ファンタジーなど

基本的に、いろいろなことの変なとこに突っ込みます。

日本国の歴史上 田中英道著 卑弥呼を祭る神社が無い理由

2023-04-29 23:28:50 | 本と雑誌
「日本国の歴史上」 の売り宣伝に卑弥呼を祭る神社が無いことを理由に卑弥呼はいなかった、
邪馬台国など存在しなかったとしていますので、ここでイチャモンを付けておきます。

「日本の誕生 長浜浩明著 WAC」 によれば、卑弥呼は天皇家とは一切の関係がありません。
~神社を造るのは神道であり、元は天皇家の宗教であると言い切って良いでしょう。
 今でこそ日本人の宗教の様に思われていますが、天皇家と無縁の集団とは、宗教の実態が違うのです。

 アイヌ人は明治まで日本人との関与は少なかったため神道とは無縁でしたから神社を造らなかったのです。
 ~コロボックル伝説みたいなのがあるようですから、縄文人とは全く違う宗教でしょう。
 ~アイヌ人が先住民族の縄文人を滅ぼしたと思われますが縄文人は天皇家とは無縁の人々だったはずだから
  神社を造ることはなかったでしょう。もっとも縄文遺跡の木造家屋が神社とは程遠いものなので判定不能
  でしょうけど。
 ~明治に大名以下の移住者が多数出ます。北海道の神社は彼らが造ったのです。
 沖縄の神社も結構ありますが、時代は、全部が新しいようです。
 ~沖縄は、先祖は縄文人のようですが大和王朝とは関係は無いようです。
  江戸時代に琉球王朝が鹿児島藩の支配下に置かれたのが最初で、天皇の支配が及んだのは明治時代からです。
  天皇の直接支配が届きだしてから神社も造られるようになったんだろうと思います。
  江戸時代に流民島に使われていた島はありますが、流民が神社まで造れたかは少し疑問です。

 ついでに:
  秋田県由利本荘市矢島町谷地沢には、神社も寺も、ありませんでした。
  開拓入れても30戸にも届かない小さい集落だったのが理由かも。
  でも、道祖神とか馬頭塚なども見かけませんでした。あったのは盗賊の墓を兼ねた塚のみ。
  お寺は住職などを置かないと成立できませんし宗派があって面倒ですが、神社は、無人であっても良いと
  開拓民が分祀して建立した神社を、開拓民がいなくなった後に、小さな社と大きな鳥居をどこかに
  埋めてしまったのです(社も鳥居もコンクリート製でした)。
  町あげての夏祭りは山車はいくつも出す・・・夏祭って神社には無関係だった?
  こんな地域では、神社造って維持し続ける理由は無いです。
  どこの地域にも神社があるという思い込みは捨ててください。

長浜氏は、大和朝廷の邪馬台国併合を垂仁・景行天皇(290~320)あたりに置いています。
大和朝廷の支配が北九州に及ぶまでには、邪馬台国は滅んでいたと思われます。
~大和朝廷は、邪馬台国の存在が魏志倭人伝に書かれていることを認知していたようですが、それが
 どこにあったのか分からなかったのです。
 現地近くの人々に聞き回ったことは確実ですが、誰の記憶にも残っていなかったということです。
 ~山や塚にだけ名前が残っているようです。後世の偽作か?
卑弥呼の属する集団が卑弥呼が生きている間に、神道に接する機会は金輪際無かったのです。
そしてその集団が大和朝廷支配下に下ったとしても卑弥呼を祭る神社は造らなかった=そこまで卑弥呼を敬う集団は
残っていなかったのです。
~卑弥呼を祭る神社が無い=卑弥呼はいなかったというのは時代の宗教の伝搬を無視した暴論です。

