Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

伊那谷の土蔵・後編

2017-02-24 23:37:40 | 民俗学

伊那谷の土蔵・前編より

⑨高森町山吹新田

 

⑩松川町大島樫原

 

⑪松川町大島樫原

 

⑫松川町上片桐町谷

 

⑬松川町上片桐城(じょう)

 

⑭松川町上片桐城

 

⑮松川町上片桐鶴部

 

⑯飯島町七久保

 

⑰駒ヶ根市赤穂女体

 

⑱辰野町北大出

 

 前回に引き続き南から北上するように伊那谷の土蔵を見ていく。

 ⑨は高森町山吹の主要地方道飯島飯田線沿いにある山吹郵便局近くのもの。前回が飯田市山本だからかなり北に移動することになる。そこには意図があるのだが、それは後で述べることとする。この土蔵とても綺麗な印象を受けるのは化粧してまだそれほど時を経ていないせいだろう。前回触れなかったが、土蔵の入口側には庇がつくのが一般的である。この庇より上までナマコ壁を施す例も少なくないが、この土蔵は庇上の前面にまでナマコ壁を設けている。屋根と土蔵の間に空間がなく、①から⑧まですべて置き屋根式であったが、断定はできないが置き屋根式ではないのかもしれない。やはり側面上部に家紋が化粧されている。⑩は松川町大島のやはり主要地方道飯島飯田線沿い樫原にあるもの。先ごろ「樫原のコトネンブツを訪ねる」で触れた地蔵堂のすぐ近く。1階部分に庇がないのは珍しい。1階と2階の間にナマコ壁を施してない部分があることから、元々は庇があったのかもしれない。ここで注目しなければならないのは、背後に少し見えているもの。実は背面の屋根下に囲いがしてあり、雨よけを兼ねて空間を作って物入れになっている。⑪も⑩のすぐ近くにある土蔵でふた棟続きのもの。北側の背面を板で囲ってあり、雨よけあるいは風よけとでもいえよう。⑫は⑪から500メートルほど北へ行ったところのやはり主要地方道飯島飯田線沿いにあるもの。500メートルとはいえ、間にかつての上下伊那の郡境にあたる片桐松川が流れている。その片桐松川に近いところにあるもので、まさにかつての郡境にあたる。注目するべき点は、土蔵の側面両側を屋根から直接囲っていることである。鉄骨で組んだ上にトタン葺きしてあるもので、土蔵との空間は幅にして1メートルほど。やはりこの空間は物入れとして利用されている。ナマコ壁で保護してあるにもかかわらず側面を囲うという形式の典型的なもの。⑬は⑫と同じ松川町上片桐でも東へ下った城という集落にあるもの。ナマコの施し方は⑨や⑩と共通している。⑭も同じ城にある土蔵で、こちらは南側のみ屋根から囲いを下ろしているが、北側も屋根から途中まで囲いを下ろし、その下に土蔵につけた物置が設置してある。ようは土蔵の屋根から囲いを下ろすという意図は⑫と共通している。⑮も透明タイプの波板であるが、屋根から囲いを下ろしている。さらに西側には垣根を施して風よけとしている。⑯は飯島町七久保の千人塚に上っていく道の途中にあるもの。やはり南側にトタン葺きの雨囲いを屋根から下ろしている。庇の出が長いため、この場合土蔵との空間がより広くとられている。⑰は駒ヶ根市の駒ヶ根インターに近い女体という集落内にある土蔵。側部のみならず、背面も含めて囲いが施されていて、土蔵を風からも雨からも完全に防いでいる。⑱は辰野町北大出のもの。これもまた雨囲いが屋根から下ろされている。

 以上伊那谷を北上しながら18の土蔵を見てきたわけだが、土蔵を外観から捉えた場合地域によって変化していることが解るだろう。ようは雨囲いの有無である。とりわけ屋根から下ろすように土蔵の側部を囲う姿はほぼ上下伊那を境にして変化する。下伊那郡にあたる松川町でも片桐松川以南には屋根から下ろす雨囲いの姿を見ることはほとんどない。ところが旧上伊那郡で現在は下伊那郡となっている松川町上片桐に入ると、雨囲いを施した土蔵が目立ち始める。もちろん上伊那でもすべての土蔵が雨囲いをしているわけではないが、屋根から下ろした囲いをする土蔵はとても多い。この雨よけのことを「しぶき除け」とも言われる。本来なら土蔵を直接防護すれば良いわけで、実際そうした土蔵も下伊那郡の板囲いに見られるわけだが、妻部において屋根から囲いを直接下ろすことで土蔵との間に空間を設け、ここを物置とまではいかないまでも物入れ程度の機能を持たせる。これは上伊那郡独特な土蔵の利用形態なのである。この狭い空間には長い棒状のものが置かれることが多く、今でこそハザ架けは希になっているが、そうしたハザを作るためのナルを収めるにはちょうと良い空間だった。ただし囲いをしてしまうということは土蔵そのものは目立たなくなる。したがって景観という意味では土蔵の地肌が現れている方が好まれるに違いない。したがって土蔵を誇張したいという意識があれば雨よけは施されないというわけだ。いずれにしてもこの形式の雨よけが施されるのは上伊那郡にほぼ限られ、辰野町まであった雨よけは、善知鳥峠を越した塩尻に至るともはや見ることはなくなる。これほど典型的に地域性を示すものは、現在では珍しいかもしれない。

終わり

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共感は生まれたか

2017-02-23 23:12:07 | つぶやき

 16年ぶりという全社員対象の研修が行われた。研修といってもトップが講演をするという視線とすれば内向的なものではあるが、全社員対象に同一空間で共通認識を持つという意味では、近年にはない取り組みだったと言える。16年ぶりということは16年前に同じような研修が行われたということになるが、当時のわたしは社の方針には違和感を抱き始めていたころだったこともあり、果たしてそうした研修に出席したものなのかどうか、記憶にはまったく残っていない。当時の全社員と、今の全社員ではその数にして3倍も異なる。この10年余の流れの中でその数を一気に減らしてきた。単純に人数によって業務量が測れるわけではないが、収入はその倍数をさらに上乗せしていたから、当時の収入から今の人数を割り出しら、会社として成り立たないほど少数に陥ったのだろうが、支出を切り詰めてこの3という倍数内で人斬りは収めてきた。

 実のところ今年も中途で社を去る者もいるし、勧奨で去る者もいる。いまだ分母を切り詰めながら継続の道を歩んでいることに違いはない。これが収入なくして生きることはできない民の現実である。そして官が繰り出す政策や、条件に添わせようと迷路を彷徨う。官に近いところで仕事をしているから致し方ないことだが、あらためて人数と業務と空間という関係を、今、官から示されて、頭の痛い計算をしなければならない場面を迎えている。我々の弱い立場がそうさせる要因だが、それを十分承知した上で会社が成立している。残念ながらその現実の行き先を少しでも理解すると、人材を確保するのも容易ではない。分母を減らし続けているというのに、いっぽうでは分母調整に悩んている。ご多分にもれず、社員の年齢構成を修正しようと新しい社員を迎えても、継続的路線に乗る前に辞退していってしまう人が多い。将来ではない、10年後あるいは15年後を見たとき、会社は継続可能な状態にあるのかと危惧ばかり募る。

