Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

火の見櫓

2016-05-30 23:55:44 | 農村環境

 今日訪れた現場の脇に、コンクリートで覆われた1間四方ほどの空間があった。すぐには気がつかなかったが、ここには数年前まで火の見櫓があったという。ちょうど地域の農業用水路の脇で、ここなら火事があったらすぐに水を汲んで利用できそうな場所だ。すぐ脇には道路から階段で水路に降りるようになっていて、洗い場として利用されたのかもしれないし、少しその階段の幅が広いから、洗い場よりもう少し大規模な用水を利用できる空間、例えばかつては水車があったとか、そんなことを想像してみたりもした。そもそも火の見櫓なら、水場の近くが理想だと考えてみたりもする。どうせ造るならもちろん集落の中心でなければならないが、用水路の脇であって、人々が集まりやすい場所、となるだろうか。火の見櫓のある場所を、今までそういう観点で見たことはなかった。

 ところで、この現場のある場所は豊丘村。聞くところによると、豊丘村では火の見櫓を一斉に撤去したという。したがって現在豊丘村で火の見櫓を見かけることはないらしい。火の見櫓が、すで用をなさなくなっているのは事実だ。そういえば、と気が付くのは久しく半鐘の音など聞いたこともない。子どものころは火事があれば半鐘が鳴らされた。それしか知らせる術がなかったということになる。例えば東北の震災では、防災庁舎で津波に襲われるまで放送をし続けて亡くなった三陸町の女性の話が話題になった。今は防災無線が半鐘に代わった。地方の農山村のほとんどで防災無線が整備されている。半鐘以上に人々にはリアルタイムに情報を伝えることができる。とはいえ、このスピーカーから聞こえる音声がなかなか聞きづらいという話もよく聞く。今はそうした聞きづらさを解消しようという取組みもされていて、かつての防災無線よりは改善されつつある。ランドマークとして目立つ存在だったであろう火の見櫓も、今ではどこにあるか印象に残らないほど存在が薄くなったのは、周囲に高い建造物が多くなったとも言える。かつてはそもそも2階建て家屋はそう多くはなかったし、電柱も低かった。

 ということで、火の見櫓は今でもあるところにはあるのだが、視界から消えているかもしれない。火の見櫓をコレクションしているページは世の中に多い。「探訪火の見櫓」には、「都会ではほとんど見られない「火の見櫓」。でも信濃国(長野県)は火の見櫓が多数存在します。 須坂市・高山村・小布施町は「須高地域」と呼ばれ、多くの火の見櫓が現存します。 中でも高山村は各集落ごとに火の見櫓があると言っても過言ではありません。」と記されている。実際火の見櫓の残存率は自治体によってかなり違うようだ。前述した豊丘村のように一斉に撤去してしまったところもあれば、高山村のように今でもたくさん残っているところもあるという。豊丘村が撤去した理由は、老朽化によって危なくなる前に撤去されたよう。そもそも用をなさなくなったから、なんら異論はなかっただろうが、考えてみれば地域の暮らしと密接にかかわった文化財にはならないが、貴重な生き証人なのかもしれない。豊丘村でも火の見櫓が撤去されるまでは、防災意識を高めるために、半鐘をならす時があったというが、住民がそれと解って耳にしていたかは疑問があったという。そう考えると、火の見櫓もそう遠くない時代には、かなり希少なものとなる時がくるのだろう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『地域と創造』 中編

2016-05-29 23:52:50 | 信州・信濃・長野県

『地域と創造』 前編より

 創刊号で気になるキーワードを挙げるとしたら、「問う」「批判」「問題提議」「論争」、そして何といっても「斬る」だろうか。創刊号からコラムとして複数編挿入される「信州人を斬る」は、副題として《覆面時評》とある。実名ではなくイニシャル、あるいはペンネームで書かれている。これが4号まで継続され、5号からは「季刊「地域と創造」を斬る」に変化し、実名となる。すべて読み返していないので印象に過ぎないかもしれないが、4号まで連載されていた本多勝一氏の「母と父」が「つづく」のまま5号から途絶える。合わせたように5号から雰囲気が変わり、ますます「斬る」というワードが目立つようになる。そしてこの号に本多勝一氏と上条宏之氏による対談「地域の思想を築くために!」が掲載される。これを始まりと言うべきか、すでに創刊号から始まっていたと言うべきかは人によって捉え方があるだろうが、いずれせよ前述したキーワードからも読み取れるように、この雑誌はやたら論争を巻き起こそうという意図が見える。こうしたキーワードを使う事によって、読者の目が向くと考えたのだろうか。全国誌ならともかく、長野県という狭いエリアでこれほど意図的なものは、一度や二度は良いが、積み重なっていくと遠ざかる人の方が多くなると予想しなかったのだろうか。もちろんわたしはまだ若かったということもあるからか、オトナの社会に抵抗感を抱いていたからこうした論争に惹かれた。そもそもよく解っていなかったかもしれない。

 5号に掲載された対談に対して厳しい批判をしたのは、6号に掲載された飯島一彦氏の「「負け犬」として「地域」を眺める他人の目−本多勝一氏へ−」である。前編で「しだいに誌上において喧嘩を展開することになる」と記したが、論争とは上品な言い回しであって、「誌上喧嘩」を展開することになる。この飯島氏の「斬る」に返す「斬る」は、8号に掲載される。本多勝一氏の「編集者の姿勢を疑う」だ。「地域主義」をタイトルとした記事を並べた7号は、「季刊「地域と創造」を斬る」がページ数が膨らんだせいで割愛された。編集後記には

「地域主義」集談会の松本大会が開かれたのを機会に、さまざまな角度から地域の思想に光を当ててみようと努力しているうちに、それだけでいつのまにか二○○頁を越えてしまいました。そのため、多忙のなかで「信州の選択をめぐる論争」の部分を執筆して下さった東栄蔵・平野勝重・宮沢四郎各氏の論文、さらには「地域と創造を斬る」という厳しい忠告を含んだ本多勝一氏の文章、「地域からの脱出」と銘打った小日向ナナさんの海外体験記などを、どうしても今回は割愛せざるを得なくなりました。