でも卑弥呼は、巫女をやらされるような宗教集団にはいたようでは、あります。
これが、縄文人に共通な宗教だった可能性はあります。
でも、邪馬台国にしろ、奴国にしろ、そして熊襲や隼人にも神社を造るような宗教は持っていなかった
のです。
~卑弥呼の墓とされる古墳もあるようですから、そこが発掘調査されたら何か出てくかもです。

天皇支配下にあった・なった集団には神社を造り先祖を祭る習慣が伝わったのです。
一方、大和朝廷と対立する集団には、墳墓、塚、陵などを造ることはあっても、
神社を造ることはなかったから先祖の口伝が残る程度だったのです。
 ~口伝などは、天皇家の指示で造られた各地の風土記で残されることになりました。
  卑弥呼の口伝が残らなかったと言うことは戦いで負けて全滅してしまい、忘れ去られるほどの
  年月が経過していたからというのもありそうです。

秦始皇帝を祭っているのは、日本に流れてきた弓月氏が秦氏と改名し、自分たちは秦始皇帝の
子孫であると吹聴して祭ったのが理由でしょう。
まったく無関係の人を祭ったのではないのです。

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日本国の歴史上 田中英道著 育鵬社 パート1改+2

2023-04-25 14:25:53 | 本と雑誌
2022年5月22日 2刷です。

ツッコミどころが多いので、2回に分けます。

100円販売も続いているし、他の方の批評も参考に少し直すことにしました。

改+2・1
 P10、P144:青丹よし 寧楽の都の咲く花の
  この歌を二度も記載し、P10では花が何であるかは文化の問題を考えなければならない
  と書きながら花が何かは論じないままで終わっています。
  ~万葉集に出てくる植物の名前を集計した中尾佐助という方が居ます。
   彼の集計によれば1位ハギ138回、2位ウメ118回、サクラは8位42回です。
   サクラの上にタチバナ、スゲ、ススキが出てきますから、サクラは、この時代はまだ
   まだ新参者だったようです。香り・薫からするとウメかタチバナが正解でしょう。
   ~サクラは全て山桜(=花より先に葉が出る)しか見つかっていないだろう時代です。  

改+2・2
 この本の売り文句に、「日本の巨大古墳が突然消えたワケ」という奇怪なコピーがあります。
 「巨大古墳を造るのを止めたワケ」なら正しいかもです。
 「ワケ」も、この本には書いていません。
 環境は書いてあるから読者が勝手に判断してねというのが正しいところでしょう。

 最近の天皇の陵は巨大とは言えないにしても立派な円墳です。
 大きな陵は造り続けているのです。

P5:ユダヤ人埴輪
 ユダヤが北のイスラエルと南のユダ王国に分かれたのがソロモン王(~紀元前930年?)
 の子の時代ですから紀元前920年頃の事です。イスラエルが滅んで失われた十支族
 となるのは、紀元前772年の話です。当時のユダヤ教は統一された宗教では無く
 多神教までも含んでいたとされていますし、祭祀も支族ごとに違っていたようです。
 南の2支族がバビロン捕囚に遭うのは紀元前586年。でユダヤ教が形を成すのは
 バビロン捕囚の間とされます。バビロン捕囚からの開放では十支族の一つが手助けした
 ようですが、宗教の違いが大きく後にユダヤ教から破門したようです。
 さて十支族の一つとされる弓月氏が日本に渡るのは応神天皇の時代で長浜浩明氏の研究
 によれば、西暦390~410の応神天皇14年の出来事です。
 弓月氏は日本に渡って秦氏になったとあります。この時代、朝廷は奈良にあります。
 ユダヤ人埴輪が奈良の古墳で見つかるなら妥当ですが、関東でのみ見つかる理由が説明不能
 なのです。思いつくのはユダヤ同祖論を提唱した集団が神社に仕込んだ事実です。
 これを、奈良の古墳では発掘されていない古墳はほとんどないからと、未発掘の古墳だらけの
 関東の古墳に仕込んだというのが正解でしょう。
 そもそも、1100年ほど全く交際の無かった民族が、別民族のさらに1600年ほどの未来の
 習俗を正確に土偶に表現できたというのは荒唐無稽です。さらに言うなら、西暦400年の自分
 たちの今の姿(日本人とほぼ同じ衣服に少しユダヤ?っぽい顔と姿)を一つも再現していないという
 事実もあります。

