てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

現代美術に肩まで浸かる ― 国立国際美術館私記 ― (3)

2008年02月10日 | 美術随想


 抽象画の創始者は、カンディンスキーということになっている。

 だがもちろん、何もないところからいきなり抽象的な絵を描き出したわけではない。彼も最初は他の画家と同じように、人物や風景を描いていた。輪郭をなぞった線に、ちょっとばかり大胆な彩色をほどこしていたが、それとて描かれた対象から完全に自由ではあり得なかった。

 そんな彼を、ふとした事件が目覚めさせる。画家自身の述懐によると、それは次のようなことであった。

 《ある日、物思いにふけりながらスケッチから帰って来てアトリエの扉をあけた途端、私は突然そこに、何とも言われぬ不思議な美しさに光り輝く一枚の絵を見出した。私は吃驚して足を止め、その絵をじっと見つめた。それはまったく主題のない絵で、一見何だかわからない対象を描いており、全体が明るい色彩の斑点で出来上っていた。だが、もっと近くに寄ってみて、ようやくそれが何であるかわかった。それは、画架の上に横倒しに立ててあった私自身の絵だったのである・・・》(高階秀爾「続 名画を見る眼」岩波新書)

 まるで啓示のように、彼の前に「意味のない絵」があらわれたのだ。いや、こういういいかたは多分、正しくない。何をどのように描くかということよりも、“色彩そのもの”に意味があるのだということを、彼はとっさに理解したのである。

 しかし、それからカンディンスキーがたどった抽象画探求の道のりは、かなり険しいものだったのではないかとぼくは思う。ある日突然、偶然のきっかけから彼の眼に飛び込んできた「まったく主題のない絵」を、今度は意識的に生み出さなければならなかったからだ。『印象』『即興』『コンポジション』などと名づけられた初期の抽象作品は、まさに血のにじむような試行錯誤の過程である。

 抽象画なんて何も考えずに適当に描いた絵だ、などと思っている人は意外と多いかもしれないが、そういう人にとってはカンディンスキーの絵は永久に遠い存在でありつづけるだろう。

                    ***

 『絵の中の絵』(上図)は1929年の作である。カンディンスキーはすでに63歳、その作風は模索の段階を離れ、円熟の域へ到達しようとしていた。

 そんな時期に描かれたこの絵は、だがしかし、純粋な抽象画とはいっぷう変わった特徴を備えている。題名のとおり、ここでは画中画のスタイルがとられているのだ。絵のなかに別の絵を描き込むという構造は、フェルメールが好んで用いているように、かなり昔からあった。カンディンスキーが、そんな手垢のついた手法をあえて使ったのはいったいなぜだろう?

 この絵を観るかぎり、徹底して抽象的に描かれているのは、絵の内側に掛かっているもうひとつの絵のほうである。そのまわりに描かれているものは、何だか家具のようなかたちをしている。絵のなかの抽象画は、その家具のようなものによって支えられているようにも見えてくる。

 思い出されるのは、このときカンディンスキーはバウハウスの講師を務めていたということだ。バウハウスというのは一種の美術学校だが、絵画などの純粋芸術ではなく、工芸やデザインなど日常生活との深い結びつきを志向していたことはよく知られている。

 具体的な対象に隷属しない、色彩や形体が独自に語り出す絵を目指していたはずのカンディンスキーが、このようないわば工芸学校で教鞭をとっていたという事実が、本当のところぼくにはよく飲み込めない。だが『絵の中の絵』を観ると、彼が自分の抽象画を、まるで部屋をデザインする小道具のように、家具の一部として役立てることを考えていたようにも見えてくる。

 ひとことでいえばこの絵は、抽象画家カンディンスキーと、バウハウスの講師カンディンスキーとの合作なのだ。

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 余談だが、ぼくはこの絵を眺めるたび、下のほうに描かれている台形のものが、幼児が押して歩いている手押し車に見えて仕方がない。動くたびにおもちゃが出たり入ったりする、あれである。

 まあこんな見立てができるのも、この絵がやはり具体的な対象から自由である証拠なのだろう。

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