Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

アサギマダラ2016

2016-09-25 23:19:19 | 自然から学ぶ

 

 もう半月近く前から我が家に訪れていたというアザギマダラ、今年は例年とちょっと違う。ここ数年あまり耕作をしなかった畑に、今年はフジバカマを植えた。妻がアザギマダラを呼ぼうと、増やしていたフジバカマを、初めて意図的に畑に植えた。山際で、上に木が覆いかぶりそうなポジションが良いのか悪いのかは解らないが、いつもの場所で咲くフジバカマとは違って、丈の短いフジバカマが群生するように花を咲かせている今年だ。とはいっても数メートル四方といったところで面積的にはそれほど広くはない。周囲にもここ数年耕作していない田んぼがあるので、そこにも増やしたらどうかと、ときどき妻との間で話題にのぼる。

 そんな山際の畑に先日も記したように、曇天どころか小雨の日にも姿を現していたアサギマダラ。ようやく陽が顔を出した今日、少しカメラを構えてみた。最初は用心深くわたしが接近するとすぐに飛び立っていたアサギマダラも、しばらく仲を取り持とうとしていると、近寄っても飛び立たなくなった。とりわけ大きなアサギマダラ(ここ数年来では最大かも)は、慣れてくるとじっとフジバカマの蜜を吸い続ける。畑に群生させてしまったため、これまでのように丈の長いフジバカマにとまった蝶を下から見るというわけにはいかないが、いつも通りの光景が広がった。匂いの発散がこちらの方が強いのか、例年の株の方には目もくれないアサギマダラが多い。とりあえず今日は3個体があちらこちらに分散して舞っていた。場所を広げたため、1株に複数のアサギマダラが飛び交うという光景はあまり見られなかったが、フジバカマを増やせば個体数も多くなるということがよくわかった。

 どの個体にもマーキングされていなくて安堵する。今はアサギマダラ流行りで、マーキングする催しも多い。マーキングされても個体に影響はないとはいうものの、人の手にその都度触られていればまったく影響がないということはないだろう。妻はかつてマーキングされた個体もやってきたというが、わたしの記憶にはあまりない。我が家にやってくるアサギマダラは、マーキングされてないものがほとんどだ。

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ハザ掛け2016①

2016-09-24 23:06:23 | 農村環境

ハザ掛け2016 序章より

喬木村富田(2016.9.22)

 

 前回「ハザ掛け景観と、脱穀されてそれらが水田から消えた後の景観には大きな落差があった」と述べた。どこにでもハザがあった時代、水田に身を投じると、人影が消える。もちろんハザが人影を消してしまうのだが、とりわけ子ども目線から見るとハザの高さは圧倒的なものだったとも言える。子どもは成長とともに圧倒的なものから脱却していくわけだが、ハザの上を見通せるようになるまではかなりの成長が必要だ。ようは子どもの世界から見ると、ハザは身を隠す障害物であるし、世の中を隔絶する障害物でもあった。だからこそハザがなくなる脱穀は空間をすっかり広げてしまう変化だったわけである。かつて子どもたちが外遊びを当たり前のようにしていた時代、子どもたちにとってハザ空間は格別な遊び場所になっていたはず。そしてハザ下から覗く世界が、空間をひとつにする唯一の「窓」だったわけだ。この感覚を今の子どもたちが解るはずもない。

 さて、写真のハザは、昨年も紹介した妻の実家の田んぼから見下すような位置にある洞底にあるハザだ。飯田下伊那には今もって多くのハザの姿を見るが、このように等高線に沿ってうねった田んぼに、その田んぼの形に沿って作られるハザは少ない。これもまた昨年触れたことではあるが、水田にハザを作る際、一般的には長辺方向に沿ってハザは作られる。とりわけ今はその傾向は強いが、かつては短辺方向に幾重にもハザを作る農家もかなりあった。おそらく風向きを考えてのことだったのだろうが、稲をハザに集積する効率性から考えると、一般的には長辺方向にハザを作るのが良いと言える。水田の形状が蛇行しているようなところでは、畦の形状に合わせてハザを作ることになる。したがってこんな具合の曲線美を描くようになるわけである。これまで2年にわたってハザを扱ってきたが、曲線を見せる例はこのハザぐらいだったのではないだろうか。そしてこのハザの特徴的なのは、ハザ杭にある。見ての通り、杭の長さがとても長い。ハザ上に長いところでは1メートルほど飛び出ていて、これほどのハザも滅多に目にすることはない。杭が飛び出ていると、稲を掛ける際に邪魔になる。したがって飛び出ていない方が作業がしやすいのは言うまでもないのだが、なぜこれほど長い杭を使うのか、そのあたりはよくわからない。クロスした杭のみで構成しているだけにハザ杭の前後を稲掛けする回数も多い。掛ける速度も落ちる。さらに長いということは重さにも影響する。同じ長さで揃っていた方が扱いもしやすいし、杭を「選択する」という躊躇もない。ちなみにこの曲線を描くハサ、ひとつのハザで繋がっているわけではなく、よく見ると途中で隙間があり、ハザそのものはふたつの構成である。

続く

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会の歴史を残す

2016-09-23 23:55:02 | つぶやき

 先日『信濃』(信濃史学会)のことについて触れた。毎月発行される会報があるということは大変であるが、タイムリーな記事が掲載できるというメリットがある。したがってそのタイムリーさを逆手に取れば、そこに期待する人も多くなる。故に会員を求めることもできるし、会員離れを起こさない要因にもなる。そこを匠に利用していくことも必要なんだろう。いっぽう長野県民俗の会は会報は年刊である。そこにタイムリー性は求められないから、いってみれば論文集という性格が強まる。これを補うものが「長野県民俗の会通信」となる。

 昭和46年に立ち上げられて45年になる長野県民俗の会。まもなく半世紀を迎えるわけであるが、半世紀といえばその間にさまざまなことがあっただろう。このことは今までにも触れてきたことだが、50年という対象は文化財の対象にも遡上するわけだからすでに歴史といってもよいだろう。ここに携わった人たちも、時代ごとに異なり、その時々をすべて網羅できる人はいない。一世代で終わる出来事ならともかく、いつ終わるとも限らない継続であっても、継続されてきた事実を残すことは必要だろう。さもないと過去の経験から学ぶことができない。もちろん個々が誌上に発表した論考が消えることはないが、それをバックアップしてきた組織があってこそのこと。そのあたりの認識が低いことは言うまでもない。だからこそわたしもここで日記にたびたび記してきたわけだ。

