Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

「正月」を新聞に追う

2017-01-20 23:43:38 | 信州・信濃・長野県

 年末年始の地元の新聞「南信州」を整理したわけだが、そんな地元新聞にみる「正月」あるいは「小正月」にかかわる記事を気にかけてみた。

 年末にあたる2016年12月下旬の新聞に、「正月」を迎えるにあたっての支度を映し出すような記事はなかった。年が明けて1月6日の1面には、当然のように「たい切り面火の粉散らす」が踊る。もちろん天龍村坂部で行われた「冬祭り」を報じたもの。これは「正月」の記事というわけではないが、毎年正月の4日に行われる「冬祭り」のことを、この地域の人びとのおおかたは知っている。今では「正月」の行事という印象は間違いではない。

 翌1月7日には「山林資源の松守る風習」という小さな記事が掲載されている。松飾りに代えて笹竹を立てるというもの。根羽村月瀬地区の風習という。「門松」ではなく「門竹」飾りというわけだが、このあたりでは笹竹と松を両側に立て、注連を張るスタイルの松飾りがかつては多かった。我が家でも同様の飾り過去にしていたが、今は簡略化したものしか飾っていない。この際の竹は軒の庇に届こうかというほど長いものを使うが、記事の写真も同様に長い笹竹を使うもので、ここに松を添えないという部分が少し異なる。戦後山に木がない時代に松を貴重として捉えて笹竹に代えたという。

 さらに翌1月8日には「御火の費用集め歩く」という記事が。「御火」と書いているが「オンビ」のこと。果たして「御火」という感じが適当なのかどうかは解らないが、これはどんど焼きのこと。どんど焼きのことを「オンビ」と呼ぶ地域が南信には多い。このオンビの費用を集めるためにいわゆる勧進をする。これを「神勧請」と呼んでいて、以前にも同様の記事を読んだ記憶があるから同じ地区で行われているものかもしれない。「神勧請」といえば同じようなものが諏訪で行われているというが、南佐久郡では「米かんじん」という行事がかつて行われた。その名のとおり米を勧進するわけだ。臼田町清川ではコメカンジョと言ったというからこれは米勧請と漢字があてられるだろうか。正月行事のために勧進をしたもので、単独の行事というよりはどんど焼きなどの複合行事と言える。これは飯田市時又で行われるもので、大きな幣束と紅白の水引をつけた太い竹の棒を抱えた子どもたちが家々を回って正月飾りとオンビの費用を集めるというもの。やはり南佐久地方で行われている行事に似ている。そして家々を回ると「かーみ勧請、神勧請、紙がないなら金をくれ」(新聞記事)と歌うのだという。「神勧請」という漢字があてられているがこれも適正なのかどうか。歌の中にあるように紙を請うものだとしたら「紙勧請」が本来なのではないかと。ようは南佐久の「米勧請」に代わる「紙勧請」なのである。ちなみに川上村秋山では「道祖神の紙出せ」ということをしたという(『川上村誌』民俗編759頁)。「紙出せ、紙出せ」といって家々をまわり書き初めや半紙を集めたという。そして集めた紙で御幣を作ったという。時又で神勧請の際に持って回るものもオンベであって、意図は同じようなものではないだろうか。

 1月11日には「子どもたちの健康願い」の見出しに副題として「諏訪東新でどんど焼き」という記事が。飯田市丘の上の諏訪町と東新町などのマチの中のどんど焼きが8日に実施されたことが報じられている。掲載されている諏訪東新のどんど焼きの作り物には、長い竹の先に和傘の骨が見えている。伊那谷中部から南では、どんど焼きの中心に傘が取り付けられる例が、現在も見られ興味深い点である。とんど焼きでは餅が焼かれるのは当然だか、記事では「餅よりマシュマロやウインナーの方が人気」とある。「どんど焼きの火で〝焼肉〟」で触れた通りである。

 翌12日も丘の上のどんど焼きの記事が掲載されているがこれも8日に実施されたものを報じている。さらに13日には「豊作祈願の「鳥追いホーホ」」という小さな記事が掲載された。阿智村春日七久里で9日に実施された鳥追い行事を報じたもの。もちろん元々は小正月に行われたものである。14日には「あわん棒や鬼木、まゆ玉を」という記事が。阿智村内で実施された表記の飾りや作り物を報じたものだ。そして17日の記事には「大きいことはいいことだ」と毎年記事になる飯田市千代法全寺で実施された「御火」が報じられた。高さ14メートルという大きな櫓を作って燃やされる。やはりてっぺんに和傘がつけられるという。同日の新聞には「雪夜に力強い舞を披露」と阿南町新野雪祭りが行われたことも報じられた。

 以上年末年始らしい行事を扱った記事を追ってみたわけであるが、やはり本来は小正月に実施されたであろう行事が前倒しされて実施されていることが記事に掲載された日付からも理解できる。そしてなんといっても「正月」らしさをうかがわせる記事がとても少ないことに気づく。また、私たちが足を運んだ向方のお潔め祭りに関する記事は見られなかった。

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精進落としの世界

2017-01-19 23:06:31 | 民俗学

「いよいよ葬儀後の火葬の時代へ」より

 猛虎過江さんより静岡地方の葬儀の流れをコメントしていただきました

 飯田下伊那地域におけるこれまでの葬儀の流れから、火葬を告別式の後にした場合の問題点が妻との会話で持ち上がりました。そのあたりを解消していただくヒントを猛虎過江さんよりいただいた感じです。

 それでは現在の葬儀の流れを我が家の例からおさらいしてみよう。

 義父が亡くなって以降に記した日記でも触れている通り、今では隣組に死亡を知らせて集まっていただいて葬儀の日程を決める、ということはなく、喪主側でそのほとんどを決定してから告知するのが一般的になっているよう。証拠に葬儀屋さんもその流れが一般的だと口にされていた。ようは葬儀屋さんを呼んで、葬儀屋さんの指導のもと葬儀の企画が立てられるというわけだ。したがって葬儀屋さんをどこにするかが亡くなったあとの最初の行動ともとれる。わたしの父の葬儀があった5年ほど前とも少し違っているし、地域も違うというあたりがどの程度影響しているかは、現在の生家のある地域の葬儀のことを聞いてみないとなんとも言えないところである。

