トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

雨雨降れ降れ爺さんは編み目を数えてお目目ショボ…

2024-03-03 | 勢子、雨毒に侵されて呻く

 二月の長雨、春霖と言うべきか菜種梅雨と言うにはちと早いか、まあ、どちらにしても数日の不順な予報だったので蟄居生活の備えを考えたのだったがテレビはつまらんし図書館は二週間ほどの閉館中で貸し出しは無し、キッチン作業も財源枯渇だし数日間も行う趣味も食べたい物も無かったのである。そんな中、ビビビッと禿頭軟化脳に降臨したのが「あみぐるみ」という文字である。世間様、特に永田ではその道、心魂清く正しい賊ぐるみもどきの党ぐるみ、派閥ぐるみの身ぐるみ隠しが蔓延中なのは民草も合点承知の助だろうが稲穂は実らずネコジャラシやペンペン草だらけの永田に成り下がった現状はため息も出ない、がそれはさておき、わが身ぐるみ数日の手当てを算段しなければならない。そうでもしないと低年金で殺される前に退屈で寝たきりになりそうだ。まあ、昔より「お爺殺すに刃物は要らぬ。年金引き下げすれば良い」と言われているけれど隠し金や脱税紛いに精力と勢力をつぎ込むのは程遠いのが姥捨て山の孤爺なのである。

 日本男子かつ大和魂の小生、恥ずかしながら孤爺も手芸店に行かねば予定が成り立たない。そこで恥を忍んで会員カードを提示し材料を調達したのだった。作れるかどうかの根拠も無しなので「飲む・打つ・買う」の中では「打つ」に相当するいわば賭け事に近い。姥捨て山での「飲む」は沢水、「買う」はスーパーで食材、てなもんや三度笠であるからして世間様とは乖離がある。それでも意を決したからには「欲しがりますよ出来るまで」の精神を捨ててはならない。

 編み始めて直ぐに恐怖のるつぼに落ちてしまった。丁寧に目数を数えて編んでいたのだが一回りすると目数が倍になっているではないか。我知らず踏み潰して来たであろうミミズの祟りかも知れないけれどアソコが腫れる事態にはなっていないので大丈夫だろう。腫れたのは既に過去であるが両鼠径部であった。この時の手術台の横にうら若き看護学生4人が4人看女として見学で立ち会ったのだがきっとおいらの裸体に触れて剃毛したに違いない。実習であるから絶対に行っていたと信じているが悔しい、表情くらいは見たかった・・・。

 さて、またまた脱線だが股つながりでご勘弁。さてさてメモ紙に段と目数、増目や減目を記入しつつなので間違いは無いはずと思っていたのは大誤算だった。くしゃみや通りに人影が有ったりすると数えていた目数が消える。メモしておくべき数字をメモしなかったりと右往左往しどろもどろで最初の3体は完成前にほぐしてしまわねばならなかった。これを失敗と見るか練習と位置付けるかで「死にたい.生きたい」の分岐点になりかねない。

 そうならなかったのは「誰も知らない、見ていない」のであるから恥は無いのであって、そもそも短期記憶が劣化しているのは自覚もしており原因はそれなので小生には無い。それでも永田で落ち穂をあえて作って懐に入れる鼠とは格段の人格高潔差がある。まあ、昨今は往生際が悪い上に恥を知る人物も皆無となってしまった以上、民草はそれしか無い倣いや習いの模範なのだ。それに引き換え我がお手本は手引きだけなので手間暇時間を要したけれど出来栄え点はともかく何とか形になったのだった。これで漸く落ち着いてフイールド作業に邁進できるだろう。

 編み上がった作品を見れば裏目と表目の区別もつかなかったのが一目瞭然だけれど所詮は二度童騙しの作品である。しかし、しげしげとゲジゲジ眉を寄せて見ていたら再度ビビビッと来た。「これはリハビリの現場でニギニギに使えるではないか⁉」と。タオルを丸めたものでも十分だけれどこういう物があっても楽しいと寝たきり予備軍の小生としては思ってしまうのであった。

 

 

           正  役人の子にぎにぎを良く覚え

           畜  秘書の主ニギニギ多用欲忘れ

           蠅  姥捨ての孤爺ニギニギ自前なり