思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

王力雄:収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)

2008-09-08 22:47:27 | 中国異論派選訳
王力雄:収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)

 歴史資料を見ると、明朝中国はチベットと連絡はあったが、多くは「社交」と形容できる形式的な往来であった、ほとんど実質的な主権関係はなかった。歴史学では明朝は内向的で非競争的な国家だと広くみなされている。農民出身の朱元璋は中国「内地」の固守だけを考え、外に向けて発展して余計な面倒を引きを超すことを避けた。さらに、子孫に明軍が「永遠に討伐をしない」国15カ国を決めて子孫に示した。倭寇が中国の海岸を侵したとき、朱元璋がとった対策は譲って事を穏便に解決することだった。沿海一帯の中国住民を撤退させ、一律に海に出ることを禁じた(訳注:これに関しては明朝の厳格な海禁政策が東南沿海人民の生活を脅かしたので、商人・民衆が倭寇、盗賊になったのが「嘉靖倭寇」であるという有力な反対説が中国にあり、また日本など海外では同様の見解が主流である。参照:沈登苗http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/830eb65fd650e84058cdb6f53052ff57および、宇田川武久http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00220/contents/049.htm)。歴代の王朝と比べて、明朝が長城修築にかけた力は最も大きく、それは明朝皇帝の心情を反映している(注1)。よって、明に万里も離れた辺鄙なチベットを経営する興味があったと信じることは難しい。

 大陸の歴史学界が明のチベットに対する主権の根拠を証明するために示している証拠の一つは、明が元を滅ぼしてから、チベットの僧俗の首領が続々と元朝の古い詔勅や公印を明朝に上納し、明朝の新しい詔勅や公印と交換し、基準を示したことである。明朝は彼らを改めて承認した。しかし、公印はただの記号に過ぎず、首領は変わらず、権力も変わらなかった。以前同様自分の地盤を支配しているのに、外の強大な勢力に帰順の意を示すのは一種の投機にすぎない。明朝の本当の権力範囲はチベット人地区に隣接する中国人居住地に一連の「衛」と称する地方機関を設立したところまでである(注2)。この名称(防衛の意)からも見られるように、明朝のチベット政策は、外敵に対する防衛であった。

 大陸歴史学界の明代中国のチベットに対する主権の根拠の二つ目は、明朝がチベットの政教リーダーに大量の称号を贈ったことである。1985年大陸で出版された「国家重点プロジェクト」と位置付けられた資料集『チベット地方は中国の不可分の一部である』(題名からも中国にとって有利な資料だけを集めていることがわかる)の中の明とチベットの関係の部分は81ページあり、一方政教リーダーを各種役職に封じた内容が38ページで、ほとんど半分である(注3)。この封じるというのは、たとえば大宝法王、闡化王、西天仏子、大国師など、虚名を与えたにすぎず、全く実質的な意義はない。これはむしろ、朱元璋や朱棣は唐がチベットの脅威を受けた時の教訓をくみ取り、チベット文化に迎合して取った一種の懐柔政策であり、そこからいかなる主権関係も発生しない。

 またもう一つ根拠とされているのは、チベットの明に対する「朝貢」と明のチベットに対する「賞賜」である。朝貢に来たのは、服属の意思表示であろう、というのが中国側の論理である。文書記録を見ると、明とチベットの「朝貢-賞賜」の往来は確かに多いが、表面的な朝貢関係の中に、どれだけ本当に服属の意思があったかは疑問である。私は一貫して細部から歴史を読み解くことを主張してきた。表向きの体裁のよい大見解はしばしばミスリーディングだけしかもたらさない。明とチベットの朝貢関係は非常に興味深いし、また歴史的なチベット中国関係の本質を反映しているので、その点についてここでさらに検討しよう。

 昔から、中国の皇帝は周辺の「蛮人夷賊」の朝貢を世界を統率していることの象徴とみなして、「天子」意識を満足させてきた。明朝は内向的ではあったが、皇帝のこの種の趣味はやはり続いていた。しかし、明は拡張する勢がなかったし、「蛮人夷賊」に対する脅威にもなりえず、「中央帝国」に頼らせることもできなかった。では、なにによって自発的に「朝貢」するよう仕向けたのか? 明がとった方法はいわゆる「手厚い褒美と籠絡」であった。

