Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

来年度への思い(後編)

2016-12-02 23:55:41 | つぶやき

来年度への思い(前編)より

 これまでどういう経過を経てきたのか、長野県民俗の会の例会や総会に参加しないことがたまにあったとしても、ほぼ20年余にわたって継続的に関わってきた会員の一人として見た決算を紐解いてみよう。わたしが初めてこの会の事務局を担った平成13年あたりに遡ってみる。引き継いだ前事務局からここ18年間の決算を並べてみた。会の今を現す現実的な数字は、前回も触れたとおり、会費収入に典型的に見られる。18年間で会費収入が最も多かったのは平成12年。現在の2倍以上の会費収入を得ている。ちなみに年会費は当時と変わらない。会費収入が多いということは、会員も倍近い人数を数えていたということになるのだろう。加えて何といっても当時は書籍販売収入がすごい。やはりここ18年間で最も多かったのは平成12年。ここ10年来最も多く販売した本年の3倍近い書籍販売収入を得ている。その理由は平成12年に開催された日本民俗学会松本年会があるだろう。大勢の会員が県内を訪れ、そしてそこで販売した印刷物の収入が多かったといえる。ちなみにこの前後の年にも年会に印刷物を持ち込んで販売しているが、この平成12年は突出している。その後年会で販売をしなくなったら途端に書籍販売収入は微々たるものに。そのことを思うと近年は努力している方かもしれない。もちろんここでも触れた『長野県中・南部の石造物』の販売額が支えていることも事実だが…。

 この平成12年から引き継いだ形で事務局を担った平成13年には、とても大きな変化を遂げた。それまでずっと印刷を依頼していた会社を変更したのだ。日本民俗学会年会の影響で収支がよく見えなかったなか、あらためて単年度収支を見ると赤字になってしまうという事実に遭遇して、当時最も大きな出費となっていた印刷費を下げるしか当時の会員数をもってしても方法は見えなかった。長年の縁もあったことから印刷会社を変えることが良いことなのかどうか迷ったわけだが、先輩方から「こだわる必要はない」という意見をいただいて印刷会社を変更した。平成13年は前年度の印刷費を計上したためその成果は現れていないが、平成14年には印刷費が半減している。このおかげで単年度収支で黒字を計上した。この18年間の歳出面では衝撃的な変化だったと言える。その後いわゆるクロネコヤマトのメール便が登場して通信費が削減されたが、あいにく再びわたしが事務局を担った平成27年にそのサービスがなくなってしまった。

 今年もそうだったが、規約に定められた会計年度に正確に決算すると、通信の印刷通信費1号分が翌年度に精算されることになった。しかしながら単年度収支をイメージするとその年に実施した事業はその年に精算した方が分かりやすい。ということで規約に少し反して会計年度の日付を数日ずらして精算させてもらった。印刷がすごく遅れたというのなら仕方がないが、ほぼ予定通りにあがったとすれば、単年度で精算したい。ところが少し前は印刷が予定期日にあがらず、事業計画と歳出が整合しない年が多かった。収支を一見して見ることができない。この18年間で最もそれが現れたのは平成15年だろうか。この年は印刷物の発行が遅れたということはなかっただろうが、精算が遅れたせいか歳出がこの18年間で最も少ない。収入の4分の1という歳出は、「会費が高いのじゃないか」と言われても仕方ない。同じようなことは平成21年にも現れていて、この時は会報の印刷ができずに歳出がやはり収入の3分の1という結果になっている。事業を予定通り実施できずに歳出減という決算は、明らかに一見すると分かりづらい。

 そんな収支バランスの違和感が現れる決算はともかくとして、年々の決算を見ていて思うのは、事務局を担われた方の中には、自腹で精算したものもすくなくないのでは、ということ。正確にいえばそれらは諸収入にあたるのだろうが、面倒くさいということもあるだろうから決算に計上されていないのではないだろうか。とりわけ総会などを開くとコピーは当たり前のように必要だ。何人参加されるともわからない会だから、多めに資料は用意する。そうした資料のコピー代などはほとんど計上されていないと思われる。それをなし得たのは何なのか、ここでは触れないが、見えない歳出は多いと思われる。わたしなどもメール便サービスが当初はあったので、経費節減のためにクロネコヤマトに足繁く通ったが、仕事中に寄るには容易ならなかった。ところが郵便に戻ってからは近くに郵便局があるから、出張の際に立ち寄ることが容易にできるようになった。それでも1便だけ送付する、あるいは数便を送付するという際には、手持ちの切手を貼ってポストに投函した。これらの中には精算していないものも多々ある。面倒くさい、ということもあって、本当のところの歳出は決算に現れていないものもあるというわけだ。いずれ現役世代ではないひとが事務局を担う時代がきたとき、見えなかった歳出をどう捉えるか、またどう支えるか考えなくてはならないことなのだろう。さしあたって印刷費、その通信費という大きな歳出分を賄うだけの収入を単年度で必ず得るのが、その年の最大目標である。

終わり

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続〝なんだかなー〟と思う時

2016-12-01 23:58:32 | ひとから学ぶ

「〝なんだかなー〟と思う時」より

 あるセブンイレブンの午後6時代。このエリアでは最も広いと思われる駐車場を持つこの店は、店の周囲の駐車スペースは満杯になる。「なんで」と思うのはもうやめた。もはやこの時間帯であってもコンビニはなくてはならない存在になっている。とりわけコンビニの駐車場がいっぱいになるのは、お昼の時間帯。この時間帯にコンビニに寄ると、やはり駐車場がいっぱい。ところが店の中に入ると意外に人影が少ない。なぜ駐車場がいっぱいかというと、ここに駐車して昼をとっているひとが多いということ。店の前から車を移動して食事をとれば良いのだが、多くのひとが停めた場所で食べ始める。だからこの時間帯には店の入口から遠いところに停めざるを得ないことになる。今どきのコンビニの弁当を利用する人々は、コンビニの店の前で食事をとることがまったく気にならないようだ。わたしもときおりコンビニの弁当など利用して昼にすることはあるが、コンビニの駐車場で済ませることは、よほどのこと(街中で時間がない時)がない限りありえない。農村部ならいくらでも車を停めて食事をとる場所はある。もちろん今でもそうして駐車スペースを求めると、先客のあることは当たり前にあるが。

