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思想の自由市場と著作権法39条

2009-11-29 14:18:24 | 雑感

世界人権宣言27条2項は「すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。」と定める。これは財産権の一つとして知的財産権に関する規定である。日本でもその具体化として著作権法が定められている。

一方、言論の自由の保障(日本国憲法21条)、とりわけ少数派の政治的言論の自由の保障は、表現の自由市場の下で、相互批判を通じてより良い統治を実現していくという、国民の自己統治の実現に不可欠であり、民主主義社会の基盤である。そのような財産権を含む人権保障の基礎である重要な公的利益が財産権によって制限されるとしたらそれは本末転倒であろう。

そこで、憲法29条2項では「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める」と規定し、具体的には著作権法39条でこの民主主義のインフラと財産権との調和を図っている。つまり、「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送し、若しくは当該放送を受信して同時に専ら当該放送に係る放送対象地域において受信されることを目的として自動公衆送信(送信可能化のうち、公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置に情報を入力することによるものを含む。)を行うことができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。」と、許諾を前提とする一般原則とは逆に、明文での禁止規定がある場合を除いて転載を認めている。

これは、財産権規定によって本来周知されることを期待されている政治的議論などの時事問題が逆に市民の目に触れることが制限されるのを防ぐ規定である。この規定は、とりわけ市民の目に触れる機会の少ない少数派の言論にとっては大いに活用されるべき規定であろう。また、人権など国の枠を超えた共通課題や二国間課題に関する外国での議論は、一部を除いて紹介されることが少ないので、その面でも大いに活用すべき規定であろう。外国言論の場合には、当然その内容を伝えるための翻訳という作業の介在が認められる(著作権法43条2項)。なお、48条で、39条に基づく転載につき出所および著作者名(明らかな場合)を示すことを要求している。

以上、私の「中国異論派選訳」に関係する著作権、言論の自由との調整規定の紹介である。

参照:

はじめての著作権講座

不当啓発撲滅キャンペーン

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韓寒:この犬どもは本当に厄介だ

2009-11-25 11:42:14 | 中国異論派選訳
韓寒:この犬どもは本当に厄介だ

 今日〔11月23日〕、閔行区の潘女史の自宅が強制収用で解体された。潘女史は自宅の3階から自家製の火焔瓶(ボトル)を投げて抵抗した。しかし、自家製の火焔ボトルでは当然のことながら技術的なボトルネックがあって、威力が弱過ぎたので消防車に簡単に消火されてしまった。その後、彼女は消防車の高圧放水銃を浴びせられ、ついに投降した。
 このニュースを見て、僕は20年の発展を通じて社会が進歩したことに慰めを感じた。高圧放水銃が自動小銃に取って代わったのだ。だがそれなのになぜこんなに壮絶な抵抗を招いたのだろう? 大虹橋開発のための、潘女史の480平米の家の収用に、政府は67万元の補償しか提示しなかったからだ。つまり、平米あたり761元の住宅再建費用と1,480元の土地補償だ。
 この都市の分譲住宅の平米あたり平均価格が万元単位の時、強制収用の補償額が百元単位だということが、住民が火炎瓶を投げたくなる理由だ。つまり、480平米の家に住んでいた人の家を、開発のため、つまり商売のために強制収用するときは、40数平米の家に移る分だけしか補償せず、強制的に壊してしまうわけだ。武器を持っている人ならだれでも武器を取りたくなるだろう。

 この例はいくつかの問題を物語っている。第一に、中国政府がかつて銃の所持を禁止したのは道理にかなっていたということ。僕が本当に小さいころ家に鳥撃ち用に一丁の空気銃があったのを覚えているが、ある日突然政府が空気銃と猟銃を全て没収した。これは僕たちの政府に先を見る目があったということを意味している。政府は十数年後に社会矛盾が激化し、庶民が空気銃を持っていたら、政府の強制収用部門はロケット砲を装備しなくてはならないということを予想していたのだ。
 第二に、中国政府のかつての土地公有制は先見の明があった。全く経済的頭脳のない毛沢東も、政府の飲食遊興コストが非常に大きくなり、税収と資源の独占だけでは足りなくなるかもしれないと思って、土地という大きな収入源を確保した。後に、指導者達は自分たちの代で土地を売りつくすと共産党の子供や孫たちが売る土地が無くなり、後から自分たちが罪人だったと責められるのではないかと心配した。そして、売るのではなく借地契約とし、最長期限を70年と決めて、孫子の代の収入も確保した。
 三つ目は政府がとても後悔しているだろう問題だ。今の都市化の過程でこれほど儲けられると知っていたら、当時農民たちに対して家とその敷地の所有を認めなければよかった〔農地は没収したが、家屋と敷地だけは農民の所有のままとした〕。そうすれば今になって強制収用問題に悩まされることもなかっただろう。当時監獄を作るとき、監獄の図面で農民たちに村を作らせればよかった。一つの村を一つの監獄、一つの家を一つの獄房にする。そして人民日報を使ってイデオロギーを注入し、これが社会主義新農村〔今の共産党のスローガン〕で、自分で家を建てる必要が無くなり、政府が与えてくれ、誰もがコンクリートの家に住み、門は鉄筋で作ってあるんだと思いこませればよかった。もちろん、鍵は彼らに渡さなければならない。監獄式農村の利点は、一つは最初は少し元手が掛るが、後から強制収用の手間が省けることだ。もう一つは、誰かが罪を犯したら、鍵を没収するだけで済むことだ。

 この事件には他にもいくつか注目点がある。つまり閔行区の指導者の発言だ。よく知られているように、閔行区の指導者はいつもうっかりして本音を漏らしてしまう。僕はそれは奨励すべきだと思う。彼らの率直な真情の吐露は、本音と建前が違う役人と比べたらはるかにましだからだ。例えば閔行区法執行大隊の隊長は最近魚釣り事件〔閔行区の交通警察が交通取締で、おとり捜査員が胃痛で運転できないと偽って、手伝った運転手を罠にかけて罰金を取っていた事件〕で、「私欲が無ければ、人を助けるはずがない」と発言した。この発言の意味深さと率直さは、鄭州の役人の「お前は一体党の代表か、それとも人民の代表か?」〔地元新聞の記者に投げかけた言葉〕に引けを取らない。
 今回の閔行区の指導者の本音話アドベンチャーリレーは華漕鎮に引き継がれた。
 華漕鎮副鎮長の高宝金は「お前が政府に楯突いたら、法律違反で処罰されるぞ」と言った。
 また、建設会社が区政府に土地収用を委託する時の委託費は1ムー〔約667平米〕あたり130万元で、虹橋空港全体の収用費用は148億元の巨費に上る。だが、政府が農民に渡す補償金は1ムーあたり38万元だ。その差額がなぜ地元政府のものになるんだろう?
 上海市閔行区交通建設委員会の主任、閔行区立ち退き指揮部のトップの呉仲権のこの疑問に対する見解は目新しい。彼は、閔行区虹橋交通ハブの用地は、政府の開発計画が伝わってから大幅に値上がりしたのだから、その価値増加分利益は住民に渡すべきではないと言っている。

 君は閔行区が憎らしいと思うかい? この役人たちの地位が堅固なことを不思議に思うかい? もし君がそう思うのなら、君が軟弱すぎるということだ。彼らは上海市政府の凄腕幹部だ。例えば君が会社の部長だとして、市場価格が1,000元のプリンターを購入するために、部下に1,000元渡した。結果、君の部下はそのプリンターを300元に強引に値切って買ってきた。そして1,000元の領収書を君に提出し、君に400元渡し、彼は300元をポケットに入れた。それだけじゃない。君はこの部下の食事代の世話もいらない。彼は飢えたら自分で魚を釣る。この部下の唯一の問題は車で目的地に向かうときに数匹の犬を轢き殺したことだ。その結果、君のオフィスの外に犬が集まってしょっちゅう吠えている。じゃあ、君はこの部下をクビにするかい? もちろんしないだろう。君は、犬が厄介だと思うだけだ。
 そう、ついてないのはその轢かれた犬だ。そして僕たちはその犬なんだ。

原文出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4701280b0100g03k.html

(転載自由・要出典明記)

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韓寒:全く面倒な犬どもだ

2009-11-24 10:37:47 | Weblog

(住宅の強制収用批判)

这些狗真麻烦(2009-11-24 03:57:10)标签:杂谈  


今日,闵行区的潘女士家房子被强制拆迁,潘女士在三楼投掷自制燃烧弹,无奈家庭作坊做的燃烧弹只能用瓶子,技术上自然就遇到了瓶颈,威力太小,被消防车轻松扑灭以后,消防车的高压水枪对准潘女士扫射,最终潘女士缴械投降。

看到这则新闻,我欣慰的感到,经过了二十年的发展,社会进步了。冲锋枪换成了高压水枪。那么,为什么会导致如此惨烈的抗衡呢?因为这次大虹桥的建设,潘女士家的面积有480米,而政府只愿意赔偿67万,也就是每平方米761元的房屋重置补贴和1480元的土地补偿。

当这个城市的商品房均价是在用万衡量的时候,强制拆迁的价格还在用百来计算,这就是居民投掷燃烧弹的原因,也就是说,人家本来住了480平方,你要征用人家的土地进行所谓的建设,也就是做生意,你赔偿人家的钱只够人家买40个平方,然后强拆队就来了,换做任何一个有武器的人都忍不住得掏武器。

 

