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殿野入春日神社「とりさし」 中編

2024-04-15 23:16:09 | 民俗学

殿野入春日神社「とりさし」 前編より

 蘭の「さいとろさし」を紹介している『信州の芸能』(信濃毎日新聞社 1974年)には、三隅治雄氏が「ゆらい」を記している。その中で三隅氏は「この種の芸能は、もともと諸国を巡歴して歩いた旅芸人の手にかかったもので、たとえば、毎年正月に各地の家々を巡回して歩いた万歳芸人のレパートリーの中にも、太夫と才蔵の掛け合いによる「鳥刺し」の曲があった。また、江戸時代の中期以降、東海道、中山道をはじめ諸国の街道を足しげく歩いた代神楽のシシ舞の専業集団も、この曲を重要な演目にして、各地で上演して人気を博した。信州でも、上田市小泉や上伊那郡中川村桑原、飯田市立石などにこの「鳥刺し舞」が伝えられているが、いずれも代神楽のシシ舞に付随したものである。」と述べている。ようは獅子舞に「付属したもの」という「とりさし」である。ここであげられている桑原の獅子舞について平沢一夫氏の「桑原神社の獅子舞」(『伊那』1994年4月)に見ると、「才鳥刺し」があったというものの、「復活できませんでした」とあり、その内容は触れられていない。また立石のものについて村松美喜氏の著した「郷土民俗芸能立石大神楽」(『伊那』1964年6月)には、「才蔵との対話により進められる」とあり、万歳形式だったようである。道化万歳も演じられたようで、獅子舞の一連のものなのかどうか疑問はわく。

 こうした獅子舞とのかかわりでは、『長野県の民俗芸能―長野県民俗芸能緊急調査報告書―』の「蘭のさいとろさし」の中で、「この種類に属する芸能は中信地区でも遠く離れた善光寺街道の東筑摩郡麻績村市野川にも見られ、獅子神楽の獅子舞の余興で踊っている」と記している。獅子舞の一連のもの、という例では北信域、とりわけ飯山市から栄村にその事例が見受けられる。飯山市桑名川の名立神社の例祭は、やはり獅子舞がメインではあるが、多様な舞が舞台で舞われる。そのなかに「サイトロメン」というものがある。まさに「さいとろさし」のことを言い、ここでは大人二人で行われ、多分に余興的なものとも。齋藤武雄氏による『奥信濃の祭り考』(信濃毎日新聞社 1982年)において、次のように舞の内容を記している。


 サイトロメンは、まず前奏の囃子に乗って、花笠をかぶり、頬かぶりをしたオカメを背負ったヒョットコが出てくる。袖はたすきでたくし上げ、両腕を出して着流しにしているが、裾が短く足が半分も出ている。二人とも同じ服装で、鳥刺し棒を持っている。名立神社のサイトロメンは、最初から最後まで滑椿である。
 舞台の中ほどに来ると、ヒョットコはオカメを背中から下ろし、抱き合って怪しげな仕草をする。観衆から、「まだまだ」「わらじをどこへ忘れた」などというやじが入る。二人ともわらじは片方しか履いていない。二人はわざと大きなやじの飛んで来た方へ移動してまた始める。オカメ、ヒョットコと観衆の対話によって劇は進行して行くようなところがあって、祭りの本来の姿の一面が残っているような感じである。しばらくこのような動作が繰り返され、次にまた一人のヒョットコの面かぶりが出てくる。オカメとヒョットコはあわてて離れて、やたらに這いつくばって謝るかっこうをする。
 次に二人とも立ち上がって花笠を脱ぎ、別々にその笠で鳥を押える真似をする。二人は、「とったぞ、とったぞ」と叫ぶ。観衆は、「逃げた、逃げた」という。二人はそっと花笠を持ち上げて中をのぞき、がっかりした様子。少し花笠で舞ってから、また笠を伏せる。「とったぞ、とったぞ」と叫ぶと、観衆から、「逃げたぞ、逃げたぞ、飯山の鉄砲町へ逃げたぞ」という声がとぶ。飯山の鉄砲町という所は、以前は歓楽街であった。老人の若かりし頃の思い出でもあるので、こんな時にその町が出るのである。
 何回か繰り返す途中では、後から出てきた面かぶりが、二人がよそ見をしている間に笠を移動させて二人をあわてさせる場面なども入る。最後に、いないことを確認した二人は、今度は鳥さしの棒を持つ。これを担いで舞台を舞いながら回る。いよいよ鳥刺しの場面になる。
 あぐらをかいて、棒の先へもちをつける真似をする。立ち上がって鳥を刺すような舞いをする。棒をおいて、失敗したのでまたモチをつけ替えたりし、また舞う。この時は、鳥刺しの歌を二人で歌う。

 一つひよどり 二つふくろう
 三つみみずく 四つよたか
 五ついじくない 六つむくどり
 七つなぎさぎ 八つ山鳥
 九つ小鳥 十が戸隠山へ逃げた鳥

 最後に、つかまえた鳥を逃がしてやるかっこうをする。
 この鳥刺しの歌は、鳥の名は所によって少し違うが、全国大体同じである。また、最後の場面は、鳥を逃がしてやるという所も多いようである。名立のサイトロメンは、大人二人で面をかぶってやるが、栄村の極野などは、小学生の高学年ぐらいの男の子供が一人でやる。女の派手な振り袖の着物を着て、顔にお白粉を塗り、飾りのついた棒と、花笠でやるが、鳥をとったり刺したりする所作は大体名立の大人のやるものと似ている。
 初めに、両端に紅白などの細かい色紙の房をつけた金色の1.5メートルぐらいの棒を持って舞う。中腰のまま囃子に合わせて棒を前や後ろへ回しながら舞台の周りを舞う。しばらく舞ってから棒を下に置き、棒のもちにくっついた鳥を捕るような動作をする。次に色紙できれいに飾った花笠を、下に置いた棒の上に乗せてその周りを回る。終わりに、その子供が、「いろいろやってみたが、みんな逃げてしまって捕れなかった」というような意味のせりふをひとりごとのように言いながら退場する。
 この子供の方のものは、上田方面で行われているものとほとんど同じである。しかし、木曽の方のものは、大人がやるが、どじょうすくいのような舞い方で、子供には見せたくないような仕草をするという。

 子どもの舞と大人の舞では趣が異なるようで、大人の場合はより性的要素が含まれる例がほとんどである。とはいえ、子どもが担う場合も幾分そうした部分を内包しているようにもうかがえる。いずれにせよ、北信の県境域の例祭では、やはり獅子舞に付属した余興という印象があり、単独に「とりさし」が演じられているわけではない。

続く


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