てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

人工の島の上で(3)

2012年01月12日 | 美術随想

藤島武二『浪(大洗)』(1931年、石橋財団石橋美術館蔵)

 『浪(大洗)』は、今回展示されていた藤島武二の絵のなかでも、いちばん小さいサイズのものである。けれども眺めていると、なぜか吸い寄せられるような錯覚を感じた。

 大洗というのは茨城県の海岸で、サーフィンのメッカでもあるそうだが、波頭の荒々しさが日本海を思い出させるからか、ぼくには懐かしい風景でもあった。しかも、画面にとぎれとぎれに塗り込められた紫色がどことなく寒気を感じさせ、海の上から吹き付けてくる冷たい風に身をすくめたくなるような思いもするのだ。

 東山魁夷の話のつづきでいえば、唐招提寺に奉納された『濤声』という襖絵では、海のなかに岩が突き出していて、今まさに大きな波が押し寄せようとしている情景が描かれている。絶えずうごめきつづける海原と、じっと堪えている不動の岩のコントラストが際立つ。静と動の対極である。

 波と岩が描かれている点は、藤島の絵でも同じだ。だが、東山のそれのように見事に統率のとれた波ではなく、ほとんど無茶苦茶といってもいいような大胆さで、キャンバスの上を絵筆が躍っている。岩はほとんど波に隠れてしまいそうだ。絵の表面をよく眺めてみると、岩はごく平坦に塗られているだけで、白や紫の絵の具が激しく迫っているさまは、猛り立った波に浸食されつつあるようであった。

 昨年の3月11日、この大洗にも4メートルを超す津波が襲ったという。幸いに犠牲者は出なかったが、街が浸水し、車が流されたそうだ。藤島の絵は、海の恐ろしさをふと思い出させる臨場感をもっているのだった。

                    ***


藤島武二『神戸港の朝陽』(1935年、京都市美術館蔵)

 ぼくが以前から京都で観て、藤島武二らしくないなあと思っていたあの風景画も展示されていた。もとは神戸の海を描いた絵であり、この展覧会に合わせて里帰りしたことになる。何度も観ていたはずの絵だが、陳列される環境がちがっていると、まったく別の絵のように感じる。

 ただ、昭和初期に建てられた京都の古めかしい美術館から、平成のモダンな美術館に移ったということをいっているのではない。藤島の他の風景画をいくつか観たうえでこの絵の前に立つと、彼がどんな気持ちで茫漠たる海と対峙していたのか、何となくわかってくるような気がするのである。ぼくたちが晴れた空を見、ときには雨に曇った空を見るように、彼は日本中を取材する過程で荒れた海を見、凪いだ海も見た。

 先ほどの大洗に比べて、神戸の海は何と穏やかなことだろう。手前に浮かぶ船からは蒸気船の煙がのんきそうに立ちのぼり、ポンポンという音まで聞こえてきそうだ。今、神戸港を訪れても、ここまで人工物に遮られない広大な海の眺めを見るのは不可能にちがいない。そもそも、ぼくがいる六甲アイランドだって、この海を埋め立てて作られた島なのだから・・・。

 ぼくはふと ― おそらくは藤島武二の風景画への先入観から自由になったおかげでようやく ― この絵がモネの『印象・日の出』に似ていることに気がついた。モネが描いた朝日は真ん丸で、藤島のそれは少しひしゃげているけれど、太陽が描かれている位置もほぼ同じだ。船が濃いシルエットで描かれていることも、同じである。

 ただ、モネの絵には描かれていない真っ直ぐな水平線が、ここにはある。現代では失われてしまった“裸形の海”の風景を前にして、ぼくは深く息を吸い込みたくなった。

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