山に越して

日々の生活の記録

山に越して 閉ざされた時間 23-9

2015-08-25 09:02:49 | 長編小説

  九 異物

 

 雅生の住む一Kのアパートの中心は上下左右からジワジワと圧力を受け、住人の発する声や軋む音は、天井、壁、柱を伝わり反響しながら振動している。アパートの中心こそ、重力ゼロの地点であり墓場である。円の中心に居るような、等距離を保つことであらゆる力が消滅または増幅する。

 窓のないシャワールームから出ると鏡に映る醜い裸体が目に入った。これまで感じたことなど無かったが、鏡に映る自分の姿が内面を見せているようだった。ダラリと垂れ下がった腹部、筋肉の無い腕や足、突き出た臀部など厭なものだった。考え行動するのは脳だったが、それらの贅肉が支えていると思うとウンザリした。高校時代、大学に入ってからも鍛えることはなかった。文部科学省推薦の健全な肉体に健全な精神が宿るには程遠過ぎ、ブヨブヨした肉体にブヨブヨした精神が宿っていた。

 肉体とは呼吸する細胞の集合体であり、精神とは細胞の中にある思考の集合体である。水分を含み過ぎているなら炎天下で干し上がるのが良い。寒さが続くなら凍り付いてしまえば良い。況して、陰部にはブヨブヨした痼(しこり)が二ヵ所あった。以前からあったが、この一ヶ月の間に急激に成長していた。

「さあ、切り取ってくれ」

 と、雅生は言った。

「痛いぜ」

 と、新庄は人ごとのように言った。それに釣られたかのように執刀者の神田が言った。助手の園部はニタッと笑った。

「全身麻酔は出来ないから切り取る音が聞こえるぜ」

「構わない。まごまごしていると当直が回ってくる」

「いくぜ」

 と、言った瞬間グサッとメスを入れた。

「硬いな」

 と、神田が言った。

「癌は周囲の血管から栄養物を取り込むが此奴は違うようだ。周囲の肉そのものを栄養として取り込んでいる。このままでは肉体そのものが完全な異物となる」

「癌でなければ全く違う新生物だ」

「そうだ、見たこともない生命体を宿したことになる」

「どう言うことだ」

 と、雅生は呻きながら訊いた。

「何度も手術しているが見たこともないものだ」

「勝手に動いている」

 と、助手の園部が手を伸ばした。

「静かにしろ、足音が聞こえる」

「気の所為(せい)だ。交代には未だ一時間以上ある」

「一つめを切り取る」                   

「丁寧にやれよ、二度と手に入らないかも知れないからな」

 と、新庄が言った。

「分かっている」

「此奴によって新しい地平が切り開かれるとも限らない。もしもそうなれば俺達は一躍有名になる」

「社会に出るって訳だ」

「ほほう、論文を書いて博士になることが出来る」

「黙れ、集中力に欠ける。二つめを切り取る」

「大丈夫か雅生?」

「二つとも生きているように蠢いている」

「縫合すれば終わりだ」

「上手くいったな、気分はどうだ」

「痛みはない」

「終了だ。麻酔が切れると痛むぜ」

 と、執刀者の神田が言った。

「異物は?」

「研究室で育てる。何に変化するか楽しみだ」

「しかし俺のものだ」

 と、雅生は嗄れた声を発した。

「これは人類全体のもので個人の所有物ではない。今後の研究結果を待つしかない」

「そろそろ引き上げようぜ」

「雅生、車に乗るまで我慢しろ」

 そう言ってストレッチャーを押した。

 夜の街にライトを点けた車が通る度に影絵のように画面が揺れる。写真のように捉えることが出来ない影は、点いては消え、点いては消え本当の姿を見せない。相手に頼ること以外生きる術がない人間のように他の力を借りていた。

 雅生に取り付いた異物は肉の養分だけを吸い出す。腐り掛けている肉体を捨てることは新しい方向を見出すことではなく、これからも腐った肉体と共に生きなくてはならない。糖尿病と同じような、手足に十分な血液が行き渡らず感覚が鈍磨する。そして、何れ腐り出し四肢の外皮から内蔵まで達していく。立つことも寝返りを打つことも出来ない状態で眼球が空を睨んでいる。