 ということで、コンビニの昼の光景はこんな感じで、とりわけ弁当を求めた客によって席巻される光景は従来の姿だった。そして冒頭で触れた午後6時代、ここぞとばかりに駐車場がいっぱいになるが、もちろん昼どきとは違ってここに停めて食事をしているわけではない。店に入るとひとがいっぱい。昼どきと外見は同じなのに、明らかに内容が異なる。何といっても買い物カゴを手にして買いいる客の多いこと。そしてそれが主婦らしき人たちだということ。彼女たちはレジに並ぶと世間話を始める。かつてコンビニを昔の〝一銭店〟と言ったが、まさにその光景なのだ。そもそもコンビニには買い物カゴは置かれているが、スーパーと違って実際カゴを持って買う客は少ない。コンビニはその時必要なものだけを買う、いわゆる小物買いがほとんど。これもまた〝一銭店〟らしい感じ。ところが買い物カゴを持った客が目立つこの時間帯は、ちょっと異質。「あんたたちはちゃんとした食料品店に行かないのか」と思うのは、そうした主婦らしき人たちが、惣菜をあさっている姿を目にするときだ。確かにセブンイレブンの惣菜はそこらのスーパー惣菜りも〝美味しい〟かもしれない。しかしながらこの安易さには〝なんだかなー〟。

 コンビニでコーヒーを始めたのは大きな変化の時だった。大きくはないが惣菜に力を入れ始めた時も、それまでの利用目的に変化が及んだ時だった。ときどきにおいていろいろな変化をしてきたコンビニは、今後も驚くようなことを始める可能性はあるのだろう。こんなこともあった。昼間のお客が比較的少ない時間帯、目立つのはお年寄りの男性だ。彼らにとってもこの空間は身近な〝一銭店〟となっていると思った。しかしながら、そこで交わされる店員とお年寄りの会話に、本当の意味での〝一銭店〟の香りはしなかった。コンビニがどう進むのか、この関係に緒がありそう。

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〝なんだかなー〟と思う時

2016-11-30 23:43:33 | ひとから学ぶ

 「無“接触”の時代へ」ではないが、トイレもわたしにとっては特別な空間だ。子どものころと比較してずいぶん変化した空間のひとつだが、考えてみればトイレに限らず、世の中はずいぶんと変わったものだ。かつては公衆用トイレそのものの数もなかった。もちろん大型店というものもなかったから、いわゆるトイレに「行きたい」と思っても容易てはなかったように思う。今はトイレだけ利用したいと思って行こうとすれば、コンビニもあれば、大型店もあるし、もちろん〝綺麗な〟公衆用トイレもある。とりわけ公衆用トイレは、昔とくらべるとずいぶん綺麗になったものだ。それでもって手を触れずに水が出る時代になって、まさに無接触時代がやってきている。そういえばかつてのポットんトイレ時代には、大きなのをしても拭く紙はなかった。だからティッシュなりを持っていないとトイレにも行けなかったものだ。トイレットペーパーというものが世の中に当たり前のように出回るようになってからではないだろうか、公衆用トイレに紙が置かれるようになったのは。今は紙がないなんていうトイレに遭遇したことがない。

 トイレといえば、やはり今はコンビニだろうか。利用しやすいという点では代表的空間とも言える。とりわけセブンイレブンに入ることの多いわたしには、何よりトイレのイメージは記憶に残すことにしている。「ここは小便用トイレがある」なんていう具合に。やはりトイレは男性用の小便器があると一番いい。あの便座式トイレに狙いを定めて小便をするのはすっきりとしない。改修された店内のトイレがとりわけ綺麗になって、改修前と後で何が一番違うか、という思う出すと、やはりトイレの違いが真っ先に浮かぶだろうか。とはいえ改修されることなく昔から営業されているセブンなんかに入ると、臭気の強い店にときおり出くわす。それを理由に回避することはないが、とはいえそんな珍しい店もないわけではない。

 そんなトイレで最も気になるのが、手洗いの場である。たまたま直前にトイレを出た女性が、手洗いをして備え付けにあったペーパーで手を拭いている姿を見ると、「あんたはハンカチというものは持っていないのか」なんて思うことがよくある。トイレにはペーパーで手を拭くタイプと、いわゆる風を送って手を揉んで乾かすタイプがある。風で乾かすタイプはちょっと手間がかかるので好まないが、ペーパーについてはときおり利用させてもらうことはある。それは着替えた作業着にハンカチが入っていない、いわゆる持っていないときのこと。でも普段着なら常にポケットにハンカチが入っているから、わざわざペーパーを使って手を拭くことはしないことにしている。「もったいない」なんていうつもりでそうしているわけではない。あるものは使えば良いだけのことで、ハンカチを持っていても備え付けのあのようなペーパーを使う意図がわからない。それでもって溢れんばかりに利用後の紙がゴミ箱に溜まっている姿の見苦しいこと。「女性」を特別視しているわけではないが、もちろん男性にもそう思うことだが、なんともはしたない空間を醸し出すあの手拭きのペーパーは好まない。もちろん風で乾かすのも〝なんだかなー〟。

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来年度への思い(前編)

2016-11-29 23:54:08 | つぶやき

 先ごろ民俗の会の総会が行われ、事業報告並びに決算、そして新年度の事業計画や予算案は異論なく了承された。このことを新春に発行される通信にまとめて報告するわけであるが、事務局を仰せつかった間に限っては、会員の減少に歯止めを掛けることができたかのような報告になった。しかしながら現実的には「そうなんだろうか」と頭を傾げるような、表(総会資料)には見えない事項が事務処理上にはうかがえる。2年前の引継ぎ時の会員数は136名、今回の総会で報告した期末の会員数は141名、確かに数字上は減ってはいない。しかしながら、決算報告はどこでもそうなのだろうが、予算に対して決算を示す。したがってここ数年の数字の変化を一覧化しているわけではない。とりわけ前年度決算と比較しただけでもその内容に変化が見えるもの。

