Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

降らなくなったカミユキ

2017-03-25 23:42:42 | 信州・信濃・長野県

 近年、雪が少なくなったのは言うまでもないが、春先になると以前はカミユキという雪が降ったものだった。ところがどうだろう近年この雪をほとんどみない。とりわけ2月下旬あたりから3月にかけてこのカミユキという単語をよく耳にしたわけだが、この時期は低気圧の通過する位置によって春先特有の気圧配置になった。温暖化のせいかは解らないが、かつてのそうした気圧配置の際に、今はほぼ「雨」となる。先日長野へ向かった際、塩尻市あたりに積雪をみた。長野までの間で積雪のあったのはここだけ。最近寒さがぶり返して、加えて長野県中南部でも「雪」という予報が出るものの、その範囲はかなり限定的。かつてのように中南部全域でこの季節に積雪を見ることはない。けして多くはない長野県の冬の積雪にあって、このカミユキが降ると、南部でも意外な積雪を見ることも少なくなかったのだか、近年はまずない。そういうこともあって、今年もそうだが、3月に入ってスタッドレスタイヤが必要だったと実感したことは皆無。もちろん南部の山間地ではそれでもときおり積雪があって、そうした地域に行く際には必要だが、ふつうに暮らしているぶんには、スタッドレスタイヤが必要だと思うのはせいぜい2ヶ月くらいになってしまっただろうか。とはいえ安全第一だからおおかたのひとたちは12月から3月いっぱいくらいはこれを着用しているから、ちょっとした無駄遣い感覚でもある。今年もわたしは所有している車のうち1台は夏タイヤのままで過ごした。「今日は無理だ」と思い違う車に乗ったことも何度かあったが、不自由はなかった。過ごしやすい冬の時代を迎えているともいえるのだろうか。

 今春は社内で退職者があったりして、異動があってちょっとバタバタしている。この3月末日の宿題があって、いろいろの方から多々データが送られてくるのだが、「これを終わらせたら」と思っているうちに日が過ぎてしまっている。そこに加えて会社の出先が引越しする。わずかな引越しなのだが、とはいえ少しでも難題が多い。これまで人の入れ替えが少なかったこともあって、年度末になっても古いものを処理してこなかったつけが、この引越しにしわ寄せしてしまい、引越しとはいっても簡単ではない。とりわけ書類を作成する業務が中心のため、会社的には書類が多い。これを何年分も処理して一定期間を経たものは、別の場所に移動したり、あるいは廃棄したり、と異動の最中に慌てふためいている。この土日に開催されている第39回日本映像民俗学の会 松本大会に参加する予定であったが、諦めたしだい。加えて例年この季節には裏山の下草刈がピークを迎える。ツツジが咲く前にと慌ててやっているが、やらなければならないことだらけで疲労も積み重なっている今日この頃。

 

庭のサンシュユがいつも通り咲き始めるが、写真は20日に撮影したものの、その後比較的寒い日が続いて、今もって咲き具合はこの時とそう変わっていない。

 

コメント

蛇神

2017-03-24 23:15:05 | 民俗学

 先日の大草町での数珠回しにおいて、会場となった観音堂に行ってとても気になったのが隣にあった墓地のこと。塀に囲まれた墓地は、ふつうの墓地という感じではない。ようは格式が高いという感じで、おそらくこのあたりの大地主のものという印象を抱いた。聞いてみるとその通りで、いわゆるこの地の親方様の墓地だ。ところがこの墓地の所有者は昭和初期にはすでにこの地を離れていたようで屋敷はあったが、ほとんど住んでいなかった。今も屋敷のあった空間は残されていて、土蔵がひとつだけ建っている。もともと一帯はほとんどその家のものだったと言われる。ところがどうも解らないのだが、この親方様とは別に、それ以前の親方様の話をかつて聞いている。そして今回もそれらしい話を聞いた。ようは観音堂には以前「きんのう」という家の位牌がたくさん並んでいたというのだ。ところが「きんのう」家でそれら位牌を持っていったので今はなくなったという。ということは観音堂は「きんのう」家のものだったのかもしれない。そのあちりの話が聞きたくて昔のことを知っている人は?、と聞いたらみなが福島さんを薦められた。ところが福島さんに「きんのう」家と観音堂の関係を聞いても「解らない」という。本当に解らないのか、それとも親方被官の話なので話されなかったのかは定かではない。

 実はこの「きんのう」家のことも以前「大堤」で触れている。その内容をもう一度ここで紹介してみよう。

 町(現在の中川村大草沖町)に酒屋をやっていたオヤカタがいた。このオヤカタは大堤を作ろうとして、半分ほど作ったところで酒がうまくできないようになってしまった。オヤカタの座敷に太い蛇がいたという。この蛇が大きい酒だるの縁に半分ばかりのぼっていた。主はそれを知っていたかわからないが、酒蔵にいた若い衆がこれはまずいものがおるといって、なぎなたをもってきてその蛇を切ってしまったという。そうしたらそれから酒が腐ってしまってできんようになってしまった。
  堤は作りかけ、酒はできんわで困ってしまい、この土地を売りに出した。それを買った人たちはシンショウをこしらえたという。オヤカタはここにおっては生活にならんといって、天竜川をくだったところの金野(現在の泰阜村金野)というところに行った。そこで土地を売った銭を持っていってやっと生活が成り立ち、そこの人たちに評判が良くてたちまち偉くなったという。
  仲林に行者さまがあって、背中に鬼子母神を背負っている。鬼子母神さまがたいした神様で、その行者さんをオヤカタがいっさい面倒をみていた。行者さんも一人じゃなく、子分を三人ほどつれていた。その行者が、オヤカタがしおくりしたんだと言い伝えてくれといっていたという。最後には塚の下に石の像をつくって、そこにあぐらをかいて、金の鬼子母神を背負って、七日七朝チンチンたたいて、鉦がならんようになったら穴をふさいでくれといった。家来たちも腹を切ったりしてそこで死んでしまった。今でもお祭りを地区でやっている。大堤はオヤカタが半分まで作ったが、そのあとオヤカタの土地を買った人が縮めて作った。