 さて、そうした将来像を見据えた話はトップの口から出ることはなかった。むしろ今がどういった歴史の上にあるのか、視線の奥には自己内省的な歴史観が重ねられていた。おそらく社員の中にはトップの自己満足的「話」だったと捉えた者も少なくないかもしれない。しかし、自分の道を振り返ることはけして無駄ではないし、むしろ自分の蓄積してきたものを少しくらい自慢してもいいだろう。自分を知ってもらう、さらけ出すということは共通認識の展開、あるいは共感の展開という面で必要なことでもある。だからこそ人々は会話をもってお互いを知る。今の若い世代にはそれが欠けているともいえる。もちろんトップのように「上の者の自慢話」というかつてもあった嫌悪感をばら撒きかねないが、あとは口にした者がどう自分の行動としてフォローするかということになるのだろう。これにはトップの近くにいる人たちのフォローも必要だろう。その理解度が問われる。

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伊那谷の土蔵・前編

2017-02-22 23:05:52 | 民俗学

①阿南町新野

 

②阿南町新野原町

 

③下條村吉岡

 

④下條村吉岡

 

⑤阿智村伍和大鹿

 

⑥阿智村伍和丸山

 

⑦阿智村春日中関下

 

⑧飯田市山本箱川

 

 

 生家では「クラ」と呼んでいた土蔵。昭和25年に家を新築した際の図にはそのクラがないから、クラを造ったのはそれ以降のこと。土蔵を造る光景を目にしたことはほとんどない。現在残る土蔵のほとんどは高度成長以前に造られたもので、我が家の土蔵は土蔵を造る最後の時代のものだったのではないだろうか。聞くところによるとよそから買ったものといい、土蔵の骨組みや土蔵に付属の役物をいくつも土蔵を所有している家から購入したものと考えられる。屋敷内の土蔵の存在はそもそも裕福さの象徴のようなもの。大地主の家ではいくつもの土蔵を所有していたもので、軒を連ねて土蔵が並んでいる光景は圧巻である。とりわけ今なら白壁、いわゆる漆喰壁で化粧されていると景観的にも目を奪い、土蔵といえば日本人にとっては癒し的存在にもなっている。漆喰壁の土蔵の下部をナマコ壁で化粧する例は伊那谷にも多い。黒い部分は瓦を張ったもので、多くは目地の白いラインが斜に交差するように瓦を配置している。漆喰で下壁まで仕上げたとしても、下部は雨が当たるため傷みやすい。そこで腰壁部分をより強固な仕上げをするためにナマコ壁が登場した。そもそもかつての土蔵は土壁のままだっただろう。ナマコは海鼠のことで、似ているからそう呼ばれるようになった。瓦と瓦の間の目地に漆喰を塗り固めたもので蒲鉾状に半円形に盛り上げて化粧した。タイル張りと同じ要領だが、古いなまこ壁は、目地が凸状ではなく凹状に凹んでいたという。

 写真は現場に行った際に道端にあった土蔵を写真に収めたもので、南の方から北上するように順に並べてみた。①は阿南町新野の伊豆神社下にある集落で見かけた土蔵。腰壁部分を板で覆ったもので、この手の土蔵も多い。かつてはこの板張り部にはコールタールを塗って風化を防いだもの。さらにさかのぼると柿渋を塗ったという。②も同じ新野でみかけた土蔵であるが、入口がふたつある大きなもの。こちらは腰壁部分は漆喰ではなく、モルタル仕上げになっているようだ。③と④は下條村吉岡でのもの。吉岡は独特な雰囲気を持つ集落で、いかにも古い家が多い。そして土蔵がどこの家も目立つ。②もそうであったが、妻の上部に家紋が化粧されているのが特徴だ。このあたりの土蔵は土蔵だけ単独に配置しているものが多く、土蔵景観を一層際立たせている。典型的なナマコ壁の化粧がされていて、④のように塀と合わせて化粧されている例も珍しくない。⑤は阿智村伍和大鹿でのもの。土壁の下部をナマコ壁で化粧したものである。⑥は同じ阿智村伍和のうち丸山で見かけたもの。ナマコ壁に化粧したもので複数の土蔵とそれらをつなぐ囲いにも同じようなナマコ壁を施している。⑦は阿智村春日中関下で見かけたもので、⑤同様に土壁の腰壁部分のみナマコ壁で化粧したものである。そして⑧は土壁のままのもので、質素な雰囲気はむしろ土蔵らしさを醸し出しているといえよう。飯田市山本箱川で見かけたものである。前述したように土蔵の周辺に建物を併設していない例が多く、土蔵を意識した配置が意図されているのだろうか。いずれにしても土蔵を写真に収めようとすると、逆光のケースがほとんどである。なぜかといえば土蔵は母屋に対して北側に配置されるのが一般的。したがって土蔵全体の雰囲気を収めようとすれば北側からカメラを構えることになるから逆光となるわけだ。土蔵を南側に配置している例もないわけではないが、そういうケースは屋敷が広い家となる。

続く

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アララギに鰯

2017-02-21 23:27:15 | 民俗学

柊に鰯(阿南町新野)

 

 

アララギに鰯(阿南町新野)

 

 今日も売木村を訪れたついでに、先ごろ見つけた柊に鰯を刺したものを掲げていた家へ再び寄ってみることに。もちろんそれをいつまで掲げておくかについて聞いてみたというわけである。すると年末まで掲げておいて、年末に大掃除をした際に家の中にある御札などを外したついでに柊鰯も外すという。そして年の明けた正月の初詣で豊川稲荷へ持って行き処分してもらっているという。おばさんの家では3年前までガソリンスタンドを営業されていた。売木村唯一のガソリンスタンドだったため、当時閉店するに当たって話題にもなっている。おばさんによると60年間営業されていたという。それまではガスを扱っていたというが、さらにそれ以前は薪を扱っていて、豊川まで運んで売っていたという。豊川まで薪を運ぶのにガソリンを使うこともあって、ガソリンも扱うようになり、ガソリンスタンドに転向していったようだ。ガソリンスタンド発生のかつてのパターンをなぞっている例である。商売をしていたということもあって、豊川稲荷へ初詣に行くのは毎年の恒例だったという。もちろん今も欠かさず豊川までお参りに行かれるという。柊はそのまま年末まで残っているが、鰯は猫に取られてしまって無くなってしまうことがよくあったというが、最近は年末まで干からびて残っているという。

