Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

「随分遠くから」

2016-07-28 23:32:02 | つぶやき

 「田切地形・前編」において青木隆幸氏が『地域文化』の最新号(117号 八十二文化財団)特集記事冒頭にとりあげられた「飯田からいらしているのですか、それは随分遠くから大変ですね」という言葉を紹介した。実はこの「随分遠くから」は、とても曖昧な空間認識である。ではぢこからなら「随分遠く」でどこからなら「遠く」、そしてどこからならそう捉えられなくなるか、ということだ。

 先日、飯山市の小菅柱松を訪れた際に、国道117号線沿いにある道の駅に立ち寄った。駐車場に停められた車のナンバーを見回すと、「松本」ナンバーの車が何台か見られた。もちろん当日の関係者を除いての話。かつて飯山に暮らしたころ、わたしの乗っている「松本」ナンバーの車をみると、「遠くからきたなー」とよく言われたもの。当時飯山市内で「松本」ナンバーの車を見かけることは、スキーシーズンでも珍しかった。ということは松本から来ても、飯山では「遠い」と捉えられるほどの位置だったと言える。当時の長野県は、中央自動車道がようやく全通した時代。まだ北信エリアでは高速交通網に縁がなかった。同じ県内でも松本から人が訪れるというのは稀だったということになるだろうか。さらに、「どこから来たのかな」と聞かれて答える際には「伊那から」と答えるのがわたしのいつもの答え方だった。住んでいたのは上伊那郡飯島町。したがって大雑把に言えば「伊那」ということになる。当時「飯田から来ました」と答えることはなかった。そもそも居住地をどう説明するか、微妙なところで具体的に「飯島町からです」と答えるには、相手がよほど伊那谷のことに詳しくないとできなかった。いわゆる市部に暮らしているとそのまま市の名前を答える方が多いのだろうが、町村部に暮らしている者は、「どこから」と問いかけられると、その答えに躊躇することがよくある。この躊躇する気持ちは、おそらく長野市や松本市に暮らしている人はもちろん、知名度の高い市部に暮らしている人にはない悩みである。

 「伊那から来ました」と答えても、「伊那のどこな」とさらに聞き直されることはよくある。すると「伊那市ではなくもうちょっと南の方です」、そして「南の方ってどこな」とどんどん具体的な部分に踏み込んでいくのである。結局「伊那」とはいうものの、ずっと南の方だと解ると、「随分遠くから」と感想が漏れるわけである。飯山から180キロと言えば、新潟市までたどり着く。暮らしているエリアの外か内か、そして日常認識しているエリアかどうかなどによっても空間認識は違ってくる。もちろん長野県内をくまなく回っているわたしでも、さすがに飯山は「遠い」という認識内にあり、あらためて先日それを体感してきたわけである。

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「それ見たことか」

2016-07-27 23:09:36 | ひとから学ぶ

 刃物を持った男が障害者施設に侵入し、19人死亡、26人負傷というニュースを耳にしたとき、耳を疑ったのは言うまでもない。刃物でいきなりそんなに多くの人に傷を負わせられるのか、そして死亡者をだすほど致命傷を与えられるものなのか、と。時代劇だってこれほどの人数を殺害する場面は希だ。拳銃や爆弾ならわかるが、加害者の持っていたものは刃物である。用意周到でかつ相手が無抵抗でない限り、こんな事件は起きえない。衆院議長宛てに「障害者が安楽死できる社会を」と手紙を送ったともいい、障害者との間で何があったのかは解らないが、これは障害者と向き合っていた人が起こした事件だということを重大視するべきなのだろう。おそらくそうでない人が、重度障害者を狙ったこのような事件を起こすことはまずありえない。こんなことで障害者の認識が高まっても困る。そもそもが特異な例といえそうだ。そして、事前予告がこれほどされていたのに起きてしまったことの悲しみは拭えない。

 話は変わるが、このような事件が起きると、加害者の人となりが報道される。意外にも今回は「いい人」というコメントが少なくない。あらためてたどるとそうではない面も浮き彫りにされるが、第一印象は「なぜ」と思うようなコメントが多かったように思う。あらためてそれぞれの人が、こんな境遇になったらどう言われるか、たどってみるとよい。妻の実家は周囲では一般的ではないかもしれない。その一位は跡取りが家に居住していないというあたりか。しばらく前のこと、前々から家の中で話題になっていたことを義弟が隣家の方に指摘した。ようはひとの土地を削って自分の土地にしようとしている(実際は公図上地権者には成りえないのだが)ので、辞めて欲しいと言ったわけだ。すると数日後その方の奥さまから妻がこっぴどく怒られたわけだ。「弟に言わせたのはお前じゃないか」と。常日ごろ「周囲で何て言われているか知っているか」というような言葉が流れるほど、妻はこの小宇宙で看板を背負わされている。何より「嫁にいったくせに」は茶飯事のこと。では、妻がこの家のことをしなければどうなっているんだ、と考えればそのように思われることはちっともないのだが、どうもこの小宇宙ではそれが無効なのだ。義父が教員をしていたとか、息子も教員をしているとか、そんな具合にふつうの視線ではないのも、噂話を膨らめる原点にもなっている。したがって「それ見たことか」といわれる素性であることに間違いはない。加えてこのように周囲と争いの火種がくすぶっているから、もし何か身内で事件でも起こせば、今回のような第一印象は流れないだろう。そしてそれで「よしよし」と皆が納得するのだ。

 世の中は何かあるごとに不正の原点を暴く。しかしそこに至るまでにはいろいろ理由もあるだろう。最近県内で盛んに公になるのが補助金の不正受給だ。とりわけお役所がそこにかかわるが、こんなことが繰り返されると、ますますお役所は神様になってしまうのだろう。ようはお願いしても「神様がダメだと言うから」と却下される。「嘘」などという単語はもってのほか。あたりまえといえば当たり前なのだが、もはや法律しか人を動かす力にならないというわけだ。残念ながらひとのこころは力にならない。

