「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・20

2013-09-20 07:25:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「間取り」より。

「元はと言えば、これは私や向田さんが子供時代を過ごした昭和十年代の、東京山の手の月給取りの家の構造である。中庭には痩せた金木犀の木が三本ばかり、そこから裏手へ廻ると塀沿いに背の低い八ツ手の木が植わっていて、根方には松葉牡丹が小さな花を咲かせている。その辺りからツンと鼻をつくドクダミの匂いがしはじめて、少し行くと白い石灰を撒いたご不浄の汲取口がある。お互い、そんな自分の育った家を話していて、昔の二軒の家がびっくりするくらい似ているので、向田さんと二人で笑ったことがあるが、別に私たちの家が特殊だったわけではなく、あのころはどの家も、おなじような間取りで、おなじような生活をしていたのである。
 一度くらい、テーブルに椅子のリビングで食べるドラマを作ってみようかと思わぬでもないが、いざとなるとなんだか悪いことをするみたいな気持ちになって臆してしまう。向田さんに遺言されたわけではないがお、白い障子に竹の影が揺れ、違い棚に椿を一輪投げ込んだ一輪挿しがないと、どうも私の気持ちは落ち着かないのである。それなら、私たちの間取りが時代劇と言われるまで、頑固にやりつづけるのも愛嬌というものかもしれない。それに、やっぱりあのころの、あの間取り、あの暮らしには、忘れてしまいたくない何かがあるように思われてならないのである。私たちはひょっとして、あのころに、何かとても大切なものを置き忘れてきたのではあるまいかと、心配になってしまうのである。
                                           (『あーむ・ちぇあ』no.33)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・19

2013-09-19 06:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「間取り」より。

「飯食いドラマなどと半分馬鹿にされながら、ホームドラマを撮りつづけてもう三十年になる。私が亡くなった向田邦子さんと『寺内貫太郎一家』をやっていた昭和四十年代の終わりごろは、どのチャンネルもホームドラマだらけで、そのころは森光子、京塚昌子、山岡久乃といったところが白い割烹着のお母さんだったのに、このごろでは篠ひろ子や市毛良枝が適齢期の娘を持つ母親を澄ましてやっているのだから、三十年たったわけである。
 私のホームドラマは、どれも間取りがおなじである。茶の間があって向かって右側に台所があり、正面に中庭に面した廊下があって、左に行くと玄関と二階への階段があり、反対方向には浴室、洗面所、その奥は夫婦の部屋と決まっている。食事はもちろん畳敷きの茶の間で卓袱台を囲んでということになる。いまどき、こんな間取りの家に住んでいる家族などどこにもいないのは承知しているが、その都度考えるのも面倒だし、三十年やっている意地もあって、知らん顔で通している。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・18

2013-09-18 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。

「次に聞こえないのは、夕飯の支度の音である。水道の蛇口から勢いよく水が流れる音、その水を使う音、食器の触れ合う音――どうしたことか聞こえないのである。そう言えば、道を歩いていて台所の窓が見えることが、ほとんどない。黄色い電灯が点り、湯気で曇った台所の窓がない。窓を通る割烹着の影もない。昔もいまも、時分時(じぶんどき)はおなじはずである。それなのに、主婦たちはどこでどうやって支度をしているのか、影も形も音もない。しかし、この風景がなくなったとしたら、私なんかとても困ってしまう。これくらい感傷的な風景は他にないのだ。自分は一応ちゃんとした家庭を持ち、家族もいるというのに、男は湯気でよく見えない窓の向うの幸福を想って、涙ぐむものなのだ。そんな思いを呼び覚ますのが、夕暮れの台所の音なのだ。自分だって、少し努めれば、その中に棲むことのできる家庭の団欒に、意味のない片意地張って背を向け、よその家の湯気に曇った窓を羨むのが男というものなのだ。私は、若いころからずっとそうだった。金木犀の匂う坂道を下りながら、いつも情けなく泣いていた。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・17

