Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

右折しようとする人々の思い

2017-04-28 23:09:45 | ひとから学ぶ

 一昨日も「計算のできない時代と、できない人々」において車の運転のことについて触れた。翌日もとてもスローな状態で帰路についた。最近下道なら空いていると思うほどかつてにくらべると渋滞しなくなったが、それでも高速道路を利用すると所要半分の時間で会社まで至る。この時間差は大きい。これは朝だけのことだと思っていたが、もちろん夕方も少しは時間を要すのは、昔と変わらない。とりわけ駒ヶ根市内が東西の道路を優先させて、南北に走る車に優しくない現実は昔とちっとも変わらず、夕方でも少しばかり渋滞するのは仕方ないと思っていた。しかし、この春から何度となく帰宅時である夕方南下すると、何といってもとてつもなく遅い車が多い。もしかしたら夕方の方が高速を利用すると効果があるのかもしれない。有価だは利用しないと決め込んでいたが、自宅へ直通するのなら帰宅時も高速を利用すべきなのかもしれない。それにしても下道ののろのろ運転に、わたしは諦めてゆっくり走る。抜くわけにもいかないし、前の車を煽ったところで、スピードが上がるわけではない(煽るように接近する車は少なからずいるが…)。ブレーキを踏むことが嫌いなわたしは、車間をとってエンジンブレーキで前車との車間を保つ。信号機が赤になっても、できるかぎりブレーキを踏むことがないように早めにシフトダウンをして信号機が青になるまで車間で調整する。信号機のあるところばかりではなく、ふつうに走っている場合もカーブがあればみな減速するから、やはり車間を調整して走る。したがって一緒に走っている前後の車に比較したら、少し車間距離は長めだ。「計算のできない時代と、できない人々」でとりあげたNHKのためしてガッテンでも、高速道路のことに触れながら「車間距離」のことも実際は短いことについて取り上げていた。車間距離はご存知の通り、高速道路なら速度と同じ距離と言われている。また一般道では時速から15kmを差し引いた距離と言われているから、50キロなら35メートルとなる。一般道でこんなに車間をとっていると、後ろの車に「早く行け」とばかり煽られることも珍しくない。ようはほとんどの人がこの車間距離をとっていないとも言える。とりわけ混雑時などなおさらだ。しかしながら、わたしはシフトダウンで車間を調整することもあって、比較的車間を空ける方だ。それでもおそらく言われているような車間程度、あるいはそこまで空いていないことがふつうだ。例えば40キロで通常の25メートル車間を空けていると、対向車で右折しようとしている車は、右折可能だ。ようは通常の車間を空けていると、おそらくゆっくりな右折でない限り、すばやく曲がってもらえれば対向車であるわたしはほとんどブレーキを踏むこともなく一定の車間の間に対向車を右折させてあげられるというわけだ。これが10メートル以内で車が繋がっていれば、意図的にブレーキを踏んで「入れてやる」と操作しない限り対向車線は数珠繋ぎとなるわけだ。

 よく知られているように、車間距離を短くすると渋滞が発生しやすい。同様に一般道なら対向車線にも渋滞を発生させかねないわけで、素早い判断で「譲る」という意図を見せることがどれほど渋滞緩和につながるか、少しは考えて欲しい、とそう思う。右折車線のない交差点で、対向車が右折しようとして交差点直前で信号が青になるのを待っている場合、わたしがその対向の先頭にいれば、ほとんどの場合先に右折させてあげてから発車するようにしている。ちょっとしたことだが、何も考えない人の方が多い、どころか「右折させない」とばかり急発進する車もいれば、無理に曲がると威嚇する車も少なくない。嫌な世の中だとつくづく思う時である。

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続・丸石神

2017-04-27 23:15:49 | 民俗学

伊那市高遠町山室宮沢 箱入り道祖神

 

 一昨日「丸石神」について触れた。わたしが日本石仏協会に入会したのは『日本の石仏』が「丸石信仰」を特集した20号の発行された少し前だったと思う。その『日本の石仏』も既に161号まで発行している。当時の20号に紙片が挟んであり、そこには次のような書き込みがしてあった。「昨年から今年にかけて南紀を何度となく訪れた。その中で南部町鹿島神社で見事な玉石を敷き詰めた宮殿庭を拝見することになった。この地方の神社の多くで見られるこれらの玉石敷は…」というようなものだが、文はここまで書かれたあと途切れ、そのあと中沢厚氏のことに触れながら「わたしの見聞きしたいくつかの丸石神の報告をする。」と記すと、「丸石神概略」と見出しを書いたまま空白となっている。記憶にないのだが、おそらく「丸石神」のことをまとめようとしたものの、忙しさのためそのままになってしまったものと思う。まとめるほど丸石神のデータがあったものなのか定かではないが、丸石神に当時興味を持っていたことがうかがえる。今のようにパソコンが汎用化していて、それこそブログのような書き込みスペースが当時あったなら、わたしの人生は大量な記録を残してきたに違いないのだが、当時はそれを日課とするほどのスタイルは持ち合わせていなかった。多くの情報を記憶から消去してきたことに悔いることもないが、残念な部分ではある。まだ20代に入ったばかりのころの消えた記憶である。

