山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-4

2017-05-01 09:43:49 | 中編小説

  四

  弟、妹は食後直ぐ出掛け、正美は食後の片付け終えるとベッドに横になり読みかけの本を開いた。しかし本の中に入って行くことが出来なく、今別れてきたばかりの裕二のことを考えていた。『・・・裕二に会うことが出来た。私のなかで裕二との出会いを摂理ではないかと感じるときがある。あの日、私を引っ張って行く手の力に、私の全てを吸収してしまうものを感じていた・・・私が虐められていたところを遠くで見ていた人がいた。でも、誰も助けに来てくれなかった。恐くて恐くて逃げることが出来なかった。裕二が助けてくれたのは、裕二の理性を支える本能的なものだった。何が起きたのか分からなかった。時間がどの位経ったのか分からなかった。裕二は何も言わないで家の近くまで送ってくれた。私は「電話をします」と、それだけしか言えなかった。裕二は「うん」と、言っただけで帰ろうとした。「電話番号?」と訊いてやっと教えてくれた。裕二は振り返らないで帰って行った・・・その日、私は興奮していたのだろう、朝までうつらうつらしていて眠ることが出来なかった。次の日、学校に行ったが卓球の練習は休み夕方まで一人ぼんやりと過ごしていた。家には誰も居なかったので電話を掛けることが出来た。でも、受話器を上げ途中までダイヤルを回したが矢張り出来なかった。時々溜め息を吐いたりたりボーッとしていたり何だかとっても変だった。夜お母さんに、「何ボーッとしているの、大丈夫?」何て言われた。次の日も、その次の日も裕二のことを考えていた。怪我をしなかったか、あの後不良たちに見つからなかったか、学校には行っているのか段々心配になってきた。心配していたのだから電話を掛ければ良かったのかも知れない。でも裕二が電話に出なかったら、それに電話番号が間違っていたら、二度と会えなくなってしまう不安があった。五日目、裕二の学校の近くまで行った。若しかして会えるかも知れないと思ったが直ぐ帰ってきた。私、とっても馬鹿だった・・・夕方美容院に行って髪を短くした。裾の方はカールして前髪は短く切って貰った。鏡の中に少しだけ大人っぽくなったような私がいた。鏡の向こう側から裕二が見つめているようで会いたかった。でも、裕二に会う為には自分の内的な何かが変わる必要があった。しかし髪型が変わっても中身は変わらないことは知っていた。でも、少しだけ違う自分になりたかった・・・一週間経って、やっとダイヤルを最後まで回すことが出来た・・・夜遅くなって、日記を書いては溜め息を付いているところを見られて、妹に、「お姉ちゃん好きな人出来たでしょ?早く寝るから頑張ってね」何て言われた。勘の良い子・・・裕二、今頃勉強しているのでしょうか・・・これまで私は恋をしたことがなかった。好きなのかな、と思う人はいたのかも知れない。でも、恋は憧れの延長線上にしかなかった。好きになって、恋する思いがあって、ドキドキするときがあって、でも憧れなんだと思う。屹度自分に無いものを欲しがるように、唯、求めたいだけなのかも知れない。恋が、恋愛になって行くのか分からない。でも、欲しいと言う思いだけなら恋のままなのかも知れない。また違うものが欲しくなり、新しい恋をしなくてはならない。屹度私には出来ない・・・必要なことは感性なんだと思う。音楽を聴いて、絵を観て、感動する思い、そう言うものは心に感じて一生残る。本を読んでも同じように、主人公の生き方に感動出来るなら、自分もそんな生き方をしてみたい・・・私はまだ十六歳、でも、裕二のこと感じている・・・愛することがどんな意味を持つのか知らない。でも、何時か知ることが出来るのだろう。星の王子さまに書いてあった。同じバラなのに、水をやり、被いをかぶせ、アブラムシを捕ったバラは違うバラになるのだと・・・私は裕二の心のなかに住みたいと思う。裕二の内面で考え、行動し、感じたい。そして、私の心の中にも裕二が住み、思いに触れることで強く生きることが出来るだろう・・・高校生になったとき、お母さんが一冊の本をくれた。ブレヒトの詩集だった。お母さんが大切にしていたのだと思う。それに、色んな童話のこと、小説のことなど教えてくれた。お母さんが若い頃読んだものだった。夜遅くまで縫い物や片付けをしている側で遊んでいるのが好きだった。邪魔、邪魔って言われたけど何時も側にいた。お母さんは私の思いを分かってくれるだろう。でも、裕二のことは私のなかにだけにしまっておこう・・・』