 現在の泰阜村金野へ移ったあとにもこの地とは少しかかわりを持っていたようだから、観音堂にしばらくの間位牌がたくさんあったというのもうなずける。この話がいつの時代の話なのかはっきりしないが、「きんのう」家がこの地から移転した後に入ったのが墓地の持ち主である親方様だったのかもしれない。その親方様の屋敷跡の山側に高木があって、根元に立派な祠がある。観音堂で話を聞いていたら、その祠のところに蛇の神様が祀ってあって、その家(親方様)では今も丁重に蛇を大事に祀っているというのだ。行ってみると祠の脇に蛇を半肉彫りした碑があった。「明治三十一年九月 合竜姫霊神」と銘文がある。大堤の話に出てくる酒屋の蛇の話と無関係ではないのかもしれない。町には農地が少なく、大堤のあたりまで耕作に行っていたという。そもそも町のかつての親方様らしき「きんのう」家がそこに大堤を造ろうとしたことからいけば、町の人々がその水を利用できるあたりの土地を持っていても不思議ではない。まったくの伝承からだけの推定であるが、数珠回しの背景にもそうした過去の歴史が積み重なっているように思う。

 

蛇神

 

コメント

人が変わったよう

2017-03-23 23:18:21 | つぶやき

 今朝のことだ。午前5時ごろ火災を知らせる防災無線が鳴る。昨夜もいつも通りうたた寝をしてしまって、午前1時ころ風呂に入ると、そのあと少しばかり気を晴らすように事務処理を。そしてこのごろでは珍しく朝刊を配るバイクの音を聞きながら床に入った。午前3時のこと。以前と違って最近寝つきが悪く、眠入るのに1時間くらい要す時もあるほど。この日も深い眠りに入ることもなくうつろうつろしていた2時間後くらいになったけたたましい音。騒々しい世の中になっても、朝方の静けさは、そう昔と変わらない。

 「火事か…」そう思ってどこで火事があったのか報じる内容をまぶたを閉じたまま耳にして「まだ1時間ある…」と思ってそのまま休もうとすると、廊下をドタバタと走る音が。そういえば息子は消防団だったと気がつく。放送が流れ始めて1分も経っていないだろうか。その音を聞いて妻は起き出して行く。すでに着替えていたという息子は「お母さん車を動かして」と口にしたが、実は昨夜は母の方が先に帰ってきていたので、動かす必要はないのだが、母を見て咄嗟に「車が邪魔かもしれない」と思ったのだろう、出た言葉だ。ものの数分で飛び出していった息子。「人が変わったよう」そう見送って戻ってきた妻にわたしは声をかけた。いつもはなかなか起きてもこない息子だし、反応の鈍い息子を見ているとこの日の光景は別人のよう。まだ消防団に入って1年満たないが、そして仕事が忙しくてふだんの消防団の仕事も最低限しかこなしていないと思うが、火事というと飛び出していった息子にびっくりした朝だった。

 消防団への入りてがなくて困っているという話は常日ごろから聞いている。わたしは次男だったこともあって、当時は長男だけが入るという感じだったからわたしには縁がなかった消防団。その長男であった兄も、仕事が忙しかったからなかなか消防団の仕事はできなかっただろうが、やはり長男の不在の家では消防とは無縁だった家が多かった。今では次男三男でも入ってくれればという感じで団員を募っているが、思うようにいかないようだ。昔のような消防団ではないようだが、それでも拘束されることが多いから、抵抗感は強いようだ。若い人たちの回帰傾向を近年は感じるが、消防団に限ってはいっこうに光が見えないようだ。

 ということで、この日は床に入ってしっかり寝たのは1時間くらいだったのかもしれない。長野へ向かって会議後の飲み会では、時間が経過するにしたがって見ごとに寝入っていたのは言うまでもない。

コメント

生坂村雲根の道祖神

2017-03-22 23:36:53 | 民俗学

 

 国道19号を走るのはお得意なもの、という話はこれまでにも何度もしてきた。とりわけ東電平ダムの湖となっている山清路あたりを走るのは、わたしのなかでも常に懐かしいし、いっぽうで現在形のイメージを常に持てる空間だ。このダム湖はかつては常に浚渫船のようなものが浮かんでいたものだが、今はそうした船の姿を見ることはない。以前触れた下生坂の竹の本あたりから、平ダムのある古坂あたりの道はイメージがすぐにわいてくる空間だ。この沿線の川の景色は変わらないが、沿線の家々の景色は、ずいぶん後退してしまったことは否めない。その途中にある雲根のことについては、「腹の神送」で触れた。川にそれらしきものが8月19日に浮かんでいたことで書いた日記だったが、その答えがようやく解った。今もこの行事は行われているというが、今は盆過ぎの休日に実施されているという。したがってかつて24日に行われていたものが、今はおそらくそれ以前の休日あたりに行われているということなのだ。

 さて、雲根を通るたびにその行事のことを懐かしく思い出すわけであるが、国道端ということもあって、雲根の道祖神に立ち寄ってみた。腹の神送りが行われる辻とは国道を挟んだ山際のかつての街道筋にそれは安置されている。写真のように石祠型の道祖神で、「文政元寅年九月吉日 雲根邑」(1818年)の銘文がある。碑高90センチと県内の石祠型道祖神では大ぶりな方だろうか。祠内に双体像が祀られている。石祠の上にヤスで葺いたものが飾られているが、とくに呼び名はないという。一本締めで締めて裏側で2本を結んでいる。ヤスは正月の飾りであって、かつては小正月のサンクローの際に集まったヤスで葺いたという。今はサンクローはしなくなったが(櫓を組んだものを造る)、集めた松飾りを簡単に燃やす程度だという。現在も道祖神のある前で燃やしているというが、木が生えていて危ないということもあって小さく燃やしている程度だという。現在は7日に行っていると言うが、その際に集まったヤスで屋根を葺いている。1年間そのままにしておいて、翼年にはずして焼くという。いつもはヤスのみで葺いていると言うが、今年は出来合いの派手な飾りや垂が一緒に葺かれていた。