 通夜は自宅で行う家もまだまだ多いようだが、葬儀場を利用する例も多い。猛虎過江さんによると、静岡では通夜に参列すると告別式には参列しないというから、通夜のあり方そのものに違いがあるようだ。このあたりでは通夜は近親のもののみが参加するというのが一般的であり、そもそも納棺という儀式のためにある通夜は、いってみれば最後の別れのときとも言える。したがって長野県内のように火葬をしてから告別式をするスタイルでいけば、故人にお別れをするには通夜以前に遺体の安置されている自宅、あるいは今の時代では遺体を安置していただいている場所へ足を運んでするしかないわけである。義父の場合、つきあいが多かったこともあり、通夜の行われるまでの間に自宅を訪れてお別れをする方が大変多かったようだ。そして告別式にも、自宅にお別れにも足を運べなかった方が、通夜に参列されてお別れをされた方が何人かおられたが、基本的には通夜はごく近い近親者のみというのがこのあたりの考え方である。火葬をされる前に「顔を見てお別れをしたい」という人は、通夜までに足を運ぶしかないということになるだろうか。今回は実際は通夜の後、自宅にいったん納棺されたまま戻り、2日後の出棺までの時間があったため、その間にお別れをしたい方はできないことはなかった。いずれにしても、全国的に一般的な葬儀の後に火葬なら、一般の会葬者も顔を見ることができるということになる。このあたりが県外の人々には違和感のある葬儀と捉えられる点なのだろう。

 葬儀場で通夜を行ったとしても、その場に泊まらず自宅にいったん戻るというケースはこのあたりではごく普通に行われている様子。したがって火葬の前の出棺は自宅という形はまだまだ一般的な形のようだ。この出棺の際に最後のお別れをしたのが父のときだったが、今回は出棺の際にそうしたお別れの時間を割くというという姿はなかった。地域性なのか、葬儀屋さんの違いなのかは不明である。この出棺の際には、隣組の方たち、あるいは近隣の親戚の方で火葬には行かない方たちも集まって「見送り」をするわけである。火葬に行くのは身内の人たちだけで、せいぜいマイクロバスに乗れる人数程度、20人から30人程度である。身内の少なかった義姉の兄の火葬の際には、10人程度しかいなかった。

 火葬から帰るとそのまま告別式というのが一般的で、この告別式において受付をし(香典を出して)、祭壇にお参りすると、そのまま休憩室(下伊那ではお茶を飲んでいただき)を経てお帰りいただくのがほとんどの参列者の流れで、葬儀にまで参列されるのは親しかった人たちが中心ということになる。そして葬儀終了ととともに今は精進落としとなる。葬儀に参列していただいたひとのほとんどはここで帰ってしまうわけであるが、精進落としは近親者のみと決められたものでもなく、親しかった方たちには精進落としにも参加していただくよう促すわけである。したがって精進落としに参加する人数が解らないというのが現実なのである。かつては葬儀終了後に葬列を組んで墓地で納骨までしていたため、葬儀と精進落としの間に時間が空いてしまうため、精進落としに参加される人は限られてしまったわけで、親しかった人で精進落としに参加される方は、納骨した近親者が帰ってくるまで待っていたわけである。これでは会葬者が精進落としに出ていただけない、ということになって納骨を当日に行わない今のスタイルが定着してきたとも言える。

 ということで、火葬が葬儀の後になった場合、かつての納骨時間以上に間があくわけで、精進落としはごく限られた人たちだけのものとなってしまうわけである。これまでの精進落としの姿から想定すると、火葬を後にするとここに最も支障が生じるというわけだ。今回も教え子の方たちで親しくしていただいた方たちには精進落としで義父の思い出を語っていただきたい、と参加を事前に促していた。したがって精進落としの参加者は読めなかったが、その数は100名ほどを数えた。その方たちに十分行き渡るようにと、料理もそれなりに用意した。余れば持ち帰っていただくということで、参加された方たちには義父とのお別れを十分していただいたと考えている。家族葬が当たり前となってきた今の時代の流れからすれば、精進落としは身内のみというのなら、火葬を葬儀の後に行ってもまったく問題はないのだろう。しかし、かつての葬儀を想定して葬儀を行いたい(まさにお別れの式だとしたら)と思うのなら、精進落としこそ深い交流のあった方たちとの惜別のときということになるのだろう。そういう意味では火葬をあとに行うというのは、抵抗感があって当然なのだろう。ようは葬儀が終わって完了感を抱いていたこれまでの葬儀が、火葬という大きな仕事を残し、それも近親だけでそれを行うという現実に寂しさのようなものを抱くに違いない。

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いよいよ葬儀後の火葬の時代へ

2017-01-18 23:08:13 | 民俗学

 先ごろ「葬儀前」において葬儀屋さんに葬儀後に火葬というスタイルを提案されたことについて触れた。あくまでも火葬場が空いている時間を考慮しての提案だったのだか、そういうスタイルを提案されることそのものが意外だった。飯田下伊那地域に限定した地域新聞に「南信州」(南信州新聞社)というものがある。ここに掲載される葬儀の告知には「出棺荼毘」と「告別式」の時間が明記されている。これによって火葬と葬儀の順が明らかになるわけだが、ちょうど1年前と今年の年末年始の同紙を片づける機会があって、火葬が先か葬儀が先かについてここに掲示された葬儀告知を調べてみた。総数を数えなかったので正確な割合は把握していないが、平成27年12月22日から平成28年1月20日のほぼ1ヶ月間に掲載されたもの中に火葬が葬儀より後に行われたものが2件存在した。まったく認識していなかったが、近年そうした例も希にあることを知った。そして平成28年末から平成29年初頭の同じ葬儀告知をみた場合、1年前より明らかに火葬を後に行う事例が多いことが解る。1月5日から本日までの「南信州」に掲載された葬儀告知の総数が44、内火葬を葬儀の後に実施した例は9件を数え、その割合はちょうど20パーセントを占める。昨年は総数を把握していないので正確には捉えられないが、今年は昨年にほぼ1ヶ月間に2件だったことに比較すると、ほぼ半月で9件を数えるという増え方だ。「葬儀前」においたわたしは「10年後ぐらいになるともしかしたら後火葬があたりまえになっているかもしれない」と記したが、10年どころか5年後ぐらいには火葬が葬儀の後に実施される例が当たり前になっている可能性が高い。とりわけ葬儀は年々変化しているとも言える。したがってわたしの想定はあながち間違えではないと考える。この増加率は葬儀場の都合でそうなったとばかりは言えないだろう。おおかたの事例は火葬と葬儀を同日に行っているが、中には火葬を先に行って翌日、あるいは数日後に葬儀を行っている例もある。ようは今回我が家の担当になった葬儀屋さんは、火葬場の都合で葬儀後の火葬を提案されたが、それは火葬場が夕方に近い時間しか空いていなかったからのもの。しかし、夕方の時間しか空いていないのなら、その時間に火葬をして翌日葬儀というスタイルも提案できたはずなのだが、葬儀屋さんはそうは言わなかった(1日で収めたいという葬儀屋の考えもあるだろうが)。「今は火葬を後にされる例もある」と、明らかに後火葬を勧めたとも言える。葬儀屋さんの勧めかたで人びとの、地域の中に後火葬が定着していく可能性は十分にあると言えそうだ。このことは、新聞で判断できることなので、今後もその傾向を注目していきたいと思う。