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田切地形・後編

2016-07-26 23:02:39 | 信州・信濃・長野県

田切地形・前編より

 実は「田切地形」という日記は、以前にも記している。自ら田切地形の真っ只中で生まれ育った。そんなこともあって、以前にも触れたように「「田切」地形考」という文を、『歴史読本』第23巻第6号(昭和53年 新人物往来社)へ投稿した。この中でわたしは「交通路にみる田切地形」について触れている。「一下一上をくりかえしている。下ってまた上る不便さは、簡単には克服できない。国鉄飯田線(当時はまだ「国鉄」だった)は七久保駅に持ち上げられる。飯田駅を過ぎ北へ向い、伊那大島駅までは天竜川沿いの段丘麓を通っている。しかし、この下伊那郡松川町より北、上伊那郡中川村・飯島町・駒ヶ根市あたりまでの地形は複雑で、段丘麓が狭く、ある部分では、天竜川が狭い所を流れ…」と記す。ようは飯田から北へしばらく向かうと、天竜川の河原は狭くなり、田切地形を回避することができなくなる。したがって段丘上へ交通路は上らざるを得なくなり、谷を克服するために迂回を余儀なくされる。地形上からうかがうと、天竜川面の河原が極端に狭くなるのは上伊那郡飯島町の部分、ようは国道153号線でみると、飯田から北上し上伊那郡中川村の坂戸橋を経ると段丘上へ道は上り始める。飯田線は国道より以南から段丘上へ上るが、これは地形の理由だけではなく政治的な面も絡む。飯田より北、辰野町までの伊那谷の中で障壁となっているのは、現在の郡境域とも言える松川町から飯島町あたりまでの複雑な地形なのである。今までにも何度か記しているように、ここを境にして北は水田優先地域、南は畑作優先地域になる。

 青木隆幸氏は『地域文化』117号(八十二文化財団)特集記事「「田切」が作り出す世界 伊那谷の「南と北」」において、とりわけ大田切川をとりあげて「伊那谷の南と北」の境界域だと触れている。これは民俗学者向山雅重の指摘に応じたものであるが、おそらく向山は、自分の居住した宮田村と、その南に隣接する現在の駒ヶ根市と比較したとき、その違いにとくに惹かれたと思う。事実大田切川を境にして江戸時代は管轄が異なったことはよく知られているが、しかし、川を越えて関連した事象も少なくない。もちろん支配者の違いによって明確に川を境にして異なる事象もあるだろうが、わたしはそれだけではないと思う。何より南側は天領であったとは言うものの、飯島代官所支配地は流動的に変化した。むしろ二重にも三重にも谷を形成した田切地形の繰り返しが、伊那谷という空間を南北に隔てる要因となったのではないかと想像する。

 さて、「田切地形」はこの日記を始めた2005年に記したもの。その中で「「田切」地名考」に記した「南からやってきたバイパスは、与田切川まではトンネルや橋で南北に最短距離をとったが、ここで新路線は崖にぶち当たって、迂回するしかなかった。さらに北へ国道バイパスが計画されているが、この地形に悩まされるだろう」という言葉を取り上げた。そして「この新路線ができて30年、北側のバイパスは今だできていないが、新バイパス計画が確実に少しずつではあるが進んでいる。いよいよこの崖を跳び越すことになるようである。飛び越してしまえば、通過する人たちにはこの地形に遮られてきたことを忘れていくのだろう。」と記している。すでにその道は現実的に開通しており、そのこともこの日記で触れたところだ。青木氏はこの与田切川橋(文中写真のキャプションには「与太切」とあるが「与田切」の間違いである)について触れ、「それはそれで見事なのだが、新しい道の開通により、たくさんの大切な景観が忘れ去られていくのではないか」と述べるとともに、「田切地形がもたらす荒々しい自然と向かい合い、ともに生きてきた人々や生き物の暮らしの足跡が、この橋梁と引き替えに見えなくなっていく気がする。橋梁のたもとにたくさんの生活があるということが、私たちの意識のなかから抜け落ちていく気がする。」と指摘する。まさにわたしはその指摘通りの橋梁のたもとに生まれ育った。「たくさんの生活」とは言い難いほど、そこに暮らしている人々は、今些少かもしれない。しかし、前編でも触れたとおり、高速道路によって田切地形を克服するようにひとまたぎしてしまうと、まさに谷底を垣間見ることはなくなってしまう。今、それが生活道路にも及んでいるのである。幸いにもこの橋ができたことによって、あの騒々しかった生家は静まり返り、空さえ望まなければ半世紀前の景色に戻ったとも言える。あえて谷底を覗くように道を選択し、伊那谷の遺産とも言える「田切」と「段丘」の景観を望んでほしい。そして、そこに育まれた人々の意識を、繰り返し訴えていくのがわたしのライフワークでもある。やはり、飯田の人には繊細な地域意識は解らない。

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田切地形・前編

2016-07-25 23:23:51 | 信州・信濃・長野県

 青木隆幸氏は『地域文化』の最新号(117号 八十二文化財団)特集記事「「田切」が作り出す世界 伊那谷の「南と北」」の冒頭で、「「飯田からいらしているのですか、それは随分遠くから大変ですね」 単身赴任七年目。長野市に住宅を借り、千曲市にある職場に勤務している。この七年、多くの方からこのような言葉をかけられた」と記すとともに、「車窓に流れる田切の美しい景観を楽しみながら、そんなとりとめないことを考え毎週車を走らせている。」と記して記事を閉じている。これは伊那谷で生まれて、北信の職場に勤めている多くの人が共感できる思いではないだろうか。おそらく青木氏は、週末自宅に帰り、再び長野へ向かう、を繰り返す中で、伊那谷を縦断しながら伊那谷を堪能し、そして地域外に出ては、「遠くからよくまあ」といった具合にねぎらいの言葉をもらいながら、あらためて伊那谷をいろいろ考えているのだろうと想像する。もちろん、その気がなければそんな思いを育むこともないが…。

 先日も記したようにわたしは高速道路も利用するが、時間があれば一般道を走る。なんとかのひとつ覚えのように、ひとつの道に執着することはない。青木氏も「田切地形を体感するには、中央道伊北インターの南から飯田方面に向かって天竜川右岸を走る伊那中部広域農道をお勧めする」と記している。おそらく青木氏自身、長野から飯田へ帰るとき、あえて伊北インターで高速を降りて伊那谷をこの道を使って南下することがよくあるのだろう。おっしゃる通り田切地形を体感できる。なぜならば広域農道は、田切地形の典型的な線形を見せる。飯田線が駒ヶ根市か松川町にかけて谷を越えるごと蛇行するように、この広域農道も飯田線ほどではないものの、谷を越えるためにU字状に迂回するのである。扇状地面には水田地帯が展開し、谷の中には花崗岩の巨石がところ狭しと姿を見せる。高速道路は谷を直線で飛び越してしまう上に、最近は防音壁が続いて周囲の景観はほとんど見えなくなっている。時間は無駄に使ってしまうが、せっかく走るのだから無表情な路上ばかり見ていてもつまらない。

 わたしは田切地形を体感しようと一般道を積極的に走るわけではない。いろいろな表情が見られるなら、とその時の気分で道を選択する。だから青木氏のお勧めの広域農道ばかり使うこともなく、火山峠越えの主要地方道伊那生田飯田線もよく利用するし、それ以外のふつうの人は使わないような道も時には走る。だから東信地域に峠越えする際にも、新和田トンネルはほとんど使わずに旧道和田峠を通る。それは冬場も変わらない。やはり地域らしさを体感するには、過去の道も走ってみることだ。

