一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『黒部の太陽』 ……3時間15分の完全版、44年ぶりの公開に感動……

2012年07月19日 | 映画
熊井啓監督が自ら書いた『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』(新潮社2005.2刊)を読んだのは、7年前の2005年3月25日のことであった。
その日の読書日記に、私は次のように記している。
(内容は2005年のまま)


2003年7月、石原裕次郎の17回忌に『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』の記念上映が行われた。
これには47万人の応募があり、『黒部の太陽』を30万人が希望、抽選で3万人が見た。
なぜこれほどの応募者があったのか?
もちろん裕次郎人気もあるだろう。
だが、もう一つの大きな原因があった。
『黒部の太陽』は、ビデオ化されていないのだ。
石原プロはこのフィルムをとても大事にしていて、絶対にビデオ化はしないと断言している。
裕次郎の「大画面でのみ、お客様に観ていただきたい」との強い要望があったからだ。
つまり、見たくても見ることができない映画なのだ。
『黒部の太陽』(1968年、三船プロ・石原プロ共同制作)は、
熊井啓が監督生命を賭けてまで監督・脚本に挑んだ超大作で、
観客動員733万人、興行収入16億円(現在の約80億円)を記録。
当時の新記録を樹立した大ヒット作だ。
20世紀の邦画の名作の一つに数えられている。
映画公開から37年。
三船敏郎、石原裕次郎は亡くなり、プロデューサーだった中井景もこの世にいない。
この作品に最初から最後までかかわった4人のうち残ったのは監督である熊井啓だけになった。(管理人注・熊井啓監督も2007年5月23日に亡くなった)
『黒部の太陽』が生まれるまでには紆余曲折があり、これまでマスコミは、作品および制作のプロセスについて、様々な報道をしてきた。
事実を正確に伝えているものもあれば、全くそうでないものもあった――熊井啓はそう語る。
いつの間にか事実は風化し、伝説めいたものまでが生まれている。
最後に残った者の義務として、覚えているかぎりのことを3人に代わって書き残しておくべきだと熊井啓は考えた。
そうして出来たのが本書である。

【熊井啓】
映画監督・脚本家。
1930年長野県生れ。
1949年旧制松本高校修了。
1953年信州大学文理学部卒業後、1954年日活撮影所に入所。
『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)、『銀座の恋の物語』(1962年)などの脚本を執筆。
1964年、第一回監督作品『帝銀事件・死刑囚』を発表。
以後、『日本列島』(1965年)、『地の群れ』(1970年)、『謀殺・下山事件』(1981年)、『海と毒薬』(1986年)、『日本の黒い夏 冤罪』(2000年)などの社会派問題作をはじめ、
『忍ぶ川』(1972年)、『サンダカン八番娼館・望郷』(1974年)、『天平の甍』(1980年)、『千利休 本覚坊遺文』(1989年)、『ひかりごけ』(1992年)、『深い河』(1995年)、『愛する』(1997年)、『海は見ていた』(2002年)などの文芸作品まで、幅広い作品を発表。
監督作品数は現在までに19本を数え、
そのほとんどが内外で多くの賞を受賞している。
95年、紫綬褒章受賞

私は『黒部の太陽』をリアルタイムで見ている。
とは言っても、子供の頃に、学校で授業の一環として見たのだが。
映画館で見たのか、学校の体育館で見たのかも定かでない。
ストーリーもあまり憶えていない。
ただ、トンネル内で大量の水が噴出するシーンだけは記憶に残っている。
『黒部の太陽』は、ダムを造る映画ではなかった。
そのダムに通じる物資輸送のためのトンネルを造る映画であった。
この本も読みながら引用したい箇所に付箋を貼っていったのだが、またまた付箋だらけになってしまった。
どこを紹介すればいいか迷ってしまう。
『黒部の太陽』が完成・公開に至るまでには、想像を絶する苦難の日々があった。
五社協定の壁、配給問題、資金調達、裕次郎が骨折した大出水シーンの撮影…。
それでも男たちは、ひたすら突き進む。
本書には、監督だからこそ知りうる秘話を満載してある。
何かに熱くなることだけがすべてだった《あの時代》が、本書を読むと鮮烈によみがえってくる。
付箋を貼った部分をアトランダムに少しだけ記してみる。

昭和42年、熊井は吉永小百合主演『忍ぶ川』(5年後、栗原小巻主演で完成)を演出することになっていたが、制作延期になったため、『黒部の太陽』の監督依頼がきた。

『黒部の太陽』制作にかかわったときの年齢、三船敏郎47歳、中井景43歳、熊井啓36歳、石原裕次郎32歳。

今年(注・2005年)の日本アカデミー賞で、最優秀主演男優賞を受賞した寺尾聡のデビュー作である。
宇野重吉が演じる役の息子役を誰にするか問題になっているとき、熊井は宇野重吉の子息・寺尾聡に出演依頼をした。
寺尾聡は、当時、グループサウンズ「ザ・サベージ」のリーダーとして活躍していた。 初めはなかなか承諾しなかったが、長い押し問答の末、ようやく決心したそうだ。

2003年7月、石原裕次郎の17回忌の記念上映には、熊井啓も会場に足を運んだ。
しかし落胆した。
上映時間が約1時間もカットされていたのだ。
危険をおかしてロケしたシーンも、建設会社の誠意のこもったシーンも、三船・石原両氏の数々の名演技のシーンも失われていたとか。
熊井啓は「あとがき」でこう述べている。

《石原氏の十七回忌の募集で分かったとおり、全国の多くの映画ファンが『黒部の太陽』を観ることを熱望しているのである。私は三時間十五分の「完全版」の再上映を強く望むものである。この本を上梓した最大の理由は、この点に尽きる》

