人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

名は体を表す

2018-01-24 00:03:25 | 祈りと瞑想
私は特にクリスチャンという訳でも、キリスト.イエスに帰依していた訳でもないのですが、その為かかつてキリスト教関係の集まりで「イエスの御名を通して...」と唱えて祈ることに抵抗を感じていました。どうも心に無いようなことをしているようで...
しかし、各宗教では「アッラー」、「阿弥陀仏」など神や聖者の名を唱えて祈るという在り方も結構あるものです。
最近になってやっと、この"御名を通して"とか"御名にあって"(こちらの方が私には伝わるものがあります)と祈ることの意味が分かってきたようです。
例えば、ある異性を好きになったとして、その焦がれる思いというのはその名を知ることによってより自分に具体的に、リアルにその存在が示されるものではないでしょうか?
どうしたって、"OOちゃんi"と呼びたいのですi どっかのネエちゃんではないのですi 然るに...「君の名は」
私はよく"現臨に捉えられる"、と、神的ハタラキによる意識がシフトするような事態について述べていますが、現臨だのハタラキだと言っても抽象的でよく分かりませんね。
あちらから捉えられることは時にはあっても、こちらからは具体的に中々捉えられないのです。
それでも私はそのものにある名を付したりはしてません。
それは、その具体的に私の意識に浸透してくる事態を身に覚えているからです。
身に覚えていることで、身体レベルで呼び起こされてくるのです。
その事自体には御名を唱えるとか、御姿を臆念するという術に頼らなくとも、うまく表現出来ませんが"身に覚えあるもの"に意識が向かう、あることでそうなるのです。
"現臨"や"ハタラキ"自体は姿も形もありません。通常思われているような人格というものは私には感じられません。
しかし...そのものがここに現存するという経験は、ある面でそれ自体人格的なものと言えるでしょう。
人格的というのは、この具体性、アリアリとしたリアルな実感というものから導かれるのです。これはおそらくそのハタラキの光が真我的なものを映し出すことから来るのかも知れません。
それは抽象的な原理でもなく、切れば血がドクドク流れ、心臓の鼓動が命というものを強く感じさせる、身体的具体性を帯びたものです。
そして他の誰かでないあなたと私に関わることなのです。
キリスト教において先のハタラキについて「聖霊」と言い、仏教では「ダンマ」と言ったりしていますが、いつしかそのことをそれぞれキリスト.イエスや阿弥陀如来、弥勒仏、ビルシャナ仏...と固有の名で呼び習わすことになったのは、その具体的、人格的な出会いに即さんとする意識の表れと見るべきでしょう。
その名にはそれぞれ、ある曰く言い難い神秘的実相を言葉に象徴して表しているもので、人それぞれの固有の名がその唯一無二の人格的特性を表している如くです。
霊的、実存的出会いというものは、全身全心全霊的なもので傍観的意識の有り様を許さないものがあるのです。
究極の愛に落ちるようなものと言うべきか ...
これは一面的な空々漠々とした、宇宙とか全体に溶け去るといった表現からは伝わってきません。
それはしかし、そうした内実に根差したものあってのものであり、ただその名を唱えていたらいいというものでないのは言うまでもありません。
言葉で表すということも、そのリアルな実存的交わりに則してこそ、名実共に生きたものとなるでしょう。
私の場合、特別ある名を唱えるということはありませんが、(見えざる)導師といったものを想起することで、より具体的に生きたものを覚えているのです。





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