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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

これも「残念なこと」

2024-07-17 23:45:13 | ひとから学ぶ

 ある市でのこと。ここにも何度がここに至る経過のようなものを記したから、思うところがあるのだが、友人が代表を務める委員会の事務局(市のある部局)と長らく調整していた件が、結局友人の申し入れは全く聞き入れられず、上からの指示で思わぬ方向へ進むことになったと、友人から知らされた。わたしも何度となくその事務局に依頼されて会議に参加したこともあって、さらには友人と対策を練っただけに、「あの時間は何だったんだ」と思うばかり。もともとその部局は市長の意向もあって立ち上げられたもので、現在、県内でも他では表立った動きがない事業だけに、その業界では注目されていた。しかしながらその実態はまったく残念なもので、友人は上から見事なほどにその立場を虚仮にされて、わたし以上に残念な想いを募らせているに違いない。

 そもそもここでいう「上」とは、友人と同じ委嘱された身であり、委員長に選ばれただけの立場なのに「権限は自分にある」と、友人の願いをことごとく破棄した上に、会議の場で虚仮下ろすような言葉を友人に吐いたともいう。その「上」に限らず、わたしがかかわった何度かの会議で「この人たちはいったい…」と思うような言葉をいくつも耳にした。例えばここでいう「上」の人は、「立場をわきまえろ」と、会議の席でわたしに吐いた。会議の中には事務局と委嘱された委員、そして今になって察すると助言者にあたるわたし(友人から推薦で事務局から依頼されていて、その会議の中では同じ立場だと認識していた)だった。「上」は委員と助言者は同等ではないのだから「口を出すな」というような意図があったのだろう。それまでかかわっていた会議の中では同じ立場(もちろん委員とそうでないわたしは、委嘱上の違いがあることは認識していたが)だと思っていたら、たまたま会議に同席した「上」に「お前は違う」と明確に言われたと、その時に察知したわけである。もちろん納得できなかったので意見をしたところ、口を濁すようにごまかされたが、以後その会議において同じ立場ではないという捉え方がされて、事務局もわたしには意見を聞かなくなることに…。

 これは「上」からの言葉であったが、同じ会議でそれまでにも意外な言葉はいくつも耳にした。「地元に残った人たちは勉強が苦手だったから」と口にされた方は、地域で聞き取りをしても「これ以上何を聞くの?地元の人たちが語った内容はわたしでも知っていること」と口にした。また「聞き取りをしたが良い話者ではなかった。何も得るものがなかった」と口にされた方も…。そんな言葉にわたしは憤慨し、「それでも機会を得た話者から何を聞き出すか努力しなければいけない」と言ったが、そもそも聞き取りは「必要なのか?」という意識が彼らには漂っていた。「上」も含めて、いずれも教員OBである。民俗の世界では、このような経験がほぼ皆無だっただけに、「この人たちはいったい何者なのか」と思ったわけだが、考えてみればどんな学歴でも等しく見てくれるのは「民俗学」の世界だけなのかもしれない。先ごろ自費出版した際にも、わたしが「高卒だから」ということを「あとがき」に記したところ、大学の先生から次のような言葉をいただいた。

「あとがき」で御自身の立場を述べられておられますが、戦前に松本で行なわれた「話をきく会」の主催者三人は、全員研究・教育・文化財等を職業とした者ではありません。池上喜作は中卒で商人、弟の隆祐は大卒ですが代議士、胡桃沢勘内は小学校を出ただけの銀行員でした。ただただ民俗学が好きなだけだったのです。一般の方たちが加われるのが、この学問の価値であり、柳田もそれを願っていたと思います。

 残念ながら田舎では知識の高いのは教員、という認識が本人たちにいまもってあることを知った。そしてそのような人たちがある市の予算を使って残念なものを作ろうとしていることを、市長は知らないだろう。そもそも友人が市長に直接話そうとしたらお咎めをもらった。今、この市はだめかもしれない。

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道祖神と同居する五輪塔残欠

2024-07-16 23:17:49 | 民俗学

鬼無里下新倉の双体道祖神と五輪塔残欠

 

鬼無里財又の道祖神文字碑と五輪塔残欠

 

信州新町左右礼の双体道祖神と五輪塔残欠

 

 昨日の“民俗地図「道祖神の獅子舞」修正版”には記号の凡例は付けたが、そもそもの地質図の凡例がない。したがって「何のことかわからない」、ということになるかもしれないが、地質図の凡例を全て明示するのは大変だ。わたしのイメージでは、特徴的な岩石を産出する地質のみ表示すれば良いのだが、それが叶わなかった。簡単ではないのである。自分でその地質だけポリゴン化すれば良いのだろうが、それもけっこう時間を要す。そもそもある程度質の知識がないとわからない。ということで、全ての地質を示した既成図を利用するに至ったわけだが、図はこのままとしても、意図する凡例だけは分かるようにしなければせっかくの地図が意味不明なものになってしまう。試行錯誤しながら修正する予定である。

