Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

祝日という休日

2017-07-21 23:40:53 | つぶやき

 「どんど焼きの火で〝焼肉〟」でも触れたが、月曜日が祝日であっても、その意図とした催しは前日の日曜日に実施されることが多い。祝日と日の関係が重要視されない時代となったということになる。1年には365日あって、節目目節目に意図ある日があったものの、生業などさまざまな事情で1日の意味が薄らいでいるとも言える。しかし、そのいっぽうで「今日は○○の日」などといって定められている日を意識しないこともない。そのレベルと同等のところに祝日が成り下がったともいえる。

 福澤昭司氏は『年中行事の民俗学』(谷口貢・板橋春夫編 八千代出版 2017)において「祝祭日と年中行事」の関係に触れている。その中で「循環するはずの時間が政治の力で変容してしまうことがある」として、ハッピーマンデーという仕組みを取り上げている。とりわけ本日記でも盛んに取り上げてきたように、成人の日はこと成人という人のためだけにあった日ではなかった。小正月といわれるいってみれば前時代にしてみれば百姓の正月といわれるほど、多くの人々にとって大事な節目であった。その大事であったであろう日が、忘れ去られるほど壊滅したのは、まさに祝日法の改正によるところが大きい。福澤氏も言われているように「家庭で行う小正月の一連の行事は、ハッピーマンデーなど制定されなくともいずれなくなっただろう」。それほど小正月に限らず多くの家庭の行事は消滅した。そのいっぽうで集団で行われている行事は意外にも計測しているものが多い。もちろんこの後のそれら行事の継続性は危ういが、そうした集団の行事においても、その意味なり、実施日への執着が失われてきたことに違いはなく、とりわけ小正月の衰退は農業の衰退と比例してきたと言える。

 福澤氏は冒頭で触れた祝日のあり方についても同様に触れている。小正月の行事であるサンクローが成人の日が定められた第2月曜日ではなく、その前日あるいは前々日に実施されているという。もちろん「成人の日」に指定されているわけであって、その日は小正月と定められたわけではない。したがって成人の日に合わせた第2月曜日のある土日に実施されるというわけでもない。もっといえば成人の日が15日であった時代にあって、実際に松焼き行事が実施されたのは小正月の晦日にあたる14日が多かったわけだから、成人の日の前日に行われることはむしろかつての実施日に従っているとも言える。とはいえ、すでに祝日法が改正される以前から小正月行事の一部が小正月から分離されて前倒しされる傾向があったことも事実。これは実際に行事を担う子どもたちの休日との関わりもあったといえる。とりわけ成人の日が15日に固定されていた時代には、松焼き行事における子どもが関わりは薄くなっていたとも言える。もっといえばそもそも松焼き行事が子どもたちが担うべき行事だったのか、という過去の役割にも関係するが…。

 あえて成人の日を事例にしてとりあげてきたが、いずれにしても月曜祝日は結果的にその前日を中心にその意図たる祝日扱いへと変化してきている。体育の日の運動会などその最たるものだろう。奇しくも来年の成人の日は1月8日である。成人の日としては最も早い成人の日にあたる。

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境界域の煩わしさ

2017-07-20 23:50:48 | 信州・信濃・長野県

 基本的に境界域に生まれ、そしてずっとその界隈で暮らしてきたから、境界域の不自由さのようなものは解っているつもりだ。境界域でなくとも、例えば下伊那の山間地域も、もちろん外周部にあるから境界域のようなものなのかもしれない。そう捉えると中央という位置に暮らす人々は限定的なのかもしれないが…。会社への途上、駐車場近くまでやってくるといつも思うことがある。ラジオがよく入らない。それは会社の車で現場に行く際にもよく感じることだが、どうも伊那市周辺と言うか上伊那エリアというところは飯田近在に比較すると「ラジオが入らない」。自動で検索しても止まらずにずっと探していることもよくある。上伊那そのものが境界域だとは言わないが、郡の中心にあってもラジオがよく入らない場所がよくある。谷の中に入っているから、なんて利理由づけするが、別の地域では谷の中でもちゃんと聞こえるところは聞こえる。とはいえ、まだ伊那市のあたりはよく、とりわけ上伊那でも辰野町あたりに行くとラジオが本当に綺麗に入らない。もちろん善知鳥峠なんていうところは入らないが、辰野の町の中だって入りづらい。まさに境界域と言ってしまえばよれまでだか、これは昔から変わらない。