 丸石神といえば「道祖神」というイメージが浮かぶのは、中沢厚氏の報告を知っていたからのこと。近在では伊那市長谷中尾の丸石道祖神がよく知られている。日記で過去に触れているかと思って検索しても記録がない。かつて丸石神に興味を持っていたのに意外だ。中尾のものは丸石そのものには刻銘がないものの、台石に「道祖神」と刻まれているから明らかに道祖神として捉えられる。竹入弘元氏は『長野県上伊那誌 民俗篇上』(1980 上伊那誌刊行会)のなかで「山梨県は球形の本場といわれる。高遠長谷方面と山梨県と近いところから影響が考えられる。」と記している。前回も触れたように「丸石神」と名付けられたのは中沢厚氏らによって1980年に出版された『丸石神―庶民のなかに生きる神のかたち』のあたりからのこと。『上伊那誌』の中では「球形」と表現している。以前「石仏に彩色するということ⑧」の中で伊那市高遠町山室宮沢の道祖神について触れた。箱入りの道祖神でかつては頭屋に回して保存されたものという。わたしが拝見した際には集会所に保存されていたが、箱の中に7体と、別に1体の道祖神が納められていた。箱の中央に祀られている自然石は球形のもので、大きさは5センチほどと小さなもの。この道祖神についても竹入氏によって『上伊那誌』のなかで球形の道祖神として中尾のものと一緒に紹介されている。写真のものがそうで、中央にあるからご本尊のようにもうかがえる。箱入りだからどれも小さな道祖神であるが、この中でもっとも大きなものが双体のもので、高さ20センチ弱。他はすべて単体像でどれも合掌している。別の一体の背後に「慶応三丁卯年正月吉日」に加え「巳ノ年男」と刻まれていることは以前触れたが、この箱の中に並んでいるものの中では双体像の背後に「延享三□寅」とあり、延享3年1746年のものと見られる。『上伊那誌』の中で「中尾で盗まれたものか」と記述がある。丸石神が祀られている中尾との緒がうかがわれる。

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計算のできない時代と、できない人々

2017-04-26 23:18:43 | ひとから学ぶ

 NHKのためしてガッテンで「大型連休の前に!交通事故から家族を守りたいSP」が放映された。高速道路での信じられないような事故の原因を探っていたが、試しに使われた模擬運転と違って実際の高速道路では変化が著しいので、短時間に催眠現象に陥ることはないだろうが、とりわけ「あまり考えずに」運転している人はこの催眠にかかりそうだ。裏を返せばスピードオーバーして走るような運転をしていれば催眠にかかることは低下するだろうが、いっぽうで催眠にかかりそうなドライバーも共存しているから、それで良いというものでもない。安全だろう高速道路も、流れていく多くの情報が自然と疲れを募らせることにつながるのだろう。毎日ほんのわずかの区間を利用するようになった最近、3月までとは違って異様に疲れを感じているのは、そんなところにも原因があるのだろうか。番組を見ていて驚かされたのは、高齢者に限ったことではないという事実。とりわけ20代にも逆送するドライバーが多いという。

 もうひとつ、ブレーキの踏み間違いのこと。オススメなのが「アクセルをゆっくり踏む習慣をつける」こと、と言うが、現実的にはアクセルを急に踏み込むような運転を日ごろからしている人は少ないだろう。そういう意味ではこのオススメはどうだろう。そもそも以前から触れていることだが、今はATが当たり前だが、かつてはMT車が当たり前だった。急な動作の際に、今は左手は遊んでいるし、左足も遊んでいる。そのことを思うと、かつてはその両者も咄嗟のときに何らかの動作をしたはず。右足だけに頼っている現在と違って、間違った動作を補う動作が伴っていたのではないだろうか。どれほど高齢化しても、かつてならギアを動かさなければならなかったし、そのためにクラッチも踏んだ。ようはMT車の場合は踏み間違いが少ないのではないだろうか。

 それにしても相変わらず右カーブにおいて車道の中央に寄って来る車が多い。明らかにそれは多くなっているし、対向車が来ているのに左に寄ろうという動作が遅い。狭い道(とはいっても普通にすれ違いのできる道幅)では速度を落とさざるを得ないのが、今の運転環境である。そればかりではない。今は極端な人が多い。帰宅時田舎では「広い道」と言えるような道路で、速度40キロ以下で先頭が見えないほどつながっていることがたびたびある。渋滞ではない、動いている。明らかにミラー越しに後方を注視すると苛立っている車も見えるが、この隊列が延々と崩れることなく続く。また時には「もっと出せ」みたいにかなりのスピードで走っていても、隊列を組んで延々と前進するようなケースも。超速もあれば超スローもある。まったく計算のできない時代だ。

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丸石神

2017-04-25 23:36:39 | 民俗学

背後は中央アルプス宝剣岳

 

 「丸石神」という単語の発生は、中沢厚氏らによって1980年に出版された『丸石神―庶民のなかに生きる神のかたち』からだろうか。この呼称について中沢氏は「日本の石仏」20号(1982 日本石仏協会)の「丸石神追考」の中で「丸石神と玉石神(あるいは玉神)のうちどれを民俗語彙としてとるべきかを論じたのではない。ただ通用語として前者が後者より適当でははないかといい」採用したと述べている。とりわけ球形の奉斎物としては、考古学の出土品としての事例が多い。そうしたなか明らかに神として球形の石にそれなりの文字を刻んだものが後世に造立されており、とりわけ丸石道祖神はよく知られており、それが中沢氏の地元である山梨県に多いことも既知のことである。丸石神については前傾した「日本の石仏」20号において特集が組まれている。全国の丸石神の事例が報告されるとともに、その研究の中心におられた中沢氏によって概論が述べられている。ウェブ上にも「丸石神」なるものが展開されており、「丸石神基本と分類」という項も立てられている。