 正美にとって長い一週間だった。友達と待ち合わせをしたことはあっても、これ程待っていることが長く感じたことはなかった。でも、心のなかは爽やかだった。初めて愛する思いを知った正美だった。十六歳の少女であっても、感覚的に愛することが止揚であり、試練に耐えて行くことだと知っていた。

「正美、何をニコニコしているの?」

 と、夕食後の片付けをしながら母親が言った。

「何でもない」

「そうかな?」

「そうよ!」

「心配事は相談しなくては駄目よ!」

「何時の日かお願いします」

「はい、はい」

「ねえ、お母さん、夏江と夏休みに出掛けても良い?」

「どうぞ」

「有り難う」

 正美は二階に引き上げた。『・・・もう直ぐ会える。やっと会えると思うと、どうして良いか分からない。約束が出来るって素晴らしいことだと思う。その日が近付いてくると生きている実感が湧いてくるのかも知れない。何時だか分からない日を待っているって辛いことだと思う。今日会えなければ一週間後の今日、一週間後に会えなければ次の週って、何回も約束の日を作りたい。仮に、その日に会えなかったとしても、次に会う約束さえ有れば少しも辛くない。明日は約束の日、長かった一週間が過ぎて行く・・・矢張り私の中で、内面の一部分が変わろうとしている。母は私が変わりつつあることを既に見抜いている。でも、決して問い詰めてくるようなことはしない。私を信頼して任せている。母の、心の豊かさがそうさせているのだろう。何時も穏やかで頼りない振りをしているが、内に激しい情念を持っている母・・・私も母に似ているのかも知れない・・・何があっても中途半端で終わることなく、ひとつのことを手がけたとき限界まで突き進んで行く。そうすることで違った自分が見えてくる。持続性?責任感?否、垣間見る間隙なのかも知れない。確かにそう思う。思念と、私と、日常の間には、私が考えているより深遠な千尋が拡がっている。負けない自己を確立しなければならない・・・』

 翌朝、突然夏江やってきた。夏休み、何処に行くかの相談だと思っていたが様子が違っていた。

「夏江の彼、その後は?」

「付き合っている」

「そう。夏江、私も好きな人が出来た」

「例えば、男の子?女の子?それとも読んだ本の主人公?」

「正真正銘の男の子」

「正美が?」

「人を好きになるって何なのか考えていた。でも、考えても分からないけれど胸が熱く切なくなる」

「そして?」

「潮が満ちてくるように満たされてくる」

「相手は?」

「まだ、秘密」

「正美のこと分かるなんて、私しかいないと思っていた」

「妬いているの?」

「少しだけ」

「用事って?」

「正美に相談があってきた」

「どうしたの?」

「一泊で海に行かないかと誘われた」

「彼と?」

「そう」

「良いの?」

「迷っている」

「信用できる人?」

「分からない」

「恋は当事者にならないと分からない。でも、そのことが夏江の心を傷付けないことを願っている。もしも、後悔すると思うようなら止めればいい」

「後悔するような恋?」

 と、夏江は不安な顔をした。

「目先のことに惑わされると肝心なことが見えなくなる。私達の年齢って危険なことが一杯ある。でも、それらを確かなものと、そうでないものとに選択していく。直ぐ結論なんて出ないけれど、自分に何が必要なのか考えなくてはならない」

「そうね」

「自分を信じていれば結論は行動したときに付いてくる。こうしよう、ああしようと思っても、思っているだけで結論ではない」

「主体的に?」

「そう、責任を転嫁しないこと。ひとつの出来事が生涯を制し、苦渋に拘束されて生きることもある。若いと言うことは社会から許されることではなく、また自分を許すことでもない」

「責任か・・・」

 と、夏江は溜め息を吐いた。

「責任を持てと言われても大人の詭弁に過ぎない。責任なんて何処にあるのか分からないし、仮に持ったとしても、何に持てば良いのか分からない。それに、常時拘束されながら生きていかざるを得ない。制服に着替えるとき中途半端な私を証明している」

「正美って、私の心の友達」

「有り難う」

 夏江は帰って行った。

 大人になりかけている少女たちは、それでも自らの判断で行動しなくてはならない。支えるものは許容できる友人であり、自らに語り掛けることで、心の支えとなり指標を与えてくれるような、内的な存在としての恋人で有り友人なのかも知れない。夏江は自分自身の心に問い掛けながら必要な結論を導くであろうと正美は思った。それが、信頼される友人として出来る唯一のことだった。