 さて今回の『地域文化』は特集“-信州の町-「田切の里」”と銘打っている。特集の主旨について「信州のある町に焦点をあて、そこで生まれた文化・産業・人々の営み・人々のつながりなどを広く取りあげる「信州の町」特集。本号では伊那谷の田切という独特な地形が醸しだした里の風土・民俗・遺産、大地の成り立ちなどに着目していきます。」と冒頭宣言している。説明をされてもこの「信州の町」という副題にはしっくりこない。青木氏の文中に「上伊那郡南部地域概略図」というものが示されていて、そこには宮田村から駒ヶ根市、飯島町、中川村までのエリア、いわゆる上伊那南部地区が示されている。そのエリアをここでは「信州の町」として捉えているのだろうか。確かにあまりメジャーではないものの、「田切の里」に間違いはなく、もっとアピールして良い特徴だということはわたしの日記でも何度となく触れてきた。主旨に沿って特集では「土木遺産」という捉え方で「飯田線」を取り上げている。飯田線も前述したように田切地形を体感できるもの。がしかし、ここで「伊那谷の南と北」というものを引っ張りだすから、「信州の町」が吹っ飛んでしまう。加えて冒頭の宣言にもある「大地の成り立ち」を扱うから、ますます「信州の町」としての上伊那南部らしさの表現が消えてしまっている。どうも特集「信州の町」という内容ではないのである。『地域文化』については以前にも特集の違和感について指摘させていただいた。視点は良いのだが、記事の内容が特集にあてはまっていない、そう感じる「信州の町」である。

続く

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小菅の柱松行事から ④

2016-07-24 23:16:09 | 民俗学

小菅の柱松行事から ③より

 いよいよ柱松行事(柱松柴燈神事)の始まりである。

 柱は祭場の南側に東西に2本立つ。東側を上の柱、西側を下の柱としている。前段の行列が祭場へ入り御旅所に詣る際に、すでに柱には若衆がそれぞれの柱に3人上って神事の始まりを待つ。柱には白木の棒が3本突き出ているのだが、この棒に若衆はまたがって待つのである。千鳥に3本ある棒は上側に2本、下に1本突き出ている。上2本にまたがる若衆は松神子が上った際に松神子の補助をするわけで、一人をフキヤク、もう一人をヒウチという。下側の棒にまたがるのはナカヤクと言い、松神子を柱の上へ上げる際の介添え人となる。

 お旅所に詣り終えた松神子が仲取に手を繋がれ斎場に戻ると、柱と相向かいになるように祭場の北側にある講堂前に横並びに整列する。すると青龍刀旗の立つ柱側から太鼓を左肩に担ぎ、右手に赤い布で覆われたバチを持つ「松太鼓」(くねり山伏)が祭場中央にある「松石」に向かって前進を始める。ゆるやかに一歩ずつ六方を踏みながら進み「松石」の上に上ると太鼓を叩く所作をするのだが、すぐには叩かない。打つぞ打つぞとおかしな動きをして、わざと打ち損なう所作をして観客を笑わすのである。このころになると松神子はダキヤクと言われる若衆2人に抱き抱えられ、太鼓が打たれたら競って柱に向かおうと準備をする。松神子には縄が繋がっていて、その先には和紙にくるまれたヒウチガネがついている。これをもう1人の若衆が持つ。

 いよいよ松太鼓によって太鼓が打たれると、松神子を抱いたダキヤクなど3人の若衆が柱松に向かって突進し、柱に上って待っていたナカヤクを中継して松神子を柱松の上へ引き上げると、上で待っていたヒウチとフキヤクは、松神子が持ってきたヒウチガネを使って火をつけようと火打ちを始めるのである。これがなかなか火がつかない。練習を事前にしているというが、しばらく火打ちを打っているが点かないのである。周囲では「もうヒウチガネがなくなって点かない」などいう声も聞こえるなか、心配そうに観客が見守る中、10分ほど経過しただろうか、下の柱から煙が上がった。尾花に移された火が煙を上げるのである。『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)によると上の柱が先に点火すると「天下泰平」、下の柱が先に点火すると「五穀豊穣」だという。したがって今年は下の柱が早かったので「五穀豊穣」ということになるのだろう。尾花に火が入ると、松神子をナカヤクを中継して柱松から下ろし、柱松の下で待っていた若衆が背負って走り出す。前掲書によると「カウネとナカウネの境にあるジョード」に向かって走り、ジョードにある松子石と呼ばれる石まで松神子を運ぶという。ようはこの松子石にどちらが先にたどり着くかを競う行事なのである。勝った方が大聖院に近い方の(高い方)を占めることになるという。柱松の上に上っていた若衆が下りると、ブドウヅルが切られて柱松は倒される。柱松そのものに火が入るのかと思いきや、尾花に入った火はすぐに消えてしまい、意外にも終わりはあっけらかんとしたもの。倒された柱松にある燃え残りの尾花や松榊、柱松のソダは虫除けになるといわれ、これを競い奪い合うと言うが、前回も触れたように、現在は尾花は神社に返すようにと言われている。

松太鼓

 

松神子

 

松神子を柱松の上へ

 

いよいよ火打ち

 

左側が「上」、右側が「下」の柱松

 

「下」の柱松の尾花に火が入る

 

「上」の柱松の尾花にも火が入る

 

松神子を下ろす

 

松神子をジョードへ

 

倒された柱松

 

続く

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今夏の“草刈り”

2016-07-23 23:43:04 | つぶやき

ミソハギ

 

 今年は6月から7月にかけて、公私ともにちょっと忙しかった。そんなこともあって、草刈を怠ってしまったわけであるが、いつになく、あちこち草丈が伸びて“草ぼうぼう”である。足を踏み入れていない空間など、凹んでしまうから足が向かない。だから“徐々に”と思いながら目立つところから草刈を再開しているのだが、暑さとあいまって疲ればかり溜まる。こうした草刈がひととおり済まないと、ほかのことになかなか手がつかないということもあって、すべてが滞っている。猫の手よりはマシだと思っていた息子がまったくの期待はずれで、あてにならないどころか、家事では足を引っ張られる始末。年々ジャングル化している我が家回りなど、二の次どころかいくつ身体があっても足りないくらい、欄外に追いやられている。この週末も草刈三昧だが、高台にある大きな土手から、見下ろす水田地帯に、夕方になるとやってくる草刈をする人影を目にしては、「あんな程度の土手なら、草刈なんてすぐ終わる」と独り言を口にする。

