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進化論の進化?

2007-08-07 | 研究
アメリカではキリスト教原理主義者を中心に、人類が進化によって現在の形となったとする「進化論」に、宗教的立場から反対し公立の学校で進化論について教えることを中止させようとする動きがあります。彼らは人間はその他の生き物とは独立して神が創造したものであるという考えを支持したいのです。同様に、厳密に聖書に書かれている様式ではないが、宇宙人やその他の人間よりも優れた存在が人間を創造したと考える立場も含めて「創造説」と呼ぶ事にします。一方、創造説に比べて「進化論」には科学的な根拠があるので、科学的根拠のあるものこそ学校で教えるべきだとする立場の人々が創造説に反対しています。これはちょうどダーウィンやラマルクが種の多様性について研究していたころのヨーロッパの社会情勢と似ています。キリスト教では、動物なり植物の種から別の種が派生するのではなく、すべての種は神が独立して創造したことになっています。キリスト教の盲目的信者にしてみれば、聖書に書いてあることと矛盾したことが世の中に広まることは悪ですから、それを正すのが正しいのだと思っているわけで、これはどうしようもありません。私自身は状況証拠から進化というものは本当にあったのだろうと考えているのですが、「進化論」が証明不能である以上、「進化論」が正しいとは結論できない、進化論はモデルに過ぎないという立場です。実際現代の科学的立場からは、「進化論」そういう位置づけであると考えるのが正しいと思います。
今回はその進化論者の問題というか、ちょっと人と話していて驚いたことがあったので書き留めておく次第です。「創造説」は基本的に聖書に書いてある事を文字通り信じたいと思うキリスト教原理主義者によって支えられていると思います。勿論、科学的に「創造説」が間違っているという証拠がないことが、彼らの行動の根拠でもあります。しかし「The absence of the evidence is not the evidence for the absence」といわれるように、科学的証拠がないということは「ない」ことの証拠ではありません。そもそも「ない」ことを厳密に証明するのは不可能です。一方、「進化論」者も同じような間違いをしていることが多いように思います。つまり「進化論」を支持する科学的な証拠があるから「進化」が正しいと結論してしまうことです。証拠にはいろいろなレベルの証拠があって、進化論には「動かぬ証拠」というレベルの証拠はなく、「科学的」な証明に必要な「因果関係」が示されていないので、進化という現象は存在が示唆されるというレベルの証拠なのです。私も「進化論」側にたっている研究者と、たまに進化論に関連した話をする機会があるわけですが、私が驚いたことは、彼らの多くは「進化」は実際に起こった事実であると考えていることでした。端的に言えば、彼らは「進化論」は進化という現象を記述したものだと認識しているのです。これは私の眼からすると誤解であって、私はその態度に「創造説」者と同様の問題を感じたのでした。そもそもダーウィンやラマルクが問うた問題とは何であったのか、それを思い出せば「進化論」の性質がわかると思います。彼らが疑問に思った事、それは「なぜこの世の中にこんなに様々な生き物の種類があるのか」ということでした。彼らは綿密な自然の観察から、「生物の多様性が生まれるメカニズムを説明する理論」として「進化」というアイデアを得たわけです。よって「進化論」はそもそも進化を研究するものではなく、進化というのは「生物の多様性」という観察可能な事象を説明しやすくするためのモデルなのです。だから進化が実際にあったのかどうかという点は、そもそも二次的な問題であるし、証明のしようもないものなのです。「進化論」の擁護者は、しばしば「進化」は概念ではなく事実であるという信仰を持っているように思います。この点でおいて「創造説」者と同質の問題があると私は思います。仮に進化が起こった事が事実であったとして、遺伝子の相同性などから樹形図を描いてみて、生き物のもっともプリミティブなプロトタイプを想像してみるとしましょう。それではそのプロトタイプはどこから生まれたのか、非生物から生物への明らかにエントロピーの減少を伴う変化というものはどうして起こったのか、生き物は非生物とどれぐらいの連続性があるのか、このように生き物の発生する瞬間とかその辺にまでさかのぼってみると、進化論は無力です。最初の生き物はあるいは誰かが意図的に創ったものかも知れません。人間という動物種から離れてもっと大きな視点で見てみると、生物が何らかの外部からの意図なく、無生物から自然に発生することが可能であったかと考えると、われわれの常識的な感覚からは不可能ではないかと思う方が自然なように思います。
ここでダーウインの進化論に欠かせない「自然選択」という言葉の問題点です。この言葉は生存に適したものが選択され、適さないものが淘汰されていくということです。「選択されたものが生き残る」というのは、「生き残っているから選択された」というのと同じことです。つまり一種のトートロジーです。生き残っていないものが本当に選択されなかったのかどうかは、生き残っていないので知りようがありません。この自然選択という概念が比較的無批判に受入れられる理由はおそらく、人為的な選択の例を知っているからだと思います。農作物の品種改良などは、人為的に選択を加えることで様々な形質をもつ作物を作ることができることが知られています。しかしこういった例から自然選択が進化の過程であったであろうと単純に結論してしまうのは間違いだと私は断言したいと思います。なぜなら、品種改良の場合と異なり、自然選択の場合、「誰が」選択するのかというのが明らかでないからです。「自然選択」という言葉から普通に考えると、「自然」が選択することになるわけですが、では「自然」とは何でしょう。品種改良のように人間が選択する場合、その意思や目的に従った選択圧をかけることになります。選択が行われるには選択するものの「意思や目的」が必要なわけです。「意思や目的」なしに選択というのはあり得ません。そうすると「自然」に「意思や目的」があるのかということを必然的に問うことに繋がります。これには答えようがありません。そもそも自然という概念は曖昧模糊としたエンティティーであり殆ど「神」と言い換えても問題ない類いのものなのですから。「自然選択」において選択するものの主体は不明なのです。そう考えると少なくとも「自然選択」という言葉は、悪く言えば、わからないことをわかったように言うためのレトリックというか、まあ言葉のあやです。しかし「自然選択」という概念が厳密に定義できないからといって、その言葉の含意する現象はもちろんなかったとはいえません。生物の多様性が「ランダムな(この言葉も厳密に意味するところはよくわかりませんが)」遺伝子の変異から起きてきているであろうとする概念はおそらく正しいのでしょう。遺伝子の変異が不平等に生物に受け継がれていくという現象を比喩的に言えば、自然選択ということになるのだろうと思います。
一般の進化論者と話してみて、進化や自然選択といった言葉が時間とともに広まるにつれ、本来意図したものとは異なったものへと変化しているように感じたのでした。社会のコンテクストなどが選択圧となって、オリジナルから変異した概念が自然に選択されたのでしょうか。そうはいっても、本当にダーウィンが意図したことは私は知りようがないのですが。
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1 コメント

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地動説もモデル (NATROM)
2007-08-07 21:14:54
そうですね。生物進化は、地球が太陽の周りを回っているという説と同じ程度の証拠しかありません。地動説はモデルに過ぎず、「事実」とは言えませんね。
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