 いっそ入らなければそれまでのことだが、やはりわたしの行動エリアは、本当に境界域だ。住んでいる場所は下伊那だが、境界域だから飯田エリアの周波数でラジオは入る。同じことはテレビも同様だ。ところが今年のように伊那へ通うとなると、例えばFM長野は飯田の周波数は郡境を超えるともう雑音が入りだす。ということで県内でももっとも広域な周波数帯に変えることになる。それほど長い距離を経ているわけではないがへ、郡境域に暮らしていると周波数による煩わしさは日常のこと。いまどきの車載されているテレビは信号が低下すると自動的に検索してくれるが、とはいえ綺麗に入らないエリアが広い。境界域に暮らす人々の当たり前の煩わしさである。

 もっといえばラジオなんて言うものは、県境域に至るとすっかり入らなくなる。下伊那の県境域なんていうのは、「ここは長野県なのか」と思うほどそういった類のことに関して忘れ去られた地域だ。それも昔からほとんど変化がないところが良い、いいや悪いというところなんだろう。でもわたしの境界域の日常にくらべたら、どうやっても入らないからそもそも煩わしいような行動をとらないんだろう。諦めである。

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変わりゆく畦の姿

2017-07-19 23:13:56 | 農村環境

 先日、仕事である水田地帯に足を運んだ。意外に畦に草が茂り、「このあたりは草刈をしないのか」、そう思わせた。よく見ると、畦に立札が立っている。いわゆる法人が耕作しているという表示。この地域ではそうした立札がない水田でも草刈があまりされていないから、法人だからといって何かが違う、という風でもなかった。我が家の畦の草刈をしていてよく思うのは、そもそもいまだ水田に道がつながっていないような地域にあっては、他人に耕作してもらおうと思っても受け手がいないだろう。今や国の施策はこうした条件不利地に多く発生している耕作放棄地の解消を目的に農地バンクとも言われる組織に積極的に農地集約を促している。つい数年前までは作業の受委託を促していのに、今や耕作を完全な形で委託する流れだ。ますます農業の集約化が進む、ということは農業をしない人が多くなる農村。そうなったとき、果たして土地管理はもちろんだが、農業用水利施設の管理がどうなっていくのか、不安は多い。生業としての農業を目指すわけだから、これまでのようにサラリーマンをしながら、あるいは自らの食料保持のための農業は消滅していく。我が家の草刈のように、多様性ある畦を残そうとする農家もなくなっていくのだろう。そう考えると、仕事上でよく耳にする環境配慮などという単語は虚しいものに変わる。そもそも自然環境とは希少種だけ保存すれば良いというものなのか。ごくふつうの畦に展開された植物多様性は、いずれ消え去るのか、それとも畦の草管理が滞ることで、また違った世界が誕生するのか、なかなか想像できない。いずれにしても意図的に畦に何かを残そうという光景はより一層減少していくことだろう。

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迷惑な湧き水

2017-07-18 23:41:40 | 農村環境

 駅まで歩いていると宅地内の舗装の割れ目から流れ出した湧き水が、7メートルほどある道路を横切って反対側までアスファルトを濡らし、そのまま50メートルほどだろうか、反対側の路肩を濡らすと、再び道路を横切ってこちらまで濡らしながら、水は川へと落ちて行っている。流れているというほど湧き水があるわけではなく、本当に濡らしている程度なのだが、アスファルトを乾かすことなく、長~い蛇の様に乾ききった路面を蛇行する。これはずいぶん以前にも触れたことがあるが、1年中湧き水があるというわけではない。水田に水を貯めている、いわゆるかんがい期間のみ。ようは水田の漏水が、地中に潜って、下の宅地の舗装を突き抜けて湧いているというわけだ。ずいぶん昔からのことで、今に始まったことではなく、そして宅地の人は文句も言わずに今に至っている。

 5月ころのことだが、わたしの通勤途上の道で、雨も降っていないのに路面が濡れて、いいや濡れているというよりもこちらは完璧に湧き水のように流れていて、これはきっと苦情が出ているだろう、そう思うような場所があった。わたしが駅に向かう道とは違って通行量が違う。国道並とまではいかないまでも、県道並の通行量がある。そして大型車もたくさん通る。実は湧き水は路面下を横断している水路のせい。このあたりはそもそも地下水が高いということもないほど乾ききった地域。したがって用水を引くということも容易ではない地域であったが、いわゆるかんがい水路開発によって導水されて、今では当たり前のように水がやってくる。とはいえ、今は農家が少ないから、こうした路面に湧き出した水は、とりわけ車で走っている人には気に入らない。したがって苦情がけっこう多かったという。秋まで待っていられないということで、片側通行で掘り返して、結局完璧に止水することはできなかったが、漏水しているであろう場所をコンクリートで固めて修繕したというわけだ。

 わたしが駅まで歩く道も、道幅で7メートルもあるから、そこそこの道なのだが、田舎ということもあって、どうにかしろという苦情は行政に届いているのかどうか、いずれにしても昔からこの光景は続く。

 湧き水といえば、西天竜の水は段丘崖下に湧水を導く。その典型的光景だったわさび畑は、今はだいぶ衰退している。かつて「わさび畑」で振れた空間に、様子はどうだろうと足を運んでみた。無残にもわさび畑にはいまだわさびの株は残っているが、雑草がたくさん顔を出していた。もう出荷するほど耕作をしていない様子だった。清流とも見えた水は、アオコで清らかさを失っていた。

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なぜ、みんな月曜休館なのだ!

