Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

騒音

2016-06-29 23:06:37 | ひとから学ぶ

 我が家の入口にある側溝の蓋が2年ほど前に整備されて、すべて鉄製の網状のもの(グレーチング)に変わった。それまでは我が家の入口のみ、造成時に自分で掛けた蓋があったのだが、それも新しく変わった。といっても老朽化していたわけではないので、そのまま使ってもらっても良かったのだが、町の発注ではすべて新品に、という設計だったようなので新しくなるのに苦情を言うほどでもないので、予定通り新品に変わったというわけだ。そもそも幅員が狭いので、乗用車が行き違いができない。そこで側溝分の1尺ほどが蓋によって臨時に車が乗れるとなれば、行き違いは比較的楽にできるようになる。それが目的だった。とはいうものの、開渠を暗渠化してしまうと、掃除が容易ではなくなる。ふだんは水も流れていない側溝という主旨からいけば、それでも支障はないということで、優先度はふだん苦労していることの解消の方に向いた。

 この側溝、ここに住み始めてから20年ほどになるが、過去に1度、大雨で上流で土砂流出が起きて、我が家の近くまで側溝が埋まってしまったことがあった。埋まった場所は、いわゆる自由勾配側溝というやつで、1メートルおきに開口部があるというもの。ここにほぼ満杯に土が入ってしまったから、地元の人たちでは簡単には撤去できず、おそらく業者にお願いして撤去してもらったはず。開渠なら地元でもなんとかしようと思うだろうが、厄介な側溝ともなると、地元では手が出せない。こういうケースは実に多く、結果的に地元の人たちが、自分たちで何とかしようという気概を失わせる。優先度の問題と前述したが、世の中は優先度で、結果的にいろいろなことを失いつつある。

 さて、我が家の入口の蓋は、以前はグレーチングと余っていた縞鋼板の蓋を掛けていたのだがすべてグレーチングに変わった。入口は自宅に向かって上り勾配に傾斜していて、舗装でもしてあればよいのだが、未舗装なので雨が降ると細かい砂が流れ出す。ということで側溝内に土がすこしばかり溜まってしまうのだが、蓋なら簡単に取り外して掃除ができる。ところが騒音防止のためか、グレーチングにブレ止めのような金具が付いている。これを外さないと蓋を上げられないため、「厄介」と思うとなかなか頻繁に掃除をするという気になれない。これもまた現実的な思いなのだが、騒音防止という観点では確かに良いのだが、管理的には少し印象を低下させた。そのせいか、我が家の後に整備された下流側は、蓋だけの整備から側溝さら更新ということになって整備が続いた。ようは前述の自由勾配側溝になってしまったのだ。これではもはや管理は自分たちではしないだろう。

 騒音防止の話をしたが、往来の激しい道でも路側に設けられた側溝に蓋がかかっていて、その上を車が走るとそこそこの音が響く。通常の通行路ではないので常時その上を車が走るというわけではないが、狭い道の応急策のように掛けられた蓋が延々と続いていたりすると、頻繁に音が鳴り響いたりする。そんな場所は案外宅地が道際に沿っていたりして、仕方なく蓋がけされたという感じだ。いっぽうでこんな場所では、「うるさい」と苦情が出るのもよくある話。防音対策の製品が出回るのはそんな理由からだ。近ごろでは子どもたちの声がうるさいから、と保育園の建設に待ったが出るような時代だ。静かなところが良いのなら、田舎に家を立てれば良いのにと思うが、すると「交通の便が悪い」とか、「田舎なんて」という話になる。何をしてもひとは苦情を言わなくなることはない。都合の良い時代、便利な時代だからこそ、ひとのせいにすることが得意になるのだ。

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休みのない“朝”

2016-06-28 23:53:55 | つぶやき

 「今日も帰れない」、そう連絡が来て頭をよぎるのは、明日の息子の弁当のこと。まさか3日も同じおかずというわけにはゆかない。ここ2日まったく同じ内容で弁当を作った。自分の弁当なら5日間同じでも良いが、息子の弁当ともなると「そうはいかない」と思うあたりは、いちおう気を使っている証拠。真っ先に頭をよぎったのが「弁当」とは情けない話だ。

 息子が家に帰ってくるということになって以降、頭の痛いのは母ちゃんのいない日の弁当のこと。「毎日同じでも良い」という母ちゃんの言葉の裏には、「自分もそれほど日によって変えていない」という実態がある。とはいえ、わたしが自分のために作る弁当など、ほとんど栄養のことなど考えていない。自分が好きなものを突っ込んでいるだけのことで、自分では満足しているが、他人がそれでいいとは限らない。

 冒頭の連絡がきて、「ほかに何かおかずになるものあるだろうか」と仕事中だというのにそのことが頭の中を席巻する。弁当といえば、自分が自分のために作る場合は、冷凍ものなど入れはしない。かさの張る野菜炒め、それも肉も入っていない野菜炒めで時にはおかず入れすべてを埋め尽くすことだってある。さすがに息子の弁当にはほかのものもとりあえず埋め合わせて入れるが、基本は野菜炒めだ。それでも肉なしでは情けないと思って、冷凍の肉を解凍して入れるが、果たして息子はどう思っているのか…。