 ひととおりと思っている草刈も、まだ道なかば。これまでこんなになるまで草丈を伸ばしたことがなかった、と思うほどどこの土手も草を刈ると大量の草が横たわる。とりあえず耕作を辞めている農地はそのままで良いにしても、法面や歩く道はそのままにしておくというわけにもいかない。近ごろは自走式の草刈機を利用する人たちがほとんどの上伊那エリアでは、刈った草を片付けない農家がほとんどだ。それだけ草丈が短いうちに刈っているということなんだろうが、わたしのやっている草刈とは世界が違う。ここまでは伸ばさなかったというような土手に、今までは見なかった花が姿を見せることも。日々刈り込んでいれば丈の長い植物が駆逐されるように、おそらく上伊那エリアの土手は植物が単一化していくことだろう。それが悪いというわけではない。芝化すれば土手は強くなる。そこにいくと、我が家の草刈は、以前にも触れたように障害物が多い。おそらく自走式草刈機を日々利用している人たちが、我が家の草刈後の光景を見たら、「なんだこりゃ」と思うに違いない。刈り終えた土手にいくつもの株、それも丈の長い株がポコポコと残っているのだから。とりわけ今は月見草がたくさん姿を残す。近ごろは知らず知らず輪を広げたフジバカマが、隣の家の水田の土手にも花を咲かせていたが、荒らしているのに頻繁に草刈をするので姿が消えた。我が家では、月見草に加えてフジバカマの株もあちこちに残っている。

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小菅の柱松行事から ③

2016-07-22 23:52:17 | 民俗学

小菅の柱松行事から ②より

 『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)によると、神輿渡御において階段を降りる際に「着流しの若い衆が担ぎ手に加わる」とある。確かに同書に掲載された(P-46)写真には、階段を降りる神輿に、赤い襷を掛けた若い衆が加わっている姿が写し出されている。しかし、今回は階段を降りる際に若い衆が手伝うことはなかった。柱松の行列に加わらなければならない若い衆は、今回は神輿渡御にかかわらないのか、と思うとそうではなく、階段を神輿が降りたあとの押し合いらしき場面には若い衆の姿があった。実はこの日記を書くにあたって、同書の記述を読んだしだいで、それまで若い衆が神輿渡御に参加していたとは思っていなかった。あらためて同書の記述を確認しようと撮影した写真を追うと、階段を降りる際の光景に着流しの若い衆の姿はない。その後わたしは神輿の場所を離れたため、この若い衆がいつ神輿に加わったのかはっきりしない。渡御の先頭が鳥居をくぐろうとするころ、遠景として撮影した写真に赤い襷を掛けた若い衆らしき人々の姿が写っていた。おそらく階段を降りたあとの押し合いのために加わったと見るが違うだろうか。同書の記述は平成19年の柱松行事からのもの。記述から察すると、この年は神輿の渡御時に雨天だったよう。そのため押し合は行われななかったと記されている。前述したように神輿から離れていたわたしは、押し合いを実際に目にしていない。が、記述をおさらいすると、それらしき騒々しさだったのだと先頭にいて察知した。そしてそこに若い衆が写りこんでいるのである。あくまでも想像に過ぎないが。残念ながら予習をしてから見学しなかったがための後悔である。

 さて、神輿の渡御の次は柱松の行列である。神輿渡御が終わると、すでに講堂前広場では、柱松の行事を見るのに適したポジションを、と場所取りが始まっている。いわゆるこの行事が紹介されるときによく使われる写真が撮られるアングルがベストということになるのだろう。遅れをとったわたしたちの仲間も、そんなポジションに陣取ったわけだが、先客がいて好位置とはゆかなかった。そんなこともあり、後ことはその時に考えればよいだろうと、わたしは行列見学に護摩堂に向かった。午後3時を過ぎたころ、奥社参道を降りてきたところにある護摩堂から柱松の行列が、祭りの舞台である講堂前に向かって出発する。氏子総代の両脇に槍2本が先頭になり、猿田彦が続く。神輿渡御には猿田彦のほかに手力雄命と鈿女がついたが、柱松の行列では猿田彦のみ。猿田彦に続くのは松榊と言われるサカキで、列の左手に赤い幣束をつけた松榊、右手に白い幣束をつけた松榊が並ぶ。カツラの木が使われ、前者は上の柱松(お旅所側)、後者は下の柱松のてっぺんに挿される。続いて尾花も上と下の柱に挿されるように2本。続いて火口焼きでこしらえた炭とツゲキ、火打石などを入れた火打ち箱も同じように上と下用にふたつ。次に槍2本と「天下泰平」と書かれた日旗、「五穀豊穣」と書かれた月旗。その後ろに長柄につけられた宝剣旗が2本。そして直径30センチほどの太鼓を左肩に担ぎ、右手に赤い布で覆われたバチを持つ「松太鼓」はくねり山伏と言われ、介添え人がつく。その後ろの龍の頭をつけた刀形の青龍刀旗は、松太鼓と行動を共にするという。次の松子を先導するような位置どりの「仲取」は、赤褐色の面をつけ、頭髪はぼさぼさで異様な様相で太刀を背負う。その背後にいよいよ松神子と言われる子どもが上と下の柱用に2名、若衆につないで連れられて続く。さらに若衆が上下それぞれ2名つく。松榊から火打ち箱までのそれぞれ3名と、松神子に続くそれぞれ3名が「若衆」と呼ばれる人々で赤い襷を掛けている。続いて浴衣の上に法被を着た2人で担ぐ太鼓には、バチを持った白い狩衣姿の伶人1人がつく。笛は伶人8名ほど。間をとらずに巫女4人が続くと、その後ろに御榊と言われる神輿がつく。この御榊は神輿の渡御の際にも参列する。こちらの榊はイヌツゲだという。スギの枝を利用した御玉串に続くのは総代だろうか。そしてエンジ色の狩衣と紫の袴を着用した社司が続き、両脇を青い衣装で山伏風の警護役が2人つくとともに、背後では傘持ちがついて傘を社司にかざす。さらに祭官や警護がついてお旅所まで練る。

 行列は護摩堂南側の階段の上から出発し、階段を降りると大聖院石垣前を北へ向かって、参道を左折して集落内を下る。先頭が講堂前に着くころには、松榊と尾花は先回りして柱松に挿される。以降松神子や御榊などすべてお旅所に向かって進み、行列の練りは終わる。

 

尾花と火打ち箱

 

総代、槍、猿田彦、松榊、尾花と続いて出発

 

 松太鼓(くねり山伏)

 

仲取と松神子

 

松神子

 

尾花が柱松に挿される

 

御榊、御玉串

 

続く

 