コメント

記憶をたどって

2017-03-21 23:30:32 | ひとから学ぶ

 町の数珠回しを訪れていろいろ話を聞こうとすると、「詳しいね、地元の人より詳しい」なんて言われる。今から20年前にこのあたりで調査をしたことがあるから、集まっている老人クラブの人たちよりひと世代前の人たちから話を聞いている。もしかしたらわたしの聞いたようなことを今の老人クラブの人たちは知らないのかもしれない、そんなことを思った。すると草むしりをひと仕事して腰を下ろして休んでいたご老人から「何を聞きたい」みたいな雰囲気が漂った。近くにいた方たちに「この中で昔のことに詳しい方は?」と問うと、腰を下ろされて休んでいたご老人を指差された。ということで話を聞きに。大正12年生まれで、この日参加されている方たちの中では最高齢だと。そこで気がついた。もしかしたら福島さんではないか、と。

 実は福島さんにはかつてこの地域で調査をした際に話者として依頼したことがあった。20年前だから話者としてお願いした方たちの中ではお若い方だった。ただ、当時も周囲で言われたのは、「若くてもいろいろ詳しい」という話だった。記憶の中ではまだお若い顔の福島さんがよみがえるが、実際に調査に行かれたのは別の方だった。数珠回しには記録帳があって、毎年の参加者の名前が書き込まれる。今年も男性5名、女性6名の名前が書き込まれた。きっと数珠回しの参加者を記録しているものなのだろうが、昨日も触れたように、実際は2名は数珠回しには参加されなかった。記録帳はまだ新しい感じだったが、最初の記録は平成一桁時代のもの。そこには聞き覚えのある方の名前が。年を追っていくと、かつて話者としてお願いした記憶のある名前が何人も。それぞれの方について「ご健在ですか」と問うと、ほとんどの方は亡くなられている。結果的に福島さんは当時の話者の中で数少ない存命者なのかもしれない。その福島さんがかつて車の免許はないものの、バイクに乗られているということは聞いていた。バイクについては今はもう乗られていないというが、この日観音堂まで乗用運搬車に乗って来られていた。そしてさっそうとそれに乗られて、いち早く家に帰って行かれた。長く数珠回しが続くことを願うばかりだった。

 ちょうど集落の中心からみると高台にある観音堂。庭には3本の桜の木がある。すでに太い幹になりつつある桜であるが、この桜は元の集会所を取り壊したあとに植えられたものだという。その昔にも桜の大木があったというが、現在の桜が植えられてからすでに40年ほど。歴史が、年が刻まれることの早さなのだろうか。そして地域をめぐる環境は変わっていく。

 

数珠回しを終えて

 

コメント

町(大草)の数珠回し

2017-03-20 23:08:12 | 民俗学

 

町から望む南駒ケ岳から空木岳

 

数珠回し

 

オコーシンサマ

 

 中川村大草で現在「沖町」と言われている集落は、かつて昭和50年ころまでは沖田と町とふたつの集落だった。中川村大草では集落統合がさかんに行われた。沖町もそうだし、昨日触れた三共や、美里もそうした集落である。沖町のうち沖田には「高坂」という大地主があったが、町には「塩沢」という大地主があった。かつてこの地域を調査した際には、この大地主のことが調査者の中で話題になったわけであるが、その調査からもすでに20年ほど経過して、戦前のことはもちろん戦後の変化を知る人も少なくなっている。大草城址の入口にあるのが町である。昔は数軒しかなかったというのに「町」と呼ばれるようになったのは、職人が多く小さいながらも町が形成されていたからなのだろう。マチらしさとも言えるのだろうが、ここではイエの変転が著しかったこともかつて聞いた。

 さて、その町において今日、彼岸の中日に数珠回しが行われた。春彼岸に数珠を回す地域はまだまだ多い。過去には「倉掛のヒャクマンベー」について触れたことがあったが、あまり報道されていないものの伊那谷でも幾例か見た覚えがあるし、「あそこでもやっている」という話も耳にしたことはある。しかし、実際に数珠回しを目的に訪問したことはなかった(お彼岸ではなく、コトヨウカに行なわれるものは何例も訪れている)。実はこの町の数珠回しのことはかつて大草の調査をした際に聞き取りをしている。次のような内容だった。

数珠まわしをやった。老人クラブの衆がたまにやる。お彼岸に掛軸をかけるてやる。剣を持った像が書いてある。部落が合併したので、その時に大きい建物を壊して小さくして、観音堂だけまつってある。三好さんの桜の上にある。三十三ヶ所めぐりの二番目にあたる。本尊もある。よく知らんが古いものである。そこで数珠をまわす。今でも観音堂という。そこはヒラバタと呼ばれているところ。子供じぶんに数珠まわしに出た。青年の衆が竹にハナをつけて飾って、部落でオダンゴを作って投げた。そして一杯飲んだ。昔は沖田でもやっていた。八畳間ぐらいのところで四、五十人集まってやった。老若男女が集まった。大きい玉に房がついていて、何周りといって決まりがあったと思う。その時に庚申さまも拝んだ。「コーシンデー コーシンデー マイトリマイトリ コーシンデー」といった。回す前に南無阿弥陀仏を唱える。そして数珠を回す。福島正さんが唱える。数珠を回す時は「ナンマイダー ナンマイダー」という。数珠を回した後に庚申の唱えをする。数珠にコブがあって、回ってくるといただく。米の粉をひいて団子を作った。お嫁さんに来た人が粉をひかされた。そこでお茶を飲みながら作った。午前中に作った。重箱をもって集会所に行って、数珠を回した。沖田と合併したので、今は観音堂になっている。今は、老人クラブの衆が集まって、庚申やら数珠を回して一杯飲んで団子をいただいている。昔は盛大だった。みんな行った。同じようなことをやっていた。団子は女の衆がやって、男の衆はミチブシンをした。大草のうちに七本の桜があって、寺を回ることをした。

