Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

防災訓練の脇で

2016-08-28 23:55:26 | つぶやき

 まもなく9月という日曜日ということもあって、地元では防災訓練が行われた。緊急地震速報(訓練)があって、隣組ごと決められた場所に集まって無事を報告。その後組長が自治会へ報告する、そんな簡単な訓練だが、集合場所がそこで良いのかどうかはあまり組内で話し合ったことはない。訓練時に同じ場所を集合場所にしているから、本当に何かあったときは、きっとそこに集まるしかないのだろうが、そもそも組ごとに集合するのではなく、最初から自治会の集合場所に集まる、と考える人もいるのだろう。

 この正月から隣組から「定年」のように抜けられた方がいる。以前から80歳になったら周囲との付き合いにけじめをつけるようなことを発言されていた。「変わっている」と言われる口かもしれないが、それなりに意図があってそんなことを言われていたのだろう。とはいえ、自治会内で家族調査をして、もしもの時の安否確認をしようとしているのに、そもそも高齢だからといって自治会を抜けられるのは、自治会のあり方にも一石を投じるもの。もちろんその人が「変わっている」からといってみなそれを議論することもなかったが、違和感のある存在だ。それでいて、この方、我が家の周囲では最も姿を見かける人。同じ隣組だったから当たり前といえば当たり前だが、農業をされているということもある。高齢になってからも新たな農業を展開し続けるから、この地域では一番働かれているかもしれない。そもそもそれほど働いているにもかかわらず、地域から無縁を選択するというあたりも、周囲で暮らしている者にとっては不自然な環境なのである。今日も隣の耕作放棄地で何やらやっている。真夏日の炎天下でも当たり前のように働いていて、朝も早ければ暗くなるまで働かれる。まだ組合におられた時も、冒頭の防災訓練があると、「忙しいから」と言ってこんなくだらない(と思っていると思う)ものには参加されなかった。考えてみれば自治会のあり方を無言で批判されているようにも見えるが、そもそもの理由である年齢による離脱というあたりからうかがうと、これは本当の理由ではなく、もともと自治会のつきあいに対して異論があったと捉える方が正しいだろう。つきあいができなくなって辞められることはあっても、より働くことを重視して辞められる、それも農業だから地域で働くわけでとても違和感がある現象である。働いている脇で、訓練だと言って集まっているわたしたちはアホみたいに映っていないだろうか。

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モノの使いやすさを問う・その1「キーボード」

2016-08-27 23:24:14 | つぶやき

 これは年齢のせいなのか、そう思わせることはいろいろある。しかし、そう思うのは使っているものが変わっていくということで、それに対応できない年齢的なもの、という捉え方もあって、必ずしも年齢のせいにだけにはできないようなこともあるのではないか、そう思うこともある。たとえばパソコンのキーボードだ。いまだにかな変換を使うわたしには、最近のパソコンはずいぶん使いにくい。かなを打っていても、自然とローマ字変換になってしまうのが最近のパソコン。何か設定があるのかどうなのか、そんなことを思うが暇もなく検討していない。おそらく近ごろのパソコンは思うようにならない、そんな結論が多いから調べもしない。そんなキーボード、かな変換で打つから日本語を打つのは周囲の誰よりも早かった。ところが最近どうも打ち間違いが多い。したがって「年齢のせいか」と思ってしまうのだが、確かに老眼が進んでメガネ(近視用)を掛けていると少し打ちづらくなった。

 ふだん使っているパソコンは会社で使っているものはキーボードは従来型の購入した際についてくるものだったが、水をこぼしてしまって壊れてしまい、自分でキーボードを買ってきたものを使っている。打ち間違いがないだろうと思って買ってきたものは、いわゆるキーとキーの間に隙間のあるタイプのもの。これが使いやすいものなのだと思わされて使っているが、自宅で使っているノートパソコンも同様にキーとキーの間が隙間のあるもの。会社で使っているものとほぼ同じタイプのキーボードだ。だから打ち間違い多くなって、打ちづらくなったのは、キーボードのせいだとは思わなかった。ところがたまに従来型のキーボードを使ってみると、打ち間違いが少ない。「使いやすい」と思ったりする。ようはキーとキーの間に隙間のないものの方が使いやすいのだ。

 ところがだ、今時のノートパソコンを見てみると、ほとんどがこのタイプのキーボードで、従来のようにキーとキーとが密接しているものは見かけない。ということは世の中ではこのキーボードの方が使いやすいと考えられているのだう。もう一度今使っているノートパソコンのキーボードを調べてみよう。隙間のある分、キーが小さい。したがって打ち間違いというよりもしっかりキーを狙わないと隙間を叩いてしまう。錯覚なのかもしれないが、キーが小さいから、隣のキーホ打とうとしても「遠い」という印象がある。手を一層移動しようと頭に指示しないと間違えてしまうのだ。ということで、明らかに今時のキーボードは、わたしには使いづらい。使いやすいを考えてこのスタイルのものが出てきたのだろうが、一斉に右に倣えをしなくても良いのに、世の中はそう流れている。これが本当にベストなのかどうなのか。選択肢の多い時代のように思えるが、実は選択肢の少ない時代なのかもしれない。そして、使いやすさは必ずしも世の流れと一致していないこともあるのではないか、そう思う事例のひとつである。

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郡境を日々越えて

2016-08-26 23:58:42 | つぶやき

 このごろは「電車」に乗っていない。それだけすべてにおいてゆとりがないからだ。以前にも記したように、地方は車で移動した方が早い。したがって時間を無駄にしないと思えば車に限る。したがって時間がない=ゆとりがない、ということになる。もはや9月もすぐそこ。もちろん夏が終わるはずもないが、近ごろは夏が暑く、それも9月にまで真夏が延長したから、逆に言うと気がつけば収穫、そして晩秋と、「まだいいや」と思っていると大変なことになってしまう。まさに公私ともにそれに陥っている。