2017-07-17 21:14:12 | つぶやき

 図書館のことも何度もここで触れてきた。が、例えばある図書館に久しぶりに足を運ぶと、ずいぶん光景が変わっていた。最近思うのは図書館の窓口にいる人たちの顔が「きつい」。お役所の顔が変わったのとは対照的に、図書館は以前よりお役所的になった、という印象を拭えない。催しをたくさん開いて、開かれた図書館を目指すのは良いが、いっぽうで専門職化した人々にとって、内心はいかなものなのか、

 確認したいことがあって図書館へ、と思ったが、今日は月曜日だ。よく利用する飯田中央図書館を頭に思い浮かべると、つい先日もカレンダーを見たばかり。17日は休館だ。月曜日が休日の図書館は多い。祝日が休館という図書館も多いが、とりわけ月曜日が祝日と重なって休日となっても、開館している図書館はほとんどない。したがって諦めかけたわけだが、そういえば地元の図書館は休館日が月曜日ではない。水曜日なのだ。このあたりの図書館で月曜日以外の曜日を休館日にあてている図書館は記憶にない。ほとんどが月曜日。そう思ってネットで検索してみる。月曜日が休館日であると明言していても、「もしかしたら」と期待を持って詳細を確認しようとするが、そもそも図書館カレンダーなるものを明示していない図書館もある。これほどのネット時代に至っても、そうしたサービスが曖昧な図書館が少なくない。

 そして祝日となった海の日の今日、検索してみると駒ヶ根市の図書館が今日を開館して明日を閉館としている。検索できる周辺の図書館を調べてみたが、ふだん月曜休館で、祝日の今日開館しているのは駒ヶ根市の図書館だけだ。そして前述したように、地元の松川町図書館は水曜休館だから今日は当たり前のことだが開館している。

 図書館は自治体ごとあるからその数は多い。なぜみながみな同じ日に休館しているのか、これほど多くの図書館が相互に休館日を融通することはできないものなのか、そう思うことは今日だけではない。今までにもそう思ったことは何度となくあった。もちろん求める資料がどこの図書館にもあるというわけではない。したがって諦めざるをえないことは多い。それでも同じ蔵書を置いていることも少なくなく、月曜日が休日のたびに、地元の図書館が開館していることに感謝している。

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ため池決壊の背景

2017-07-16 22:50:27 | 農村環境

 九州豪雨はいまだ不明者がおられるほど甚大なものだった。東北の震災以降、農業用ため池が話題になっている。地震によってため池が決壊した事例が幾例かあったため、地震時における耐震性がどうなのか、そんな診断がここ数年来盛んに行われた。そして規模が大きく耐震性のないため池については改修計画が進んでいる。しかしながら地震によるため池の決壊発生確率はかなり低いと考えるが、東北の震災以来ため池に対する不安は増大しているのも確かだ。ところが、では東北から遠い、例えば長野県でどうかといえば、東北の地震翌日に発生した栄村の地震のほか、その後大きな地震が県内を震源として発生しているにもかかわらず、実際のところため池に対する危惧は、地元でもそれほど高まってはいない。長野県内にはそれほど大きなため池が多くないということもあるだろうが、いっぽうで管理の行き届いていないため池は多い。