 そんな悩みを抱えながら帰宅後冷蔵庫を開けると、賞味期限をすこしばかり過ぎた焼きそばがひと袋。ということでそれほど代わり映えはしないが、焼きそばを野菜炒めの代わりにメインにして「明日は作ろう」ということに。そういえば、と妻がいつも作る弁当に利用される鮭の冷凍ものも解凍スペースに…。意外におかずになりそうなものはいくらでもある、と気がつきはしたものの、いつものおかずではないと、弁当を作るのに時間がかかりそう。息子のいないころの妻不在の朝は、早出をして会社に向かうことも頻繁にあったが、今年は早出のできた朝は記憶にない。気を抜ける朝がやってこないことがこれほど負担なのだと、あらためて味わっている。今週はこのまま週末を迎えそうだ。

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暑さと、涼しさと、

2016-06-27 23:33:00 | つぶやき

 梅雨だというのに、雨の量はいつになく少ない。もちろんどんよりした空模様であることに違いないが、雨音が気になるほど降っても、意外と雨量はそれほどでもない。何よりこの先の水不足が心配されているが、この真夏の水事情はどうなることか。水など天からの贈り物と思って当たり前のようにあるものと思っている人も多いが、実際のところ天下のまわりものというほど自由なモノではない。

 年老いたせいか、今年はまだ半袖に腕を通すことは少ない。せいぜい草刈の際の作業時ぐらい。ふだんはほとんど長袖を着用している。今日も朝方が涼しかったこともあって、いつも通り長袖を着て松本まで。ところが松本に着くとずいぶん暑い。急に気温があがったのかもしれないが、意外な暑さに長袖で来たことに少しばかり悔いたが、とはいえ夜には再び涼しくなるだろうから、と自分に言い聞かせる。案の定、あまりに暑かったから会議では冷房を入れてくれた。時間を経るとともに冷え冷えとしてきて「長袖正解」とあいなった。何といっても涼しくなった際の応用性という面では長袖に限る。おそらく今年は真夏日はもちろんだが、熱帯夜が続くようにならないと半袖着用にはならないだろう。あらためて「歳をとったものだ」と感じている。何といっても我が家の居間には、いまだにコタツがある。点灯することはここしばらくなかったが、数日前に少しばかり寒さを感じて点灯する始末。笑われるに違いないが、最低気温が10度近くまで下がると、やはりコタツが欲しいと思う。もう使うことはないだろう、と思っていた毛布もここ数日使っている。

 さて、松本城の脇を頻繁に通過しているものの、あらためて松本城を拝むことはほとんどない。この日、予定の時間まで少し余裕があったので、少し遠回りをして松本城の脇を通った。せっかく通るのなら、と思っていちおう写真におさめたわけだが、何ということはない。やはり松本城なのだ。

 

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話が聞けない

2016-06-26 23:41:18 | 農村環境

 全くの無縁のひとのお宅を訪ねて行くのは勇気がいること。調査でそんなことを試みることはあるが、とりわけ田舎ではその対象が農家なら比較的訪ねやすかったのがかつてだ。しかし、近年の田舎はそうは簡単ではない。何といってもかつてなら農家といえば「気やすい」のが一般的だった。もちろんそんな人ばかりではないが、おお方は気安くこちらの質問に受け応えてくれた。もう20年ほど前のことになるが、ある民俗の調査地で話者をお願いして歩いた際に、容易く良い返事をもらえない地域があった。その際は「なぜなんだろう」程度に考えていたが、実際に調査に入ってみると、調査地の地域社会が特異な社会であったがために、興味本位に捉えられがちな調査に対して抵抗感があったことが解った。とりわけ社会生活上で強い主従関係があるような地域社会は、過去の歴史を引きずっていることがうかがえる。今もそうであるように、「その話はどこから出たのか」と狭い社会ではその後のつきあいに影響しかねないがため、「話したくない」と思うのは当然かも知れない。そんな社会に入っていくのは容易ではなく、話をして欲しいと頼むことすらままならなかった。そして実際に話者として承諾していただいても、質問によってははっきりしたことを口にされない人々も多かった。仕方のない現実が、その地域社会の根底にあることは言うまでもないが、実際に試してみて解ることでもある。

 とりわけ田舎の農家を訪れても、今はずっと農家だったというひとは少なくなりつつある。ようは退職後に農家となった人々が多い。話を聞こうとしたら説教をされるということも珍しいことではない。質問をしたら逆に質問攻めに会う、そんなこともある。田舎だと思って相対すると、失敗しかねないのが現在の農村である。

 調査ではないが、ここしばらく無縁の農家を訪ねてはお願い事をする機会があった。相手をしたくないと思えば、急に表情を変えるのは、きっとわたしも同じだ。我が家は不在のことが多いから、家を訪ねてくる無縁の人々と接することは少ないが、とりわけ新興宗教がらみの方たちは、今もってよく訪ねてくる。彼ら、彼女らに対する対応は、まさに冷たいものかもしれない。しかし、いっぽうで自ら無縁の家々を訪ね歩いていると、「きっとあの人たちはこんな思いを訪ね歩いた家々で感じているのだろう」と、共感を抱いたりする。彼ら、彼女らは、いろんな人々の「顔」を感じ取っているのだろう。