当然,这个例子说明了一些问题,第一是中国政府当年禁枪是有道理的,我记得我很小时候我家里是有一把气枪的,用于打鸟,后来突然有一天政府突然下令说所有的气枪猎枪都必须上缴。这说明我们的政府是有远见的,他意识到了在十几年后,社会矛盾将会加剧,届时如果老百姓配备了气枪,那政府拆迁部门只能配备火箭炮了。

第二是中国政府当年的土地公有制是有远见的,连丝毫没有经济头脑的毛泽东也意识到了,政府吃喝玩乐成本会很大,光靠收税和资源能源垄断弄不好还不够花,土地将是一笔大收入。后来,领导们又担心土地在自己手里卖光了,导致党儿子党孙子们没有地可以卖,到时候自己就成了罪人,所以又规定,土地转让的年限是70年,以方便让孙子们再卖一次。

第三是肯定是政府很后悔的一个问题,早知道现在城市化进程这么有利可图,当时就不应该让农民们有宅基地和自己的房子,导致了现在很多的拆迁问题,想当年在建造监狱的时候,应该利用监狱的图纸顺便也给农民们把自己的村庄建好,一个村一个监狱,一户人家一个牢房,再利用人民日报灌输一下理念,说这就是社会主义新农村,从此自己不用再花钱建房,政府直接送房给大家,家家户户都是水泥混凝土,门直接就是用钢筋做的。当然,钥匙还是要给人家的。这样操作的好处之一是虽然前期花了一些成本,但是后期再也没有拆迁的苦恼。好处之二是万一谁犯了罪,直接给丫钥匙没收了就行了。

 

这个事件中还有几个亮点,就是闵行区一些领导的言论。总所周知,闵行区的领导总是一不小心就把真话给说出来了,我认为这个其实是值得鼓励的,因为他们坦率的真情流露,总是我嘴说我心,比起那些面上一套私下一套的官员至少要强多了。比如闵行区执法大队队长之前就钓鱼事件发表的言论说“没有利益驱动,为什么要帮你”。这句话的深刻与坦诚,只有郑州官员的“你到底是代表党,还是代表人民?”可以媲美。

这次闵行区领导的真心话大冒险接力接到了华漕镇。

华漕镇副镇长高宝金说:你跟政府对抗,那肯定触犯了法律,那肯定要处理的。

另外,建设公司委托给区政府的征地款是每亩地130万元,整个虹桥机场的拆迁总费用高达148亿元。但是政府补贴到农民手中的征地款是每亩地38万元。那么其中的差价为什么就归当地政府了呢?

上海市闵行区交通建设委员会的主任,闵行区动迁指挥部的一把手吴仲权的观点就比较新颖,他认为,闵行区虹桥枢纽这个地块,是在政府的改扩建消息出来以后才大幅提升的,因此由之获得的土地值价值也不应该由群众取得。

 

你是不是觉得闵行区很可恶呢?你是不是奇怪为什么他们的官员位置还那么稳呢?如果你这么想,你就太嫩了,因为他们是上海市政府的得力干将。这就好比你是公司的部门经理,你要买一个市场价是1000的打印机,于是你给了你的一个员工1000元整,结果你的员工花了300块钱就把这个打印机给强行买来了,还给你开了一张1000的发票,又给了你400,他自己拿走300。不光如此,你还不用负责这个员工的伙食,因为他饿了可以自己钓鱼吃。这个员工唯一的问题是开车路的时候压死的几条狗,导致你的办公室外面经常有一堆狗对着你吼,你说,你会不会开除这个员工呢?当然不会。你只会想,这些狗真麻烦。

是的,那些倒霉蛋就是那几只狗,而我们就是那一堆狗。

出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4701280b0100g03k.html

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龍応台:『大江大海1949』まえがき

2009-11-20 12:01:59 | Weblog

龍応台:『大江大海1949』まえがき

時代に踏みにじられ、辱められ、傷つけられた全ての人に敬意をこめて

彼らはかつて元気いっぱいで、青春真っ盛りでした。
ある人は国家に心を動かされ、理想に心高ぶり、
ある人は貧しさに迫られ、境遇に引きずられ、
戦場に連れて行かれて、荒野で飢え凍え、谷に死体を曝しました。
時代の鉄輪が、彼らの体を轢いて行きました。
その烽火に生き残った者も、一生動揺し、万里をさまよい続けました。

彼らの世代が戦争の重圧に耐え、離散の傷に耐えてきたからこそ、
彼らが倒れて血を流した場所に、再び頭を垂れて種をまいたからこそ、
私たちの世代が、平和の中で無邪気で伸びやかに育つことができたのです。

もし誰かが、彼らのことを戦争の「敗北者」と言うなら、
時代に踏みにじられ、辱められ、傷つけられた全ての人が皆「敗北者」です。
まさに彼らこそが、「敗北」によって私たちに何が本当に追求すべき価値なのかを教えてくれたのです。

私の目を見つめて、誠実に答えてください。
戦争に、「勝利者」はいますか?

私は、「敗北者」の子供世代であることを誇りに思います。

 


龍応台『大江大海1949』天下雑誌股份有限公司、台北、2009年8月31日

http://www.books.com.tw/exep/prod/booksfile.php?item=0010444559

 

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艾未未(アイ・ウェイウェイ)『老[女馬]蹄花』日本語字幕版

2009-11-13 11:10:14 | 中国異論派選訳

多人数共同制作字幕

老媽蹄花 8-1  8-2  8-3  8-4  8-5  8-6  8-7  8-8

字幕が表示されない場合は、画面右下のキャプション選択ボタンで日本語字幕を選択してください。ほかに、漢語と英語の字幕もあります。

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秦暉:壊すべき壁はあとどれぐらいあるだろう(3/3)

2009-11-11 14:01:21 | Weblog

  转型20年众说纷纭

  星移斗转,转眼柏林墙倒塌20年了。我们来到柏林,这里是一派庆祝气氛。勃兰登堡门东边,著名的菩提树下大街上装设了覆盖整栋大楼的节庆彩画。而在西边,勃兰登堡门前原来柏林墙的基址处竖立起一个由十余条游艇倒扣叠成的大型纪念装置,周围有许多讲述柏林墙历史的看板。出售“柏林墙纪念品”的摊贩生意兴隆,扮演当年边界检查站东、西双方军人的模特忙着与游客照相赚钱,一队孩子在墙址标志线旁认真地听老师讲解历史……

  但是关于柏林墙的讨论并没有结束,尤其是柏林墙倒塌后20年前东地区的发展,还是众说纷纭。

  10月23日我在国统一后新修的柏林中央火车站——一座极其现代派的玻璃大厦——等车去慕尼,广播说列车因故晚点,而且要调换站台。在号称国民严谨守时的国也有这种事,令我感到意外。这时一个站台值班的老职员莱因哈先生看出我的焦躁,上前解释事故缘由。于是通过送行友人的翻译我们聊了起来。聊得高兴了,他还解下DB(“国铁路”公司)的胸牌,抽出名卡后送给了我。他说他在铁路工作已经30多年,统一前在东柏林的车站,统一后到了这个新的中央站。

  据他所说,统一前他在东的工资只有西的一半,统一后已经与西工资持平。但实际上,统一前东西的铁路运营似乎并没有太大的不同:两边的铁路都是国营的,工作都是“铁饭碗”。统一以后前东地区搞私有化,连西原来的国营部门也波及了。现在国铁路公司虽然还是国家控股,但股份已经多元化,私人股已经有三分之一左右。而且公司进行了分拆,以便引入竞争机制。莱因哈对这种转制似乎颇有微词,说是现在铁路的运行波动大,也不如原来守时。因为职工流动多了,业务素质不如从前。像他本人这样的几十年老职工还能拿到终身合同,但年轻人的合同年限就比较短,工作不稳定,也不如过去安心。由于失业率高,前途不确定,不少年轻人都不愿意成家。他的女儿27岁了,也还是单身,工作不断在换(说到这,他摇头叹息着)。他还认为,过去人们互相关心,交往密切;现在则是各顾各,关系淡漠多告。最后我问他,总的来说你觉得统一前好呢,还是统一后的情形好?他肯定的说,那当然还是统一以后好,否则我们不愿意,怎么统一得起来?

  这位老职工的话很有代表性。事实上国统一后,通过西部向东部的大量“输血”,东西马克1:1兑换,全盘引进西部的社会福利与劳工权益保障机制,东西的居民收入差距迅速缩小了。就像那位铁路职工莱因哈,统一后的工资就涨了一倍。但也恰恰因为东没有了廉价劳动力和其他廉价要素的“优势”,西部制造业资本宁可远赴中国,也不大愿意来东部投资。原来东的制造业企业垮掉了,新的制造业却没能发展起来。而仅靠服务业和替代产业的发展虽然可以维持经济发展速度,却无法解决制造业衰落后留下的失业问题。这使许多东人不满。

  另一个比较突出的问题是公共服务。国的个人社会保障体系主要是由联邦财政支持的,医疗、养老、失业保障都有全统一的制度安排。但教育虽然也如欧洲福利国家的传统,是由政府来办(这与拥有发达私立教育体系的美国完全不同),然而却不是联邦,而是州政府负责。由于东部“新联邦州”财政普遍比西部老州拮据,教育也就很不景气。像位于西柏林的柏林自由大学,“冷战”时是西方的学术橱窗,为了抗衡东柏林的洪堡大学,西不吝拨款。统一后东西柏林合并成新的柏林州,大学就归州财政管了。偏偏柏林州财政如今很困难,自由大学也不得不裁员缩编,很多机构被撤销,不复往日盛况了。基层学校也受财政困境影响,据说许多地方由于教师工资不如西部,好教师都“走西口”去了。幸亏如今欧洲一体化,波兰等收入更低的转轨国家来了不少外籍教师,于是那里波兰老师教国孩子就成了学校的常见景观,有人抱怨道:“我们孩子讲的语怎么有波兰口音?”