 断片的ではあるが、ほぼ同じようなことを文中に登場される福島正さんに、今日も話をうかがうことができた。この聞き取りは平成6年の夏に行ったもの。20年前の聞き取りになる。現在も老人クラブの方たちによって実施されていて、午後1時から観音堂のある前庭の草むしりと掃除を始め、観音堂の屋内も掃除が行われる。かつての聞き取りの中に男衆はミチブシンをしたというものがあるが、観音堂の草むしりをしている光景を見ていて、なるほどという感じを抱いた。ここには沖田と町が合併するまで集会所が建っていたというが、そのものが観音堂だったのかもしれない。合併になった昭和50年代に元の建物は取り壊され、消防の詰所として利用されていた建物を移築して現在の観音堂になったのだという。かつての集会所は現在の観音堂の庭いっぱいに建っていたと言われ、部落中の人々が集まって数珠が回されたという。現在は老人クラブの方たちだけで行われているため小さくなった観音堂でも隙間ができるほどの人数。今日は9名の方たちによって数珠は回された。実は掃除の際にはもうお二人おられたが、聞くところによると「宗教の違い」とかで数珠回しには参加されないという。一通り掃除が終わると数珠回しとなる。午後1時45分ころである。

 まず福島さんのお経が唱えられ、みなが唱和する。そこそこ長いお経を福島さんはすべて暗記されており、福島さんが参加されなくなると「どうなるのだろう」、とそんなことが頭をよぎった。お経の後「南無阿弥陀仏」が何度も繰り返し唱えられ、それが終わると数珠が観音堂に広げられ数珠回しとなる。かつては鉦があったと言うが、戦争で供出されてしまったため、現在はいわゆる仏壇にあるリンを使って代用している。福島さんが観音様の前でリンを鳴らしながら音頭をとると、数珠は7周時計と反対の方向に回される。7周回すとなると、数珠が長いのでそこそこ長い南無阿弥陀仏となる。数珠についている房が回ってくるとと額にあげて念ずる。房のついているところは大きな珠がついているかと確認したが、とくにそういうことはなかった。数珠回しが終わるとオコウシンサマの唱えごとが掛け軸に向かって行われ、観音堂内の行事はすべて終わる。この日は合併した沖田でも東谷寺にある観音堂で老人クラブの人たちによって掃除が行われ、午後3時から沖町会館において老人クラブの総会が開かれるという。かつての沖田と町とそれぞれの観音堂の掃除をした後に、一緒になって総会を行っているようだが、かつて沖田でも数珠が回されていたというが、今は実施されていない。

コメント

奇石

2017-03-19 23:00:39 | 民俗学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

間柱 「道祖神」

 

 中川村の大草に間柱という集落がある。今は間柱と中林、そして北林が一緒となって三共(さんきょう)と言われている。この間柱に大堤というため池があることは「大堤」で触れた。この大堤の西側、真ん中ほどの道端に写真の「道祖神」が建立されている。見るからに新しいものであるが、背面には次のように刻まれている。

村道拡幅について部落共有の山林を売却しその代金を基金となし土地改良事業により旧位置よりこの地に移す

昭和六十四年正月 間柱部落一同建之

道祖神の前面一帯は見ごとにほ場整備が行なわれ、今は整然とした水田が広がっている。碑高105センチ、碑幅144センチのもの。この大きな道祖神の傍らに、小さな奇石が一緒に置かれている。実はこの奇石について『中川村の石造文化財』(中川村教育委員会 平成12年)には記載がない。しかし、背面に移転したと刻まれているからこの道祖神が移転されたものではない。おそらく奇石がそうであり、奇石以外に道祖神があったのかどうか。この奇石のことについて『上伊那誌』民俗篇(上伊那誌刊行会 昭和55年)には記載がある。おそらく間柱の項にある奇石がそうなのだろう。「堤の北角」とその場所が示されている。高さ25センチとあるから、ちょうどここにある奇石くらいの大きさである。

 ところで、間柱の北にある洞を北へ越えると町である。町の中央の四辻から少し東へ上ったところに石碑群があり、その中に丸彫りの如意輪観音が建っている。その背後に凝灰岩系の奇石が転がっている。これも道祖神なのではないかと疑うが、『中川村の石造文化財』にも『上伊那誌』にも記載はない。かつてこの地域にはこのような奇石がかなり存在していたと思うのだが、今はその存在がかなり忘れられているし、無くなったものも多いのではないだろうか。

 

町神明前の奇石

 

コメント

和知野へ

2017-03-18 23:41:33 | 民俗学

合戸馬頭観音

 

和知野一石三十三観音

 

和知野馬頭観音

 

 鬼ヶ城の道祖神から和知野川に下る途中に合戸という集落(今は集落と言って良いかは解らない)がある。北向き斜面にある集落だが、谷の正面には阿南町の和知野や平久の集落が南向き斜面に展開する。この道端に写真の馬頭観音が建っている。表情そのものには豊かさはないが、注目は何と言っても台石にある馬の浮き彫り像である。2頭の馬が野を走っるが如き姿は活き活きしている。「弘化四年」(1847)銘がある。