 ため池のことはわたしの日記でも何度となく触れてきた。今回の九州豪雨においてまたまたため池が話題、いいや悪者になっている。被害を大きくした要因にため池があるという報道が盛んにされている。考えてみれば、地震によるため池の決壊発生率に比較したら、現代の短時間雨量発生状況から、今後豪雨によるため池の決壊危険度は上がることだろう。たびたび登場する朝倉市山田にある山の神ため池は、被災後の光景を見ると、ここにため池があったのかと思わせるほどだ。Googleで計測すると水面積1.2ヘクタールほど。かなり大きいため池というわけではない。この規模のため池は長野県内でも少なくない。おそらく水源の乏しい地域ではこの程度のため池はたくさんあるだろう。何といっても長野県は山の中だから背後地がそこそこあるから、それほどため池に水源を依存する地域はそう多くはない。しかしながら、この背後地がため池の大きさと関わってくる。背後地がないからため池を造って水を貯めておくわけで、用水を必要とする水田が大きければ背後地と雨量とため池と、という具合に関係して不足料をため池に依存することになる。山の神ため池は、奈良ケ谷川という谷を堰止めた形で造られていた。ようはその流域が荒れれば流木が発生する。決壊の要因となっている洪水吐はおそらく200年確率(200年に一度という雨量)で大きさが決定されているから、そこそこの雨量に耐えられるものだったはず。しかしながら雨量には対応していても流れてくる雑物のことは考えていない。盛んに大学などの模型実験が放映されるが、流木が洪水吐を塞げば素人でも水の行きどころがなくなってため池が溢れて「決壊」ということになることは解る。今回の山の神ため池の背後地は、田ノ口峠までの大きく見積もっても2km2弱といったところ。それほど大きいというわけではない。この規模で今回のような流木がやってくることを想定して洪水吐を造ることはできないだろう。

 かつて県内で災害が発生した際に、盛んに言われたのは根の浅い森林を育てたことへの警鐘だった。森林の衰退、そして想定外雨量の常態化、こうした流れを見る限り、九州豪雨のような被害はどこで発生しても不思議ではない。より一層ため池がクローズアップされてきているが、そもそもため池の必要性が問われる時代になっているのだろう。規模が小さいから良いものの、かつてのようなため池への依存は、現在の農業からはだいぶ薄れてしまっている。それに比例して管理されないため池が増えている。いろいろなことが絡んでいるのだ。

国土地理院より確認

山の神ため池

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月見草

2017-07-15 23:36:09 | つぶやき

 

 「刈払い機を軽くする」で述べたように、あれから休日のたびにナイロンカッター刃の刈払機を使って草刈をしている。妻の軽い機械よりやはりパワーが違う。とはいえ、やはり太い茎の草は刈り倒せない。妻の刈払機を鋸刃に変えるという手もあるが、購入来ずっとつけっぱなしでナイロンカッター刃を付けていたので、容易に外れない。ということで諦めているが、むしろパワーのない刈払機に鋸刃をつけた方が理にかなっている。ようは回転数を低くしても十分刈り払うことができるからだ。

 先週のこと、畦畔長で約70メートル、畦畔の高さが2メートルから3メートルほどの法面の草を刈ったが、鋸刃に比べたら半分位の時間で刈り終えた。やはりナイロンカッター刃の刈払機の方が断然早い。そして石に気を使うこともないので、周囲に問題なければナイロンカッター刃に限る。もちろん太い茎の草と、短めで密生している草には弱いが…。

 今週は休耕している水田脇の畦草を刈った。また休耕している水田の草丈も伸びてきていて、そろそろトラクターで起こさなければと思っていた。ところが周囲の畦草を刈りながら思ったのは、天候が良いのに水田には水が浸かっている。理由は上段の水田の水が漏水して浸かっているのである。あくまでも表面に浸かっているだけで、春先のように耕土全体がぬかっているわけではない。したがってトラクターで起こせないこともないが、代掻きのようになってしまうのが嫌で起こすのをあきらめた。ということで水田の面も刈払機で刈ることに。

 いつも通り畦畔の草刈では月見草を刈らないように気を払う。以前はアザミもカンゾウ類も残しだが、今はしない。月見草だけでも厄介でしかたないほど株が多い。

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日曽利山の田の道祖神

2017-07-14 23:47:06 | 民俗学

 

 「ムラ境のお札」を求めて飯島町日曽利の山の田を訪れた際に、東はずれのお札が立つ林道へ分岐する道沿いに道祖神が立っていた。駒形に整形されれた石に「道祖神」と書かれたふつう道祖神であるが、左右に陰陽の自然石が添えられている。「道祖神」の名分はだいぶ風化していて読み取りにくい。『長野県上伊那誌民俗篇上』(昭和55年 上伊那誌刊行会)によると「寛政三辛亥歳九月吉祥烏 施主忠五」とある。寛政3年というと1791年。このあたりで道祖神が建立され始めたはじめのころのもの。向かって右側は明らかに陰石にあたる。自然石で女性器形をしたものを見出すことは希なこと。向かって左側の陽石の方が探し出すのは容易かもしれない。上伊那では道祖神の脇に自然石が転がっている光景はよく見る。が、むかしほどその光景が目立たなくなったということは、自然石はどこかになくなってしまっている、ということなのかもしれない。前掲書には、同じ山の田にもうひとつ道祖神があって、それは奇石だったよう。