と記している。ここにあげられた記事は8号に送られて発表された。その一つが「斬る」に掲載された本多氏のものだ。6号まで名を変えたものの、必ず掲載されていた「斬る」を割愛した背景にためらいのようなものがあったかどうかは解らないが、この雑誌は「季刊」である。ようは次号へ送ると、執筆者にとってみれば原稿が世に出るまで数ヶ月以上経過してしまう。送られた原稿はページ数にして44ページほどになり、1号の20パーセントほどを占める。これは雑誌のタイムリー性を失うことにもなる。無計画とまでは言わないまでも、編集者の甘さがあったかもしれない。そして8号の本多氏による批判に引き続き、9号ではもう一度飯島氏の言い分「結局、本多勝一氏を理解できなかったの弁」、加えて中村正夫氏による「本多問題をめぐって編集者へ」と編集部の「編集者から中村正夫氏へ」が掲載される。9号では「斬る」ではなく「地域と創造私の言い分」とタイトルは変更される。確かに「斬る」ではなく本格的な「喧嘩」の様相を見せるから「言い分」が正確かもしれない。そしていよいよ10号である。「地域と創造私の言い分」からはここまで繰り返されてきた本多問題は消滅する。11号まで「地域と創造私の言い分」は掲載されるが、12号にはそのタイトルがなく、その代わりが「読後感想」だろうか。10号の編集後記にはつぎのようにある。

《お詫び》前号で、本多勝一氏の「母と父」が再登場すると予告しましたが、本多氏より次のような連絡があり、掲載不能となりました。編集部の不手際を、読者の皆さんに深くお詫び致します。
−前略−地域と創造・第10号の原稿御依頼をいただきましたが、第9号を見て、編集人の見識の無さと非常識に改めて感慨を深くいたしましたので、これ以上わずらわしいことには、かかわりたくなく、辞退致します。 敬具

この本多問題を機に、『地域と創造』は廃刊への道へ進む。編集人の鮫島久男氏は同編集後記の中で、「本誌もそろそろ、編集の重点を地域的側面から創造的側面に移してゆきたいと思う。巻頭の“編集の姿勢”の言葉を借りれば、何を選択し何を創造すべきか、真剣に考える時期に来たと言うべきか」と記す。12号は「創刊3周年記念号」と副題がある。「廃刊」とはどこにも記されていない。しかし、おそらくこの号が『地域と創造』の最終号だと思う。

続く

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

無灯火

2016-05-28 23:49:32 | つぶやき

 一昨日代掻きした田んぼの水がだいぶ減っている。妻に言わせると水を入れても、翌日には部分的に土が見えてしまう。「3日は持ってもらわないと」と言うが、思うようにはいかない。畦の外側を注意深く見てみるが、明確に漏水している箇所は見当たらない。昨年竜東地域の水掛け量を計測した際にも、減水が著しいのは明確な漏水箇所が判明している場合。どこで漏水しているか解らない、というのは漏水とは言わないのかもしれない。とはいえ、減水分は補給しなくてはならず、用水の乏しい地域では「ひと目」が気になる。今週は仕事を終えてからの夕方、2度目の代掻きを行った。昨年は1度だけだった代掻きを、今年は3度行う予定だ。漏水防止もあるが、代掻きをすることで空気を送り込んでのガス対策、それと雑草対策でもある。

 さて帰りがけの県道、すでに暗くなりかけているなか、ライトも点灯せずにおそらく80キロ以上のスピードですれ違った車があった。わたしはスモールではなく、すでにふつうのライトを点灯していた。すれ違った車は白かったから、直線の先のカーブを抜けて来た時から認識していたが、遠近感を確実に把握することはできなかった。別の対向車があればともかく、この1台だけが猛スピードでやってきたから、もし横断者などいたら車には気がつかないだろう。危険であることは言うまでもない。

 このごろライトを点灯しない車を見かけては、「危険性」を感じることがよくある。かつてわたしもライトを点灯するのは時間的に遅い方だった。とはいえ先頭を走っていてこの暗さで無灯火ということはなかった。とりわけ危険と思うことが度重なるのは、高速道路のトンネル内だ。走行車線を走っているのならまだしも、追い越し車線を走っていながら無灯火というのは危険であることは言うまでもない。前方を走っている車が追い越し車線に車線変更する場合、後ろからやってくる追い越し車線の車がないか確認するのは当たり前だ。この際、無灯火の車は認識しづらい。車線変更したらすぐそこに後続車がやってきていた、なんていうこともあるだろう。追い越し車線を走っている車は、車線変更しようとする車がいることを前提に、認識されやすいような操作をするべき。ライトを点灯するのは当然で、それもスモールではなくふつうのライトを点灯するべき。前にも触れたが、一時停止違反で捕まえるくらいなら、無灯火の車を取り締まるべき。

 

5月22日、代掻き後の「月」

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

稲核へ

2016-05-27 23:15:31 | 民俗学

野麦街道へ・後編より

前田家風穴

 

 「野麦街道」の次は旧安曇村稲核へ。「稲核の風穴と生業」というテーマである。稲核の真ん中を国道158号が貫いており、かつてほどではないが(内側に拡幅されて)、集落の中央で国道はクランク状に曲折しているのが印象的だ。よく古い町並みや城下町にある鍵の手とか枡形と言われるものと同じものだが、この山側の曲折点に前田家はある。何度かの大火に逢い、現在の土蔵造りの母屋は明治末期のものという。この前田家の庭に郵便局が明治40年に建てられた。なぜ郵便局がここにできたかというと、前田家の風穴を利用して蚕種を全国に発送するためだったという。生糸を外国へ輸出するなか、生業として大きく発展したという。そしてこの稲核の風穴を真似して「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産になった荒船風穴が造られたという。前田家の裏には3棟の建物があり、これが風穴を覆っている。「風穴本元」とある建物が最も大きなもので、前室で事務作業など行って各地に送ったという。中に入ると奥は「空積み」と言われる石積みがされていて、その上に2階が造られている。夏場で8度くらい、外気温より2ヶ月ほど遅れて気温変化があるという。冬季は−10度くらいと言われ、例年だと今くらいまでは氷が残っているというが、今年は暖かかったためすでになくなっている。風穴の中に置かれている温度計は5度ほどを示していた。中には現在一升瓶の酒がたくさん保管されているほか、波田や山形の方の苗木屋さんから預かったという苗木がたくさん置かれていた。

 山の末端に石が累々と重なった状態を「崖錐」といい、ここに風の通り道ができて、岩の間から夏は冷たい空気が吹き出す。逆に冬には外気を取り入れて外気が吹き出すところがあって、山の中腹に雪が溶けているところがあるという。したがって風穴は一定した温度というわけではなく、外気によって温度が変化する。これを発見されたのが前田家の祖先の方で、宝永年間のことだという。当初は漬物をいれたりしていたのだろうが、明治時代に当主だった喜三郎さんの発案によって保存貯蔵法が始まって広まったというのだ。