 合戸を下り和知野川を渡ると阿南町和知野である。天龍村でも合戸のような地域は、村役場のある平岡へ出るよりも阿南町役場に出た方が近い位置にある。和知野川沿いの集落から傾斜地を登っていくと和知野中心とも言える四ツ辻に出る。近くに集会施設があるが、その近くの道端に一石三十三観音が建っている。一石三十三観音についてはこれまでにも何度か触れてきている。下伊那南部にはこの形式の石仏が幾例も見られる。井戸寛氏による『日本の石仏』(日本石仏協会)118号と130号に掲載された一石三十三観音のデータについては、「一石三十三観音」に記した。この中にもある「下伊那郡阿南町和知野 路傍(集会所付近)文化10(1813)100×55×25」というものがこれにあたる。このあたりでは5体×6段の上に3体を配置した形式のものが多いが、、和知野のものは6体×5段に3体をプラスした形式のもの。単体の表情はもはやうかがえないほど摩耗している。

 隣に欠損著しい馬頭観音があるが、よくみるとこの馬頭観音は「石仏に彩色するということ[30]」で触れた道祖神や青面金剛のようなごく僅かな彩色痕が見られる。胸部から下体にかけて大事な部分を欠いているため、そこにどれほどの彩色がされていたかはわからないが、下体の下部の衣に彩色された痕が見られるとともに、頭上に彫られた馬頭の耳のあたりにも朱の色が僅かに残る。馬頭からうかがえるのは、表情豊かな馬頭観音であったのではないかと思わせる。本体も上下にヒビが入っていて、針金で落ちないように吊り上げられている。

コメント

温かさの〝価値観〟

2017-03-17 23:08:20 | つぶやき

 よく行くコンビニの温かい飲み物の棚へ手を伸ばす際に、必ず「今日はどうだろう」という戸惑いがある。ようは温かさはどうだろう、と。わたしがコンビニに行くのは飲み物を買いに行くのが主だ。あとは時おり弁当買いだろうか。飲み物といってもほとんどコーヒーであるが、冬場はコーヒー以外のものに手が届く。あと時間がないときだろうか。コーヒーは入れるのに手間がかかる。温かい缶入りのものならレジのすぐ近くにあるから、店に入って出てくるまで道端の自販機並の短時間ですむ。ということで夏場には絶対買うことはないが、冬場に限ってよく買うのがコーンポタージュ。ところが冒頭で書いているように「今日はどうだろう」と思うほど、その温かさは一定しない。もちろん棚にどのくらい置かれているかにもよるが、それほど吐けることもないだろうから、手の届く位置にあるものが棚に置かれて十分であることは容易にわかる。それでも温かさが一定しないということは、店によって設定温度に違いがあるのか、あるいは周囲のほかの製品との兼ね合いなのかどうかはわからない。何と言ってもコーンポタージュに至っては、熱いくらいがよくてひと肌程度では飲んでもいまいち。低温だとコーンがポタージュと分離した感じがしなくてせっかく買っても後悔感が募る。

 わたしは以前にもどこかで記したが、比較的熱いものを好む。妻には熱いものを飲まないように注意されるし、ドックのたびに食道に若干の異常を指摘される。例えば味噌汁。少しでも冷えていると「美味しくない」と思う。だから必ず温めてからよそう。「熱い」ものを口にすることに歓びを抱くタイプだ。冷めたら価値が下がるという意識が強い。したがって、時どきみる出来合いのものを選択して精算するタイプの食堂は、冬場には選ばない。外食では麺類を選択することが多いのも、同じ値段でより価値感を抱くための選択なのかもしれない。息子にわたしに似ているところがあると妻は「嫌になっちゃう」と、そんなしぐさがあるたびに嫌味を口にする。そんな息子だが、わたしとまったく違って、冷えた味噌汁を平気で口にする。食事に呼んでも、「冷めちゃうぞ」と何度繰り返してもなかなかやってこないでおいて、わたしなら絶対このままでは食べないような冷めたものを平気で食べる。信じられないほどわたしとは正反対な価値観だと思うのだが、妻はそのことは指摘しない。

 温かい飲み物が並んだ棚で、これはどうか、あれはどうか、などと触りまくって選ぶなんていうことはしない。そもそも缶によって温かさが異なる可能性は低い。せいぜい1列目にあるものを選択するか、2列目にあるものを選択するかぐらいだろうか。もちろん最前列にあるものをいつもは取り上げるが、缶を持った感触で「これは冷たい方」という直感はあり、実際のそれを口にしても裏切られることはない。缶の熱さの直感通りの答えをわたしは口の中で味わう。ようは、直感があったら選びなおす、あるいは違う飲み物を選択すれば良いのに、それができないわたしがいるのも事実だ。

コメント

時代は変わり、

2017-03-16 23:15:59 | つぶやき
 わたしがアパート住まいから無縁になってからもう20年ほどになる。ようは自宅を建ててからのことであるが、その後も単身赴任したことがあるからアパートにもしかしたら住む機会はないこともなかったが、会社の寮というものがあったから、結局そうした縁もなく暮らしてきた。とはいえ会社が最盛期だったころは寮に皆がみな入れたということもなく、アパートを借りる人もいた。わたしが自宅を建てる前の境遇はそれに近いものだったかもしれない。結婚後間もない若い人たちを受け入れるだけの部屋数が寮になかったし、わたしの場合は地元だったうえに長男ではないという境遇もあって、よそからきている人たちにのためにある寮に入るというのは、ちょっと曖昧な基準の中でありえないものだったかもしれない。したがって結婚という機会がアパート暮らしに誘ってくれたわけであるが、とはいえ安月給で二人が暮らしていくともなれば〈妻は当初から実家の農業を手伝っていくという流れだった〉、ふつうのアパートはなかなか選択肢に入らなかった。ということで県営住宅という、いわゆる所得制限のある住宅を選択していた。そこで息子の幼少時代を過ごしたわけだが、いわゆる一般のアパートと違って環境的にはそれほど良いものではなかった。また当時の寮も安い造りだったから、けして若夫婦が暮らすには、気兼ねのある環境であったことも事実。「まあ、それよりましか」程度の思いで暮らした10年ほどだっただろうか。したがって今どきのアパートには暮らしたことがない。
 