「雅生、お前は間もなく朽ち果てる」

 アパートの一室で柳田が言った。

「其れがどうした」

「怖くはないか?」

「生きていることが問題でないように、腐ることも死ぬことも同じである。一々考えていたのでは時間の無駄だろう」

「強気だな!」

「真理を変えることは出来ない。それに従うまでだ」

「まさかお前の口からそんな言葉が出るとは以外だ。現況を越えることしか興味のなかったお前が過去に縛られ引きずられる。変化を受け入れるのは容易い。しかし真理など何処にもない」

「知ったことか」

「所で異物はどうなった?」

「新庄が持っている」

「お前の部屋で育てなければ死ぬかも知れないな、何せ生みの親元を離れてしまった」

「柔なものではないだろう」

「癌のように他にも転移しているかも知れない。もしそうなっていれば俺も貰いたい」

「やるよ」

「願ってもない」

「しかし、何れ俺とは関係のないことになった」

「人間に必要なことは衣食住という日常が満たされることだ。しかし知らぬ間にその事を忘れ観念の世界に溺れている。俺たちが求めるものを忘れない様にすることだ。異物は正に現実を引き戻すことになった」

「二十二歳の俺は恋も愛もゴミ箱に捨てた。そして、脆弱な肉体と異物を宿したのに過ぎない」

「仕方がない。既に狂っているのだ」

「何処に行くべきなのか分からなくなった」

「氾濫する言葉を理解するには余りに難題すぎる。言葉の数が多いだけではなく次から次へと新しい言葉が生まれてくる。短縮して発音する、イントネーションを変える、言葉は文化であり、文化は歴史になり生活の中に根差し定着する。言葉は生き物のように、生まれては消え生まれては消え新しい物に取り替えられる。元来、言葉が人間たちの間に生まれてきた過程は、相手との交渉や、意思伝達の手段としての必要性からで有り、生活領域を徐々に拡大したことに依る。しかし最早言葉は必要ではない。相手を理解することも認識する必要もない。個が崩れることで必ず社会も崩壊する。雅生、俺は一人になったとしても必ず相手を殺す。一体生きていることが何だと言うのだ。旨い物を喰い、飲み、良い女に出会う事だけでしかない。この一瞬一瞬の中に、自身を繋ぎ止めるような感覚を得ることはない。夢中になっても、熱中することに出会っても何れ冷める。人間としての感覚とか感情はない」

「相手を殺しても得るものはない」

「草味(そうまい)な情況が良い。文化が発達したことで何もかも狂ってしまった。自分の還る環境は既に無く、歴史は現実の俺たちに何も残さなかった。一体何の為に人間は生きている。同じ事を繰り返しながら互いに殺し合いを正当化しているのに過ぎない」

「妄想に取り付かれることがある」

「夢と現実が錯綜しながら進む。のめり込んでいるのが愚にも付かない夢の方である。それは、自分自身の弱さから来ているのではなく現実がそうさせている」

「しかし、俺たちを絡めながら生きている現実を否定するには、武器を持たなくてはならない」

「雅生、くよくよしていても始まらない」

「俺は、もう終わりだ」

「交差点で前方を見ていた。車の両輪がグルグルと絶え間なく回っている。その時、回ることによって移動していることに始めて気付いた。見なければ何もかも過ぎて行く。その事が分かっていながら何も出来ない。去勢された精神は一つの集合体としてしか存在しない。俺たちは同じ所を独楽のようにクルクルと廻っている」

「人間の生きる過程は遠心力に依る頽廃に過ぎないだろう」

「そして、抜け出すことは出来ない」

「思考する阿呆、確かにそうなってしまった」

「放心したような、瞬間的に何も考えられない状態になる。語彙を意識下に集めようと思っても出来ない。脳味噌のある部分を探り出そうとする。しかし、脳味噌、脳味噌と探しあぐねている状態で、自分の頭をかち割り目の前に置いて解剖したくなる」

「少し痛みが出てきた」

と、雅生は顰め面をした。

「異物に宜しく」

 雅生に宿った異物は間もなく雅生自身となり、全く違った生物として生きることになる。雅生は何も求めてはいなかった。しかし、異物に求められていた。