ことばには、心や気そして魂など直接見ることの出来ないことばが古来から大切に使われて来ました。科学で証明出来ないことは非科学的なものとして角に追いやられて、そのような言葉を使うことすら誤解を招くのではないかと考えられて来た時代もありました。今は、いろんな書籍でそのことばを使ったタイトルを見かける様になり日常に使われるようになってきました。本来その目に見えないものこそ、大切であり大事にして行かなければならないことに目覚めはじめてきているように思います。
私達はよくまっさらな汚れの無い心でとか傷の無い真ん丸な魂でとか使いますが、本来魂とか心は喜びと幸せしか知らない状態で肉体に宿るのではと私は考えます。確かに、人間はこの世にやるべき使命を与えられそれに適した環境や両親を選び産まれて来るかもしれませんが、はじめからそんな使命を自覚して忘れず誕生する子供は稀だと思います。あらかじめ、神様に人生のアウトラインは敷かれているかもしれませんが、スタートラインに立った汚れの無いまっさらで傷の無い真ん丸な心と魂は、身体という肉体をまとい肉体をまとったからこそ、途中で傷つき汚れ敷かれたアウトラインから大幅にはみ出したりしながらも、軌道修正しながらゴールラインに向かって使命を全うしょうとします。
そしてその間、心や魂は本来持って産まれた感情以外の「恨み」「ねたみ」「つらみ」「怒り」「悲しみ」「不安」などの細かい傷で段々曇って来てものが見えずらくなり、大切な物を見落としてしまいがちです。
そんな心や魂に本来の姿に戻すには、自分自身喜びを感じることが一番と考えます。では、自分に取って本当の喜びとは何でしょう。それは、この世に生まれ一人一人支え合って生きている私達に取って相手に喜んでもらう、相手の役に立った。そう、相手の喜んでいる笑顔を見れた時自己満足では得られないそんな喜びの数万倍の幸福感を味わうことが出来るのです。相手が人ではなく、動植物の場合でも相手の喜びが感じられれば幸福感を味わうことができます。
しかし、すこし乱暴な極論になりますが何も存在しない無の世界に突然一人自分が置かれたとしたらどうでしょう。何も聞こえない、何も見えない、何も感じない、そんな世界です。人間の機能としての働きに、長い時間使われることの無い器官は退化して行くという廃動萎縮ということが起こって来ます。皆さんよく知っているところでは、足など骨折してギブスを一月間していてその後に骨が付いたのでギブスを取ったら、あまりにも足が細く成っていてビックリしたことが有ると思います、それも使っていなかったための廃動萎縮という現象です。
そんな無の世界はありえませんがもしもそんな無の世界で生命が長らえたとしても、その世界では目や鼻や耳だけでなく内臓など各器官の存在価値が無くなり消滅して行き肉体が無くなるかもしれませ。そして最後に目に見えない心や魂はどうなるのでしょうか、突然無の世界に置かれた心や魂は裡に向かいはじめはいろんな葛藤が生まれるでしょう、しかしその葛藤すら無意味と成り最後には消えはしなくとも停止するのではないでしょうか。そんな世界ではないこの世に生きている私達に取って、笑顔は生きて行くための自然エネルギーと言えるのではないでしょうか。
私達はよくまっさらな汚れの無い心でとか傷の無い真ん丸な魂でとか使いますが、本来魂とか心は喜びと幸せしか知らない状態で肉体に宿るのではと私は考えます。確かに、人間はこの世にやるべき使命を与えられそれに適した環境や両親を選び産まれて来るかもしれませんが、はじめからそんな使命を自覚して忘れず誕生する子供は稀だと思います。あらかじめ、神様に人生のアウトラインは敷かれているかもしれませんが、スタートラインに立った汚れの無いまっさらで傷の無い真ん丸な心と魂は、身体という肉体をまとい肉体をまとったからこそ、途中で傷つき汚れ敷かれたアウトラインから大幅にはみ出したりしながらも、軌道修正しながらゴールラインに向かって使命を全うしょうとします。
そしてその間、心や魂は本来持って産まれた感情以外の「恨み」「ねたみ」「つらみ」「怒り」「悲しみ」「不安」などの細かい傷で段々曇って来てものが見えずらくなり、大切な物を見落としてしまいがちです。
そんな心や魂に本来の姿に戻すには、自分自身喜びを感じることが一番と考えます。では、自分に取って本当の喜びとは何でしょう。それは、この世に生まれ一人一人支え合って生きている私達に取って相手に喜んでもらう、相手の役に立った。そう、相手の喜んでいる笑顔を見れた時自己満足では得られないそんな喜びの数万倍の幸福感を味わうことが出来るのです。相手が人ではなく、動植物の場合でも相手の喜びが感じられれば幸福感を味わうことができます。
しかし、すこし乱暴な極論になりますが何も存在しない無の世界に突然一人自分が置かれたとしたらどうでしょう。何も聞こえない、何も見えない、何も感じない、そんな世界です。人間の機能としての働きに、長い時間使われることの無い器官は退化して行くという廃動萎縮ということが起こって来ます。皆さんよく知っているところでは、足など骨折してギブスを一月間していてその後に骨が付いたのでギブスを取ったら、あまりにも足が細く成っていてビックリしたことが有ると思います、それも使っていなかったための廃動萎縮という現象です。
そんな無の世界はありえませんがもしもそんな無の世界で生命が長らえたとしても、その世界では目や鼻や耳だけでなく内臓など各器官の存在価値が無くなり消滅して行き肉体が無くなるかもしれませ。そして最後に目に見えない心や魂はどうなるのでしょうか、突然無の世界に置かれた心や魂は裡に向かいはじめはいろんな葛藤が生まれるでしょう、しかしその葛藤すら無意味と成り最後には消えはしなくとも停止するのではないでしょうか。そんな世界ではないこの世に生きている私達に取って、笑顔は生きて行くための自然エネルギーと言えるのではないでしょうか。