 前掲書には記載されていないが、昭和の道祖神が山の田には建立されている。日曽利から山の田へ上っていくと集落に入るが、その三叉路に道標が立っている。右へ行くと陣馬形山登山道、左は前述の道祖神を経て永見山へ行くとある。この道標の近くに「道祖神」の文字碑が立っている。「昭和五十年八月十五日」に建てられたもので、その意図は「補装記念」とある。「補装」とは舗装のことなのだろう。脇にある陣馬形山へ上っていく道は集落内の道路で、この道を舗装したことを記念して建立したのだろう。以前にもたびたび触れてきたことだが、下伊那では道路改修にあわせて建立された道祖神が幾例も確認できる。昭和の道祖神の建立意図のひとつの典型例と言える。

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外のひとびと

2017-07-13 23:59:09 | つぶやき

 積極的に避けているわけではないが、いつしか疎遠になるということは、それなりに理由がある。もともと彼は専門外(ここでいう専門とはかなり狭いもの)の分野の仕事にかかわり、たびたび「僕は専門が違うから」という言葉を発した。しかし、仕事でかかわっていけば経験からくる知識が自然と備わる。そこに性格のち密さが加われば、自ずと成果はあがる。そうして地域では第一人者とまで言われるようになっていくわけだが、あくまでも仕事で得た名声だから、当たり前と言えば当たり前だ。かつて「毎年訪れる不可思議な日」で触れたが、公衆の仕事を長きに担った方たちには、それこそ公から褒めていただける。でもそれだって仕事でやっていたことだから、では生涯農業を担い、身体が動けなくなるまで働いた人はどうなんだ、となる。名声とはそんなもの。ある場面で書かれた報文に第一人者は褒め称えられていたが、仕事で築き上げられたものは、「努力」などといった単語で飾られても誰もがやっていることだから「そんなのあたりまえだろ」と思ってしまう。卑しいと言われればそうかもしれないが、ではこちらがお願いしたことをちゃんと覚えていてやってくれたか、あるいは立ち話で軽々口にした約束でもちゃんと実行してくれたか、となる。そんなことで振られた折には、不信感がしだいに募る。もともと友人でも何でもなく、かかわった世界で知り合いとはなったが、こちらにどんなに期待を持たせても、そしてどんなにこころ膨らませても、答えをもらえないとわたしから疎遠になるのも無理はない。そしてこちらの期待とは裏腹に、自分のためには頼みごとをする。それでも覚えていれば時にはそれを棒に振る。

 それでも世の中はちゃんと成果は評価する。人間性などとるに足らない。どれほどお国が褒め称えようと、わたしのこころの中でそれをひっくり返すような事実は消えない。こんなことは世の中にたくさんあること。運が良いか、悪いか、いいや、それこそが育ちなのかも…。

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ムラ境のお札

2017-07-12 23:46:36 | 民俗学

押場下お札

 

田舎の風北のお札

 

 「押場の観音さん」は中川村と飯島町の境界からすぐの飯島町側にある。主要地方道伊那生田飯田線の中川村飯沼-飯島町日曽利間を好き好んで走る人はほとんどいないが、ここを通ると意外に県外車と出くわすことが多い。一応主要地方道だから、初めての人もこんなに道が狭いとは思わずに入ってくるだろう。とりわけひとつ間違えば落石に遭うなんていうこともなくはないわけで、危険な道。地元の人はそれを解っているから、選んでこの道を通ることはない。とは言うものの、わたしは中川村竜東から駒ケ根方面に行く際には、今もよく利用する。自分が今いる場所がたまたま中川村で、北上するとなると必ずその選択肢に入る道。4月30日には母の入所している特養に顔を出し、帰りは中川村経由で家へ帰った。特養は駒ケ根市竜西でも比較的天竜川に近いところにあることから、母のところに自宅から行く際にも時おりこの道を利用する。押場の観音さんへ上る道を過ぎたところで、道端にお札が立っていることに気づく。太い木の根元に立っているからその木との関係なのかどうか、そんなことも思ったが、ムラ境ということもあるから、これは村境を守る神様なのではないか、そう思った。

 その後も何度か通りかけてはそのお札を目にしていたのだが、先日やはり特養に向かう際に近くで聞いてみることに。休日ということもあって道端で作業をされている方がおられて聞いてみると、松福寺という日曽利にある寺の檀家総代さんたちが「お日待」と称してやっているという。総代さんの家を教えていただき訪ねると畑に仕事に行っているという。畑の場所を教えていただき行ってみるが姿が見えず、代わりに総代さんのお父様という方がおられたので聞いてみると、「昔はやっていなかった、ここ1、2年のこと」だという。すでに90歳代と思われる方が言われるので少し残念な気持ちになったが、そうはいっても、ではなぜ始めたのだろう、そんな疑問も浮かんで、「昼なら家にいる」と言われるので、特養の母を訪ねた後にもう一度伺うことに。

