てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ワシントンから来た絵画たち(15)

2011年12月17日 | 美術随想
第三章 紙の上の印象派 その2


メアリー・カサット『浴女』(1890-1891年)

 ほとんどの家庭に内風呂のある現代の日本では考えにくいことだが、当時のパリでは入浴といっても、たらいにお湯をはって行水するぐらいがせいぜいだったのだろうか。

 ドガの描いた浴女も、部屋のなかにたらいを置いて、全裸の女性がしゃがんで体を洗ったりしている。これで寒くはないのだろうか、あるいは部屋が濡れないのだろうかと心配になるが、あまり裕福でない家庭には、浴室などなかったのだろう。

 ルノワールは、閉鎖的な場所で遠慮がちにお湯を使う姿が気に入らなかったにちがいない。だから彼は、野外の泉で水浴びするような情景をあえて選んだのだ。そうでなければ、アングルの『トルコ風呂』のような異国の設定を用いるしかない。個人が自宅の浴槽に浸かるのを描いた画家というとボナールが思い浮かぶけれど、あれはようやく1930年代に入ってからの話である。

 カサットの版画『浴女』も、入浴というよりは顔を洗っているだけのように思える。だが洗面器の横に化粧瓶が置かれているところをみると、彼女はこれから大切な身繕いをしようとしているのかもしれない。

 この絵には日本の浮世絵の影響が明らかだろう。大胆で平板な色づかいと、微妙な色彩の効果的な組み合わせの妙には、思わずうならされる。たとえばスカートの縞模様は眼にも鮮やかだが、よく観察すると緑とピンクとのあいだに、さらに淡いピンクが挟み込まれている。多色刷りの場合、色がひとつ増えることはそれだけ手数がかかることを意味するが、色彩への強いこだわりをもつカサットにとっては、さしたる問題ではなかったのだ。

 そして何よりも、その雄弁な背中の表情である。女性にとって“化粧”という行為がいかに大切かは、おそらくドガにもルノワールにもわかっていなかった。大きく隆起した裸の肩は、女の可憐さというよりも、むしろ強さを感じさせる。この絵は、女性画家の手からしか生まれ得ない、女性讃歌の一枚だといいたい。

                    ***


メアリー・カサット『果物狩り』(1893年頃)

 やや斜めから見下ろした感じの『浴女』に比べて、『果物狩り』は真横から見た構図である。そのせいか、より平坦な印象が強まっているように思う。左下のはしごをはじめとして、全体に格子状の線が入っているようにも見える。

 このモチーフはもともと、万博のパビリオンの装飾壁画として考えられたらしい。子供が全裸で描かれていたり、女性の衣服がシンプルなものだったりするのは、モニュメンタルな効果を狙っていたからかもしれない。

 同じ女性画家のモリゾも、やはり果実を収穫する場面を描いているが、こちらは三角形に立てられたはしごに安定感があり、安心して眺めていることができる。しかしカサットの絵では、すっかり二次元の世界に還元されてしまっているためか、はしごにのっている女性はとりわけリアリティーに乏しく、今にも落っこちてしまいそうだ。先ほどの『浴女』を左右反転したようなポーズだが、同じ画家の手になるとは思えないほど、ぼくには空疎に見えてしまった。


参考画像:ベルト・モリゾ『桜の木』(1891年、マルモッタン美術館蔵)

 だが、家に帰って『果物狩り』の複製を眺めていて、してやられた、と思った。裸の子供を抱いている女性の右側に、白い空間が奥に向かって伸びており、突き当たりに噴水だか何だか、白い円筒形のようなものが小さく描かれていることに気づいたのだ。

 つい平面的な構図に気を取られていて、余白を使った空間表現の大胆さには思い至らなかった。手前の人物から徹底的に立体感を消すことで、カサットは広大な庭園の奥行きを最大限に強調してみせたのである。

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