 そんな話をしたあと、帰り道新野の中心部を少しのぞいてみた。すると、伊豆神社下の栃洞公民館に続く旧道沿いに柊に鰯の頭を刺したものが幾例も見受けられた。このあたりも柊に鰯を刺して魔除けにする風習が生きているよう。夏に盆踊りの輪ができる新野の中心街の南端あたりの家にもそれらしいものが掲げられていて、さすがに新野という印象を受けたわけだが、その中には写真のように玄関脇にガムテープで貼り出している家もあった。確かに事例は幾例かみられたが、柊の枝そのものは小さく、魔除け全体も小ぶりで目につきにくい。樽川沿いの家をうかがってみると、それまで見てきたものとは違うものが掲げられている。柊ではない。聞くとアララギというが、一般的にはイチイと呼ばれている枝である。おじさんによると「焼くとパチパチと音がするから」使われているという。昔から柊ではなくアララギを使っているといい、屋敷内の生垣に植えられているからそれを使っているらしい。さらにおじさんの家をうかがうと、窓という窓にそれを掲げていて、みごとなほどに防御体制を取られている。これなら鬼も寄ってこないだろうというほどに。アララギを使っている家がすぐ近くでもう1軒見られたが、柊にくらべると珍しい。『阿南町誌』下巻(阿南町 昭和62年)によると、「豆をいるときには青木(ガヤの枝、ヒノキの枝、ヒイラギ、アララギ)をくべてバチバチ音をたてる」とある。そして「この日節分の鬼を作る。十二、三センチメートルの竹串や青木にニボシなど魚の頭を刺したものを、オニとかオニの首といって出入りする戸間口に全部刺して回る。地区によっては小さく切った半紙に片仮名か平仮名で「カニ」と書いたものや、沢ガニを竹串に刺したり絵に描いたりしたものを、戸間口にはったり刺したりする。中には倉とか戸板とか、すべての戸の開くところへはる地区もある。」という。アララギに鰯を刺したものを掲げられていたおじさんの家は、まさにこの「すべての戸の開くところ」へ出されていた。おじさんによると、これは来年までそのままだという。来年の節分の際に外して取り替えると言われ、外したものは家で焼いて処分するという。かつては玄関先でパチパチと音をたてて燃やすことをしたと聞いたことはあるというが、考えてみれば1年中掲げておいたものを外して焼けば、まさに「パチパチ」と音を立てていたことになると思うのだが、おじさんにはそういう意識で燃やしたという認識はないようだ。

 この日、遠山出身の方と飲んだ際に遠山での節分の様子をうかがった。豆まきはもちろんだが、柊に鰯の頭を刺して魔除けに出すことは今もしているのではないかという。柊以外のものを使うところがあるのだろうかとウェブ上で検索してみると、大鹿村の「右馬允」という旅館のページに「イチイ×イワシ×ししとうの節分」というものがあった。こちらではアララギとは言わずに一般的な「イチイ」と言っているが、いずれにしても柊ではない。また、長野県環境保全研究所飯綱庁舎のフェイスブックには「信州の中南部では、かつて焼いたイワシの頭をヒイラギ等の枝にさして戸口にさし、悪霊を追い払おうとする"ヤイカガシ"の風習がありました。ヒイラギではなく茅(諏訪)、榧やイチイやイヌツゲ(木曽)を用いる地域、ヒイラギと榧等の両方(下伊那)、ハギ(東筑摩)を用いる地域もありました。ヒイラギや榧等の葉は固く先が尖っていて、これで鬼の目を突く、焼いたイワシの頭は悪臭で鬼を追い払う等、と考えられていましたる。」という解説文が。やはりイチイを利用する地域もあるようだ。

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〝長野県民俗地図〟の悩み

2017-02-20 23:11:37 | 民俗学

 

 最近よく利用している長野県内の分布図は、かつて〝『長野県史民俗編』調査地点図を見て思うこと〟に記したエクセルを使った自前の作成ソフトによって表している。この民俗地図の作成ソフトについては、平成26年4月に開催された長野県民俗の会第190回例会において自ら発表したもので、その後同会通信241号へ福澤昭司氏によって「パソコンで民俗地図を作る」と題して例会報告がされている。その後〝あらためて「民俗地図」〟の中で記したが、「当時の例会で地図作成ソフトについて報告した折に、『県史』で行われた民俗地図作成の手法となった地図重ね合わせを容易に行なう方法を求められた。もちろんそれを前提にしたソフトに取り組んでいたわけであるが、あれから2年間、要望に応えることもできず時を費やしてしまっている。」と嘆いた。何を悩んでいたかといえば、時代はすでにウインドウズ8に移行し、オフィスもそれに沿って新しいソフトに更新されているのに、新時代ソフトに追随できなかったからのこと。それを書いてからも既に1年半ほど経過している。

 実は最近利用している分布図はいまだにエクセル2003を利用して作成している。わたしのОSはいまもってウインドウズ7である。そういう人もけして少なくないのだろうが(会社でも最新ОSが7のまま)、そこへエクセル2003をインストールして動かしている。冒頭の地図は左側が昨日の日記に使ったひな祭りの分布図である。エクセルへ県内424地点を入力しておいて、事例データを番号で分別入力したものをマクロを起動させて自動的に長野県図に記号を配置させたもの。マクロ起動をさせて約20秒ほどだろうかこの図が作成終了するのは。今回は同じ地点に別のデータが重なった地点があったため、隣接地に別データを配置させて、出来上がったあとに記号の位置を修正して昨日の分布図を完成させている。データ数が少なかったのでそうした修正にもほとんど時間は要していない。データさえ入力が終われば、完成品を作成するまで1分もあれば良いという自分にとっては優れモノなのだが、これをエクセル2007年以降のソフトで起動させると、同じような図にはならない。それが右側の図である。見てのとおり、記号が小さく、また歪んで配置されるとともに、意図する位置に配置されない。これは記号に限らずグループ化した図(この場合長野県図)においても配置先がずれてしまって旧型エクセルと同じようなことができないのだ。仕事でも写真の配置をさせる際に同じようなマクロを使ってエクセル上に配置させることをするのだが、かつて作成したものが、今のエクセルでは思うよに動かず困ったものだった。もちろんこの問題は解消されていない。オブジェクトやグループの名称は、エクセル上で自動的にナンバーが配置されるため、これに追随できないのと、そもそも2007以降のエクセルはオブジェクトの基本的動作が大きく変更されたが故のこと。したがってこの作成ソフトは、残念ながら2003をインストールすることができる限りの命なのである。

 この既に限界域にあるソフトでは、県図と県図に市町村枠を載せた図(続々〝かにかや〟で使った図)、さらにマーキングされた位置を実際の地点と確認するための地点名図をマクロによって入れ替えられるように作成してある。例会報告で福澤氏は「市町村堺以外に白地図に加える要素はないかということです。昔の県史での議論を思い出していました。ここに藩領の境、宗派の境、江戸時代の主要街道、標高千メートルの稲作限界線、水田優先地帯と畑作優先地帯等。いくつか考えましたが、いずれも顕著な分布への影響をたどれなかったり作るのが難しかったりした覚えがあります。結局今回も白地図に加えてもらうのは、川ということにしました。表示の色を変え、必要無ければ消せるようにお願いしました。こうした白地図に重ねる情報がないか話しているうちに、できあがった分布図を複数貼り付けることで、重ね合わせられないかということになりました。これこそが民俗分布図を超えた民俗地図として私たちが考えたことです。」と述べている。命ある限りというソフトのため、積極的になれずいまだ希望通りのものになっていないのだが、川を載せるといった操作は簡単なこと。とりあえず今は、自分で命の短いソフトを使って活かせてあげようと試みている。

『長野県史』民俗編調査地点名図

 

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流しびなのこと

2017-02-19 23:29:19 | 民俗学

 