 長野県は山梨県に隣接するも丸石道祖神の例はそれほど多くない。とはいえそもそも自然石といえば、河原に転がっている物はほとんど球形である。もちろん真ん丸などということはなく楕円形が多いが、それが平べったくなれば、いわゆるよく見られる路傍に祀られる石仏に使われる石となる。したがってどれほどの球形なら「丸石神」と呼んでいいかなどという議論はされていない。ようは路傍に建つ石仏も、「丸いといえば丸い」と捉えられないこともないというわけだ。

 写真の石神群の右端にある「蠶神」は「丸石神」といって差し支えないだろう。富士山のような山形の台座に乗せられた丸石は、まん丸とは言えないまでもほぼ球形である。駒ヶ根市北割の昭和伊南病院南、五十鈴神社上の道端に建っている。蚕神を球形で造立する例は多くはないが、そもそも繭が丸いというあたりから球形の石を採用するという意図は理解できる。このあたりの天竜川支流の河川には、こうした丸石がごろごろしている。しかしながらだからといって丸石を利用して石神としている例はとても少ない。そこに並ぶ石神のように、平面を持ったいわゆる文字を刻みやすい石を利用するのが通常だ。そうした形状をあたりまえのように見ていると、球形は異例ということになるが、ではなぜごろごろしているような球形の石が使われなかったのか、そう考えると不思議でもある。

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自治会は行政の下部組織か

2017-04-24 23:50:48 | 地域から学ぶ

 近ごろ「議会だより」なるものが配布された。議員が何をしているんだ、と疑問符をあげる住民に対しての証拠品なのかもしれないが、いまどきは議会の内容が有線放送で流されるし、議事録もネット上に公開されているので、証拠品はいくらでもあるのだが、それでも日々忙しい住民に告知する意味では大きな証しなのだろう。そんな議会だよりに「自治会」という単語が頻繁に登場するのは、それだけ自治会に行政が頼っているせいなのかもしれないが、議員が自治会をどう捉えているによっても登場する頻度は違ってくるのだろう。とりわけ気になった議員の発言が二つほど。

 ある議員は「今後、自治会再編成の取り組みが必要と思うが」と投げる。その理由なのだろうか、「持続可能な行政運営に効率、効果、コストより進める必要と考える」と言う。自治会が自治会費を徴収して運営している部分に効率とか効果とかコストなんて行政が口にする必要もないこと。自治会とは行政に対してどういう存在と考えているのか、そこから説明してもらわないと意図が見えないのだが、こうした発言に疑問なく応える行政側は、自治会を役場のコストダウンのために存在している組織だと、少なからず考えているのだろうか。考えてみれば自治会ほどムラ社会の姿を今に継承している存在はないかもしれない。もちろんかつてのムラ社会のことなど、今の自治会にかかわっている人たちなど知る由もないのだろうが、とはいえ毎年役が変わっていくような変転の著しい中で、それほど変化なく継承されているのは、そもそも役員任期が「短い」が故のことなのかもしれない。短期間に変えることはできないし、慣れないから前例に倣うことになりがち。そこへ継続している行政が口を出すと、その風になびいていく。言ってみれば行政が自治会を意図のまま操ることも容易いのかもしれないが、行政はもちろん自治会が行政の下部組織ではないこともよく知っている。返答の中で町長は、「住民生活に重きをおいた行政運営を図っていきたい」と言う。ここでいう住民生活とは、住民の考えに従うということだろうから、そもそもの議員の発言に価値は見られない。

 もうひとつは自主防災のこと。震災以降にわかに自主防災が叫ばれ、その単位は結果的に自治会というところでまとまる傾向にある。ふだん顔を合わせる人々によって組まれるのがごく自然なのだろうが、「自治会によって防災対策の温度差がある」とある議員は言う。そもそも自主防災とは自治会に任せて整えるのが良いのかどうなのか。とはいえ、「自治会で防災会議をを開いて周知させていく」という町長の応えに、やはり自治会は町の下部組織か…、などと納得したりする。

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ある自治組織のこと

2017-04-23 23:57:07 | 地域から学ぶ

 「石尊信仰の今を訪ねて・後編」で触れた鍛冶町会館の入口脇に、「鍛冶町」という町を解説した看板が立っている。そこには「天正十一年(一五八三)真田幸村の父昌幸が、上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷海善寺村(現東御市)の鍛冶屋を移して造った町。宝永三年(一七○六)には三十二軒、明治五年(一八七二)には十六軒の鍛冶屋があった」とある。海善寺は東御市金井まで4キロほどのところ。東御市旧東部町に石尊信仰がよく残っているところからも、鍛冶町に移り住んだ鍛冶屋さんが持ち込んだ石尊信仰だったのかもしれない。