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有明山の麓へ

2016-06-25 23:46:47 | 民俗学

 長野県民俗の会草創期の方々に「話を聞く」という企画の第2回は、前回の田口光一先生同様に、まさに草創期に会を支えられたお一人でもある倉石忠彦先生である。若い会員に草創期に会を担われた方たちに話を聞いてもらってまとめてもらう、そんな企画だったのだが、今回は諸事情にによって「わたしがまとめる」ということになってしまったため、少しばかり荷が重いという思いがわたしの足を重くさせた。倉石先生についてはあらためて説明するまでもなく、会の草創期の裏話も、倉石先生自ら何度となく『長野県民俗の会会報』や『長野県民俗の会通信』に報告されている。ということで聞きたいことを事前に準備していきたいところだったが、何といってもこのところの裏事情でその余裕がまったくなかった。そもそもが若い会員が話を聞く、という発想もあったから、同行された若い方たちにそのあたりは「お任せ」しようとあくまでも話だけを聞きに行ったしだいである。

 倉石先生とは直接的に仕事で同席させていただいたのは、あとにも先にも『松本市史』の編纂時代だけといってもよい。それ以外にも調査や出版に関する編集の会議に同席させて頂いたことはあったが、あくまでも同席していたにすぎない程度。編集の過程でいろいろなことを指導していただいたり、先生のお人柄を十二分に感じさせていただいたのは、前述の編纂の時が唯一と思う。

 民俗学へ進まれた原点や、道祖神研究を始められた初期のこと、あるいは都市民俗や近年関心を持たれた身体伝承のことなどを中心に話をうかがった。もちろん「わたしがまとめる」ということになっているので、宿題がまたひとつ増えたということになる。誰しもその道に興味を抱き、さらにその道を極めていく以上理由があるわけだが、倉石先生が民俗学をライフワークにしようとした理由には、意外な面があった。というのも大学で民俗学を教わった、というのではなく民俗学研究会に入ったことによってそこで学ばれたという。そして研究会で発表し、そして論文をまとめるという義務的なスケジュールの中で自信を育まれ、結果的に民俗学を一生続けられるという基礎を築かれていったようだ。言い換えれば義務的な負担によって膨らんでいったともいえるだろうか。意外と思ったのは民俗学ありきではなかったというあたりだろうか。そして都市民俗研究の原点にもなった団地の民俗を対象にされたのは、忙しくて調査に出られないなか、何を対象にしようかと考えた際に身の回りでできる調査として自らが住まわれていた「団地」が浮上したというわけである。「忙しさ」の中で何を対象にしようか、という悩みはわたしも常にもっていただけに、とても親近感のある理由でもあった。

 最後にこれからの研究対象についてうかがっておいとましたわけであるが、先生は一線を退かれた後は県内に戻られて有明山の麓で暮らされている。これまでにも何度かご自宅へうかがったことはあったが、帰路につく際、あらためてそこから望む山々を眺めたところ、この日は背後の北アルプスは雲の中だったが、そのせいかとりわけ有明山が印象深く目の前に姿を見せていた。

 

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ポスターを掲げる

2016-06-24 23:35:57 | つぶやき

 参議院選が始まった。選挙区ではポスターを公営掲示場にのみ掲示することができるが、比例区は公営掲示板がない。したがって個々で立てられる分を独自に場所を設定して立てるわけであるが、組織がないとこんなことはとてもできない。 1人当たり7万枚が与えられるポスター。公示日の中央選管で証紙が渡され、その日のうちに各地に移送される。そしてポスターにこの証紙を貼らなければならない。地方では当日も立てられないことはないが、翌日の23日にポスターが立てられるのがふつうだ。23日、飯田下伊那で最も早く参院選比例区のポスターが貼り出されたのは、自民党で上位当選するとも言われるある職域代表候補だ。職域代表といっても熱の入り方で様相は違ってくる。とりわけ職域代表に対して批判的報道がされたりもするが、そうでもなければ有名人しか候補者になれなくなる。有名人などポスターなど掲示しなくても当選可能だろうが、職域代表のような無名な人たちは、その域で行動を起こさない限り選挙戦は成り立たない。批判するのなら、そもそもの選挙制度を議論すべきこと。

 さて、公職選挙法ではこのポスターの掲示箇所に関して次のように示されている。

第百四十五条   何人も、衆議院議員、参議院(比例代表選出)議員、都道府県の議会の議員又は市町村の議会の議員若しくは長の選挙(第百四十四条の二第八項の規定によりポスターの掲示場を設けることとした選挙を除く。)については、国若しくは地方公共団体が所有し若しくは管理するもの又は不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所には、第百四十三条第一項第五号のポスターを掲示することができない。ただし、橋りよう、電柱、公営住宅その他総務省令で定めるもの並びに第百四十四条の二及び第百四十四条の四の掲示場に掲示する場合については、この限りでない。