 そういえば、と思い出すのは飯山にいた40年近く前暮らしたところ。名前は「マンション」だったが、風呂はなく〈共有だったかもしれないが入った覚えがない〉、玄関と兼用のキッチンと6帖一間の部屋だった。何より雪下ろしをしなくても良いのが良かったくらいだろうか。駐車場も建物の奥にあって、雪が積もってしまうともう入ることができない。したがって電車で実家まで毎週帰った年もあったが、さすがに飯山から飯田線の駅まで帰ってくるのは容易ではなく、なんとか車を停めるスペースを確保することに苦労した覚えがある。今のようにアパート事情が良く、加えて雪が少なくなった冬とでは大違いである。まさに賃貸アパート初体験だったのだが、当時はどんな状況であっても頷いて「よろしくお願いします」という時代だった。
 
 ということで、この春から今いる出先にやってくる同僚の部屋探している。今まで寮があったのだが、縮小によって寮を維持するだけの人数はもう確保できないため、寮を手放すことになっている。まだ所有物ではあるが、買い手さえ見つかれば撤退する。したがって久しぶりにやってくる単身赴任者には、アパートに入ってもらうことに。ところが規模縮小時代を迎えてからすでに10年以上というわが社にとって、アパートに対する知識がない。今どき仲介業者全盛期で、簡単に見つかる時代ではあるが、それがまた、選択肢がいくつもあると慣れないものには頭が痛い。
コメント

〝何をそんなに焦っているのだ〟

2017-03-15 23:27:37 | つぶやき

 何度も触れていることを繰り返すのは、1日の中でも最も印象的な出来事だったからのこと。

 まず、朝方のことだ。いつも通りセンターラインのない県道を会社に向かって走っていると、後ろからずいぶんわたしの車に接近する車がいる。まあずいぶんといってもそれほど気になるほどでもないのだが、ふつうの車よりは接近しているし、その車間がスピードが上がっても下がってもそれほど変わらないところにあるから、ルームミラーをのぞきながら、しだいに違和感が増幅していく。赤信号で止まれば、こんな時は「いったいどんな人なんだろう」とルームミラーで後ろを確認する。「女かー」、正直な思いだ。それほど若くもないから主婦といったところだろうか。以前にも触れた通り、意外に女性には前の車の運転手の意識を悟らず、何も考えずにやたら接近する人がいる。男性ドライバーの意図的なものとはちょっと違う。が、前を走っているドライバーには、気になるもの。とまあ、朝は「気になる」程度で県道からわたしが逸れた段階でサヨナラをした。

 今度は帰途でのこと。今度はわたしは後ろを走っている。前にいる車とのご縁は、飯田市内から始まった。まだまだ通勤の車が多い時間帯だから空いているわけではない。前の車の前に遅い車がいて、「遅いなー」と思ったところから前の車を少し意識し始めた。ようはあまり接近すると前の車が嫌がるだろう、と意識的に車間を空けたからだ。繋がっているのだから煽ったところで無意味なケース。ところが前を走っている車は、後続のわたしに意識する以上に、やはり前の遅い車を意識しているようだった。しばらく走っていると、前の前の遅い車が県道からサヨナラをした。「良かった」と思うのはわたしも「遅いなー」と思っていたからだが、アクセルを踏んで気分良くなったころ、気がつくと前にいた車の姿が見えない。「あれっ、どこへ行ったんだ」と思ってしばらく行くと、再び前の前の車が遅くて前の車の後部についた。「さっきの車だ」、ようは姿が見えなくなったのは、急加速であっという間に行ってしまったからだった。わたしもそこそこアクセルを踏んだが、軽トラでは限度がある。前の前の車が再び県道からサヨナラすると、さっきと同じことを繰り返す。「また追いついた」と。そんなことを繰り返すうちに解ったのは、前の前の車の中には、そこそこのスピードで走っている車もいるのだが、後ろから猛スピードで接近してくる車がいると減速してしまう。とりわけ夕方だからすでにライトを点けている。誰だってそうだろうが、後ろから猛スピードで接近してくる車がいれば意識しないはずはない。さらに接近されるとなおさらだ。わたしだってこういう場合は、それ以上のスピードで詰められないように走るか、逆に無理に減速して走るかのどちらかだ。ようは後ろの車がふつうではない雰囲気を察すれば、抵抗するのが常人の行動。だからとりわけ混雑している時間帯には、なるべく車間を空けて前の車に意識されないように走るのが、世の中を穏便にする方策なのだが、この前を運転している車はそんな常識が解らない。繰り返すうちに解ったのは、前に車がいなくなると90キロ近いスピードでわたしから遠ざかっていく。これでは前の車にそう時間をかけずに追いついてしまうのは解るだろうに、そして、前の車が嫌がって減速するだろうに、それが解らないというか、無駄な行動をしている姿に唖然としてしまうのだ。リスクが高すぎる人生を送ることによって、得るものが何もない、とは言わないが「もうちょっと冷静に考えろよ」と思うのだ…。

コメント

消滅する記憶を救えないか

2017-03-14 23:50:05 | つぶやき

鬼ヶ城への尾根道から大下条を望む

 

