看護は祈りの気持ちがあって
やりとげることができるもの。
祈りは願いであり
希望なのです。
死にゆくひとが最初に果たされる役割の実現は、
愛する人々に対しての思いやりでしょう。
その人が変わって行くプロセスは、
まわりの人々に示す心づかいからはじまります。
それまでは自分の存在だけしか意識できなかった人が、
自分のまわりにいる人たちに思いをいたし、
一人一人の人たちとの絆を確かめていく。
他人とのかかわりのなかで、問題を残して迷惑をかけたくないとの思いと
残す人たちへのやさしさのなかで、
身のまわりの整理というつらい仕事に立ち向かうのです。
これが最初の離脱であり、
この世の執着を次第にそぎ落としていくことになります。
社会的地位も家庭のなかの座も明け渡してしまった人の平安は
うらやましいほどに深いものです。
なにも考えることなく眠ったまま死ぬことが平安な死ではありません。
死に至るまでの日々を、
どのように残された生命を充実して過ごしていくかによって
平安な死に至るのであって、
そのプロセスが大事なのです。
祈りとは、
神様と話す、
自分の思いを神様に伝える、
そしてこころ静めて神様の答えを待つ、
そういうものだと私は思います。
やりとげることができるもの。
祈りは願いであり
希望なのです。
死にゆくひとが最初に果たされる役割の実現は、
愛する人々に対しての思いやりでしょう。
その人が変わって行くプロセスは、
まわりの人々に示す心づかいからはじまります。
それまでは自分の存在だけしか意識できなかった人が、
自分のまわりにいる人たちに思いをいたし、
一人一人の人たちとの絆を確かめていく。
他人とのかかわりのなかで、問題を残して迷惑をかけたくないとの思いと
残す人たちへのやさしさのなかで、
身のまわりの整理というつらい仕事に立ち向かうのです。
これが最初の離脱であり、
この世の執着を次第にそぎ落としていくことになります。
社会的地位も家庭のなかの座も明け渡してしまった人の平安は
うらやましいほどに深いものです。
なにも考えることなく眠ったまま死ぬことが平安な死ではありません。
死に至るまでの日々を、
どのように残された生命を充実して過ごしていくかによって
平安な死に至るのであって、
そのプロセスが大事なのです。
祈りとは、
神様と話す、
自分の思いを神様に伝える、
そしてこころ静めて神様の答えを待つ、
そういうものだと私は思います。
寺本松野(2001年第38回ナイチンゲール記章受賞者) 作