2   何人も、前項の選挙については、第百四十三条第一項第五号のポスターを他人の工作物に掲示しようとするときは、その居住者、居住者がない場合にはその管理者、管理者がない場合にはその所有者(次項において「居住者等」と総称する。)の承諾を得なければならない。

3   前項の承諾を得ないで他人の工作物に掲示された第百四十三条第一項第五号のポスターは、居住者等において撤去することができる。第一項の選挙以外の選挙において、居住者等の承諾を得ないで当該居住者等の工作物に掲示されたポスターについても、また同様とする。

ということで、比例区のポスターは、勝手に立てるわけにゆかないから、地権者の承諾を得なくてはならない。候補者全員がポスターを全国に掲げるというわけでもなく、むしろ地方では掲示する候補者の方が希とも言える。したがって頻繁に掲示場所を依頼されることがあるわけではなく、掲示に理解を得るのもすんなりとはゆかない。ということで、結果的には支援団体の関係者の土地を中心に立てることになるが、団体の熱の入れようとかかわってくる。人目につくような場所に土地を所有していれば良かった、そう思うのはこんな時である。

 とはいえ、ポスターを掲示したからといって票につながるとは容易にはゆかない。そもそも後援会に入会していただいた方たちの多い地域に、再確認の意味を持たして掲げるのか、それとも認知度を上げるために交通の多い場所に掲げて知名度を上げるのか、意図はいろいろだろう。

 ということで昨日は休日をとってポスター掲示作業を行った。なかなか思うような場所に掲げられないのが実際だ。掲示されている他の候補者のポスターを注意深く見てみると、やはり公の土地に掲げられている事例も。立てている人たちにどれほど理解されているかは解らないが、今もってグレーゾーンは晴れない。それにしてもせっかく掲げたものの、名前が遠くからはっきり読めない。せっかくのポスターも、インパクトのないものでは意味がない。戦略不足は否めない。

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雑感

2016-06-23 23:40:57 | つぶやき

 英国がEUを離脱するのかしないのか、結果的には期待値をもって残留するだろう、という意識が一般的なものだ。欧州懐疑主義というものがあって、今ではEUを批判することを指すようにもなった。これと同じようなことがアメリカにも起こっている。いわゆる大統領選だ。クリントンか、トランプかという選択においても、史上最低の大統領候補と言われるものの、結果的にはトランプを選択することはないだろうと期待値をもって見ている。グローバル化と言われ、個々の主張よりも地球規模で一体化する流れの中で、固有な発想が顕在化する傾向が見え始めている。ようは批判的なものが増幅する要因が、グローバル化の中に生まれているということ。

 国内でも参議院選挙が公示されいよいよ選挙戦に入った。個々の項目を捉えれば言っていることにそれほど違いはない。決定的に違う部分を取り上げると、明らかにどちらかの主張には違和感がある。そしてイメージとして政権側と反政権側を分けて描かれるから両極に対峙しているがごとく言われるが、とりわけ野党共闘した今回は共産党か自民党か、というほどの対立軸とは思えない。ようは肯定か否定かといったレベルの批判論に過ぎないのだ。グローバル化の中で生まれた「批判」が顕在化する世界の流れにくらべれば、国内は平和なものである。

 とりわけ、若いころは「反」を旗印にしていたわたしも、実は過去に根拠を置いた保守的な面を持ち合わせていた。同じことは誰しも持っている部分だとは思うのだが、批判は容易い。したがって権力に対抗するために容易い批判を展開したくなる。同じことを国政の争点にして欲しくないのだが、どうも今回は次元が低い。

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真夜中の後悔感

2016-06-22 23:15:17 | つぶやき

 すでに暗くなった道を家へ向かう。センターラインはないが、いちおう主要地方道である。急カーブを抜けると、対向車が道の直線部分だというのにほぼど真ん中でゆっくり近づいてきてほぼ停止した。「頓に思うこと・後編」の冒頭で触れた例に等しい、というよりほぼ停止したから、相手の運転手は行き違いするのに停るほど減速しないと「無理」だと判断したのだろう。そりゃあそうだ、ほとんどど真ん中を走っているのだから、相手にとっては左側に1.5メートルほども余裕をとらないと走れないような運転レベルなのだから。わたしは驚いてブレーキを踏んだものの、相手が残したこちら側の道幅でもスレ違いできると判断して減速しながら横をすり抜けた。こんな下手くそな運転で、どこからこの道を走ってきたものなのか、帰宅時間のこの道を走った多くの車が、わたしと同じことを感じながら、この車を見送ったことだろう。そもそも車幅感覚を正確に測れない人が、①大きな車は運転しないこと、そして②センターラインのない道を選ばないこと、と言いたい。