 さて、このところ繰り返して触れている五輪塔残欠。これまで道祖神の形態に関する記述でこのことについて触れられてきたのかどうか、倉石忠彦氏は『道祖神伝承論・碑石形態論』で若干触れているが、特別視しているわけではない。今後文献を探していきたいが、とりわけ五輪塔がやたら目立つ神奈川県に注目するところだ。そうしたなか、この五輪塔について触れている『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会編 平成元年)での扱いを引用してみる。道祖神の項は小川直之氏によって記述されているが、「石塔のない道祖神」に次のように書かれている。

石塔のない道祖神祭場にほぼ共通しているのは、五輪塔片あるいは石臼が置かれていることである。五輪塔片や石臼は道祖神石塔のある他の祭場にもしばしば見ることができ、偶然に置かれているのではなく、何らかの意味をもつといえる。大根地区では道祖神祭場の五輪塔片空風輪部を男石(オイシ)、火輪部を女石(メイシ)といい、セイトバライ前になると道祖神組の子どもたちが他の組の祭場から集めまわったといわれている。男石、女石という言い方は、双体像の男女の区別と同じ発想と考えられる。

こう記した上で、「道祖神祭場は一種の神送りの場、他界との境界でもあるわけで、五輪塔片が集められているのはこうした場に納め、災いを防ごうということである」と述べている。とはいえ、神奈川県内の道祖神には夥しく五輪塔が同居している。道祖神が1基でも五輪塔はたくさん、というように。そしてこの光景が長野県の長野市西山に多く見られるのはどういったことなのか、神奈川県ほどではないにしても、同じように道祖神と五輪塔が同居している光景を頻繁に見る。遠く離れた両者との関係や、両者を繋げるように他の地域にそうした光景が見られるのかどうか、この辺りを調べていく必要があるのだろう。

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民俗地図「道祖神の獅子舞」修正版

2024-07-15 23:20:38 | 民俗学

 

 先日“「かぶっつら石」とは”において、「かぶっつら石」について触れ、そこで「正月の獅子舞分布と限界線を載せてみた。糸魚川静岡線のラインを記入すればより分かりやすいのだろうが、いわゆるフォッサマグナエリアに特徴的に表れていることがわかる。」と指摘した。あらためてその地図を工夫してみた。もちろん先日も記したように、地図に中央構造線と糸魚川静岡構造線を追加した。そして地質図Naviのさまざまなデータを試作してみたが、最も利用価値のあるのは5万分の1地質図からシェープデータをダウンロードして利用すると、岩石名で表示でき、実際の自然石の石質の石が近在に無いか確認できる。ところがデータが多いのと、全ての地域のデータがオープンになっていないため、完全なものができない。したがってほかの地質図のどの地図が最もわかりやすいか、と思案したところ、20万分の1日本シームレス地質図にいきついた。そのデータを利用して作成した地図がここに示したものである。ここでは前回の図を少し修正している。ひとつは長野県民俗の会第239回例会において「民俗地図研究」の発表をした際に、長野市戸隠においても道祖神の獅子舞が行われているという情報を得たため、図に戸隠追通(おっかよう)の事例を追加した。もうひとつは、山梨県と神奈川県での実施例を追加した。したがって合計5地点の事例を追加している。獅子舞限界線については、戸隠の1事例だけで線を修正するのはどうかとも思い、戸隠の事例は限界線の外側のままにした。今後の課題である。神奈川県の事例は、いずれも秦野市の事例であるが、ほかの地域でも実施例が具体的に判明すれば追加していく予定だ。そもそも神奈川県下では「あくまっぱらい」と称して獅子舞ではなく仮面をつけて家々を回ったという事例もあったというし、獅子舞は広範囲で行われたという情報もある。

 さて、昨日同じ神奈川県の松田町の道祖神と五輪塔残欠の関係について触れた。実は獅子舞をしているという秦野市内にも五輪塔のかかわる道祖神は多い。今回事例を追加したのは、秦野市役所のホームページに公開されている「秦野の小正月」の中にある「あくまっぱらい」3例であった。そのうち菖蒲地区では道祖神に集合して「あくまっぱらい」が始まるという。その道祖神をグーグルストリートビューで確認すると、双体像の周囲に五輪塔残欠がたくさん並べられている。ほかの石造物がないことから、道祖神と五輪塔に強い関係性を抱く。このことについては、今後も神奈川県の道祖神に関する情報を集めてみたいと思っている。