 さて、義父は高齢だったこともあるし、またいくつもの媒酌人をつとめるなど義理が多い方だった。もちろん近年はそうした義理も少なくなってきていただろうが、過去に行った義理が通常よりも多いという印象はあった。そんななか、香典の中にすでに亡くなった方よりのものがあったという。妻が言うには、夫婦揃って深いおつきあいがあったようで、ご主人が亡くなった後にも奥様と交流があったという。その奥様も近年亡くなっていたのだか、その奥様の名前で香典が届いたというのだ。そして妻が言うには奥様本人の字で書かれた表書きだったという。これは亡くなる前に、義父が亡くなったら香典を出すように亡くなる前に用意されていたと想定される。そして亡くなったら香典を届けるようにと近親に伝えていたのだろう。終活が話題になる時代であるが、ここまで後のことを考えて準備をされる方もおられるのだと、その篤い義理感に頭が下がる思いだ。

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道祖神祭りの〝櫓〟

2017-01-17 23:26:45 | 民俗学

 福澤昭司氏は自らのブログの中で松本市和田和田町の道祖神祭りについて報告している。実はわたしはこの道祖神祭りで造られる櫓の上に祀られる小祠について、既出の文献から認識していたものの実見していない(実は今年訪れたいと思っていたが、葬儀のため行けなかった)。この20日に発行される『信濃』(信濃史学会)1月号に掲載される「「オンバシラ」再考」の中で、この和田町の道祖神の横に小正月に祀られる小祠について次のように記した(同稿は分割掲載になったため、実際この記述は次号以降に掲載予定)。

今成隆良氏が著した『松本平の道祖神』は、昭和50年に刊行された。あとがきによると、今成氏が松本平の道祖神調査を始めたのは昭和43年に松本に転勤されてきた以降のこと。同書にはこの太子堂の道祖神の写真(今成隆良『松本平の道祖神』 柳沢書苑 昭和50年 63頁)が掲載されており、一本松の枝に台を載せて小祠が祀られていることが解る。この説明文に「昔は「御柱」をたてた」とある。ここでいう「御柱」とはかつて今の物より大きかったという脚があった時代のドウソジンのことを言ったのではないかと推測される。昭和2年生まれの男性の記憶ではドウソジンと呼んでいたと言うが、ここから推定すると太子堂で1月10日から20日まで建てられていた小祠を載せた櫓は、オンバシラであったとも考えられる。
 同じような物は前掲書において和田町の事例について記述がある。「和田には1月13日道祖神碑の前に木製のヤグラをたて、ヤグラの上に木祠を飾る風習がある。(中略)この風習は和田町双体像の祭りには今も継承されていて、正月13日にヤグラをたて、14日夜と15日の朝4時ごろに荷車に太鼓をのせて、鳥追い行事をする。」(前掲書 196頁)というもの。こちらには「御柱」という表現はない。この和田町の事例については、前掲書の写真とほぼ同じものが松本市教育委員会の『松本の道祖神』にも掲載されている(松本市教育委員会『松本の道祖神』 平成5年 36頁)。写真の説明には「和田町では毎年1月14日から15日にかけて、この道祖神の前にどーんとやぐらを組んでやぐらの四方に松を飾り、しめ縄をまわし提灯をさげて「おひまち」を行う。」とある。これらから和田ではこうした櫓風を建てて小祠を祀る習俗が小正月に行われていたことがわかる。和田と神林は隣接するわけで、内田、上波田、横沢といったオンバシラ伝承地から見ると中間に位置する。これまであまり注目されてこなかったオンバシラである。

 ようはオンバシラとは現在呼ばれていないが、和田太子堂にかつてあったと言われるオンバシラは、現在小正月に建てられている小祠を載せた櫓をそう呼んでいたと思われる。そしてそのオンバシラと和田町で小正月に造られる道祖神とは共通点が多い。何より同じ松本市和田の内にあたる。

 掲げるというより櫓を造るというあたりから私なりの想像が浮かぶ。生坂村草尾の道ろく神では「道祖神の富くじまき祭り」が行われる。道祖神のところに櫓を組んで富くじをまくのだという。これは祭り青年と言われる人たちによって実施されたもので、10月の道祖神祭りの日に行われた。櫓を組んでというところだが、道祖神の祭りではこうした櫓を組むという姿がいくつか見られる。代表的なものは何と言っても野沢温泉の道祖神祭りだ。ここでも社殿と言われる火祭りのメインの舞台は、芯柱を中心に巨大な櫓が組まれる。その社殿にはその名にふさわしく小祠が祀られる。これが青年たちの攻防の舞台となるわけだが、どことなく草尾の道祖神祭りの光景とダブル部分もある。こう考えてくると、オンバシラに限らず道祖神の祭りに造られる多様な作り物の原点は、櫓風の物だったのかもしれない。

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冷たい弁当

2017-01-16 23:37:35 | つぶやき

 このところずいぶんと低温傾向だ。裏を返せばこの季節に寒くないようでは冬らしさのない冬で終焉、ということになるのだろう。最近は妻が自宅に帰ることがほとんどなかったことから、息子の弁当詰めが毎日のように続く。もちろん毎日毎日中身はほとんど変わらず。それでも夜遅くに帰ってきて「弁当は?」と聞くと、「いる」と返ってきて「いらない」ということは滅多にない。こんな同じものでも「いる」というのだから、不味いということはないのだろうが、もちろん自分も同じ中身の弁当を作っていくが、この寒さでさすがにご飯は冷たい。これだけ冷たいと…。いわゆる保温性のある弁当が欲しいところだが、簡単にはそうはできない。ようは同じものははともかくとして、作るのに要す時間が長くなるだろう。妻が弁当を作ってくれる日と、そうでない日と、起きる時間はほとんど変わりはないが、午前6時に起きても弁当を作っていると余裕がほとんどなく家を出ることになる。いっぽうの息子は1時間も遅くに起きて、それから風呂場に行く(夜風呂に入らず、毎朝シャワーを浴びる。いまどきの若者はみんなこんなもんなのか)。もちろんわたしの方が遠くへ通勤しているから家を出る時間もだいぶ違うが、余裕もなく慌ただしい朝を送ると、仕事に入る前にひと山来てしまう。「疲れた」という感じだ。それが主婦の毎朝だとしたら、むしろ妻に、そして母に感謝しなければならないところだろうが、やはりこれを毎日積み重ねるのは、1日の始まりには男としてちょっと抵抗感もある。というか、かつて単身赴任していた際に、自分で自分だけの弁当を作っていたときはそうも思わなかったが…。これも年老いたせいなのかどうなのか。