 今日も同じ道を走りながら度重なり対向車がこんな具合にセンターに寄ってくる経験を積んだ。まさに「頓に思う」最近の運転事情だ。

 午後は長野まで軽自動車でとんぼ返りをした。出先に会社の車は2台しかなく、ETC搭載車はそのうちの1台。今日は同僚たちが諏訪まで仕事に行っていて、ETC搭載車は彼らに譲った。とんぼ返りだから、ほとんどが高速道路。やはり、軽自動車それも貨物車だからそもそも高速には不向きな車、だから速度はもちろんだが、運転環境は低い。帰路後ろにとてつもなくでかい大型車に接近されながら工事のため1車線に制限された車線を走った。高速とはいえ規制区間で合流もある。左側のパーキングから流入しようとしていた車があったので減速してブレーキをかけたら予想通り大型車から「ふざけろ」とばかりクラクションが。そりゃあそうだろう、煽るほどに接近しているのだから。もちろん解っていたからこちらも躊躇したのだが、案の定という結果になった。

 疲れきった1日の終盤は、持ち帰った仕事をするはずだっのに、見ごとに食後の眠りに入ってしまって、何もできずに真夜中の後悔感を繰り返した。

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見づらい

2016-06-21 23:54:58 | つぶやき

 前を走っている車がわたしが向かおうとしていた方向に、同じように左折して行った。ブレーキランプが信号機を前にして点灯したので、「左折するのかも」という予測が少しはあった。よくみれば確かに左折しようと方向指示器が点滅していたのだろうが、それと気がつくまでは少し余裕が必要だった。近ごろはこうしたことが珍しくない。かつては不正改造に該当したのかどうかは知らないが、方向指示の目立たないランプカバーに交換する車が目立った時代もあった。過去の話で今どきはそんな車を見ることはほとんどなくなった。では、なぜ今もって方向指示がはっきりとわからない車があるかといえば、もともと製造段階からそうしたランプのものが設置されているからだ。かつてはブレーキは「赤」、方向指示は「黄」とはっきりとしていた。もちろん今もそうなのだろうが、デザイン重視なのか、かつてほど「はっきり」とはしていない。とりわれ白っぽい指示をする車は、指示ランプだけ点灯していれば解るが、ブレーキを踏みながら方向指示をしていると、ブレーキランプ視線が奪われて、方向指示がわかりづらいのだ。もちろん「歳をとったせいだろう」と言われても仕方ない年齢だが、世の中は高齢者ドライバーばかり、とりわけ田舎の環境を説明するまでもないだろう。明らかに昔の車にくらべると、方向指示器が解りづらい車がある。

 もうひとつ、昔の車にくらべるとブレーキランプや方向指示器が「ここにあるだろう」と予測される場所とは違う場所に配置されている車がある。真っ暗な中で、いきなりブレーキランプが視線より高い位置で点灯すると違和感を抱く。乗用車なら「ここだろう」という位置に配置されていない車が、事故が多いなどという噂は聞かないが、後続車にとってはちょっと違和感が湧く。同じことは後続についた車にも言えて、妙な構図の車が暗い中で後ろにつかれると、気になってしょうがない。いまどき「ガイシャ」なんていう呼び方は死語かもしれないが、そうした車に見づらい車が多いのではないだろうか。

 さて、冒頭の車、見づらかったのは方向指示器のランプがブレーキランプに比較して小さかったからだとわたしなりに思った。方向指示器のランプが小さいものも現代の車には多いように思う。安全第一と言いながら、デザイン重視の傾向は少なからずある。近いうちにはバックミラーがなくなるとも言われている。先日狭い道の左側に停まっている車の脇をすり抜けようとしたのだが、車間感覚がなかなかつかめなくて、外にいる人に見てもらってなんとかすり抜けた。ドアミラーが「当たるから」と言われてたたんで前進したのだが、昔のようなフェンダーミラーなら車の前の方にそれがついているから、先端を車の横まで進めれば、今のドアミラーよりはミラーで視認することができたはず。そういう意味では、現在のドアミラーは、まったくもってデザイン重視で生み出された代物だ。

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“命懸け”

2016-06-20 23:52:32 | つぶやき

 先ごろ「命懸けの水」を記した。いくら急峻とはいえ、「命懸け」などという表現はただならぬ。とはいえ、現場に出るのが当たり前のわたしの日常の中で、これまで「命懸け」などという表現をするほどのことはなかったと言える。土木の現場ではその言葉に値するような環境は珍しくない。したがってそうした危険から回避するための安全管理を行うのは、今では当たり前のこと。そしてそうした対応が当たり前となると、作業員は「命懸け」と思えるような作業には手を出さなくなる。当たり前のことなのだが、いっぽう我社の現場をあらためて考えてみると、「命懸け」とまではいかなくとも、安全面では危険な場面は多々ある。