P5:
 当時、人口の1/9を占めた彼らの子孫達が:
 この数字どこから出てきたんでしょうか。
 弓月氏は、120県の民を率いて居住したとはあります。職業は養蚕と織絹だったよう
 ですし、ユダヤ人とは限らなかったようです。

P8、P48:
 土偶については、「土偶を読む」竹倉史人著 晶文社 を読んで欲しかった。
 同じような土偶の存在から縄文時代人全員が共通の家族認識があったとするのは
 荒唐無稽です。共通の宗教観があったと考える方が自然です。

P8:
 イザナギ、イザナミは神話の登場者です。そもそも神話の登場者はほとんどの場合、
 一族で始まります。ギリシャ、インドのように神々が揃った状態から始まるのも
 あります。この場合人間も既存なのが普通のようです。
 キリスト教の人間は、男一人から始まります。でアダムとイブには息子しかいないのに
 人間が増えるという無茶を放置しているように結構いい加減なのも多いです。
 神話をそもそもマジメに取るのが間違いです。ところで、近親相姦による異形を
 イザナギ、イザナミが証明しているとするのは間違いです。女から誘ったからで、
 男から誘うのが正しい結果を得るというのが本質です。

P9:
 大仙古墳と呼ぶべきではなく仁徳天皇陵と呼ぶべきだと述べています。
 仁徳天皇は8世紀頃に諡されたものとされています。
 諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)です。
 その陵が建立当初は、仁徳天皇陵という名称で無かったことだけは確実です。
 ~おまけ:聖徳太子も諡の一種のようです。

P20~
 形がほぼ永遠に残るものでないと遺跡とはなりえません。
 ここがまず大事です。
 簡単な遺跡は、洞窟です。一度立ち寄っただけでも痕跡は残り続けるために
 遺跡として残ります。多人数が住むには向いていないため、長期間の住居には
 なりませんが、非難や移動中の住居として何度も使われることが多いです。
 長期間の遺跡になるためには、定住することが必須です。日本は木造が主体
 ですから、地下部分の痕跡がメインになります。
 住居以外に残るのはお墓です。大石を置いたものとか、塚や古墳の築いたもの
 が残り、誰かが気付くわけです。
 ~ピラミッドであって欲しいな~と自然の山をピラミッドに見立てたアホ話も
  ありました。
 同じ場所に住み続けられると、住居跡遺跡は多分に消滅します。幸いなことに、
 古代の燃料は樹木が主体ですから、近在の樹木が無くなったら、移動するしか
 なくなります。で、地下の痕跡やゴミ捨て場や墓の痕跡が残るわけです。
 ~近所に豊富な山林があると移動しないままになります。栃木県日光市足尾町に
  住んでいた知人の家の一帯は庭を掘ると石器や土器が出てくるそうです。
  これを報告してしまうと家の改築、修理や庭いじりも畑作もできなく
  なるからと、近所の誰もが役所には内緒にしていたそうです。
 さて、関東以北は、縄文期終わり近くの寒冷化により、サトイモの越年が不可能
 になり遮光器土偶が作られなくなったことがわかっています。
 多くの住民が移住したと推定できます。後の住居は森林に飲み込まれて遺跡
 として見つけられるのを待っているわけですから数は多いのです。
 日本の南の地方は暖かい分、木材消費は減るし木の成長も早いのでより長く
 住み続けられますから、住居跡が遺跡として残ることは少なくなります。
 つまりは、遺跡の数で当時の住民数を推定するのは無理があります。

