ファンタジーなど

基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

秋田県由利本庄市矢島町谷地沢のこと

2022-12-14 07:49:55 | 日記
妹との昔話で、谷地沢の西側の川と道の側に、「がんどもり」という
記憶では高さ2m以上で地面の直径は数mほどの、まさに盛り土。
天辺には石の墓と1本の松の木(太さは直径20cmもなかったような記憶が)。

で、私の認識では「がん土盛り」だったのだが、妹は「がんど森」と認識
していた模様。「がん」の漢字は記憶からは消え去っています。
お話は:江戸時代、その場所に盗賊がいて谷地沢農民の熊谷氏が、退治し
矢島(やしまと発音、名字と違い濁りません)の殿様から褒美をもらったと
いうもので、その盗賊を埋葬したのが「がんどもり」だというお話でした。
 ~ただ、お墓にしては、盛りすぎて、もはや小山。
  その理由は誰も語らないのでありました。
 ~谷地沢の全家は江戸時代から続く家です。でも名乗っている名字の来歴を
  聞いた覚えが無いです。

さて「がんどもり」が地図に出てくるかなと参照してみましたけど出ません。
別に、昔、私らが住んでいた地域の地名に疑問が出ました。
江戸時代からの地名の谷地沢以外の土地が桃野に変わっているのです。

数年前に弟が病死した時に取り寄せた戸籍謄本の除籍版では、
 「矢島町城内字谷地沢西XX番地」の西以下を訂正して「百XX番地」とあります。
で、除籍版でないほうは、「矢島町城内字谷地沢西XX番地」と元のままです。
~書き換えた方が除籍版になっているわけです。
由利郡矢島町は平成の合併で由利本荘市となりましたが、反映されていませんでした。
古い戸籍はいじらずに放置するのが国の方針のようです。
古い戸籍までをいじり出すとキリがありませんから当然のことでしょう。
だからいじってしまった戸籍を除籍版にしたのでしょう。
手書きの時代ですからご苦労様です。
~旧い戸籍謄本を遺産請求のためと1通を請求したらもう1通あるよとハガキを
 出して来て、余計な問題を起こしたことは、ここのブログのどれかに書きました。

さて
現在の「ゼンリン」や「グーグル」のマップでは、「桃野」の表示になっています。
~城内谷地沢も城内と谷地沢が分離していたりします。詳細はサッパリです。
私が住んでいた時期には、「桃野」は、ごく一部の地域の名称で、「おたすけ」が
通称として使われていました。これは、「お助け~」で、昔野盗が住み着きそこを
通る人を襲っていたため、「お助け~」の叫び声が地名になったというもので、
私らが転出する昭和40年代に入っても、住んでいる地元民はその名を使っていました。
 ~これが「がんどもり」のヌシのようです。我々が住んでいた当時、「がんどもり」は
  桃野の認識はありませんでしたが、桃野と同時期の開拓者がなにか頑張ったらしい
  土地の片隅にありましたから、桃野の地域名になっていた可能性はあります。
  ~野生化したイチゴやキクイモが残って育っていましたが、小石だらけの河原で
   あったため田畑にするのは諦めたというのが実際のようです。
  桃野は、我々より古い時代の開拓地で、お話では米軍の都市爆撃の話が良く出て
  きましたから戦後すぐの開拓と思います。
  ~我が家含めた谷地沢西の全家は、2回目の開拓です。我が家含めた5家の初回は
   秋田県は八幡平の今や国立公園内で、当時の、硫黄鉱山が頼りの開拓でしたが
   鉱山閉山で生活不能となったのです。この時の転出者の数家は私が今住む土地に
   転出できたのです。この土地は、水田に使える水が無く、西側の大谷川上流域は
   二宮金次郎先生が水引工事を指導して水田ができるようになったのです。
   「水無」という地名が今も残っています。
   ~二宮金次郎が作った水流も我が家の近くでは、水面の高さが地面から5m以上の
    深さとなっています。さらに後世の水流でも3mになっています。
   
   大谷川の伏流水は、我が家から1.5km以上東側の下流になってやっと地上に出て
   きます。我が家の地域は「茅野」とか「茅場」とか「萱場」と呼ばれるほどに、
   ススキしか生えない放置されていた土地だったのです。飲み水も5m以上掘り下げないと
   いけない井戸でしたが結構水枯れしました。個別には対応が困難で今も共同井戸で
   運用しています。今はなんと48mの深さです。
   開拓者は、牛飼いでなんとかなったのです。が、牛飼いには休みはありません。
   会社が近くに出来たことで、ほとんどが廃業したのです。