 2月ももう少しとなって、じきにひな祭りの3月となる。南佐久郡北相木村で3月3日に今も行われている〝かなんばれ〟についてはこれまでも何回か触れた。何より良い印象を受けなかったため、訪れたのはただの1度だけ。それももう30年ほど前の昭和63年のこと。廃れかけていたものを学校行事で実施するようにしたため、今も継続されている。全国的に昔は行われていた流しびなの行事である。人がたを桟俵に乗せて流すというわけで、実は同じような行為はひな祭りではない時期にも実施されていたし、流行病が起きると人がたに悪疫を乗り移らせて流す(この場合は川へ流すに限らない)臨時行為もあったという。流しびなというと鳥取と言われるほど鳥取は流しびなで知られている。しかし、鳥取に限らず前述したようにかつては全国的に伝承されていた行事だったが、継続例は少ない。長野県内における流しびなの伝承を『長野県史』民俗編の各巻の「仕事と行事」から分布図にしたものが図である。ひな人形を飾るという行為は一般的なので、それ以外の〝流しびな〟と〝共同飲食〟の習俗を拾ってみた。もっと多いのかと思っていたが、事例は少ない。北信にはまったくなく、あとは点在して事例報告があるだけで、北相木村のある佐久地域に事例報告が多いかと思うとそうでもない。ただ以前にも触れたが、川上村では各集落で行われていたという報告が県史以外の刊行物にあるので、南佐久地域には比較的後世まで継続されていたと考えられる。

 点在している事例報告にも、たとえば「聞いたことがある」という報告が多く、かなり過去に遡らないと実施されていなかったようだ。そもそも『長野県史』民俗編を刊行するにあたり調査されたのも、昭和50年ころの話。今もって具体的な伝承を得ることは難しいというわけである。人がたに乗せて悪疫を流す、ようは先日来触れている節分の防ぎと同様に、こちらは追い払うといういってみればどちらも悪いものを防ぎ送るという共通した信仰によるもの。したがってもっと伝承が濃くても良いと思うのだが、意外に早い時代に消滅してしまっている。その理由はどういうものだったのか。

 流しびなより分布域が偏っているものに〝共同飲食〟がある。とりわけ県の南端部に共同飲食の習俗が目立つ。もちろん現在は廃れてしまっているが、それらには

○重箱に小さなひし餅や菓子を詰めて自分のひなを持ち寄りオワザトをした。小さな皿も一緒に持って行きそれに菓子などを盛って友人のものと交換して食べた。(阿智村恩田 2巻(2)551頁)
○子供たちは重箱に買ってきたヒナガシと家で米の粉で作ったカラスミとを入れて、重箱の上には自分のひなをのせ、風呂敷に包んでながめのよい山などに行った。むしろを敷いて、みんなで重箱のものを交換して食べたり歌をうたったりして楽しく過ごした。雨降りのときは屋内で行った。(S35)(阿南町新野 2巻(2)551頁)

といった事例があげられている。ひな祭りではないが、夏に川原飯といって河原で共同飲食をするところもあるが、「送る、流す」というと必ずしも川に限ったものではなく、山で共同飲食をしたという報告もあり、背景には交換するという行為によって厄払いをする意図が込められているのかもしれない。こうした共同飲食もかなり時代を遡らないと体験を耳にすることはできない、あるいはすでに耳にすることはないのだろう。そういう意味では、北相木村の〝かなんばれ〟はよくも継続されたということになるのだろう。

 

写真は昭和63年のもの

 

 

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自治会への負荷を軽減する

2017-02-18 23:50:04 | つぶやき

 どう考えるだろう、「地域の組合(町内会や自治会みたいなもの)の脱会を申し出たところ、ひどい嫌がらせにあいました」という意見を聞いたら。今、地方に限らず自治体内での課題となっている問題のひとつといえよう、自治組織の未加入世帯問題は。このことは何度となくここでも触れてきたこと。たとえば朝日新聞デジタルに掲載されている「どうする?自治会・町内会」には、3つの問がある。その中で自治会・町内会の主な役割は何かと問う項目には、

○交流(お祭りやイベント)
○安全、安心(交通安全や防犯パトロール、避難訓練など)
○環境美化(掃除、ごみ集積所管理、リサイクル)
○行政とのパイプ役(広報配布など)
○福祉(子育て支援、高齢者見守り)

といったものが選択肢として用意されている。これは役割なのかと頭を傾げてしまうようなものもあるが、朝日新聞のものだから一般的な国民意識といってよいのだろう。故にこれに疑問を持つ人が多いのも分かるような気がする。冒頭の質問の内容はYahoo!知恵袋にあるもの。長野県内の方の質問である。ところがそれを知って回答したベストアンサーに「民度の低い長野県ですから」と気に障る反応が。「民度」とは「ある地域に住む人々の、生活水準や文化水準の程度」にあたるから、簡単に言えば農村とか山村とか地方とかは民度が低いというあからさまな差別である。そもそも自治会や町内会は都市部にも存在するもの。以前にも触れたとおり、むしろ今は都市部においてより自治組織への縛りが強い印象すら受ける時代。

 さて、地元の自治体が出している「自治会へ加入しませんか!」というチラシにも同じように役割が示されていて、そこにあるものは「親睦、イベント活動」「地域の課題をみんなで解決」 「安全・安心な暮らしを守る活動」「地域の環境整備」といったもの。さらには平成25年度に「自治会ハンドブック」というものを発行していて、自治会のマニュアルのようなものになっている。そこには、自治会の機能についてつぎの6点があげられている。

①相互扶助機能
最も身近な生活の場である自治会を通じて、その地域に住む人々が互いに必要なときに助け合い、協力し合うことです。
②生活環境の維持・改善機能
ごみの集積場や防犯灯の管理、地域の環境美化や清掃活動を通じて、住民が快適な暮らしを送ることができるよう、生活環境の維持や改善をすることです。
③安全・安心機能
住民相互の理解と信頼関係のもとで協力し合い、自主的に防犯活動、防災訓練に取組み、住民が安心して日常生活を営むことができるようにすることです。
④地域資源の保護・伝承機能
地域固有の自然や、古くから伝わる伝統・文化など、さまざまな資源を保護・伝承し、魅力ある地域づくりを進めることです。
⑤自治機能
地域住民のニーズを反映した、住みよい地域社会を実現するため、地域が抱える課題・問題について地域住民自らが把握し、協力し合って解決することです。
⑥親睦機能
地域の祭りや伝統行事、スポーツなどのレクリエーションや親睦活動を通じて、住民同士の交流をさらに促進し、住民相互の信頼関係や安心感を育むことです。