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ブレーキ

2016-07-21 23:42:20 | つぶやき

 「あまりブレーキを使わないですか!?」、そう整備士に言われた。1年点検に出した車はあまり乗らないから購入して4年経ったがまだ走行距離2万キロには達しない。とはいえ、巷では1万キロ乗ればブレーキパッドが1ミリ減るとも言うが、もちろん乗り方、あるいはATかМTかによっても差が出るのは言うまでもないものの、わたしの車はまだ新品から0.5ミリほどしか減っていない。おそらくこのまま乗り続けると20万キロくらいまで交換の必要がないかもしれない。わたしは「そうですね」と答えた。自動車整備工場で、こんな会話をすることはめったにないだろう。シフトダウンしてエンジンブレーキを多用するわたしは、ブレーキを踏んでもゆっくり停る時がほとんどだ。わたしにとってはブレーキが不要とまでは言わないが、速度調整にブレーキを使うことはほとんどない。それが安全運転か、と問われれば違うかもしれないが、若い頃からの癖だ。だからマイカーはМT車しか乗らなかった。とはいえ、会社のAT車を運転する際にも、ブレーキにあまり頼ることはしない。

 会社の車はいわゆるセルフではないガソリンスタンドを利用する。したがって最近ではあまり耳にしない、「ブレーキを踏んでください」というスタンドの方の指示に従うことがよくある。セルフばかり利用していると、こんな指示の言葉を聞くことはまったくなくなる。ガソリンスタンドの無料サービスのひとつだ。ところがよく考えてみると、わたしのようにあまりブレーキを踏まない者にとっては、ブレーキ灯が故障していても気にはならない。にもかかわらずその都度「ブレーキを踏んでみてください」と指示されると、ちょと鬱陶しい気持ちにもなる。ウェブ上の質問ページに、まさにガソリンスタンドの給油以外のサービについて触れたものか゜あった。すると回答の中に次のような気になるものがあった。

私は、スタンドでいろいろと車を触られるのは嫌いなので、今は殆どセルフに行きます。ボンネットを開けて、エンジンオイルの量を点検したり、ブレーキランプのテストをしたりするのをいちいち断るのも面倒なので。

というもの。こうした確認をした上で問題があれば、お客さんに「交換したほうが良いですよ」、とでも言って給油以外の利益を期待するというわけだ。わたしの印象では「ブレーキを踏んでみてください」は、あくまでも安全運転を願っての無料サービスだと素直に思うが、それならブレーキじゃなくてヘッドライトとか、方向指示器の点灯具合を見てくれた方がありがたいのだが…。ブレーキ灯を確認するのには理由があるのだろう、ブレーキ灯はエンジンを切っていても踏めばランプが点灯する。ところが方向指示器やヘッドライトはそのままでは点灯しない。ようは簡単に動作確認できるのはブレーキ灯なのだ。それこそ切れていて収入が見込めるのなら、ほかの動作確認も煩わしくてもやってもらえば良い。が、そんなガソリンスタンドに遭遇したことなど過去に一度もない。なぜブレーキなのか、疑問は完全には消えない。

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小菅の柱松行事から ②

2016-07-20 23:41:49 | 民俗学

小菅の柱松行事から ①より

 「小菅柱松柴燈神事」とも言われるこの祭りは、かつては毎年行われていたものの、大掛かりな祭りだけに毎年実施する環境が失われ、3年に1度の祭りに変化したと言えそうだ。『新編瑞穂村誌』(昭和55年 新編瑞穂村誌刊行会)には「この行事の準備、後片付けなどに要する日数は、以前は七月一四日、一五日を中心に、一週間を費やし、小菅部落の成年は全員一役を買っていたので、この一週間は遊ぶことになっていた」とある。今の時代ではいくら何でも一週間地区の若者が全員遊んで過ごすなどということは不可能だろう。3年に1度の開催になったのは、昭和43年という。とりわけ祭りの中で重要なポジションを務めるのは「若衆」と呼ばれる人々である。

 今年の柱松行事用のパンフレットである「小菅の松子」には、下記のような祭りの日程がある。今でこそ1週間を費やすことはないようだが、ここに示されている日程以外にも準備に要する時間は多いのだろう。今年は7月10日に柱松を建立しているが、ここには柱松の材料採取については記されていない。建立作業のことをバヤブシンと呼ぶらしいが、これは7月11日とかつては決まっていたという。ようはかつては11日にバヤブシンをして14日がいわゆる宵祭りで、15日が本日だったということである。今は14日以降の直近土、日曜日に柱松の行事は実施される。したがって、バヤブシンもそれから1週間前に行われているようだ。柱松の本体を「松子」と呼び、雑木が利用される。それ以外にもお旅所のソダ囲いや、いわゆるマチ飾りのように集落の中にもソダによる垣が作られるなど、雑木が大量に使われる。こうした雑木の採取はバヤブシンの午前中に行われるのがいつものよう。話はそれるが、我が家のあたりでは御柱祭において同じように雑木ではないものの榊(代用としてソヨゴ)が大量に使われる。雑木ならまだしも榊を毎年大量に採取するともなると、材料の調達が容易ではない。雑木にしても、かつては多用されただろうから、1年に一度大量の雑木を採取するという行為はいろいろ影響があっただろう。そういう意味でも毎年祭りを実施するということは重大だったことだろう。

 

 今回は本日の午後1時ころから見学したのみであって、大掛かりな祭りのごく一部だけを覗いたにすぎない。そのごく一部の様子を振り返ってみよう。

 午後1時より神輿渡御に向けた神事が始まり、午後1時半よりいよいよ渡御となる。里社と呼ばれている小菅集落の中ほどにある社から、神事が行われる講堂前広場にあるお旅所まで渡御が始まる。里社は傾斜度のきつい小菅の集落の中でも一段高いところにあって、そこから急な階段を降りることになる。『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)には渡御の行列順について次のように書かれている。

警固2人―代理区長―猿田彦―手力雄命―鈿女―御榊―太鼓(伶人)―笛(伶人)―巫女4人―槍2人・警護2人―神官―長柄―四神旗―神輿―警固2人・槍2人―来賓

となっているが、今回は巫女の後ろについてはこの通りではなかったように思う。人出が多く、祭りで繰り広げられ現場をくまなく見るというわけにはいかなかったので、不足の部分は前著『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』を参考にする。神輿について同書では、神輿に御神体を移すということはなかったと書かれている。一貫して神輿の扉が開いた現場に遭遇しなかったので、この神輿に祀られている神様が何であるのかについてははっきりしなかった。ちなみに、里社で祀られているのは素戔嗚尊・平城天皇・嵯峨天皇の3神で、主祭神は素戔嗚尊のようである。神事の際、お旅所の前の空間は「開けておくように」と何度も周囲の観客に指導されていた。ようは「神様が見ておるから」というのだが、ここでいう神様がどの神様なのか。先頭に続く面をつけた神様、猿田彦―手力雄命―鈿女は前方がよく見えないため、急峻な階段を降りる際には付き人が介添えしながらゆっくりと降りる。何より大変なのが神輿である。意外なほどに立派な神輿は、小菅神社の威厳さを伝えるに十分だ。20人ほどの法被姿の若者によってそれは担がれるが、階段を降りるには至難の業のよう。ようは「重い」のである。先頭は神輿の担ぎ棒を万歳をするように高々と上げ、後尾は担ぎ棒ではなく階段の支えとなる。一段一段それを下げていくのである。面を付けた先頭もゆっくり降りて行くが、それにも追いつかないほど神輿は慎重に階段を下る。