 

風穴

 前田家の西方に稲核のお宮(諏訪神社)があり、その入口に水場がある。かつて稲核には12、3箇所水場があったといい、今も4箇所ほど残っていて、11月20日ころから稲核菜を洗う光景が見られるという。隣に竈があってそこでお湯を沸かして洗うという。この水場から山の斜面を望むと、斜面に石組みされて屋根をかけた風穴がいくつも見られる。いわゆる稲核の風穴群である。地元では「かざあな」と呼ぶ。朽ち果てた風穴もあるが、現在も4つほど利用されていて、漬物を保存しているようだ。稲核菜なら風穴に保存しておけば、夏場まで保存できるという。土地は個人のもので、借りて風穴を作っているようだ。

 

諏訪神社舞台と観覧席

 諏訪神社では例大祭が10月の2日、3日と行われる。2日には屋台の巡行、3日の夜(7時から)には演芸が奉納されるという。演芸は手作りの舞から三番叟や神楽といった伝統のものまで繰り広げられるという。舞台の庭は傾斜がついていて、背後には石積みを段々に積んだ観覧席となっている。舞台上の壁には人形を飾るような細工がされている。

 

前田家東側にある水場

 とりわけ「稲核の風穴と生業」は、民俗を中心とした文化財群となるだろうか。地元では朽ち果てた風穴を復元したいという考えもあり、さらに今も稲核菜を保存するために利用されている。さらに水場で稲核菜が洗われるというのだから、暮らしに現在も密接なものとなっている。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

野麦街道へ・後編

2016-05-26 23:34:33 | 歴史から学ぶ

野麦街道へ・前編より

 

扇屋

 

 扇屋は川浦にあった女工宿(藩の役人も泊まったという宿)を移転復元したもの。入ってすぐの右手にマヤがあり、尾州岡船の奈川牛の道中姿が再現されている。「尾州岡船」とは尾張藩からもらった特権で、その鑑札を持って旅をすると宿継ぎ、荷継ぎといって金銭がとられることなく、出発から終着まで一気に行けたという。そういった稼業が発達したので、奈川の人たちにとって牛は人間と同じくらい大事にされた。マヤの奥には仕事場があり、やはり「蕨粉づくり」が再現されている。貧しかった奈川では、食料の不足を補うために「蕨粉」を作ったようで、売れるようになると米の3倍の値段で売れたという。「蕨粉」とは蕨の根っこを叩きつぶすと白い汁が出てくる。これを干したもので、糊として利用され機織り産業の盛んだった桐生や甲府の方に尾州岡船によって出荷された。

 ほぼ中央に囲炉裏があり、奥の味噌部屋には屋根裏へ上がる階段がある。また、囲炉裏のある間から表側の「しもで」の屋根裏に上がる階段があり、ここを「隠し部屋」と言うらしいが、むしろ味噌部屋の上にある空間の方が「隠し」部屋のような趣だった。女工宿とはいうものの、それは明治以降製糸産業が盛んになってからそう呼ばれるようになったもので、それ以前は旅人の宿だったよう。現在この建物を管理されている女性は、江戸時代尾州藩領の旅人宿として、また製糸業が盛んであった明治・大正時代には飛騨高山方面から岡谷・諏訪地方へ製糸労働のため往来した工女の宿だったという宝来屋の娘さんだという。宝来屋は扇屋と同じ川浦にあった建物で、現在松本市島立の松本市歴史の里内に移築され公開されおり、扇屋と違って一度に100人以上の工女が泊まれたほど大きな宿である。

 

六地蔵

 

南無大慈大悲観世音菩薩

 

 扇屋から700メートルほど下ると川浦集落に入る。道が分岐するところの右手に墓地があり、その横にふた棟の覆屋がある。このあたりに製材所があったようで、「製板の川原」と言われたようだ。覆屋のひとつは六地蔵が納められたもので、赤い帽子と前垂れが目立つ。前垂れに書かれた文字を見ると「上尾市」とあり、ずいぶん遠くの寄進者である。もうひとつには2体の石仏が祀られていて、1体はやはり前垂れをつけた如意輪観音、もう1体は青面金剛である。覆屋の外にも何体かの石仏があり、注目されるのはおむすび形の「南無大慈大悲観世音菩薩」だろうか。「正徳六丙申歳」と読み取れる。正徳4年は1716年にあたり、奈川地域でも最も古い石仏になるようだ。また、おむすび形の縁に沿って朱色の線が見える。同じようなおむすび形で、縁に沿って朱の線が縁ってあるものが、右手の方にもう1体ある。こちらは「南無阿弥陀佛」とあり、名号塔である。年銘がなく前者との関わりは解らないが、朱の縁どりにどういう意味があるものか。そもそも意図的におむすび形の石を選択し、山なりの朱の線を描くことを前提にしているかのようだ。また、双体道祖神もあり、「施主ハツ」とあることから女性が寄進したものだろうか。

 

大日如来

 

 ここから少し西の道端に明治27年銘の「馬頭観音」を中心とし、両脇に明治44年と大正4年の大日如来、それと大正2年の馬頭観音が並んで建っている。奈川には大日如来が道端に目立って祀られている。前述の六地蔵の覆屋の中にも1体祀られており、特徴的だ。大日如来を牛馬神とする信仰は各地にあるようで、とりわけ馬乗り大日とか牛乗り大日といったものが九州国東半島などに見られるが、長野県内ではあまり牛馬と大日如来の関わりを聞かない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

野麦街道へ・前編

2016-05-25 23:37:54 | 歴史から学ぶ

 標高1400メートルを超えているのだから、涼しいのは当たり前なのだろう。ここから1.3キロほど山道を歩くと野麦峠になるという。

 以前「“文化財”からの地域づくり」で触れたのだが、松本市の策定する歴史文化基本構想の関連文化財群設定に先だった文化財の現地見学に参加した。その一つは県史跡に指定されている「野麦街道」を核とした関連文化財群を描いたもので、旧奈川村域に該当する。奈川は松本市域でも最も奥まったところに位置する地域で、集落は黒川渡と寄合渡というふたつの地域を中心に展開されている。野麦街道が県史跡に指定されたのは昭和59年、当時の奈川村を訪れた記憶はあるが、険しい道のりであるという印象が強かった。昭和60年時の国勢調査データによると、422世帯、人口1399人というが、現在は345世帯、人口755人と、人口はほぼ半減している。小学生が25名しかいないというから、下伊那郡の山間地域の村と状況は似ている。