①の「必要なときに助け合い、協力し合う」が自治会の主旨であることは言うまでもないが、これをふだんの日常の中で実感することはおおかたの人はないだろう。③の防犯や防災に関わって①はあるといえよう。また②は「環境」であるから主目的はゴミ集積に関連するもの。これについては自治会が主体でなくても、自治体が行うえば済む部分であるが、人手の少ない自治体では住民に支援して欲しいというもの。したがって自治会は利用されている部分。④については自治会が関わらなくても機能する部分といえ、⑥も同様とわたしは考えている。ようはこれらは自治会すべての住民に平等に関わらない部分なのである。かつてのようにどこの家も子どもがいて、どこの家も次世代に継承されるのが約束されていた時代なら分かるが、それぞれの家庭で環境は様々である現代においては、いわゆる趣味的活動は自治会としては最小限にかかわるように抑えるべき部分といえる。そして⑤の「地域住民のニーズを反映した、住みよい地域社会を実現するため、地域が抱える課題・問題について地域住民自らが把握し、協力し合って解決する」という部分に至っては、自治会の付加機能のようなもので、とても行政的付加価値と言えなくもない。総括すれば①に集約されるものが自治組織に求められるもので、あとは軽減していってよいもの。意味(機能)を無理強いする必要はない。自治会によってその規模も年齢構成もさまざまな中では、自治組織を平均化する必要もないし、自治体が扱いやすいように機能化する必要もない。繰り返すが機能を最小限にして、自治会の重荷を軽減することが、よりよき地域を描くことに繋がるといえる。

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防風林のこと(後編)

2017-02-17 23:13:34 | 信州・信濃・長野県

防風林のこと(前編)より

拡大図

 

 実は「家形の防風林」で触れた防風林の今をのぞいてみると、かつてのような形が崩れてしまっている。もともとは家の形に合わせて生け垣を整形していたのだが、家を立て直したようで、その後は防風林としての活用をもとめなくなったのか、それとも管理が大変になってしまったのか、今や伸び放題の生け垣の光景がグーグールマップからはうかがえる。そもそも一般的な生け垣程度であれば管理も容易だろうが、防風林として管理していたものは、かなり高木となっているから、その管理にも手がかかる。建物を覆い隠すほどの生け垣ともなれば、高さで5メートルくらいになっても当たり前。その生け垣を毎年剪定していくとなると、簡単ではない。そしてかつての「家形の防風林」は、しっかり管理されていた。だからこそ道を通ったわたしにも、わざわざ車を止めて写真を撮らせるほど印象深い形を見せていたわけだ。

 さて、今回の図は「家形の防風林」から北へ行った上伊那郡飯島町七久保の北村という集落を同じように調べたもの。前回同様に平成9年に調べたものだから、すでに20年経過している。北村には果樹園はほとんどなく、水田地帯である。昭和50年代を中心にほ場整備が行われ、整形した水田が並ぶ。中央自動車道より西側は家々が比較的に密集しているが、東側は水田地帯に家々が点在する散居にあたる。家によっては町道から100メートル近い宅地への進入路を所有している家もある。このエリアでも多くの家がやや東に傾向した南東向きに家を配置している。果樹園がほとんどないということは、消毒除けの防風林はないといってよい。したがって南向きにある生け垣は防風という意図よりも、いわゆる生け垣程度のものとなる。むしろ北側に配置されている生け垣に防風林としての役目を担うものがうかがえるが、現在ではそれほざ高木化した生け垣はそれほど見かけない。むしろ前回の大沢と異なるのは竹である。竹藪というほどでなくとも、竹が屋敷内に植えられている家がいくつか見られ、とりわけ中央自動車道から東側に多い。そしてそのすべてが母屋から見ると北側に配置されている。というかこのエリアにある屋敷内の竹のすべてが北側に配置されているといってよい。当時はあった屋敷内の竹も、現在はだいぶ姿をけしているようだ。

 前回の大沢地域と大きく異なるものにもうひとつ、土蔵の存在がある。図からもわかるように、土蔵がとても多い。かなりの確率でどこの家にも土蔵が存在する。土蔵と納屋といった建物を北側に配置することで防風林の代わりをしているとも言える。それでも北側に生け垣が配置されるのは、明らかに防風を意図したもの。このエリアと大沢とは生業が異なるとことから景観に大きな違いが出ると言える。大沢とは直線距離にして4キロの位置にある。それほど遠いというわけではない。そして、木曽山脈麓のほぼ同じ標高にある。にもかかわらずこの位置関係で景観はもちろん、人びとの住空間にも違いが発生する。長野県とはそういうところなのである。

 

 

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防風林のこと(前編)

2017-02-16 23:07:08 | 信州・信濃・長野県

拡大図

 

 図は今から20年前、平成9年にある会で発表する際に作成したもの。まとめたものを発表する予定だったが、御蔵入りした図である。

 実は我が家から北を望むと、隣家を覆うように防風林が母屋を隠している。北を望んで防風林があるということは、南風を防ぐように防風林が作られたということになる。これに違和感を覚えたのは、生家ではまったく反対側に防風林があったからだ。その名のとおり風を防ぐ意味で作られる。生け垣を伸ばして防風林とするわけだが、北側の生け垣は日当たりが悪いために、防風林にまで仕立てるには時間と養生が必要だ。我が家でも北側に防風林というわけではないが生垣を植えたが、家に接近していることもあってなかなか伸びず、20年も経つというのになかなか大きくならない。日当たりだけではないのだろう、その伸びの悪さは。防風林については「家形の防風林」というものを10年前に記している。この事例も南側に防風林を配置していて、その際にも記したが、これでは日当たりが悪くてしょうがないのでは、と思ったものだ。それだけ南風が強いのかもしれないが、何と言っても日当たりの悪い家の方がいろいろ支障があるはず。もしかしたら正確には南側ではなく西南の防風林、ようは西日を遮るためのものだったのかもしれない。

 図は下伊那郡松川町上片桐大沢南部、大沢北部自治会エリアを対象にしたものだった。ここに土地利用がわかるようにしないといけなかったのかもしれないが、この地域は図の上部、いわゆる大沢北部側は水田がそこそこあって、下部の大沢南部側は果樹がほとんどである。このエリアで気がつくのは土蔵を持つ家が少ないということ。その理由は古い家が少ないということからくるのだろう。開拓されたのが遅かった地域と言える。すでに20年も経過しているため、現在とは宅地内の配置が異なっている家もあるだろうし、無住の家もある程度あるだろう。一般的に母屋以外の付属の建物は日当たりの関係から北側あるいは西側に配置するもので、この地域もその傾向は図を見るとわかる。とはいえ、付属の建物もかなり少ない地域といえる。そして母屋の向きは南北に長い家が多いように、南東を意識して構えている。これらも日当たりを重視したものということになるだろう。このエリアには古い時代の本棟造りの家は皆無で、昭和50年前後に一時的に本棟造り風の建築が流行ったのか、その時代に新築された本棟造り系の家がよく見られる。

 特徴的なのは生け垣である。生け垣というとそれほど背丈の高いものという印象を受けるので防風林といった方が正しいかも知れない。図に示した生け垣がすべて防風林というわけではないが、明らかに棟より高く伸ばした生け垣が存在し、とりわけ注目されるのは図の左下あたりの道沿いに連続している生け垣である。道を挟んだ南側は果樹園地帯となっていることから、防風林と言えなくもないが、実際は消毒除けの生け垣である。あえて南側に高く伸ばした生け垣を配置するのは、明らかに消毒を防護するために作られたものと言える。前述したように、この地域は果樹に特化した地域とまでは言えないため、図に明快な消毒除けの生け垣を目の当たりにすることはできないが、果樹園地帯特有の防風林を垣間見ることができる。