 「記録を残す」という意味を教えられたのは、かつて例会通知が通信の印刷に間に合わず、送付時に別刷でコピー版を同封して送付した際のことだった。当時の編集者から「たとえ後になっても、あとから例会の日時と内容を確認しようとしても、通信に掲載されていないとわからなくなってしまうので、次号の通信に掲載したほうが良い」と言われ記録することの大切さを知った。今も時おり別刷の「通信」の「通信」のようなものを同封するのだが、本来なら事務局が訴えたいことも「通信」に掲載するのが本旨といえる(したがって会員に別刷だからこそアピールできる、という狙いでその内容は選択しているつもり)。いかに印刷物に記録として残すか、そういう視点で作られているのが「長野県民俗の会通信」だと思っている。

 ということで、会では総会後の「通信」に総会報告を必ず行い、収支報告も行っている。ところがこの収支報告がされない会も多い。たとえば伊那史学会を例にみよう。毎年「年次大会」といわれるいわゆる総会に代わるものが1月に開催されているが、その報告は誌上に掲載されない。会員にしてみれば自分たちの会費の使われ方を知る権利があると思うのだが、それはされていないし、総会報告も簡単で新聞記事並だ。そもそもそんな記事が掲載されていても読む人は少ないかもしれないが、それこそ伊那史学会ほどの歴史があれば、その時代時代ごとに背景でいろいろあったはず。それを読み解く意味でも、会の運営に関する部分も記録として残すべきだったのではないかと思ったりする。すでに伊那史学会史が出来上がっているのだから。そう捉えると収支報告を行っていない会はほかにも見られる。また日本石仏協会や近在では柳田国男記念伊那民俗学研究所などのように、総会後に発行される会報に別刷で収支報告を同封する会もある。しかし前述したように別刷印刷物は破棄される傾向が高い。やはり会として公な印刷物にそれは掲載されるべき、そう思う。冒頭で触れた信濃史学会は毎月論文を掲載するという主旨の強い雑誌ではあるが、ちゃんと収支報告は誌上に掲載されている。運営はあくまでも裏方であって表にでるべきものではないだろうが、歴史を刻んでくるとそれもまた記録されるべき価値が派生する。軽んじられるものではないとわたしは思う。

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彼岸の中日

2016-09-22 23:44:06 | つぶやき

 

 昨年の今日は「国民の休日」だった。希にみる土曜日からの5連休だったわけだが、日記にはこう記している。「人手があることもあって、この時期はどこも稲刈りりのころだ。とりわけ今年は天候が続く」と。今年と違って昨年は連休期間に天候が良かった(昨年の日記でも天候不順を嘆いている。にもかかわらず連休には稲刈りができた、ということで、今年がいかに悩ましいか解るだろう)。ということで昨年の今日は、我が家でも帰宅していた息子の手を借りて稲刈りだった。ところがどうだろうことしは、田んぼには水が溜まっていて、これでは天候が回復していても、我が家の田んぼではすぐに機械が入って稲刈りというわけにはいかない。今週末から天候が回復するといっているから、水はけの良いところではようやく稲刈りとなることだろう。それほど稲が実らない我が家の水田なのだが、今年も頭をもたげてきて、倒伏するのも時間の問題だ。加えて遠くにいたときの息子の方が「猫の手」になったが、帰ってきた息子の手は「猫の手」以下と成り果てている。悩み多き実りの秋を迎えている。

 今年は妻がフジバカマを増やした。荒れていた畑にもフジバカマを植えたのだが、丈は短いが賑やかに咲いている。さすがに雨天の中では稲のごとく頭をもたげているが、そんな中でもアサギマダラが舞っていた。雨天の中で盛んに咲くのはフジバカマばかりではない。ヒガンバナが盛んに咲く。こちらはモグラ避けに増やしたもの。ちまたでもヒガンバナが盛んに咲く。その通り彼岸の中日だ。

 災害のたびに仕事が忙しくなることからこの日記でも何度となく台風のことは記してきた。先日も台風16号を迎えたわけだが、それほどでなく安堵といったところだったが、仕事のうえで最も記憶に残るのは昭和58年に到来した台風10号だ。帰路中川村を通ってみたが、天竜川の傍に立つ石碑に目が留まった。「昭和五十八年九月二十八日の十号台風により堤防六百米決壊 直ちに復旧に着工 昭和六十一年四月圃場整備を兼ね完成 再び瓦礫の地にならない事を祈りここに記念碑を建つ」と背面に記されていた。昭和62年8月に建立された記念碑は、関係者30名(背面に名が刻まれている)によって建てられた。「着工昭和59年10月 竣工昭和61年4月 面積13町3反6畝 工事費1億2千646万円」と記されている。当時わたしは飯山に暮らしていて、飯山で発生した災害復旧を整理した後、下伊那郡下條村の災害復旧のために1ヶ月下條村暮らしをしたものだ。県内のいたるところで災害が発生した、記憶に留まる台風だった。