P25:
 現在のアフリカの人口をみた場合、世界の人口にはるかに及びません。
 生活も基本は野生動物の狩猟と自生する植物の採集です。しかも獲物は移動しますから、
 獲物を追いかけると隣の集団とハチ合わせしての戦いもしょっちゅうです。
 獲物の数とか集団間の生存戦争を自然調整した結果が今も続く集落の人口なのでしょう。
 1人でも増えたら、食料が不足します。かと言って人を減らしすぎると戦いに負けて
 さらに減るのは必須だし、逃げる獲物を捕まえるにも苦労し部族はさらに衰退します。
 こんな地域で人口少なめで生きていけるというのは単なる幻想です。
 基本的に常に多めの人数がいて、食えないからと追い出すのが常態なのです。

 朝鮮に旧石器時代の遺跡が少ないのは、朝鮮は長く無人の土地であり、縄文人が、
 鉄鉱石を求めて朝鮮に渡って住み始めたので歴史が浅い。また、朝鮮に南下した民族は、
 狩猟民で移動がほとんどですから、住居跡遺跡は無理というもの。

P23~25:ゴブスタンの岩絵
 P23では、マストが10数本もあって10数人の漕ぎ手がいるような大きな船と
 言いながら、P25では小船として大船の存在を否定しています。

P26:
 日本をその地域の言語で訳したからというだけのはずです。
 明らかに東に向かって移動してきたのは一部のユダヤ人の弓月氏でしょう。
 でもこれ紀元前772年あたりの移動開始ですから新しすぎます。
 東へというのは旧約聖書を尊ぶ民族だけでしょうが、近代のクリスチャンの誰も
 その意識では来ていないはずです。
 なお、さらに東へのどん詰まりはアメリカ大陸です。
 東への意識は、全ての民族が持っていたみたいな普遍化は、しない方が良いです。
 モンゴリアン系は東へ向かう信仰を持っていたと見てもいいかも。

P32ーP33:
 太陽が高く昇ることを求めるなら南に行くことです。日本ならまずは鹿児島そして
 沖縄です。
 東北、関東は、太陽の登ってくる方向の東に少しでも近づけた地域というところ
 でしょう。~時差の意識はなかったかもです。
 日高見国の高見は、高見の見物の高見なんでしょう。

P51:
 別記事に出雲国譲り神話の時期を掲載しました。
 なので、出雲国譲りよりかなり後に出来るはずの諏訪神社を祭る集団が降臨に加われる
 道理などハナからありません。
 諏訪神社が出来る理由は、数世紀後の、九州討伐、隼人討伐、熊襲討伐に諏訪の集団が
 加わって討伐後、諏訪勢がそれらの土地を貰って住み着いたからとなります。
 なお、神武天皇が残した次男の継承した土地の民および関連する集団は天孫降臨伝承を
 記憶していたはずだから、殲滅したはずです。
 もちろん鹿島・香取系の神社など残すはずもありません。

P52:
 海外からの移民、帰化人は、DNAや言葉に影響する程にはいなかったようです。
 弥生人流入説に影響されているようです。
 ~ひらがな、カタカナにヘブライ文字と読みが流用されているようですから、
  文字作成にユダヤ人が関わっているとして良いでしょうが、これは、ずっと後の時代です。

P54:
 出雲荒神谷遺跡で多数の銅剣が発掘されています。銅剣にはXのマークが刻まれて
 います。しかし、このXを現代の「使えない」・「使用禁止」などの意味にとって
 良いのかは疑問です。Xをその意味に使い出した歴史は新しいようです。
 ~Xが肯定の意味になる国もあるようです。
  迂闊にXマークを動作で作ったら凄くヤバイ状態に陥る国もあるってことです。
 ~うなずくと否定の意味になる国もあります。
 ~おいでおいでの動作も、手のひらが下なので理解不能でかろうじて済んでいます。
  手のひらが上だと、掛かってこいになる国が多いです。
 ~Yes、Noを常にはい、いいえの意味で使っちゃダメよというのは最初に習います。