 階段を降りきると、「かつては神輿の担ぎ手による激しい押し合いがあったという」。この押し合いは神輿の担ぎ手と、柱松神事の準備を急ぐ若衆のせめぎ合いともいう。階段を降り、鳥居まで進むと小菅集落の背骨にあたる道に出て左折し、講堂前広場に左折して入る。ここの左手に天王石と言われる岩があって、神輿はその上に置かれて小休止をする。講堂前広場に入ると二つの柱松の間を通り、右折してお旅所に神輿は納められる。

 

補遺

そもそも祭りは「祇園祭」とも言われており、主祭神のスサノオノミコトは牛頭天王の本地とされている。小休止をする岩を「天王石」と呼んでいるように、神輿に祀られているのは牛頭天王となるのだろう。里社を中心に繰り広げられる柱松の行事は、祇園の祭り、ようは里社の祭りということが言えそうだ。

 

続く

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意識と、無意識と

2016-07-19 23:17:35 | ひとから学ぶ

 近くにある橋を渡って県道に出ようとしたら、県道を右からやってきた車が左折指示を出しわたしが渡ってきた橋へ入ろうとしたため、知らず知らずに橋の左に寄ってしまったのだろう、「ガタン」と音を発した。どこかに「ぶつけた」、そう思ったのは言うまでもない。この橋、「ゆずりあいの橋」と橋の両岸に看板が立っている。その意味はすれ違いができないから、橋を渡ろうとする場合、先に渡り始めた車を優先し、反対側の車はその車が渡りきるまで「待つ」ためにそう呼ぶようにしているようだ。軽自動車同士ならけしてすれ違いできない幅ではないのだが、基本的にそれはしない。だから「ゆずりあい」なのである。片側に歩道がついていて、幅は狭いが車道より20センチほど高くなっている。おそらくその歩道に当って音がしたのだろうが、あとで「どこにぶつけたのだう」と見てみたが解らなかった。軽自動車がすれ違いができる程度ということは、車道幅で3メートルほどあるから、歩道にぶつけるとはよほどのこと。自分でも音がした時は「何という」という自分の運転の下手さに唖然としたほど。なぜ左に寄ってしまったのか、しばらくはそんなことを考えていた。

 そもそもこの橋を渡る車は、わたしが渡ってきた方向から入るとたいがいは渡った後に左折する車がほとんどだ。それをわたしは県道から左折して橋を渡ろうとしていた車の方向に右折しようとしていた。ようは県道を走ってきて左折しようとした車も、一般的なルートではなかったということ。わたしのイメージでは、県道を右からやってきた車はそのまま直進するだろうと考えていた。ところが左折指示を出したため、少し意外性があってすれ違いを橋の上でするわけでもないのに、わざわざ左に寄ってしまったというわけだ。「ゆずりあいの橋」の上にいることを忘れて、いつも通りの左寄り行動をしてしまったわけである。加えて県道側は橋を渡るとすぐ県道という状況で、車を一旦停止しているにはスペースが狭い。そんな環境が無意識に車を寄せる結果になった。自分がそんな失敗をすることはない、と思っていても、ちょっとしたいつもと違う歯車が回ると、いつもはしない失敗をする。ひとの意識とは脆弱なものということだ。ちまたから事故がなくならないのはよく解る。事故が起きない方が不思議なのかもしれない。

 幹線道路を右折レーンに入って直進車がなくなるまで待っているケースは、当たり前のようにある。この時、直進車の列から飛び出るようにセンターライン寄りに膨らんでくる車がけっこう多い。左折する車を避けようと右に膨らむのかと思うとそうではない。ようは左折するためにわざわざセンターラインよりにハンドルを振ってから左折していくのである。こういうドライバーは、一旦右にハンドルを回してから、左に回すとしか考えられない。大型車のように内輪差がある車なら解るが、乗用車が幹線道路でするハンドリングではない。が、癖なのだろう、無意識のうちに左折する際に右に膨らませるドライバーは多い。よほど狭い道に入ることが日常的な人たちなんだろう。反対側で右折しようとしている車から見ていると、「こいつこっちに向かってくるのか」と一瞬動揺する。

 ひとのことを考えないドライバーなんぞ珍しいことではないのだが、わたしの前の車が左折して幹線道路に入った。右側から車が見えていたので、入れるかどうかを考えた上でわたしも引き続いて左折した。割り込みほどではないが、幹線道路を走っている相手側にしてみればそう思っても致し方ない状況。前に左折した車がふつうに走っていってくれれば良いのだが、幹線道路に入ってからなかなかスピードが上がらない。結局右側からやってくる車はまだしばらく向こうだったのに、わたしが入ったあとにブレーキを踏まないと調整できないほど車間がなくなる。ようはわたしの前に左折した車が、「割り込んで入ったのだから」、と意識的に幹線道路のスピードまで素早くあげてくれれば良いのだが、そこまで気が回らない。想定した判断は良くないとは言うものの、運転するということはいかに相手の動きを読むか、で左右する。

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夏空に“ヤマユリ”

2016-07-18 23:49:15 | つぶやき

 

 大柄な花だから質素な感じはしないかもしれない。妻の実家の裏山沿いにあるヤマユリが咲き始めたが、先週阿智村の伍和の奥まったところの道端に群生するヤマユリはまだつぼみがかたかった。以前にも触れたように、阿智村伍和はササユリもヤマユリも咲く光景が道端で見られる。ササユリが質素な印象なのも、株が小さいということもある。いっぽうヤマユリは背丈以上にもなり、いってみれば上から見下げられることも珍しくない。そんな花が質素に見えるはずもないのだが、大柄なだけに虫たちの憩いの場を醸し出す。いけないのは大柄な花だけに、お辞儀をしてしまうこと。花がいくつも咲き始めると、頭でっかちになって転んでしまうのだ。雑草に支えられているうちは良いのだが、周囲の雑草を刈り始めると、いっそうお辞儀状態に入ってしまう。

 ヤマユリといえば、やはり青空といっても良いだろうか。前述したように背丈以上にもなるから、日陰を作ったりする。炎天下に真っ白な涼しげな花を咲かせるが、なんといっても暑さが身にしみる。飯山行きを挟んだ休日は、草刈に励んだ。いつもどおりの高畦畔の草も刈った。炎天下だけに、周囲で草を刈っているひとはいなかった。この暑い最中に草を刈っている「あいつは、馬鹿か」などと言われても仕方がない。でも炎天下ぐらいしか、わたしにとっては草を刈る時間がない。だからあえてひとの姿がまったくない空間に足を運ぶ。周囲で炎天下で働くひとがいないのには理由がある。年齢的なことだ。ようは高齢者ばかりだとも言える。ほかの水田地帯では、炎天下でも働いているひとの姿を見る。けして誰もしないことをしているわけではない。