 

長野県史跡「旧野麦街道」

 

 野麦街道は言うまでもなく飛騨と松本を結ぶ道。現在の入口は広くなっているが、途中まで管理道路として車が入れるようにしたため広げられているという。工女が通った、あるいは「ブリ街道」と言われるように、富山で捕れたブリがボッカに背負われて越えてきたとも言われ、交易上重要な道だった。

 

道祖神と石室

 

「南無観世音菩薩」碑を訳した「再建の記」(部分)

 

 旧野麦街道口から少し寄合渡に下った道端に石室が復元されている。昭和63年に当時の奈川村長の発案で造られたという。もともとは現在地に沿う道路反対側の川との間にあったという。本来の形はまったく異なるといい、現在の物は炭焼き釜を真似て造ったものらしい。最初の石室は壁は石で、屋根は木だったという。最初に石室を造ったのは黒川渡にあった庄屋の永嶋藤左エ門という人がいて、野麦峠道のこの界隈は冬場遭難する人が多かったことから、避難小屋を造れば助けられのではないかといって造ったという。その話を聞いた木曽藪原の極楽寺の和尚さんが美挙を讃えて文政8年(1825)に碑を建てたといい、復元された石室の横にそれはある。ところが何を書いてあるかは現在の碑からは読み難い。これを訳したものが昭和62年に横に建てられた。

 近くには交通安全を祈願した双体道祖神が建てられている。「改良記念」とあるから道路拡幅改良されたものを記念したものなのだろう。背面に「昭和六十二年十一月 奈川村村長嶋口儀久建之」とある。

続く

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ひとは変わるもの

2016-05-24 23:21:22 | ひとから学ぶ

 ひとは変わるもの、そう思うということは、自分もそう思われている可能性を悟る。新人で初々しかった人が、次に顔を合わせたら別人のように風貌が違う。慣れても何でもなく、それが本来の姿というこもあるのだろう。一度採用すると理由もなく首にすることもできず、後悔が嵩む、なんていうことはよくあることなんだろう。人を見る目とは経験値なんだと、つくづく思う時である。

 先ごろ久しぶりに顔を合わせた方は、以前よりも随分目線が高くなっていた。立場が上がれば上がるほどに、こちらもそれを意識するからそんな疑いを持つことになる。とりわけお願い事をしたりして、軽くいなされると、それまでの関係も飛びかねない。それは立場としての石木が高まったから、対応としてそうせざるをえなかった、とも言えるだろうが、でも、こちらの思っていた顔とは異なる。全てにおいて、そんな経験値の積み重ねだ。とりわけ最近は頭を下げてはお願い事を繰り返している。そんなとき、その人の本音であったり、かわし方というものを悟る。いつもと変わりなく接してくれる人も大勢いるが、そうでもない人の中に、それまでの顔とは異なった顔を見せられると、やるせないものが心に芽生える。きっとこんなことを商売にしている人たちは、難なくやりすごせるのだろうが、ふだんそうしたことをしていないと一層「普段とは異なる顔」に心を病むもの。

 よくかかってくる電話営業。冒頭からそれらしいことが解るから、いきなり受け答えは冷たい。「こんな電話をよくするもんだ」と思うのは、自分が冷たくいなす際に相手は嫌ではないのだろうか、と思うからだ。こんな商売は病んでしまいそうだから、わたしには絶対できない。電話って不思議で、相手が見ず知らずの人でも、意外と相手の顔を想像して応えている自分に気づく。そもそも会話には「顔」が存在する。その「顔」は自分なりに描いているものがあり、加えて会話から人となりも描き出すもの。だからこそ、「変化」は経験値であり、また、こころの動揺を巻き起こす。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ゴマダラチョウ

2016-05-23 23:31:22 | 自然から学ぶ

 

 

 犬の糞を取る箕の中に、比較的大きなチョウが止まっていた。もちろん糞を目当てにやってきたよう。これまで我が家では確認したことのなかったチョウである。「低地から丘陵地の雑木林に生息するが、成虫はそれに隣接する都市や住宅地にも姿を現すことがあり、エノキが多分にあれば都市周辺でも発生する」(ウィキペディア)というゴマダラチョウである。タテハチョウ科のチョウで、日本を含む東アジアに分布するという。文字通り黒地に白のまだら模様が特徴なことからそう呼ばれるらしい。また、ウィキペディアに「クヌギなどの幹から染み出た樹液や、カキなどの腐果、獣糞などにやって来て汁を吸う」とあるように、「獣糞」にやって来るというから、犬の糞にくるのも当然なのだろう。

 とりわけ糞に止まっているチョウは、かなり接近しても微動だにしない。それほど犬の糞は大好物、ということなのだろうか。

 ちなみに北海道では絶滅危惧II類(VU)、岩手県と鹿児島県でその他の指定を受けている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

よそ者

2016-05-22 23:41:24 | ひとから学ぶ

 

 これまでにも何度となく書き記してきた土手の草刈をした。妻に言わせると、「道路下の法は緩やかなのに、なぜうちの法はきつい」となる。道路下の法も我が家の土地なのだが、こちらは35゜くらい。この斜面は隣接地の方が刈ってくれている。いっぽう道路上のこの土手は、最急60゜ほど、平均でも50゜近い。上も下もかつて狭かった道を拡幅した際に、我が家の土地を無償で提供したもの。その後に国土調査をしているから、そこには分筆された経緯は見えない。国土調査後なら、拡幅分は分筆されていて筆が異なるはず。妻の問いに答えるなら、道路を拡幅する際に、地山を切った側は切り法だから安定勾配はきつくなる。いっぽう盛土側は安定勾配が緩くなる。設計の基本だ。とりわけ現在は市町村道になっている多くの道が、かつては農道として拡幅された。いいや、新設される道路も多くは農道として開かれた。今後こうした経緯を口にする人もいなくなれば、行政関係者もそんなことは知らなくなるだろう。工事費を少なくするため、盛土側はほぼ45゜から35゜くらい。切土側は50゜、あるいは60゜くらいで造成した例はたくさんある。もちろん盛土高や切土高によってもそれは異なるが、45゜よりきつい切土側勾配は一般的だった。

 ところが冒頭記したように、この一般的という勾配が、実に管理する側には悩ましい。今どき45゜よりきつい法面など草を刈って欲しいと頼んでもなかなか受け手はいない。とりわけ法の途中に立たなくてはならないほど高低差があればなおさらのこと。