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ハザ掛け2016 序章

2016-09-21 23:36:32 | 農村環境

 ことしはこのところの悪天候で稲刈りが遅くなっている。先日の松本行きでは久しぶりに飯田線を北上したわけであるが、まだまだ稲刈りはこれからという光景が車窓に映し出された。とはいうものの、稲刈りの終わった田んぼも多く、ちょうどその日は車窓に稲刈りの光景も見られた。北上しながら思ったのは、これまでも何度も触れてきたことだが、ところが変われば稲刈りもすっかり変わるということ。飯田市下伊那では昨年、一昨年とこの季節に特集を組んだように、ハザ掛けの光景が今でも当たり前のように見られる。しかし、下伊那郡から上伊那郡に入った途端に、ハザ掛けの姿はすっかりなくなる。昨年「ハザ掛け2015 第5章」「ハザ掛け2015 第6章」において上伊那におけるハザ掛けを扱ったが、ごく限られた例とも言える(西天竜のエリアではハザ掛けの光景がよく見られるが)。とりわけ下伊那郡の北端にある松川町から、上伊那郡の南端にある飯島町や中川村に入ると、ハザ掛けそのものが目に入らなくなる。飯田下伊那ならごく当たり前のように目に飛び込んでくるハザが、探さないと見られないのである。これまでにも触れてきたように、上伊那では畑より水田が圧倒的に多く、下伊那では水田より畑の方が多い。したがって水田の多い地域によりハザ掛けの光景が見られても良いのだが、占有率の多い水田にそれを見ることはない。ようは大規模化されているからバサ掛けのような手間のかかることはしない、ということになる。そもそも受委託が当たり前になっている今の現状からすれば、ハザ掛けは委託していない証なのである。零細農家が今もって自らの手で稲作を行っている。だからハザ掛けが今も見られるというわけだ。とりわけ受委託の先進地だった飯島町においてはハザ掛けの光景は少なく、それこそふつうに走っている幹線道路や飯田線沿いではほぼ皆無といってよいほどその姿はない。全町ほ場整備を一斉に行った地域だけに、水田農業の流れが一様に変化した地域と言える。したがって探せばいくらかのハザ掛けはあるのだが、それらは一様ではない場所、ようは段丘と段丘の間の狭隘な土地であったり、宅地沿いの水田であったり、環境的に限られてくる。

 さて、上伊那に入るとそんな具合にハザ掛けの光景はまったく見えなくなるのだが、これはその後飯田線沿いではずっと続く。そして水田と畑がほぼ半々くらいになる辰野町に至ると、再び飯田線沿いにハザ掛けの姿が若干見られるようになる。そして何より驚くのは岡谷市に入った川岸駅付近の光景だ。ほとんどの田んぼでハザ掛けをしている。そしてさらに異なった光景が見えてくるのは岡谷駅に近くなってのこと。すでに家々が密集している光景が車窓に映るのだが、意外にも天竜川沿いに水田がけっこう見られる。それらのほとんどの水田は網で囲われている。中には水田全体を網掛けしているところも多く、そんな網掛けされた水田の中で、今まさに稲刈り作業をされている人たちがいた。誰かが始めると真似するように広がる、そんな例なのだろうか。飯田下伊那では見たことがない光景、と思っていたが、その後少し注意深く見ていたら、豊丘村で同じような網掛けをしている水田をひとつ見ることができた。これから流行るのか、それとも特別の理由があるのか。

 ハザ掛けの時期はせいぜい半月ほどのもの。短期的な伝統的景観とも言えるが、短期的だけに人々にはそれほど意識されていない。わたしの記憶では、この短期的ではあるがハザ掛け景観と、脱穀されてそれらが水田から消えた後の景観には大きな落差があったという記憶がある。以前にも触れたことなのかもしれないが、この落差感については、次回触れてみたい。

続く

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境目のころ

2016-09-20 23:16:22 | つぶやき

 夏から冬へ、そんな分かれ目の季節を迎えている。気がつけばすっかり陽が落ちるのが早まり、そろそろ半袖では寒さを覚えるようになる。そんなころが、自販機に「温かいものがあれば良いのに」と思う頃。そしてぐっすり眠れるように、暖かい敷布が欲しくなる。

 境目は、季節にも空間にも、そしてこころの中にも巣食う。明確なものではなく人によってその捉えが異なるからこそ、「巣食う」と捉えた。わたしに限らず、世話になった人に対して恩を返したい、そう思うもの。とはいうものの、今の世にはあまり成立しないつきあいかもしれない。そもそも世話になるという実感が、昔にくらべると薄いかもしれない。しがらみを嫌えば、なお一層「世話になりたくない」、あるいは「世話になったと思われないようにしたい」と思うようになる。ようは恩を受けたくない、そう思うことによってしがらみは消えていく。ところが、そんな曖昧な思いに限らず、たとえば約束事を反故にすれば、それに対して反故にされた側は信用しなくなる。その要因に幾人かがかかわって、本当のところがはっきりしないような場合、辛い思いをした側は一定の理解を自らの中でし、精算することになる。それはあくまでも自分の中での精算だ。したがって反故にした側と話し合うこともなく、精算してしまうのも仕方ない。それは辛い思いをした側の権利かもしれないが、もしかしたら間違った解釈のまま精算してしまうこともある。ひとのこころの内は、やはり相対した人への精算の連続なのだ。したがって支え合うことが当然だと思わない限り、問題が発生した際の精算が前向きにならない方向を向いてしまう。それを解そうと思っても、上手にできない自分の力のなさに情けなくなる。

 解っていても境目は伸縮自在であり、そしてひとのこころを翻弄する。右に、左に揺れるひとのこころを掴むことは容易ではないのである。

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土手の文化

2016-09-19 23:53:12 | 民俗学

 先日の松本市内での懇親会の席で興味深い話を聞くことができた。旧安曇村稲核は、松本市内から高山市に向かう国道158号線の沿線にある地区で、最近は風穴の里として知られるようになった。稲核というと、かつて松本で働いていた時代、下水の仕事で国道158号線沿いをよく歩いたもの。そんな稲核の七夕を訪れたのは平成15年の夏のことである。稲核では七夕の飾りに笹竹を使わず、もみじの枝を利用する。その理由は笹竹がないから、という単純なもの。たまたま隣になった方が稲核に住まわれている方だったので、この七夕の話をわたしの方から投げかけたのである。ところが話をうかがうと、実は松本市新村から稲核に養子に入られたといい、稲核に来てもみじの枝を使うことを知ったが、生まれた土地である新村ではまた違ったものを利用していたという。そもそも松本平では笹竹を見ることはほとんどない。したがって稲核のように違うものを利用して七夕の飾りを作っていたといえる。ということで新村ではフジンヅルを使ったと言うのだ。このフジンヅルとは、藤蔓かと思って話を進めるとどうも食い違う。フジンヅルはクズだというのだ。いかにも藤蔓だと思わせるような呼び名がなぜ生まれたかというと、想像するに藤蔓に似ていたからではないかという。クズの蔓を採ってきて、家の柱と柱の間にそれを注連縄のごとく張り、そのクズの蔓に短冊を吊るすという。もちろん笹がないからというが、新村のほかの家でも同じようにクズを使っていたかどうかは、あらためて聞いてみたこともなく、よそでもクズを使っていたと思っていたという。七夕といえば当たり前のように笹に飾り付ける光景を浮かべるが、笹が無い地域は松本も含めたくさんあったはず。そんな地域は笹に代わる物を利用して飾り立てていただろう。新村ではクズの蔓はもちろん、葉も花もそのまま付けたまま採ってきて飾り付けたという。