 そんななか、この8月を終えるにあたって、久しぶりに伊那まで電車に乗る。まだまだ青々とした稲は、穂をもたげ始めている田もあるが、収穫には早い。そんな水田地帯が車窓には広がる。やはり上伊那へ入ると水田が目立ち、また山が象徴的にそびえる。昨日も松川町の段丘上を訪れると、石垣で積まれた畦で区切られた空間には、長い間続けられてきた果樹園が維持されている。わたしの家の周囲ではほとんど伐られてしまった果樹が、ここではまだまだ継続されている。それらは明らかにかつては水田であったであろう土地に植えられたもので、そうした空間をもう半世紀ほど継続しているのだろう。もちろんかつて水田であったであろうと思われる空間だから、脇には必ず用水路が流れている。もちろん水田用水として利用されているのはわずかで、果樹に使われるといってもわずかだから漏水しても差し支えなかっただろう。したがってこの地域は水路という水路が昔ながらの水路だ。いわゆるコンクリート二次製品のようなもので整備された水路は少ない。わたしの生まれ育った飯島町とはまったく違うといってよい。どれほどの人が景観からそれを察知しているかは知らないが、耕作空間の土地利用にしても、農業用施設にしても、その考え方は大きく異なる。隣同士の町でこれほど姿が異なる例は珍しい、と常々思っている。

 先般「田切地形」の話をとりあげたが、伊那谷の南と北という学術的、あるいは地質学的な差異だけではないと、このふたつの町を行き来しただけでよく解る。もちろん地形が関係しているから、それが学術的にも地質学的にも差異を認めさせる要因になっていることは確かなのだろうが、たまたまここに上下伊那境界があるというのも不思議な糸を感じる。大田切川がどうのこうのという問題ではなく、ここに境界線を「引いた」という原点に意味があるように思う。繰り返すが、これほど郡境、町境で姿を変える例は珍しくないだろうか。そしてわたしは境界線の北側で生まれ育ち、今は南側で生涯を終えようとしている。

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「裏道」の「裏道」を選ぶ人

2016-08-25 23:18:48 | ひとから学ぶ

 南箕輪村の田畑から伊那市内へと向かう道でのこと。いわゆる幹線道路ではない「裏道」と言われるようなこの道は、国道153号線の新たなバイパスから市街地へ向かう際に利用される「裏道」にあたる。さすがに「裏道」ということだけあって、途中には相手の通過するのを待ってからでないと渡れない橋があったりして、マニア向けの道であることは違いない。間もなく市街地というあたりに差し掛かったとき、後ろに軽乗用車が接近してきた。当時わたしも2車線あって直線だったということもあって60キロ以上は出していたと思う。したがって軽自動車は同じくらい、あるいはそれ以上出していたかもしれない。市街地に入るといわゆる2車線はなく、軽自動車なら楽々、軽自動車と乗用車なら減速して、というすれ違い感覚の狭さで、いってみれば下手くそな方は、行き違う際にいずれの自動車に乗っていても徐行から停止するくらいしないとすれ違いができないこともある。ようはそれまでの流れから急激にスピードダウンすることはいつものことなのだが、マニア向けということで通行量はそれほど多くなく、対向車がいなければ40キロから50キロほどの速度で走る車は普通だ。ようは前に遅い車がいなければ、あるいは対向車が続いてやってくるような状況でなければ、普通に走れば普通に市街地の中心道路に結ばれる。

 ところが、前述のように前方に「遅い」雰囲気があれば、さらに迂回する「裏道」というやつがある。わたしも時折利用することはあるが、10回走っても1回その「裏道」を使うか使わない程度の道。この日前方に1台車は見えていたが、それほど「遅い」という雰囲気でもなく、「裏道」の「裏道」を選択するかどうかなどと頭にもよぎらなかった。ところがである。後ろについていた車は、迷わずその「裏道」の「裏道」に右折した。たまたまその先に家があるかもしれない、とは考えられるが、ここまでの流れ(そこそこ出していた私についてきて、さらに接近してきた)を見ると、「裏道」の「裏道」として選択したのではないかという予測もした。

 予想通り、普通に車は進み、市街地の中心道路に入る信号機にたどり着いたのだが、これもまた予想通り、「裏道」の「裏道」に入った軽自動車がその「裏道」からわたしの通過した道に出るところから先に姿を見せていた。やはりわたしの想定通り、軽自動車は明らかに「裏道」の「裏道」としての期待に裏切られていた。もちろんわたしは「そこまでして前の車より前に出たいのか」と呆れたのは言うまでもない。実はこの軽自動車を運転していた方、直線道路で走っている際にうかがっていたが、30代くらいの女性だ。ふだん常用している道なんだろう、さすがにこの「裏道」の「裏道」を使って市街地に入ろうとする車は100台いても1台あるかないかくらい。速さではなく、狭い道を対向車とすれ違うのが嫌だから通行量の少ない道を選択しているのかもしれないが、わたしに接近してきたというあたりからして、そうは考えられない。まさに世の中「いろいろ」な人がいる。

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センターライン

2016-08-24 21:33:33 | ひとから学ぶ

 今年になってからというもの、運転に関する日記を何度も記している。とりわけ行き交う車がセンター寄りを走るのが目立つということは何度も触れているし、相変わらずびっくりするくらい寄ってくる車が多い。考えてみれば、かつてと道の様子が違う。一応地域の幹線道路、それも主要地方道というやつだから通行量も多いのだが、昔からの道だから道幅は比較的余裕がない。もちろん昔からの道だから、沿線に家が建て込んでいるところも多く、故になかなか道が広がらず、将来的には現在の道を広げるのではなくバイパス化でもしない限り道幅を広げられないというところがあちこちにある。記憶を遡れば、こうした道はかつてはセンターラインが引いてあった。もちろん記憶の新しい時代には、そのセンターラインはイエローだった。ところがである。そうしたセンターラインが今の舗装上からは消えているのである。イエローの部分が明らかに減少しているし、部分的に広げられた箇所は破線の白いセンターラインが引いてある。ようは一時のことを思うと。ずいぶん追い越し禁止箇所は減少した。したがって無理をすれぱ追い越しできないことはないし、捕まることもないのだが、センターラインが消えたから多くの車がセンター寄りを走ることになって、禁止はされていないものの、なかなか抜けないのだ。それでも無理をすれば、まるで犯罪でも犯した者を世間のさらし者にでもしようとばかりクラクションを鳴らす車もいれば、嫌がらせをする車もいる。あえてイエローのラインを引かなくても、世間が抜かせてくれないことをわかっていてイエローが消されたようにも思える。