 そんな愚痴をこぼすものの、いっぽうで妻は介護で明け暮れて夜もろくに眠れなかったようだ。亡くなった義父がなかなか尿が出ないという際には、膀胱洗浄もやったとか。もはや介護職になってもやっていけるほどその道に長けてしまったようだ。弁当を作る程度のことはなんともないことだろうが…。

 「いる」と返した息子が、必ず弁当を洗い、炊飯の仕掛けをしてくれるのが疲れきった夜には唯一の助けである。ところが妻がいるとこうはならない。そして妻の愚痴が…。そんな日々がまたやってきそうだ。

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どんど焼きの火で〝焼肉〟

2017-01-15 23:30:24 | 民俗学

 本日の信濃毎日新聞朝刊「くらし」欄に「堂々たる「三九郎」変わる姿」という記事が掲載された。先日も触れたことだが、記事冒頭に「15日は小正月。この暦に基づく「どんど焼き」は近年、先の3連休に前倒しして行われることが多くなった」とある。そもそも成人式をみてみよう。今年はそれこそ義父が亡くなった9日がそうだった。ところが実際にこの日に成人式が実施されたところがあるだろうか。成人式を盆に実施するところが近在では多いが、正月に実施したとしても正規の成人式の日に実施する話を最近聞かない。成人式はハッピーマンデーへの祝日移行に伴って、その前日に実施されるところがほとんどのよう。連休の最後の日に祝日を設定すると、明日から仕事という人にとっては抵抗感が強い。中でもふるさとに帰って実施するというような祝日、とりわけ成人式にあっては連休の最終日ではなく、その前日実施が理想となる。もちろんもともと15日に固定されていた時代だって次の日が休日でなくても成人式は行われた。ようは休日が多くなって以降、催しは翌日が休日の日に実施したいという思いが強くなったと言えよう。本来の祝日とは無関係になりつつある、ということだ。日曜日と祝日が重なると翌日が休日になる今の制度なら、月曜日を祝日にするのではなく、たとえば成人式なら1月第2日曜日を成人式にして翌日を振替休日にすれば良かったのに、ということになるだろうか。

 それはともかくとして、連休なら行事が実施しやすいということもあるのだろう、小正月の消滅はこの祝日の変更が絡んでいる。先日も触れた通り、我が家では松飾りを結局ホンヤリで焼くことができず、まだ家に置いてある。昨日飯島町高尾を通ると、ホンヤリの櫓がまだ燃やされずに残っていた。「飾りを持っていればここにお願いできたのに」と残念に思ったもの。今年のように小正月の入りが土曜日になってもほとんどのところが松焼き行事を終えているというのは、かつてからは考えられなかったことだ。

 さて記事にはこんなことが書かれている。「最近のどんど焼きは繭玉や切り餅に加えて、マシュマロ、ソーセージ、サツマイモといった〝新顔〟も登場、子どもたちの好みを映している」と。実は松焼き行事がどこでも子どもたちによって行われているというわけではない。子どものいなくなった山村では、大人が細々と実施しているところも。ということで妻の実家のある地域では大人が実施しているから記事のような新顔を「超えている」という感じだ。何を焼いているかというと「焼肉」である。なぜそうなったかと言えば、この場を借りて酒飲みの人たちが祝宴となって結果的に焼肉のマチと言われる飯田らしい焼肉になったというわけだ。もはや「神様の火」とはとても言えそうもない。妻は「とんでもない」と言うが、新聞社にでも連絡すれば飯田らしいなんていって取材に来るやも。今どきの報道はそんな真新しいことに関心が高い。もはや伝統行事の枠は外れているかもしれない。

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内省

2017-01-14 23:16:01 | ひとから学ぶ

 先月のこと、高校の同級生と仕事先で偶然会って、「○○ちゃ亡くなったよ」と恩師の死を告げられた。翌日が葬儀だといい、その日の新聞で調べると、確かに葬儀の告知が掲載されていた。彼は「香典預かるよ」と言うが、即答できないでいると無理強いしたのを少し申し訳ないように「いいよ、いいよ」とそれを自ら否定していた。わたしの中でもし恩師が亡くなっても心からそう思える人はひとりしかいない。ようはわたしのこころを揺り動かすような恩師にはそのひとりの先生以外の時代にはなかったということ。もちろん今の世ではその恩師が亡くなるまでわたしが生を受けていられるかどうかも怪しい。それほどの長寿社会となっている。そう考えると恩師の葬儀に足を運ぶなどということは、そう多くはないということなのか。とりわけ義理を作らない、自らも葬儀を行いたくないという思いを持っているから、関係が深くない限りあえて義理を果たしたいと思わないようにしているのも事実だ。

 さて、今日は義父の葬儀だった。教職にあったということもあって、その関係の方々が多くを足を運ばれた。この世界で生業を持った方々は、弔辞をいただくことが多いのだろう、これまで参列した葬儀でも教職にあった方々の葬儀により弔辞の印象が強い。義父の葬儀では七つの弔辞をいただいた。その多くが教え子たちのもの。そしていずれも教職の道に進み、管理職となってすでにお辞めになっている。教職を退いてすでに30年以上も経過しているだけに、教え子たちの年齢も高い。ある弔辞に「みんな、さんざん叱られた○○先生に褒められてもらいたいと、がんばりました」という言葉があった。そういえば、と思い出すのは、わたし生業の中でもさかんに叱られた上司がおられた。そして叱られるだけではなく、いろいろな導きをいただいた。結果的に知らず知らずその方に褒められるような仕事とはどんなものなのか、どんな考え方なのか、そんなことを考えるようになっていたようにも思う。そしてわたしにとっての唯一無二の上司となった。きっと義父はそんな教え子をたくさん社会に送ったのだろう。人を育てる、限界のない生産的な生業だと思う。もちろん今の世ではそう簡単ではない課題が、その世界には多すぎるのかもしれないが…。

 弔辞をいただいたお一人は98歳の、義父にとっては先輩の方だった。いかなる道も精進であり、積み重ねであり、謙虚でなくてはならない、そう思う時だった。さて自分はどうだろう、答えるまでもない。そしてわたしは義父のような、そして上司のような実践は確実にできなかった。寂しいことではあるが、仕方がない。