 そんな話をしながら地域の象徴的目標物の話になった。新村といえば、ちょっと山からは遠い。いわゆる松本の人々が象徴的に捉える常念岳の話をすると、新村では乗鞍岳が印象に強いという。乗鞍岳といえば「白く雪を頂いている」山という印象で、もちろん夏には雪は消えるものの印象では常に雪を頂いているというイメージだというのだ。乗鞍岳は新村からはかなり遠い位置にあるのだろうが、実は松本平から乗鞍岳が見られるエリアは限られている。そしてなだらかな女性的ラインを見せる山の形が独特であることは言うまでもない。新村からは東の美ヶ原も印象的な山のひとつであるが、比べるとやはり乗鞍岳だという。予想もしてなかった答えだったのだが、考えてみれば新村らしい象徴的目標物だと教えられた。

 いっぽう山の懐にあたる稲核にとって山は象徴的なものなのかどうか聞くと、たとえば集落の背後の山は頂きが見えず、そもそもその山が何という山か明確に答えられるほどの山ではないのだ。山の形がはっきりしないような山の懐では、意外にも山は象徴として存在しないのかもしれない。

 さて、クズの話を聞いていたら、新村には土手の文化があったと言うのだ。今でこそほ場整備によって土手はなくなってしまったが、かつては農業用の水路が天井川のように流れていてその土手が大きかったという。クズの蔓はもちろんそうした土手に行って採ってきたわけだが、それ意外にも土手に行って採ってきたものが多かったという。もちろん子どものころはその土手が遊び場所となったもので、とても印象深い空間だったという。おそらく周辺の島立や和田といったところにも土手の文化があったのではないかと言われる。やはり子どものころの記憶にある空間の存在は大きいとも言える。

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文化財と行事と人と

2016-09-18 23:18:33 | ひとから学ぶ

 「文化財というイメージ」で触れた歴史文化基本構想策定に関連したシンポジウムが昨日松本市で行われた。そもそもこうした計画が練られているということは限られた人々しか認識していないだろう。それでもかつてのように行政側が独自で策定していたようなやり方ではなく、市民が関わりながら作り上げていくという方法は、今では当たり前の形となった。その認知度が理想ほど高くならないのは、行政側の問題ではなく(もちろん広報不足という指摘はどれほど努力してもつきまとうだろうが)、受け取る側のアンテナの問題(かつてこのことで行政の方と言い争ったことがあったが、すべてを行政側の問題だと批判するのは住民としてもどうかと思う)といえる。そもそも今回の構想策定には数年かけて、それぞれの地区で文化財に指定されているものも含め、文化財にはならないようなものをリストアップしてきている。それは地域の人々であって、できるかぎり専門的知識を加えずに、地域の人々が大事にしているものを取り上げた。ようは地域の人々にとっての記憶に残る遺産になりうるものとでも言えるだろうか。ところが「文化財」というタイトルを当てはめている以上、そうはいってもそれらしいモノを対象にしなければならない、そう関係者が考えてしまうのも仕方がない。結局、ピックアップされたものをそれらしく物語で描いていくとモノ中心的で、無形の項目が上がりにくいというわけだ。

 今回のシンポジウムでは歴史文化基本構想の第一人者である西山徳明北海道大学観光高等研究センター長の講演が行われた。構想策定以前の基本段階にあたる文化財群の設定作業を行う中では、いまだこの構想のイメージがつかめず、それぞれの地区でピックアップしてきた人たちの共通理解が得られていないという印象はぬぐえず、こうしたシンポジウムを機会にその理解を深めてもらいたいというのが今回の目的と言える。とりわけ他の構想策定に関わられている西山氏に具体的な指導を得たいというのも、関係者の思いであり、とりわけ直接文化財群設定に携わっておられる地区代表の方たちにその具体像を掴んでもらいたいという意図があったとみられる。

 西山氏はいわゆるまちづくり、あるいはそこには地域づくり=活性化という面も含めるのだろうが、文化財を活用してそれを描く方法が歴史文化基本構想だと説く。そして、とりわけ文化財に指定されないようなもの(文化財未満)が急激に無くなりつつあるという。萩市の例をとりあげて地図情報として視覚的に発表されたが、伝統的建造物などが保存されている地域と、そうではない地域が図上に示され、圧倒的な勢いで保存されていない地域でこれまでは文化財として取り上げられなかったが今後文化財になりうるもの、あるいは前述したような文化財未満のモノが失われているという。文化庁を中心とした文化財行政が裾野を広けているにもかかわらず、地方ではモノが失くなっているといい、机上で描いている行政サイド(とりわけ文化庁)には理解できていないという。そうした現象を自ら理解する意味でも、地域住民が自ら大事なものを拾い上げていく作業が必要だということになるだろう。そしてこの拾い上げでは、前述したように専門的知識は考えずに、何でも対象にしていくことが必要だとも。フィルターにかけずに拾い上げる、このとき前述したように知識のある人々はどうしても「文化財」という意識が先んじてしまい、本当は拾えるものを拾えずにリスト化してしまう懸念がある。実際のところ一覧化されたものに感じる生活感のなさは、「文化財というイメージ」でも触れた通りだ。しかしながら今さら拾い上げに戻るわけにもいかないから、いかに文化財群を括る際にそれを補っていくか、それが今後の課題なんだろう。