 傾斜地なれど、どこの農家にもこのような土手があるわけではない。周囲でこんな土手を所有している家はそう多くはない。とりわけ我が家は高低差2メートル以上のこうした土手ばかり。言ってみれば条件不利地ばかり持っている、というわけだ。いつごろこの地にやってきて、いつごろ土地を自分のものにしたか、そのあたりに関わってくる。そもそもこの地にも、「自分の土地だけを通って隣村に行けた」という家がある。しかし、しだいに分散した土地は、その後人手から人手と変遷したりして、後に居着いた人の方が「良い土地」を所有する、ということはよくある話。ある村の村長をされた方は、よそ者から「昔からの大地主」と言われるほど旧家と見られていたが、本当はある時期に大地主が没落しそうになった際にやってきて土地を買い取って大地主になったという。でもおおかたの人たちはこの地の草分けと思い込んでいた。ということで、きっと我が家も運が悪かった、ということになるのだろうか。

 道端のこの急斜面の草を刈っていても、めったに声を掛けられることはない。それでもわたしの姿を見ると、必ず声を掛けて下さる方もいる。「よく頑張るなー」と。土日の度に訪れては草を刈るばかりのわたしはよそ者に違いないが、とはいえ声を掛けることもできないほど見ず知らずの者ではないはずだが…。そして実は、この地のことをよく知っている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『地域と創造』 前編

2016-05-21 23:52:47 | 信州・信濃・長野県

 昨日触れた『地域と創造』は昭和52年4月25日に産声をあげた。創刊は銀河書房よりの発行であったが、後に地域と創造社に引き継がれる。2年後の昭和54年5月10日発行の第9号からである。実はこのあたりからだ、廃刊が見え隠れし始めるのは。銀河書房にしても後の地域と創造社にしても長野市に拠点を置いていた。これを偏向と言うのは時代性かもしれないし、そう口にすることそのものがわたしには偏向だと思う。そもそもこの雑誌はなぜ創刊されたのか。巻頭にある「創刊にあたって編集の姿勢」には次のように書かれている。

 これまで長い間、地域社会からの発言や発想は殆んど無視されてきた。われわれ自身も又、中央への不信感を抱きながらも、結果的には中央文化志向型の生活態度から抜け切らないできた。しかし今や、支配する「中央」と従属する「地方」といった図式は、打破されなければならない。
 周知のように今日では、日本の近代化をすすめてきた欧米依存的なものの考え方では、問題の解決は困難である。今は、日本独自の文明の在り方そのものが問われている。しかしまだ来るべき時代を支えるにたる新しき思想は生まれていない。この時代の転換期にあって、信州に住むわれわれは、いま何を選択し、何を創造すべきであろうか。
 確かにわれわれは、自ら育んできた地域文化さえ、今では正当に評価する視点も見失っている。従って今求められているのは、画一的で中央順応的な地方文化ではなく、住民の自主・自立を基盤とした独自の地域文化である。それは恐らく、地域住民の生活に根ざした自発的活動を前提とするものであろう。
 そのためには先ず、地域固有の文化に新しい角度から照明をあて、埋もれてしまった貴重な人材や思想を発掘し、積極的に問題提議を行ない、狠楼茲力斥瓩箸發いΔ戮信州独自の思想を追求してゆきたいと思う。同時に他方では、日本および世界の各地域文化との連帯と交流をすすめ、その思想に普遍性を与えてゆきたい。
 だが果たして、狄州瓩箸いγ楼茲法⊆立した思想の場を、確実な形で作り出せるかどうか?極めて困難であろうが、今はただ、われわれが生み落したこのささやかな雑誌が自治的文化創造の一つの起点となり、やがて草の根の運動ともなって、読者とともに着実に成長することを望むものである。

 同じ「編集の姿勢」は4号まで掲載されるが、その後はそれまで同様「中央」と「地方」を意識しながら、「編集の姿勢」は毎回若干変わる。ようは以後発行を重ねるたびに葛藤が嵩んでいくのである。それは何といっても編集後記からうかがえるが、このことは別項に譲る。「中央」と「地方」をあからさまに意識させた姿勢は、特集記事へも色濃く反映される。したがってあらためて、今ここに掲載された記事のタイトルを見ただけでも、違和感のようなものを覚えるのは、時代性によるものだけではなく、あえて県民に論争を巻き起こそうとする意図が見えるからなのだろう。少し偏向気味な事例かもしれないが、例えば被差別部落問題をあえて取り上げれば、触れなくても良い「負」の部分を掬い上げることになるだろう。それによって抵抗感を抱く者もいる。もし、この雑誌が商業誌なら(最低でも収支を合わせなければ継続は不可能だから、創刊させたということはそのつもりだったとは思うが)、あえて違和感を与えるような編集は行わないだろう(例としてあげた「被差別部落」であって『地域と創造』が実際それを取り上げたことはなかった)。にもかかわらず、編集の姿勢にはそれを望んでいるような雰囲気がうかがえる。したがって重ねた発行は、しだいに誌上において喧嘩を展開することになる。

 ところで、わたしの手元にある『地域と創造』は、2、4、6、7、8、9、10、のみである。記憶は定かではないが、創刊当時から認識して購入したのてはなく、何号か発行された『地域と創造』の背表紙を書店で見受けて買い始めたのだろう。おそらくもはや風前の灯火となりかけていた10号、昭和54年10月5日発行号と想像する。なぜかといえば、この年就職し、9月から飯山暮らしを始めていたからだ。落ち着いたころ、帰り道にあった牧野書店に立ち寄ることがよくあった。そこでこの雑誌の存在に気がついて、きっと「面白い」と思ったに違いない。「バックナンバーが欲しい」、そう思って並んでいた在庫を購入した。次号からは継続的に購入しようとしていたのだろうが、発行日に立ち寄れずに、数少なく並んでいたこの本を買えなかったのか(「季刊」の場合、定期購読依頼でもしていないと、いつ発刊されたか分からずに買えない、ということがありがち。とりわけ10号あたりから「発行の遅れ」という文字が編集後記に目立つようになる。)、それとも11号の特集記事に興味がなく買わなかったのか、そのあたりははっきりしない。「面白い」と思ったほどに、すでに当時違和感のようなものを抱いていたのかどうか、そのあたりもはっきりはしない。

 ちなみに創刊号の特集は「信州の教育を問う」と「体験と実践による信州教育批判」、論争シリーズは堀越久甫による「提唱!碓氷峠に関所を設けよ−どうする信州の文化づくり」だった。