 が、しかしそれは違うのだろう。古い舗装面には、かつてセンターラインが引かれていたことをうかがわせるような跡が残っている。センターラインは「頓に思うこと・後編」で詳しく述べたように、道路構造令上最低でも1車線あたり2.75メートルの幅が確保できないと引くことはできない。幅員2.75メートルというと道路構造令上の区分第3種4級以外に該当しない。第3種とは高速自動車国道及び自動車専用道路以外の道路で「地方部」の道路にあたり、その4級とはほぼ山地部の道路を言う。長野県内の道路は幹線道路でも、ほとんどがこれに該当する。以前にも示したとおり、2.75メートルの2車線分=5.5メートルの幅が路肩を除いてなくてはならない。第3種4級の場合、路肩は0.75メートル、あるいは0.5メートルとされているから、最低でも全幅6.5メートルないとセンターラインは入らないのである。ところがかつてはそれより狭くてもセンターラインが当たり前のように引かれていた。想像すればセンターラインが引いてあるのにもし事故が発生すれば、道路管理者にその責任の一端があると判断されるかもしれない。そこで法令を曲げている例は世の中から抹消されることになった。とりわけ上部団体である国や県の冠が付けられている道路から、おそらくすっかり消されたのではないだろうか。いわゆる現代の流行言葉「コンプライアンス」問題なのだ。そして消されたが故に、センターラインの無いもののそこそこの幅がある道路において、より一層「危ない」と思うことが続出する結果を招いている、そう思う。

 なるほど上位組織に働く人々ほど、曲がったことはしなくなった。横断歩道があれば、必ずそこまでたどり着いてから、車が往来していればそれらが停車した後に渡る。カーブ越しにある横断歩道だから、前車が停車することに気がつかずに急ブレーキを掛ける音が聞こえようと、間違っているのはそれを想定して運転しなかったドライバーとなる。明らかにセンターラインの物語同様に、危険度は増すが、これが正当なのだ。その近くで斜行して合間を縫って渡っているわたしは、彼らに咎められること必死なのだ。したがってお役人の近くは歩きたくない。

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“位牌分け”のススメ

2016-08-23 22:10:29 | つぶやき

 「枝義理と位牌分け」については頓挫してしまっているが、相変わらず検索キーワードにたびたび登場するのは「枝義理」である。両者には同じ背景があるのでは、という意見をもらって調べようとしたがなかなか進んでいない。しかし、両者は明確に異なるとわたしはイメージしている。そもそもこの盆を迎えて思ったのは、位牌分けのこと。1ヶ月ほど前から母がまた入院した。ようやく家に帰ってきて生活していたが、尿路感染で入院することに。治ったので家に帰ればよいのだが、入院と同時に身動きできない日々がしばらく続いたら「歩けない」(家の者がそう判断)となった。したがって家に戻っても無理だからと、入院が長引き、結局再び老健入りとなった。そんなこともあって盆に生家を訪れたものの、不在だったので線香のひとつもあげずに帰った。正直なところ母が生家にいれば立ち寄れるが、そうでないとなかなか立ち寄ることもままならない。いいや、母がいてもなかなか顔を出しにくいのが現実。

 盆なのだから息子が父の位牌に線香をあげにいくのは当たり前なのだが、結局今年の盆はそういうことですでに仏様は送られた。なんとなくわたしにとっての盆は、今年は訪れなかったような気がした。そう思ったら浮かんだのが、位牌を分けてもらうということ。仏壇を用意するにこしたことはないが、けしてなくてはならないものではない。何もないでは拠り所にならないから、位牌だけでも分けてもらうのはどうだろう、そんなことを思った。位牌分けの風習は地域性があるようだが、そもそも現代には位牌分けの考え方が適しているように思う。家制度が解体し、兄弟であってもそれぞれの生活が始まると冠婚葬祭くらいしかつきあいがなくなる。そして家族はかつてのような画一的な状況にない。それぞれ多様な問題を含みながら葛藤を続ける。であるならば、亡くなった父母の供養をしたいのならそれぞれ位牌を持って、それぞれで行う方が制約もなく供養しやすい。あえて「家」にこだわらないというのなら、位牌分けを行うのがベストと考える。

 かつては家制度が確立していたから、わたしがここで言うような理由で位牌分けがされたはずはない。が、今のように嫁いだり、あるいは分家した者が容易に生家に戻れない事情があれば、位牌を分けてそれぞれで供養することが求められただろう。それがしだいに嫁いでも生家に帰れるようになったり、分家しても家に帰ることが容易にできるようになると、自ずと分身ではなく、唯一の仏壇に参ればそれでよくなった。位牌分けが衰退し、あるいは変容していったと言える。がしかし、前述したように、今の世だからこそ求められる位牌分け習俗ではないだろうか。いずれどこかで位牌分けをしたい、そう思っている。そうすれば、我が家にも盆はやってくる。

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“マチ”って何

2016-08-22 23:28:50 | つぶやき

 何年も前にコンビニのことは何度か記したが、今や地方において最も賑わっている店のひとつにコンビニがある。いわゆる現代の「一銭店」とも言えるコンビニは、おおかたの物が置いてあり、銀行代わりもしているから多用途店舗とも言える。ただし、お客が多すぎるから滞在型店舗とは言えない。そうした求めがあるのか、くつろげるスペースを置くコンビニも現在は現れている。何より食料品や使用頻度の高い日用品を置いているから、こうしたものをネットで購入する人は少ないだろう。