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五輪塔残欠と道祖神

2024-07-14 23:47:28 | 地域から学ぶ

 「旧丸子町西内の自然石道祖神④」において旧丸子町西内平井公民館の庭にあった石碑群について触れた。その中に道祖神とはほんの少し離れていたが、お地蔵さんの前に五輪塔の残欠のようなものがいくさも並べられていたことについて記した。五輪塔の残欠といえば、上水内郡内で集中的に五輪塔残欠を道祖神と称している例があること、そして本日記でも何度となく道祖神と五輪塔残欠が同居している写真を紹介してきた(例えば「道祖神と五輪塔」「虫倉山の麓へ繭玉型道祖神を訪ねて 後編 その1」など)。東信エリアである西内や東内で同様の光景を見て、五輪塔残欠が道祖神と同居する事例の広がりを知った。しかし、自然石道祖神が多数現存する伊那市周辺地域で五輪塔残欠を見た覚えはない。そもそも五輪塔というものそのものが、それほど多くはないとともに、よそで五輪塔残欠と言っているような小さな五輪塔は、伊那谷は少ない。道祖神空間に五輪塔残欠が見られる地域には、それほど五輪塔が多く存在するのか、と最初見た時には思ったわけであるが、わたしとしては五輪塔が道端にころがっているという光景が当たり前でないため、違和感を抱いたわけである。

 実は同じような光景、いわゆる道祖神と五輪塔が同居している、あるいは道祖神と呼ばれているのではないか、と思われる地域が神奈川県で見られる。それに気がついたのは、今回あらためて書棚に入れたままになっていた『相模の石仏』(松村雄介 木耳社 昭和56年)を開いて写真を見ていてのこと。双体道祖神と五輪塔が並んでいる写真がいくつか見られたためだ。気がつくとともに同じ書棚にあった『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会 平成元年)を開いて見ると、悉皆的に写真が掲載されていて、自然石はほとんど見られなかったが、そもそもそれしか道祖神の対象となっていない事例がいくつか掲載されていた。それらには五輪塔残欠が道祖神とされている例があり、上水内と同じ例があることを知った。そこでウェブ上で検索してみたわけだが、やはり神奈川県の道祖神は五輪塔との関係性が高いことを知った。下記に松田町の例を取り上げてみた(クリックするとグーグルストリートビューで確認できる)。とりあえず松田町の例だけだが、おそらく神奈川県内にはよく見られる光景なのかもしれない。

 なお、松田町のこれら情報は「神奈川県内の道祖神と寺社の散策散歩」からのもので、そのうちの「松田町」を今回検索してみた。

中沢道祖神(松田惣領1932付近)

沢尻道祖神/石仏群(松田惣領1526付近)

寄弥勒寺道祖神(寄弥勒寺2189付近)

寄田代道祖神(寄田代5326付近)

神山北村氏道祖神(個人所有)


 また、松田町の道祖神を検索してみると、まさに自然石を道祖神と称している例も掲載されていた。下記の例である。

稲郷道祖神(寄稲郷4337付近)

寄中山道祖神(寄中山3252付近)

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芝宮神社祇園 前編

2024-07-13 23:26:50 | 民俗学

 京都の祇園山鉾巡行も間もなくである。このあたりの地方での祇園といえば津島神社にまつわるものが多い。宮田村の祇園祭が行われるのも津島神社である。伊那谷では阿南町深見の祇園が知られるが、それもまた津島社の祭りである(諏訪神社境内社)。夏の流行り病が発生するころ、それを鎮めるために行われたものだが、今は夏祭り的に捉えられている。

飯島町七久保芝宮神社祇園祭宵祭り「祇園囃子」

 

 飯島町七久保の芝宮神社においても祇園祭が行われた。飯田下伊那に限らず、上伊那南部でも囃子屋台を祭典に引くところが多い。それらは祇園囃子の影響と思われるが、いっぽう高遠囃子の影響も考えられ、祭典で行われているものは、祇園とは関係ないものもあるのだろうが、囃子屋台については意識的に捉えてこなかったため、未見のものも多く、はっきりしたことは言えない。とりわけ囃子屋台だけ演じられているものもあれば、獅子舞とセットのように演じられているものもあって、後者のものは獅子舞の陰に隠れてしまっている印象が強い。なお、このあたりの囃子屋台とは、いわゆる山車風のものではなく、小型の屋台であり、とりわけ飯田下伊那に多い屋台獅子(練り獅子と最近は言われる)の胴にあたる部分に利用する屋台と規模的には同じくらいのものである。

 囃子は祇園祭のみで行われるもので、かつては屋台が引かれたというが、現在は屋台を引かない。いつ頃から引かなくなったと聞くと、ずいぶん前からだという。1995年に長野県教育委員会が発行した『長野県の民俗芸能 : 長野県民俗芸能緊急調査報告書』における悉皆調査の中には、囃子屋台は項目としてはあげられていない。ようは「芝宮神社獅子舞」の中に「別に囃子屋台が出」と付記されているにとどまる。こうした例は同報告書の中に夥しくあり、民俗芸能の捉え方が不統一な問題がここにある。「殿野入春日神社獅子舞」もそうであったが、獅子舞と囃子屋台(この場合囃子屋台とはいえ山車の屋台である)、そして「とりさし」、と複数の芸能が一緒に演じられていると、代表的、あるいは捉える側が主たるもの、と捉えた芸能の配下にほかの芸能が隠されてしまうケースは多い。したがって捉える側が複数のものとして取り上げれば、別の芸能としてあげることもあり得るわけである。

 さて、囃子屋台に先立って演じられる獅子舞のことは後で触れるとして、囃子屋台の様子は写真のとおりである。獅子舞の曲も含めて17曲あるという囃子の曲は以下のとおりである。