  这种情况能否避免?前东的转轨过程是否犯了什么大的错误?20年后人们仍然有不少争论。由前东执政党改组来的民主社会主义党(如今已与西共产党和社会民主党“拉方丹派”合并为“左翼党”,但三方仍保持一定的独立性)对这一过程批评甚烈,他们认为统一过于急躁,由于实际上是西接管,东经济丧失了自我改造的机会,造成如今的制造业衰落。东前执政党最后一任总理、现在也是左翼党元老的汉斯·莫罗先生对我说:就是要私有化,也不能像托管局那样破罐子破摔,而应该像匈牙利人那样,先投资把企业改造得有个样子,再卖个好价钱。

  牢骚归牢骚,厌恶就是厌恶

  但是即便在前东,很多人也不认为上述说法是可行的。如奥河畔法兰克福欧洲大学转型研究所的威尔·戈斯教授就对笔者说:现在的问题的确很多,但他认为,柏林墙一倒,如果统一拖延,东人出走西的大潮就会不可收拾。而要很快统一,不搞统一货币和东西马克一比一兑换就无法安定东民心。而搞了这个,东也就基本没有了廉价劳动力优势,很难像中国那样吸引投资。所以他认为,现在的一些问题其实难以避免,而比实际做法更好的转轨方式只是说说而已,其实很难行得通。

  但无论如何,如今前东人对于统一20周年的心情是复杂的。他们一方面欢迎和庆祝这个意义重大的日子,一方面对20年来的经历有很多牢骚。这后一方面最明显的证据莫过于“左翼党”在最近这次选举中的成绩。有朋友说,由于“左翼党”在柏林州是执政联盟成员,所以20周年庆祝活动还比较低调,否则就更热闹了。

  不过正如那位铁路公司职工莱因哈所言,牢骚归牢骚,他们对统一前后的变化总的来说心里是有杆秤的。对现状的牢骚和对柏林墙的厌恶并不矛盾。一个有趣的现象是:由前东民社党、西社民党“拉方丹派”和西共产党三方组成的“左翼党”主要的选民基础都在东部,但这个党内最“左”的言论,包括怀念柏林墙的言论却全都来自西部。西共产党是1968年学生运动极左派建立的小党,在人们没有亲身经历过东体制的西,这些人的言论经常口无遮拦。如原共成员韦格纳在州议会上就为前东秘密警察和柏林墙辩护。但她的话立即在东部“同志们”中引起强烈反感,导致她被左翼党开除。如今的左翼党大部分成员来自前东,却奉来自西社民党的拉方丹为党首。(可堪对比的是国“右派”却选了个来自前东的默克尔当旗手。)该党议会党团领袖居西不久前声明,任何关于“专政”的思想都与我们党不相容,这显然也是针对一些西极左派的言论。

  前东老百姓,包括左翼党的选民对现状再不满,他们毕竟生活在这片土地上,没有谁比他们更明白柏林墙意味着什么。今天在柏林墙保留下来的最著名的一段“涂鸦墙”(正式名称是“东边画廊”)上,有一幅很大的墙画最引人注目,它画的是一群各种肤色的人正在兴高采烈地拆墙,标题是“还有许多墙需要拆掉”。来自世界各地的游客纷纷在此留影,自然,我也在其中。

  (作者为清华大学历史系教授)

出典:http://www.chinaelections.org/NewsInfo.asp?NewsID=160578 

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秦暉:壊すべき壁はあとどれぐらいあるだろう(2/3)

2009-11-11 13:59:31 | Weblog

  战后两个国各自形成不同的经济体系,分别加入社会主义和资本主义国际经济圈。1950年民主国加入“经互会”,70%的出口面向“经互会”国家进行“账面卢布结算”的“内部交流”,脱离国际前沿,缺乏竞争机制,走上封闭式的经济发展道路。而西在1951-1952年加入关贸总协定和国际货币基金组织,利用国际分工和国际资本的流动,为经济发展开辟了广阔的市场。

  而比经济长速度更重要的是人民实际生活。战后东西两边都为应付时艰一度实行过配给制,但西1950年就取消了配给制,很快自选超级商场满街,市面繁荣,消费旺盛。而东到1958年才取消配给,但商品的匮乏和单一依旧。在生活、住房、就业、医疗各方面都是西强东弱。东为此提出“先生产好,后生活好”的口号,让人寄希望于缥缈的未来,而西无需口号,明摆着的“生活好”已经有力地证明它的生产也绝不差。为了抵制西柏林繁华的选帝侯大街上高档商品和花花世界的诱惑,东柏林大搞形象工程,建立了引以为豪的东欧最高的电视塔。但却立即传开了有关此塔的两个政治寓言:一是“圣徒十字”传说,电视塔上部观光大圆球的玻璃在阳光下反射出醒目的十字光,被认为是对无神论的东统治者不满;二是“斜塔”传说,据说由于人们在观光球上都挤在西边看那被大墙阻隔的西柏林,塔都被压得向西倾斜了。

  “6·17事件”与逃亡潮

  1953年3月斯大林去世时,东欧各国都长出了一口气,人们认为压在头上的“紧箍咒”应该松动了。但1953年5月,东政府却以行政命令把各企业的劳动定额一律提高10%,并且不加工资,还威胁要开除那些以罢工示威来反对提高定额的工人,要“把一小撮隐藏在工人队伍中的特务揪出来”。6月16日东《论坛报》发表社论说,提高劳动定额是“工人阶级义不容辞的责任”,激起众怒。当天建筑工人率先罢工,6月17日东柏林大批工人在斯特劳斯广场举行罢工集会,工人们提出了罢工的九点要求:不能降低单位定额工资的数量;降低生活费用;举行秘密和自由选举;禁止迫害罢工工人;实行言论和新闻自由;撤走苏联占领军;释放全部政治犯;遣返所有战俘;取消对人民的监视。6月17日罢工席卷了整个东部国,除柏林外,腾费尔、哈雷、莱比锡、梅塞堡、勃兰登堡、累斯顿、格尔利茨等地纷纷加入,总共有近272个区30万人参加罢工,一些知识分子、复员军人和警察也加入罢工队伍,甚至西柏林的部分工厂也冲破警察防线前来声援东部的工人。有几个人登上勃兰登堡门把红旗换成了联邦国的旗帜。结果苏军宣布戒严令,不允许三人以上在街头聚会,违者按占领国战时法论处,并先期出动了一个装甲师来驱散游行,在冲突中军警开枪,造成流血事件。“6·17事件”是东欧第一次表现出反对斯大林模式的工人起义,为了纪念此事,西柏林把通往勃兰登堡门的一条主要街道命名为“6·17大道”。

  “6·17事件”后东的逃亡潮愈演愈烈。1945年东有人口1664万,1949-1961年间就有350万人逃离东,也就是1/5的人口跑掉了。而这时在整个社会主义阵营里东还算是最好的,经济发展速度最快的,1958年达到8%,被赫鲁晓夫称作“社会主义的橱窗”。苏联不能容忍东成为“逃亡的橱窗”。1958年11月赫鲁晓夫发出“最后通牒”,要接管前往西的通道,结果导致“柏林危机”,反而更加剧了逃亡潮。1959年逃亡14.4万人,1960年20万人,1961年建墙前每月就逃亡10万人,而建墙前的两个星期就有4.7万人逃走。据说由于技术人员和劳动力流失,东的损失大约达到1200亿马克。在这种窘境中,1961年华沙条约组织开会批准建墙的决定,“防止里面的人出去”的高墙终于竖立。

  “防止里面的人出去”的高墙倒了

  1961年8月东的特种兵以“玫瑰行动”的代号迅速在东西之间架起了一道铁丝网,后来被钢筋水泥所代替。从1961年8月13日建成,到1989年11月9日拆除,柏林墙一共存在了28年。在纪念柏林墙建立20周年的时候昂纳克说:“由于构筑了‘反法西斯防卫墙’,我们才捍卫住了我们的社会主义成就”。但是靠高墙和火力拦截把人圈禁起来才能“捍卫”的“主义”,还是人们当年梦想的那种人类理想吗?

  柏林墙建成后人们的逃亡史变得更加血泪斑斑。游泳、挖地道、跳高楼、用重型汽车硬撞、自造潜水艇、热气球、滑翔机、弹射器……,许多逃亡故事都已成为广泛流传的经典,笔者也就无庸赘述了。只就柏林墙的隔离功效而言,从建墙前每年十几万、几十万人逃亡,到建墙后1961-1980年“只有”17.7万人成功逃离,每年约为八九千。

  1987年苏联对东欧的政策改变,严格控制东欧的传统被放弃。1987年《苏联外交通讯》刊登戈尔巴乔夫的一篇讲话。他说:“我们无权教导别人,苏联对盟国发号施令的时代一去不复返了,一切事情必须由苏共盖章批准的做法已经结束”。1988年戈尔巴乔夫在苏共28大和第19次代表会议上明确否定了苏联控制东欧集团的原则,他表态说,“以任何方式、甚至军事方式从外部将一种社会制度强加于人”都应该受到谴责。

  在变革潮流冲击下,1989年5月率先实行多党制和民主化的匈牙利宣布匈奥边界自由通行,大批的东居民前往匈牙利旅游,然后取道奥地利进入西。在10月初就有近4万人以这种方式逃离东。10月7日是东40周年国庆,第一个反对党东社会民主党此时成立,他们要求“民主、自由和人权”,要求新闻自由和出境自由,第一次有人公开提出拆除柏林墙。10月9日,统一社会党的中央委员、民主国作协主席赫·康在《世界青年报》发表的公开信中说:“我们必须承认现实,失败就是失败”,“大批公民出走的原因,我们必须从自身寻求解答。”迫于四周近邻的民主化浪潮,“禁锢政策”已失去意义。10月23日,政治局委员库·哈格在国家电视台宣布,所有东居民均可获得申请护照出境,政府予以批准。11月1日开放捷克斯洛伐克边境,大批东人借道捷克前往西,一周内出走的人数多达50万,“出走潮”已成为无法阻挡的滚滚浪潮。9日晚,两将过境站全部开放,人们从广播和电视上得知这一消息后,潮水般地涌向柏林墙,涌向西柏林、涌向西,人们骑在墙上狂欢,手持各种工具奔向柏林墙,柏林墙坍塌了!