 もうひとつこの図で見ておかなくてはならないのは、竹やぶの存在である。ようは竹やぶがほとんどないということ。竹は値が伸びていく厄介なものだけに、むやみに植えることはないが、筍という副産物を得るために伊那谷南部では少なくない植生である。そしてそれらを屋敷に隣接して生やしている光景も少なくないのだが、このエリアにはそれがとても少ないのである。

続く

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懲りずに〝柊〟

2017-02-15 23:11:29 | つぶやき

 このところ節分にかかわって柊が盛んに登場したわけであるが、そもそも柊の木はそれほど目にする木ではない。とりわけ屋敷内には植えてあるのに気がつかないことが多いが、それほど大きな木になっていないということが目立たなくさせているものなのかどうか。実は我が家の庭にも柊が植えてある。あまり目立つものでもないが、柊の厄介なのは葉が落ちて枯れたとしてもその下に生えている草を除去しようとすると手に当たって「痛い」とくるわけである。だからこそ魔除けになるということなのだろうが、それでも柚に比べたらその比ではない。柚ときたら刺が長いので切り落とした枝の上を歩いたものなら、靴に刺さってへたをすると足にまで刺さりかねない。そう考えると寒いところでは無理としても、温暖であれば柚ほど魔除けになる木はないだろう。

 柊については庭に植えても良い木として歓迎されるが、その植える場所については鬼門に植えるということが言われたり、玄関先に植えるというものも聞こえる。まさに鬼が来ないようにという意図がみてとれるわけだが、前述したようにそれは人にとっても寄りつき難いという印象を与えるから、客にそれほど印象強くもたれると、逆の意味で人を避けるという意味にもつながりかねないだろう。さりげなく植わっているというのが良いのだろうが、それでは魔除けになるのか、とどうどう巡りになってしまう。

 その後柊と鰯、いわゆる節分の習俗について情報をくれる人もいて、やはり巷でメジャーに認識されているだけあって、玄関先に柊に鰯を刺したものを掲げる家は点々と確認できるようだ。今日も飯田市内の主税町のいかにもまちなかの住宅の玄関先にそれを見つけた。生の鰯の頭を柊に刺したものではなく、目刺し2尾を柊に縛り付けてあるものであったが、意図は明らかに節分の魔除けである。柊の枝も小さいものだったから、歩いていてもほとんどの人は気がつかないかもしれず、おそらくふだんの年だったらわたしも気がつかなかっただろう。今年は節分以来気をつかって見ていたからそれに目が留まったというわけである。

 すでに節分から10日以上を過ぎ、まちなかに柊と鰯を見て思うのは、これがいつまでこのまま掲げられているかである。自然に朽ちるまでそのままにされているものなのか、それとも一定の期間が過ぎたら取り外されるものなのか、そして取り外したらそれをどう処理しているのか、いろいろ説があるようだが、このあたりも聞いておかなければいけなかった、と今気づいているところ。

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「名は体を表す」と思ったとき

2017-02-14 23:46:21 | ひとから学ぶ

 「有明山の麓へ」で触れた聞き取りの第1回分のまとめがようやく手についた。渡辺宏さんは「「長野県民俗の会」の先達を訪ねる(第一回)」(『長野県民俗の会通信』253)において、「私はこの会に入ってまだ間もないし、単純にどのような方々が民俗の会を支えてきたのか興味があった。また会の先輩達が民俗学という学問をどのように受け止め、研究をすすめてきたのか。また県民俗の会もそうだが、各地域にある民俗学の研究グループの発足の経緯、そしてそこでの人的交流や、運営のあり方なども聞きたいと思った。」と、この企画の初心を語った。そして「先輩達の多くの文章の恩恵を受けながら、今私達は研究をしているが、文字からこぼれ落ちたものに接することで、自身の気持ちに直接訴えてくるものがある。今述べた人柄などもそうだが、伝統文化に対する思いとか、民俗学という学問に対する思いとか。このようなものを受けとめていき、同じ学問を志す者として、いわば「伝承者」になっていく義務が下の世代にはあるのではないかと思う。」と述べる。この言葉をトレースするような言葉を今日もいただいた。『信濃』(信濃史学会)の最新号である2月号に掲載されたわたしの論考も含め、編集後記において前沢健氏は、今号の「編集に携わる中で、これらの諸論考の通奏低音は「先人(先行研究)に学ぶ」ではないかと感じた。上條氏、花岡氏の論考は、ていねいに先行研究をサーベイを行い、研究史で欠落している部分に光を当てられており、この姿勢は学んでいきたいと思った。三石論考は、先行研究と新たに見いだした事例を関連づけてオンバシラを考察している。田中氏の随想、小林氏の地方史講座の報告は、共に先人に学ぶことの大切さに触れている。」と述べている。そもそもこの分野の研究は、先行研究を踏まえて論を立てていくのが基本スタイルとなる。したがって先人の研究はもちろんだが、その背景などに共感を抱きながら自分なりの視点を展開していく。そして研究はもちろんだが、そこからこぼれ落ちたようなものを掬っていく、さらにはその背景などを知ることで、意外な共感を得、自らへ返す手立てにもなっていくものなのだろう。

 さて、あらためて今回「有明山の麓へ」で触れた倉石忠彦先生の過去に触れる中で、聞き取りしていた時には意識もしなかったことが、あまりにも驚きになって返された。聞き取りの際に民俗学へ興味を持たれるまでの話をうかがった。その中で先生は「小学校のころから岩石に関心を持っていた」という一言を述べられた。ようはそのころは理系に興味を持たれていたという。今回原稿をまとめるにあたり、倉石先生よりいただいた年譜を見ていると、小学生の時に長野県児童生徒科学展覧会銀賞を「河原の石の研究から」で受賞されていた。その時は「岩石に興味を持たれていたのか…」程度に思っていたのだが、県の科学展で受賞するということはかなり本格的だったということになる(先生に確認すると、高校でも地学部に入っておられたとか)。そしてそういえばと思い出したのが、わたしも小学6年生の時に記憶では「上伊那の岩石」と題するようなもので、先生のものとはレベルが異なるが郡展で表彰された覚えがある。わたしの場合はひとりでやったものではなく、同級生7名ほどでやった研究だったが、それまでも岩石の研究をしていたという経験値があったためか、わたしがリーダーだったため賞状には「○○(わたしの名前)ほか6名」と書かれていたように記憶する。今ならこんな賞状はないだろうが。したがって全校集会の際に、みなの前で校長先生から賞状をいただいた。ところが同じ集会で美術展で賞をもらった表彰も受けて、わたしにとっては人生で最初で最後の目立った瞬間だったように思う。昔のことをあまり覚えていないわたしにとっては、記憶に強く残っている思い出話である。もともと岩石に興味を持っていたわたしが、その後石仏に興味をもって今に至るわけであるが、その過程で何度も思ったのは「名は体を表す」ということば。わたしの姓には「石」がつく。なにより岩石に興味を持った理由は、家のすぐそばに与田切川という伊那七谷で知られる大きな川があった。父の仕事場はこの川の中だったこともあり、毎日のように川に遊びに行っていた。もとより父はその川の中にゴロゴロとあった巨石を割り出す「石屋」だった。だから子どものころは「石」の研究をする学者になりたいなんて頭の隅にあったように思うが、勉学が伴わなかった。と、そんなことを思い浮かべながら倉石先生のこれまでを振り返ると、わたしとはまったく実績は比べ物にならないが、岩石から対象が道祖神に移り、そして道祖神研究の第一人者になられた。どこかに「石」が繋がっているように感じるととともに、倉石先生も姓に「石」がつく。まさに「名は体を表す」的流れを抱き、それに気がついた時、ちょっと感動したわけである。繰り返すがわたしの例とは比較にもならないが…。