練り
数え歌
大摩
御岳山
程ヶ谷
狐券
道中囃
馬鹿囃
数え唄
俊道囃
野毛山
新囃
菊水
揚屋
篭丸
宮返し
浮舟

これらは、保存会の持っている資料に記載されている文字で示しており、漢字はあくまでもその資料による。このうち練り、大摩、数え歌は獅子舞の曲という。囃子屋台には花踊りが付属しており、現在は屋台はないが、踊りは小学生の女の子たちによって演じられており、今年は14名が踊った。相対して7名ずつ、男女で対となっていたが、本来は女の子が担ったという。この日は氏子集落内を回って上演するが、御嶽山と程ヶ谷、そして狐券の3曲を各所2曲ずつ演じて回った。獅子舞のさいの獅子招きも女の子が担ったと言われ、男の子は屋台を引くのがかつては役割だったという。

後編へ

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田んぼの脇の大日如来

2024-07-12 23:52:58 | 地域から学ぶ

5月26日撮影

 

 旧武石村上武石の市野瀬の路傍、道ではなく田んぼ側を向いて建っている仏像があった。なんの変哲もない路傍の、それも田んぼに向かって建つ、それも仏像である。よく見てみると智拳印を結んだ大日如来である。なぜ大日如来がここに、という印象であった。ちょうど田植えを終え、水の管理に来られていたお婆さんに謂れを聞いたのだが、「昔からここに」と言われるだけで、その背景は分からなかった。

 大日如来といえば、地域によっては牛の供養で祀るところがあり、その関係なのかとも思うが、大日如来の立派な像の例は珍しく、あくまでも想像の域である。先日来参考にしている『武石村誌 民俗』にも像のことはもちろん、牛供養に関する記述も無い。

 ところで、武石では修験の影響を強く抱く。例えば小寺尾の一心祭である。この祭典行事は上田市の無形文化財に指定されている。一心は小寺尾に生まれた御嶽行者で、この一心行者を偲ふ祭が一心祭である。一心講の信者は関東方面に多く、その数は20万人にも及ぶと、小寺尾にある公民館前の説明板にある。祭りでは上、下小寺尾地区が中心となって行者の火渡りや、剣梯子の刃渡りを見せる。一名を一心霊神祭ともいう。祭りには関東各地から御嶽行者十数名が集まり、民家から集めた薪を井の字形十段に積み、講社長の行孝が火をつけた薪の上で祈靖を行うという。行者による火渡りが済むと一般の人たちも渡るというもので、地域で支えられてきた行事のよう。したがってこの地域が修験者とのかかわりが強い地域と捉える。故にそうした背景が、自然石道祖神に影響しているようにも思え、この大日如来もそうした背景と関わっているのではないかと想像する。

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ストリートビュー

2024-07-11 23:43:03 | つぶやき

 グーグールマップを利用させてもらっているから、そのものに異論はない。とりわけストリートビューにはいろいろな情報をもらえる。特に知らない土地に行って、どこに何があるかをイメージするには、価値あるツールだ。例えばまったく未知であっても、遠いところから印象を得ることができる。事前にイメージを作り上げるにも良いツールだ。最初にこのツールを目にした時には、「ここまで映るのか」と思ったもの。個人情報にうるさい時代なのに、ずいぶんオープンな情報だと思った。

 とりわけよく利用するのは、路側にあるものを探す、あるいは確認する時だ。例えば最近記した武石村の自然石道祖神について、グーグルマップへのリンク付けをしている。これらは、当日探しながら回ったが、その場所を地図などに記録していない。その変わり、自宅で回想しながら位置を再確認している。したがってストリートビューで見られる道のものについては、事前に探し出そうとすれば、それも可能なのである。もちろんまだそうした利用の仕方はしていないが、ストリートビューに登録されている道路が多いほど利用価値は高いということになるが、やはり狭い道や、山の中の道には到達できない。

 さて、このストリートビュー、自分の家も見えてしまうので、わが家の草だらけの状態もわかってしまう。ということはこうした家の状況を知られたくない人には迷惑なツールということにもなる。とはいえ、このツールで時おりモザイクではないが霧状態に加工されている場面に遭遇することはある。しかし、ストリートビューが一部区間継続しない事例があって驚いた。ストリートビューに登録されているかどうかは、グーグルマップ上の「人」マークをクリックすることでわかる。遭遇した事例は、グーグルマップ上にはストリートビュー対象道路なのに、進もうとしてもそれ以上進まないのである。どこの区間であるかをここでは示さないが、その事例は、その道沿いにある大きな家がモザイク状態になっていて、屋敷が広いためその家を映さないために進まなくなっているようなのだ。隣接している家もモザイク状態になっていて、その家同士が同じ関係者なのか、あるいはストリートビューへ両者が削除請求をしたかはわからない。いずれにしても家全体がモザイクにされている例はそう多くはなく、そもそも「消すことは可能なのか」と思うが、検索すると方法を説明しているページがある。ただし、そこには「グーグルマップのストリートビューに、個人として知られたくない画像が掲載されていた場合は、Google社へのリクエストによる「ぼかし加工」を申請することになります。しかし、リクエストを送信したからといってGoogle社が必ず応じてくれるとは限りません。」とあり、確実にモザイク化してくれるかの補償は無いようだが、この筋の専門家なら容易なのかもしれない。いずれこういう事例が多くなるのかどうか、もちろん利用させてもらっている側とすれば、周辺の状況からイメージする際に、モザイクは無いにこしたことは無いのだが…。

