スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&ナンセンスな問い

2020-07-25 19:00:47 | 将棋
 19日に万松寺で指された第5期叡王戦七番勝負第四局。第三局が持将棋の長時間の将棋だったため,開始時刻が予定よりも30分遅れました。
 豊島将之竜王・名人の先手で永瀬拓矢叡王の横歩取りに。この将棋はよくなった方が粘りにいくような指し方を繰り返したため,どちらにも明解な勝ちという局面が現れないまま一進一退の攻防が延々と続きました。200手を越える持将棋の後の将棋でしたから,両者とも疲労困憊であったためでしょう。結果的にこの将棋は持将棋の局よりも長い手数になりました。
                                        
 局面がはっきりしたのは第1図を過ぎてから。ここは1七に王手で入った馬が2九の金に当てられて逃げたところ。
 ここで先手は☗8六桂と王手をしました。これには☖8四王。桂馬を打ったからには☗7四香なり☗6五歩で攻めを継続するのかと思いましたが,一転して☗5九香と受けに回りました。これは第1図でも打てましたので,王手を決めたのが得になっているかどうかは微妙だと思います。
 後手は☖6九飛と打ちました。ここで☗5七香と取ると☖同銀成でかえって危なくなりそうです。なので☗6五歩と攻め合うかと思えましたが☗3九玉と逃げました。しかしこれは☖5八歩と打たれ☗7七角と5九を守った手に対して☖2六歩と歩で攻められることになり,著しく悪くなってしまいました。
                                        
 相手の打ちたいところに打てということであれば,変な手ですが第1図では☗6九桂と打ち,次に☗5九香を狙う手もあったかもしれません。いずれにしても決定的に悪くならない手順はあったものと思います。
 永瀬叡王が勝って1勝1敗2持将棋。第五局は23日に指されました。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの判断が意志voluntasに関係しているとみる場合には,まず以下のことを踏まえておかなければなりません。
 ニーチェが神は死んだGott ist totというとき,それは唯一神が死んだという意味であるということは,この探求の中ですでに説明しました。一方,自身の周囲に蜘蛛の巣を張り巡らされている神Deusであろうと,自ら蜘蛛となって巣を張る神であろうと,唯一神であるという点では変わりはありません。ですからこのような神が,自由意志voluntas liberaによって働くagereものであるのか,それとも本性naturaの必然性necessitasによって働くものであるのかということを,ニーチェに対して二者択一で迫るとすれば,問い自体がナンセンスであるといわなければなりません。それが唯一神である以上,自由な意志によって働く神も本性の必然性によって働く神も死んだ,つまり存在しないというのがニーチェの解答となるからです。ですからニーチェが意志という場合,実際にニーチェは力への意志Wille zur Machtというのですから,意志というものが存在するということは認めているといわなければなりませんが,こうした意志が神の本性に,とりわけ唯一神の本性に属するということはありません。そしてそれは,唯一神の本性は自由な意志によって構成されないということを意味しているのではなく,唯一神自体が存在しないということを意味するのです。
 これだけでみると,ニーチェは思惟の様態cogitandi modiとしての意志を認めているようにみえます。よって,自由意志によって働く神と本性の必然性によって働く神のどちらがニーチェの見解opinioに近いのかといえば,後者すなわちスピノザが示した神の方が近いようにみえるでしょう。しかし,ニーチェが意志があるということ,いい換えれば人間は意志する存在であるということを認めているからといって,だから神の本性には自由な意志は属さないとする見解に近いところにいるというのは間違いです。あるいは間違いではないとしても,誤解を生じさせるでしょう。スピノザの哲学の用語でいえば,実体substantiaとか属性attributum,あるいは様態ということは念頭に置かずにニーチェは意志といっているのだと解した方が安全です。というのもニーチェがいう意志には,絶対的思惟に近い一面があるからです。
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