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年々変わっていくコトヨウカ行事の状況

2017-02-13 20:11:47 | 民俗学

追倉 道祖神と青面金剛に巻かれた綱

 

厩所の道祖神 かつての道祖神と見比べると・・・

 

上手町の道祖神 かつての道祖神

 

 かつて「コト八日を探る」を10回に分けて記した。平成23年のことだから、もう6年前のこと。松本市におけるコトヨウカ行事について調査をして、それは『「松本のコトヨウカ行事」調査報告書』として発行されている。先日『伊那谷のコト八日行事』という報告書が文化庁より発行されたことが新聞に紹介された。いまだ曖昧な状況という印象が拭えない「伊那谷の」コトヨウカ行事がどう報告されているのか興味深いのだが、まだ一般人には目に留まるところに公開されていないようだ。ということである教育委員会に送付されたものを見せていただいたのだが、曖昧さはある程度整理して書かれているが、結局「伊那谷の」という部分は晴れていないし、それを解きほぐすだけ飯田市周辺以外の事例に対しては調査がされていないという感じだ。たとえば先日来ここに記した松川町樫原のコトネンブツは扱われていないし、以前ここに記した旧高遠町引持の事始め念仏も扱われていない。

 さて、松本市里山辺追倉(おっくら)のコトヨウカの綱引きが昨年から実施できなくなっていると聞いて、行ってみた。追倉のものは松本市の無形民俗文化財に指定されていて、その名称は「里山辺追倉のお八日の綱引き」という。大久保姓5軒で実施されてきた行事だが、最近2軒がなくなり、3軒しか仲間がなくなってしまったという。参加人数が減ってしまって今年は6人だけだったという。持ち寄った藁で網を撚って「龍」を作り、これを輪状に結んで数珠に仕立てて念仏を唱える。それが終わると、男女に分かれて輪を解いて綱引きをする。女性が勝つと五穀豊穣、無病息災と言われ、毎年女性が必ず勝って終わる。終わったらこの龍を道祖神のところまで持っていき道祖神に巻きつけるというもの。綱引きをするからそこそこ太い綱を撚っていたのだが、人数が少なくて撚ることができなくなったのが綱引きをしなくなった理由のよう。したがって写真のようなしめ縄程度の綱を作って、これを輪にして数珠に仕立て念仏はやったというが、とりわけ注目されていた綱引きはこれで2年続けて実施されなかった。里山辺と入山辺の境にある追倉は県道から北側の山手に急坂を登っていったところにある傾斜地。同姓だけの集落とあって、減ることはあっても増えることはなさそうな環境にある。したがって中絶したものが復活する可能性はかなり低いと言われている。

 あれから6年、年々状況が変わっていって当然なのだろうが、集団で実施される年中行事の現状も絶滅寸前のものが少なくない状況だろう。そして何と言っても個人の行う年中行事はさらに廃絶の危機にさらされている。追倉へ行ったついでにかつてコトヨウカ行事を調べた際に、わたしが担当した入山辺厩所まで足を伸ばしてみた。川沿いにビンボーガミを焼いた痕跡があって、今年もちゃんと実施されたことは解った。そのいっぽう当時もすでに個人の家で実施しているコトヨウカの行事であるエブリダシの実施数が少なかったわけであるが、エブリダシはもちろんのこと、道祖神に餅を塗る習俗も明らかに当時より衰退している雰囲気がうかがえた。たとえば道祖神を見てみると、かつてのように賑やかに餅が塗られた痕跡はなく、かろうじて餅が少し塗りつけられているだけだった。隣の原集落にある県道端の道祖神には、まったく餅がついていなかった(過去の写真はこちら)。何度となく日記でも指摘していることだが、個人宅の行事に、より廃絶危機が訪れていることは言うまでもないし、これらを文化財に指定していくことはできないものなのか、と思ったりもするところだ。

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樫原のコトネンブツを訪ねる・後編

2017-02-12 23:25:37 | 民俗学

樫原のコトネンブツを訪ねる・前編より

 

 

 コトネンブツは現在育成会の事業として行われている。したがって育成会が子どもたちの世話をして行っているが、かつては子どもたちだけで行っていたもの。育成会とは別に世話人が行事を支援するが、その世話人は地蔵堂の信徒総代の方々。コトネンブツが地蔵堂を中心に行なわれることから信徒総代が支援するようになったのだろう。この信徒総代は樫原自治会の中で6人選出される。隣組が7つあって、それぞれの組合から1人選出されるが、1人は大島神社の総代になるため、残りの6人が地蔵堂信徒総代となる。そのうち年齢の最も高い者が総代長になり、現在は昭和26年生まれの方が務めている。その総代長さんが子どものころが子どもたちだけで実施した時代の最後のようだ。地蔵堂には年間5回の行事があり、信徒総代が世話人として行事を実施している。それら行事は、

5月8日 お釈迦様誕生花祭り
8月16日 地蔵堂盆供養
9月11日 地蔵堂秋彼岸供養
3月5日 お釈迦様涅槃会お花餅
3月12日 地蔵堂春彼岸供養

以上の5つ(平成28年度実施日)である。
 この行事にはお寺さんがやってきてお経をあげてくれる。そのお寺は近くにある海蔵寺である。地蔵堂らしきものが初めてできたのは安政年間だったという。当時はお堂らしいお堂ではなかったようだ。創建には海蔵寺の本寺である専称寺と関わっていたとも言われるが、現在のお堂を樫原自治会で管理しているところから、樫原の有志で建てられたものなのかもしれない。堂内にある額には明治41年の「地蔵堂奉額寄付人名」というものがあり、そこに記されている方たちは発起人1名のほか31名であるが、うち16名は女性である。男性にあって女性にない姓があること、女性が半分を占めるというあたりから、もともと地蔵堂にかかわる信仰(行事)は女性の手によっていたのではないかとも想像される。ちゃんとした地蔵堂が初めて造られたのは明治38年のことで、その時からコトネンブツが始まったと言われている。現在のお堂は昭和31年に建て直されたもの。

 この日は子どもたちや世話人も含め、午前10時半に樫原会所に集まる。最初に信徒総代長さんよりコトネンブツの言われが説明される。始まった時代のこと、かつてのコトネンブツの様子などである。前編でも触れたとおり、かつては地区内にある家々をまわって念仏をあげたという。まわっていくとそれぞれの家ではお賽銭をくれた。そしてお宿というものがあって、その家にコトネンブツの後に子どもたちが集まって塩けのご飯をいただき、年長の者は泊まったという。大正時代のこと、一時念仏を辞めたところ流行病が蔓延したため、再開したら流行病はなくなったという。