 おそらく我が家はコンビニ利用率(金額面)は低いと思うが、利用頻度は人並みにあるかもしれない。同じ手の店舗がいくつもあるから、そこに行けば同じものを常に手に入れることができる、そんなことが利用頻度を上げる理由だ。野菜はほとんど自家で間に合っているから、我が家は食料品売り場に行くことはあまりない。そんななか利用しているのがコープデリ。全国にあるのかと思いきや、関東信越の1都7県が利用エリアだという。なぜか山梨県が範囲外。集合住宅で暮らしていた25年ほど前から利用している。当時はグループ利用だったが、今は個人宅配で利用している。ほとんどは食料品関係だが日用品も利用する。それと食の安全を求める妻は、生活クラブ(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)も利用していて、牛乳や玉子といったものは生活クラブに頼る。

 ということで、我が家はちまたのシャッター街発生に手を貸しているかもしれない。食料費や日用品はそんなことだが、それ以外の少し高額商品(電化など)となると、最近はネットで購入することが多い。とりわけ最近の流れはこうだ。たとえば電化商品、ネット上だけでは大きさや重さというものはイメージつかない。そこでそれらを扱う大型店に行って本物を見てそれらを確認する。「これに決めた」と思うと、もちろんそこで買うのではなく、ネット上で注文する。今日使いたい、と思えばネットでは無理だが、明日明後日で良いと思えば、すぐに配送されてくるから十分だ。なるほど電化商品を扱う大型店が、10年前に比較すると「お客がいない」と思うのも当たり前なんだろう。店は展示場化しているのだ。そんな傾向のせいか、大型店といってもカタログにある商品が揃っているわけではない。最も高い商品はあるが、それ以外の商品を現物で見ることはなかなかできない。ネットではなかなか買えないのが衣料品だ。これはもう試着ということができないからサイズ合わせができない。もちろんいつも同じもの、あるいは同じメーカーの物を利用するようにすれば、サイズ合わせを省略することはできるが。ということで、最近よく利用する靴は店に同じ物がなければネットで注文する。そもそも歳を重ねてくると「店に行く」ということが億劫だ。これもまた高齢化社会に適合している。

 地域で物を売る側の厳しい時代はとっくに訪れているが、これではかつてどんな小さな集落にもあったどことなくマチらしい空間が、すつかり消えてなくなってしまったのも当たり前だし、明らかにマチとして認識されていた空間がことごとく消滅していくのだろう。「マチって何」、そんな時代が来るのかも。

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“時”を描く

2016-08-21 23:15:25 | 

人影はけして多くない坂道へ
いつも通り一歩踏み出すと
その日の先々を重たく感じたり、
あるいは軽く感じたり、
この一歩はその日を推し量る一歩になる。

時おり出会う男性は、
坂の先を歩いていても
その足取りは
大地を踏みしめるかのように
ゆったりとし、
そう時を待たずに
わたしは彼を捉える。
それはどれほど身体が重く、
また軽くとも
容易にその差を縮めるほどの
彼の歩みとわたしの歩みの
大きな違い。
しかしながら、
彼を捉え、
抜き去ろうとするも、
そこには、
自らの呼吸の乱れを読みとられまいと
息遣いを押し殺すわたしがいる。

日々くりかえされる
いつも通りのわたしに、
唯一訪れる場面。
彼がいなければ、
そして
彼の前に出ようとさえしなければ、
訪れない“時”

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葬儀や墓に悩む人々へ

2016-08-20 23:53:29 | ひとから学ぶ

 盆を前にした8月9日の朝日新聞デジタルに寺のあり方を問う記事が掲載された。「檀家廃止・お布施公開し値下げ…住職の「変革」、反発も」というもの。寺といえば檀家があって組織的に維持されてきたもの。それが危うい状況になっているのは、人口減少時代という背景とともに、そもそも檀家制度への抵抗感のようなものもあるだろう。しかしながら地域社会では容易にそこから抜け出せないのも現実のよう。もし容易に寺を選択することができたら、もっと早くに寺の経営基盤が揺らいでいるという話題があがっただろう。記事ではこの檀家制度を辞めた寺の例があげられている。400年以上という歴史のある寺がそれを実践するには批判が多かっただろう。踏み切った理由に「檀家数の減少や、葬儀や法事が簡素化する流れ」だったという。地方にあっては人口減少がより一層危惧される。さらにかつてのような葬儀を望まない人々が多くなり、地方にあっても家族葬が珍しくなくなっている。檀家組織を廃止し、会員制のお互いを縛らない「信徒」制にした。自由に寺を変えることができる。そのかわりに新たな信徒の確保を目指したり、新しいサービスを始めた。遺骨を郵送で受け付ける「送骨サービス」は、荷造りに必要な段ボールを希望者に送り、骨つぼに入れた遺骨を送り返してもらい、敷地内にある納骨スペースに合祀し永代供養をするというもの。送料込みで3万円強で、宗派や国籍は一切問わないらしい。身内が亡くなったが墓がない、あるいは埋葬する場所がない、もっといえば前提として埋葬する場があっても、そこには納骨したくない、といったさまざまな理由がある人たちにとっては、何のしがらみもなく、余計なことを心配しなくてよいという面では利用しやすいサービスといえよう。ずっと骨壷を身近においておくわけにはいかない、そんな人たちには理想的かもしれない。