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郵便局の間違い

2017-01-13 23:00:48 | つぶやき

 基本的に郵便物はなるべく郵便局、それもこの地域なら集配をしている中心的な郵便局に持ち込むようにしている。時間的なことなど信頼感があるということからくるもの。会費滞納者が会費を納入してくれて冊子を封入して投函しようとしたとき、少し心配は浮かんだが、通り道にあったその村の中心にある郵便局前にあるポストに投函した。ところがだ、心配がそのまま現実になった。昨日ポストに投函した郵便物が「この郵便物は下記の自由によりお返しします」と返送されてきた。その自由とは「料金不足」「大きさ重量の超過」だという。思わず「嘘だろう」と独り言。大きさはいわゆる定形外。そして重量は100グラムちょっと。ようは定形外150グラム以下という郵便物。通常は1通あたり205円であることは承知している。しかし封筒には「ゆうメール」と表示している。したがってゆうメール150グラム以下の場合は180円のはず。そして封筒には180円分の切手が貼ってある。「料金不足」に25円不足と書かれているから、「ゆうメール」の表示が目に入らなかったのか、あるいは「ゆうメール」をふだんあまり扱わないためかそれを知らなかったのか、ここに返送表示の紙を貼ったし人のみ知ること。そしてその郵便物はその村の郵便局から、どういう経路を経て我が家まで戻ってきたものなのか。その途中ではもはやこの間違いに気がつく人はいないということ。当たり前といえば当たり前で、計りに載せない限りそれは判明しない。

 以前小さな郵便局で同じような封筒を窓口に出したとき、やはりすでに貼ってある切手を確認して「料金が不足しています」と指摘されたことはあった。ようは「ゆうメール」の表示に即座には気がつかないということ。゜それゆうメールなんですが」と言うと気がついてくれる。同じような流れておそらくこの郵便物を扱った人はそれに気がつかなかったというのが正解なんだろう。こういうことがあるから、ゆうメールはそこらのポストに投函するのは辞めた方が良い、ということになる。

 近ごろ郵便物はちゃんと届いているのか、と不安になることもある。信用していないわけではないが、それをとくに感じるのはこの季節、年賀状の季節である。

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葬儀前

2017-01-12 23:14:22 | つぶやき

 義父が亡くなって3日。ふつうならこのあたりに葬儀となるのだが、今日が友引ということもあって、これが日程に影響する。当初13日に葬儀という話を葬儀屋さんから提案されたが、火葬場が友引の影響で13日の場合夕方に近い時間しか空いていないという。ここで提案されたのが、先に葬儀を行って、その後に火葬にするという、いってみれば東京などで行われる葬儀のパターン。むしろこの方が通常のパターンなのだが、長野県内ではこれまで火葬が一般的になってからというもの、先に火葬にして後で葬儀が当たり前だった。葬儀屋さん曰く、「都会では当たり前のかたち」。これを提案されるということは、今ではこのパターンの葬儀がたまにあるということなのだろう。ふつうに考えれば故人にお別れをする際に顔を見られないというのは残念なこと。そういう意味で支持されるのは後火葬かもしれない。この提案を聞いて思ったのは、いよいよ後火葬という事例がやってきて、しだいに増えていくかもしれないということだ。10年後ぐらいになるともしかしたら後火葬があたりまえになっているかもしれない。

 ということでそれも由とは思うのだが、わたしの仕事の都合もあって、詰め込んでまでして今までと異なる葬儀をするのなら、14日にして欲しいという思いが。ということで喪主さんの理解もあって葬儀はゆっくりと日をとった14日で、通常のパターン、ようは火葬をしてから葬儀ということになった。

 このあたりでは通常葬儀の前日にお通夜となる。いわゆる納棺であるが、そういうことで13日にわたしが不在ということもあって、お通夜は12日、1日おいて葬儀という日程になった。このお通夜であるが、今ではけっこう葬儀場を借りて行う家も多い。わたしには抵抗感があったのと、そもそも「自宅で看取る」という実践からいけば、自宅で納棺が故人も望むものだろうという思いがあったが、妻や義弟はそれ意外に理由もあって葬儀場での通夜を望んでいた。一旦は自宅で、という話になったのだが、義父の兄弟たちも高齢、畳の上に座るのもままならない。トイレも狭い、ということから居心地の良い葬儀場に再度予定を変更した。確かに駐車場も広いし、暖かいし、ということでこの選択はもはや当たり前なのかもしれない。とは言うものの一旦故人を葬儀場に運んで、納棺してまた戻るというあたりは少し抵抗感のあるところなのだろうか。通夜と葬儀の間が1日あくということで、通夜で少し疲れた身体を少し休める時間がとれて、意外にそんな日程も許されるのなら良いのかもしれない。身内がほとんど地域内に暮らしているというのもそんな選択ができる理由に。

 通夜を葬儀場で行う場面に出席したのははじめてのこと。車椅子の義母もお別れができ、広い空間は比較的大勢の人たちで納棺するには理想空間だったのかもしれない。ちょっとはじめは抵抗感のあったスタイルも、なるほどという具合に納得できたが、もちろんそれだけお金もかかることになる。

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向方のお潔め祭りへ⑤

2017-01-11 23:11:42 | 民俗学

向方のお潔め祭りへ④より

 「花のやうとめの舞」を見たところでわたしたちは夕食をとりに宿へ。したがって午後6時ころから8時までの2時間ほど祭りを中座した。再度天照大神社に戻ったのはちょうど午後8時ころのこと。場面は「湯ばやしの舞」の「つるぎの舞」が舞われるところ。「湯ばやしの舞」は四つ舞は4人による舞で、扇の手の舞・やちごの舞・つるぎの舞の三立てがあるのだが、すでにつるぎの舞が始まっていたのでこの日三立て行われたかは未確認である。赤い襷をかけ、左手に真剣の剣と白い紙を持ち、右手に鈴を持って舞う。今年は芸能部長と中学生二人、そして向方学園の先生が加わって舞われた。30分以上の長い舞だったが、これでも省略されているよう。この舞の途中から「向方のお潔め祭りへ③」で触れたように、舞堂の前に高齢の氏子総代さんがやってきて舞に溶け込まれていた。

 

 「一の方産土の湯立て」の「いちん舞」である。小禰宜が舞うとされていたもので、前にも述べたように現在は芸能部長さんが担われている。いわゆる「湯立て」を行う。

 

 続いて再び「湯ばやしの舞」となるが今度は三つ舞である。写真は「扇の手の舞」というもの。上衣を着て左手に開いた扇子を持ち、右手に鈴を持つ。本来は「扇の手」のあとに「やちごの舞」があるが、この日はこれを省略して「つるぎの舞」となった。

 

 その「つるぎの舞」である。黒い着物に黒い袴で赤い襷を掛ける。左手につるぎと白い紙を持ち、右手は鈴。

 

