」。

  3 . キンドルで読了 、村上春樹著「女のいない男たち」( 文春文庫 ) 。



   



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FREEDOM OR LONELINESS ? Long Good-bye 2022・04・02

2022-04-02 05:15:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、どこかのサイトで見かけた お言葉 。

  「 " And when nobody wakes you up in the morning ,
    and when nobody waits for you at night ,
    and when you can do whatever you want .
    What do you call it , Freedom or Loneliness ?
                 - Charles Bukowski . "


  「 " The problem with the world is that
    the intelligent people are full of Doubts ,
    while the Stupid ones are full of Confidence .
                 - Charles Bukowski . "
」 

  インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」日本語版には
 「 ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー( 英語 : Henry Charles Bukowski ,
  1920年8月16日 - 1994年3月9日 )は アメリカの作家 、詩人 」と紹介されています 。

  どなたかの邦訳で ブコウスキーさんの お言葉 を いくつか 。

  「 民主主義と独裁国の違いは 、民主主義ではまず投票して、
   そのあとで命令をきくが 、独裁国では投票する無駄が
   省かれているということである


  「 人は大きなことではなく 、小さなことがうまくいかないと
   次第にイライラしてくるものだ 」

  「 簡単なことを難しく言うのがインテリ 。難しいことを
   簡単に表現するのが芸術家 」

  「 書くことの目的は まず第一に 、愚かな自分自身の救済だ 」

  「 小さな種火を残し 、その火を絶やさないで 。種火さえあればまた燃え上がるから 。」



  

  ゲルニカのピカソさん 、E=MC² のアインシュタインさん

  

  ひまわりのソフィア・ローレンさん と ガン見の先 →ジェーン・マンスフィールドさん 。
  ボイン vs. ボイン 。片や 長生き 片や 夭逝 。




   ピカソさん 、アインシュタインさん 、ジェーン・マンスフィールドさん 、
  ソフィア・ローレンさん の略歴 、備忘のため 。ソフィア・ローレンさん のみご存命 。

  ・ パブロ・ルイス・ピカソ( Pablo Ruiz Picasso , 1881年10月25日 - 1973年4月8日 )は 、
     スペインのマラガに生まれ 、フランスで制作活動をした画家 。フランス共産党員 。

  ・ アルベルト・アインシュタイン( 独 : Albert Einstein 、1879年3月14日 - 1955年4月18日 )は 、
     ドイツ生まれの理論物理学者である 。

  ・ ジェーン・マンスフィールド( Jayne Mansfield 、1933年4月19日 - 1967年6月29日 )は 、
     ブロードウェイ、及びハリウッドで活躍したアメリカ合衆国の女優 。

  ・ ソフィア・ローレン( またはソフィア・ロレーン 、Sophia Loren 、1934年9月20日 - )は 、
     イタリア出身の女優 。本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ ( Sofia Villani Scicolone ) 。



   " Everything that is really great and inspiring is created by the individual
  who can labor in freedom .                - Albert Einstein "


   おまけにもうひとつ 。

   " We are all living in cages with the door wide open.
                       - George Lucas "


     cage って 、身体 、部屋 、家 、会社 、国 、・・・ 地球 ?
   







                                           not ボイン but ナイン 。 

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