 西山氏は「埋蔵文化財」を例にして「文化財」の理想的姿を示された。埋蔵文化財は価値が顕在化していないのに、「文化財」と称されている。ところが開発に際しその調査が義務付けられており、他の文化財とはまったく異なった扱いがされている。このことはわたしは仕事に絡んで「なんとかならないものか」と思ったことがこれまでに何度もある。埋蔵文化財は調査が開発側に負担を強いられるのに、影響があると考えられるのに、たとえば民俗調査はなぜ行われないのか、と。今は自然保護の観点から環境ベースに対しての影響評価が当たり前のように行われるようになった。しかしながら埋蔵文化財ほどの扱いはされていない。そして生活環境に対しての調査はもちろん、モニタリングなど口にする人はいない。もはや世の中は既存インフラをいかに継続していくかという時代に入り、今さらそれが必要だというような開発は少ないだろうが、このことに気がつかなかった学者さんたちの視野の狭さに嘆くだけだ。西山氏は埋蔵文化財を取り上げられたが、そういえばと気がつくのが、「文化財」と称しながら本来の「文化財」に当たらない事例がある。「石造文化財」である。これもまた価値が顕在化していないのに、呼称として「文化財」があてられている。これもまた「モノ」であることに違いはなく、「文化財」イメージが人々の中に形づけられてしまっているのも事実だ。

 講演を前にして市の文化財課長よりこれまで松本市で取り組んできた歴史文化基本構想の取組について説明があった。その資料には次のような文化財を総合的に把握するイメージ図があった。今はまだまだ右側の文化財に偏っているが、これを真ん中に寄せる理解と努力が必要ということなんだろう。

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飯田線で松本へ

2016-09-17 23:07:33 | つぶやき

 今夏は松本で会議が何度もあって、松本行きが多かった。もちろん通常は自家用車で行くわけであるが、ときおり懇親会があるとそういうわけにもいかず、公共交通を利用することになる。先日の仕事に関わる方たちとの懇親会でも話題になったのは「飯田線」のこと。その場におられた県(職員)の方は、しばらく前に飯田線を豊橋まで乗って行って来たという。ときおりこうした方と遭遇することがある。全国でも名だたるローカル線だけに、ゆっくり休日を楽しむひとつの例ともいえる。そんななか、長い飯田線にもいろいろな顔があるという話になった。例えば豊橋に近い飯田線は複線化していて、県内の飯田線どころか、県内の路線にはない顔がある。また県境域はご存知のとおり、秘境駅が連続するとともに、トンネルの数を数えたくなるほどその数は多く、家屋が見えないようなところに駅がある山間を走る。そしてわたしがよく利用する飯田以北の飯田線。辰野から飯田までだけでも長いローカル線だ。そしてその中でも多様な顔が見える。

 ということで今日は久しぶりに松本まで電車に乗っている。この日記そのものも数年前まではそのほとんどを飯田線の電車内で書いていた。今は電車に乗って通勤しないから、この日記を続けるのもけっこう容易ならぬこと。わたしがきっとまたいつか利用することになるであろう郡境から伊那市駅までの区間、何度も触れてきたことだろうが、この30キロほどの区間だけでも多様だ。休日ともなれば、日中なら必ず七久保駅で乗車してくる客は日本人以外の人が多い。そして彼女たちは駒ヶ根までこの空間を席巻する。この区間の休日昼間の飯田線に乗らない人たちにはまったく知らないこと。もちろん今日は土曜日だから、その通り七久保駅で彼女たちを迎える。この郡境域から伊那市駅までの光景は、お客を迎え入れることに集中する。もちろん駒ヶ根駅で降りる彼女たちのような乗客もいるが、迎え入れる乗客に比して、送る客は少ない。そして伊那市駅の次ぎの伊那北駅でも大勢の乗客を送ることになるが、こののち中央本線と連絡する岡谷駅まで、前述した伊那市駅までの光景同様に、送る客は微々たるもので、迎える客ばかりという顔を見せる。郡境域とはまったく異なった世界である。

 さて、電車で松本に行くとなると、自家用車で行くときにくらべると、1時間早く家を出ることになる。この1時間とは、それほど自家用車と大差はないと自分の中では思っている。なぜならば、自家用車で松本に向う際にも高速道路を使わないからだ。会議開始時間の2時間前に遅くとも出る、それが自家用車の場合。遅れてはいけないと思えば、30分の余裕をみる。いっぽう電車の場合は時間がある程度設定されているから、あとは駅から会議をする場所までの徒歩の時間を考えて乗車するべく電車を選択する。もちろん1時間に1本程度しか走っていない電車となれば、自ずと選択肢は決定する。それが自家用車で行く場合に比較して、ほぼ1時間という差をもたらすわけである。余裕をみた2時間半と、電車で向う3時間半の間に、そう大差はないという意識が生まれて当然なのだ。

 この日記はそんな松本へ向う電車内で書き始めて、「さて、」以降の後半は帰りの電車内で書いている。そういえば懇親会で、3時間電車に乗っていると言うと、「たくさん本が読めますね」と言われた。その通り、日記を書くためにパソコンを開いたものの、混雑してくる伊那市駅を前にしてそれはバックにしまい、それからは仕事のための本をバックから取り出した。岡谷駅に至るまでの間にそれは一覧でき、もう一冊薄い雑誌を開いて、これもまた、帰路の電車を降りるまでには総覧できそうだ。もちろん最終電車の車内に、もはや誰も乗っていない、いつもの光景を目にしながら、わたしは駅のホームに降り立つ。間もなく暦の日は変わる。