第三章以降(P62~)は別に。
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日本国の歴史 上 田中英道著 育鵬社 パート2改+1

2023-04-24 00:18:44 | 本と雑誌
第3章P61からです。

これも少し書き換えました。

P62~P65:
 田中氏は神武天皇の時代を3世紀はじめとしたままです。
 根拠は古墳・古墳時代だけのようです。
 記紀に記述されている天皇の年代は完全に無視しています。
 長浜浩明氏が前作に対して質問をしたそうですが無返答のままで
 長浜氏著作も読んでもらえなかったようです。
 ~最新は、日本の誕生 皇室と日本の誕生 WACです。
  中国の古書には倭国は春秋に1年と数えるという記載があるそうです。
  この記載を認めて年代を練り直す人は長浜氏しかいないようです。

P66:
 日高見国は蝦夷の国であり、黥面分身(イレズミ)しているという記事があります。
 黥面分身は、海の民のマジナイであり、海に関わる集団の一部が行っていたものの
 ようです。
 ~海に潜らなくて済む役の方々はイレズミしなかったようです。
 天孫降臨も船に乗って移動したわけですから船員はイレズミ有りでしょう。
 降臨先の日向も海に近く、東征も船で出立した程ですから、海の民は存在し続けたと
 見えます。
 ~神武天皇にはイレズミは無く随員にイレズミが有ったことも記述されています。
 海幸山幸の記事では、天孫族が山の人だったとは読み過ぎでしょう。
 より強力な海の民の集団と血縁を結んだことで東征がより、容易になったことを
 示したかったことなのかも。
 ところで末孫が当主ですから山幸が当主になるのは必然です。

P67:
 九州は~大陸と関係が深い~海から来た人も多くいます。
 弥生時代は中国・韓国から渡ってきた人々が作り上げたという話から
 逃げられないようです。

P69:
 「海から熊野に上陸し」を2回続けて使うミスがあります。

P69:
 別のブログで出雲国譲りはもっと後というのを書いています。
 剣だけでは戦いに勝てませんし、八咫烏も戦闘集団の比喩でしょう。
 弓矢の集団だったろうと思います。

P70ーP71:
 蝦夷討伐は早くから開始されています。
 天皇家にしたら、大本家の存在など邪魔以外の何でもないでしょう。
 ~大和入りを手伝って貰ったとしてもです。
 ~天皇家は末弟が当主になるシステムです。高天原から出立する際に、当主は
  居残り息子を送り出しています。この当主が新たに息子を成せばその息子が
  当主です。日向に送り出した息子は正当な当主ではなくなります。
  もし、これが起きていたら天皇家の正当性は一瞬で吹っ飛びますから。
  ~日向から出立した際には一番年下の息子を残しました。
   しかし、奈良で新しく息子を成したことで日向の正当性は本人達の知らない
   ところで失われたのです。
 最後に残したのは鹿島神宮と香取神宮とその神主だけと思います。
 討伐を行ったのが日本武尊ということになっていますが、多分大集団で行った
 はずです。話では少数で行ったような記述ですけど。

P74ーP77:
 長浜浩明氏の著作を読めば、魏志倭人伝は信じて大丈夫となります。

P78:
 長浜氏は、神武天皇の即位はBC70~BC33と出しています。
 神武天皇のお墓は、奈良県橿原市 神武天皇陵 畝傍山東北稜です。
 円丘としています。前方後円墳の走りにもなっていませんから、
 古墳時代の開始と言うには少し早い表現かと。
P80:
 田中氏は、神武天皇の年代を3世紀に下げているので、神武天皇陵は
 前方後円墳でなければならないからと、ゴリ押ししています。
 事実を無視してのゴリ押しは、田中さんアンタもかという感想だけです。

