山に越して

日々の生活の記録

通り過ぎた海辺 12-6

2016-10-18 08:58:59 | 中編小説

 

  晩秋は海の色も群青に冴え、遠く西南には北アルプスの頂が雪を被った姿を見せ始める。日中の暖かさが嘘のように感じられ、寒暖の差が激しい季節になり、それに連れ観光客の数も少なくなったのか、俺の売上高も随分と落ちてきたようだ。一生懸命冷やさなくても良い季節の為か、モーター音も静かで後数年は生き延びられるように感じた。

 氷見港は漁獲高の一番上がる季節である。これから冬に掛けて(ぶり)、タラバガニ、鮟鱇(あんこう)など値の張る魚が捕れ、漁港は賑やかになる。しかし俺の居る場所は街中から外れているので景気の良い声は聞こえて来ることはない。

 暇な午前中が過ぎ、俺の真ん前に泊まった、いささか高級車と思わせる外国産の車の中から声がしてきた。

「もう五年になるのね」

 と、若い女が言った。

「そんなに経つのか?」

「あの時あの場所で会うことがなければ、こんな風になることも無かった」

「仕方がないだろう、過去に戻ることは出来ない」

「ねえ、愛している?」

 と、女は甘えるように声を発した。

「愛しているよ」

「嘘・・・愛していない。何時別れようかと毎日考えている」

「・・・」

「泣くのは何時の世も女だけね」

「別れる積もりはない」

「でも、若い女の方が良いに決まっている」

「お前との関係は続けていく」

 と、男は言った。でも、内心余計なことを口走ったと思った。

「優しいのね、ねえ、何考えているの?」

 と、女は聞こえなかったような振りをした。捨てられたくないと思ったのか、女の矜持がそう言わせたのか分からなかった。

「これまでのこと、何だろうと考えていた」

「五年前から?」

「会った頃のこと」

「その時から一緒に暮らし、毎日楽しくて仕方がなかった。夕飯のこと考えたり、洋服のこと考えたり、旅行のこと考えたり・・・」

「そう、次々と過去になっていく」

「過去ではないわ、今でも続いている」

 女は日々のことを考えていた。そして言葉を続けた。「貴方が帰って来るのか来ないのか待っていることが辛かった。何時も静かな部屋で階段の靴音だけに集中していた」

「仕事で遅くなるだけだよ」

「でも!」

「俺だけ早く帰る訳にもいかないし、仕方がない」

「夕飯の支度をしていても、時々じっとしていられなくなる。窓から外を覗いてばかりいる自分に気付いていた」

「神経症になってしまうだろう」

「きちんと籍だけは入れて欲しかった」

「考えていた」

「この間来ていた手紙のこと教えて欲しい。あの手紙が来てから貴方の様子が変わってしまった。一体何が書いてあったの?」

 と、女は不安を隠さず言った。

「何でもない」

「嘘、あの日から落ち着きが無くなったように感じる。貴方は誤魔化せる人ではない」

「・・・」

「私、貴方と別れても良いと思っている」

「・・・」

 男は何も言わなかった。何も言わないことで逃げていた。

「あの日から優しくなったり、怒ったり、私には何も分からない。そして、帰りが段々遅くなってきた。私が話し掛けても何も応えてくれない。覚悟は出来ているから本当のことを言って・・・」

「・・・」

 覚悟など出来ていなかった。「馬鹿だな・・・」と、一言だけ言って欲しかった。

「私、泣くことなどない」

「手紙はもう破り捨てた。君に話すことは何もない」

 男はやっと声を出した。

「君だなんて、何故、瑤子って言ってくれないの?」

「悪かった」

 暫くの間、男も女も喋らなかった。話し出せば余計なことまで言ってしまいそうだった。男は車外に出て、女は車内で涙を流していた。男も女も優柔不断で自分勝手である。男は流れに逆らう振りをして流されたい欲求を持ち、女は悲しみを堪える振りをして繋ぎ止めようとする。男と女の痴話話にはウンザリである。