 たとえば収入に関して捉えれば、昨年に比較して30万近い減収である。その原因はそもそも会費未納者が大勢いたため、それを回収したおかげで昨年の収入は多かった。とりわけ当年度会費だけ見た場合、ほぼ100パーセントに近い納入率だった。それほど努力をしたという記憶はないのだが、成果が実ったということになるのだろう。ところが本年度の場合、当年度の会費未納者が3割ほどあった。これだけ未収金があると当然決算で減収となってしまう。そもそも会費収入くらいしか収入はないのだから。日本民俗学会年会報告でも触れたとおり、今は印刷物が売れる時代ではない。したがって書籍販売収入は微々たるもので、会費が「すへて」といっても良い。

 未納者が多かったのは督促が遅かったということもあった。いつ督促をするかというあたりも、タイミングが難しい。何より通信を送付する際に行うから、2ヶ月に1ぺんの郵送時に行うのだが、1回タイミングをずらすとこういう結果になるという戒めでもある。ただ、未納者に先ごろ督促したにもかかわらず、未納者からの反応が鈍い。数年分を滞納している会員はともかくとして、本年度会費未払の方が反応しないというのはとても気になる。案の定、以前から退会を示唆していた身近な方が、「これで辞めます」と本年度の会費を払われた。加えてこのところ転居先不明者が増える傾向が見える。そもそも高齢化してくると、連絡できない場合はすでにお亡くなりになっているなんていう心配も…。音信不通者にどうつなぎを求めるか、悩みの種は嵩むばかり。

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2016-11-28 23:47:19 | 農村環境

 

 この時期になるとこの地域にたくさんある柿の木の柿もなくなるのだが、先日長野市へ行った際に西山地域を通ると、ずいぶんと柿が木に成ったままの姿をあちこちで見た。北信域では柿の木がそこそこたくさんあるものの、ほとんどが採られることもなくそのまま冬を迎えるようだ。同様に市田柿が盛んなこの地域でも、こんな具合に柿が木に成ったままの姿は珍しくはない。もはや市田柿の生産を諦めた人たちの柿畑なのだろう。そして今年の我が家の柿畑は、わたしが昨年やった剪定のせいで柿があまり成らなかった。そもそも最近は暖かくなってしまって収穫する前に熟してしまうのが流れ。とりわけ今年の秋も長雨、そして暖かかった。もはや干し柿を作るのにもままならなくなっている。

 そういえば昨年豊丘のある農家の2階にたくさんの柿が吊るされ、見事な景色を見せていたが、その光景がことしは見られることはなかった。かつての養蚕が盛んな時代に総2階の大きな家が造られ、2階は養蚕に使われていたのだろうが、そんな空間が後に干し柿場に変わった。いわゆる干し柿の光景は伝統的景観とでもいえるのだが、とりわけそうした比較的古い母屋に吊るされた光景は、この地域らしい光景だったと言える。ところがここ10年くらいでそんな光景が激減している。干し柿が減ったというよりは、干す場所に変化が起きているというわけだ。前にも述べたように暖かい気候が影響して、そうした場所にふつうに干したのではカビが生えてしまう可能性が高いし、今は衛生管理も厳しく指導される。いわゆる干し柿のかつてのような絵になる光景は希になったといえる。

 昨年まで立派な2階に吊るされていた家、昨年も思ったのだが生産者はそこそこの高齢者だった。いずれこの光景は見られなくなるのだろう、と思っていたらすでに今年は見られないという結果になってしまった。家の軒先に見られるのは、かろうじて自家用に作られている干し柿程度となっている。そしてこんな具合に採られることなく冬を迎える柿が、この地でも珍しくないというわけだ。そのいっぽうでこの地域では、盛んに柿の木の幼木が植えられている。

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レジに吹く〝風〟

2016-11-27 23:59:46 | ひとから学ぶ

 この時代にあって「なぜ」と思うことのひとつが、スーパーでの精算の際にある。先日「「頭を下げる」ひと、「下げない」ひと」を記したが、スーパーのレジに立つ方々は、まさに「頭を下げる」ひと。とりわけその対応に違和感なくいられるのはコンビニだろうか。コンビニにあってはレジにひとが並ぶと、すぐに空いているレジにひとが立つように教育されている。もちろん限られたレジしかないから、列をなすこともコンビニの盛況にあっては致し方ない。とりわけレジに列ができることで店を回避するひともいるようだ。ずいぶん以前のことだが、わたしがよく訪れる大型店のことについて仕事のお客さんと話した際に、その方はレジが混雑するから「別の店に行く」と言われた。安さで選択していたわたしにとっては、意外に思えたのだが、「そういう選択もあるのだ」と思ったもの。むしろわたしはレジの対応が嫌だから「避けたい」と思うこともたびたびある。

 前述の大型店を含めて、わたしが訪れることの多いホームセンター系の店ではほとんど違和感を抱いたことはない。ところがときおり訪れる食料品店。まさにスーパーと言われる系統の店にあたるが、頭は下げられるものの、見下したような扱いは気になって仕方ない。毎回同じ人の対応を受けるわけではないが、誰が対応してもそう変わることはない。店の考え方とでも言えるのだろうか。そしてその店だけかと思うと、地域ではかなり賑わっていることで知られている食料品店でも同じような扱いを受ける。そしてよく考えなくても解ったことは、同じ系統の店だということ。このレジに立つ人たち、プライベートでほかの店に行って物を買うことはないのだろうか。そう思うほど彼女ら(女性しかレジに立つことはない)の対応には腹が立つときも。たとえば人の顔を見て「何でこんなものを買うんだろうか」みたいにこころの中に買ったものと客との関係を連想させるような反応を見せる。こうなると買うものも容易にカゴに入れられない。ふつうはそんなことを思わないのかもしれないが、わたしにはそう捉えられているという感じを、昔から感じる時があった。そう、子どものころにもそんな印象を受けるような対応を、店員からされたことがあった。だからレジに立つひとの顔の表情を見る癖がわたしにはある。