 ただし記事でも触れられているが、今後の墓事情や葬儀事情を踏まえてこうしたサービスに展開を変えるのは多様な事情があるなかありかだいことであるが、これをビジネスとして捉えて転換するのは、寺にかかわる者としてどうか、という意識はあるだろうし、わたしもそう思う。それなら僧侶などいらないと思うし、そもそも埋葬の法律を変えるべきだと思えてくる。記事でも送骨サービスについて、「単なる経済的対価を得るための行為」と誤解され、「純粋なる信仰心と宗教行為に対する重大な冒瀆及び誤解の起点となる」という曹洞宗宗務庁の意見を掲載している。このことについてサービスを始めた当人は、「宗教も経済的行為の上に成り立っている」と言ったとか。やはりそうした考えのサービスにはお世話になりたくない、そう思うのも自然だ。しかしながら、前述したように、現状に葛藤している多くの人々の思いを、宗教的に叶えてくれるサービスを提供するのも、これからの寺院の役割ではないだろうか。もちろん多様なサービスを、今も新たに画策している人たちがきっといるのだろう。この記事を読んでそんなことを考えていたら、『信濃』(信濃史学会)の最新号が届いた。福澤昭司氏が「現代社会と民俗学-葬儀と墓に寄せて-」というものを書かれている。まとめにおいて「現在、多くの人々が葬式のやり方ゆお墓の維持の問題で悩んでいる」と書かれているように、終活ブームもあって、この環境は今大きく変化を来たしていると思う。我が家でも高齢の義父母の将来あるであろう葬儀のことがたびたび話題になる。今どきかつてのような葬儀をする必要などないじゃないか、というのがわたしの意見だが、地域社会に身を寄せていると、そう簡単にはゆかない。実父の葬儀のあとに展開された多くの法事の有り様に、考えさせられるところは多かったが、今はもう周囲から「変わったことをして」と批判される時代ではなくなっている。何より高齢化社会にあって、かつてと同じ葬儀など似合わない。かつて世話になった方が亡くなったとしても、もはや縁遠くなって何十年も経た方の葬儀にわざわざ香典を持って訪れる必要などない、そう思う。そもそも葬儀は「つきあい」の延長上にあるものであって、こころの中で冥福を祈れば意図は叶えられるはず。それが宗教ではないのだろうか。

 福澤氏は多くの人々が葬儀や墓のことで悩んでいるというのに、「民俗学からの社会的発言はほとんどみられない」と指摘される。過去のしきたり風習を記録してきたから、そうしたものを保存継続するために民俗学があるわけではない。そもそも変化変容することを受容しながら、人々はより暮らしやすい空間・環境を作ってきたはず。今は人々のつきあいが希薄化して、とりわけつきあいに関しては限定的になって画一化してきているのが個々の「つきあい」ではないだろうか。そうしたものを解く一助となるべく、民俗学の視点を展開するときなのだろう。墓に関する福澤氏のまとめにある文をここに紹介したい。

死後には石塔を建てるとか家墓に遺骨を入れるとかということが、非常に古くからの習俗であり価値のあることと思われてしまいがちだが、実はそんなに古くからの習俗ではないことを私たちは知っている。土葬が行われていた長い間、一般農民は埋葬したら土饅頭を作って木の塔婆を立てておくだけだった。木が朽ちれば記憶の中にだけ故人は残り、その記憶もいつしか忘れられたのである。そうでなければ墓地は拡大するばかりである。誰もが死後に石に名前を刻み、未来永劫にわたって故人の名前を残そうとするのは、ある時代の流行でやりすぎだと考える。だから、石塔にこだわって墓地を維持することに悩む必要はないと思うがいかがだろうか。

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“ゼロメダル県”という肩書き

2016-08-19 21:53:07 | つぶやき

 今回のオリンピックについてコメントするのなら、今日しかないだろう、そう思った。主将をつとめると活躍できない、そんなジンクスができつつあって、主将のなり手がない、なんていう話が、吉田沙保里さんが主将になったというニュースに付随して流れていたことをご存知の方も多いだろう。吉田さんにしてジンクスは覆せなかった、そんなニュース報道もウェブ上にはすでに流れている。でもそれって、やはり吉田さんに対して「銀メダルでごめんなさい」を言わせる根拠にもなっている。ジンクスによると主将を担った選手はメダルさえ獲れなかったという流れになりつつある。そんななか、銀メダルでジンクスを覆せなかったという根拠には、吉田さんは金しかありえない、という国民の評価ラインができているということ。入賞しても喜ぶ選手もいれば、金メダルが獲れなかったと言って笑顔を少しも見せない選手。背負っているものは選手それぞれまったく違うということを示している。

 いっぽうでどうだろう、メダルをひとつも獲得していない「県」として長野県は全国でたった3本の指に入るという。最多は28個の東京都と大阪府だという。もちろんこれは前回大会までに獲得したメダル数だが、ゼロ県は長野のほかに福井県と沖縄県だという。そのゼロ県同士が今大会の準々決勝で対戦した。ご存知のとおり、バドミントン女子シングルだ。結果的に準々決勝で勝利した長野県出身者が銅メダルを獲得した。いよいよゼロ県はふたつだけになったということになる。そんな勘定を趣味(仕事か)でする人がいるから、またいただけない話になってしまう。このゼロ県はあくまでも冬季大会を除いた個人種目だけを対象にしているという。そして問題なのはその理由を解説するコメントだ。長野県について次のように書かれている。

 矢野氏(ナンバーワン戦略研究所の矢野新一所長)は、教育熱心がゆえの低空飛行とみている。「江戸時代、信濃の国は寺子屋が一番多かった。明治時代も就学率が全国一。土地が狭いから親の跡を継ぐより、勉強して昇進するのが望ましいと言われてきた。だから、子供をスポーツ選手に育てていこうとする親があまりいない」。勉強優先の教育方針が影響していると指摘する。

こういう解説をされると「それは違うだろう」と言いたくなる。なぜならば、冬季大会ならメダルを獲得している選手が長野県には何人もいる。その理由は正しくないだろうと言える。そもそも前述したように、入賞して喜ぶ選手もいれば、銀メダルでも敗者だと思う選手もいる。競技によってラインが異なり、単純にメダルの獲得だけで比べるものでもないだう。そう考えれば、ソウルとバルセロナと2大会連続で4位に入ったマラソンの中山竹通さんなどはメダル獲得に値する。もちろん長野県人だ。たとえばこんな選手もいた。「ママでも金」と言って北京大会に選出された谷亮子さんだ。最終選考大会では、山岸絵美さんに有効2つを奪われて完敗したが山岸さんが選出されることはなかった。山岸さんは大会ごとの波があったこともあって、実力者でありながら世界選手権にも1度も選考されることなく引退した。彼女はまさに長野県人。2連覇後の北京大会において「ママでも金」と言った谷さんは、結局銅メダルに終わったがメダルを獲ったことに違いはない。ようはメダルがないことを解説するほど、背景を見ればくだらないことはない、ということ。ついでに「出生地別」などという見方が、今の時代にあって何の意味があろうか。