 説明が終わると会所から地蔵堂へ向かう。会所のすぐ下の三叉路のあたりをホンヤリ場といい、そこの横に流れる川で手を洗って潔めをする。地蔵堂に行くと狭い堂内に子どもたち全員が入り、数珠繰りとなる。かつては子どもたちの年長の者が最初と最後の唱えごとを言ったというが、今は信徒総代長さんの号令で始まって、終わる。信徒総代長さんのところにある房のついた数珠の大玉が3周時計と反対回りに回されると終了となる。唱えこどは前編に示したものとは少し違って「念仏衆生説法世界静粛舎」が始まりのもの、「願日切徳生一斎御局大師」が終わりのものである。この唱えごとに続いて数珠を回すわけで、その際はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える。鉦は年長の男の子が叩いた。大玉がまわってくると額につけるように願いを込める。地蔵堂でコトネンブツが終わると、会所に戻ってもう一度コトネンブツを行ない、行事は終了となる。このあと会所において昔通り塩けのご飯をいただくというわけである。現在は2月の初めの土曜日ころを実施日にしているようだが、かつて実施した日についてはっきりした日は総代長さんも覚えておられなかった。前編でも触れているが、『松川町の年中行事』では6日に実施したと記されている。現在は「風の神送り」は行われていない。この日参加された子どもたちは24名だった。

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雪が隠すもの、見せるもの

2017-02-11 23:02:19 | 農村環境

写っているほとんどの家の雪は掻かれていない(浪合にて

 

 3年近く前に「中峠のお堂で」を記した中峠へ、〝かにかや〟に関連して訪ねてみた。松川町でも竜東に位置する生田は、大鹿村へ向う県道の途中にあり、かつては頻繁に通ることがあったが、今は大鹿村に行くには小渋川沿いに中川村の渡場から入るのが一般的になって、生田まわりで入る人はほとんどいなくなった。とりわけ冬場ともなれば、峠の向こう側が日陰道ということもあって、より一層この道を通る人はいない。このほとんどよそからの人通りのない生田の道沿いに、かつて町が造った梅松苑という観光施設があるが、この季節にも運営しているのかどうなのか。かつて以上に寂しい雰囲気を醸し出すこの地に、荷物を置き忘れてしまったような光景は、この地域の現状を映し出している。「中峠のお堂で」の中でも触れていたのだが、観音堂のある場所に近く2軒ほど家が道端にある。寄りやすいということもあって、過去にこの直近の家に立ち寄ったことがあったが、3年前にはその家に住まう人はおらず、観音堂のことを聞こうともう1軒の家に立ち寄ったものの、その家も今は無住のよう。できれば話が聞ければと思っていたものの、思いは叶わなかった。竜東は竜西にくらべると雪が少ないといっても、ここまで奥まったところまで来ると、雪が残っている。当然のことであるが、雪が積もれば玄関先の雪は掻かれる。わずかながら残っている雪の様子で、そこにある家に人の息遣いがあるかどうかは判明してしまう。

 わたしはスキーをしないからスキー場に行くことはない。ところが仕事の都合で夏場にスキー場に立ち寄ることがある。すると「営業しているんだろうか」と思うような荒れ果てた姿を垣間見る経験が何度かあった。もちろんそうしたスキー場は夏場は閉めているスキー場。冬場のスキー場では見えなかったものが、雪の無い夏場には見えてしまうのである。冬場のスキー場しか知らない人には、その姿に愕然とするかもしれない。雪はそうした見せたくない部分を隠してくれるという利点がある。ところが雪に覆われたままになっている冬の雪には、、また違うものを見せる面がある。前述したように、人の息遣いがないことを教える。

 昨日売木村へ仕事で向かった際に、途中でいくつかの集落を回ってみた。山間ということもあるのだろうが、まさに雪によってムラの姿をあからさまにしているような現場に出くわした。たとえば旧浪合村だ。軒の連なっている中心部の家々を見たとき、とりわけ雪深い浪合では住んでいない家ははっきりとわかる。そんな家が半分近くあるのではないだろうか。きっとかつては賑わいのあったであろうマチのはずなのだが、そこに住まう人の数は激減しているようだ。中峠に点在する家々についても様子をうかがってみたが、そもそも人の息遣いを感じる家が数えるくらい。ここもかつて仕事で何度となく訪れた記憶があるが、限界集落をすでに超越している雰囲気が漂っている。そして積雪は、より一層その光景を際立たせている。

 

以前「下伊那の道祖神①」で触れた中峠の道祖神。

すでに祀る人々はいないのではないだろうか。

 

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柊に鰯

2017-02-10 23:34:25 | 民俗学

 

 「かにかや」を含め節分に関しては昨日でおしまいのつもりだった。ところが今日もまた仕事で売木村まで足を伸ばすことに。昨日下條村まで足を伸ばした際にも注意深く様子をうかがったものの何も収穫がなかった(何も無いということが収穫だったかも)ので、ほぼ期待薄だろうと思いながらもそうはいってもと思って売木村までの沿線をよそ見をしながらうかがって走った。とりわけ沿線で集落の様子をうかがうには平谷村まわりが良いだろうとルートを選択。山間でまとまっていて、さらに古い感じの集落を求めて阿智村大野の様子を見、次いで浪合村のかつての中心街、さらには平谷村と、それらしい集落を覗いて見るも予想通りどこの家の玄関先にも貼り紙などまったくない。売木村に入って軒川などの集落も当然のごとく何もなく、間もなく売木村役場入口というところでそれらしいものを発見。いわゆる売木村の昔ならマチにあたる通り沿いの1軒に柊らしき枝が掲げられている姿が…。用事を済ませた後に伺ってみると確かに柊の枝に鰯が刺してある。かつて店を構えていたと思われるその家の玄関先と、店の入口の2箇所にそれが掲げられている。今年これを見るのは2例目。世間では柊鰯は珍しいものではないかもしれないが、長野県、とりわけ伊那谷ではめったにお目にかからないはず。もちろん話をうかがってみることに。

わたし「この辺てこういうことをするんですか」

おばさん(70代か)「せん」「昔はやっとったんな」「そいだけど、今の若い衆はせん」

節分以降気をつかって見ていて、「これが2例目」と言うとおばさんは大笑い。誰も「せん」ことをしていて気恥しかったのかも。「うちは毎年欠かさずにやっとる」と言うから昔から続けているようだが、これを見てから周辺の様子をうかがってみたが、確かによそでは見られない。表通りの目立つところにあるので、まさに魔除けになるだろうが、裏口にも出してあるという。「他に節分にされることはないですか」と問うと、「お婆ちゃんがおる時は、パチパチといって音がする物を燃やした」と言う。「裏にあったアスナロの木」を燃やしたらしい。音をさせることで鬼を追い払ったというわけである。「それをやりながらコンロで豆を炒って鬼は外をやった」。「隣のババは欲ふかババさ」といって「鬼は外」をやったという。今は京都のお茶屋さんが扱っている節分用の豆を通信販売で購入して撒くという。見せていただいたが、小袋に3つくらい入っているだけのもののよう。「これだとソツがないし、食べるのも楽だ」と言われる。

 「かにかや」は局所的習俗。いっぽう柊に鰯という魔除けは、メジャーなだけに点々としながらも残存しているものを見られる可能性があるということだ。

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