 今年はこのあと「古伝の舞」が舞われた。これは本来のオキヨメマツリに舞われたものといわれ、親から子に世代が代わる際に、家を継ぐ長男の宮人が一生涯に一度だけ舞ったものという。しかし、今は一度だけではなく、二度三度と舞っているよう。証拠にオキヨメマツリが再現された2014年と同じ方が務められた。そもそも舞には13種の舞があるようで、その内容も多様。したがってこの内容の舞を一生涯一度だけだとしたら、かなりの練習を積まないと舞えない舞だろう。二人の宮人が上衣に襷を掛けて舞う。写真は「ひしゃくの舞」と「矢とこせ」というもの。

 

 「火ぶせの舞」は湯釜の下のオキを上座の床にかき出して、そのオキの上で順の舞を激しく舞うもの。この舞は健康体で舞が上手く、ある程度若くて体力のある人が選ばれるという。舞手の橋爪さんは前段の「古伝の舞」も舞ったあとに引き続いて舞われた。現在のお潔め祭りでは中心的な舞手ということになるのだろう。

続く

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小正月の消滅

2017-01-10 23:30:51 | 民俗学

 今年は小正月がちょうど週末にあたる。14日が土曜日、15日が日曜日と…。自治会の総会でホンヤリ(どんど焼き)の日取りがお知らせされていたが、あくまでもうる覚え。「確か8日ころだったかな」と思ってはいたが、その収集日がその前日の7日ということまではっきり意識していなかった。このあたりでは松飾りを下ろすのは7日と言われている。朝方外そうと思っていたが、少し遅れて9時ごろにそれを外す。そのままホンヤリのために松を集めに子どもたちが来た際に、と思って玄関先にそれを置いておいたが、そのままその日を終えることに。8日の日もすでに昼ごろになって、「もしかして」と思って自治会総会の資料に目を通すと「やはり」ということに。ようはもう松集めどころか、ホンヤリも終わっているのである。ここから飯田のあたりまで、もうホンヤリの櫓が残っているところはない。まだ終わっていないところがあったら、そこで一緒に焼いてもらおうと思ったが、このあたりでは見当たらない。上伊那ならまだこれからかも、と期待しているがその場に出くわす機会が得られないかも、と今は思っている。

 かつては小正月の14日のあたりに盛んに行われたホンヤリだが、しだいに前倒しされてきて、そもそも飯田市周辺ではもうずいぶん昔から7日ころがホンヤリの最盛期だ。その傾向はしだいに周囲に広がり、どんどん実施日が早まっている。今年のように本来の実施日だった小正月が週末に当たっているというのに、週末にあたる14日にホンヤリを行うところはほとんどないようだ。これら行事がPTA組織に委ねられているのがそうした流れになっているのかどうか。まだまだ正月の一連にあたる早いうちにホンヤリをやってしまおうという思いがあるようだ。もはや小正月の存在が消滅してしまったと言えるのかもしれない。

 すでに新年も10日ともなると、新年になって初めて顔を会わせる方とその挨拶を交わすのもぎこちなく、それもしなくなる傾向だ。正月が明らかに短くなっていることが解る。このことは福澤昭司氏も自らのブログで触れている。農業をしなくなった農村に、もはや小正月、百姓の正月は意味のないものとなっている。これはますます加速し、農村と呼ぶのにも違和感を抱く時代が、もうそこまでやってきているのかもしれない。

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感謝、そして合掌

2017-01-09 23:25:26 | 民俗学

 義理の父が亡くなった。とりわけこの1年、妻や義弟の努力で自宅で過ごすことができ、そして自宅で息を引き取ることができた。最期は自宅でという妻や義弟の願い通り、入院することもなく、自宅で子どもたちや孫たちに囲まれて逝くことができた。最期を実際に看取れた孫たちにとっても、人の死に直面するという経験を得ることもできた。父のときもそうだったが、入院していると最期に直接立ち会うこともなかなか叶わない。かつて祖父や祖母が息を引き取るのを看取った時代とは、だいぶ違う環境といえる。

 それにしても葬儀の準備も日々変化しているのだろうか。もはや隣近所に死を告げるのは、葬儀の日取りがほぼ決まってからのこと。かつてのように隣組に集まってもらって葬儀の準備をする時代は消滅したようだ。5年ほど前に亡くなった父のときもそうだったのだろうか、と思い出すがそうだとしても、まだ隣組に連絡するのはその日のうちだった。隣組の助けなどもはや無用とも言えるが、形式的に隣組が世話になる組織であることに変わりはない。しかし、これももうそう遠くないうちに消滅するような気がする。もちろん今では身内だけで葬儀を行うのも普通になりつつあるから、そうなればなおさらのこと。

 さて、義父にはいろいろと教えていただいた。まだまだ教えて欲しいことがたくさんあったが、介護状態に陥ってからはそれも叶わなかった。とりわけ民俗に関してはため池慣行のこと、生業複合に関すること、など実際わたしの発表に関してデータをたくさんいただいた。仕事に追われる日々では、身近なところで調査するしかわたしには形にすることはできなかったわけだが、大いに助けていただいた。また、長野県民俗の会としては、平成7年3月25日から26日にかけての第102回例会は義父の助けをたくさんいただいた。この例会はわたしの記憶では最初で最後の「大例会」だったと思う。当時松本市史民俗編に関わる中、懇親会の席上で駒ヶ根のソースカツ丼について話題になった。同年正月明けのことだった(このことは「カツ丼と食文化」と題して通信126号に掲載)。これがきっかけとなってすぐに思いついた例会が第102回例会だったのだ。義父と親しかった片町さん、山崎さん兄弟にお願いして初日は遠山の星野屋で山肉を食して、宿泊は今でこそかつての山女魚荘を引き継いで「島畑」を営業されているが、まだ本格営業はされていなかった本来の「島畑」でとった。昼も山肉、夜も山肉や山女魚、そして例会のテーマだった「虫を食う」会が開かれた。翌日は義父や義弟の快い返事で妻の実家で昼食をとった。五平餅、蕎麦、こんにゃく、等々食べるものにはことかかない農家の食材をこれでもかというほどに並べてもらった。このことは倉石あつ子氏「昆虫食体験記」(通信127)、福澤昭司氏「南信例会に参加して」(通信127)、中込睦子氏「虫食う人々」(通信128)、尾上一明氏「昆虫食雑感」(通信128)、倉石忠彦氏「地域と食生活」(通信129)という具合に、参加者の皆さんにたくさん報告をしていただいた。また、当時職場の後輩で、後に若くして転職された奥野公昭氏にサポーターをお願いして、彼にも「伊那名物ローメンについて」を寄稿していただいた(通信127)。