 今大会も日本女性の活躍は目にとまる。印象深かったのは銅メダルを獲った三宅さんと、予定通り金メダルを獲った金藤さんだ。そしてバドミントン女子ダブルスの高橋さん・松友さんの二人は、表彰台に登ったら、銀メダルや銅メダルの選手たちよりずいぶん背が低いことに気がついた。何よりレスリングで階級を上げて金メダルを獲った川井梨紗子さんは小さいのによくぞ、とあらためて気がつかされる。

 いろいろオリンピックには議論があるが、楽しませてもらったことだけは間違いないから、無用なコメントはしない。

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ヤブガラシ

2016-08-18 23:14:13 | 自然から学ぶ

 沖縄県ではサトウキビがヤブガラシの発生で減収してしまうということで、県農林水産部がヤブガラシ類の防除マニュアルなるものを出している。藪を覆って枯らしてしまうほどの生育の旺盛さからその名がついたとも言われるヤブガラシ(実際のところ、アレチウリやクズほどの旺盛さはない)。別名をビンボウカズラ(貧乏葛)とも言うらしい。ウィキペディアには「その意味としては、庭の手入れどころではない貧乏な人の住処に生い茂る、あるいはこの植物に絡まれた家屋が貧相に見える、またはこの植物が茂ったことが原因で貧乏になってしまう、などの意味に解釈されている。」とある。ヤブガラシに「絡まれた家屋が貧相に見える」、ウィキペディアにあったこの解説でわたしも初めて知ったところだが、ヤブガラシが気になっていたのもそんな風に見えると自ら感じていたからかも。実は我が家の庭にはこのヤブガラシが生えている。駆除が困難な雑草で有名らしいが、それほど近在でよく見られるというものでもない。何に混ざってやってきたのか解らないが、ここに宅地を造成した当初にはなかったように思う。盛んに目立つようになったのは5年ほど前からだろうか。最初はヤブガラシだとは知らなかった。ふつうに草取りをして、取った草はほかの雑草と一緒に畑の一部に集めて枯らし、腐らせていた。ところがこのヤブガラシ、根っこを抜いたとしても、その根が容易には枯れないのだ。取った雑草を重ねたうえで腐らせるようにしておいても、その重なったところで根を伸ばし、結果的には雑草として処分した山の中で芽を出して、さらに地下の根を伸ばしていってしまう。ということで、草取りをしたために、逆にヤブガラシの生息域を増やしてしまったのだ。ヤブガラシは地下の根が長く、引っこ抜いても根が残ってしまうのが普通。したがって掘り起こして根をすっかり除去しなくてはならないのだが、完璧に除去するのは難しいのが現実。

 我が家ではこのヤブガラシが垣根につたって伸びるので、その長さは数メートルレベルに達する。これほど厄介なものは、放っておくとどんどん増えるのか、と思うのだが、その生体はよくわからない。常に除去するように注意していると、弱まる根もある。ようはどんどん増幅していくというわけでもないようだ。もちろん放っておくと増えるのに間違いはないが。何より当初引っこ抜いた根をほかの雑草とともに腐らせようと積んで処理していたのがいけなかった。今は引っこ抜いた根をからからに乾かして二度と芽が出てこないように枯らすようにしている。コンクリートとかアスファルトとか、そうした上に干すのが一番。

 さて、ネットに「ヤブガラシを駆除するには」というものがあった。そこに次のような記述が。

このヤブガラシを切らずに木から解くんです。
伸ばしてみると、2.5mほどありました。
普通は、このまま手で抜いてしまうと思います。
それをくるくると巻き、そっと地面に置くんです。
それはまさに頭に巻く王冠のように!
そして、心の中でつぶやくんです・・。
「もうお前の役目はここでは終わったよ・・・。もういいんだよ。」
これで、ヤブガラシはいなくなるんです。

と。ようは蔓を解いて王冠のようにくるくると巻いて地面に置けば良いというのだ。この通りにやってみたのだが、すでに1ヶ月近くになるが、まったく弱ったという雰囲気はない。1ヶ月くらいすると茎が黒々としてくるというが、その気配はなく、どうもこの方法は疑問だ。前述したように、地下に根が残っていても、根の中には弱ってくるものもある。この雑草の生体を研究している人はいるのだろうか。

 

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挙家離村のムラ“高地”へ⑧(最終章)

2016-08-17 21:19:54 | 民俗学

挙家離村のムラ“高地”へ⑦より

高地曲尾に残る蔵(手前は曲尾橋)

 

 それにしても県道を開けるのに、木を売って200万円ものお金を自分たちで出したというのに、それほど気持ちを投入した道を捨ててまで離村する、そんなことが簡単にできるだろうか。ようは自費を投入しているのだから、より一層それを大事にして村への愛着が深まるのがふつうではないのだろうか。そもそも家をそのままにして離村するという背景に、必ずしもムラを捨てたというわけではなく、住処を替えたという感覚があったのだろうか。高地にいると隣近所のつきあいが遠い。ところが大町に出て、みなが同じ地域に住まえば、ふだんのつきあいは近くなる。暮らすのには大町、しかしながらけして高地を他人に売り払ったというわけではなく、そのままにした。もちろん売ろうとしても買う人がいたかどうか、という問題はあっただろうが。そのままにして離村した、典型的な例は高地神社だろう。前回の表2に示したように、従来からの住民がいなくなったのが昭和55年のこと。戸籍上無住となったのはそれから4年後のことであるが、村の産土であった高地神社の祭りはその間どうしていたのだろう。高地神社を若一王子神社に移転祭祀したのが昭和58年も暮れのこと。おそらく祭りなどほとんどできなくなるほど戸数が減ったとき、神社をどうしようという話はあったはず。住人はいなくとも、家屋はそのまま残っていて、家屋の周りに残っていた耕作地に逆出作りしていた人たちもいただろう。もしかしたら残っていた人たちにも、必ずしも「自分たちだけになってしまった」という意識はそれほどなかったのかもしれない。ようはけして捨てられたわけではない、という意識だ。

