トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

何がおかしかったか?

2015-05-02 14:21:31 | 日記



  昨日まで書いてきたが、40年くらい前の世田谷の福祉関係は構成員の特に主要メンバーが自分の為に他人や社会を利用する事しか考えていなかった点にあったのかもしれない。もちろん、誰でも自分は大事だし、それは構わないが、ただし、構成員が自分の事しか考えないと利益の奪い合いみたいになり、まず、より弱い者が生存競争から脱落し、勝ち残った者たちも孤立化し、最終的には自滅してしまうのである。世界共存の事でよく言われている事である。

  昨日までは身障者たちの事ばかり書いてきたが、かつての世田谷のボランティアたちも「地域コミニティがどうの、こうの」とか、難しい話ばかりしてきた。それで僕も付き合いもできなかったわけである。昔は気が付かなかったが、そのような難しい話ばかりしていたら、ボランティア同士も話が通ぜず、付き合いもできないではないか。世田谷のボランティア関係は他の地区に比べても早くに潰れたが、そのような事も理由だったかもしれないと思う次第です。又、「自分にしか判らない難しい理屈」ばかり話す事は、自分の事しか考えていなかった為だろう。他人を思いやる気持ちがあれば、どんな人にも、それこそ、幼児にも判るような簡単な言葉を使うわけだから。

  振り返って、僕が思う事は、自分だけではダメ。「自分たち」の事を考えないと。英語で言うところの「WE」でないと、福祉は成立しないし、それは国際間でも言えると思う。世界全てが「WE」にならない限り、世界平和はやってこないわけである。

  (聞く所によると、指名介護人はA氏用ならA氏にしか使えない制度。それを使っている人たちは介護者を私有化みたいにして、他の身障者が使うのを非常に嫌ったと、一ヘルパーさんから聞いた事がある。いわゆる介護の社会化を非常に嫌ったようである。それもおかしいと思う。介護者は身障者の私有財産でもないわけだし。そのような発想では、福祉の進歩はないわけである)




追伸的に書くと、構成員がエゴ百%みたいになった理由は当時の世田谷の問題の他、会合に会合を重ねてきたせいもあるのかもしれない。それで理窟ばかりこね合うようにも。理窟からは他人の事は判らず、それで各自共、エゴに走るようにもなる。実際、どんな人たちでも、どんな思想でも、理屈を述べ合う関係からは愛や思いやりは出ません。しまいには、エゴがぶつかり、共倒れにもなります。一番大きな例は1970年前後の中国の文化大革命でしたが。歴史はともかく、理屈からは冷たい関係しかできません。