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秦暉:壊すべき壁はあとどれぐらいあるだろう?(1/3)

2009-11-11 13:57:56 | Weblog

秦晖:还有多少墙需要拆掉?——柏林墙倒塌20周年札记作者:秦晖
来源:经济观察报
来源日期:2009-11-9
本站发布时间:2009-11-9 18:18:17


  每一个时代都有其独特的精神与风气。通常,当我们无法准确查知这种风气的源头时,我们就以一场具体的戏剧化事件作为它的原点,尤其是在这个事件蕴含有完美的禁锢与自由、沉闷与变革意义的时候。可以说,1989年柏林墙的倒塌在历史上恰好扮演了这样的角色。它代表的不只是东西对峙的终结,它也象征着民众的自由流动、市场的自由扩张与思想的自由传播,从而在一定程度上定义了我们这个时代的面貌。在柏林墙倒塌20周年之际,让我们与一些杰出的思想者一起,再次评价它的历史意义与现实意义。

  “根据东法律也是犯罪”

  1961年8月13日,前东(民主国)建立了隔绝东西柏林的“反法西斯防卫墙”。从此勃兰登堡门内外的两个柏林成为两个世界。在墙的西边没有任何防御措施,老百姓可以一直走到墙根。而在东边,沿墙一线(包括途经原来柏林市中心的繁华地带和斯普雷河边的景观地带)宽一百多到数百米的建筑全部被推平铲光,形成一条严禁民众接近的无人区(人称“死亡区”),其间有铁丝网栅栏、军车巡逻道、��望塔、钢筋水泥碉堡、自动信号报警和机枪自动射击装置、警犬巡逻线、探照灯和高杆式强光照明灯、车辆陷坑、松土地带、哨卡岗楼密布,完全是一个恐怖地带。面对西方的指责,东政府最有力的辩护就是:这一切并不具有对西边的进攻性,它只是“防卫墙”,是防御性的。东作为一个主权国家,拥有防卫的权利。

  没错,柏林墙的确是“防御性”的,从来没有人指责这道墙具有军事进攻的功能。问题是它要“防御”谁?柏林墙存在的28年记录铁证如山地表明,它从未对任何一个西边的人进行过火力拦截,因为根本没人试图闯入。但是,它却以火力射杀了有名有姓的201名东公民,而除了想“出去”,他们并无任何过错,至于在火力拦截中被打残打伤、生擒活捉的东人就不知多少了。显然,柏林墙并不是用来进攻西边的,但它也不是用来“防御”西边的。它就是一道拦截“自己人”外逃的天堑,一道为东公民设下的天罗地网。

  关于柏林墙的评价,我以为如下一段话堪称经典:

  “世界上的围墙都是防止外面的人闯进来的,只有一种围墙是防止里面的人出去的,那是什么?那就是监狱的围墙!在这样的墙里面是什么地方?那不就是监狱吗?”

  的确,被这样的墙“保护”起来的东不像一所巨大的监狱吗?但即便是监狱,对试图“越狱”者不加警告就射杀也被认为是残忍,而沿柏林墙的许多机枪自动射击装置就具有这个功能。因此统一以后这种“对试图越墙者格杀勿论”之举被认为是一种需要审判的罪行。但是两统一是协议实现的,对前政府的政治行为似乎也不应追究个人责任。当然,舆论的谴责是没法禁止的。而面对舆论谴责,一位前东领导人辩解说,柏林墙下的死亡只是执勤军人的随机应变造成的,东官方并没有下达“越墙者格杀勿论”的正式命令,因为“我们东的法律也不允许”这样草菅人命。如果真有这样的命令,“我们当政时也是要追究的。”

  然而他不说还好,不久,人们在东档案中果真就发现了这样一份“格杀勿论”的正式命令,而且上面还有许多政治局委员的签字。这下坏了:按东领导人自己的说法,即使根据当时东的法律,这样的“格杀勿论”也是犯罪,下令者要承担责任。统一后的国如果根据那时在东并不生效的西法律给他们治罪,那就有政治报复之嫌。但是如果统一前在东境内杀人放火的刑事犯在统一后就没事了,恐怕也不符合常情。所以许多人认为,根据当时东的法律也属犯罪的行为,统一后并无免受追究之理,这被认为是纯粹的法律问题而不是政治问题,而且人命关天的案件时效也长,现在时效并没有过去。于是法庭“根据当时东的法律”进行了审判,一些人为此受到了惩罚。笔者不想评价这种追究是不是合适,但“即使根据当时东的法律也是罪行”的说法,无疑已足以把柏林墙及其策划者钉在了耻辱柱上。

  建墙之前:两种占领政策

  1945年国法西斯无条件投降,英、美、法、苏之间的联盟关系因为对手的消失失去了存在的基础,但分割国是它们共同的想法,在《波茨坦协定》中几国首脑就军事占领柏林进行协商。戴高乐说,各占领区“按照自己认为应当的办法,管理自己的占领区”。斯大林也说,谁攻占的地方,就把自己的社会制度强加于它。两个国就此产生。

  1949年民主国在苏占区成立,同一个民族同一种文化就此形成两种不同的发展模式,东西占区成为两种制度较量的场所。苏联要把东变成自己的卫星国,控制与汲取是主要思路。首先在战后赔偿问题上,各占领区实行完全不同的政策。苏联的策略是“榨取国赔偿本国”,它向国方面提出100亿美元的赔偿。战后的国没有能力偿还这样巨额的战争赔款,苏联便拆除国的工厂设备,利用国的专家、技术人员和战俘无偿进行实物赔偿。为此苏联从它的占领区拆走了80%的重工业设备。到1948年,苏占区的1900家工厂被拆除,其中1700家是整体拆迁,由于大规模的拆除,东的生产能力下降了50%。此后很长时期,东的每七个工人当中就有一个为苏联人干活。此外苏联还把大量的农产品运回本国,据统计,通过这种方式,苏联大约从东索取了价值150亿美元的赔偿,使东如牛负重,长期无法重振经济。另外苏联把法本、克虏伯等大型企业没收后改造为苏联股份公司。本来战后的生活就十分艰难,还必须向苏联提供大量赔偿,使东不堪重负。

  而西是东西方对峙的前沿,在冷战加剧的情况下,为了抵制苏联的势力,英、美、法与苏联的思路完全不同,开始实行经济扶植政策。西只向西方战胜国提供了原定数额2%的赔款。1948年6月英美为成立联邦政府、起草国宪法和占领法,在西占区实行币制改革。苏联为了反击,于6月24日全面中断通往西部的水陆运输,对西柏林进行封锁。美、英、法不计代价,耗巨资通过空中走廊飞行运输,给西柏林居民供应各种物资,前后持续达324天。在这将近一年封锁期内共空运140万吨物资,近20万航次,仅空运费就达2.5亿美元。在密集的运输中飞机失事24架,机组人员死亡48人。这一切如今都记载在了原柏林滕佩尔霍夫机场楼前竖立的“柏林大空运”纪念碑上。在那些日子里,柏林人看到的是这样对比鲜明的图景:苏联人从地面上把国的东西一列车一列车地拉走,而英美则从空中一架接一架地用飞机把来自西方的东西源源不断送进国。

  与此同时,美国从1946-1950年在西占区共发放16.202亿美元的救济款。1948年根据“马歇尔计划”,联邦国获得近16亿美元援助。美国还在国开设“特殊账目”用于国内的财政补贴,截止到1975年为该账目提供了大约110亿美元的贷款,这被称作是西经济起飞的“第一推动力”。

  不同的经济发展模式

  赔偿之后在重建经济时,东不能不完全照搬苏联体制,以强制性的国家计划调节扼杀了经济发展的能动性和个人积极性,大搞集体化和重工业化。从1945年到1948年,东把3000多家私营企业变成国有企业,从1950年起推行农业集体化,虽因农民抵制一度放松,但从1958年起集体化步伐又重新加快,一年中集体化的比例就从25%上升到58%,1960年一下子达到86%,这种集体化完全是强制性的。与此同时,由于大量没收没有按时交税的手工业者的资产,各种商品供应立即紧张起来,这在国人中引起极大的反感。尽管计划经济可以让老百姓勒紧裤带尽量投资,使工业较快得到重建,但人民生活艰难。从苏东阵营内部看,应该说东的经济是成功的。到20世纪70年代,东已成为苏东阵营中经济最发达者,但即便如此它的绩效仍无法与西相比。而且再“科学”的计划也无法解决人们的消费偏好和自由发展的诉求,20世纪80年代后,东的“科学计划”潜力近于枯竭,经济出现停滞。1989年东的经济长率仅为2%,昂纳克下台以后承认,苏联推行的计划经济“是一种最糟糕的计划,它不是根据市场需求来发展的”。