P82:三角縁神獣鏡
 三角は山を表わし~神道の基本に~
 日本の神社の全てに三角縁神獣鏡があるのでしょうか。
 また三種の神器の一つー八咫鏡は三角縁神獣鏡であるという証拠が
 あるのでしょうか。
 ~年代的には、八咫鏡の年代の方が遙かに古いです。
  岩戸神話に登場しますから。

P86:
 五胡十六国(304~439)、南北朝時代(439~589)の時代なんて
 まだまだ海難事故の多い時代です。航海専用に作られた船でさへ、
 5船に1船が往復できればいい程度なのに、漁船程度の帆船ないしオール
 こぎの舟でまともに渡ってこれるはずもありません。
 ベトナムからのエンジン付のボートによるボートピープルでさへ、どれだけ
 生きて渡り切れたやら。
 漢字も古文書もローカルには伝わってきていたはずです。
 ただ、日本語に合わず、地域によって発音も違い、名詞も動詞も形容詞も
 副詞も時制も何も無く、一つの漢字が一つの意味と音しか持たないような
 奇妙さが使いにくく、流通させるに至らなかったのだと思います。
 そして、漢字に大和言葉の音を充てることでやっと文字が流通したのです。

P87:
 鉄器の製造は、既に日向時代でも行われています。倭国が朝鮮半島に渡ったのは
 鉄鉱山から鉄を大量に入手するためで、朝鮮南部に拠点を設けていました。
 朝鮮経由で文化が入ったわけではありません。

P87:
 欽明天皇の13年(長浜氏の時代考察によれば566年頃)時代に百済が仏教を伝えたと
 ありますが、実際の伝来は、もっと早いはずです。ただ伝承でしかないか正式では無い
 伝来だったために伝承あるいは記述に残らなかっただけと思います。
 そもそも仏教は紀元前4世紀か6世紀に始まりました。(566年の中国は南北朝時代です。)
 1000年は経過しています。中国からは古書と一緒に仏教書も入ってきたはずです。

P89:
 ユダヤ埴輪はパート1にも書きましたが、ニセモノでしょう。
 昔のユダヤ同祖論は、非常にウサンくさく、神社の紋なんて近代にコッソリ
 据え付けたニセモノだったりしていました。
 ~田中氏が提示する記紀関連の絵は、最近の物と言って良いほど新しいものです。

P119:
 鉄製の農具が広まり~
  鉄製品は刀剣ならともかく、錆びるために長く残りません。
  銅製の農具もあったはずですが、これらも長い間には壊れ・朽ち果てるでしょう。
  壊れたり錆び過ぎたりは村の鍛冶屋が作り直すので証拠も残りにくいと思います。
 君が代は、古今和歌集が先のような記述が多いです。ごく一部に祝いの席
 で詠われて古今和歌集に採録されて広まった可能性も高いです。
 曲が付いたのは明治のようです。世界の国歌の中で最も作詞者が古いと
 言われているようです。

P127:
 キリスト教が嫌われた理由は、唯一絶対の存在がいるという概念が嫌われたのでは
 ありません。異教徒を奴隷にしても良い・海外に売りさばいても良いとする
 その教義が嫌われたのです。そして、日本を膝下に置く、隷属化するという
 イエズス会の真の目的が露見して追い払われたのです。
 ~おっと、隠れキリシタンの教義は、すごく日本化しているため、ローマ教会から
  嫌われたようです。

P148:
 記紀の神話の場所ですが、大和朝廷ゆかりの土地ばかりではありません。
 あちこちの土地の神話・伝承を結構統合した物だと思わされます。
 全国に造らせた・書かせた風土記が重要な参考書になったのだと思います。

P173:
 小説の中の人物のすごさを現実の人間と比べてヨイショされてもな~
 小説中の人物の発言で当時の現実に何々が存在していることを「予想させます」
 と書くのも、どうなんでしょう。