 さらに倉石美都氏には「昆虫を食べに行こう」という手書きのイラスト付き体験談をいただいた。とりわけ義父宅での2日目の昼食について次のように印象を書かれている。

 うまい! うまい、うまい、うまい、うまい、のである。
 おいしいおいしいおいしいおいしい。
 卓に並んだ器の中もおいしけりゃ、お茶までおいしい。
 質もよければ量も良い。
 食って動かずの2日目でなければ、ああ、ワリアテのもう一本食べたのに。
 食べ終わって、くいこむウエストを気にしつつ、勿体ないから意地でも
 出すもんか、と、土産までいただきまして、どうもゴチソウ様でした。

炭火で焼きたての五平餅にとても感激していただいた、というわけだ。

 あの例会のことは、わたしの記憶では最も楽しいものでした。本当にありがとうございました。
 感謝、そして合掌。

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脱退も、未加入も、批判できない自治組織の実態

2017-01-08 23:46:20 | ひとから学ぶ

 先ごろの新年会において、自治会の高齢者に関して話題になった。ちょうど1年前のこと、「新年を機に、地域から脱退する」を記した。80歳になったら自治会を退く、というようなことは以前から口にされていた方が、昨年から隣組からも、自治会からも脱退された。そもそも自治会とは何のためにあるのか、考えさせられるわけだが、実際のところそう考えた人は自治会内にはほとんどいないだろう。しかし、現実的には高齢者世帯となって、自治会のあり方に疑問を持っている人がいないわけではないだろう。そうした疑問をひっくるめて、自治会加入を促している行政側にも問題がないとは言えない。たとえば先ごろの自治会総会において、こうした脱退者や、アパートに居住していて自治会に入っていない人で、自治会のゴミステーションにゴミを出す方、あるいは自治会単位で行われるPTAの行事に参加されるような子どもさんがいる家庭に対して「協力金」をお願いするという議案が提出された。ゴミステーションは自治会が借りている土地に置かれているし、そのステーションそのものも自治会がお金を出して製作した。また、PTAにしても自治会単位で行事が実施されるため、自治会に入っていないから参加してはダメとは子どもたちには言えないこと。それでいて自治会から補助金が出ているからそこには不公平が生じるともいえる。こうした準じているつきあいに対して、協力して欲しいという負担金である。もっもとらしいことなのだが、たとえばゴミに関しては自治体が収集しているもの。とすれば、そもそもゴミステーションのあり方がこれで良いのか、という意見は出てこない。繰り返すが自治会とは何か、である。誰でも同じように自会費を請うとすれば、結果的に自治会を脱退する者が発生しても不思議ではない。冒頭の新年会の席でも、このままいったらいずれ脱退する人が出てきて当たり前だという話に。とりわけ総会をたびたび欠席される方は、高齢世帯の方で女性一人暮らしの方。ご主人に先立たれたあたりから、それは見えていたこと。にもかかわらずそもそも総会の冒頭で出欠をとるのに何の意味があるか、ということ。これは年度末に皆勤賞、あるいは精勤賞を出す際のデータになるわけだが、そもそも皆勤を奨励する意図が今の世にあるのだろうか、とも思う。高齢者世帯が多くなる中、それを義務付ける、あるいはそうした世帯が隣組にあることから皆勤が成立しないという現状にあって、皆勤だからといって自治会費から賞与を出す意味が解らない。これを伝統だからなどという人がいたら、それこそ地域を住みにくくしている要因である。高齢世帯、とりわけ独り暮らしになったら「脱退しろ」と状況は物語っているように見える。加入か脱退か、白黒はっきりしなくてはならないという地域社会ではなく、もう少し応用力のある地域社会を構成していかないと、自治組織の主旨は成り立たないのではないか、というのが新年会での結論だった。

 さて、先ごろ集金常会について触れた。妻の実家のある地域は毎月この集金常会が開かれ、毎月2千円の常会費が集金されるという。毎月2千円といえば1年2万4千円にものぼる。予想通り、この常会では脱退されている家が複数あるという。そもそもその理由には感情的な部分もあって一概には言えないが、しかし、その実態を聞くと「それもありか」と思えてくる。かつてある人が常会費の7割が飲み代に使われていると批判したことがあるという。すると周囲から「何言っとるんだ」みたいな顰蹙を買い、その人は常会内では厄介者、あるいは嫌われ者になっている。その理由はそれだけではないようで、これもまた一概には言えないものの、常会費のほとんどを飲み代に使っている事実は変わっていない、どころかますます飲み代の比重が上がっているとも。これだけの常会費だから「予算」「決算」があって当然だろうがそれが無いとも。そもそも常会費の金額を決めた際には、常会所の補修費に充てるのを想定してのことだったという。飲み助たちの独壇場になっていて、それでいて意見もろくに言えないという現実からみれば、「脱退」も当然だろうとみえてくる。こうした現実を自治組織という聞こえの良い単語で括って自治体が利用しているとすれば、この方が問題だと認識して欲しいものである。

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向方のお潔め祭りへ④

2017-01-07 23:01:59 | 民俗学

向方のお潔め祭りへ③より

 祭り全てではないが、ことし見学したお潔め祭りについてここに記しておこう。

 例会では芸能部の方たちから話を聞こうとするところから始まった。これについては後に述べるとして、下宮の祭りから触れることにしよう。午後12時半ころに「お浜降り」が行なわれ、午後1時ころに「お登り」と聞いていたが、このあたりは見ることはてぎなかった。上宮の祭りが終わると下宮へと祭りの場は移る。

 

 「御かまど祓い」によってその祭りは始まる。午後4時のこと。神主によってかまどを祓い、塩を投げ入れて火ぶせの祈祷をする。すでにかまどには火が入れられているわけであるが、この火は火打ち石で点火されるという(今は火打ちで点火する所作をするだけという)。

 

 「御神酒開き」では氏子総代より宮人に御神酒とゴフが配られる。このとき両掌でいただく。ゴフは「赤めし」と「オシロモチ」で、同じものは上宮へお供えをすると誰でも御神酒としていただける。ちなみに2014年にオキヨメマツリが行われた際には、御神酒開きは御かまど祓いの前に行われている。

 

 いよいよ祭りの始まりとなるが、例祭では毎年プログラムが異なると考えて良いようだ。まず「式の神楽」で始まるのはいつものことのよう。小禰宜と宮人全員でうたぐらをうたう。写真のように「花のやうとめの舞」を舞う子どもたちも加わる。小禰宜とは下宮の祭事をつかさどる者をいい、現在は本来の小禰宜はおらず、芸能部長が務めているようだ。

 