  在西则是另一番图景。美国人把西的管理权很快移交给了国人,1947年美国实行“马歇尔计划”,大量资金注入西。1949年6月《联邦国宪法》通过,西建立了既发挥市场竞争活力又注意社会平等、福利保障的“社会市场经济”和“福利国家”体制。1950年联邦国的工业超过战前的水平,从1950年到1965年联邦国累计投资2281亿美元,促成经济高速长,从此开始了15年的“莱茵奇迹”。1950-1965年,西年平均进出口总额分别长13.3%和15.8%,1965年的贸易额是1950年的8倍,20世纪60年代西国民总产值超过英法两国,20世纪80年代西已经成为世界上第三经济大国。而早在1971年,西的外汇储备便达到186.57亿美元,超过美国,成为世界第一。 

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ヤスン:野生のハト(Yawa Kepter、Wild Pigeon、野鴿子)(2)

2009-11-11 12:08:06 | 中国異論派選訳
 「坊や起きなさい、どうしたの?」僕が目を開けると、母さんが僕を見つめていた。ああ神様、僕はまだ生きてる! 足に触ってみても何の傷もなかった。
 「悪い夢を見ていたのね」母さんは言った。「すごく怖い夢を見たんだ」僕は母さんに抱きついて、夢の中の出来事を話した。
 「坊や、お前は子孫の運命を夢で見たんだよ。人類はだんだんと私たちの住む場所に迫ってきているんだよ。そして私たちを昔から住んでいる領土から追い出そうとしているんだ。人類は私たちの領土を奪おうとしているんだよ。彼らは私たちが受け継いできた性質を変えようとしているのよ。私たちから知恵ときずなを奪い、自分たちの同胞のことさえ分からなくさせようとしているのよ。もしかしたら、近い将来ここに高層ビルや工場がたくさんできるかもしれない。そうなったら、私たちに必要のない工業製品を作るために排出されるばい煙で、私たちの土地と水が汚染されるでしょう。今のようなきれいな川の流れはなくなり、工場の排水で黒く汚れた水が流れるようになるでしょう。人類の侵略はとても怖いのよ。坊や、今はまだ分からないでしょうが、今のようなきれいな環境は、私たちの子孫は見ることができなくなるの。彼らは生まれた時からそういうものだと思って、人類の罠にはめられるでしょう。人類はだんだんと私たちを排除するの。彼らはもうすぐそこに迫っているわ。もうすぐ食い止めることができなくなるでしょう。誰もこの運命から私たちを守ってくれないから、自分たちで守らなければならないの。外に出ましょう。あなたのお父さんのことを話す時が来たわ」。
 母さんは僕を連れて外に歩み出た。僕の家の周囲は全て野の花と緑の草に覆われ、道は全くなく、足跡もない。ここは見渡す限り果てしない草原だ。僕たちの家は川岸の崖にある。ここでは数千羽のハトが巣を作って子孫を育てている。崖の下に流れる清らかな川の水は、僕たちに優しい子守唄を奏でてくれる。僕にとってここは世界で最も美しく、また最も安全な領土だ。もし人類がいなければ、僕たちは永遠にこの幸せな場所で生活できるだろう。ああ、人類というのは全く……

父さんはどうして彼らの手に落ちたのか?

 「ここがお前の領土よ。ここはお前の祖先が生活してきたところよ。お前のお爺さんとお父さんはこの土地を一段と美しくしたわ。彼らはかつてここに住むハトのグループのリーダーだったのよ。だから私たちはハト仲間の中で信望を集めているのよ。私たちの責任はとても重いの。お父さんのような勇敢な人になってね。私は毎朝早起きして、お前をつれて数百キロも遠くまで飛んで、お前の翼と筋肉を鍛え、知恵と警戒心を育ててきました。お前の体は今はもう成熟したから、これからはもっと知恵を成熟させて、人間に備える必要があるわ。人は地面の上しか動けないから、私たちに害は加えられないなんて考えちゃだめよ。彼らは銃を持っていて、お前を数千メートルの上空から打ち落とすこともできるのよ。お前はお父さんが何で亡くなったか知ってる?」
 「知らない。前に聞いた時母さんは、まだそのときじゃないと言って、話してくれなかったよ」。
 「今がその時よ。何日か前、何人かの人間がここを偵察していたのよ。つまり、私たちに目をつけたの。だから彼らが来る前に、私たちはもっと安全なところを見つけなくちゃならないの。お前のお父さんも彼らに殺されたのよ」。
 「母さん、父さんがどうやって彼らの手に落ちたのか教えて」。
母さんは考え込んだ、心を痛めていたんだと思う。
 「その日、お前のお父さんはグループを引き連れて私たちのために食べ物を探しに行ったの。いつもは安全で食料の多い所に行くのよ。お前のお父さんは強くて責任感の強いリーダーだから、場所探しの任務は彼の肩にかかっていたの。その時、お父さんは出発してから何日も戻ってこなかったから、とても心配だったわ。いつもなら、もし半日かかる場所に豊かなえさ場を見つけたら、そこに引っ越すの。お父さんが遠くまで探しに行くなんてありえないの。私は彼に何かあったと感じたわ。その時、お前とお前のきょうだいは生まれたばかりだったから私はお前たちを置いてお父さんを探しに行くことはできなかったの。何ヶ月か経って、お父さんと一緒に出かけたハトが一羽戻ってきたの。彼からお前のお父さんが人が仕掛けた罠にかかったということを聞かされたの。その後、生き残った彼の仲間は次々にみんな帰ってきたけど、お前のお父さんは帰ってこなかったわ。」
 僕は母さんが泣き出すかと思ったけど、母さんの目からは勇敢な光が射していた。
 「父さんは何で戻ってこれなかったの?」僕はせきこんで聞いた。
 「お前のお父さんはハトの王様だから、王族の精神を持っているのよ。自分を守れないで、他のハトを守れるわけがないでしょ? 王が人の奴隷になったら、もう一度ハトのリーダーになれるわけがないでしょ? 彼のただ一つの道は、人の奴隷になることを絶対に拒否することなの。お父さんは人に捕まってハト小屋に入れられたとき、野生のハトの王家の慣習に従って、お父さんは舌を噛み切ったの。彼はハト小屋に一秒でも閉じ込められるのが許せなかったの。ハト小屋は彼の鮮血で赤く染まったわ。お父さんは人が与える水と食物を食べず、一週間生き続け、最後に彼らの手の中で勇ましく死んだのよ。これこそ本当の自由の精神よ。坊や、お前もお父さんと同じように、永遠に自由の守護者になりなさい。」
 「母さん、父さんはなぜ他のハトみたいに、逃げ帰ることができなかったの?」
 「お父さんは自分の子供が奴隷になるのが嫌だったのよ。彼らはお前のお父さんを捕まえて、お父さんと別の飼いならされたハトを交配させようとしたの。だけど、お父さんは絶対に自分の子孫を奴隷の環境に置きたくはなかったの。それは彼の良心が許さなかった。お前が夢に見たハト達は自分の子孫を奴隷にすることによって、生き延びられたハトの子孫よ。坊や、彼らの魂は奴隷化され、いまでも人の手の中で生活しているの。死はそんな不名誉な生より何千倍も尊いわ。お前は勇敢なハトの子孫だから、永遠にその精神を忘れちゃいけないよ。」
 母さんの話は、長い間僕の魂を揺さぶり続けた。僕は勇敢なハトの子であることに限りない喜びを感じた。僕はとても誇らしく幸福な気持ちが心の底から湧きあがるのを感じた。僕の心には力と誇りがみなぎった。僕は心の中の愛情全部できつく母さんを抱きしめた。
 「行きなさい、坊や。私はお前を祖国とハトの群れに捧げました。ハトの群れにはリーダーが必要です。最近、人はいろいろな方法で私たちを捕まえています。お前は、もっと安全な場所を探しに行きなさい。さようなら、私の坊や。」
 僕の翼は母さんの涙でぬれた。僕の夢は出征の暗示だったということが分かった。だがそれは僕が人の罠にかかることは決して意味しない。僕ははるか遠くまで飛んだ。最初のうちは、川に沿って飛び、後からは人の住宅地に入った。これは僕の夢に現れた住宅地ではなかった。そして、夢の中のように恐ろしくもなかった。たとえそうでも、僕は注意深く、高いところを飛んだ。僕の翼は十分な力がある。僕の耳に聞こえるのは、人の話し声ではなく、風の音だった。飛んでいる間、目印からあまり遠くへは行けない。あまり遠くなりすぎると、僕たちの引っ越しがうまくいかなくなる。実のところ、僕は母さんの引っ越し計画にはあまり賛成できない。僕らの領地はとても高い崖にあるから、人どころか猛禽類さえも降りてこれない。僕たちはそこで何世代にもわたって楽しく暮らしてきた。なぜ引っ越さなきゃいけないんだろう。人類は僕らが思っているほど強くないかもしれない。いま人の領土の上を飛んでも、なんの危険も感じない。母さんは心配し過ぎじゃないだろうか?
 空はだんだん暗くなって、周りの物すべてが暗闇に消えて行った。丸一日飛び回って、僕は少し疲れた。僕は人のいるところに降りようと思っていなかった。夜間飛行は方向を見失いやすいので、休まないわけにはいかない。僕はもう西側、北側、南側を見て回ったが、まだ僕らの生活に向いた土地は見つからない。もしかしたら高く飛びすぎたのかもしれないから、明日東側を少し低く飛んでみようと思った。星が夜空に瞬いていた。この美しい世界で、こんなに恐ろしい生活を送るとは、なんと愚かしいことだろう。僕はゆっくりと降りてゆき、一本の木に止まった。明日はどんな風景の中で目覚めるのだろう?
 美しい声で、僕は甘い夢から覚めた。疲れのために、僕はとてもよく眠れた。一群のハトが僕の周りを飛んでいた。その翼の下から心地よい声が聞こえてきた。僕は驚いた。ここのハトは僕とそっくりだ。見ると、彼らは僕の夢に出てきたハトにも少し似ているが、よく見るとあまり似ていない。昨日は一日飛び続けて、何も食べていないので、すごくお腹がすいている。彼らに、このあたりに安全に食物を探せるところはないかと聞こうと思った。すると、彼らは突然方向を変えて、住宅地の外に飛び去っていった。僕も彼らの後を追った。
 「君たちどこへ行くの?」僕は遅れたハトに聞いた。
 「水車小屋に行くんだ。」
 「そこで何するの?」
 「餌を探すんだ」
 「君達が食べるものを探すの?」
 まるで怪物を見るような眼で睨まれた。
 「君は野生のハトなのかい?」
 「そうだよ、僕はイチゴの原から来たんだ。」