 先ごろも訪れた賑わいのある店。わたしが食料費店で買い物をするとしても品数はごくわずか。それをレジに持っていくと、手早く処理をして金額を請求される。こちらが小銭を探して焦っていると、あの手早く処理した時間との格差が漂う。レジは手早く処理してくれることにこしたことはないが、いっぽうでその後のレジに立つ人の空気で客の印象は一変するもの。この空気感というか、間合いが嫌な空気を創り上げることもある。実は興味深い空間なのである。ときおりそんな空気を傍から覗いていみるのも興味深いのだが、そんな暇なことをしている人はいない。

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描かれた図から見えるもの [22]

2016-11-26 23:29:44 | ひとから学ぶ

描かれた図から見えるもの [21]より

 

 先週の月曜日に売木村を訪れた。月曜日というと食事処が休業のことが多く、選択肢が限られるのはとりわけ山間部の宿命だ。何度も売木村を訪れているが、この日は売木村にとっては「ムラの道の駅」的存在の「うるぎふるさと館」に併設されている食堂に入った。その内容はともかくとして、このうるぎふるさと館に置かれていたさまざまなチラシの中から、「売木村中心部と主要施設ご案内」という地図が目に入った。なぜならば「地図」、ようはこのテーマである「描かれた図から見えるもの」に通じる図だったからだ。見ての通り、白紙に描かれた売木村内の案内図は、略図ではあるがかなり的を得ていて、売木村の全容が把握できる。売木という盆地空間に集約されている配置がそれを導いているのだろうが、この空間を描くにあたって、北は右側に配置されている。とりわけ売木には象徴的な山がそびえているわけではない。そもそも売木村が900メートル以上の標高の高い位置にあることから、山々はさほど高山という印象もなく、里山程度のイメージ。あえて言うなら愛知県境にある茶臼山(1418m)が象徴的かもしれないが、南寄りにあってそもそも売木村と接していない。ということで、この図があきらかに「山」を意識して配置されたものではないことがわかる。軒川と売木川というふたつの川を中心に展開する集落を描くと、自ずと川を横に配置することになるのだろうし、合わせたように売木の中心街も川に平行にある道に沿って展開する。自然の成り行きといえばそういうことになるのだろうが、そうさせた大きな要因は「マチ」の並びだっかもしれない。マチの展開を描く際に、縦軸に描く人は少ない。その要因は図の基本が「横」というイメージがされているからかもしれない。ところが実際の図は縦版の図は少なくない。それは冊子の版板が縦の方が見やすい、あるいは持ちやすいという基本線があるからだろう。しかしながら実際に図を頭の中にイメージする際には、やはり横の方が視野が広く読み取れる。これは目がふたつあって、それは横に並んでいるという動物的条件と言えるだろう。

 さて、この図は右側に方位を北にしたマークが示されているが、正確には川の配置から北を示すと北は右下に傾斜するのが本当だろう。しかしながらその程度の方位のズレは実際にこの図を見て目標物を定める際には無関係だろう。というか、そうした細かいことを指摘するわけの解らないひとも、今は実際いることから、公の発行するものはかなり正確に描かれるようだが。売木村のパンフレットをここで見てみよう。「もうひとつの故郷」と題したパンフレットには11頁にガイドマップが掲載されている。もちろん北を上にした当たり前の構図のもの。売木村は国道153号から入ると「平谷峠」を、国道151号から入ると「売木峠」を、主要地方道阿南根羽線を根羽村から入ると「売木峠」を介して入ることになる。「新野峠」から下る道もあり、主だった道はほぼ峠越えという立地環境にある。わたしが好んで利用する主要地方道阿南根羽線を阿南町巾川から入るルートが唯一の峠越えではないルートであるが、この道を利用してあえて売木村へ向かう人は1パーセントもいないだろう。この図における目標物をあげるとすれば、図には示されていないが、「平谷峠」かもしれない。

 公的パンフレットはすでに「北」を当たり前のようにする図が示されるようになってしまったが、このように私家版とも言えるプライベートなものこそ、地味の人たちのイメージが反映されるのかもしれない。同じようなものとして、「描かれた図から見えるもの⑪」で示した伊那市富県グリーンツーリズム推進委員会が作成した図が挙げられるだろう。

続く

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消えた村

2016-11-25 23:41:50 | 信州・信濃・長野県

 今の人たちがどう地域を頭の中で描くかは知らないが、平成の合併以前の地域名と慣れ親しんでいると、過去の地域名を意識すのは誰しも同じだろう。とりわけかつての市町村の位置はなんとなく解っていても、境界域ともなるとそこまで解っているのは地元の人でない限りいないだろう。先ごろ触れた恩田井水においても、わたしのおおよそのイメージでは大沢の取水工は旧阿智村なんだろう、程度に思っていた。もっというと寒原峠を越えないと旧浪合村ではないと。しかし、実際のところ寒原峠よりかなり北の阿智側へ下らないと旧阿智村の境はなかった。その境界をあらためて知ろうと思っても、今のウェブ上にそれを知るデータは乏しい。国土地理院において、「地形図・地勢図図歴」というページがあるが、実際のところ過去の地図を現在提供されている図のような解像度でウェブ上で閲覧することはできないようだ(いろいろ試してみてはないが)。中には「Yahoo! Open Local Platform (YOLP) を使って過去の地形図や空中写真を見る」というページがあって、たとえば現在の立川駅あたりを現在の地図で示しておいて、最も古いであろう「明治迅速」「明治2万」「明治大正」「地図1920」「地図1930」「昭和前期」「地図1950」「地図1970」と閲覧していってみるとその変化がよく解る。ところがこのシステム、地方では過去地図が内蔵されていない。ようは身近な過去の境界を知ろうと思っても、過去の地図がないと解らないというわけだ。いまどきナビゲーションシステムが当たり前になって、過去の道路地図など持っている人は少ないだろうが、それでも意外に役に立つことがないこともないというわけだ。