 今回案内してくださった方々の話を聞いていると、先生はいた間だけの記憶で話をされるが、ここで生まれ育った方の場合記憶の時間が混在していて、必ずしも当時の思いなのかはっきりしない面もある。馬を引いて出作りに行った話が登場するが、それは挙家離村がこのムラに到来した際の景色ではないだろう。当時このムラの人たちはすでに稼ぎに出ていたのかどうか。なぜそう思わせるかといえば、『美麻村誌』歴史編(平成12年 美麻村誌刊行会)にある大町への転出先が多かった理由である。それによると「職場が大町市やその通勤範囲にあり、生活地と職場とが一致し、働きやすい条件が比較的に整えやすかった」と言うのだ。この記述から察するに、すでに勤め人がかなりいたのかどうか。自分の家のことで当時を考えると、確かに勤め人はいたかもしれないが、あくまでも主生業は農業で、合間に働きに行っていたという感じだった。もちろん我が家の場合は水田地帯であったから、高地のような畑作地域とは考え方が異なっていたかもしれないが、いずれにしても当時の生業とリンクさせて整理しないと「なぜ」の部分が見えてこないようだ。

 さて、細井雄次郎氏は課題提供のなかで、災害時において地元の人たちがいらないと思っていても、年数がたって気がついた時に地元の「誇り」を示す重要なものになる、と文化財レスキューの意義を述べた。高地の例は災害ではないものの、挙家離村後にそのままにされた家々が残った。災害と異なりいつでも家に帰ることができ持ち出すこともできただろうが、時代背景からそれらを重要視する時代ではなかったかもしれない。しかし、石仏などは移転されたものもあるが、かなりの数、まだ高地の地に残っているようだし、高地神社が移転祭祀されたにもかかわらず、いまだ跡地には鳥居や狛犬が残っているともいう。鳥居は昭和18年に建てられたもの。また同時に記念碑も建てられている。かなりの思い入れが現地に残されているというあたりに、高地の人々の本意はどのようなものなのか、ますます疑問が増幅する。そしてまた、新たな石碑が建てられたりする。これも旧高遠町芝平の例に似ている。ようは気がついた時に、再び元の地に思いが馳せるのである。

 わたしの住んでいる近くにもよそから移り住んだ人たちがけっこういる。その「よそ」とは、高地同様に山間からである。そして今もって昔の家の近くに山があったりして、産物を求めて帰る人が多い。財産、というほどではないかもしれないが、豊かな暮らしの一助となっていると、人にはアピールされないが、わたしにはそう見える。サトの人々と異なり、転用もできないし転売もできないような今の世の山の存在だからこそ、逆によそに移り住むことに後ろ髪を引かれるようなことがなかったのかもしれない。

終わり

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もう一度“黄色い線”

2016-08-16 23:13:03 | つぶやき

 以前点字ブロックの問題点を指摘した。ひとつは「黄色い線」で触れたもので、電車を待っている際によく耳にする「黄色い線の内側でお待ちください」の意味不明さを指摘したもの。黄色い線は電車がホームに入ってくる際の停止線のようなもの。これ以上ホームよりで待たないように、という意味で放送は流れる。ところがその黄色い線は、点字ブロックなのである。点字ブロックが視覚障害者用のものであることは誰でも解るだろう。その身体が不自由な方のための誘導帯が、実は健常者の安全境界というわけだ。ようは点字ブロックを頼りにしている視覚障害者の方が、健常者よりホーム寄りを歩くことになる。もちろんホームまでそこそこの距離があるのなら良いが、これより前に出ないようにしてください、というラインだからホームに近いのは当たり前。

 一昨日東京メトロ銀座線の青山一丁目駅で、東京・世田谷区の会社員の男性がホームから線路に転落して電車にはねられ亡くなった。男性は視覚障害があり、盲導犬と一緒だったという。田舎の駅ならいざ知らず、東京の駅ともなれば人通りも多い。したがって近年はホームドアが設けられて、乗車口以外は壁になっている駅が多い。ニュースでは視覚障害者の4割近くが転落を経験していると言っていた。そもそも視覚障害者が歩くべく位置に問題はないのだろうか。ごくシンプルなわたしの疑問なのだが、そのことが報道で指摘されているのを聞いたことはない。

 もうひとつ、「不具合な社会」で触れたのは、点字ブロックが「滑る」ということ。とりわけ薄ら雪でも積もったら、危険地帯となる。都会ではホームドアが設けられることでこうした事故が避けられるかもしれないが、地方の駅はどうなんだろう。そもそもあの「黄色い線」を修正する気はないのたろうか。

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長靴マニア

2016-08-15 21:27:30 | つぶやき

 長靴のことは以前にも書いたと思って検索するが、今日書き残そうと思っているようなことは見つからなかった。

 わたしは近年長靴に目がない、というかホームセンターにしても靴専門店にしても、入ると必ず長靴が並べられている棚を覗くことにしている。もちろんふだんの靴に対しても気を使っている方だが、とりわけ長靴は草刈の際の余計な思いを増幅させる種だから、わたしに合ったものはないか、といつも頭にある。年齢が嵩んでくれば、一層作業環境を改善させてくれるものは何か、と考える。ということで今回のテーマは「長靴」である。かつては踝(くるぶし)の少し上のあたりまでのものが当たり前だった長靴も、今は大人の男性用なら30センチ以上丈があるものが一般的だ。ふつうに考えれば、30センチという丈は必要ないのだが、おそらく今は短い丈のものを購入する人はほとんどいないだろう。証拠にホームセンターといった大規模店に丈の短いものは幾つも置いてない。今や30センチよりも少し丈があり、さらにその上に土が中に入らないようにするフード(スパッツカバー)がついているものが一般的だ。さまざまなものがあるが、長靴はあくまでも作業の靴であって常に履く靴ではない、というのが現実のためか、ふだん常用してもたとえばスニーカーのように気楽に履いていられるものではない。「今日は長靴がいる?」などとあえて聞かれたり、聞いたりするほど嫌われものとも言える。そもそも水の中や湿地帯を歩く際には必需品であるが、乾いたところなら現場であっても靴を履いていたいのがふつうの気持ちなのである。どれほど真夏の太陽が差していても、その暑さに応えられる長靴があるはずもない、と解っているから、「履きたくない」と思ったりするわけだ。