再び捕まる

 僕は彼らについて水車小屋に着いた。そこには本当にたくさんの小麦が麦藁に覆われて蓄えてあった。とても美味しい。僕はここは人は影さえも見えないから、なかなかいい場所だと思った。他のハト達の無警戒な様子を見て、僕も安心して大胆に食べ始めた。外の世界は、決して母さんが言うように危険ばかりじゃないな。僕は無警戒に目の前にあった大粒の麦に首を伸ばした。すると突然、すさまじい力で首をつかまれた。僕は矢のようにそれから逃れようとしたが、僕はつながれていて、わけのわからない力で引き戻された。僕は隠れようとしたが駄目だった。僕はのたうち回った。ハト達は「バタバタ」と一斉に飛び立った。ついに僕は力尽きて倒れた。これは僕が夢に見た光景とよく似ている。人の手に落ちてしまったのだろうかと思った。だが、この近くに人はいなかった。どれぐらい時間が経ったか分からないが、突然二人の人が現れた。ああ、人に捕まったのか、と僕はひとりごとを言った。彼らは僕の首の枷を緩めた。
 「野生のハトだ」若い方が言った。
 「気をつけろ、逃がすな。ハトの翼を縛れ。」彼らは一緒に僕の翼を縛って、僕の首を持って、僕の目を調べ始めた。
 「おお、いい品種だ。運がいいや。」年上の方が僕を手に取り、じろじろ見た。「このハトは俺たちには何の役にも立たないから放そう。みろ、こいつもう舌を噛み切っている。こういうハトはどうしようもないから、放すしかないんだ。普通はリーダーバトじゃなきゃこういうことはしない。」
 「一回ぐらい繁殖できないかな。」
 「こいつは餌を食べないし、水も飲まないだろう。死ぬまで反抗し続けるさ。」
 若い方が言った「みすみす逃がしちゃうわけにもいかないでしょ?」
 「勝手にしろ。だけどすぐに俺の話が本当だってわかるさ。俺も前にこういうハトを捕まえたことがある。初めはもったいなくて放さなかったが、一週間でそいつは死んでしまった。」
 「すぐに飼いならしてみせるよ。」若い方は自信たっぷりに言った。
 僕は絶対飼いならされないで、何とかして逃げてやると思った。母さんの話をちゃんと聞かなかったからこんな目に遭ったので、僕はとても恥ずかしかった。僕は彼の手の中からもがき出て、飛び立ったが、すぐに石のように「ポトン」と落ちてしまった。
 「畜生、羽を縛っておいたからよかったが、そうでなかったらどこかに行っちまうところだ。」
 彼は僕を袋の中に入れ、どこかに連れていった。彼は僕の翼をもっときつく縛って、鉄のかごの中に入れた。鉄かごにいた何羽かのハトは、一斉に片隅に身を寄せた。
 「お前はすごく腹が減っているみたいだな。そうでなきゃ俺の罠に引っ掛かるわけがない。」そう言うと、彼は鉄かごの中に餌を撒いて、水を入れた。ハト達は一斉に食べ始めた。この時僕の怒りは極点に達した。もしできるのなら、頭をぶつけてかごの中で死にたかった。だけど、翼がきつく縛られていたから、少しも動けなかった。僕は無理に頭を上げ、頭上の太陽を見た。ああ、家を出発して1日にもならないのに、人の手に落ちてしまった。ああ、もし母さんが見たらなんて思うだろう? 僕は力尽きて地面に横たわった。

奴隷のように生きるか勇敢に死ぬか?

 夢の中で紺碧の空の向こうから僕を呼んでいる母さんを見た。突然、父さんもその横に現れた。がっちりした父さんの体を僕は誇りに感じた。彼らは僕を呼んでいるようだった。少なくとも僕は彼らの呼び声を聞いたように感じた。僕は彼らの方に向かって飛んだ。飛べば飛ぶほど彼らは遠くなった。僕が飛ぶのをやめると彼らも止まった。飛び続けたので、僕は口がカラカラに乾いた。「母さん、水!」僕は叫んで目が覚めた。あの若い男が僕の目の前にいた。
 「このハトはなんて強情なんだ。もう5日も何も食べてない。」
 「だから、餌付けできないって言っただろう」不機嫌そうにあの時の年上の男が言った。
 「このままだったら死んでしまうから、子供のためにスープをとろう。」
 「どれだけ出汁が出るっていうんだ。いま食べたら病気になるかもしれないよ。放してやれよ。こんな風にゆっくり死なすのはかわいそう過ぎる。」
 「だけど、放したからって何もいいことはないじゃないか。」
 「このままだって、いいことはないさ。」
 「最初からスープにすればよかった。」そう言いながら、若い男は僕の束縛を解いて、かごの床に放した。紺碧の空に、強い日差しがさしていた。僕は全身の力を振り絞って飛び立とうとしたが、鉄の網に行く手を遮っていた。ここ数日、自分の体で鉄かごを破ることはできないと感じていた。それでも僕は体中の力を集めて鉄かごにぶつかっていった。網を破ろうと思ったが、鉄かごはとても丈夫にできていた。この技術は人類の最高の知恵の結晶だろう。中からは外の自由な広い世界を見られるが、自由を得ることは絶対に不可能だ。
 鉄かごの中の空気は外と同じだが、生活は全く違う。鉄かごを作った人は、腹黒い人たちなのだろう。僕がこの小さな体で、自由のために不屈に戦っていることは、少しも彼らの心を動かさない。彼らは、僕が何の役にも立たないことをはっきり分かっているのに、僕の魂を奴隷にしようとしている。彼らは徒手空拳の小さな命を虐待することによって、彼らの目的を達しようとしている。もっとも卑劣なのは、彼らが僕を死のうと思っても死ねない状態においていることだ。僕は心の底から絶望的に叫んだ「ああ、自由の虐殺者、冷酷な人類よ、僕を殺すか、さもなければ自由を返せ!」
 突然、僕はよく知っている匂いを嗅いだ。すると僕の体に元気が湧いて来た。「母さん…」僕は興奮して頭を上げた。母さんのまなざしは緊張していた。彼女は悲しそうに僕の抜かれた羽毛、割れて垂れ下がったくちばし、汚れてねじれた翼を見た。

究極の自由

 「母さん、ごめんなさい。僕は母さんの息子として全然ふさわしくなかった。僕は母さんの息子として失格だね。」僕はまるで犯罪者のようにうつむいて言った。僕は恥ずかしさと後悔で、母さんが来る前になぜ死ねなかったのかと思った。
 「いいえ、お前はできることはすべてやったわ。もう終わらせる時よ。」
 「でも母さん。僕は囚われの身になって、死のうと思っても死ねないほど力をなくしてしまった。」
 「それは分かるわ。私が来たのはお前を自由にするためよ。」
 「僕の今の状態は、母さんの息子としてふさわしくないから、今は自由は要らないよ。」
 「私はお前に自由を持って来たのよ。お前は私の勇敢な息子だから、奴隷のように生きるのではなく、勇敢に死ななくてはいけないわ」彼女はそういうとお腹の中から食べ物を取りだした。「これは毒イチゴよ。これを食べたら彼らの辱めから脱することができるわ。それはまた私たちの群れの名誉を守ることにもなるのよ。覚えておきなさい。自由は決して祈りによって得られるものではないの。自由のためには、必ず代償を払わなければならないのよ。くちばしを近づけて。」
 僕は最後に母さんのしっかりとしたまなざしを見た。彼女はこんなにも安心し、こんなにも勇敢だ。僕は割れて垂れ下がったくちばしを彼女に向けて伸ばした。くちばしは僕の一番強い武器だが、自由の敵、金網の犠牲になってしまった。僕のくちばしがこの冷酷な金網に激突したとき、こんな風に割れてしまった。僕の体に入る毒イチゴは、自由の代弁者だ。最後に僕は自由のために死ぬチャンスを得たことに慰めを感じた。僕の魂は、解脱の中で燃え始めた。空はこんなに晴れ渡り、周りはこんなに静かで、世界は依然としてこんなにも美しい。かご隅に集まったハトたちが、怪訝そうな目で僕を見ていた。〔完〕
                    2004年3月24日 マラルベシにて

転載自由・要出典明記
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ヤスン:野生のハト(Yawa Kepter、Wild Pigeon、野鴿子)(1)