 ということで昼どきに再び訪れると総代さんに話をうかがうことができた。今年は2月6日の夕刻にお日待を行ったといい、お札を立てたのは翌日以降だという。松福寺は中川村大草にある常泉寺の末寺で、ずいぶん前から無住だという。お日待には常泉寺の住職が来て経をあげるという。言ってみればお札への魂入れのようなものか。お札は版木があって自分たちで刷るという。ということはここ1、2年に始まったことではないよう。松福寺に鈴木さんという方が住んでいてその方が経をあげていたようだから、ある程度昔から行われていたと考えられる。このお日待は旧正月に行っていたという。お札の主旨は魔除けだといい、日曽利の周囲というか境界域ともいえる4箇所に立てられるという。南は中川村境の押場下の主要地方道沿い、西は天竜川の日曽利橋を日曽利側に渡ったところ、北は日曽利の北側にあるかつて水田地帯だった現在は「田舎の風」というキャンプ場の北はずれ、東は奥まったところにある山の田という集落の林道に立てられる。1年間立てておき、翌年のお日待の際に焼いてしまうというが、実際に立てられている4箇所をよく見てみると、以前に立てられた残骸が残っている。したがって古いものの処理はとくにしていないようだ。お札の正面には「御月待寳牘 松福寺」と書かれている。その中に札が納められていて写真のようなものだった。


 

 

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オカトラノオ

2017-07-11 22:26:10 | つぶやき

 

 信州新町の国道沿いで33゜表示を見た。火曜日ということもあって、久しぶりの長野行きも、いつも中条でとっていた昼を諦めて、コンビニ弁当にした。火曜日が定休だから。車から出るとムッとした暑さに、伊那とは違う空気を感じた。いいや、伊那を出て2時間ほど経っているから、伊那もこんな暑さになっているのかもしれない、そう思いながらも「でも、やっばり違う」、そう理解することにした。昼ごろ長野に着くと、さらに都市部の空気を感じるとともに、無風の中に無性に暑さを追った。笑いがこぼれるほど…。実際のところ35゜までは達していなかったのかもしれないが、会議を終えたあとに出た際の外気は、もはや「長野らしい」そう思うほどの熱気になっていた。

 差別するわけではないが、新町のコンビニに立ち寄った際、意外に大勢の客に戸惑いが湧き、とともにいつもの通り店員の雑談に少し苛立った。ここのコンビニはこのあたりでは唯一ということもあってよく利用するが、ど田舎ということもあってか、顔見知りの客と店員がいつまでも雑談をしていたり、店員同士で雑談が「途切れそうもない」、そう思うことが度々ある。「らしい」といえば「らしい」のだが、短時間コンビニに立ち寄る者にとっては苛立つに決まっている。意外な客の多さに、その対応の苛立ちも重なったせいではないが、客の中に髭面の男性が…。わたしと同じあたりの棚を右往左往していて、さらに鬱陶しさが。言いたくはないが、髭面というのは近くにいて苛立つ。差別だったらお許し願いたいが、そうはいってもわたしの周囲にはいないので、どうも気になってしまう。ふつうじゃないことへの苛立ち、そんなこともあるし、歳を負ってくるとどうでも良いようなところにも苛立つ。何もかもうまくいかなくなっていく前兆なのかも。もちろん手前勝手の自己中であることは深謝。

 会社の古い車の冷房をいっぱいにしても、「なかなか涼しくない」そう思っていたら、窓が少し空いていた。自分で窓を下げたのに、苛立ちを人のせいに…。

 先日の三間畝の観音さんへの道ばたでオカトラノオが咲き始めていた。山際の空間には今もよくその姿を見る。

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押場の観音さん

2017-07-10 23:54:25 | 地域から学ぶ

日曽利押場

 

観音の衣に彩色の痕

 

 「ヨケ道」について触れたが、三間畝(さんましょう)と同じように観音さんがまとめて祀られている場所が飯沼の先、日曽利(ひっそり)にもある。「ヨケの観音さん」で触れたように、三間畝にはヨケ道にあった三十三観音のうち、一番から十七番までが祀られている。ようは十八番からあとの三十三番までは日曽利側にまとめられたということになる。ということは、一番が飯沼側に、三十三番が日曽利側に祀られていたということなるのだろう。もともと同じ南向村だった両者が、今は中川村と飯島町に分かれている。南向村の中心が飯沼より南にあったのだから、当然ムラの中心から日曽利に向かえば、手前が一番になるのはごく普通のこと。そう考えるとこの山道というか川沿いあった危険な道は、主に日曽利のためにあった観音さんということになるだろうか。