続く

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

昭和52年、当時の意図は継承されたか

2016-05-20 23:20:23 | ひとから学ぶ

 「風化する時代」において昭和49年に発行されていた『信濃路』のことについて触れ、地域誌は「10号という数字を刻むと消滅の危機にさらされ、事実長続きしたものは皆無ではないだろうか」と書いた。絵に描いたようにこれを実践した地域誌がかつてあった。昭和52年に創刊した『地域と創造』である。当時の長野県内外で活躍されていた方々に執筆を依頼して刊行した雑誌で、「季刊」と銘打っていた。月刊に比較すると、ある程度内容の充実を図ることはできるだろうが、読者にとっては季刊は「間が開きすぎ」という感は否めない。とりわけ内容は、「体制」に対する、あるいは「中央」に対する論点のものが多かった。この雑誌が廃刊に至った流れについては後日触れるとして、同年8月10日に発行された第2号には、倉石忠彦先生による「なぜ我々は民俗を研究するか」が掲載されている。まだわたしが長野県民俗の会に関わっていなかったということもあるだろうか、この記事は今回あらためて書棚からピックアップして初めて読んだ次第だ。

 「グループ研究」と題した記事は、県内の研究団体を紹介する意味があったのだろうか。当時の事務局は浅川欽一先生が担われていたが、倉石先生の執筆者名の横に「長野県民俗の会代表」と記されている。以前にも触れた通り、昭和46年に発足した同会が昭和49年に代表だった仁科政視先生が急逝され、途方に暮れていた同会は田口光一先生の自宅を事務局として再出発し、着実な成果を上げ始めた頃をうかがうことができる記事と言える。発会から基礎が固まるまで一貫して倉石先生が会を支えられていたことがよく解る。 嵬餌押淵泪沺砲硫颪涼太検廖↓◆屬覆鴫罅垢鰐餌を研究するか」、「会を創って何をしたか」が記されている。,砲弔い討蓮△海譴泙「もう一度“長野県民俗の会”・前編」などで触れたことが中心だ。△砲いては「民俗」を研究するとはどんなことかということが、具体的な例で示されている。「われわれはなぜ一日に三回食事をするのだろうか。その時に使う「箸」と「橋」・「端」は発音が同じだが関係あるのだろうか。正月上棚に供える餅はなぜ丸いのだろうか。正月にはなぜこんな飾りをするのだろうか。死ぬとなぜ葬式をするのだろうか。なぜ墓へ入れるのだろうか。祭りとは何だろうか、等々。こうした身の周りにある疑問」を解こうとするわけである。ごく当たり前に行われていること、習慣の背景に疑問を持つということなのだ。においては発会後の活動について触れられている。特筆されるのは調査活動と言える。昭和46年の木曽郡楢川村を手始めに、以後3年ほどの間に上水内郡小川村桐山、下伊那郡天龍村大河内、下伊那郡上村、と次々に調査を行って民俗誌を刊行している。まだまだ交通事情は良いとはいえない時代であるし、今のようなパソコン、メールがある時代ではない。いかにしてロスのない編集をされていたのか、その労力は並大抵なものではなかっただろう。その中心におられたのが倉石先生であったことは言うまでもない。

 先ごろ発行された「長野県民俗の会通信」第253号に「「長野県民俗の会」 の先達を訪ねる (第一回) −田口 光一先生−」が掲載された。「田口光一先生と、長野県民俗の会」で触れたように、年明けに田口光一先生宅へうかがった際の聞き取りを、渡辺宏さんがまとめられたものだ。草創期はもちろん、その後の会を支えていただいたお一人である。次は倉石先生を訪ねてお話をうかがうことになっている。「なぜ我々は民俗を研究するか」はまだ倉石先生が長野市在住だっ頃のもの。間もなく國學院大學へ移られたわけであるが、その後の同会(後輩)が当初の意図を継承できたかは心もとないが、そのあたりも含め話をうかがえたら、と思っている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

牘貝

2016-05-19 23:55:56 | ひとから学ぶ

 嘘をつけば説明責任を負えなくなるのはいうまでもない。舛添さんの言い訳は胡散臭いと思うかもしれないが、嘘を重ねて墓穴を掘らないように説明責任上の嘘は口にできなくなる。だから結果的に説明不足に陥って、どう転んでも墓穴に転がり落ちていく。嘘をついてバレればこんなものなのだが、少なからず嘘をつかない人はいない。

 業務上の嘘は数え切れないほど重ねてきた、なんていうと信用は失墜するが、実際のところ数え切れないなどというものではなく、日常的に物語を描くことは多い。もしかしたらわたしたちはノンフィクションを空想するフィクション作家のようなものかもしれない。バレれば何と言い訳するかといえば、おおかた「お客さんのニーズに沿うため」としか言いようがない。その嘘には大小があるが、おそらくバレれば大事に至るものも含まれる。もちろん昔はそんな嘘は誰でもついていたが、このごろは「誰が言った」を問われたときのリスクマネージメントを恐れるようになった。とはいえ正直な物語ではもはや世の中を描けなくなってきている。というよりも正直な物語を描くと「国民への説明がつかない」と誰かは言う。彼らは明らかに権力者だ。したがってフィクションをノンフィクション化するために、わたしたちは嘘をつくのだ。それで墓穴に転がり落ちようと、しかたがないこと。わたしたちにその責が転嫁されようと、弱者として受け入れるしかないのが筋なのだ。もちろんお客さんを貶めないように、きっと舛添さんのように胡散臭い言い訳をするのだろう。

 綺麗事と現実と、勘定をしながらわたしたちは判断をする。したくなくたってしなければならないこと。それを人生の糧などとは少しも思わないが、確かなる経験値になることだけは事実。殺人を犯すのは許されざることだが、犯すものにしか解らない経験値、などというと失言だろうか…。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

風化する時代

2016-05-18 23:06:40 | ひとから学ぶ

 昭和49年8月1日発行の『信濃路』10号(発行−信濃路)は「飯田・南信濃の旅」を特集している。今盛んに使われるようになった「南信州」という地域名はどこにも掲載されていない。ここでいう「南信濃」とはかつての遠山にあった南信濃村地域を指しているわけではなく、県境域の地域をさして使っているようだ。もうひとつ、巻頭のグラビアが終わっていよいよ特集「飯田・南信濃の旅」に入ると、そこには画家須山計一の「風越山」が寄稿されているが、そこには「ふうえつざん」とふりがながされている。今ならほぼ「かざこしやま」と付されることだろう。時代をうかがわせる事例のひとつだ。