 さて、そうした状況下においては、平成の合併以前の旧市町村の姿もだいぶ忘れられているだろう。とりわけ合併後の住所表記から、かつての町村名が消えているところも少なくない。たとえば現在の長野県中野市に新設合併した旧下水内郡豊田村。現在全国に「豊田」とつく町村はない(豊田市のみ)。そして住所表記においてもこの「豊田」は消されてしまった。豊田村は昭和の合併時に旧豊井村と旧永田村の「豊」と「田」をあわせてでき上がった名称。したがって地名に「豊田」というところがない。よって合併時に「豊田」を冠しない限り、そこには「豊田」という表記は消えてしまうというわけだ。したがって現在は中野市○○の○○に入るのは南から「上今井」「豊津」「穴田」「永江」となっている。前述したように「豊田村」以前の旧「豊井」と旧「永田」も合成地名だったから、それこそ今は呼称として使われることは希になっていることだろう。同じことは今後「豊田」にも訪れること。今は公共施設などに「豊田」を冠している施設があるが、これらが永久に継続されるとは限らない。それこそ、過去の4地名が平成の合併で蘇ったとも言えるのだろう。豊田村の中でもしくすぶっていた何かがあったとしたら、合併を望む声があっても不思議ではない。さまざまな見えないものが、合併で解消されることもあるのだろう。しかしながら、よその者から捉えると、「豊田」が消えてしまったことによって、いずれ「豊田村」という存在がうつろなものになってしまう可能性は十分にある。

 先般の恩田井水の実際の地積を確認する際にわたしが利用したのは、国土地理院の合併以前に作られた旧図である。最近過去の境界を確認するために、過去のデータを引き出すことがよくある。平成合併以前の図は捨てずに持っていることをおすすめする。とはいえわたしはPCで確認できるデータによっているが…。

 豊田村を事例として上げたのは、わたしにとっては過去の思い入れのある地だからだ。初任が飯山だったということに起因する。飯山市、栄村、そして豊田村と3市村しか業務エリアがなかった。したがって自ずとそれら地域に限定的に身を寄せていたから行動範囲は狭かったといえる。現在の飯田下伊那エリアとは大きく異なる。この豊田村と同じような道をたどっているかつての町村はほかにもある。東御市(東部町・北御牧村)、佐久市(浅科村)、塩尻市(楢川村)などのほかにもある。いっぽうで長野市のように、過去の町村名を長野市○○の○○に利用しているところもあって、それぞれの地域意識が絡んでいると言える。もちろん豊田村の例のように、二度に渡って合成した村の名前をつけた村は典型的な例といえ、それが合併時にどう影響したかまではわたしも読み取れてはいない。

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考えることは同じか、

2016-11-24 23:46:26 | ひとから学ぶ

 この時期に「積雪になりそう」というと「嘘だろう」と考える人は半分ぐらいいるだろうか。もちろん地方で問題になるのがタイヤのこと。雪が降らないと「替えない」というひとが多い南信では、予報だけで「タイヤを替えよう」と判断するにはちょっと勇気がいる。とくにこの時期だからなおさらだ。12月も半ばを過ぎようとしている時期なら、妻も「替えて欲しい」と口にするのだが、さすがに妻もそう言わなかった。ところが昨夜の気温低下を実際に体感して、息子も夜のうちにタイヤを交換した。すこしばかりわたしの軽トラックのタイヤも「交換しようか」という雰囲気を息子が見せたが、「もし積もっていたら電車で行く」と交換を促さなかった。

 予想通り今朝方は積雪が。すでに10センチほど積もっている。もちろん息子に言った通り、電車で行くことに。駅に着くと下り電車が(わたしの乗るのは上り)。この電車はふだんはわたしが家を出るころに駅を出る電車。ようは10分ほど遅れている。最近電車を利用していなかったものの、急に乗客が増えるはずもない。この日駅のホームにはふだん以上の人影が。わたしと同じように「電車」を選択した人が多いということ。わたしと同じ考えの人が多かったわけだ。いつもの駅で乗客が多いということは、どこの駅でも同じ現象が起きるはず。「今日は満員かな」と思いつつ、予定通り10分遅れでやってきた電車に乗る。さすがに郡境域ということもあって、乗り込んだ電車内の光景を見る限り、ふだんより特別乗客が多いという印象はなかった。しかし、それからだ。その後停車する駅ごとに乗り込んでくる乗客は、やはりふだんよりは多い。ひとつ、ふたつほどの駅までは車内を行き来できる雰囲気はあったが、その後はもはや身動きが容易ではなくなるこうなってくると乗務員も車内に券売で出ることはしなくなる。したがって「今日ばかりは」と乗った乗客が降りる際に精算が行われる。ようはますます電車が駅に停車している時間が長くなり、電車が遅れていくというわけだ。こう考えると、飯田線はそもそも満員を想定していない路線とも言える。満員になると精算時間が電車を遅らせる結果を招き、それでは時刻表があてにならなくなる。あくまでも通勤通学者のいわゆる定期券利用者と、少しばかりの切符購入者の乗客を想定しているというわけなのだ。もちろん通勤通学の時間帯に限ってのことではあるが。

 結果的に目的の駅に降り立った時には25分近くの遅れが。そしてふだんは電車など利用しないような乗客が降り立つのだ。もちろん最近のわたしも同類ではあるが…。

 この日飯田では11月では過去最高と言われる14センチの積雪が1時観測された。我が家のあたりがもっとあったかどうかは測ってもみなかったので解らないが、季節外れとまでは言わないまでも、今冬を危惧させる雪模様であった。