 「順の舞」で舞は始まった。古参の宮人に次いで若い宮人が順に舞っていく。古参順に全員舞うと言われるが、今は若い宮人が練習の続きのように舞い、しだいに経験豊富な宮人に継いで行くという感じである。今は全員が舞うということはない。舞の際に着用する上衣と鈴は、本来宮人それぞれの私物だったという。今は神社の道具となっている。また上衣は藤布で編んだものだったが、最近のものは木綿でできたもののよう。私物だったころには亡くなると棺桶の中に納めたという。7名の宮人によって舞われた。

 

 次いで「花のやうとめの舞」と踏んていたが、ことしは「産土のやうとめの舞」が舞われた。写真は鈴を持ち扇を開いての舞。この日の舞い始めは上着を持っての舞で、次いでこの舞が舞われた。舞納めの舞はなかった。古参の宮人4人で舞う舞だというが、中堅の宮人4人といったところだろうか。採りものを替えて4っつの舞を舞うのが本来のようだが、省略されている。

 

 「花のやうとめの舞」は2014年にオキヨメマツリが再現された際に舞われたのが10年ぶりだったという。その後毎年舞われているようで、当面2014年に舞われた子どもたちが中心に舞われるのだろう。本来はオキヨメマツリにのみ舞われた舞というが、「向方へ」で触れたように、平成2年も舞われていた。当時もほぼ毎年舞われていたと思う。いわゆる坂部の祭りでいう「花の舞」と共通するもの。子どもたちが舞うということもあって、村人が集まる舞とも言える。本来は若い宮人が舞う舞だったというが、宮人が少なくなった昭和36年ころから小学校の子どもたちに舞ってもらうようになったという(『天龍村の霜月神楽』281頁)。「やうとめの舞」と言うように8つの舞があるが、ことしは花笠を被っての舞、花を持っての舞、そして花を散らしての舞のみだった。子どもに女の子が加わるようになったのはお潔め祭り再開後のこと。

続く

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向方のお潔め祭りへ③

2017-01-06 23:26:10 | 民俗学

向方のお潔め祭りへ②より

参道

 

湯ばやしの舞

 

古伝の舞

 

 昭和43年に中断したと言うし、そもそも直近は細々と続けられていただろうから本来の祭りの姿を知っている人が少なくて、あるいはいなくても当然だろう。昭和43年といえばもう65年も前のこと。今のように記録されたものがあって継承されていたわけではないから、まさに口伝のみということになる。昭和49年に復活というのも国の文化財選択に関連してのことだろう。そう考えるとわたしがかつて見させてもらったのも、復活してまだ10年余ほどの時代のもの。そもそも今の芸能部の主だった方たちは、「お潔め祭り」として関わってきたのだろうから、臨時祭とか例祭とか、あるいは「本来は」などと言われてもしっくりこないだろう。あくまでも研究者、言ってみれば部外からの方が情報が多くなるというわけだ。さすがに今回の祭りでその場面を目にしてもわたしは撮影するという行動まで思い浮かばなかったが、福澤昭司氏は芸能部の主だった方々が例の本を開いている場面まで撮影されている。祭りの途中で何度かこの本が舞堂に持ち込まれた。この本が今後の参考書となって祭りは行われるというわけだ。

 天照大神社には西側にある車道から入る道が今は一般的だが、本来の参道は南側の尾根から下るように入る道である。お浜降りと言われるいわゆる禊をする洞は南側にあり、また向方を拓いたとされるオカタの家もその方向にあった。神社の横手に向かって参道があるという少し変わった配置の境内である。下宮が祭り(舞)の舞台となるわけだが、下宮といってもそこに神様が祀られているわけではなく、あくまでも神殿は上宮にある。舞堂は庭から1メートルほど高いところに床があり、庭から祭りを見る人々にとっては少し仰ぎ見るような格好になる。目線が高いところに向うこともあって、舞堂から離れていても舞を見ることができるというメリットはある。舞堂の中央に炉が切られており、三脚の五徳が据えられる。その真上の梁に3本の幣束が取り付けられるが、古いものもそのまま付けられているため、幣束の数は年々増えていく。また、舞堂右手奥の隅に「本ぼでん」と呼ばれる四角い木枠に紙飾りの垂が吊り下げられる。これも古いものがそのまま残されるため、見た目は年々古くなっていく。これら飾りはオキヨメマツリが行われると古いもの全てが処分される。また舞堂左手奥には「笹ぼでん」と言われる紙垂を垂らしたソヨゴが立てられ、その手前に太鼓が据えられる。ひの側部の壁には棚が設けられていて、御供や湯木を並べる棚、北側の背後の壁には舞の際に使われる鈴や扇子などを置く棚もある。この舞堂の西側にある舞堂の半分ほどの部屋が「女宮人の間」である。現在は舞をしない芸能部の人々の控え室のような使い方をされているが、部屋の名前の通り、かつては女性の宮人がここに控えているのが義務づけられていたという。上宮の正面の庭の位置に祭りの間は庭火が焚かれ、その西側には三方を壁で囲んだ小屋が設けられている。また庭の南側に向方公民館が建てられており、祭りにおいては訪問者の休憩室として利用できる。

 さて、現在の氏子総代には芸能部の方が幾人かおられる。そもそも上宮は氏子総代が中心になって祭りを行う場。いっぽう下宮は宮人中心に祭りが行われる場。無関係ではないが両者は明確に分けられた場と言える。これまで氏子総代には芸能部の人たちはならなかったというが、関係者の減少でそうも言っておられなくなって、今は氏子総代を芸能部の人も担うようになっている。したがって上宮での仕事が落ち着くころになると、氏子総代をされていた方も着替えて舞に加わるようになる。「湯ばやしの舞」のあたりから舞堂の前庭にひとりの氏子総代がやってきて、舞に同化したかのように身体を揺さぶる方が陣取った。ことし祭りに加わった関係者の中でも最も高齢の方だと思う。この方はふだんは向方には住んでおらない方で、身内の方がこちらにいるとか。したがって氏子総代も務められているようで、芸能部の方ではないという。地元に住んでおられたらきっと芸能部に加わったのかもしれない。昔子どものころ「花のようとめの舞」を舞われたのだろう、その経験が自然と舞人になったかのような動作に。

 あくまでも私感である。オキヨメマツリにおいてのみ御幣やぼでんが下ろされて処理される。これを「下堂祓い」と言うらしいが、言ってみればまさに「お潔め」となる。願祓いだけに限らず節目節目にオキヨメマツリは行われたという。昭和が終わり平成になったとき、芸能部の中にはオキヨメマツリをすれば良いという話が持ち上がったが、結局実施されることはなかったという。御柱と同様にある一定期に新たに造り直すというような意味合いがオキヨメマツリにはあったのではないだろうか。

続く

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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****