 もう5年ほど前になるが、ある山間の隧道に案内されて調査をしたことがあった。隧道の大きさは腰を屈めて入る程度の小さなもの。かつての水路用の隧道には、この程度の大きさのものが多かった。案内された隧道は崩落寸前だということで、地元の方たちも入ったことがないという。とはいえ実際にどういう状況なのかは実際に見てみないと解らない。ということでその後その隧道には何度かもぐったのだが、崩落寸前と言われる所以は、隧道内で支えていた柱が屈折して隧道内を閉ざしていたからだ。その隙間から向こう側にくぐり抜けたのだが、屈折して隧道内を閉ざしていた柱にわたしの身体があたって何らかの力が加われば、もしかしたら生き埋めになってしまったかもしれない。そう思いながら何度となくその隙間を通り抜けたのだが、あらためて思い出せば人によっては「命懸け」の行動だったかもしれない。そう思うのは、その後いくつかの隧道に入ったが、今どきは地元の人でも「入ったことがない」という隧道が、実は多いことを知った。前述の隧道も、わたしが入る以前に役所の方たちの間で「危険だから直さなくてはいけない」と共通認識を持っていたというが、実際に隧道内を見ての議論ではなかったという。

 その後に入ったいくつかの隧道に、前述の隧道のような「命懸け」ほどのものはなかったが、それでも地元の方たちから「入ったことがある」という言葉を聞くことはなかった。裏を返せば、危うい隧道が本当はあちこちにあるということなのかもしれない。そして、今年は同じように「命懸け」に値する隧道にチャレンジする予定がある。けしてわたしはそう思っていないのだが、その地元では「○○が命懸けで入った」と噂が流れている。

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挙家離村のムラ“高地”へ②

2016-06-19 23:11:17 | 民俗学

挙家離村のムラ“高地”へ①より

 午前中は3人の方々より課題提供の発表があった。

 土田拓氏は北海道生まれで、近代の開拓村を調べてきたといい、2年ほど島根県飯南町で地域づくりの仕事をしてきたという。長野県に来てまだ1年余という土田氏は「農村における集落の限界化と民俗のかかわり」と題して発表された。暮らしの場が解体されゆく現状や、そこに積み重ねられてきた生活の知恵や技術、文化のこれからについて、考える糸口を目の前の消滅集落から探ってみるというものである。農山村の姿が変革するなか、民俗学ができることがないのか、という模索でもある。

 限界集落が多い中山間地域において起きているのは、三つの空洞化と言われている。そのひとつは「人」の空洞化であり、人口流出にあたる。二つ目は「土地」の空洞化であり、土地の荒廃を経て自治力の低下が起き、「ムラ」の空洞化へと進んでいる。そして三つ目が「誇り」の空洞化であり、地域の誇りを失いつつある。こうしたなか、実践的な動きと現状を捉えようとする二つの動きが起きており、前者は地元学で、後者は民俗学による動きだと土田氏は言う。地元学は地元の方々から話をうかがって絵図にまとめ、良いところを探すというもの。また民俗学では農山村において人々がどのように現実に対応したのか、そして暮らしがどう変わったのかというところを見ようとするものがある。土田氏は民俗学における視点から、各ムラの固有の生活誌とか民俗というものが、集落の限界化の過程で一定の地域性をもたらしているのではないかと言う。

 土田氏はまず、限界化する際の耕作放棄地に焦点をあて、どこから耕作放棄地になり、どこは耕作が続けられたのかという視点で調査をしてみたという。北安曇から上水内にかけては、近代において麻の主要な産地であった。その理由は風害が少ない地形、雨が少ないとか排水性、冬場の気象環境などがかかわったと言われるとともに、養蚕よりも麻栽培が有利だった環境にあるとも言う。戦後衰退するなかで、最後まで麻栽培が継続されたのが旧美麻村で、昭和40年代まで続けられたという。美麻では家に近いところにアソウ(麻畑)があったようで、それは畑の一等地でもあったと言われる。上質な麻を育てるために土地も肥えていたといい、家に近いことから運搬上のメリットもあった。また乾燥させた麻の表皮を剥ぐための煮る作業において、水に近い、水源に近いということから家に近いという環境がアソウの位置を定める要因にもなった。しかるに「価値の高い畑」=アソウとなったわけである。こうした一等地は麻がダメになると、ホップや葉たばこといった換金作物が作られるようになる。換金作物という観点から、こうした土地は耕作を継続するための要件にもなったのだろう。このほか水田に対する稀少意識は高く、最後まで耕作が継続された土地となった。

 次に耕作放棄地からさらに進んだ状況としての「離村」において、暮らしはどう変わるのか。事例として小谷村戸土(とど)をあげられた。長野県内から海が見える唯一の集落と言われる土戸である。昭和46年に緊急民俗調査が行われており、当時すでに2戸しか残っていなかったという。越後側との関係が強く、労働交換も越後側と行っていた。もちろん婚姻関係も越後側とのものが多く、離村していった先は糸魚川方面だったという。ようは離村の際にはそれまでのかかわりが影響するというわけだ。同じことは美麻村でも聞くことができるという。そして離村後においては、元のムラに戻って農作業をする、あるいは神社の管理をするということが継続されていく。