2009-11-11 12:04:56 | 中国異論派選訳
以下の日本語訳はRFAに発表されたヌルムハメット・ヤスン(Nurmuhemmet Yasin)の『野生のハト(Yawa Kepter)』のドルクン・カンバル(Dolkun Kamberi)による漢語訳と英語訳からの重訳である。漢語訳と英語訳には若干の齟齬がある。
ウイグル語原文もインターネット上で公開されているので、いつかウイグル語からの直接翻訳も出てほしい。

追記:ウイグル語からの直接訳をこちらに掲載しました。

ウイグル人作家ヤスンと彼の『野生のハト』

原文出典:
 http://www.uyghuramerican.org/forum/showthread.php?t=4325 (ウイグル語)
 http://www.rfa.org/mandarin/other/2005/07/07/yasen/ (漢語:リンク切れ)
 http://www.uyghurpen.org/ye-ge-zi.pdf(同上漢語博訊転載)
 http://www.rfa.org/english/uyghur/wild_pigeon-20050627.html (英語上)
 http://www.rfa.org/english/uyghur/wild_pegion2-20050627.html (英語下)

訳者ドルクンの序文(2005年7月7日)

 ウイグル人青年作家のヌルムハメット・ヤスンの代表作『野生のハト』が隔月刊誌『カシュガル文学』の2004年第5号に発表されると、多くのウイグル人読者に愛読された。またウイグル語文学サイト「スムルク」の「ナウルズ文学賞」優秀作品賞に選ばれた。ヌルムハメット・ヤスンは1974年3月6日に生まれた。彼は1997年に結婚し、8歳と1歳半の2人の子供がいる。
 ヌルムハメット・ヤスンは高卒の学歴ではあるが、勉学熱心で、ここ数年多くのすぐれた作品と散文詩を発表している。作者は自伝の中で、次のように述べている。「これまでに『初恋』、『内心の悲泣』、『来なさい、子供たち』の3冊の詩集を発表した。40篇余りの作品が各種の先週に採録された。30篇余りの作品が各種の文学賞に入賞した。その内10数篇の作品は中学校と職業高校の教科書に掲載された」。
 『野生のハト』は作者の出世作であり、ウイグル語の原題は「Yawa Kepter」、その意味は「野生のハト」である。この散文体の寓話は、野生のハトと飼われているハトの対話形式で、風景とハトと人類との付き合いを描き、野生のハトが生きてゆく社会の現実を鋭く描写している。作者は文中で、現実生活はまるで一場の夢のようだが、また夢とも思えないと言っている。この寓話は二世代の野生のハトの似通った境遇を情感豊かに描写している。
 作者は野生のハトのふるさとを次のように美しく描いている。「僕の家の周囲は全て野の花と緑の草に覆われ、道は全くなく、足跡もない。ここは見渡す限り果てしない草原だ。僕たちの家は川岸の崖にある。ここでは数千羽のハトが巣を作って子孫を育てている。崖の下に流れる清らかな川の水は、僕たちに優しい子守唄を奏でてくれる。僕にとってここは世界で最も美しく、また最も安全な領土だ。もし人類がいなければ、僕たちは永遠にこの幸せな場所で生活できるだろう。ああ、人類というのは全く……」。
 この作品が発表されて間もなく、中国政府はこの作品に対して政治審査を行い、その内容に怒った。掲載誌を回収し、作者を2004年11月29日に拘束し、2005年2月に、マラルベシ県の裁判所で裁判を行ったが、当局は彼が弁護士をつけることを許さず、また彼の家族が傍聴することも許さなかった。
 ハトは全世界の文化の中でいずれも平和、純潔、友好の象徴である。しかし、中国当局は作品の中の「野生のハト」と「分離主義者」を結び付け、作者に懲役10年の刑を科した。
 作者は納得せず、カシュガル地区中級裁判所に上訴した。この中級裁判所が彼を懲役7年に減刑しようと考慮していたとき、中国共産党カシュガル地区委員会書記が原判決を維持するよう圧力をかけた。政府はヤスンのパソコンを没収した。その中には1600篇の詩、評論、物語と未完の長編小説が保存されていたと言われている。中国政府は2005年5月、ヤスンをウルムチ市第一監獄に移送した。ヤスンが入獄してから、彼の家族は一度も接見を許されていない。海外に亡命しているウイグル人知識人によると、中国政府のこの行動は作者と全世界一千万人のウイグル人読者の人権と自由を踏みにじるものである。
 21世紀に、このような科学技術が発達し、言論の自由な情報化時代における、この寓話の境遇は作者が『野生のハト』の中で書いた次の言葉をより一層意味深く、痛烈なものにしている。「ああ、自由の虐殺者、冷酷な人類よ、僕を殺すか、さもなければ自由を返せ!」
 私はこの作品を読みながら、このすぐれた散文体の寓話をより多くの人に紹介したいと思い立ち、作品を英語と漢語に訳した。できるだけ多くの英語と漢語の読者にこの作品を味わっていただきたいと願ってやまない。






野生のハト
作者 ヌルムハメット・ヤスン


 僕はまるで紺碧の空を飛んでいるようだ。これは夢だろうか、それとも覚めているのだろうか、僕自身もよくわからない。爽やかな風が僕の翼を吹き抜けてゆく。僕の心は高揚して、僕の全身には無限の力がみなぎっている。うららかな朝日が無限の彼方まで世界中を照らしている。ああ、何と美しい景色だろう! 僕の心はさらに高揚し、空高く飛翔した。僕の目の前からイチゴの原が消え、世界が突然広くなって、まるで鮮やかな紺碧の絨毯が僕の眼下に広がっているようだ。僕がこれまで見たこともない美しい景色だし、見たこともない場所だ。しかし、僕はこの地を故郷のようにいとおしく感じる。僕の翼の下の土地はとても美しい。
 突然、僕の目の前にたくさんの住宅が見えてきた、眼下に多くの小さなものがうごめいている。それは僕の母がいつも僕に避けるようにと話していた人類に違いない。だが、見たところ彼らは危険そうには見えない。母は年取ったのかもしれない。僕には、あの地面を這っている哀れな生き物が青空を飛ぶ僕たちより強いなんて信じられない。それを理解するには、僕の考えが足りないのかもしれないが、どちらにしろ人類はそれほど恐れるに足りないだろう。「人類はとてもずるくて腹黒いから、ちょっと油断するとお前を捕まえてしまうよ」と母は以前僕に話していた。ふと、僕は人類の陰謀というものを見てみたくなった。なぜ彼らは陰謀を抱くのだろうか? 僕には少しもわからない。

僕は少しずつ下がって、住宅地の上空を旋回した。ここからはすべての物がはっきりと見える。ここには人の他に、ウシ、ヒツジ、ニワトリ、さらに他にも僕が見たことのないものもいた。一群のハトが空を飛んでいた。他にも止まり木に止まっているハトもいた。僕はゆっくりと彼らの近くに降りて行った。僕が降りたのは、彼らと話をするためだろうか、それとも休むためだろうか、僕自身もよく覚えていない。その時の感覚はとても曖昧だった。どちらにしても僕は彼らの生活にとても興味があった。
 「お前はどこから来たんだ?」中の一羽の年取ったハトが言った。僕は彼がこの群れのリーダーかどうかは分からない。ただ、僕はこの群れのメンバーではないから、僕にとって彼の地位は僕にとって重要ではない。
 「イチゴの原から来ました」と僕は答えた。
 すると、「わしは祖父から、わしらの祖先もそこから来たと聞いたことがある。だが、数日の距離でさえわしらは飛べないのに、聞いたところではここから何カ月もかかる程遠いと聞いたことがある。お前は道に迷ったんじゃないかね」と年老いたハトは言った。
 数日の距離さえ彼らは飛べないという言葉を聞いて、僕はとても驚いて、彼が年取っているからだろうと思った。彼の言う「イチゴの原」と僕が来た「イチゴの原」が同じところなのか、僕にはよくわからない。もし彼の祖父が僕と同じ「イチゴの原」から来たのなら、僕たちはもしかしたら親戚だろう。
 「僕は道に迷ってここの来たんじゃなく、飛ぶ練習をしていてここに来たんです。僕は何日も続けて、何も食べずに飛び続けることができます」と僕は答えた。彼はとても驚いた様子で僕を見た。
 「お前はたぶん野生のハトだ。わしらにはお前たちのような勇敢さはないとみんな言っている。わしらは止まり木とハト小屋の他には何も望まない。そして、わしはこの住宅地を離れたこともない。ここを離れて何が得られるんだい? 休むには止まり木があるし、寝るにはハト小屋がある。全てが最初からそろっているのに、苦労する必要なんかないだろう? それに子供達も連れて飛ぶとなったら、飛んだとしても距離はたかが知れてるじゃないか? それにわしの主人はわしに良くしてくれている」と言って年老いたハトはくちばしで羽をつついた。
 「人類はとても恐ろしいと聞いています。人類が僕たちを捕まえると、僕たちの魂を奴隷にすると聞いたけど、それは本当なんですか?」
 「魂?」僕の横の若いハトが驚いて言った「お爺ちゃん魂って何?」
 僕は彼が「魂」さえ知らないことにとても驚いた。このハトはどう子供たちを教育しているんだろう? 魂のない命に何の意味があろう? 魂がなければ、どこまでも堕落するだろに、なぜ彼らにはそれが分からないんだ? 魂の自由は贈り物にはできないし、祈って手に入るものではないが、まるで彼らはこれまで「魂」という言葉を聞いたことがないようだ。

魂とは何か?