私もいつの日か『黒部の太陽』のリバイバル上映されることを期待する。
C・Gなどの高度の技術がなかった当時、危険をかえりみず命がけで撮った迫力ある映像は、今の若い人たちにも新鮮に映るはずだ。
DVDの発売も検討してもらいたい。
たしかに映画のスケールを損なってしまうデメリットはあるものの、より多くの人たちに見てもらえるというメリットの方が大きいのではないか。
TVも大型化しているし、ホームシアターも普及してきている。
名画をこのまま隠蔽したままにしておくのは日本の文化遺産の国家的損失だと思うのだが――どうだろうか?
本書の巻末には、『黒部の太陽』スタッフ・キャスト一覧と、井手雅人・熊井啓共同執筆によるシナリオも付いている。
この内容で1600円(税別)は安い。


この文章を書いてから7年後の、
今年(2012年)1月初旬、
嬉しいニュースが飛び込んできた。

【映画「黒部の太陽」完全版、44年ぶり一般公開】
三船敏郎さんと石原裕次郎さんが主演した幻の大作映画「黒部の太陽」(1968年、熊井啓監督)の完全版が、44年ぶりに一般公開される。
石原プロモーションの石原まき子会長(78)と渡哲也(70)が5日、発表した。
収益は被災した東北3県に寄付される。
黒部ダムの建設、トンネル工事の苦闘を描いた「黒部の太陽」。
映画史上に輝く名作ながら、裕次郎さんの遺志でビデオ、DVD化されることなく、門外不出となっていた。
3時間15分のオリジナル版は、劇場公開以後はイベントで2度上映されただけ。
来年、石原プロが創立50周年を迎えることもあり、今回プロジェクトがたち上がった。
上映は、3月23、24日に東京国際フォーラムで行われることが決定。
全国のホールなどからリクエストがあればフィルムなどを提供する形でも行われる。
他に映画「栄光への5000キロ」も対象で、収益は義援金となる。
まき子会長は「皆様のお役に立てるならと、裕次郎も喜んでいると思います」と話した。
渡は上映が成功すればDVD化し被災地への義援金にしたい考えを明かした。
上映の窓口は全国のケーブルテレビ局になる予定。
(1月6日付『スポーツ報知』より)

3月23、24日の東京国際フォーラムに先立ち、
3月17日(土)20時から、NHK BSで放映されたが、
こちらは2時間20分の短縮版であった。
短縮版の編集には熊井啓監督は関わっておらず、
その内容は「推して知るべし」で、
各方面から不満の声が寄せられていた。

「やはり完全版でなければ……」
その声が届いたのか、全国各地で、完全版『黒部の太陽』の公開が次々に決定。
佐賀県でもついに完全版『黒部の太陽』を見ることができることとなった。


佐賀県内では、
佐賀シティビジョン、唐津ケーブルテレビ、ケーブルワンがそれぞれ主催し、
7月11、12日=佐賀市文化会館
7月14、15日=唐津市文化体育館(15日は「栄光への5000キロ」の上映も)
8月25日=白石町の有明スカイパークふれあい郷
8月26日=武雄市文化会館
で上映、及び上映予定。
チケットは前売り1000円、当日1200円。
ファミリーマートなどで販売している。

で、私は、7月12日(木)に佐賀市文化会館で見てきた。


会場入口には、資料が展示してあった。


佐賀県神埼市在住の松本氏(映画『黒部の太陽』の撮影スタッフであったそうだ)が提供された台本や


香盤表(各シーンごとの出演者の出番や全体の進行などを記した表のこと)や


写真などで、今となっては本当に貴重な資料。




その他、映画『黒部の太陽』に関する書物も展示してあった。


映画を見た感想は……というと、
とにかくキャストがスゴイ。
三船敏郎、石原裕次郎、二谷英明、宇野重吉、滝沢修、辰巳柳太郎、佐野周二、岡田英次、芦田伸介、志村喬、山内明、寺尾聰、高津住男、加藤武、大滝秀治、清水将夫、下川辰平、日色ともゑ、樫山文枝、川口晶、内藤武敏、佐野浅夫、北林谷栄、三益愛子、高峰三枝子……


ただ、民芸・俳優座・新国劇などの演劇人が多いのにお気づきだろうか?
それは、かの悪名高き「五社協定」の所為なのだ。
会社専属のスターや監督は他社では仕事をしてはならないという「五社協定」の為に、
映画スターを使おうにも使えなかったのだ。
ほとんどの人がすでに亡くなっているが、
現在も映画界で活躍している寺尾聰は、この『黒部の太陽』が映画デビュー作。
初々しい演技を見せており、彼が出てくると、佐賀市文化会館の観客から「お~」というような声があちこちで聞かれた。
石原裕次郎と結婚する北川(三船敏郎)の長女役で樫山文枝が出ているが、
1966年4月から1年間放送されたNHK朝の連続テレビドラマ『おはなはん』の主役を演じたことで一躍有名になり、この当時はもっとも人気のある女優であった。
白血病で亡くなる北川の二女役の日色ともゑがとにかく美しい。
当時27歳だったようだが、こんなに美しい女優だとは思っていなかった。
44年前の映画なので、
忘れていることや知らないことも多く、
いろいろな発見があって面白かった。
黒部周辺の北アルプスの山々がふんだんにスクリーンに登場するのも嬉しかった。
山大好き人間は必見の映画である。
映画『劔岳 点の記』より10倍は楽しめる……かな。


長崎県では、
2012年12月2日(日)に、
長崎ブリックホール(長崎市茂里町)で上映予定。

近くの町で上映会があったら、ぜひ足を運んで欲しい。
そして、日本にもこんなにスゴイ映画があったのだということを、誇って欲しい。

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