トシコロのありのままの暮らし


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戦争と憲法について考える

2017-12-08 14:09:38 | 日記
   今日は12月8日。旧日本軍がアメリカのパールハーバーを攻撃し、多くの人たちを死傷させて、日米戦争が始まった日である。もっとも、そのかなり前から中華民国と戦争していたわけだから、開戦日と言えるかは判らないが。


  そして、ご存知の通り、日本・中国・フィリピン・アメリカと莫大な数の人たちが死傷し、又、日本の植民地だった朝鮮と台湾でも多くの人が徴兵され、死傷者もたくさん出た。当時のヨーロッパ同様、東アジアも悲惨な状態になった。

  明治時代に制定された日本帝国憲法でも人権は書かれてあったが、軍部が力を持ち、憲法も力を弱め、特に人権は戦争遂行の名の下、抑圧され、特にハンセン氏病患者は強制的に療養所に収容された。その他の障碍者も戦争に協力できないムダ口食いみたいに扱われ、世間から厳しい目で見られた。各学校では、身障児の養護学校含め、軍事教練が義務付けられ、児童・生徒は勉強の時間も半減させられた。軍需工場勤めも児童・生徒に義務付けられるようにもなった。

  勿論、以上のような事は日本も繰り返したらならないわけである。

  日米戦争のかなり前から特に日本陸軍は横暴になっていったが、それを抑えるはずの政治家が汚職と権力争いに明け暮れて政治の力が弱まり、それゆえ、陸軍への法規制もままならならかったわけである。又、明治憲法自体も軍部への法規制力が弱かった事も上げられよう。その憲法は19世紀末に作られたが、当時は世界的に軍部への法規制は弱い状態だった。

  それゆえ、軍部を抑えられる立場の者は当時の昭和天皇しかいなかったが、不幸な事に昭和天皇への情報も常に偏ったものばかりで、昭和天皇御自身も陸軍を抑える事はできなかった。陸軍が集団として狂い、暴走。ヒットラーやムッソリーニの独裁で戦争したドイツやイタリアとも違う、非常に複雑で厄介な状況になった。

  話は戻るが、1920年代後半、政治家たちはケンカばかりしていたのに、日本国民の多くも政治に無関心で、遊んでばかりだったり、株式投資ばかりに目が向く人たちが多かった。又、政治以前に「憲法・法律」に人々は無関心だった。そこが日本が狂っていった事の大きな根ではないかと、今の僕には思える。憲法・法律は国や社会の基礎である。無法国家ならば、全国民の人権も守られる方法もなく、福祉どころか、仕事も、財産保護も、結婚すらも不可能であるから。

  戦後憲法は戦時中の人権抑圧や教育犠牲などの反省も込められて作られ、特に1970年くらいまで多くの若者たちは関心を強く持ち、盛んに憲法議論もしたわけである。僕の従兄弟で思想家の川本兼氏もそのように語っている。川本兼氏は1946年生まれである。でも、全学連が挫折した1970年以降は若者たちは憲法・法律に無関心になり、全学連=暴力学生という誤解すら生まれた。僕が青春時代を迎えた70年代後半から80年代に掛けても、僕もそうだったが、周囲の多くの若者たちは憲法などの事は語らなかった。逆に、「法律は人々を縛るもの。アナーキーが良い」とか言う声も聞かれた。青春期を過ぎ、放送大学で政治学や法律学も学び、憲法・法律の大切さを悟り、70年代以降の若者たちのおかしさにも気が付いた。何も学生でなくても、全世代の人たちは憲法・法律に目を向けなければダメである。また、日本は「過去の道」を歩きかねないから。憲法・法律に無関心は大罪である。

  皆様も戦争・憲法・法律・政治について考えてみて下さい。