2013-09-17 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。

「残念なのは音である。町の音が違う。――たとえば、人通りの少ない昏れかけた住宅街を歩いていて、自分の足音が聞こえないのである。あのころは、靴をはいていても、下駄をはいていても、まず自分の足音が耳に聞こえたような気がする。足を早めれば、足音も忙しく、いまきた道をふと振り返れば、足音もその分ためらい気味に遅くなる。それが、いまの町では聞こえないのである。騒音のためではない。町は静かである。それなのに、足音が聞こえないという不思議である。なんだか不安になって、歩きながら口笛を吹いてみる。これも微かにしか聞こえない。あのころは子供だったのに、夕暮れの口笛は、誰かに叱られるのではないかと思うくらい、鋭く風の中に鳴った。いまの風景は、足音や口笛を吸い込んでしまうのだろうか。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・16

2013-09-16 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。

「しかし、いまの家からも、少し歩けば、モーターバイクの店だとか、二十四時間営業のコンビニだとか、白塗りのアパートだとか、昔は見かけなかったものがある。私の家を中心に半径百メートルぐらいの区域に、たまたま昭和十年代の雰囲気が残っているのである。ちょっと低めの大谷石の塀沿いに植えられた、庭の金木犀が匂う家がある。取り込み忘れた白い洗濯物が、裏庭に揺れている家がある。見上げると、道路を渡って幾条かの電線が夕風に波打っている。けれど、こういう風景も、ぼんやりとした夕暮だから懐かしいのであって、よく見れば電柱やトランスも違うし、アルミ・サッシの窓の様子も違う。瓦屋根が少ないし、街灯も昔よりはずっと明るい。とは言え、そんなところに目をやりさえしなければ、幸福な風景である。この国に生れ、この町に育ったという思いに、ほんの少しの間、耽ることができる。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・15

2013-09-15 07:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。

「昔もいまも、都心から離れた住宅街に棲んでいる。昔――昭和十年代は杉並の阿佐ヶ谷、いまは東玉川である。いずれも住宅が建ちはじめたころは、新興住宅街と呼ばれていたところである。似たような洋風の造りの家が数軒並んでいたり、露地へ入る角に小さな煙草屋があったり、界隈でいちばん瀟洒な建物は歯医者の家だったり、半世紀以上も経っているのに、秋の日暮れの風景なんか、びっくりするくらい似ている。だから、いま棲んでいる家を、私はたいそう気に入っている。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・14

2013-09-14 07:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「生れてはじめて住んだ家」より。

「父は職業軍人だった。戦争が終わり、夢も、生甲斐も、軍刀も奪われて、昭和二十年の秋、悄然と私たち家族のところに帰ってきた。公職追放になり、働くあてもなく、毎朝リヤカーに耕作道具と肥料を積んで、焼け跡に野菜を作りに出かけ、日が傾くころ、いつ帰ったかわからないくらい静かに帰ってきた。そんな生活が何年かつづいた。私は中学生になっていた。記憶の中の父は、恰幅がよく、力強くて男らしかった。いつだって口元が引き締まり、目は真っすぐに高いところを見ていた。その父がうつむいている。その父が痩せている。声は小さくなり、日陰を選んで歩いているようにさえ見える。そろそろ町にも復興の気配が見えはじめ、人々の顔も明るくなってきたというのに、父はぼんやりした影のようだった。私は、はじめて父を疎(うと)ましく思った。
 そのころの父に優しい言葉をかけてやった憶えが、私にはほとんどない。たまに言う不器用な冗談に付き合って、笑ってやったこともない。私は酷薄な息子であった。
 昭和二十四年夏、父は、ある朝突然腹痛を訴え、日が暮れると同時に死んだ。胆嚢が化膿していたのだという。その地方の風習で、棺は坐棺だった。昔ながらの、文字通りの棺桶である。母と兄が両側から、父の痩せた体を吊り上げるようにしてその中に入れるとき、父のどこかの骨が鳴った。私は、少し離れたところで、その奇妙な音を聴いていた。本来なら、母に代って、私が父を棺に入れてやるところである。もう死んでしまった父にまで、私は優しくなかったのである。私は泣いていたというが、それは父が不憫だったからではなく、父が情けなかったのである。
 父が死んだ年を、私は越えた。そのころから、毎日のように父のことを考えている。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・13