 主要地方道伊那生田飯田線を飯沼から日曽利に向かって行くと、「飯島町」という看板が見えてくる。もちろん振り返ると反対側に「中川村」という看板が立っているわけであるが、ちょうど小さな沢が天竜川に流れ下っている。おそらくこの沢が丈ケ沢と言われる沢なのだろう。この看板の上手に少し先の日曽利側から上ると、意外にも現在は転作されているが数枚の水田がある。その山付けに石仏群が見える。ここを押場というらしい。看板が立っていて説明書きがある。


善光寺道と押場の石造群

 古くから天竜川左岸(竜東)の山づたいに開かれたこの道は、日曽利から中川村の飯沼と駒ケ根市吉瀬を結ぶ重要な生活の道でした。
 この道は、日曽利と飯沼に残る道標から、古く善光寺道と呼ばれ、また古瀬に残る道標から高遠道とも呼ばれました。
 昭和の初め、天竜川電力株式会社の報償道路として竜東線(現在の竜東線の前身)が完成してからは、この道を使用することはなくなりました。
 この押場地籍は、中川村との境界で、この先の丈ケ沢を渡ると、「よけ」と呼ばれた大変な難所がありました。
 押場には、現在三十四基の庚申塔、馬頭観音、観音立像、墓碑があります。かつて「よけ」の道筋に祭られた三十三体の観音立像は、飯沼の観音塚とここに分けられ、押場には十八番から三十三番までの十六体が集められました。
       平成九年三月飯島町教育委員会

 初めて訪れたと思っていたらそうでもない。まだ看板が立てられる以前に立ち寄ったことがある。この石仏群については『長野県中・南部の石造物』(長野県民俗の会編)に掲載している。丈ケ沢を渡ると大変な難所だったという通り、町村界を過ぎると主要地方道伊那生田飯田線は、しばらくの間落石防止用のモルタル吹付区間が続く。いわゆる絶壁となっているようなところ。この難所があったが故に、かつて南向村だった日曽利も飯島町へ分離して合併することになったのではないだろうか。

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ヨケ道

2017-07-09 20:09:21 | 地域から学ぶ

三間畝観音さん

 

ヨケ道の地蔵

 

ヨケ道

 

草刈をする老人

 

 かつて「ヨケの観音さん」を記した。2006年以来、中川村飯沼の三間畝(さんましょう)というところにある観音さんを訪れた。今でこそ車の通れる道幅で観音さんまで行けるが、わたしが初めてここを訪れた時代には、まだ歩く程度の道しかなかった。対岸には飯島町本郷の段丘が展開し、その向こう側には南駒ヶ岳の峰々が望めるはずなのだが、「ヨケの観音さん」でも触れた通り、今は周囲の木々の枝が伸びて視界が良くない。かつて陣馬形山までよく望めたと言われるほど、天竜川東岸の山々には木が少なかったというが、戦後になって木を盛んに植えたものの、結果的にそれらの木を伐採するに至る前に林業が廃れてしまって、今や山々は鬱蒼とした木々で覆われることに。戦後の山の景観変化は著しかっただろうが、今はただただ木々の伸びる姿を望むだけ。

 ヨケと呼ばれる道は現在の主要地方道伊那生田線より高い位置にあった。飯沼神社脇の道を100メートルほど北へ進むと、山手へ登っていく急坂がある。かつては同じ位置に歩く程度の観音さんに上る道があったのだが、その道が3メートルほどに拡幅された。上っていくとすぐに 左手にお地蔵さんが1体立っている。「安永九子」と見えるから1780年造立。三間畝にある観音さんには「安政七年」(1860)銘のものがあるから、その観音さんよりちょうど80年前に建てられたものだ。道沿いに建てられた三十三観音以外にも、このように道を通る人たちを見守る石仏がそれ以前からあったというわけだ。

 お地蔵さんから少し道を上ると道下に1軒家がある。家の上を下って飯沼神社の方に向かう歩くほどの道が今もある。おそらくこの道がかつてのヨケ道と呼ばれた道なのだろう。ここから三間畝にある観音さんに向かって坂を上っていくと、大きな斜面を手鎌で草刈をされている方に出会った。斜面の上に電柵が見えたから耕地があるのだろう。「畑ですか」と聞くと「水田」だという。今は転作されているというが、この尾根に水を引くのも容易ではなかっただろう。ヨケ道のことを聞くと、いまひとつピンと来ないよう。飯沼側では日曽利側に比べると「ヨケ」ということを言わなかったのかもしれない。「どこまで刈るんですか」と聞くと「上まで」と言われる、大きな斜面をみな手鎌で刈るのだと知り、思わず「大変ですねー」と発してしまった。「仕事だから」と言われるおじいさんに山仕事で鍛錬された背中を見た。