 先ごろ天龍村鬼ヶ城の道祖神について触れたが、ちょっと調べてみようと思った 時にすぐに頭に浮かぶのは、いわゆる市町村史誌の類。ところが期待していたことがそこに記述されていないことはごく当たり前ようにある。もちろんわたしの探し方が悪いかもしれないが、この手の本を開くことが多いから、めったにこうした本を手にしない人よりは的を得た探し方をしているとは思うのだが…。今回はそもそも道祖神の建っている脇の道はどういう道だったのか知りたかった。昔の道を扱った部分を開いてはその詳細を求めるのだが、記述はごく簡単、というかその記述がこの道なのかどうかもはっきりしない。記述のみでは正確に読み手は判断できない。記述が簡単だとなお更である。分厚い本で複数巻になっている本など、ふつうの人は手にしようとも思わない。そのいっぽうでわたしのように詳細が書かれていないだろうか、と期待する者は手にとったとしても期待を裏切られる。ましてや求めていたことの記述かどうかもはっきりしないとなれば、想像の世界。道の記述が少なくて不明瞭となると、次は石神仏の記述からアプローチする。村内の地区別の総数を示した表が記載されているということは、実地でそれらを調査したものなのだろう。しかしながらたとえば今回の道祖神に対する記述は「村内には双体道祖神もある」程度の記述のみで、固有のものを説明した記述はない。ようは執筆者にはある程度の基礎資料があるのだろうが、それはどこかに公開されていればよいが、おそらく執筆者のみのデータとして埋もれている可能性が高い。

 昨日「いつまでも続かないこと」で記したが、わたしもだいぶ歳を重ねた。いずれは高齢者はこの世からいなくなり、たくさんの記憶はこれほどメディアなり保存方法がたくさんある時代でありながら、消え去る物も少なくないだろう。「調べた者のみ知る」では地域の情報は諸滅するのみ。もちろん市町村史誌にそれらをすべて記載する紙幅がないことは十分承知しているが、それなら知り得た情報をそれ以外のところで残していく方法を考えてほしいものだ。

 前掲書に若干の記載があったが、おそらくわたしが車を停めた峠から鬼ヶ城へ続く道の途中までの道は、かつて神原村から大下条、そして飯田方面へ続く近道だったに違いない。たとえば向方から北上する際にはこのあたりの尾根道を通り、和知野川へ下って川を渡ると、再び起伏の激しい山間の道を上って大下条へと向かったはず。たったそれだけのことなのに、それを正確に教えてくれる情報が、なかなか世の中には出回っていないのである。

コメント

いつまでも続かないこと

2017-03-13 23:31:33 | つぶやき

 仕事でお世話になっている方と立ち話を。お父様が脳梗塞で倒れて危篤状態だった2ヶ月ほど前に、いつお葬式で急に仕事に離れるようになるか解らない状況だと聞いていた。結果的に持ち直したものの、今もそれほど状況は変わっていないし、意識はほとんどないことから覚悟はしていると言うが、そんな状況で2ヶ月過ぎている。倒れる当日まで新聞配達をされていたというお父様は88歳だったという。本当に元気だったこともあって、周囲は突然声が聞こえなくなり、そして姿も見えなくなって寂しい限りなのだろう。「しだいに」と「突然」では大きくアプローチが違う。

 妻は義父の身近にずっといて義理の多かった義父の交流を支えてきた。したがって義父と親交のあった人たちをよく知っているし、葬儀の際にも喪主よりもはるかに告別式に来られた方たちの顔がわかった。したがって義父が亡くなるということは、その親交のあった人たちとも交流がなくなっていくというちょっとした寂しさのようなものを今は感じているだろう。加えて近ごろ話すのは、年代が年代だけに、そうして親交のあった方たちも他界されたり、体調を崩されたりと、かつてのような関わりがなくなっていく現実がある。先日も初彼岸だとお参りに来られた方は、少し早いのだがまもなくやってくる誕生日で免許を返納されるという。返納される前に初彼岸のお参りに来たという。まだ80歳を少し超えたところなのだが、近ごろいろいろ心配になってこられたようで、奥さまが勧めたよう。奥さまも運転はされるが、今まで来る際にはご主人が運転されてきた。ということで、これからは近くの買い物などにしか車は使わなくなるとのこと。妻にとってもずいぶん親交のあった方だけに、今後は顔を見せに来られなくなるのがとても残念というわけだ。

 自分たちも年老いていくのだからあたりまえのことなのだが、周囲で同じような歳の顔がしだいに見えなくなっていくのは、それぞれにとって寂しいのはもちろん、年老いていくことで取り残されていくようなところもあるだろう。今は次世代が同居しないのがあたりまえのようになってきているから、周囲から人の顔がなくなっていく。年老いること、歳を重ねること、いずれにしてもえ今の高齢化社会から「寿」感はすでに喪失しているとも言える。

コメント

危惧されること

2017-03-12 23:41:07 | つぶやき

 東日本大震災から6年。もう6年なのか、それともまだ6年なのか、その立場によってそれぞれなのは当たり前だろう。それにしてもあれほど広範に、そして壊滅的な被害だっただけに、その後の空間計画は一筋縄でいかないのは当たり前だろう。そして福島原発はこの被害に輪をかけた。復興といってもそこには大きな時間的格差が生じる。10年たったとしても、その進度に大きな違いが生じる。でも同じ東日本大震災によるものなのだ。