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思い立つ、とき

2016-11-23 23:35:40 | つぶやき

 昨日の日記もそうだが、最近は運転して思うことを綴ることが多い。当然のことだろう、日々の体験の中から記しているのだから。しかしながら車で通うようになって以降、自分としては思考が衰弱しているような気がしている。かつて運転しながら思うことを口にして録音したことがあったが、運転していてもそれなりに思うことは浮かぶ。しかし、あまりそこに集中してしまうと、事故を起こしかねないから、自然と思考の中には安全に配慮した経験が派生する。ようはほかのことに集中する以前に前提となるものが横たわっているというわけだ。

 かつて電車で毎日通っていたころは、電車内でいろいろ見、また考えていた。人には思考時間帯というか、思考空間というものがそれぞれにあるのではないだろうか。以前にも書いたことだが、意外に電車内で考える、というよりは駅へ向かって歩いている時にいろいろ思いつくことがあった。それを電車に乗ってから「展開」していったわけだ。継続しているから「さっき何を考えていたっけ」などと忘れてしまうこともない。年老いたせいもあるのだろうが、少し前に考えていたことを忘れてしまうこともよくある。ようは中途に違うことが飛び込んでくると、それ以前のことが途切れてしまう。そこにいくと駅に向かって歩いている、そしてそのまま電車に乗る、こうした継続時間にずっと途切れることなく考えていると、疑問に思ったことがいろいろ展開していくものだ。ところが車を運転しているとそうはいかない。前述したように横たわっている「安全視線」がある以上、それは第一の優先項目だ。

 駅へ向かう間歩きながら「ひらめく」と、今の自分の行動パターンから解ることは、歩くことの大切さだろうか。歳を重ねた人々がウォーキングといって歩くが、これって実はボケ防止になるんじゃないか、ということ。もちろんわたしが「歩く」ことでいろいろひらめいたり考えたりするが、他人も同じとは断言できないが。

 では今はそれがないかというと、やはり駐車場から会社までの坂道でいろいろ考えたりする。無心に「歩く」という時間は1日の中で乏しいのだが、やはり「歩く」時が至福な自分を築いてくれるのだと実感する。それともうひとつ、湯船に浸かっている時間だろうか。すでに午前3度になるというのに、床に直行するのではなく、再びキーを打つ気になったのは、ここに書き記すことを思い立ったからだ。もちろん明日の朝には忘れてしまいそうだから。

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選択の誤り

2016-11-22 23:30:39 | ひとから学ぶ

 とりわけ高校のある近くというのは、地方にとっては賑やかな空間だ。高校だけにあらず、学校があるということは、地方にとって特別な空間とも言える。都会では保育園ができるというと、「うるさい」といって否定される時代。かつての空間イメージと、今の空間イメージは、そもそも人々の捉え方にも変化を見せている。それに応じる様に人々にとって、空間にどう身を置くかという部分にも意識変化を与える。

 それはともかくとして、わたしの通勤途上には、そんな高校の賑やかさが集中する空間、そして時間がある。そう、駅に降り立った高校生が、学校に向かって歩き始める時だ。ひとつの学校ならいざ知らず、それが複数重なり、加えて小学生やら中学生までも混ざってくると、その場を通り過ぎるのにも容易ならぬと思うひともいるだろう。そんな時間帯にそこを選択しなければ良いのに、と思うがそれでも「近いから」と言って通るのだろうか。学生たちが向かう方向と同じ方向に向かって車を進める。したがって学生たちはわたしの右手に列をなし、わたしは左よりを走る。彼らをそれほど意識せずともハンドルを握ることができるが、逆に向かう対向車にとっては、学生たちに気を使いながら徐行して進む。ここはセンターラインはなく、言ってみれば普段なら普通に行き来できる道のはずが、けして1列になって歩まない彼らは車道の2割から3割を占有する。それでも対向車が来れば、なるべく右へ寄って車が通過できるように気を使う学生も少なくない。とはいえ、車道にはみ出したモノが停まっていれば、「そこまでしなくもよいのに」と思うほど大きく避けるドライバーが多いこの時代にあって、ほとんど進むこともできずに対向車(こちら)が通り過ぎるのを待って学生たちを回避する。

 ところがだ、わたしの前を行く車は、そんな対向車が気になって「お先に」とばかり左に寄って止まってしまう。こうなると対向車のドライバーも「自分が進まなければ」と学生たちに気を配りながら進もうとするが、躊躇している車の思いもむなしく、学生たちも動かないのなら、とはみ出す者も…。ようは身動きできなくなった空間に渋滞が始まる。そもそも学生の歩いている側の車が待っているということは、その空いているこちらの空間を「お先に」と勧めているのに、動こうとしないわたしの前にいる車のドライバーの発想はどこにあるものなのか。「進まなければならないのはあなたです」、そう言いたいところなのだが、固まった空間に笑いがこみ上げる。こんな笑いがこみ上げること、最近頻繁だ。

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「頭を下げる」ひと、「下げない」ひと

2016-11-21 23:29:29 | ひとから学ぶ

 頭を下げてもやってもらえず、「そちらでやってください」という人もいれば、頭を下げなくても、「これはうちでしなければならないことです」といってやってもらえる人もいる。それは同じ空間にいても実際にあることだし、別の空間ともなれば当然のように発生する差違。世の中で最も頭をさげることが得意なのは、スーパーでレジを担当している人たちだろうか。でも彼女あるいは彼らは、買っていただいたことへの謝意を現すもので、お詫びの類の「頭を下げる」ではない。世の中には日々「頭を下げる」を繰り返す人もいれば、ほとんど「頭を下げる」必要もない職種の人たちもいる。

 電通女性社員の過労自殺の波紋はいまだ広がったままだが、果たして過労だけが原因だったのか。とりわけ過労死として取り上げられる事例は話題に上がるが、もし同じような状況に陥ったとき、わたしは独り言として「過労」を口にするかもしれない。しかし、あくまでもこころの叫びの一つとして発せられるものであって、嘆きの自然語にほかならない。ようはほかにもそうした嘆きの単語を連ねる可能性がある。自分への言い聞かせである。むしろその境遇に陥った際に、表現する適正な言葉が見つからない可能性もある。こころの中には、自分を貶めている原因があるはずだ。それを解ってもらいたい、そう思うときの外との通路のようなものとして人が聞けば「なるほど」と思わせる理由が発せられているに過ぎないのだ。周囲がそれを気が付くことはできなかったのか、そういう言葉もよく聞くが、そういった状況下に陥ったとき、やはり自分がそこから抜け出せる方法を持っているか、あるいはどれほどの状況であっても「死」を選択しないという性分を持ち合わせているか、そんな岐路ではないかと思う。もちろんそうでないケースもあるだろうが。