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上の階へ

2024-07-10 23:28:40 | つぶやき

 わたしの職場にはエレベーターがある。そして自分の会社は3階に執務室がある。ようは必ず3階までは上らなくてはならない。もっと上の階で働いている人は、もちろんそこまで上らなくてはならない。もし、ということもあるが、5階で働いていたら「どうか」と問われても、今は3階にある環境と変わらず同じことをするだろう。それはエレベーターを使うか、使わないかということ。

 若いころはどうだったと問われると、やはりそれほど高い階で働いたことはないが、あまりエレベーターを利用したことはない。今ほど「使わない」という前提はなかっただろうが…。やはり高層階であったら違っていたのかもしれないが、2,3階レベルでは、エレベーターを意識することはなかった。したがって今も、会社でエレベーターを利用することはほぼない。この「ほぼ」というところが怪しいのだが、実は同僚が一緒だと使う方向で選択する。なぜかといえば同僚がそれを選択しようとするからだ。とりわけ若い人たちは、基本的にエレベーターだ。1階上下する程度はともかくとして、2,3階通過するような移動は、基本的にエレベーターが常識化している。エレベーターのある方向に進むか、階段のある方向に進むか、その1歩が違うのである。したがって人に合わせて、エレベーターを選択するようにする。いってみれば忖度しているようにも見えるが、自分ではそれほど強く意識しているわけではない。

 歳を積み重ね、歩くことを意識するようになったが、もともと歩くことがは苦にならない方だった。ふつうに階を上にという際には、エレベーターを探さずに階段を探す。ごく当たり前の昔からの意識である。でも若い人たちと限定することはないが、エレベーターを利用する人も多いことは確か。だから人とは一緒に行動しない、方が気を遣わなくても良い、ということになる。もちろん下る際もそうだが…。

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「かぶっつら石」とは

2024-07-09 23:54:23 | 民俗学

 「かぶっつら石」とはどのような石なのか、小林大二氏の『依田窪の道祖神』に登場するこの石、検索しても独自の名前であってほかの例はほとんど登場しない。唯一といって良いのだろうが、長野市の天然記念物に指定されているものが「かぶっつら石」と呼ばれているらしい。旧中条村の日高にそれはあり、概要説明に「大峰型石英安山岩の強溶結凝灰岩という。古い時代の土尻川の流れや、大峯山の変還を明らかにする。権現山・大峯山(大町市・大町市美麻地区)から流入。」とある。以前にも触れているように、土尻川沿いには自然石の道祖神がある。ただ、それらは繭玉形であったり、五輪塔の残欠であったりと、旧丸子町西内や旧武石村の自然石道祖神とは異なる。しかし、同じ「かぶっつら石」が自然石道祖神地帯に存在していることに、何らかの意味を見いだしたい、というのが本音である。

 先ごろ「依田窪の道祖神の石質について」でも触れたが、小林氏は前掲書の中で「緑色凝灰岩・凝灰角礫岩といい、海底火山の噴出物によってできた岩石である。鹿教湯温泉より武石岳の湯まで分布」と記している。ここに地質図を示したが、鹿教湯から武石岳の一帯にあるのは溶岩及び火砕岩(玄武岩、安山岩及び流紋岩)であり、小林氏のいう凝灰岩系の地質は見られない。旧中条村の「かぶっつら石」は石英安山岩と示されている。確かに鹿教湯から武石岳にかけての地質は旧中条の「かぶっつら石」を産出する地域と似ているのかもしれない。

 

西内、武石周辺地質図

 ここに地質図(詳細図と凡例については地質図Navi参照)と以前触れた正月の獅子舞分布と限界線を載せてみた。糸魚川静岡線のラインを記入すればより分かりやすいのだろうが、いわゆるフォッサマグナエリアに特徴的に表れていることがわかる。もちろんまだデータ不足、かつ根拠付けが乏しいが、地質と石神仏とかかわりがあるのではないかと想像する。

 

道祖神の獅子舞分布

 

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旧武石村余里の自然石道祖神 後編②

2024-07-08 23:39:55 | 民俗学

「旧武石村余里の自然石道祖神 後編①」より

余里自然石道祖神⑩

 ⑨までおよそ200メートルごとにあった道祖神は、少し間をおく。下ること350メートルほどのところ、道路右側路肩に小さな自然石がふたつ祀られている。これもまたこれまでと同じようなゴツゴツした石である。

 