 そして、今回の巡検先でもある旧美麻村高地(一般に「コウチ」と呼んでいるが、本来は「タカチ」だという)の事例に「離村」のひとつのカタチを見ることになる。高地は明治5年に110戸、大正15年に99戸、昭和9年に95戸と緩やかな減少を見せたものの、ほぼ100戸ほどの集落を保っていたが、昭和52年に3戸、昭和55年には住民ゼロとなった。高地は急傾斜地の畑を耕作して生計を立てており、冬は薪、麻の加工などを行ってきたムラである。転出の理由は山村にあっても時代に応じた文化的生活をしたい、あるいは子どもの教育を伸ばしてあげたいというものがあったという。収入も少なく、交通の便が悪いという山間地特有の理由でもあった。こうした意識は隣近所の将来の課題として持ち上がっていたともいう。高地からみれば距離的には信級が近く、婚姻関係も、そして生活上の行き来もあったというが、その転出先は県内が3戸、村内が1戸、松川村7戸、池田町1戸で、残りの70戸ほどが大町市であった。その選択理由は、職場が近かったり、麻の出荷先が大町だったことも関係している。いっぽう高地にあった神社は大町市の王子神社に移転祭祀されており、現在も祭典が続けられている。また、移転後も年代の新しい石造物がかつてのムラ内に造立されていたりする。同様に廃村となった小谷村真木においても、徒歩でなければかつてのムラには入れないものの、かつての家屋敷が管理されて維持されているという。真木や高地の現状から見えるのは、廃村になっても人々はかつてのムラを忘れることなく何らかの活動を続けていることであり、「限界集落」と一言でくくれないそれぞれの姿が見えてくる。経済的視線だけでは見えないものを掬い上げ、丁寧に見ていくことが必要ではないかと土田氏は説かれた。

続く

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挙家離村のムラ“高地”へ①

2016-06-18 23:16:51 | 民俗学

 長野県民俗の会の200回目の例会が大町市で開かれ、その主旨は次のようなものだった。

 大町市美麻(旧美麻村)で、 農山村における集落の限界化と民俗の関わりをテーマに研究発表と消滅集落の巡検を行います。巡検では、 昭和9年に95戸あった世帯数が、 同55年以降、従来からの住民が皆無になった美麻高地地区を訪ねる予定です。暮らしの場が解体されゆく現状や、 そこに積み重ねられてきた生活の知恵や技術、 文化のこれからについて考える糸口を、目の前の消滅集落から探ってみたいと思います。

とりわけ県内の限界化した村々を数多く歩いてきたわたしにとって、そして今もって仕事でそんな村々を歩いているだけに、例会に期待するものは大きかった。

 美麻村は平成18年元旦に大町市に編入合併された。合併には編入合併と、新設合併があるが、後者は一般的に同規模の市町村同士の合併で行われる例が多い。後者にあっても周辺部の過疎地域が際立って過疎化が進むことはあるが、前者にあっては、おおかた編入された側に過疎化が進むのは承知の通りだ。平成22年の国勢調査(総務省統計局)における大町市美麻地区の人口は1086人で、合併前(平成17年国勢調査)の人口1239人に比較すると、88パーセントと、減少率はその割に低い。これを下伊那郡南信濃村の場合でみると、平成22年1765人に対し、合併時2166人と81パーセントとなっている。合併を行わなかった天龍村の例でみると、同様に1657人に対し2002人と、83パーセントとなる。もちろんそれ以降も人口が回復することはなく、天龍村の現在は1300人ほどまでに減少している。ようは合併しようとしまいと、それほど傾向に大きな差はなかったと言えるかもしれないが、あくまでも1例に過ぎない。そして数値だけからうかがえるのは、美麻地区の人口減少率は、山間部の下伊那地域のそれより高くないといえそうだ。もちろん村のイメージは人口数だけで捉えられるものでもなく、そま地域がどう合併後に存在感を示しているかにもよる。ただしほとんどの旧自治体名の知名度が低下していくのを抑えることはできないのが一般的だ。かつての村々を認識していた人々にとっても、いずれ忘れてしまうだろうし、県内を多く歩いてきたわたしにとっても、かつての村境が曖昧になっているのは事実である。

 さて、美麻村にはあまり足を運んだ記憶がない。そんななか平成元年の6月だろうか、信州新町の信級(のぶしな)を訪れた際に、美麻村高地まで川を遡った記憶があるが、その際の写真がないことから、それが平成元年のことだったのかはっきりしない。高地の中心だった曲尾(まがりお)まで川を遡って引き返した記憶がある。廃村になっていることは認識していたが、目的は道祖神を求めて行ったように思う。その高地が今例会の主目的であったことに、とても興味をひかれたわけである。

続く

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“今ではお目にかかれないモノ”17

2016-06-17 23:43:13 | つぶやき

“今ではお目にかかれないモノ”16より

 前回の羽咋市は、能登半島の付け根の西岸だったが、その反対の東岸にあるのが七尾市だ。七尾市といって思い浮かぶのは、横綱輪島のことだ。いわゆる土俵入りの際に出身地が放送されるのは今も変わりない。「石川県七尾市出身花籠部屋」、このアナウンスは今もって記憶に強くとどまっている。もちろん当時は輪島のファンだったということもある。その花籠部屋も今はなければ、輪島とともに部屋の一時代を担った大関魁傑も亡くなっている。