 かつて『信濃路』のような地域誌がいくつも刊行されてきた。地元に偏向ぎみだったわたしには、こうした機関誌は好んで読んだ。どれもこれも10号という数字を刻むと消滅の危機にさらされ、事実長続きしたものは皆無ではないだろうか。

 さて、巻末に近いところに「山村だより」といって投稿文が2篇掲載されている。そのうちのひとつ、「違うが似ている二つの話」は、旧豊科町の丸山勝江さんという方が書かれたもの。当時の農業者を取り巻く周囲の捉え方を表す興味深いものだ。全文引用させてもらう。

 

違うが似ている二つノの話


○農家は高級住宅地の環境破壊?
 東京都多摩のある農業地域に高級住宅団地が造成され、八十戸前後の部落がにわかに二千四百戸にふくれ上った。ところが、農家が新たに貸家を作るのに団地内から反対が起こったり、団地内にできた新しい小学校に、農家の子弟が入学するのを拒んだりする事態が生じてきた。団地側住民の言い分は、高い地代を支払ったのは、単に屋敷に対してのみ支払ったのではなく、高級住宅団地としての環境保全にも含めて支払ったつもりである。したがって、農家が勝手に貸家を建てるのは環境保全上困る。言いかえれば、高級でない住民が高級団地内に住みつくのは困ると言うのである。また農家の子弟は学力が低く、言葉使いや行儀が悪いので、高級団地内の小学校に来られてははなはだ迷惑だと言うことらしい。団地住民は、農家の営む農業や生活は高級団地の環境破壊だときめつけ、農家側はそれは団地住民のエゴだと反発しながらも、団地住民との生活の適応を図るため、あの手この手の活動を展開しているとの事。
 私はこの事を東京都多摩に働く生活改良普及員のレポートで知った。都市化あるいは住宅化の中で、農業が公害などで追われる話しはこの辺でもよく耳にすることだが、多摩におこっているこの事実は単に農業公害などから来る農業の締出しなどと言う単純なものではない。さすが大都市東京らしい話だと思った。
 ところが同じ事がこの信州にも起こっていた。諏訪地方で生活改良普及員をしている友人の話では、市街化地域には無計画に住宅が建設され、その間に農家と農地が点々とはさまれてしまった。そこで肥料や石灰でも撒こうものなら、住宅の窓や入口はピシャビシャと締められ、ましてや消毒ともなれば、ほ場を遠巻きに数人の人々が立ち並び、無言の抗議が行なわれると言う。農家の人達はそれが辛くて四時から五時頃起きて住宅の人達が眠っている間にそれらの作業をすませる。そして住宅の人々の冷たい視線に出合うのに比べれば、早起きなどは何でもないと語っているとか。


○子どもはなぜ農業を嫌がるのか
 話は変わるが、この冬の事である。信州の野沢菜漬と言えば冬の風物詩として欠かす事のできないものだ。この辺の人々は、冬この野沢菜で三度の食事をし茶を飲んだ後、野沢菜の一切を茶わんに取り熱い湯を注いでこれをすすり食べる。なかなか美味しいが、これを「乞食の吸物」と呼んでいる。わが家でも親から子に子から孫に伝えられ子ども達が好んでこれをすすっている。私は大根おろしの残りを同じ様にしてすするのが大好きでおろしが残ると良くこれをやる。ある時子達にも飲ませたくて
 「これは美味しいよ。乞食の吸い物なんてもんじゃないよ」
と言ったら、子ども達がすかさず
 「じゃ、百姓の吸い物だ」
と言ったから私も主人もびっくりしてしまった。
 「じゃ、百姓は乞食の次かな」
と問い返してみた。当時小学校三年生の男の子は「ウー」とあいまいな返事をしていたが、一年生の女の子は
 「そうだよ。だからお母さん、お仕事やめないで」
 「どうして」
 「だってエー、社会科の時間にお母さん農業だなんて言うのはずかしいもん」
と言う答が返ってきた。これには、なおさら驚かされた。
 わが家は代々農家だし、私も農家に育ち、親が農業をしている事を一度もはずかしいと思った事はない。主人も現に農業をしており、農業を捨てる事なく今日までやってくれた事を誇りにすら思って暮して来たつもりである。よもや、その私の子どもが百姓は乞食の次だと言い、親が農業をしている事をはずかしく思いながら社会科の授業を受けていたなど、夢にも思ってみなかったから、ショックは大きかった。
 多摩や諏訪に起こっている現象、田んぼ中の小学校へ通う子どもの農業に対する概念の中に、単純な利害関係だけでなく、農業を営む人への人間的何かが感じられてならない。

 

 「食事をし茶を飲んだ後、野沢菜の一切を茶わんに取り熱い湯を注いでこれをすすり食べる」。そういえばわたしも子どものころ、食事のあとに必ずした行為だ。これを「乞食の吸物」と呼んだというが、わたしには初耳だ。なぜ「乞食の吸い物」なのか。「甘鯛かぶとの焼き浸し」のことを「乞食吸物」と呼んだというような例もあるが、乞食がやってくると茶碗に漬物を入れてお湯で浸したものを出したのだろうか。そもそも「乞食がやってくる」こともずいぶん昔の話となった。わたしの子ども時代は、同級生といえばほとんど「農家」だったから、「農家」であることへの抵抗は全くなかったが、その後の過渡期には、自分の親が「農業」を生業てしていることに抵抗を持つ子どもたちがいたのだろう。昭和49年、わたしはまだ10代の時代であるが、そんな意識が漂う時代と背中合わせだったのかもしれない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

パトカーという恐怖

2016-05-17 23:58:37 | つぶやき

 半年ほど前、「頓に思うこと・後編」を記した。その中で「対向車に寄って来られることもとみに多くなった」と書いたのだが、今日、紙一重の例に遭遇した。下條村の国道151号粒良脇トンネルは、幅が狭く、平成33年度には新たなトンネルが完成する予定だという。まだしばらく待つことになるが、それまで何ごともなくいって欲しいものだ。飯田方面から南へ向かって粒良脇トンネルに入ると、対向車のライトが見えた。「ちょっと真ん中よりを走っている」、そう思って間もなく対向車はどんどんセンターラインを跨ぎ、対向車線に寄ってくる。狭いトンネルの左へ寄ってこの車をやり過ごすが、どうみてもどんどん対向車線にはみ出してくる。「このまま進めば後続車が危ない」と思ったのは言うまでもない。すぐ後ろにはもう1台、会社の車がついていた。ルームミラーで後ろの様子を確認していると、後続車はさらに左に寄ってその車を回避しようとするが、すれ違う際に「ガチャン」と音が。「まずいじゃないか」と思いトンネルを抜けたところで停止してうかがうと、後続車はそのままやってきた。「ガチャン」はドアミラーが相手の車と接触して起きた音。かろうじてぶつかることなく(一応ぶつかってはいるが程度は軽度)やり過ごせた。後続車の同僚たちも驚いたのは言うまでもない。