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小菅の柱松行事から ①

2016-07-17 23:35:06 | 民俗学

 よく飯田下伊那は民俗芸能の宝庫などということが言われるが、今日訪れた祭りでも思うのは、むしろ違う地域に地域社会と祭りが組織的に伝承されている姿を見ることは多い。飯田下伊那は、という場合、とりわけ古い民俗芸能を象徴的に捉えてそう言われるが、けしてそれ以外の地域に民俗芸能が伝承されていない、というわけではない。

 飯山市瑞穂の小菅の柱松行事が国の重要無形民俗文化財に指定されたのは、平成23年のこと。周囲には同じような柱松の行事が行われており、それらは選択無形民俗文化財に選択されている。長野県民俗の会201回例会は、3年に一度行われるこの「小菅の柱松行事」を見学した。先日も触れた飯田の祇園さまも、また松本の八坂様も7月14日が祭日であったが、この小菅の柱松もかつては7月14日に行われていた。まさに祇園の祭りというところなんだろうが、祇園祭の一部なのか、それとも祇園に融合してきたのかははっきり言えない。この祭りについては、国の文化財指定を前に詳細調査が行われており、『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)として発行されている。例会の資料としても使われた同書を、もう少し読んでから詳細についてはここに記したい。

 さて、さすがに飯山と感じたのは「蒸し暑さ」だ。かつて昭和54年から58年まで5年間暮らした飯山も、夏の「暑さ」だけは苦手だった。とりわけ町の中は風が吹かず、夜の暑さは格別だった。そんなこともあって会社の出先は建物が古かったが、エアコンが入っていて、残業もしっかりできる環境だった。今日も朝方雨が降ったこともあるのだろうが、蒸し暑さは格別で、久しぶりにかつての暑さを体感したところだ。

 当初はほかの方と同乗して飯山に向かう予定だったが、結局独り行きとなったため、行きは高速道路を利用したが、帰りは何十年ぶりという一般道のみを利用して家まで帰ってみた。かつて毎週この長旅をして自宅に帰っていたわけだが、あらためて当時は車を運転することが唯一の楽しみだったのかもしれない。さもなければ、片道5時間にも及ぶ行程を毎週選択しなかっただろう。かつてはまだ半ドンの時代。午後1時ころ飯山を出ると、夕方生家に着くという繰り返しだった。いわゆる土帰月来の土帰の部分である。そして月来は帰りのほぼ半分の2時間半程度の行程だった。夜中の2時ころ生家を出るのだから早いのも当然だった。

 

 

 この行事は、「本来田植え終了後の時期に行われていた行事で、五穀豊穣を占い、豊作をもたらしてくれるものとして柱松にさされた尾花や松榊、ソダなどを奪い合って持ち帰り、畑の害虫よけにするなど、豊作祈願」を願ったものだったという。尾花は柱松が倒れると競って奪い合ったのだろうが、今はこの尾花は神社に返してほしいと立て看板がされており、場内放送でも流された。事実焼け焦げた尾花は、束のまま総代さんの手に渡された。きっと小菅の氏子の人たちに豊作祈願として配られるのではないだろうか。

続く

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違和感

2016-07-16 23:01:36 | ひとから学ぶ

 新聞に偏重があることなど今に始まったことではない。そもそもどういう視点でどのような出来事を扱うのか解らないのは当たり前だが、扱われることで利益を被っている人たちもいるだろう。新聞を読まない人たちが多い今となっては、そんな偏重がどれほど利益に影響するのか、という疑問もあるかもしれないが、記録に残るという意味では、場合によっては後世への記憶財産にも影響しかねない。

 同じことをやっていても扱いが違う、そんな例を頻繁に見る。なぜ彼らは頻繁に紙上で詳細に報道されるのか、と。とりわけ地方紙などは多様な情報を扱うから、アンテナが高いものとと思いがちだか、実は持ち込みの情報が多そうだ。もう昔のことだが、わたしの絡んだ集会があった際の内容がそこそこの見出しで新聞に掲載されたことかあった。ところが記事には集会の内容が正確に掲載されなかった。そこには集会で訪問した際の写真まであった。ということは集会に参加した誰かが写真を提供したのか、それともその本人が記事を書いたものなのか、真偽ははっきりしなかったが、現場で取材らしきものがなかったのに記事になったことに違和感のようなものを抱いた。それは地方紙とはいえ県内のさらに一部地域を対象にしたローカルなものだったが、その違和感は相当のものだった。当時その地方紙だけにあらず、県内全域を対象にしている新聞にも同じ集会の記事が掲載されたと記憶する。さらに違和感が増幅したのは言うまでもない。いったいこの記事を提供したのは、そして書いたのは誰なのだ、と。とりわけ報道とのつながりを持った人たちが世の中にはいるようだ。偏重があってはならない新聞だと読み手は思うが、とりわけローカルなものが、とりわけ同じ地域から発信されることが頻発すると、疑問符が湧く。果たして記者は歩いているのか、あるいは情報に多様性を持たせようとしているのか、わたしでも「これぞ」と思うような内容が報道されず、くだらない事象がなぜ報道されるのか、紙面の限られた中にどのようなものを取り上げるのか、まじめに考えているのだろうか。

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情報不足

2016-07-15 23:53:00 | つぶやき

 このごろは図書館がネットワーク化されていて、読みたい(わたし的には「見たい」だが)ものを取り寄せてくれる。必要とする論文の名前が解っていれば、取り寄せなくてもコピーをして送ってくれるのだが、雑誌にしてもわたし的には専門家ではないので、ほかのタイトルと内容をざっと目を通すだけ、というときも多い。もちろん取り寄せてもらっても意図通りでないものも多いが、やはり本物に目を通してみたい、そう思う。ところがこれほどサービスが多様化しているにもかかわらず、実際はほしい情報がなかなか手に入らない、そういうことも多い。マイナーなものでは貸し出しができないものもあり、そういうものは取り寄せもかなわない。

 『信濃』(信濃史学会)の研究動向に10年余ぶりに関わるようになって2年目。わたしは専門家ではないので、情報が乏しい。結果的には自分が入会している会の情報を手探りに、日々ホームページに情報を積み重ねてきてはいるが、そのホームページのデータがこのところ更新できないでいる。理由のひとつは、更新してアップロードしていなかったデータが破損してしまってほぼ1年分のデータの蓄積を一から出直さなくてはならなくなったから。かつて大量にデータを破損して、バックアップのことは常日ごろ気を使っていたのに、同じことを繰り返してしまう。そんな経験はもう10ほど前のことだから、今は当時のような高額を支払わなくてもデータの復旧はできそうだが、それでも破損状況では10万以上かかるのは当たり前。バックアップを心がけていたこともあって、見積をとったらかなり高額だったので、復旧するのを諦めた。欲しいデータが少量だったということが、そう選択させた。「いくらならいいんですか」と見積された会社はしつこく問いただしてきたが、その裏には見積を依頼するひとのほとんどが復旧作業を依頼するという自信が見えた。