 本日の信濃毎日新聞朝刊総合面に危惧すべきことが書かれている。震災前にはそれまでの公共事業の常識通り、国と自治体がお金を出し合って進められてきていた。ようは自治体にも負担があるから一気に事業を進めることはできない。ところが震災後、それまで進めていた公共事業ですら復興に必要な事業として国が全額負担で進めたため、一気に進捗した。一時復興と言いながらまったく別のところに予算が使われていると批判が相次いだことがあったが、そもそも東北に公共事業特需がやってきて、本来は時間をかけて懐具合を見計らってやっていた事業があっという間に進んでしまったというわけだ。何が必要で何が必要でないか、そんなことを考えている余裕もなく、地域が変わっていっているかもしれない。そしてそりスピードに住民がついていけているのかどうかも不安だ。その一方で報道ではなかなか復興が進んでいないというようなことも流す。これほど大きな被害を広範に受けたのに、そう簡単にいかないのは当然なのだが、人々はいろいろの視点でそれぞれが思いを発するから、本心はなかなか見えないし、それで良いのかどうかもなかなか判断ができないはず。そして例えば巨大防潮堤だ。土木構造物は永遠ではない。ただでさえ日本中にたくさんのモノを造り続けていて、それらが古くなったのになかなか更新できないというなかで、巨大な構造物を短期間に造ろうとしている。果たして今造った構造物が、ちゃんと維持されていくのかどうかも危惧の材料だ。そのことを前掲の新聞でもしっかり捉えている。「大量の建物の完成時期がほぼ同じため、大規模改修も同時期に押し寄せる」と先のことを考えると復興したとしても悩みが嵩むばかりだ。

 何より特需ではないが、国が、あるいは上位機関が構造物を造ってくれるというときに、無駄に大きなものを造ってしまうと、改修時に困惑する。なぜかといえば、無駄に大きい分、改修費が莫大にかかることに。永遠に国が管理し、再び改修してくれるというのならいいが、そんなことをしていたら国だって潰れてしまう。不適切な意見かもしれないが、そもそもすべての集落を同じように復旧する必要があるのかどうか。その後も続く地震災害に加え、近年は災害にことかかないほど多様な被災に遭遇する。日本は災害の国である。人口減少時代にあって、今まで通りの災害復旧理念で良いのかどうか、とりわけ大震災がなくても人口減少の著しかった東北の場合、危惧されるべきことがたくさんあるのではないだろうか。

コメント

『伊那路』に思う

2017-03-11 23:54:14 | 信州・信濃・長野県

 「地域誌のこれから」で上伊那郷土研究会が会員にアンケート調査を行っていることについて触れた。同会は『伊那路』を創刊して60周年を迎えた。会員減少はどこの郷土史誌でも抱えていることで致し方ないが、その中でどう継続し、そしてこれまでの蓄積を維持し後世に残すかが求められる。創刊60周年を機会に会員の声を聞こうとしたのも、アプローチのひとつなのだろう。アンケートの結果は2月号に掲載された。1月号から2月号にかけて「創刊60周年記念特集」を掲載しており、その中で報告されている。発行されるたびに逐一全てに目を通していないため、どこかに記載されていたのかわからないが、わたしが見た限りでは現在の会員数については触れられていない。できれば1月号巻頭に掲載された「年表『伊那路』600号~のあゆみ」の中に会員数も掲載してほしかった。

 さて、アンケート結果であるが、回答数は61名だったという。おそらく会員数からみればその数はかなり少ないと思うのだが、とりわけ回答者の年齢構成が掲載されていて、40歳代以下が2名という少なさには不安を抱く。例えば長野県民俗の会において同じようなアンケートをしたならば、40歳代以下2名ということにはならないだろう。なぜならば、そもそも10名の役員のうち40歳代以下が半数を占める。これがかつては役員50歳定年としていたから、高齢化していることに違いはないものの、役員が回答したとすればこの段階ですでに上伊那郷土研究会の年齢層とはかなり違うことがわかる。そもそも今回のアンケート回答者60歳代以下でも14名しかいなかったという。回答数61に対して2割少しという値(無回答が4名)に過ぎない。とはいえ、購読歴をみると10年以下の方が半数近くあり、年齢層はともかくとして、長年購読してきた方ばかりではなく、短い方が回答されている点については希望が持てるところだろうか。ようは内容しだいでは、新たな購読者を募れるということだ。そして「今後行ってほしい企画」や「『伊那路』に望むもの」という問いに対してさまざまな期待が読み取れるのもアンケートを行った成果ではないだろうか。

 ところで4月から連載の記事を依頼された。1ページのみという紙幅の中で掲載するのは、意外にしんどいことを第1回目の記事を何にしようかと考えながら感じた。それと対象とするのは上伊那エリアでということだった。ということで上伊那でのこれまでの自分のフィールドワークを紐解くと、意外に少ない。ようはネタがあまりないのだ。よって今後は上伊那エリアを意識してしばらくは行動しなけれはならないと考えている。読者をいしきされてのことなのだろうが、わたしの印象ではかつては『伊那』『伊那路』ともにそれほど郡を意識せず、「伊那」というエリアを対象にされていたように記憶するのだが、最近は郡域意識が高いよう。それを証明するのが、かつてわたしが記した「伊那谷の南と北」である。このことはかつて「郷土意識・中編」の中で触れたが、両者の重複会員は思った以上に少ない。とりわけ中川村は上伊那郡でありながら、当時の調査では『伊那』の読者の方が多かった。加えて、上伊那エリアには『伊那路』ではなく『伊那』の読者がどこの市町村にも少なからず存在していた。そしてこの逆はほとんどなかった。もちろん『伊那』の発行部数が多いことは昔から知られていることだが、現状からみれば地域内を中心に扱って読者に還元するという意識は当然のことなのかもしれない。

 最後に2月号に現会長である清水満さんが「おわりに」に記した言葉を紹介しておく。

 『伊那路』は60年間にわたって地域文化の継承・発展に貢献し続け、この間刊行された上伊那各市町村誌(史)編纂の際に貴重な資料提供の一助にもなり、郷土史の百科辞典的な役割を果たしてきた。しかし近年、地方史研究会の衰退が問題視されている。また活字離れという言葉が定着している。本会も会員の高齢化による退会者の増加と、その割に若い年代層の加入が少ないことで、購読者の減少という厳しい状況下にある。
 しかし、長年続いてきた役割をさらに高めるため、内容の充実を図り、この伝統を大切にしていきたい。

 

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****