 本当に最近、こんな運転をする車が多い。くだらない取締りをするのではなく、安全に対する活動に重点をおいて欲しい、警察に望みたいことだ。というのも、昨日はよその方の車に乗せてもらって現場に向かった。帰路わたしの車を駐車した場所に送っていただいたのだが、見ごとに警察に切符を切られてしまった。送っていただいて「ここでいいですから」と言ったものの、彼はちょっと中へ入るだけだからとわざわざ駐車スペースへの導入路に進んだ。分離帯があるため、反対側の駐車場に行くには突き当たりのT字路をUターンしないと行けない。今までにも何度となくその道をUターンして駐車場に入ったことがあったので、わたしはいつも通り「そこでUターンしてください」と彼に言った。ところが彼はT字路左前方に停まっていたパトカーに気づいて、咄嗟に「ここはUターン禁止なのではないか」と思い込んでUターンを辞めて左折してその先で切り返して道を戻ることを選択したのだ。彼の言葉にわたしは「Uターン禁止なんてどこかにあっただろうか」と思うものの、彼がそういうので「そうなのかもしれない」と、はっきりとUターンOKと言えなかった。左折して切り返して同じ道を戻るのはなんら問題のない行為だったのだが、戻ってきたT字路に入る際に「止まれ」があったのに気がつかなかった。ほぼ徐行状態で来た道へ右折して入った途端にパトカーに呼び止められた。一時停止違反である。わたしのために送っていただいた彼には本当に申し訳ないことをしてしまったのだが、これがパトカーという存在の怖さなのだ。考えてみれば長野県内ではUターン禁止という標識はあまり目にしない。けっこう目立つ標識なのでふつうに走っていると「止まれ」同様にそこそこ目に入るはず。警察官に確認したが、ここはUターン禁止ではないという。そもそもパトカーは一時停止しない車を捕まえるために停まっていた。それに早く気がつくべきだったのだが、彼が咄嗟に口にしたUターン禁止という意識に乗っていた誰もが「そうなんだ」と混乱状態に。彼にとってみれば、咄嗟にUターンを辞めたのが正しい選択と思ってホッとしていたのも束の間、結果的にはUターンしていれば切符を切られることもなかった、ということに。

 パトカーへの恐怖心とも言えるだろうか。停まっている、ということはもちろん何かの違反を取り締まるため、と思うのはごくふつうだ。このあたりの警察の取締事情から見れば、通常「一時停止」違反を取り締まっている、と頭に置いていれば、向こうからやってくる車の一時停止を見張っているんだと解っただろう。ところがUターン禁止という彼の言葉は、わたしの中でも「そうなのかなー」としばらくは混乱状態だった。彼がUターン禁止と判断して左折した以降、同じ場所に戻ってくるまでの間にわたしが「これは一時停止を見ている」と気がついていれば、もちろんT字路で「ここ止まれですよ」と注意できたのに、それもできなかった。あとになって冷静に考えてみれば、警察がこんな場所でUターン禁止を見張っているなんて考えも及ばない。パトカーという恐怖に敏感に反応した彼の過去に、何かそう判断させる体験があったのかどうかは知らないが、日本の治安は、たかがパトカーを見ただけでも恐怖感を抱くあたりに形成されているのかもしれない。

 ちなみに今日同じ場所を通ったら、やはりパトカーが停まっていた。違反取締りの常習地のようだ。さらに、昨日切符を切られたのは午後5時半ころのこと。この違反を通告したあと、パトカーは警察に帰っていった。不運とはこんなことを言うのだろう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

不動なる公式

2016-05-16 23:29:16 | つぶやき

 深々と下げた頭をすぐ元にもどすこともなく対象車が通り過ぎると、後続のわたしの車にもあらためて深々とお辞儀をし、通り過ぎた後に続く車にもそれは繰り返された。ガソリンスタンドから出るお客さんを、流れを止めて割り込ませてもらったことへのお礼の姿だ。時折見られる光景だが、これほど深々とお辞儀をされる姿は珍しかった。もちろん感謝の意を示すものだが、お辞儀の姿によって感謝の度合いを計るものでもない。とはいえ、頭を深々と下げるのと、軽く会釈するのとでは、実際やってみると心持ちは異なる。それが不思議なことなのだ。以前にも触れたことがあるが、お金を出してやってもらっているのだから当たり前、と感謝の意を表さない人々もけして少なくない。これを契約上金を出す側が「甲」、もらう側を「乙」と言ったのは言うまでもない。「甲乙」について辞書では「甲と乙。第一と第二。二者間のまさりおとり。優劣。」と解説されている。「甲」が上位、「乙」が下位にあたり、対等であることを示す意味から、このごろはこの表現をしないのは、ご存知の通り。ところがあくまでも対等であるかのような表現なるものの、現実は金を出す側が上位にあることは少しも変わらない。とりわけ役所の契約には表現以上にそれを実感するのは、説明するまでもないだろう。

 日本ではとりわけ「お世話になります」という言葉が多用される。わたしも挨拶がわりに頻繁に使うが、都合の良い言葉であるとつくづく思う。感謝の意を表すのに使うこともあるが、「こんにちは」とそれほど変わらない挨拶言葉のような印象だ。英訳すれば「Thank you for your help」だそうだ。やはり感謝を表す言葉にかわりないのだろうが、わたしにはこの言葉が感謝の言葉に最近聞こえない。ようは軽い会釈程度の言葉、とでも言おうか。そして「ありがとうございました」、と深々とお辞儀をすると、お辞儀をする側の心持ちは「お世話になります」とはまったく違う。これは実際してみると違うことに気が付く。

 そしてあたらめて「甲乙」に戻ろう。この単語を契約上使わなくなったのに、役所の方たちから深々とお辞儀をされた経験はまずない。それどころか「当たり前」と言わんばかりに注文は繰り出される。彼らは懐は痛くも痒くもないのに、労働に対しての感謝を表すのが下手くそな人たちだ。だからこそ、役所の上下関係にけして対等性はうかがえない。例えば村<町<市<県<国は不動なる公式なのである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****