 鍛冶町会館の2階に階段を上ると、そこに「自治会役員」という役員それぞれの名前を記した表札が掛けられている。自治会役員を示す表札についてはこうした自治会館や集会施設でよく見かけられるが、黒塗りの表札に白字で示した風格のあるものは初めてみた。同じ空間に「平成29年 鍛冶町自治会役員名簿」なるものが貼り出されていて、そこには「1月26日」と示されている。確認してみなかったが、ここでは1月から12月が役員年度なのかもしれない。こういうとき、わたしの住む地域の自治会とすぐに比較してしまう。鍛冶町では隣組が22組あり、それを五つの「部」に分けている。部ごとに「議員」という人がいて、隣組の多い部には2人、あるいは3人の議員が割り当てられている。したがって議員は10名を数え、そのほかに議長と副議長という役割の人がいる。自治会内に「議会」というものがある例は初めて見たように思う。隣組は1組から31組であるが、前述したように22組しかない。ようは「4」とか「9」といった組はない。そのほか「15」とか「「17」といった欠番があるのは、統合されたのだろうか。隣組の役員とは別に多様な役員が配置されているのは、わたしの住む地域と同じこと。そんな役員名を見ていてわたしの地域にはない役員が割り当てられている。例えばこの日石尊講の話をしていただいた小宮山さんだ。その役名は「河川愛護委員」というもの。マチの中ということ、そしてとりわけ小川が流れているということが、こうした役員を配置するきっかけになっているのだろうか。また、町中らしいと言えるのが「商工振興会長」。「シニア鍛冶町会長」とはかつての老人会にあたるのだろうか。ほかに「壮年会長」というものもある。こうして一覧を見ていくと、最後の欄外に「青少年推進委員、育成会長、北小・三中PTA支部長は4月改選」と書かれている。やはり鍛冶町では1月から12月が任期のよう。黒塗りの表札があったり、議員がいたり、そして今でも1月から12月を年度としているところから、自治がこの空間だけで成り立っていることを強く感じる。わたしの住む地域の名ばかりの自治組織とは構え方が違う、そう思った。またわたしの住む地域と役員一覧を見ていて大きく異なるものがある。信仰に関することだ。わたしの住む地域では、神社に関する役が自治会に組み込まれている。裏を返せばだからこそ自治組織とも言えるのかもしれないが、こうでもしないと神社が維持できないからなのだろう。以前にも触れている通り、農村部よりマチの中の方が、自治会への関わりが高いのではないか(もちろん意識も)、そう思わせる役員一覧である。それを証すように、役員一覧の横に「会館清掃当番表」が掲げられている。月に2度行われる清掃について年間に行われる24回の清掃日と、その当番が誰なのかを年の始めに決めて一覧化している。「すばらしい」と思わず独り言を口にしてしまった。こういった自治組織の予算を見てみたい、そう思った。

 

 

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イワツツジ開花

2017-04-22 23:53:32 | 自然から学ぶ

 

 2週間前に終えたばかりの裏山の下草刈。その裏山にイワツツジが咲き始めた。花期が短いから、来週末はもう散っているかもしれない。昨年このことについて触れたのも4月22日だった。桜の開花が遅いと言っていたのにイワツツジは同じか、と思うがまだ咲き始めだから、数日の違いはある。昨年の今日記した内容には「チラホラしていた花が一斉に咲いたのは今週半ば。あっという間に咲いて今日訪れるとすでに最盛期は過ぎて葉の緑が目立つ」とある。妻の実家のことだから毎日目にすることはない。週末に様子をうかがうくらいだから、花期の短い花は、次に訪れる際にはすでに散っているという覚悟もしなくてはならない。そういう意味では咲き始めの今日が、今年のイワツツジの見納めなのかもしれない。昨年は山菜も気になって、週の途中にも足を運んでいたが、今年は伊那へ通勤しているからそういうわけにもいかない。

 花期としては桜が散り始めるころにイワツツジが咲き始める。冒頭の写真でも解るように風越山と我が家のイワツツジの咲く裏山との間に桜の咲く丘が見える。城山と言われているところだが、毎年イワツツジ越しに桜の花と風越山を望んでいる。とりわけイワツツジが咲き始めだから桜はまだ見ごろの範疇と言えるだろうか。いっぽうで背後の木々の緑がだいぶ目立っている。桜の咲き始めが遅かったことから、あまり時差なく今年はいたるところの桜が開花している。そういう意味でも、芽吹きと重なる光景も見られる。飯山の桜がそうであったように、開花の遅い桜の場合、葉の出るのと開花が重なって見苦しくなるものだが、そこまで桜の開花が遅くなかったのは良かったのかもしれない。日当たりが良い日中には、花の色が白っぽく映えなくなってしまうが、夕方ともなると深いピンク色となる。夜桜見物が好まれるのも、昼間に比較してピンク色が強くなることもあるだろう。イワツツジも同様にあたりが暗くなってくると、より色彩が深まる。咲き始めということもあって葉の芽吹きは目立たない。花びらも新鮮で見栄えはするが、まだまだ蕾が多いのが残念。

 「ここにも芽吹いている」そう思わせる光景をたくさん見た。コシアブラである。我が家ではコシアブラがこのツツジ群の中で育っている。下草刈をするのでその際にだいぶ刈ってしまっていた過去であるが、近年はコシアブラを伐らないように気遣っているのだが、それでも小さなものは刈ってしまっている。そんな下草刈をしてしまい残った株からコシアブラが芽吹いている光景をいくつも発見。イワツツジとコシアブラは相性が良いようだ。ということで、コシアブラも間もなく採取時期を迎える。もちろんタラの芽やウドは既に初物を頂いている。