余里自然石道祖神⑪

 ⑩からさらに400メートル下ると、右に鋭角に曲がる道路がある。この道に入って下ったところに「道祖神」が立っている。この道祖神については、グーグルマップで確認するとして、道を戻って再び下ること130メートルほど、これもまた道の右側の路肩であるが、石に囲われた空間にゴツゴツした石がひとつ祀られている。小さな石もあるのでそれも道祖神かどうかは不明である。

 


余里自然石道祖神⑫

 ⑪から下ること400メートル。余里の最も奥だった①からすれば、しだいに道祖神と道祖神の間隔が広がっていくような印象を受けるが、道の左手に台石のようなものがしつらえてあって、その上ではなく後ろに自然石が祀られている。これまでの石は黒っぽかったが、今回は白っぽい石。ゴツゴツしてはいるものの、今までのものよりは小刻みなゴツゴツである。


 ここまでが余里である。12箇所に自然石道祖神が祀られていたことになるが、小林大二氏の『依田窪の道祖神』によれば余里には14箇所の祭祀場所があるとされている。したがってわたしが最上流から下りながら探し当てたもの以外に最低2箇所の祭祀場所があることになる。余里川右岸に家が点在しているところがあり、そうした集落に道祖神が祀られていることは、比較的近くに祀られている道祖神の現状から容易に推定される。この後訪れた際に確認してみたいと思う。いずれにしても余里の自然石道祖神の姿は、ほぼ同じような祭祀状況と捉えられる。石質についてまでそれぞれ確認できないが、再度訪問した際に、「かぶっつら石」についても聞き取ってみたい。

終わり

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旧武石村余里の自然石道祖神 後編①

2024-07-07 23:49:16 | 民俗学

「旧武石村余里の自然石道祖神 中編」より

余里自然石道祖神⑤

 

 前回の余里上組自然石道祖神④から余里川を下ること、100メートル、これもまた近い位置にあたるが、写真の「道祖神」文字碑が道の左手に見えてくる。台石の上に乗った高さ90センチほどの自然石に彫られた「道祖神」。ほかに銘文はない。この文字碑の脇に、二つのそこそこ大きな自然石が並んで祀られている。ひとつはゴツゴツした石で、もうひとつもゴツゴツしている部分もあるが、凝灰岩系の平滑な表面も見せている。

 

余里自然石道祖神⑥

 

 ⑤から下ること200メートル、ここまでよりは少し離れるが、そうはいっても200メートル程度の同じ道端の三叉路にひとつだけ自然石が立っている。自然石のすぐ前に炭の跡があり、ここでどんど焼きをしたことがわかる。したがって道祖神にまちがいない。道端にあるなんでもない石ころにみえることも事実。

 

余里自然石道祖神⑦

 

 ⑥から再び200メートルほど道を下ると、やはり道左手に台石の上に祀られた自然石の道祖神が見える。やはりゴツゴツしている。台石に乗っているから明らかに祀られたものとわかる。

 

余里自然石道祖神⑧

 

 ⑦からさらに200メートルほど下ると、また道の左手、家の前に三つのゴツゴツした自然石が並んで祀られている。加えてその右手に小さな単体像がひとつ。この単体像について小林大二氏の『依田窪の道祖神』では、「小供像」と表現して、同様に道祖神として捉えている。さらに周囲にはそれらより小さな石もごろごろしていて、どれもこれも道祖神に見えてくるが、どこまでが祭祀物なのかは、はっきりしない。

 

余里自然石道祖神⑨

 

 ⑧から下ること、また200メートルほど、今度は道の右手に自然石が小さな台石の上に乗っている。周囲に石が囲うように並べられていて、中央にある自然石が祭祀物の中心なのだろうが、これらも見ているとどれもこれも道祖神と見えても不思議ではない。石の数は無数である。

続く

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畔草のこと

2024-07-06 23:13:14 | ひとから学ぶ

 8月例会において、畔草管理について報告する予定だ。先ごろ発行された「長野県民俗の会通信」302号へ、わたしが先ごろ刊行した本への書評をいただいた板橋春夫先生は、第1部の「写真で見る上伊那の民俗」の中で一番感動したのは、「畦草刈り」についての記事だったという。そして「昭和五十年代に圃場整備された地域の区画は大きい。しかも苗が植えられた後、雑草が生える畦がきれいに草刈りされる。著者はそれを美しいと見る。どの家も周りを気にしながら草刈りに精を出すが、それは見栄ではなく、強制でもなく、きれいにしたい、という気持ちが地域全体にある雰囲気なのである。」とその写真から捉えられた。その上で、「それに対して、評者が住む群馬県伊勢崎市の水田はどうだろうか。お恥ずかしい限りである。散歩に出て、近くの水田地帯を歩く。二十年前から歩いているが、近年は畦に雑草が多くなり気になっていた。なかには耕作放棄の場所もある。近所に住む農家の人に聞くと、二毛作なのだが、稲刈り後に麦を作らない家が出ているという。また、稲は水まわりなど手間が掛かるので、稲作をやめて麦一本化の農家もあるらしい。それで荒れていると説明してくれた。」という。これは致し方ないことで、高齢化した担い手組織がこの後どうなっていくか不透明な中、とりわけわたしのフィールド空間では、そう遠くないうちに耕作できなくなるのでは、という印象が拭えない。何より転作誘導されなくなったのに、水田が減少している。例えば西天竜である。10年ほど前には水田の青々した姿が当たり前だったが、今は転作されている姿が目立つ。もちろん転作なら良いが、何も作られていない水田も目に付くようになった。コメ作りが加速的に減っているのでは、と思うほどこの時期になって水田の姿が少ないのである。