 けして「謝ってはいけない」、そういうマニュアルがある世界がある。おそらく謝ることで、立場が逆転して責任かが転嫁されてしまうことを恐れてのもの。とりわけ「頭を下げない」も同じ意味を持つのかもしれない。けして「頭を下げない」は、「頭を下げる必要がない」につながり、日々「頭を下げる」ことはほとんどなくなる。わたしは「頭を下げる」ことは下手くそな方だ。苦手といってもよい。それは「謝る」をしたくないから、というわけではないのだが、それもまたこころのあり様なのかもしれない。しかし、「謝る」が日常的だとけして上手でなくても、「謝る」ことに道を開こうとする。そう、「謝れば」という期待値を上げることで、こころの奥底にある重みを開放しようとするのかもしれない。ようは「頭を下げる」は単純な行為なるも、場面、そして人、捉え方はまったく異なるのだ。とはいえ「頭を下げる」ことのない、少ない人たちには、この気持ちは解るまい。

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〝限界集落〟以前

2016-11-20 23:29:29 | 農村環境

 先日触れた赤地蔵を祀っている笠子にはお宮がある。かつてはお宮の祭りに神楽囃子をしたという。赤地蔵のある峯から東側を元太田(もとだいた)といい、そこにかつては5軒家があったという。今は3軒になってしまったが、神楽囃子の時は元太田で舞ったあとに赤地蔵で舞って、その上の杉の木の根元にある祠で舞ったという。昭和11年生まれの男性が高校に入ったころのこと、65年ほど前だろうか、辞めてしまったという。神楽囃子を実施するには獅子頭と太鼓と笛、最低3人必要だったという。その3人でなんとか何年かやっていたが、いよいよその中の1人が創価学会に入ってしまって、お宮のことはできない、ということで2人になってしまったが、何年か隠居されたOBが担ってくれたが、長続きするはずもなく、途絶えてしまったようである。今でも当時の獅子頭などは残っていて、集会所あるいは神社などに収めてあるという。

 笠子だけで祀っていた神社は少し前までは10軒ほどになった氏子で祀っていたが、それでけの戸数で維持するのは大変だったよう。残っていた10軒の中にも神社には関わりたくないという家も出始め、休みたい、あるいは辞めたいという家が増えている。現在神社の氏子となっているのは7軒になってしまった。そんなこともあるのだろう、高いところにある神社に登っていくのが大変だからといって、神社を低いところに移したいという話が若い衆から発生しているらしい。しかし移すといってもお金のかかることで、安易に移せるものでもない。いつまで集落で祀られるかもわからない状態で、今移転する必要があるのか、年寄りは「よく考えろ」と言うしかないともいう。

 神楽囃子を辞めてもう何十年、当時は限界集落などという話はなかっただろう。しかしここでは今問題視されているような現象が、何十年も前に始まっていたというわけだ。すでに独り暮らしの家もある上に、若い衆が同居していない家もほとんどで、もはや10年と集落が持つかどうかとも言われる。

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民俗学における女性研究

2016-11-19 23:59:59 | 民俗学

 本日行われた長野県民俗の会総会における記念講演は、倉石あつ子氏による「民俗学における女性研究―私を語る―」であった。あらかじめ『長野県民俗の会通信』256号に掲載された講演趣旨には次のように述べられている。

 日本民俗学において女性研究はその草創期から関心を寄せられていた分野である。柳田国男の「和泉式部の話」などは、女性の霊性に対して注目した資料集によって成った著作である。女性の霊性に関しては後に『妹の力』として、男兄弟を守護する女姉妹の霊性に集約していく。後の研究者の中にも、こうした女性の霊性に注目した著作は少なくないが、その代表的なものに宮田登『女の力』がある。一方、研究はそうした女性の霊力のみではなく、家の継承や家族の中における女性の役割にも視点は注がれていた。
 昭和初期から活動を始めた瀬川清子・大藤ゆき・鎌田久子・江馬三枝子など初期の女性研究者は、自分たち女性の身の回りに生起するさまざまな事象を念頭に調査し、報告を続けた。その成果は膨大な数に上るが、彼女たちの報告は現在の私たちの暮らしと比較する上で貴重な資料として残っている。柳田国男の『家閑談』などは、こうした資料の数々をふんだんに利用した主婦対家長の構造を説き、主婦の存在の重要性を主張している。この時期を契機にして女性研究は次第に日常生活の中における、女性の暮らしそのものに注意が注がれていくようになる。娘・嫁・姑としての女性のそれぞれの暮らしぶりが描き出されるが、中でも圧巻は向山雅重の調査報告であろう。地域に根付いた調査は、他の研究者ではできない細部にまで調査が及び、嫁の暮らしの不自由さ、家の経営拡大と継承にこだわる姑の存在など、瀬川他の女性研究者が描き出す暮らしとはまた異なる面まで描き出している。
 そんな研究蓄積がある中で、更になお私が女性研究をしたいと思ったのは、『日本文化大系』九巻「家と女性」の坪井洋文の「部分に関する問題にこだわりすぎたのではないか」という指摘であった。一九八○年代の著作でもなお霊性に執着する研究姿勢はある意味で柳田当時の研究から脱却しておらず、更に女性の暮らしは当時からすれば格段の変化を見ていたから、「霊性」にだけこだわっている場合ではないだろう、と考えたからである。民俗学は生活文化を扱う学問であるにもかかわらず、女性研究に関して言えば、それほど進んでいるようには見えなかった。「今をとらえなければ」という思いがあったが、結論から言えばそれは思いだけに終わっており、現在をとらえる所まで行ってはいない。そしてその調査方法や報告・論文は結局自分の民俗学に対する姿勢を語っただけに他ならなかった。