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簡単な間違い、でも大きな間違い

2017-04-21 23:22:31 | ひとから学ぶ

 いつの時代からだろう、そう振り返るとその時代に実際に携わっていた者にはおおよその推測はできるもの。そういう意味では会社に入って40年近くにもなると、おそらく自分より年を数える者はいない。したがって「いつの時代から」という答えにはおおよそ答えられる。もちろん多様な仕事を請け負っているから、携わらなかった部分に疎いのは仕方ない。しかし、今はそんな経験は重視されない時代。そうさせたのはコンピューターの出現かもしれない。経験値すらデジタル化すれば、誰でも使いこなせるようになる。言ってみればどれほど単純なシステム化であっても、統一化するし、答えを安易に出せるようになる。OSが変わったり、ソフトが更新されることによって、過去のシステムに慣れてしまうと、そこに移せない年老いた世代がいるいっぽう、簡単にシステムを更新することのできるのは若い世代。ようはシステム更新に対応できるかどうかが、今の時代では業務上では重視されがち。過去のシステムにこだわっていれば、結果的に置いてきぼりになるし、若者には「過去化」されてしまう。常にひと世代も、ふた世代も前のシステムにこだわり、サポートが終了しても使い続けようとする年老いた世代が多い我が社の姿は古めかしいのかもしれないが、採算や合理性といった捉え方では致し方ないはず。例えばOSで見れば、いまだウインドウズ10がインストールされたPCは1台もない。以前にも触れたことだが、お客さんが最新バージョンなのに、そこで動作確認できない実態が我が社なのだ。ということで、過去にもあったことだが、マイPCで動作確認をする、とあいなる。経験値を重視できなくなるのも自然な流れなのだろう。

 ところがである。今日も終業間近になって出先で最も若い彼が引き継いだ仕事に間違いを発見。細かく紐解いていくと疑問点ばかり募ってしまうので、とりあえず基本的な考えを見直していくと、その基本的な考え方が違う。彼は実務の中でこう指導されたという。「見本と同じようにやれば良い」と。いわゆるひな形と言われる成果品を座右に置き、ここしばらく睨めっこをしてきたに違いない。同じような流れになっていれば「間違いは無いだろう」、上司もそう教えた。それを後押しするように、その内容の研修会資料があるし、何といっても計算システムの入力画面に数字を入れると、自動的に差し引きされた答えが現れ、それはひな形通りだ。ところがひな形もシステムの答えも違う。なぜか、そう疑問を持つ経験がないと自分がしようとしている真の答えは出ないのである。簡単な足し算掛け算なのに、その意味を理解していなければ正しくない。間違いに気づいたわたしでさえ、数年前に作成した計画書を紐解くと、システムで表した数字のまま計算を進めていた。それを見本にして同僚が作成した計算は大丈夫だっただろうか、そんな危惧も…(気になって確認してみたら、やはり間違えている)。若い彼にその計算に関して「研修を受けただろう」と問うと、「受けたことがない」という。我が社にとってはもっとも当たり前に使う汎用性のある計算。にも関わらずその意味を教わっていないという。かつて同僚(同い年)が作成した同じシステムを利用した成果品を目の当たりにした時「考え方が違う」そう思ったことがあった。若い彼や世代に限らず、どうもすでに会社では上司と言われるような世代ですらその意味を理解していない者がいる、そう思わせたあの時が再びよみがえった次第。おそらくこの40年来のPCへのシステム化が無理解を招いてきたに違いない。そう言えるのは、システム化の初期作品を作ったのがわたしだからだ。けして使い方が優先ではない、経験値はいまだに有効なのだと教えられた事案である。

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お花見

2017-04-20 23:28:01 | つぶやき

伊那市春日城址公園

 

 なかなか桜の花など鑑賞している間もないほど4月の流れは早く、大型連休もすぐそこにやってきている。いつも通り始まっていたここ数年の4月とは明らかに違う。他人のした仕事を実感するのも、異動を伴った新年を迎えたとき。ようは「これで良いのか」という独り言を何度も心の中で発する。何かが違うんじゃないか、そう思いを日々繰り返しながら4月は終わっていく。そんなボヤキをしながらも、いつになく遅い桜が満開に。高遠は今が満開のよう。今年は訪れることはできないが、会社内で「お花見」の話題が日々繰り返されていて、ようやく有志でのお花見となった。現場に行っていた集団から「お花見にいいけど…」と電話が先輩のところに入ったのは昨日のこと。急遽お花見の宴に、と企てようとしたものの、急に言われてもという人たちもいて話は延期。そんな昨日は午後時を刻むほどに風が強くなり、陽気も寒くなった。「こんな日にしなくて良かった」とは現場に出ていた集団が帰ってきてからの会話。

 ということで今日、お花見となった。伊那市街地の段丘上にある春日城址公園。昨日同様に午後になると雲が広がって、気温はそれほど上がらなかった上に、夕方には少し雨が…。桜の樹の下でシートを敷いてお花見という予定だったので少し心配されたが、あたりが暗くなるころには雨もあがって、風もそれほどなくお花見日和にはなった。とはいうものの、やはり外気の中でのお花見は時間を追うごとに寒さが身体を包み、「これが夜桜見物というもの」といういつも通りの体感をしながら腰を下ろしたまま3時間も樹の下で過ごした。撮るつもりもなかったのに、それでもと思って写真を撮ったものの、思うようには撮れず試行錯誤。長年ふだん持ち歩いているカメラでさえ、使い方が???。これが年老いた証かも…。

 

 ちなみに4月20日現在「散り始め」である。

 