 そして草刈りである。例会におけるわたしの報告は、今ところ次のようなテーマを考えている。

①草刈の現在
②草刈の範囲
③刈った草をどうする
④この後の草刈

というようなもの。以前から日記で記しているように、本ブログにおいて閲覧の多い記事に「草刈をする範囲」がある。そこにも図を示しているが、わが家の場合、草刈をする範囲が、ふつうの人より広い。そうなった経緯もあり、それについても触れる予定だが、地域によって違いもあれば、農家の考え方によっても異なる。そしてその範囲は、あるいは暗黙の了解は変化しつつある。その上でこの後、どう変わっていくのか、といったところまで触れる予定である。

 さて、今日も草を刈った。昨日の石拾いでふだんしない動きをしたせいで「腰が痛い」。それでも我が家では、1週間草刈を何もしないと、あちこち草の丈が伸びて、この先の炎天下での作業負担が嵩む。したがって少しでも草を刈っておかないと、間に合わなくなるというわけである。「草刈をする範囲」でも触れている上側の田んぼとの境界ライン。写真のとおりである。ふつうは法下が境界(ここでいう境界とは草刈境界のことを言う)であるが、わが家と上の田んぼとの境界は法下ではない。その上、写真でもわかるように、わが家では前週に法半分まで刈っておいて、草寄せをしてなかったのだが、上の田んぼの人が今日草を刈って、その草が我が家で刈った範囲に倒れ込んでいるのである。そもそも上の田んぼの人が刈る法面を我が家で刈っているのに、その刈り倒した草の上に、草が倒れ込んでいて、「これ誰が草を寄せるの?」状態になっているのである。果たして、この後動きがあるのか、ないのか……。

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石拾い

2024-07-05 23:39:57 | つぶやき

 仕事の現場で、石拾いをした。水田の整備をするにあたり、耕土が少なかったため、耕土をよそから持ち込んだ。ところが、その後耕起をしようとしたら石が混ざっていて、耕作者から「これでは耕作できない」と言われて、石拾いとなった。搬入した際に、しっかり土を確認していればこのような事にはならなかったのだが、既に耕土を戻してから2年ほど経過していて、当時の関係者に責任を問うこともできなかったことが今日に繋がった。もともと石が多いと聞いていて、春先に様子をうかがった際には、表面に大きな石があるばかりではなく、シャベルを突き立てても硬くて入らないところがあって、耕土中にも多くの大きな石が混ざっているのではないかと想像していた。もちろんこのような状況では耕作どころではない。耕作者が「耕作できない」というのも当たり前だ。

 実は石拾いは我が家でもやっている。以前災害復旧で直してもらった田んぼ、直してもらったのは良いが、石だらけ。そもそも水を浸けると崩れそうなこともあるのと、周囲との軋轢もあって、復旧後一度もコメを作っていない。ようは転作状態なのである。それでは災害復旧をした効果があがっていないということになるが、だからといってそのままにしておけば、結局耕作放棄地になってしまう。そういう意味では崩れたら直す、をしていかないと山の中でのコメ作りは衰退してしまう。いいや、それで良いという意見もあるが…。そんな田んぼだが、工事の際に耕土を剥いだ。耕土は長い間の耕作によって作り上げられたもので、農家にとっては命のようなもの。工事によってその耕土がほかの土と混ざってしまわないように、土木工事では耕土を剥いで工事を行うことがよくある。しかし、耕土を剥ぐと、どうしてもほかの土と混ざる。とりわけ耕土の下が礫層であったりすると、剥ぐ際に混ざってしまうことがある。長野県内では礫層の上に耕土があるケースが多く、耕土を剥ぐと石が混ざる、とは当たり前に言われること。したがって工事の際に「耕土を剥がないで欲しい」という農家も珍しくない。我が家でも結果的に耕土を業者が起こした際に石が混ざったわけで、小さなトラクターで起こすと、小さな石でも衝撃が大きい。起こすたびに石が当る。その度に石を拾うのだが、そこそこ大きな石が露出したりする。

 さて、今回の石拾い、トラクターで起こした際に石に当ったところを中心に拾ったが、小さな石は無数に混入している。こぶし大以上のものをといって拾ったが、それより小さな石がたくさん。起こしているとロータリーの中で石がガラガラ音を立てているのがよく聞こえる。耕土というよりは砂利を起こしているようなもの。そうした中に巨大な石が混ざっていたりする。標高950メートルという高地ということもあって風は涼しかったが、暑い日中の石拾いは、疲れが身体に溜まりそうな作業だった。

