Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

あのころの景色⑧

2024-04-17 23:41:05 | つぶやき

あのころの景色⑦より

 前回述べたように、栄村には仕事でよく訪れた。とりわけ頻度の高かったのは極野(にての)から秋山へ向かう道。現在村道長瀬秋山線と呼ばれている道路である。わたしがかかわったのは、中部電力志久見川第一発電所への送水管上部から五宝木までの間である。したがって極野は頻繁に通っていた集落。もう半世紀近く前のことであるから、当然のことであるが、当時は人の気配は高かった。そこにいくと集落内を通っても、無住の家が目立つし、まだ積雪があったせいか、冬期間は里に下りている、というような雰囲気の家も見られた。

 

坪野にて(令和6年3月28日撮影)

 

 志久見川の支流である天代川へ遡ると坪野の集落がある。極野以上に生活感のない家々が点在していた。除雪してない家があるということは、冬期間はここに暮らしていないということ。ここに限ったことではないが、栄村にはそうした家があちこちに見られる。東北の震災翌日に発生した長野県北部地震の影響が大きいのかもしれない。当時のことは「栄村へ・後編」などに記している。もう13年前のこと。

 飯山を離れて以降も、この地域への思い入れはしばらくあった。したがって秋山へは、その後もこの道を利用して何回か入っている。この季節だから、もちろん通れないことはわかっていたが、入り口ですでに雪に阻まれてそれより進めないことを知った。夏期に、今一度訪れてみたい、そう思った。

 ところで4枚目の写真の背景、小高いところに小さな赤い屋根の建物が見える。その後志久見川沿いを下りながらわかったことであるが、どこの集落にもこうした高い位置に小さな建物がある。それらの多くは墓地の周囲にあったりするが、これは「お堂」である。志久見川沿いの集落の典型的構図なのである。このことは別項で触れたいが、それは川を下りながら気づいたことで、坪野を訪れた際にそのことに気づいていたら、この「お堂」まで上がって行ったのだが、後で気づいたため、実はこの「お堂」は覗いていない。これも後の宿題である。

 

参照「栄村へ・続編」

  「豪雪地飯山の記憶」

  「ドウソジン祭りの準備」

 

終わり


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