谷地沢西に入植した家々は、1月程度と数年で転居した2軒、結構長くいた
我が家含めた10軒も9年で諦めて全家、離農することとなったのでした。
誰も農業では生計を維持できないから、当たり前の結論でした。

矢島町はなんか堪忍袋の緒が切れたみたいで、墓地を含めた一体を誰かに売りつけ
植林地にしてしまい、これは成功しています。墓石を1つも見つけられません。
言わば勝手に樹木葬された感じです。

他に、11軒が鉄筋入りブロックで家を建てていたのですが、これら全部を破壊抹消されました。
地面下にも基礎が打ってあったのですが、完全に消去したようです。
ついでに?建物が建っていた土地も小高い丘も畑も全部均しまくったせいで、表土が栄養分が
何も無い赤土となり、放置しても雑草も覆えないほどの痩せた土地になったのでした。
 ~8年後に訪問してみたら、痩せて売り物にはならない大根が赤土畑に植えられていました。
  さらに30年近く後に訪問してみたら、背丈の低い雑草がまばらに生えた赤土の土地が広がって
  いるだけでした。雑木の1本も生えていないのでした。
  秋田県八幡平の出生地の方は、転出後50年で、大木の森となり入れませんから大違いです。

ブロック作りの神社の本体と鳥居もどこかに始末したようです。こちらも、雑草パラパラの
土地が残っているだけとなりました。神社に残していた松の木も無くなっています。
そこまで我々が憎かったのかというのが感想でした。

地名の桃野も、谷地沢西抹消の一環でしょうか。

~私の死後に財産相続するためには、私に妻子がいませんから、戸籍から消えた3兄姉の
 問い合わせが必須です。兄姉の名前を証明する法的文書は存在しないのです。

 樺太の戸籍のほとんどは消失していますから、結構めんどうな処理があるのです。
 ~父母のそれぞれの戸籍はもちろん結婚して作ったはずの戸籍すら消滅したのです。
  父が北海道に渡ってすぐに3兄姉の火葬許可証を作ったようですが、保存期間が短いので
  原本は存在しません。もっとも法律的には特別な効力は無いようです。

出稼ぎが必須で、出稼ぎで生活を支えることができるということがわかり、
今家族が住んでいる場所を変えようということになったのでした。
町から10km近く離れた場所にあり、行くにはハイヤーなどを雇えるが、戻るには
自分の足しか無いことにありました。冬場は陸の孤島みたいな場所でした。
 問題は、
 1:春に戻って農作する手間暇がもったいない。出稼ぎでもっと稼げる。
 2:自分の移動コストを下げたい。
 3:東京近辺の家土地代は高い。適当に安いところが良い。
 4:子供達の通学問題と、母親の朝食・昼弁当用意のための早起き負担を減らす。
   小学生の通学距離が歩きで我が家で片道2km。遠い家庭で3km。最短の家は1km。
   学級は複式学級(2学年をまとめて教育する)であること。
   中学生は、歩行通学しかなく、我が家で9km。遠い家庭で10km。最短の家で8km。
   ~この距離は自動車道で測った距離なので歩ける道では1kmは短縮可能かも。
   ~冬季は冬季分校が用意されるが3学年まとめて1クラスになること。
   ~我が家は鳥海山2合目が距離的には中間にありました。
    自転車など使える道ではありません。
 5:病気で病院に連れて行く手段にはオンブして行くしか無い土地では困るのです。
   これをサボった?男2人は、連れ合い2人を病死させてしまったのでした。
   1名は冬季に虫垂炎を放置して悪化させた結果でした。

で、政府の離農政策に乗っかって全家が離農したのでした。結構町とはもめたようです。
当時の新聞とTVのニュースで賑わしたようです。

父は、実姉の配偶者の提案で、私が現在住んでいる家土地の購入を勧められて断れずに移り住んだ
のでした。その売主は、樺太の同郷者で、長男夫妻の家に隠居するために家が不要になったからと
いうものでした。
~父親は、実は、宇都宮市の当時は宅地販売を開始していた地域の家を購入するつもりだったようで
 ボヤキまくっていました。母も含めた全員もです。そっちは駅も近かったよと。
 ここ、小中学校まで歩きで2km(小学校は自転車通学禁止)。どこのバス停も1km。
 矢島から比べたら便利だけど、離農したら住む土地ではありません。
 買い物、通院には自家用車かタクシーが必須です。

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