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「○○さ」のどーろくじん

2024-07-04 23:38:25 | 民俗学

 

 「旧武石村余里の自然石道祖神 中編」で触れた通り、旧武石村余里においては、ずいぶん近いところに道祖神が祀られている。数軒単位で道祖神があったりして、よその道祖神とは祭祀数がとても密である。このことについても小林大二氏が『依田窪の道祖神』で触れている。

 一つ目のグラフはその『依田窪の道祖神』に掲載されている依田窪における道祖神際箇所数と世帯数をその祭祀箇所数で割った数値、ようは箇所当たりの戸数を算出したものである。前掲書では一覧になっているものをグラフ化してみた。ただし前掲書の発行が古いものであるから、その世帯数データは昭和45年の国勢調査の値である。そもそも祭祀箇所数が圧倒的に突出しているのが武石である。70箇所という祭祀箇所は次に多い丸子の30箇所の倍以上である。したがって祭祀箇所あたりの戸数も小さなものとなり、武石では15戸と算出されている。その中でも密さを実感させるのが「余里」なのである。このことについては、二つ目のグラフ、武石村での集落別の同じ値を示したもので、余里の祭祀箇所数は14を数え、箇所当たり6戸と算出されている。

 一つ目のグラフでもわかるように平均戸数にはばらつきがあるが、50戸前後というのが一般的と捉えられる。武石でも人口の多い地区では同様の値を示しており、同じ集落内に何か所も祭祀場所があるという例は、他の地域を見ても珍しい地区と言えそうである。小林氏は前掲書に次のようなことを記している。

「あれはとよサところのどーろくじんだ。あれはしばっクルワのどーろくじんだ」

ようは個人名や、屋号で呼ばれる道祖神が、余里には存在する。それほど小単位で祀られているのである。

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絵馬に見る祈願①(坂下神社)

2024-07-03 23:38:39 | 民俗学

 先日、大祓の様子をと思って訪れた坂下神社。既に前週に行われていて、茅の輪の写真だけ撮って帰ったのだが、せっかく伊那まで行って空振りも残念と思い、拝殿の前にあった絵馬を調べてみた。祈願の現状を絵馬や短冊からうかがい知る、という方法は、小原稔さんに教えてもらったこと。祈願対象として、何が願い事として書かれているかを、人と接することなく知る方法として、確かに多くのデータを収集することができる手法である。ということで、坂下神社に掲げられていた絵馬の内容を調べてみた。

 掲げられていた絵馬の総数は69枚。そのうち①「厄除祈願」と印刷された厚紙の絵馬が39枚と最も多い。ほかに②「初宮詣」と印刷された木の絵馬が12枚。③「安産祈願」と印刷された木の絵馬が8枚。④「開運」あるいは「開運招福」と印刷された木の絵馬が8枚。あと2枚のひとつは⑤「災難除祈願」と印刷された厚紙の絵馬、⑥表に「祈」と印刷された紙が貼られた木の絵馬、以上である。そもそも坂下神社の絵馬を総覧した際に、①の記名欄がすでに消えていてはっきりしないものがあったりして、だいぶ時を経ていると思われる絵馬が目立った。木の絵馬には背面に祈願日が記されていて、それで確認すると、最も古いものが令和4年3月23日の「初宮詣」のものであった。さらに祈願された日かはっきりしないが、令和3年11月6日生まれの方の「初宮詣」のものがあり(参拝日が未記載)、おそらく令和4年の元旦以降に奉納されたものが掛けられていると思われる。

 ①「厄除祈願」についてはみな同じ既成の絵馬であり、名前と年齢が記載されているが、前述したようにすでに消滅しているものが多く、判明するもの22枚(56%)は男性3、女性17、不明2であり、女性の厄除け祈願が8割近い。その年齢は、男性3の内訳が、34、36、60歳。女性17の内訳が、6、8、19、31、32、33(5)、34(4)、41、61、65歳となり、33、34歳の祈願者が多い。不明の2例は23、34歳である。

 現代でも当たり前に①②③といった祈願は多いと言え、とりわけ「厄除」に対しての意識は高いと考えられる。厄除祈願の絵馬の背面には一切願い事が書かれておらず、木の絵馬には総じて背面に祈願が書かれている。それらを下記にとりあげてみる。

1.私が最善を尽くせるように、大切な人達が平穏でありますように。(開運)
2.健康一番 勉強を一生懸命できるように。(祈)
3.日本を守れますように。(開運)
4.商売繁盛! 家族4人健康!(開運)
5.○○ちゃんといっしょにあそべますように(開運)
6.これからも家族みんな健康で仲良くくらせますように。これからも幸運でありますように。(開運)
7.第一志望先に就職できますように(開運)
8.第一志望の大学に合格できますように。(開運)
9.成績が良くなり、志望校に合格できますように(開運)

なお、②③については意図が同じのため省略した。

 絵馬のほかに扇が1個掛けられていて、意図は初宮参りのものであった。

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