 ということで「履きやすい」ものを探していろいろな長靴を購入しているわたしである。未使用の長靴がいくつも倉庫にあるのは、仕事用に支給されたものをそのままにしているからだ。入社したころは長靴は選択肢もなく支給された。やはり40年ほど前に支給されたものは今のものとは異なり、当たり前のように真っ黒なもので、丈は今ほどなかった。当時に比べると安くなったともいえるのだろう。ホームセンターで購入するのが当たり前になってからというもの、安物のカラフルなものは、すぐに「破れる」というのが常識だったが、最近は安物には手を出さないということもあるが、以前よりは耐久性が少し改善されたのではないだろうか。とりわけ耐久性の高いのはアキレスのタフテックである。が、しかし、この長靴スパッツカバーは弱点で、まず最初に破れてしまうのは必ずスパッツカバーだ。とはいえ、平地の畑などで利用しているのなら、まず穴が開くことはなく、数年使えることは間違いない。

 今盛んに草刈で使っている長靴はピンスパイクのついたもの。傾斜地で踏ん張るにはピンスパイク付きが必需品であるが、実は店に並べられているピンスパイク付きは、品数が少ない、というかホームセンターなら1種類しかおいていないのが当たり前。現在使っているものの良い点は、スパッツカバーの締めた紐が解けないこと、そのせいか土がほとんど靴内に入らないことだ。また軽いということで疲れを和らげてくれる。ところが軽いせいなのか、靴底とその上の靴部分が柔らかいため、傾斜地に立つと踏ん張りが効かないという欠点がある。靴底と靴の接点はかなり固めの方が踏ん張った際に靴が抵抗力をもってくれるので踏ん張りが効くのだ。そもそも傾斜地を前提にした長靴は、一般には重くて嫌われるだろう。したがって売れない、ということになる。そもそもピンスパイク付きの長靴を選択する人は少なく、置いていない店も珍しくない。

 ついでにもうひとつ。長靴の環境改善の必須事項に中敷があることを忘れてはいけない。

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挙家離村のムラ“高地”へ⑦

2016-08-14 23:51:49 | 民俗学

家離村のムラ“高地”へ⑥より

 「挙家離村のムラ“高地”へ②」で触れたように、高地は明治5年110戸、大正15年99戸、昭和9年95戸、昭和52年3戸、昭和55年ゼロとなった。具体的には昭和35年ころから一気に離村が急増したようだ。もともと100戸ほどあったということで、かつて調査した集団移住のムラ旧高遠町芝平によく似ているといえる。芝平は昭和34年に102戸あったが、昭和52年に40戸まで減少した。こうした状況下で昭和51年ころ生活条件のよい場所に移転しようということになったという。具体的に集落名を記録していないが、当時研究委員会を設けて県内の集団移住先進地を視察している。その視察地が美麻村なのである。過疎法の期限内に移転しよう(補助のため)と計画し、昭和53年12月に移転終了している。集団移住であるから、移転先もみな同じだったわけである。現在も旧名の芝平という地名を集落名にあてている。このことは以前「廃村を行く人③」で取り上げ、『長野県民俗の会通信』145号に掲載した「高遠町芝平地区の民俗(民俗の変化と変容を中心に)」を全文扱っている。また、「廃村を行く人」シリーズの中でもたびたび扱っている。芝平の場合は、同じ時代に挙家離村並に転出が相次いだが、それでもと残っていた37戸が集団移住したわけである。実態からみれば高地と同じ流れで離村が続き、最終的に残った方たちが集団移転を選択したわけで、集団移住以外の離村者の方が多いから離村形態は高地と類似しているのかもしれない。ただ、高地の特徴的な部分は、何度も繰り返すが集団移転をしたごとく移住後の地がまとまっているということだ。

 

表2

 

 表2は挙家離村のころを年表にしてみたもの。県道が開通したのは昭和38年9月のこと。と同時に乗合バスの運行運動を起こし、翌年11月に定期バスの運行が始まっている。「挙家離村のムラ“高地”へ⑥」で触れたように、なかなか県道を造ってくれないので、自分たちで山の木を売って開けたともいう。このことについて『美麻村誌』歴史編に詳しく書かれている。

自動車でなければならない時代となり、道路を広くする為に砂利入れを行い、また粘土質であるため岩石を破砕して石を敷き、幾百人の人夫を使って漸く自動車を曲尾地積まで導入した。なお大町へ開通までは若栗峰という大難所があり、県としても点でも経費の年月工事期間の点でも困難をきたしたので、地元としても資金迫られて、共有地の杉木立を売払い、二百万円以上もかけて漸く昭和三十八年九月三十日に開通の運びとなった。ついで乗合自動車運行の運動を起こしたが、道路補修等も困難をきわめた。

念願の定期バスが入ってきたものの、すでにこのころ挙家離村は始まっていた。その5年も経たないうちに高地分校は廃校に追い込まれている。前掲書のなかで高地分校の生徒数が記載されており、それによると定期バスの運行が始まった昭和39年には22名、翌年に17名、その翌年に6名となっている。実は昭和40年に父兄よりバスが開通したから2、3年生は本校に通ったらどうかと声が上がって、翌年からは分校は1年生のみとなっている。「このバスがもっと早く開通していれば、移住する人も少なかったろうに」と語られたという。

 道ができたから離村してしまった、そう言われても当然の流れだっただろう。県道開通後20年とムラはもたなかった。開通した際には高地分校で盛大に「開通祝賀会」が開かれたというほど、ムラの人々にとっては念願の道だったのだろうが、それが離村に雪崩を打つ必須事項だったというわけだ。

続く

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