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『信濃』800号発行に思う

2016-09-16 23:05:55 | ひとから学ぶ

 信濃史学会の『信濃』の最新号が届いた。第三次『信濃』を創刊してから800号を数えるという記念号である。毎月発行される、いわゆる月刊の地方史雑誌は全国を見渡しても数少なく、その数少ない月刊誌のうちの一つが『信濃』である。県内にはほかに伊那史学会の発行する『伊那』と、上伊那郷土研究会の発行する『伊那路』という月刊誌があり、全国的にも地域史、郷土史に対して盛んな地域で知られている。ところが、以前に『伊那』と『伊那路』を南北問題に絡めて報告した通り、会員の高齢化と、こうした郷土史からの若者離れで、いずれの団体も会員を最盛期に比べると激減させているのが実情だ。同じことはわたしが事務局を担っている長野県民俗の会でもいえ、会費収入で運営している組織だけに、会員減はそのまま会の運営を逼迫させているのも事実。とはいえ、何といってもその主たる出費であった印刷費の値下がりで、会員減少という問題をクリアしてきたのがこれまでの運営環境である。そんななか『信濃』は内容の質を落とさずに、80ページという形式の雑誌を発行し続けてきた。毎月5、6編の論考を掲載して発行し続けるというのは簡単ではない。長野県民俗の会でいけば会報である『長野県民俗の会会報』を毎月発行するということになる。こんなことを仕事の傍らで続けるのは困難だ。相応の編集担当と、会員がいない限りできないこと。民俗の会では少し前には年刊の会報すら1年以上遅れて発行することがあった。必ず毎月発行するという大変さは、編集している方々の努力が並大抵ではないことは、経験すれば容易に解ること。信濃史学会を運営されている方々に、800号という金字塔を達成されたことを、こころよりお祝いしたいとともに、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 長野県の地域史、郷土史が盛んだった背景には、かつて「教育県」と言われるほど教員のそれらに対する熱意が高かったことがある。しかしながら現在は教員にこうした会に携わる人は少なくなっているのだろう。その理由に教員は「忙しいから」というものがあるのだろうが、わたしのように教員とはまったく無関係で、ふつうのサラリーマンをしている者にとっては「それだけだろうか」、と疑問符を浮かべずにはいられない。民俗の会でも教員の方たちが頑張っていただかないと会は成立しないほど、現状を捉えてもそれは頷ける。それは教員とは少し離れた位置で会運営がされた少し前の時代の状況から解ること。やはり教員のように県内を転勤される方々がおられることで、この広い県の情報が横に繋がるという印象を今改めて感じている。狭い範囲で仕事をされていると、どうしても動きも狭くなってしまう。それが要因となっているかはわたしの印象に過ぎないが、やはり県内を異動を伴って経験されている方たちは、仲間の頼みを無碍に断ることもないし、お互いの気持ちを理解しようという気持ちがあるように思う。ここに広域郷土史=広域異動の人々の自己内省史、とでも名づけようか。そもそも問題意識があるから郷土を学ぼうとする。それを生み出すのは、他人の懐に入るからこそのこと、だとわたしは思う。

 永遠に続くとは言えないまでも、まだまだ長く今の姿を続けて言って欲しい、そう思う800号の発行である。ちなみにこの記念号では、近年の会を運営されている方たちの座談会の内容を掲載されている。多くの地域史、郷土史を運営されている方たちにも参考になる内容だと思う。

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ひとの通らない道

2016-09-15 23:58:45 | つぶやき

 以前にも「遠い」においていわゆる県の出先機関からの所要時間について触れた。きっかけになったのは飯田から売木村へ行くのにどの道が早いか、という疑問から始まった。よく利用するgoo地図のルート検索で売木村までは92分となった。今回も同じgoo地図のルート検索で飯田にある地方事務所から売木村まで検索をあらためてかけてみると、国道151号線周りで96分と算出された。4分の差は何なんだろうと思ったが、わたしが以前起点と終点にした場所と少し違った、ということにしておこう。いっぽう国道153号線周りで検索してみると、100分と算出された。この差は単純に距離差からくるものなのだろう、前者は44.5キロと、後者は46.5キロと算出された。その差2キロということだが、実際に走ってみると、以前にも触れたようにどちらも45キロほどとその差はほとんどない。さらに検索された90分というほど時間を要しないことは、「遠い」でも触れた通りだ。おおよそ1時間、実際のところ1時間を少し切るくらいが通常の所要時間だ。

 昨日も午後打ち合わせがあって売木村へ。かつてのイメージがあるから、あまり考えないと自然に国道153号線の方に足が向く。売木峠のトンネルが開いてからというもの、一般的には検索通り、国道151号線周りの道を選択する人が多いようだが、わたしの記憶と、実際の経験値から自然とその逆の道を選択するのが通常だが、昨日は国道151号線ルートを選択した。時間帯もあるのだろうが、昼前後の売木行きは、国道151号線周りなら1時間はかからない。が、ネックになるのは阿南町早稲田から新野までの国道151号線だ。とりわけ帯川から新野まで続く上りは、途中に登坂車線がひとつもない。上り坂が連続し、そこそこの急坂だから、ここに大型車が走っていると所要時間がかかる。カーブの連続だから追い越す車はほとんどいない。大型車が避けてくれないかぎり、低速で新野まで走ることになる。避ける場所もなかなかないのがこの道。山間にありがちな既設の道を拡幅したというような例なら、かつてのカーブ区間に駐車帯ができたりするのだが、帯川新野間はほとんどが新設された道路だからまるで標準断面を連続したように幅は一定している。その路程のほとんどで車が走っていない、平谷売木間の国道418号線の環境と比べると、おそらく通常は国道153号線周りの方がほんの数分だが平均的に早いのが実際と思われる。

 さて、昨日の帰り道は、売木から帯川に連絡する県道を売木川沿いに下って帰った。実際のところこの道だとどのくらい時間を要すのか知りたかったということもある。近年この地域は大雨が降ることがなく、災害復旧工事で通行止めという区間が飯田下伊那にはない。ということで「通行止めではないだろうか」と不暗視することなく安心しておおかたの道は通行できる。売木から阿南町日吉まで6分、日吉から帯川まで11分。合計17分で国道151号線に出ることができた。この間すれ違う車はいつも通り皆無。もちろん前の車に追いつくということもなかった。それほどスピードを出したという印象もなく、少し早めという感じの行程だった。この間を前述のgoo地図でルート検索すると、新野周りは12.6キロ27分、日吉周り県道は13.3キロ30分となった。ようは距離にして1キロの差はなく、時間差もそれほどないということ。実は日吉ルートが意外に早いということになるだろうか。実際のところ日吉周りの道は、「落石注意」看板が多く、路肩に巨大な落石がある光景を数箇所通過した。もちろん最近落ちたようなモノ。したがって場合によっては危険を伴うということで、やはり選択しない方が良い道、なんだろう。落石の間を縫ったり、「でかい」と思うような落石に遭遇すると、ちょっと尻がモゾモゾする。