 話がそれてしまったが、そんなこともあって多忙のなかではこの事故がけっこう響いている。博物館に勤めていたり、もちろん大学機関に関わられている方なら情報を得やすい。寄贈図書が頻繁に送られてくるのだから。そういう意味では飯田にあり、たびたびここで話題にしている研究団体などずいぶん恵まれた団体だ。ということで、わたしはまず自分の入会している研究団体の雑誌から論文情報を得、その次は図書館で、それでも駄目なら直接発行元に問い合わせることになる。なかなかそこまではできないから、目を通すことのできない論文も多々あるに違いない。雑誌に掲載されるもの以外にも、博物館で発行するものや、個人で発行するものもある。時代性で論文そのものの数が減少しているとはいえ、これらを網羅して情報を求めるのは容易ではない。この6月号に平成27年度の研究動向が掲載されたが、あとになって大事なものを落としてしまった、と気がつくのはいつものことだ。

 冒頭にも触れたが、「ここに記述されているだろう」と思って書棚から引き抜いた本に求めた事柄が記述されていないことは多い。とりわけ市町村史誌の類は、よく書棚から引き抜く本なのだが、知りたいことが書かれていないことはいつものことだ。当たり前といえば当たり前で、限られたページ数の中に、いろいろなことを網羅して、さらに詳細を記述するのは不可能だろう。とりわけ「これは何なのだろう」とわたしが思うようなものは、かなりマイナーなもの。結果的に市町村史誌には書いてないので、市町村内の任意団体が発行している、たとえば地区単位の史学会とかグループが発行したものがないかと探すが、なかなかないのが実情だ。現代史にかかわるものでも情報不足は多い。ここ半世紀ほどのことでも、実際に詳らかにされている資料は少ないといって良い。たとえば自分の専門分野(仕事上の)のことを紐解こうとしても、資料がないのが現実なのだ。今年中には手がけ始めようと考えている「西天竜」のこと、実は資料がよく残っている方だと言えそうだ。

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丘の上の“祇園さま”

2016-07-14 23:05:16 | 民俗学

桜町1丁目

 

本町2丁目

 

松尾町3丁目

 

 今日ひときわアクセスが目立つ過去の日記があった。「八坂大神」だ。毎年7月14日は松本では「八坂様の日」と言っている。なぜ7月14日なのかについては、調べていないが、偶然にも同じ7月14日は、飯田市の丘の上では祇園祭が町内ごと行われる。この日が「祇園さま」だという記憶はすっかり消えていたのだが、帰り道を珍しく丘の上に選択したところ、祇園の祭壇が見えたので今日だということがよみがえった。銀座から飯田線の桜町駅に向かう道には、いくつかの町内で祭壇が見られた。気になって立ち寄ってみたのが桜町1丁目の「祇園さま」である。同町の集会施設の一室に祭壇が設けられている。幕が周囲に張られ、3段の祭壇が設けられ、白布で祭壇が覆われている。最上段中央には木祠が祀られて中には「津島神社神札」が納められている。真新しい御札だから代参で手に入れたものなのだろう。2段目には洗米と塩、水が供えられ、脇にはお神酒が並ぶ。最下段には野菜と菓子、そしてイワシとスイカが供えられている。祭壇脇に花が飾られ、もう一方には大きな太鼓が置かれている。この太鼓を意図的に打つということはないようだが、好きな人が叩くのだというものの、今は出すだけのようだ。祭壇の前には賽銭箱が置かれ、町内会のひとたちがお参りにやってきては賽銭をあげてお参りをしていく。部屋の外、屋外には竹が建てられてしめ縄が張られている。両脇に竹を立て、その竹を結ぶように上部に竹を横にして門構えに設えている。竹は近くの大王寺に行って伐ってくるという。ここでは町内会に7つの組があって、組ごと当番で祇園さまを実施するという。今日の朝7時から準備をして祭壇を設えたという。夜には当番のひと達と町内会の役員の人たちが集まって直会をするという。子どもたちが集まって何かをするということはなかった。30年くらい前はお化け屋敷をやって子どもたちが見に集まったという。お化け屋敷そのものは町内会の人たちが準備をしたという。現在町内会には46戸くらいあるが、実際に町内会の活動に加わるのは34戸くらいという。

 ということで少しほかの町内会の祇園さまものぞいてみる。祭壇に大勢の人たちが集まっていたのは本町3丁目のもの。その東の本町2丁目の祭壇は外松ビルの1階の中に祀られていた。やはり幕が張られ、3段の祭壇が設えてあった。ここでは竹の代わりに榊が両脇に立てられ、賽銭箱の代わりに三宝が置かれている。両脇に「津島神社」の角灯篭が置かれており、祭壇に供えられているものは桜町1丁目のものとほぼ同じである。

 本町から通りでふたつ北側の松尾町を通ってみると、表通りに祭壇が見えたのは松尾町3丁目だけだった。前段の本町2丁目もそうなのだろうが、集会施設ではない場所に祀られる祭壇は、祀られる場所が毎年同じということではないようだ。当番ごと祭壇を設える場所は違うようで、松尾町3丁目では組が6つあり、2組ずつ当番になるから3年に一度ここに祀るという。祠など道具はふだんはしまわれていて、この時だけ日の目を浴びる。桜町1丁目と同様に竹が両脇に立てられ、、それを結ぶように門構えに竹が上部で横にして結ばれている。「津島神社」の赤い提灯が目立つ。桜町1丁目同様に昭和31年に幕が新調されている。飯田の大火は昭和22年だった。したがって、おそらく幕は大火で焼けてしまったのではないかという。とすると、一時は中断していた祇園さまが、幕が新調されたころ復活したのかもしれない。

 さて、丘の上の祇園さまのことは松上清志氏が『伊那民俗』(柳田國男記念伊那民俗学研究所)に報告されている。現在46箇所で実施されているとも。松上氏が『伊那民俗』86号に報告された「飯田の祇園祭」には、「廻ってみると、どこでも「津島様」と呼び、「祇園様」とか「祇園祭」とは呼んでいないようだ」と記している。しかし、今日訪れた桜町1丁目と松尾町3丁目いずれも「祇園さま」と呼んでいた。松上氏も「昔は「祇園祭」と呼んでいた」と報告しており、7月14日は「祇園さま」の日のようである。

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