てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

人工の島の上で(4)

2012年01月18日 | 美術随想

〔小磯記念美術館越しに六甲アイランドのビル群をのぞむ〕

 1936年秋、「第1回新制作派展」が東京で開かれた。この展覧会は「新制作展」と名を変えて今でもおこなわれ、京都でも開かれているのでぼくもときどき観ることがある。

 藤島武二は会員ではないが、初回から亡くなるまで賛助出品をつづけた。第1回展の初日には誰よりも早く車で乗りつけたというから、若い画家たちに寄せる期待の大きさがうかがえる。すでに大御所となっていた藤島と無名の若手とがどういう関係にあったのか、もう少し詳しく知りたいと思うのだけれど・・・。マネと印象派のような関係か、あるいはエリック・サティとフランス六人組みたいな仲だったのかと思ってみたが、どうもちがうようだ。

 このへんについてはもう少し考察を進めることにして、今はとりあえず「新制作初期会員たち」の作品を観ていくことにしよう。このたびの神戸の展覧会では、藤島武二の比較的小さな作品群のあとに、壁を覆い尽くさんばかりの会員たちの力作が並び、若い画家の情熱というか、ありあまるほどの勢いを感じさせられた。未成熟ではあるが、“熱い絵”だというべきか。

 現在の「新制作展」の応募規定を超えるサイズのものも散見される。ただこれには理由があった。当初からグループ展ではなく、開かれた公募展として発足した同展だったが、万一応募が少ないときのために、皆で申し合わせて大きいサイズの絵を描いたのだという。当人たちは大変だったろうが、微笑ましい話ではないか。

                    ***


猪熊弦一郎『二人』(1936年、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵)

 ぼくは猪熊弦一郎の絵を、散発的にしか観たことがない。そしてそのたびに、画風が大きく異なっているのに驚かされる。いつか彼のまとまった展覧会を観てみたいものだし、青年期を過ごした丸亀にある彼の美術館を訪ねてみたいとも思うのだが、そうすると余計に猪熊という画家のイメージが拡散してしまうのではないかという心配がなくもない。

 画風を次々と変えたという意味では、ピカソと似ているといえるだろう。だがピカソには、初期から晩年に至るまで、徹底して人間を描くことへのこだわりがあった。20世紀最大の巨匠は、人並みはずれて偉大であるだけに、人恋しい人生を送ったのではないか。

 けれども猪熊の絵画には、そういう一貫性もみられない。ニューヨークを拠点に活動したときは、人影のない抽象的な絵に変わる。晩年、夫人を亡くしたあとは、やたらと顔ばかり描きはじめる。何とも変幻自在であり、“生ける万華鏡”であるかのようなイメージをぼくはもっていた。

 そんな猪熊弦一郎が、藤島武二の教え子だったというのもまた、意外といえば意外である。「第1回新制作派展」に出品された『二人』という絵からは、藤島の絵画に通じる何ものも見いだすことができないように思う。藤島の女性像には詩情がみちており、秘められた物語が観る者の感情をくすぐる部分があるだろう。

 けれども猪熊の『二人』は、あまりに即物的だ。おそらくは何のドラマもなく、女たちもまるでマネキンのようで、感情の機微が感じられない。着衣の女性が座っている横に、なぜか全裸の女性が立っている。けれどもその肌は、まるで裸であることを気づかせまいとするかのように、さまざまな色に塗られている。

 手足の大きい人物表現は、ある時期のピカソの作品を想起させるだろう。裸婦の腰のあたりの不自然な描かれ方は、複数の視点を組み合わせたピカソの手法そのままである。けれども、伸びやかな輪郭線や輝きを帯びた色彩は、マティスを連想させるともいえる。20世紀の二大巨匠は、恩師藤島武二よりも強い影響を猪熊に与えたように思われるのである。

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。