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2016-09-14 23:14:28 | つぶやき

 一昨日の飲み会のせいもあって、翌日の昨日も体調不良はなかなか回復しなかった。とはいえ具合悪くてもお腹が空くもので、昼には珍しく市内に外食を求めて足を運んだが、そもそも人通りの少なくなった街に外食の求めに応えてくれる店は少ない。そんななか、日々行列を作るラーメン屋が飯田の街にはある。休日ともなると、店の外に20人ほど並ぶのも珍しくない。飯田の七不思議ならぬ、一不思議とも言えるほど、究極の光景だ。どこからこの行列を求めて人がやって来るのか知らぬが、世の中には味の解らない人が多い、そんな光景を見てはたびたび独り言を口にする私である。もちろん、相棒なりが求めない限り、自らその店を訪れることはない。行列を成すほどだから、よそから来た人は、「行ってみたい」と口にすることもあり、仕方なく一緒に行くこともある。これまでたくさんのラーメン屋を訪れたが、県内でラーメン屋でふだん行列を成す店を見たことがない。いつかそんな光景はなくなるだろう、そんな予想もむなしく、この希有な光景は店がここに移転してからずっと続く。むしろ最近の方が行列を見る日が多い。

 会社の近くの店へと思ったが、店をのぞくとそこそこお客さんがいたので諦めて、先の行列を成している脇を通って少し会社から遠い店を目指した。「休みだったらどうしよう」と思いながらも目的の店に近づくと「営業中」とあってホッとする。定食をメニューに並べているから、街の中でも数少ないその手の店である。半年ほど前に20年ぶりくらいに訪れてみたが、それ以来の訪れである。前回と同じものを注文して気がついた。「これが違和感だったんだ」と。ようは訪れる前から、前回訪れた際に抱いた違和感のようなものを持っていた。ところがこの日訪れるまで思い出せなかった。ひとつは玉子のこと。定食のおかずには玉子とじが使われているが、それとは別に半熟玉子が小皿に入れて出された。なぜ玉子が使われているのに、もうひとつ玉子を使うのか。もうひとつは定食だから味噌汁がつくのだが、一般的にはお椀(漆塗りのものが多い)に入っている味噌汁をイメージするが、ここでは瀬戸物というかご飯茶碗のような物に味噌汁が入れられて出て来る。自宅でも漆塗りの椀を使っているので、「いつもと違う」は違和感につながる。それでいてあまり暖かくないので、ちょっと残念。熱いものを好むわたしにはがっかりなのだ。そういえば、と以前のことを思い出す。

 さて、玉子のことはさておき、味噌汁はどちらが本当はベストなのか。そう思って家でご飯茶碗に味噌汁をよそってみる。ふだん使わないから「重い」という第一印象はわくが、意外にすんなりと飲み込める。入れ物ひとつとってみても雰囲気は違うが、果たして味にも影響があるのか、そんなことを思うとともに、「いつも通り」にこだわることはないのかもしれない、そんなことを考えた。

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川は左に流れるのか、それとも右に流れるのか

2016-09-13 23:52:22 | つぶやき

 「描かれた図から見えるもの21」において小布施町の空間意識について触れたわけだが、これまで山を上に配置し、川を下に配置する構図をいくつも扱ってきたが、山と川との位置関係から、水が左から右に流れる場合と、右から左に流れる場合があることは承知の通り。小布施町の場合は、千曲川が下に配置されたから川は右から左に流れる。ようは上流は右側、下流は左側となる。実はわたしのイメージする通常の空間も、川は右から左に向かって流れる。ようは中央アルプスを頂点にして、天竜川は北から南へ流れるから、自ずと構図はそういうことになる。長野県の場合、真ん中あたりを頂点にして、日本海側に向かって川が流れる地域と、太平洋に向かって川が流れる地域に、ほぼ二分される。頂点とするいわゆる象徴的なものを何にするかによって、自ずと川の位置が決まってくるわけだが、ふだんの流れの方向は、知らず知らず自分のイメージとして強く記憶されることになる。

 ところがわたしは仕事がら図面を書くことが多い。日記でも農業用水路のことを盛んに扱っているように、水路にかかわる図面が日常的に仕事にはつきまとう。農業土木の世界では一般的に、用水路なら左側を上流、右側を下流に配置するのが常識的。そのいっぽう排水路においてはその逆で、左側を下流に、そして右側を上流に構図をとる。その目的から類似している河川も排水路と同じように配置されるのがふつうだ。ようは川は左が下流、右が上流というイメージ。これはその筋の人たちが常識としているものであって、一般の人々が同じように捉えているというわけではない。前述のように、もし山を頂点として川を配置したとすれば、大河のどちらに暮らしているかによって、自ずと川の流れは決まり、こと「川」の扱いは人々によって正反対のイメージを作り上げるわけだ。もちろんこれは「山」を頂点とした場合であるが、何を象徴的なものに捉えようとも、山はイメージしなくても、川をイメージする人は多いだろう。これは必ずしも山が近くになく、そして山が霞んで見えないようなところに暮らしている人たちの位置情報の根幹にもなる。とはいえ、川の存在も今やはかないものになりつつあるのは言うまでもないが。

 川に限らずもっと小さい存在の水路については、これからも死ぬまで意識することになるが、とりわけ仕事でこうした常識的なイメージを経験値として記憶してしまっている者にとって、水が左に流れるのか、それとも右に流れるのか、はとても気にすることだし、厄介な情報にも成り得るのだ。「逆さ川」などと言われ、大河とは反対方向に流れる用水路があると、禍いがあるとその「逆さ」を禍いの理由にする例は多い。ということは、人々にとって川の流れに順応するのが当然だという意識があたりまえにあることは言うまでもない。

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大久那へ

2016-09-12 23:33:56 | つぶやき

 

 