 さて、「郷愁を誘う能登半島 どんな旅にしますか ななお」と題したパンフレットはB5版18ページ(表紙を除いて)であるが、ページは振られていない。やはり発行年などは記載されていないが、最終ページにある能登半島の図に能登半島縦貫道路について「56年完成予定」とあるから、それ以前の発行であることが解る。ここでいう「56年」とはもちろん昭和56年のことである。そもそもこの図のタイトルに「近くなった能登の旅」とあり、「近くなった」理由が何かははっきりしない。ちなみに同図には「観光地への所要時間とキロ数」という略図が示されていて、金沢までは1時間半の位置にあり、高岡までは1時間6分の位置にある。しかし、最も知りたい輪島までの最短ラインの時間は表示されていない。

 パンフレットには前述の能登半島全体図のほか、七尾市域を示したずも掲載されているが、いずれも北を上にした構図である。七尾湾の南側にマチが位置するから、当然海を北(上)にしていることになる。パンフレット内にはほかにスケッチ図で2枚の意図のある図が掲載されている。「文学碑めぐり」と「山の寺遊歩道コース」というもので、前者は七尾湾を上にした七尾市域図と同じ構図であるが、後者は西を上にした構図になっており、なぜ西を上にしたのかが興味深い、というより意図を想像もできない。

続く

 

 

 

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幽谷

2016-06-16 23:04:49 | 自然から学ぶ

 

 阿智村と下條村の境に流れる鴬巣川という川である。それほど大きな川ではないものの、深い谷を形成し、「幽谷」のイメージそのものだ。川の様子をうかがうと、魚がいそうなのだが、この川の中にいても、なぜか釣り人に会うことはこれまで一度もない。川底は水の流れで長い年月を経て岩を削り続けているが、もちろん土砂とは異なって、すぐに河床低下を起こすというほどのものではない。本当に長い月日を経て描かれた「幽谷」なのである。おそらく周囲のわずかながらの平には、かつて水田があったのだろうが、今はその跡形もなく木々に覆われている。

 下條村の親田から阿智村伍和をつなぐ県道(主要地方道天竜公園阿智線)が、こうした谷を上流まで迂回しながら蛇行していたのだが、今年の4月、この村境の未改修区間が新しくバイパス化されて、走りやすい道に姿を変えた。したがって村境にあるこの鴬巣川は、あっという間に通り過ぎてしまって、どこにあるのかもわからなくなってしまったのかもしれない。

 川の中を歩くと、側面にむき出しになった岩盤の様子が、場所場所で異なるのに気がつく。節理の激しい岩盤には、いまだ変成作用が継続しているような帯が貫いて崩壊しそうな場所もあれば、節理も少なく、巨大な岩盤を魅せるところもある。そして明らかに岩質の異なることも解るのだが、その道に詳しくないからはっきりしたことは言えない。固い部分もあれば、風化著しく、今にも崩れそうな岩盤も露出する。残念ながら周囲が竹藪化して川に覆いかぶさるような光景もあって、「幽谷」らしさを失わせる場所も。緑はより一層夏に向かって色濃く周囲を覆い、川に影を落とす。

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命懸けの水

2016-06-15 23:22:27 | つぶやき

 ここ数日、ある現場に足を運んでいる。急峻な斜面に造られた水路は、もちろん農業用のもの。村々に潤いをもたらしている多くの水路には、とりわけ長野県内ではこうした嶮しいところにある水路が多い。こうした水路は、崩落でも起こすと、潤いはなくなる。もちろんそうした事実で機能しなくなった水路も、今ではたくさんあるのだろうが、そこにしか水源を求められない地域では、必死に維持しようと努力している。が、「なぜ、ここまで」と思うほど、放置されてしまったものもある。それもまた、その水路に刻まれた現実ではあるが、背景にはさまざまな理由も…。そもそも行政が手を貸さなかったのはなぜか、と、今更ながらに考えたりする。

 これまでにも幾多のそうした水路を見てきた。しかし、近年荒れ放題の水路が目につくのは言うまでもない。すでにその先にある水田は些少となり、耕作している人たちだけでは維持不可能というものも少なくない。水の切れ目が地域の切れ目、そんな現実が忍び寄っている集落を見るにつけ、果たしてこの後の寿命とは、などと勘定したりもする。限界化したから集落がなくなるというだけではないのだ。もはやこうした用水路に手を差し伸べる行政も、政治も、存在しない。

 とはいえここ数日訪れている水路は、まだまだ多くの水田を潤している。にもかかわらず、手を差し伸べらることがなかった。かつてここに水路が整備された時には、今のように姿を誰が想像しただろう。急峻な斜面には流失した斜面に引っかかるように、かろうじて水路が留まっている。水路に沿って歩くのもままならない。村々の命の源だというのに、この有り様をどれほどの人々が認識しているものなのか。

 かつて、村々の背後の山に入っては、亀裂を見つけては村々の先々を危惧したこともあったが、幸いにもあの村々が消滅することなく、大事もなく、今もって生きながらえている姿に、安堵とも、不安とも言えない思いが湧いてくるが、果たして10年後は、あるいは20年後はどうなっていることか。

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