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衰退を思わせるとき…

2017-04-19 23:31:04 | つぶやき

 この4月14日発行の『日本の石仏』(日本石仏協会)が送られてきた。第161号を数えるが、冒頭の巻頭随想において会長の坂口和子氏が「四一年目の始まりに寄せて」を寄稿している。その中で41年目に入り、これまでの活動を少し縮小するという。何といっても季刊であった『日本の石仏』を年に3回へ変更することだろうか。わたしも含めて多くの会員は購読会員に近いと思う。したがって機関紙の発行が減るということは、そのまま活動縮小という印象を受ける。今号の目次を見ても、講演録に加えて2編の論文や調査報告のみ。ここから投稿論文の減少がそうさせたのか、と思わせたのだが、随想には「会費収入だけでは現在の季刊誌を年4回刊行することは難しく」と、予算上の都合というのが表向きのよう。本会ではずいぶん昔から賛助金を募って会運営を補っていた。もちろん賛助金をしたことのないわたしが言う必要もないことだが、同好の人々の集まりであるならば、予算は会費収入によってなすべきもの。寄付を募ってずっと運営してきたあたりに無理があったのでは、と少し思ってしまう。

 福澤昭司氏はブログで「原稿が足りない」と嘆いておられる。長野県民俗の会と信濃史学会、その両方の編集をされているなかで、どちらかといえば前者を優先させて編集を組み、後者は会員にこだわらず、若手中心に依頼原稿で組んでおられる。40号という記念号を発行する長野県民俗の会の方に、今年はより重きを置かざるを得ないなか、後者の民俗特集号への原稿依頼が思うようにいっていない様子。そもそも発効日が前者が早く、後者が遅いというタイミングも、後者に悩みがつきまとう結果となってしまう。会員減少という流れはいたるところのこうした研究会につきもので、仕方ないことではあるが、とりわけ初期の『日本の石仏』にくらべて、今のそれの文字数はあまりにも少なくなった。前述したようにほぼ購読会員であるわたしにとって、この後高齢者の仲間になったとき、真っ先に整理せざるを得ない会になることは確かかもしれない。そうした流れを紡いできた『日本の石仏』のように思う。

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賽の川原

2017-04-18 23:17:22 | 民俗学

冥途への道

 

線彫りの仏様

 

石尊大権現拝殿裏中央に建つ不動明王。大山阿夫利神社は、もとは天平勝宝4年(752)に良弁により神宮寺として雨降山大山寺として建立され、本尊として不動明王を祀ったという。

 

大日堂東にあつ十三仏。十三仏の石仏は珍しい。

 

 「石尊信仰の今を訪ねて・前編」で触れた石尊大権現の拝殿は、東御市祢津の長命寺裏山にあった。隣に江戸時代初期の延宝7年(1679)ころに建てられたといわれる大日堂がある。昔は布引観音の祭りとともにこの地域ではよく知られた、通称「祢津の柿祭」が旧暦の9月28日に開かれたという。なぜ長命寺境内に石尊講の人々の建物が建てられたかは定かではないが、現在もこの建物に関しては石尊講、現在では祢津東町の人々によって管理されている。長命寺裏山の空間は独特な空間で、段丘崖のような空間に雑然と向きを異にした建物や石造物が点々と建てられている。整然とした配置ではないのである。例えば大日堂の東側に建つ石造物も南を向いているものもあれば西を向いているものがあったりと向きは様々なのである。裏山にはさまざまな石造物が点々とあるが、それらの向きは向きを変える段丘崖に沿ったものもあれば、段丘崖面に反したものもあって、建立者がそれぞれの思いのままに建てたというような印象を与える。大日堂の近くは県宝の歌舞伎舞台を有す祢津日吉神社もあって、ここでは現在でも歌舞伎が上演されていることで知られている。

 長命寺と大日堂や石尊大権現の拝殿のある空間の間には小さな尾根があるが、その尾根の麓、長命寺の脇を小さな川が流れている。現在はコンクリート現場打の三面張水路に整備されていて、家庭雑俳水が入り込むのか流れている些少な水は白濁していて少し汚さを抱かせるが、長命寺の裏山に至るこの川の際に「賽の川原」の看板が建つ。それによるとここを賽の川原と呼んでいて冥途へと続く道を模しているという。看板の脇に大きな石が横たわっていて、看板に「石仏を彫りつけてある」とあってその存在を知る。大石をよーく見てみると確かに仏と思われる像が、まさに「彫りつけて」あるという感じ。線彫りのその仏様は、この看板がなかったら気がつかない。「かつては葬式の行列は必ずその「じゃんぼんみち」と呼ばれる道を通って墓地へ行った」と看板にはある。この線彫りの仏様がから奥の段丘崖に墓地が点在している。この世とあの世の境界線にこの石仏が建っているよう。そして脇にある川はまさに賽の川原を示していたのかもしれないし、その川に沿ってある小道は冥途への道だったのだろう。

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「高遠の桜とくらべて」

2017-04-17 23:37:20 | ひとから学ぶ

坂戸橋の桜

 

伊那森神社の桜(背後は宝剣岳)

 

 知人に上伊那での桜の名所を紹介してほしいと言われて、近年飯田下伊那ばかり注意深く探っていたため、すぐに思い浮かぶ場所がなかった。もちろん高遠の桜は当たり前として、それ以外の桜が浮かばない。近年高遠の対岸にある勝間の枝垂れ桜にもたくさん人が訪れるようになったが、飯田下伊那のような一本桜がパッと浮かばない。それだけ飯田下伊那における一本桜のイメージが強いということなんだろう。調べてみると上伊那にも一本桜として見栄えのする桜はなくはないが、樹齢から捉えると、やはり飯田下伊那の一本桜には古いものが多い。