 二人が帰った後、同じ様な二人連れがやってきた。男と女は絡み合うより仕方がないのかも知れない。俺の前に停めた車の中から話し声が聞こえてきた。

「ねえ・・・」

 と、女は言ったまま暫く何も言わなかった。

「時間が経つのは早いものね」

「・・・」

「矢張り、別れなくてはならないのかしら?」

「・・・」

 何を言っても男は応えなかった。

「貴方と出会って五年が過ぎた。長いようで短い日々だった。結婚するのだったら貴方のような人だと思っていた。でも、何故こんな風になってしまったのか分からない」

「先が見えなくなっていたのかも知れない」

 男の逃げ口上がまた始まった。

「毎日が楽しくて、それに甘えて、考えなかった私が悪かった」

「・・・」

「貴方が悪い訳ではない。自由に暮らして行きたいと言った貴方だったのに、私が拘束していたように思う」

「否、俺が悪い」

「時間だけが知っている。五年の歳月が二人を変えていた」

 この二人も五年が過ぎていた。五年も経てば恋は冷め、終局を迎えるのだろうか・・・。男と女が偶然に出会い、日々を重ね、別れて行くことも自然なのだろう。

「先のことを考えても仕方がない。楽しいことも、悲しいことも長く続くものではない。時と共に忘れ去られ過去になっていく。生きることは過去を押入の片隅に積み重ねていくようなもの・・・。でも、私は悲しいとも苦しいとも思わない。一つの、私の歴史が終わったのに過ぎない。中途半端の儘では余計辛過ぎる。終止符を打つことで耐えていくことが出来る」

 と言って、女は小さく溜め息を吐いた。

「・・・」

「貴方を求め、貴方に出会えたことで、張りのある日常が持てるようになった。仕事をしていても、今までとは違った視点で物を見ることが出来た。恋をして、仕事に活かせるなんて素晴らしいことだと思った。事実だけしか見えなく、技術だけを追求していた私が、人々の生活の中に隠されている機微を知るようになった・・・」

 語る言葉によって感情を刺激されていたのだろう、女の声は段々小さくなり最後の方は聞き取りにくかった。暫くして男と女は車から降りてきた。山に陽が落ち始める時間だった。俺の側に立った女の陰は海辺に下りていく。そして、女の後ろ姿を鮮やかに映し出していた。

「貴方に会えて本当に良かった。これまでの私は生き方や仕事も中途半端のままだった。高校を卒業して、民間会社に勤め、何れ田舎に戻って結婚する。屹度、そんな風になっていたと思う。単純で考えることも行動することも知らなかった」

「大学に行ったことが君を変えたのかも知れない」

「ええ、一年間働き、違うと思った。勉強して大学に行ったことが今の私の支えになった。生活も勉強も苦しかったけれど、一生懸命頑張ることで方向が見えるようになった」

「君も俺も少しずつ変わっていった」

 と、男は安心したのかやっと口を開いた。

「私・・・」

 と、言ったきり言葉を繋げることが出来なかった。別れる理由など無かったが別れの時が来ていた。

「生き方が違ってきたのかも知れない」

「いいえ、貴方も私も変わらない」

「先のことまで分からない」

「貴方のこと忘れない」

「君のことも」

「海がキラキラ光っている」

 俺には良く分からなかったが決着が付いたのだろう。二人は暫くの間海を眺めていたが氷見市の方に帰っていった。

 海も山も真っ赤に燃え夕焼けの悲しい日だった。何故悲しいのか分からなかったが、気分の優れないときもあるのだろう。平常心を保つことが多くの人間にとって必要なように、俺もまた、最後の時を迎えても淡々と壊れていこうと思った。価値が有ったとか無かったとかは大した問題ではない。ゆっくりと沈む光の中に静寂を感じ、時はこのまま終わることを信じたいだけである。

 男と女の終末は色々ある。どれが良くて悪いか判断など出来る筈がない。別れて暮らすことが良いのか、耐えて一緒に居るのが良いのか、独り身の、俺の知ることではなかった。男と女が出会い、歳月を重ねる間に隙間風が吹き始めている。愛しているのか、愛していると錯覚しているのか、気付かないときは良いが、意識したときに別離が待っている。所詮、男と女しか居ない世の中である。産まれてから小学校の時代まで、そして、老後も男でも女でもない。恋愛感情は年齢と共に変容していく。何れにせよ、自動販売機である俺にとってウンザリする話である。

 冷え込んできたのか虫たちの鳴き声も聞こえなくなり、光りに誘われ蛾が飛んで来ることもなかった。夜中を過ぎる頃に雨が降り始めた。誰も知らない秋霖の始まりである。