 チベットの朝貢物品について、明はチベットの特産品でありさえすればよいとした。明の太祖は言う「朝貢品は、誠意を示すものに過ぎない」。物自体は重要ではなく、ほしいのは政治上の、「家臣としての貢納」という象徴なのだ。チベットからの朝貢品リストにはほとんどの場合馬が入っていて、そのほかはプル(ヤクの毛の織物)、硼砂、毛の紐、バター、刀剣、甲冑と仏画、銅塔、舎利などの宗教用具であり、ほとんど安いものだった。

 一方、チベットの進貢者に対しては、明朝廷は手厚い接待をした。進貢者が中国内地に入ると、軍衛から軍人を出して護送し、道中では馬、車両、船舶を提供し、無料で食事と宿を提供し、都に入ると会館に住まわせた。朝貢品は礼部が検査した後、進貢者の身分に対応して賞賜品を与えた。

 一般的に、すべての賞賜品は朝貢品よりはるかに価値が高かった。法王らが自ら入貢すると、賞賜は殊に手厚かった(注4)。賞賜には2種類あり、一つは「正賞」、すなわち朝貢行為自体に対する報償。もう一つは「価賞」、進貢者の朝貢品の価値に対する見返りである(注5)。明朝は「薄い朝貢に厚く賞賜する」を原則とし、賞賜品の価値は進貢品の3倍の価値が目安であった。賞賜の物品は普通、茶葉、絹織物、生絹、麻布、綿布であった。これらの物はチベットでは貴重品であり、しかも生活必需品であった。ほかに、金、銀、紙幣があった。僧侶にはさらに袈裟や絹靴などを与えた。賞賜の中でチベット人は茶葉を最も喜んだ。進貢者は賞賜の金銀で中国でさらに多くの茶葉、薬剤、銅器、鉄器、磁器を購入し、チベットに持ち帰って使ったり売ったりした。僧侶は寺院を建てるために、金箔、顔料、供物用器具、楽器などを大量に購入した。

 あきらかに、この種の「朝貢-賞賜」の間に存在する価格差によって、進貢者は大きな利益を得ることができた。「朝貢」は一種の割にあう商売だった。「痩せた馬を進貢すれば必ず大儲けする」(注6)。巨利の誘引の下で、チベットから明朝に「朝貢」する人の数は増え続けた。進貢者が受ける良い待遇もまた、進貢団をどんどん大規模化させた。一つの進貢団がともすると数百人から果ては千人を超え、盛大に中国を無料で「旅行」し、はては「偽朝貢」現象まで出現した。甘粛、青海、四川のチベット人地区の「熟番(中国人に同化した蛮族の意)」も、どんどん公印を偽造し、ウツァンの「生番」になりすまして都に朝貢に行き、この種の「朝貢貿易」に参加していた。こうした当時の進貢者の「とぎれることなく、賞賜は計り知れない」(注7)という状況は、明朝政府に大きな財政負担となった。明はやむなく格が低ければ朝貢してはならないという制限を設けた。一定以上の格であっても、3年に1回しか朝貢を認めず、1回の朝貢団は150人を超えてはならないと決めた。しかし、当時の情勢は朝貢を防ぎきれなかった。たとえば、国師より格下は朝貢してはならないという規則は執行し続けることができなかった(注8)。進貢団の人数も一つで1470人に達するものもあった(注9)。このように、他人にうまい汁を吸わせることを主権に対する忠誠とみなすことは、身の程知らずの表明でしかない。

 最後の中国のチベットに対する主権の根拠は、明朝とチベットの間に密接な茶馬互市貿易があったというものだが、これはいっそう薄弱な根拠である。チベットには馬があり、中国には茶があり、お互いにそれを必要としているのだから、この種の貿易は唐宋の時代から広く行われていた。明初に当局の独占貿易となり、のちに民間中心の貿易となった。しかし、当局であろうと民間であろうと、貿易があれば主権があるというのは説得力を持たない。中国は現在世界の大多数の国と貿易しているが、それが世界に対する中国の主権を意味しているだろうか?

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=48999

関連記事:

皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ac8dfc98e938c0e7c329d1edd01aca5

清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/52e7dde21cc5561a919c555d0c09542a

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。