 以前仕事で訪れて気になっていた桜のひとつが新山の今泉薬師堂にある桜。樹齢としては上伊那に現存するものでは古い方のもの。ところが幹の中央に穴が空いてしまっていて、痛みが激しい。今日届け物をして新山を訪れた際に聞いた話では、だいぶ痛んでいて今は綺麗な花を咲かせないよう。もちろんまだ花期には早く、つぼみも固いといった感じ。日当たりの良いところにある桜はだいぶ咲き始めていて、高遠の話を交えて桜の話をしたところ、「あの桜の木は高遠の桜と同じころ満開になる」と指された桜の木は、まだ五分咲きにも早いくらいだった。そこそこの樹齢を数えているのだろうが、一本桜としてはまだまだこれからという感じの桜。とはいえ、こうして高遠の桜の花期の指標にもなる桜があるというのに親しみを覚える。この地域には同じように「高遠の桜とくらべて」語られる桜の木が何本もあるに違いない。

 以前に比べると華やかさは影をひそめたものの、花見の客が多い坂戸橋の桜、また、まったく人の目には留まりもしない駒ケ根市東伊那伊那森神社の桜を参考までに。後者は電線がなければ良いのだが、この日はだいぶ曇りかけていたものの、木曽山脈の残雪を背景に桜を撮ろうとしている人があちこちに見られた。

参考に“上伊那の桜”

 

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自治会のその後

2017-04-16 23:47:06 | ひとから学ぶ

 自治会の役員会があった。年度始めの総会を前に、役員会に総会の議題とその内容を説明し承認を得るというものなんだろうが、この役員会がいるのかどうかはさておき、自治会費に対する制度改正に向けた提案があった。「自治会費」についてはこれまでにも何度となく触れてきたので、いまさら過去を紐解くこともないが、ようやくこうした提案がされたことに安堵する。いつかはこうした動きが出てしかるべきと思っていたし、きっと今度の役員の方たちは、と少し期待もしていた。もちろん役員会に出席している自分も役員の一人ではあるが、ただの組長の一人。意見はすることはできても、わたしが行動を起こすにはたった1年の任期ではどうにもならない。主だった方たちが腰を上げてくれるのを期待していたわけだ。

 というものの、今年それを検討していくということになったとして、なかなか難しいことが多いだろう。妻の実家は父母が年老いて暮らしていたが、後継ぎが同居していなかったから、ふつうなら高齢者世帯としてつきあいは難しくなる。ところが義弟は村外ではあったが、車で15分ほどのところに住んでいたから、つきあいは義弟が行った。もちろん組長も担ったし、冠婚葬祭もふつう暮らしている人たちと同じようにつき合った。それどころか、地域に暮らしていないのに公民館長までこなした。地域がその世帯をどう捉えるか、にもよるが、もちろん本人がどうつき合うかにもよる。最近は同じ地域にあって、居を別にしている家族も少なくない。ふつうは一つの世帯として扱われ、例えば隣組にあっても、自治会にあっても、勘定する際には1戸として数えられる。これが正しいかどうかというところも、前例の同居しないケースと絡めると厄介な意見が発生して当然だ。同居していない子どもが近在にいるのなら、自治会のつき合いをするケースもあるだろうし、逆にすぐ近くにいても高齢者世帯だからと免除を願うケースだってあろう。したがってその家の判断が難しい。提案にも「高齢者世帯の自治会からの脱退が目に付くように…」という具合に、主旨はそうした世帯をただ「抜けたからつき合わない」では良くないだろう、という切実な問題からくるもの。よりよい、そして不公平のない制度を築くのは容易ではないはず。そもそも一律に自治会費と一緒に徴収している公民館費に至っては、自治会とは別組織だからといって黙視するわけにはいかないはず。

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〝桜〟2017

2017-04-15 23:47:49 | 信州・信濃・長野県

 

 豊丘村神稲百体庚申の〝桜〟

 

 昨年までこの季節には〝〟、とりわけ一本桜を盛んに取り上げた。ところが仕事上異動があって、今年は伊那通いとなって、〝桜〟を取り上げるところまで至っていない。加えて今年の花期は、ここ数年とだいぶ様子が違う。といっても昔は〝桜〟の咲くころは今時分だったのだろうが…。生家の近くにあった千人塚では、かつては5月の連休に桜祭りが実施されていた。ところが花期が早まって近ごろは4月中に花が咲いてしまう。例えば「雪積もる」を記した2010年にはちょうど今ごろ千人塚では桜が咲いていた。飯田の丘の上でも3月末には咲いていた〝桜〟。そんな桜が今散りごろを迎えている。天竜川端の桜は散り始めといったところ。

 以前にも触れた通り、伊那谷に限らず長野県内では単純に桜が北上するというわけではない。標高差が著しいから、標高に沿って桜は咲き始める。そんなことを考えていると、とりわけ空間が狭い上に、適度な空間を視界に入れられる伊那谷の桜は、長い期間に渡って桜が咲いている光景を目にすることができる。昨年までの飯田通いなら、すでに桜の花を十二分に堪能していたのだろうが、今年のように伊那通いだと〝桜〟の季節感がいまだ到達していない。これが伊那谷の特徴的な〝桜〟模様なのだろう。したがって、例えば飯田あたりから伊那へ通勤している人たちは思っているだろうが、それは〝桜〟の開花イメージだ。上伊那と下伊那ではその季節にずいぶん開きがある。ところが、それは同じ下伊那エリアに暮らしていても感じること。例えば昨年までに触れた一本桜の花期によってそれは解る。近年の傾向の中でも、例えば飯田の街より南に位置する杵原学校の桜は4月15日ころ満開だった。また、阿智村浪合の御所桜や売木村観音堂の桜は4月25日ころ満開だった。ようは南へ下るほど桜の開花が遅いという現象。もちろんこれは標高が関わっている。そして北上するごとに開花するのも事実で、中川村西丸尾の桜や、飯島町西岸寺の桜は4月中ごろ、伊那市六道堤の桜は下旬に入りかけたころだった。

