人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

古くて新しい道

2024-05-22 10:11:07 | 求道、探究
例の反面教師の画伯は、五井先生の狂信者と言ってもいい御仁なのですが、”消えてゆく姿で世界平和の祈り”は、教義、修行方法として完結しているので、それに何一つ付け足すことも、省くことも出来ないと言い、そのように型通りのまま40年以上(!)も従い続けているのです。
ところが、その一方で五井先生が決して言及しないような陰謀論なんかを含んだカルト的な教えにハマったり、”不食”という雑行をやり出したり、言っているほど一向専念にし続けているようでもないようなのです。
何にせよ、それらはすべて他人のやり方に追従しているだけなのです。
狂信者というのは大体がそうなのですが、何故そのように他人の真似ごとをし続けなければならないのでしょうか?
いや、先師的な人たちの影響というものは、誰にもあることには違いないですよ。私もここでどれだけそういうことに触れてきたか分かりません。道を歩む者でそういう縁を持たない者など居ないでしょう。
だけど、そのことと、ただ主体性も無く、受動的に盲従することとは違うと言わねばなりません。
だから、教えとか修行方法というものはですね、自分に合うようにあっちから少し、こっちから少しと混ぜてですね、色々付け足したり、改良したりして、自分なりのものを造ったらいいのですよ!...って、私はそういうことをここで言っているのではありません。
何度も言うように、私の独創による教義的理論や修行方法など、アタシャ何も持ち合わせてなどいないのです。
現臨がどうこうとかあまり聞き慣れない言葉が頻出したりしますが、それがどういうことを言っているのか、過去幾多もの先師たちが説いていることと照らし合わせて、理解されてみたらいいのです。表現はともかく、そういうものに触れないものは皆無ということが分かるでしょう。
だからと言って、先師たちの教えにベッタリ、オウム返しなど出来る訳ないでしょ!...私は猿でも彼らのコピーでも無いのだから!...
私は過去のマスターたちの残された偉大な道を借りながらも、自然に、無理なく私自身の大本に目覚め、つながる道に従うまでなのです。いや、そういう導きを受けていると言った方が適切でしょう。
それは、私自身の大本、本源から来るであろうことは、自然に、無理なくそうなることで感じられるのです。
決まった言葉、型にはまった教えややり方というものは、時代にそぐわないところも、型通り従うことで、不向き、無理というのも出て来るものです。
そういうものには、主体性を欠いた追従者しか寄りつかなくなるでしょう。
ちなみに先の五井先生の教え、やり方にはそういう無理強いのようなものは、先生自身の言葉からも私には感じられません。気に入ったらやればいい、いやなら止めたらいいのです。実に自然なことではないか?
ちなみに又私は特定の方法は示すことはないが、祈ることの重要性については言っているのです。祈る、神に思いを向ける、入れる...神と共にあることで思いが超えられるとも!...
これは、五井先生の教えのバリエーションに過ぎないようなことですが、あまりこういう言葉の説明に囚われても意味はありません。各人各様の自由さを活かして欲しいのです。
五井先生の道は、本来そういう自由さ、寛容さにあったのではないでしょうか?
宗教的教相に囚われた在り方はもう時代遅れなのは分かり切ったことではないか!...先師たち共々、その表された本来性に帰ることが古くて新しい霊性の道を開くことになるでしょう。
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