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同じことを繰り返す人々

2017-07-08 23:00:11 | ひとから学ぶ

 信濃毎日新聞本日朝刊の江川紹子さんの発言は的を得たものだった。ここ数日よく取り上げられる安倍首相の「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」と言った東京都議選での応援演説、これに対して江川さんは「ユーモアで切り返すのは無理だとしても、「批判を謙虚に受け止める」と大人の対応をするか、知らん顔で主張を述べ続けるくらいの冷静さは見せてほしかった」と述べる。そして「日本国のそう売り大臣なら」と続ける。ご存知の通り総理大臣は自民党の国民のトップである。国の顔として外を向けば、国の代表としての顔を持つ。ようはどれほど批判を受けようが、その批判すべてを背負って国の顔として存在する。自民党のトップであることは当然であるが、それは自民党というある政治団体のトップであり、総理大臣であるならば、国民を背負っているという顔も、心も必要だ。故にどれほど批判があってもそれらを受け止めて国を考えていくのが総理大臣なのだろうが、今の日本の総理大臣には政権与党のトップであるというおごりが顔として現れる。けして安倍首相に限った事ではないが、だからこそかつて与党となった現在の民進党も、自民党という巨星を落とすために何でもやった。冷静に考えればほかの視線もあっただろうに、「二度とこの党には任せられない」と思わせてしまうほどの失政だっただろう。今の政治への不信感を大きく前進させた根っこに、かつて与党だった現在の民進党の存在があることは繰り返すまでもない。

 江川さんは「内閣総理大臣は、支持者だけではなく、自身に反対する人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だ。自分を批判する人々を「こんな人たち」という言葉でくくり、それに「私たち」ということばを対抗させた安倍さんには、「国民みんなのために選ばれた」という自覚はないのだろう」と言う。その証拠に「国会で野党議員の質問にヤジを飛ばし、委員長から注意をされる場面もあった」と言うし、お友達内閣への批判をいまだ繰り返す姿に見ている。

 先日も触れたが、わたしたちのように政権与党に頼らざるを得ない者にとって、近ごろの問題は残念なものばかり。最低でも失言はして欲しくないものだが、「この人たち頭いいのに何でこんなことを言うんだ」というほど、低レベルに圧倒される。とりわけ安倍首相が秘蔵っ子と思って大事にしているぼう大臣など、とても将来の総理大臣候補などとは思えない。結果的に首相の人を見る目のなさが際立っていると悟られる。長期政権と言われ、さらに待望論もある中、謙虚さという面でこれほど無知な人々を、これ以上支えられない、そう思っている人も多いだろう。都議選はそうした意味で良い結果だったのだろうが、裏を返すと根の深い政治の低レベル化がまたまた際立ってしまった。

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パターン4

2017-07-07 23:17:33 | つぶやき

パターン3より

 わたしは比較的車間をとる方だから、前車がブレーキを踏んでも慌てることなく車間で速度調整を終えることができる。ある程度全車の運転を予測する意味でも、車間は必要だ。しかし予測とはだいぶ異なった運転をする人は厄介なもの。何といってもやたらとブレーキを踏む人。もちろんそれも慣れてしまえばどうということはないが…。

 今朝方会社には一般道で向かった。ところが横から入ってきた車は、それまでのスムースさとは違って速度にムラがある。とりわけちょっとした上り坂に行くと速度は遅く、そして下りになると惰性のようにスピードが上がる。一般的だからそれがどうこうというわけではないが、とりわけ減速するにもかかわらず、上り坂でブレーキを踏む。これ以上減速して「何をしようと言うのか」と。車は比較的大型のワンボックスカー。スモークの向こう側には、業務用のものなのか荷物が映る。上り坂でブレーキを掛ける意図をわたしは理解したくないが、何を考えているのか、こういうドライバーの気持ちは解ろうとしてもなかなか解らない。車の車種、そしてスモークの向こう側に映る光景から、運転手は男性だということは解る。

 そんな前車は、わたしがブレーキを1回踏む間に、50回以上ブレーキを踏んだ。どうすればそんな運転ができるんだと思うだろううが、まさに、小刻みに踏むブレーキは車が故障しているんじゃないかと思うほど、ブレーキランプを反応させた。上り坂ではアクセルを戻せばすぐに減速するもの。わざわざブレーキなど踏まなくても良いはずなのだが、彼らにとって車を制御するのはブレーキだと思い込んでいるのではないだろうか。そう思うほど、同じような運転に出くわす。これもまた、オートマ時代の成れの果てだ。やはり人は記憶から消された行為から学べない、そういう人もいるということなのだろう。

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