 例えば松本平のように空間が広いと標高差を視覚で認識するには広すぎて、ほぼ同じ標高にある〝桜〟は一斉に咲くのだろう。いっぽう中山間のように視野に入る空間が狭いと、やはり〝桜〟の開花に時間差を抱きにくい。ところが伊那谷という東西1キロ以上の空間が5キロから10キロほどの広葉樹林帯が見渡せる谷では、同じ緯度にあっても桜の開花に差異が生じる。そこへ南北の緯度差を与えると、一層〝桜〟は乱舞するがごとく花期に微妙な差異を見せる。とりわけ伊那谷の空間認識はこれまでにも度々触れてきたように、移動行動を南北にとることが多いことから、山を意識しがちだ。したがってこの空間に暮らす人々は当たり前のように、花期を含めた季節感を体感しているが、実は伊那谷特有の感覚だと、わたしは思っている。

 今年は異動があってなかなか〝桜〟どころではないのだが、そんななかの〝桜〟を、豊丘村神稲の百体庚申に見た。一本桜のメッカである飯田下伊那にあって、特だん知られた桜ではないが、この桜も印象に残る〝桜〟の1本とわたしは思っている。

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石尊信仰の今を訪ねて・後編

2017-04-14 23:39:28 | 民俗学

石尊信仰の今を訪ねて・中編より

鍛冶町御神体の木太刀と掛軸

 

鍛冶町 幟

 

押出(オッタシ)川と道祖神

 

 旧東部町金井から北西へ直線でちょうど10キロの位置に上田市鍛冶町がある。8日午後はこの鍛冶町会館にふだんは納められているという石尊講の木太刀の御神体を拝見した。細井雄次郎氏の資料によると、鍛冶町の人々によって結成されている石尊講は、平成14年当時55名加わっていたという。この講は、昔は職人の集まりだったというが、そもそも鍛冶町には職人が多く、職人町とも言われていたという。昭和40年ころからは町の親睦団体へと変じていった。代参は現在も行われており、5月ころ行われる。宿坊は真理谷源長坊と決まっていたというが、源長坊が宿坊を辞めてからは観光地などの温泉街に宿をとるようになったという。

 現在講元を務められている小宮山さんという方に現在の講の様子をうかがった。昭和40年代の終わりに火事で記録を消失してしまったという。現在は講員も減少してしまっている。大山阿夫利神社への参拝は、今年は5月14、15日に予定しているという。その参拝のための積立を毎月行っているが、その積立に加わっているのは現在10名ほどになってしまった。今は講員へ誘うと「宗教上の都合で…」と断られることが多いという。小宮山さんによると、親が参加していたころに「お前も行ってこい」と言われて昭和40年ころ代参に参加されたこともあったという。当時は高速道路もなかったので、国道18号を走って行って、途中で昼をとると夕方大山阿夫利神社に着いて参拝し、源長坊で懇親会となった。そして翌日は東京の近郊で観光して帰ってきたらしい。今はあくまでも楽しみとして参加されていて、御夫妻で参加されている。源長坊に紹介された旅館に昼前に着くと、足の弱い方は旅館で休み、そうでない人は大山さんに参拝してくる。そして旅館で名物の豆腐料理をいただくと、そこから夕方までに着くところに旅館をとって観光をしてくるという。大山講そのものは鍛冶町の親睦を図るのが目的。旅行から帰ってきて1週間後に御札を依頼された方たちに下講祝いといって公会堂で懇親会をする。その際には御神体を出しておまつりする。

 これとは別に大山講の夏祭りがかつては8月1日に行われた。現在は8月の第1日曜日をあてている。御神体である木太刀を千曲川まで講元と世話人が持っていき、酒と水で清め、公会堂に戻ると掛け軸をかけておまつりをする。昨年から千曲川までは行かず、鍛冶町の東縁を流れている押出川(地元ではオッタシ川と言う)に行って御神体を洗うようになった。上流に浄水場があってその余り水を流すようになって、川はだいぶ綺麗になったという。今では町の中なのにホタルが舞うほどとも。ということで、川端にある道祖神の脇に川へ降りる階段があって、そこから下って清めている。おそらくオッタシ川の水を使って鍛冶屋をしていたのではないかと言うし、かつては染物屋もあったらしく、その際にもオッタシ川の水が利用されていたようだ。夏祭りの際には幟を会館前に出し、掛け軸を3階の広間に掛ける。講員ではない方たちにも声をかけるが、集まっても30人ほどだという。鍛冶町と名乗るようになったのは鍛冶屋さんがいたからだというが、今は町内に鍛冶屋はない。鍛冶屋さんには水が必要で、その水を求める意味で雨乞いの神様を祀ったのではないかと小宮山さんは言う。

 木太刀には墨で文字が書かれていたようだが、夏祭りで清めるため消えてしまっている。

 

 

続く

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