江戸川橋の下に江戸川橋分水路の吞口が見えます。
神田川沿いに建造物が密集する為に、物理的に川幅を広げることができません。
そこで治水対策として、目白通りの下に二列の分水路が作られたのです。
江戸川公園を出るとき、「目白台・関口の歴史」が掲示されていました。
その中に記された「大井玄洞の胸像」の説明に
「明治43年(1910)の大洪水の後、大井玄洞は人々の治水の願いを叶えるために尽力しました。
大正2年(1913)に護岸工事に着手し、大正8年(1919)に完成させています。
人々は、この治水事業の功績を称え、昭和3年(1928)神田川沿いの江戸川公園に玄洞の銅像を建てました。」とあります。
自転車で神田川沿いを走っている時は、殆ど説明文を読まずに、写真だけ撮って済ませていました。
そして今初めて、この説明文を読み、先のブログに書いた「神田川の不思議な現象(区の一部境界が川とズレる)」は、この時の玄洞の治水事業による可能性が高いと考えました。
何だか、もやもや気分が晴れて、スッキリしました。
江戸川橋の上に突然、高速道路が現れました。
首都高速5号池袋線です。
この高速道は神田川に沿って進み、日本橋川の上に抜け、あの天下の日本橋の上で悪名高い景観を作りだします。
江戸川橋から下流を眺めると、両岸に桜並木が続く風情は消え、運河のような姿の神田川が水を湛えていました。
江戸川橋の下流の二つ目の橋が掃部橋(かもんはし)です。
フリガナが無ければ、どう読むのか見当も付きませんが、江戸時代には、橋の傍に吉岡掃部という紺屋(染物屋)があったそうです。
江戸時代はこの辺りで染物を晒すほど水が綺麗だったのです。
ちなみに掃部は昔、宮中で掃除や儀式時の設営を行ったスタッフの役職名だそうです。
掃部橋から二つ目の橋が石切橋です。
この辺りは、左岸にビルが並び、右岸を高速道が覆う、代り映えのない景色が続きます。
石切橋の袂に、橋の由来が記されていました。
そして掲示板に、問い合わせ先は、新宿区 道とみどりの課とあります。
実は、この石切橋の上流50mほどからの右岸は新宿区となり、その状態が飯田橋まで続きます。
掲示板には、「この橋は江戸時代の初期、寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ、橋の周辺に石工が住んでいたと伝わります。
明治時代の記録では、橋の長さ15m、幅5m強の木橋で、当時この付近で最も幅広の大きな橋で、当時は江戸川大橋と呼ばれていたそうです」
と記されていました。
江戸の初期から大きな橋が架かっていたとすれば、ここから先の流路に、時代による変化は生じなかったのでしょう。
そして現在、石切橋の長さは20mですから、江戸川と呼ばれていた頃の、凡その状況を思い描くことができます。
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