 倉石氏はこれまでの女性研究史を外観した中で、とりわけ1993年第45回日本民俗学会年会シンポジウム「民俗社会における『女性像』」について触れられた。この中で問題として残ったこと3点を挙げられている。
 ①女性研究者と男性研究者の視点の違いがあるのではないか、と言われたことに対してコメンテーターの福田アジオ氏は、そういうものがあるのなら、女性の視点を活かせばどのような成果が生み出せるのか、生み出せる見通しがあるのか証明せよ!と言ったというがいまだ果たされていないと倉石氏は言う。
 ②また、柳田の女性観・思想などの影響がどのように働いているのかという点に関する再検証の必要性が指摘されたが、いまだ福田アジオ氏の「柳田国男における歴史と女性」(国立歴史民俗博物館研究報告 (21), p13-40, 1989-03)を越えるものは出ていない。
 ③さらに、民俗学研究者としての女性役割・男性役割の固定化という点が指摘された。
しかしながら、結論としてこれら指摘の解消はなし得ていないと倉石氏は言う。たとえば瀬川清子・能田多代子・折口信夫・向山雅重などを取り上げ検証しようとしたが、それぞれの研究者の特性はとらえることはできたものの、「それが女性研究者全体の、あるいは男性研究者全体の、あるいは女性研究者対男性研究者の視点の相違かというと、そこまでは言えない」と自身が捉えられている回答を述べられた。とりわけ趣旨でも挙げられている向山の報告は男性ながら、女性の表したものと差がないと言うのだ。とはいえ性差というものがある以上、研究視点の男女差はあるのではないか、と倉石氏は言い、その例え話として倉石家における夫婦喧嘩の発端を挙げられた。あくまでも「感じるところからくる思い」なのだが、そうはいっても証明にならないから理屈ではなく、実生活の中で男女差がどう作られていくのかを見ていけばそれが見えてくるのではないかと言う。そして妊娠・誕生と見、さらには性分業としての諸作業を見ることでその実際を紐解かれた。とはいえ、そこに男女の視点の違いという捉え方を解消するまでには至らなかったようにわたしは感じた。

 今、大学で民俗学を学ぶ学生は、男性よりも女性が多いという。にもかかわらず、女性の視た民俗学は表現されているのだろうか、というとどうもそうでもないようだ。

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「池の名前と村の記憶」⑦

2016-11-18 23:59:59 | 民俗学

「池の名前と村の記憶」⑥より

 長野県内でとりわけため池が多い地域がある。Googleマップで外観していると、それがはっきり解るのは、長野市篠ノ井山布施東御市御牧原(この下を北陸新幹線が通っている)だろうか。国土地理院の同縮尺表示で見ればその数の多さが歴然としている。とりわけ前者は極小のため池が、後者は大きめなため池が、それぞれ並んでいる。御牧原が水が乏しいためため池が多いというのはよく知られているし、同様にため池が多いと言われているのが塩田平だろうか。とはいえ、地図上にみるため池の多さは御牧原は群を抜いている。安室氏が指令としてとりあげた山口県防府市大道を同縮尺で表示するとこうだ。こうして見てみると御牧原のため池は突出していると言える。県内では上田地域に降水量が少ないという話はよく知られた話。したがってため池が多くなる。

 現在は上田市になっているが、旧丸子町尾野山のそれこそ「新池」に15年ほど前に関わったことがある。「新池」というからこれに対する旧の池があるのかというと、それらしいため池は見られない。ただし200メートルほど上流に貯水面の大きさで8倍ほど大きい「上池」というため池がある。「上」と呼称しているから、対象は「新池」に対する「上」とも捉えられるが、ここにため池の名称付与に関する時間軸を捉えるならば、「上」と命名する以上位置情報としての対象物があるものと考えられる。ある空間のあるいは物に対する「上」ということになるけで、もうひとつのため池てある「新池」に対する「上池」であると推測できるが、これはあくまでも机上の推論であって、このことを当時地元で確認したわけではない。もし推論通りならば、ため池ができたのは「新池」の方が早いのか、とも捉えられるが、むしろため池の名称をあえて付ける段階が訪れたとき、位置情報として主たる地域から「上」にあった溜池を「上池」とし、そのため池より新しい時代にできたため池を「新池」と付した可能性もある。そしてこの場合の主たる地域とは、「上池」の直下に広がる3ヘクタールほどの水田地帯となる。もちろん「上池」の直下であるから、「上池」に用水を求めている水田地帯となる。そしてこの水田地帯を通過して、「上池」の水は「新池」に流入する。「上池」の集水区域で降った雨は、必ず「新池」に落ち、「新池」を介して下流へと排水される排水系統なのである。貯水量にして7千トン程度の「新池」に対して、1万3千トンの「上池」は倍近い大きさを有す。200メートルしか離れていないから、エリアに降った雨は、主に「上池」が受け止め、時間差で貯水量の小さい「新池」へと排水されるというわけだ。

 実は「上池」に対する「下池」がここ尾野山にはある。実際は「下ノ池」と呼んでおり、尾野山の集落に隣接して存在する。しかし水系的には「上池」の水は「下ノ池」には連携しておらず、明から位置情報としての「上」と「下」であることがわかる。ちなみに御牧原同様に「下ノ池」に隣接した直下を北陸新幹線が通過している。

 たかがため池の名称であるが、その名が付された背景をこのように推測する楽しみはあり、もっといえば実際はどうなのか聞き取りをして見ることにより、たかがため池名称に地域の思いや歴史が裏付けられている可能性があるというわけだ。もちろんわたしは今までため池とたくさん相対してきたが、このような視線を当てたことはなかった。仕事上でしか捉えていなかったため池に、新鮮な見方を与えてくれた安室氏に感謝したい。そしてこれはため池だけではなく、ふだん接している農業用水路などにも言えることなのだろう。

終わり

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