P177:落窪物語でシンデレラを思い出すとか、継母に虐められるという点しか
 共通項がないんだが。

P181:
 呂律の説明が間違っています。二音階しかなかったら、そもそも曲になりません。

P185:
 刀伊の入寇の実際とは、かなり違うようです。
 実際は、ググッテお読み下さい。
 対馬、壱岐って、攻められる度に悲惨なことになるようです。
 大陸民族の戦闘は、基本的に、残酷・殲滅なのですね。

P186:
 漢文は読み方を知らない人は読むことすらできないそうです。日本の発明のレ点とか
 一二三や句読点などの書き込みは優秀なのです。これで中国人も読めるようになったのだとか。
 昔、論語を全文記憶して暗唱した話が一杯出てきます。でも暗唱できた子供達、
 意味は全く分からなかったそうです。
 漢文が、そのまま日本の書き文字にならなくて大変良かったです。
 「栄華物語」、「大鏡」が「史記」に似ていると思うのは本人次第なので良しとします。

+1:ネットの記事を見ていると、「日本の巨大古墳が突然消えたワケ」などの無茶振りの項目が
   出てきます。
   これで誘導される先は田中氏の日本古代史の本なんですが、その本に解答は書いていません。
   「巨大古墳が造られなくなったワケ」なら理解できそうですが、その理由も明かしてはいません。

   仏教の浸透でお墓に埋めることになったから古墳は造るのは止めたと推測できますが、
   近代~最近の天皇は、間違いなく、墳墓に埋葬、土葬されています。
   これ、少し時代を経れば、立派な古墳です。ただ巨大古墳ではないということは確かです。
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皇紀2600年・・・もう直そうよ 追記

2023-04-20 01:22:28 | 学問
田中英道氏のこれまでの功績はわかります

でも氏はなぜ、日本古代には春秋にそれぞれ1年、つまり毎年2歳増えることを
知りながら皇紀を訂正しようとしないのでしょうか。

記紀に記された古代天皇は春秋に1歳増えるために1年ごとに2歳年を取る
ことになっていたのです。
これ、中国の本に記述されているのでした。
つまり記紀で110歳で死亡したとしても実際には半分だから54歳か55歳だったのです。
 生まれてすぐ1歳いうのもありますし、季節を過ぎると+1というのもありました。
 12月31日生まれは翌日には2歳という無茶苦茶がありました。
 だから満年齢がすんなり定着したのでしょう。

結果として天皇の年齢を足して皇紀にするのは無茶です。古代の天皇は1年に2歳
の年を経たからです。

長浜浩明氏が「日本誕生」で神武天皇の即位年代を考証してくれました。
紀元前70年です。

これ大阪湾の時代考証と日本書紀の記述から確度高いです。
即位年はプラスマイナス数年は動かせても10年以上は多分動かせません。

ということで、妥当な現在の皇紀は、2093年です。

追記:
ダイレクト出版が田中氏の日本国史を未だに推奨しています。
というか、上巻を100円で売ろうとし続けていますから、逆に言えば全く売れていないのだと
思われます。

田中英道氏の本で、大きくまずい点は次の物です。

1:皇紀は未だに2600年強です。
  ~神武天皇は3世紀初め頃と言いながら、これです。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。

2:イザナギ、イザナミの子供のヒルコの理由を姉弟婚にしたママ。
  土偶を近親相姦の結果と断定している。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。
  ~土偶を読む・竹倉史人著を読んでみて欲しい。批評も結構あるけど私は納得できる。

3:仁徳天皇は、天皇の死後、西暦873年頃に付けられた諡です。
   (ついで:天皇という呼び名も後世の物です。)
  諱(いみな・本名)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)です。
  従って、陵には、当初は別の名前があったわけです。それは、地名の大仙かもしれませんが
  絶対に仁徳天皇陵ではありません。

4:魏志倭人伝を疑う必要は無い。
  ~日本の誕生・長浜浩明著を参照ください。

5:三角縁神獣鏡の三角は山を現す。神道の基本とも断定しちゃってますが、
  神社に三角縁神獣鏡が祭ってあると?
  あるいは八咫鏡は三角縁神獣鏡であると?