2013-09-13 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「生れてはじめて住んだ家」より。

「人間の死体というものを、はじめて見たのは、ちょうど五十年前の夏の朝だった。前夜の空襲で全焼した街には、いろんな死体が、いろんな姿で夏の陽光に照らされて転がっていた。私は十歳になっていた。たまたま、それまで近親に死んだ人がいなかったので、それはひどい衝撃でなければおかしいのに、私はそれほどではなかった。母の手をしっかり握ってはいたが、私の胸はさほど波立っていたとは思わない。――それよりも私は、何時間か前の夜空を思い出していた。逃げ惑う私たちの上に広がる夜空には、戦果を確かめていま帰ろうとしているアメリカ機の編隊があった。一つの市が丸ごと燃えている炎を映して、銀色の飛行機たちは、キラキラ輝いて美しかった。こんなきれいなものを見た記憶が、私にはなかった。私は、この美しいものを、いつまでも見ていたいと願った。その希みが届いたのか、銀色の鳥たちは、映画のスロー・モーションのように、ゆっくりと赤い空を過(よぎ)っていた。街が燃える音や、飛行機のエンジンの音や、きっとそこには恐ろしいくらいの音があったはずなのに、私の耳には何も聞こえなかった。むしろそれは、長い、長い静寂だったような気がする。私は、その静寂の中で、泣いていたのかもしれない。
 この世のものとも思えなかった美しさと、目の前の死体たちとが、どうしても私には結びつかなかったのだろう。唐突なようでもあり、妙に当り前のようでもある、この二つのものの関係は、その後ずっと私の中に、どうにも厄介な拘(こだわ)りとして残りつづけることになる。なぜあの飛行機たちは、あんなにも美しかったのか、どうしてあの死体たちは、怖くなかったのか。――半世紀経ったいまでも、私はその不思議について考えている。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・09・12

2013-09-12 08:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「生れてはじめて住んだ家」より。

「何にでも、《はじめて》がある。《はじめて》があって、そこから続きがはじまり、やがていつか終わる。記憶がなくたって、《はじめて》はあったはずである。たとえば、私は生れて数分後に、母親との初対面をしたに違いない。私の場合、自分の家で産婆さんに取り上げられたから、それは数秒後だったかもしれない。温かいお湯を張った盥(たらい)から抱き上げられ、タオルか産着(うぶぎ)にくるまれて、四月の朝の光の中で、私は母と《はじめて》会ったわけである。それから六十年、母と子の歴史があって、どっちが先にいくかは知らないが、やがて二人は別れていくことになる。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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2013・09・11

2013-09-11 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「本棚からつぶやきが聞こえる」より。

「本の声が聞こえるようになると、仕事は捗(はかど)る。あの本のあの辺りを引用したいなと思うと、背中から本の方が啼いて呼んでくれるのである。。蕗谷虹児(ふきやこうじ)の、パリの女の子を描いた絵がどこにかにあったはずだと思うと、左手のいちばん上の段から、細い虫の声が聞こえてくるのである。そのうちに、本の虫たちは、探す前から啼いてくれるようになる。つまり、ある文章を書いていると、どこかから北一輝らしい重い声が聞こえてくる。その声に気づいて、私はいま書いている件に彼の『支那革命外史』が必要なことを知るのである。本の虫たちと、これくらい親しく嬉しい関係になるためには、ずいぶん時間がかかる。時間をかけるだけでなく、その本を絶えず優しい気持ちで読んでやらなくてはならない。本たちは、可哀相に、いつも戸惑ったり、怯えたりしているのだ。――本は、私たちと同じように、心細い生きものなのである。」

「いまはガラス戸や窓にブラインドを下ろして、昼でも暗い書斎だが、開け放てば、日当たりのいい明るい部屋である。私がいなくなったら、この部屋は明るく使うといい。書架も取り外して広く使えばいい。たくさんの本たちも、処分されることを望むだろう。だって、彼らの啼く声を聞き分けてやれるのは、私しかいないのだから――。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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