 昨日の向方行きでは、せっかく行くのだからと、帰りはふだん通らない道を通ってみた。もうずいぶん昔のことなのではっきりとは覚えていないが、早木戸川沿いから山へかけのぼって阿南町の和知野へ抜けたことがあった。仕事でも通ったことがあるし、仕事ではないときにも通ったように思うが、あまりよく覚えていない。和地野に抜けるには標高700メートルを超える大久那を通る。かつて走った30年ほど前も、ずいぶん山の中という印象を持ったが、そもそもそこで暮らしている人々の姿も目にしなかった。果たして今はどうなっているのだろう、という思いは以前からあって、一度神原から和知野へ抜けてみようとは思っていたのだが、なかなか実行できなかった。

 向方から早木戸川を下って天竜川までそう遠くないところまで下り、戸口の入口を過ぎると鋭角に川へ下る道がある。ここを下ると早木戸川を渡る橋がある。このあたりは標高300メートル台。ここから中久那を経て大久那へ300メートルほど上ることになる。しばらく上ると山の中ではあるが集落っぽい数軒の家が見えてくる。立派な屋根が見えてくるから、もちろん現在も住まわれているようだ。ここに集会所があって、その会所の脇に祠とともにいくつかの石仏が並んでいる。のっぺらな彫りであるが、特徴的な女神を刻んだ蚕神様が印象的だ。「蚕玉大神」と向かって右側に刻まれ、左側には「大正十四年旧八月午日建之」と見える。

 ここから奥はもはや道沿いに家の姿を見ることはほとんどない。それでも耕作されているような空間に出会うとほっとする。斜面に蒟蒻がたくさん栽培されている奥には家の姿もちらついた。耳をすませると刈払機の動力の音が聞こえた。国土地理院の地図には「郷戸」と記されているが、本当は「合戸」が正しいようで、道に掲げられている案内板は「合戸」を示している。この合戸から和知野川に下ると阿南町の和知野に至る。当初は下る予定だったが、案内板に誘われて国道151号へ連絡する林道を選択してしまう。所持していた住宅地図の略図を見ていて、国道に出るには「こっちの方が早い」そう期待してしまった。下ることなく、等高線沿いに同じような景色を見ながら進むのだが、なかなかそれらしいイメージしていた光景が見えてこない。見遠という地を経てようやく遠く眼下に国道151号のバイパスの姿が見え始める。見遠は地積で言うと天龍村にあたるが、役場のある平岡からは遥かな位置にある。とはいえ先ごろ発生した岩手県での豪雨の際には、道が通れなくなって迂回すると同じ自治体内でありながら役場から100キロも走ることになると報道されていて驚いたが、天龍村といえどもそのようなことはない。この日このような道を選択しながら、住宅地図があれば良いだろうくらいに思っていたのが間違いで、正確性に欠ける地図は、イメージ通りにいかず距離感がつかめなかった。

 さて、大久那境、鬼ケ城への昔の道の分岐点に覆屋におさめられた石仏があった。丸彫りの聖観音2体とともに同じ時代に建てられたと思われる青面金剛が祀られている。覆屋の外にも何体か石仏が並んでいて、その中の1体も青面金剛で鋭い目で睨む石仏はなかなかの彫りであったが、何分痛みが激しい。覆屋の中に安置されている3体はいずれも明治3年に建てられたもののようで、いずれにも台石に「明治3年 閏十月 組中施主」と刻まれている。明治5年に太陰暦から太陽暦に切り替わった。明治3年は閏月がある最後の年だったという。

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向方へ

2016-09-11 23:13:39 | つぶやき

 

 

 来春の民俗の会と信濃史学会共催例会の段取りをしに、天龍村向方(むかがた)まで足を伸ばした。飯田から50キロほどの位置にある向方は、天龍村とはいえ、旧神原村でも新野に近い位置にあるため、阿南町新野から入るのが最も近い。飯田から国道151号を南下して約1時間ほどの位置にある。天龍村の霜月神楽という名称て国の重要無形民俗文化財に指定されているのは、著名な坂部の冬祭りのほか大河内の池大神社例祭、そして向方のお潔め祭りの三つを指して言う。正月3日が向方、4日が坂部、5日が大河内という具合に3日間旧神原村のそれぞれの場所で行われる。面形の舞がある坂部のものが最も知られているが、それ以外の神楽は素面で舞われる。写真は平成2年の祭りに訪れた際のもので、当時この写真でも舞っておられた方を訪ねて、当日地元の方で話をしていただける方の調整をしてきたというわけだ。ことしは野沢温泉で同じ例会を開催したが、今度は南の端っぽでの例会。野沢温泉は新幹線の開通によって東京からも近くなったが、向方は飯田からでも車で1時間、飯田までがそもそも時間がかかるから、ことしのように県外から多くの方が参加するというわけにはいかないだろう。

 とはいえ、県南の県境域で行われている祭りはどこでも実施することそのものが厳しい。以前にも例会で企画した阿南町日吉のお鍬祭りのことについて触れたが、祭りを執行するだけの人が集まらなくなって指定文化財であっても中止を余儀なくされているのが現実である。向方でも先年、DVD制作のために本来の「お潔め祭り」を再現したが、例祭であっても人手は厳しい状況という。そんななか、東京から興味があって舞を習って参加する方もいるとか。地元の出身というわけではない。今はそういう人材も大事な人手となっているようだ。現在50戸ほどという向方であるが、一人暮らしの高齢者世帯も多いという。わたしもそうだが、「若い」と言われていた人たちがすでに高齢者の仲間に足を踏み入れるところまで達し、先行きはなかなか大変な様子。舞の保存伝承で中心的な方は、所帯は飯田にあり、そこから向方まで通いで働いておられるという。向方に山や農地があってその耕作のために通っているという。それも定年後にそうした通いを始めたというのではなく、若いころから出作りのように通っていたという。事例としてはあまり聞いたことのないタイプの暮らしぶりである。

 話をしていて知ったことは、盆のかけ踊りのこと。向方では8月14日と16日の夜、寺に切子灯篭が集まるとそこでかけ踊りがされ、念仏の後盆踊りも行われていたのだが、もう何年も前からかけ踊りは行われていないという。笛の方々が亡くなったり、かけ踊りを実施するだけの人がなかなか集まらないのだという。かつて訪れた祭りや行事が、気がつけば実施不能となっている、そんなことが今後増えるのかもしれない。

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