6:漢字そして、仏教をもたらした、朝鮮半島への出兵
  文化はすべて朝鮮経由でという影響下にあります。
  日本は中国への使いを出していますが中国からの遣日使がより多く居たことも
  分かってきています。どちらも中国経由で先に入ってきているのです。
  漢字の音読みに地域で複数あるのがその証拠です。
  ~仏教は、記紀の成立以前に入ってきていた可能性もあります。時期が古くて
   不明だったけど朝鮮経由だけはハッキリしていたから書けたというものです。

7:関東の古墳で出土したとされるユダヤ人埴輪に騙されていること
  失われた十士族のどれかと噂される弓月氏が日本に渡ってくるのは応神天皇の頃で
  長浜氏の考察では西暦390~410のどこかに当たります。
  ~おっと田中氏の神武天皇の時代考察だともっと後になるはずなのです。
  この時代はすでに朝廷は奈良にあり、弓月氏は秦氏になったとあり、関東に住む理由は
  ありません。近年のユダヤ同祖論の方々が捏造した物でしょう。神社に捏造した物は
  全部がバレています。奈良の古墳は調査が進みすぎていて今更捏造できず、関東の
  調査が進んでいない古墳に仕込んだのが成功したというところでしょう。
  そもそも十士族が拉致されたのが紀元前772年、当時のユダヤ教は統一された宗教では
  無く多神教も含まれていたとあります。南がバビロン捕囚になったのが紀元前586年で、
  ユダヤ教が現在の形になっていくのが、この捕囚の間とされます。
  それと別離していた民族が西暦400年あたりだと別離後、既に1000年を超えています。
  彼らが造った土偶が、別離後2700年を超えるユダヤ教本体の民族の未来の習俗と同じなんて
  あり得ないことです。
  ~捕囚すなわち奴隷の間、ユダヤ12士族すべてが習俗を代えずにいられたというのもマユツバです。
   そもそも失われていない2族の習俗が全く違っていた様なのですから。
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無線マウス MT-1911 がイカレたらしい

2023-04-19 09:26:49 | デジタル・インターネット
ノートブックに付属していた無線マウスが故障したようです。

ラノベを読みながら寝落ちして起きたときにはマウスの存在は認知されるけど
移動・クリックのいずれも感知されない状態に陥っていました。

ということで、これまでのPC用に買ったUSBマウス群の出番となりました。
~USB以前のPCマウス?は、既にお役御免で処分済みです。

~FMVN77F3G にはUSBポートが3つあってプリンタ用と併用できるので
 助かります。

 25年以上昔のUSB分岐用ポートもあるのですが発掘・発見したのが昨年で
 動作確認できていません。もちろんUSBの初期仕様のはずです。

おまけ:
 25年超えの電話機も遂に子機がイカレました。
 ニッカド電池がダメなんだと思います。
 ~この電話機、スマフォを探すのに便利というか探すのにしか使っていません。
  なので子機が無くても良いかと。受信拒否は子機からしかできないのですが
  親機のある居間には住んでいないから放置でも問題なし。
 ~20年前購入の電気ドリル、インパクトドライバ、植木バリカンなどの
  ニッカド電池を使うものは全滅です。フル充電でも5分も稼働できません。
  ~ニッカド式以降の充電池も寿命が数年も無かったようです。
   近年はLEDのおかげで普通の電池で済んでいますから近年の
   充電池の寿命は認知できていません。
   ~電気ドリルだけがリチウム電池です。さすがに老年で手動でキノコの
    コマ打ち込み用の穴あけは数が多くきつすぎまして・・・

断捨離はなかなかむずかしいようです。
コメント
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