 年老いたハトは子バトの頭をなでながら話し始めた。「魂が何かわしも知らない。わしもわしの祖父から聞いただけだ。今日聞いたのは二度目だ。わしの祖父も彼の曽祖父から聞いたんじゃ。祖父の曾祖父もその祖父から聞いたのかもしれない。わしの祖父は『わしらが魂を失ってからずいぶんになる』といつも言っていた。彼がそう言ったのは、わしらが魂を失ってからずいぶん長くたったから、魂の影までなくしたという意味だったんじゃろう。」
 年老いたハトは私に振り向いて言った「坊や、『魂』というのはどういうものか知っているかい?」
 僕は途方に暮れた。自分が出した質問に答えられない。
 「分かりません。今は答えられませんが、母さんが『お前はお前の父さんが持っている勇敢な精神を引き継いでいる。その精神は日々成熟し続け、成熟したら魂とは何かが分かるようになるよ』と言っていました」。
 「ああ、つまり君のお父さんの精神が君にも表れるんだね。だが、父さんの代に限らず、ハトの群れ全体の魂がとっくに失われている。わしの母もこれまで全く魂について話してくれたことはない。わしらは父親世代からも何の話も聞いていない。今ではわしもこの話を子供たちにするのを忘れた。だから、わしらはたぶんとうの昔から魂のない時代を生きているのかもしれない。ああ、もしわしらがなくした魂を見つけられたらどんなにいいだろう」。年老いたハトは愉快な夢想に浸ってほほ笑んだ。
 私は同情の気持ちで年老いたハトに言った。「あなた方は魂がないから世代から世代へと人の奴隷になるんです。彼らはいつでもあなた方を彼らの食物にする。彼らはあなた方をこき使ったあと、たとえ放したとしてもあなた方はどこにも飛んでいくことができない。人類の領土の上を飛び回るだけだ。あなた方は僅かの餌を失いたくないばかりに、子孫たちまでも人の奴隷に差し出す。あなた方は僕たちと同じように、リーダーが必要です。でも、まず必要なのは、魂とは何かを理解することです。僕と一緒にお母さんに聞きに行きましょう!」私がこう言ったのは、年老いたハトに悟らせるためだろうか? それとも自分の知識を増やしたいからか? 私はよくわからなかったが、二つの気持ちが同時にあったのかもしれない。

 「わしはもう片足を墓に踏み込んでいるし、安全なハト小屋もあるのに、何で『魂』を探しに行かなくちゃならないんだい? それに、わしは魂が何か知らないし、それを見つけて何の役に立つのかも知らない。見たまえ、魂がなくても何も起こらないじゃないか。このハト小屋の中で、平和に生活できる。それに何の価値もない魂を重んじるというのはとても大変なことだよ」。
 僕は年老いたハトの話しに考え込んだ。彼が言うのは、初めはもっともなように思えたが、よく考えてみると間違っている。だが、何の信念も魂もないハトに、魂についておしゃべりをした自分を僕は恥ずかしいと思った。この問題はやっぱり母さんに聞かなきゃならない。


 何羽かのハトが私の脇に止まった。それからお互いにクークーと話し始めた。彼らの話す言葉は、僕にはさっぱり分からない。たぶん彼らのお国言葉で話しているのだろう。僕たちのところにも、たまにこういうよそ者のハトが飛んでくる。彼らは何者だ? この年老いたハトの友達か、それとも親戚か、私にはわからない。彼らは僕と話をしたいんだろうか、それともお互いに雑談をしているのか、それも私にはわからない。
 「元気かい! 坊や」年老いたハトはくちばしで子バトの羽毛をつついて聞いた。
 「元気じゃない。お腹がすいた。母さんはなぜ今は僕に食べさせてくれないんだろう?」。彼は餌の名を口にしたが、それがトウモロコシのことなのか、アワのことなのか、アサの実のことなのか、私の知らない呼び方だった。ああ、人に養われているハトは変だ。彼らが食べ物について言ういろいろな名詞を僕は全然知らない。
 「お前の母さんはお前の弟を生むために、栄養を貯めなきゃならないんだ。ご主人が餌を撒きに来るのを待ちなさい」。
 「僕は待てないよ。自分で野原に行って食べ物を探す」。
 「いい子だから言うことを聞きなさい。野原に行ったら危ないよ。悪い人がお前を捕まえて食べちゃうよ。行っちゃいけない、いいね?」。

ハト小屋に満足しているハト

 子バトはくちばしを尖らせて静かになった。どうやらこの群れのハト達はこの年老いたハトの言うことをよく聞くようだ。このハトたちが、彼らを捕まえて食べてしまう人類と一緒に生活していることが、ぼくにはぜんぜん分からない。もしかしたら「食べる」という言葉を僕が誤解しているのかもしれない。この言葉は「よく面倒をみる」に似た意味なのかもしれない。もしこれが外来語なら、僕が語義を曲解しているんだろう。だけど、この言葉はみんなが知っていなければならない大事な言葉だ。母さんはいつも僕に「人に食べられないよう気をつけなさい」と言っている。だけど、この言葉はここでは意味が違うようだ。もし彼らが人に食べられるのが嫌なら、絶対人類と一緒には住まないはずだ。翼を使って、望みの場所に行くだろう。あるいは翼があることさえ忘れているのかもしれない。あるいは住み慣れたハト小屋を離れたくないのかもしれない。
 「じゃあ僕らのご主人はいい人?」子バトが年老いたハトに聞いた。
 「もちろんいい人さ」。
 「だけど、彼らも他の人と同じく、僕らを捕まえて食べるよ」。
 「それは違うよ。彼らはわしらをハト小屋で養っているんだから、わしらを食べるのは当然のことじゃ。それには誰も反対できない」。
 やっとわかった! 「食べる」の意味は僕たちの使い方と同じだ。さっきの推測は余計だった。
 「だけどご主人が撒く餌はみんな大きなハトに食べられちゃうよ。僕は何を食べればいいの? こんなんじゃ僕はどんどんやせて死んじゃうよ。
 「お前もゆっくり大きくなる。大きなハトの周りにある餌をかすめ取る方法を学びなさい。決して食べ物を他のハトに譲っちゃいけないよ。わしらの生存環境はそういうもんじゃ。」
 「でもお爺ちゃん?」
 「もう充分じゃ、それ以上言うな。わしらは現状に満足しなくちゃいけない。過分の要求をしちゃいけないよ。」
 「あなたは彼の自由を制限し過ぎです」僕は彼らの話に割り込んだ。「彼にもっと大きな空間と自由な生活を与えるべきです。」
 僕は年寄りのハトの話の腰を折りたくはなかったが、黙っていられなかった。こんな不平等な環境はハトの友情を滅ぼしてしまうだろうと僕は思った。
 「ああ、お前はわしらの境遇を分かっていない。ご主人を怒らせちゃいけないんだ。一羽でも彼らの決めた範囲を飛び出していなくなったら、彼らはわしら全員をハト小屋に入れて、何カ月もハト小屋から出さないだろう。そうなったら、この小さな止まり木まで失ってしまうんだよ」。
 僕は「ハト小屋」とは一体どんなものかに全く無知だった。ヒントも手掛かりもない。ハト達はハト小屋に閉じ込められることを非常に恐れ、同時にそれを失うことも恐れている。一番理解できないのはどうしてこのハトたちが人の中で生活することに耐えられるのかということだ。僕はこの疑問を僕のお爺さんに話しただろうか? 話したか、話さなかったか、今ではよく覚えていない。お爺さんがはっきりと答えてくれたという覚えもない。
 その代わりに、僕は年老いたハトに言った「あなたはまるで人間みたいだ。弱くて小さいハトから餌を奪い、彼らの反抗を抑え込む。そして自分の悪い行いを弁解しようとする。こんな環境が次の世代に健やかな成長を提供できるでしょうか? あなた方は人間と同じように無知と愚昧、卑怯な恥知らずに堕落しています。」
 「人間を侮辱するな」彼はいきり立って言った。「彼らがいなければ、わしらの今日もない。そういう反人類プロパガンダはよそでやってくれ」。僕は傷つけるつもりはなく、助けようと思って言ったのに、彼は何で怒るんだろう? もっと詳しく言わないと分からないのかもしれない。
 「あなたは責任感がない。自分の子孫を燃え盛る炎に追い込もうとしている。」僕が話を続けて、もっと生き生きと描写しようと思っていたら、突然鋭い音がして、足にひどい痛みが走った。僕は飛び立とうとしたが、翼は宙を打つばかりだった。他のハト達はバタバタと飛び立って僕の周りを旋回した。
 「ハハハ…、自由人さん、君もついに罠にかかったね。それでもまだ大口をたたき続けられるかね。」
 年老いたハトが僕に話しかけたのは、彼の主人が僕を捕まえやすいように僕を騙すためだったということを僕は突然理解した。僕は悲嘆にくれた。危険は人類からではなく、小さな利益でだまされた同類によってもたらされたのだ。彼らが人類に協力して僕を捕まえたことは、僕には理解できなかったし、非常に心が痛んだ。突然僕の心に、人の手に落ちてはならないという思いがもたげた。両足を切断できれば、また自由になれる。僕は全力でいろいろな方向に飛ぼうとした。
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任彦芳:私の見た艾未未(アイ・ウェイウェイ)(2)

2009-11-03 23:11:39 | 中国異論派選訳
王さんは話題を未未のドイツでの個展に向けた。

私:ミュンヘンで個展を開いたそうだね?

艾未未:「非常に遺憾」(So sorry) という名前の個展で、ドイツのマスコミがたくさん報道し、記事は数百本にもなった。全ページや半ページを使ったり、大きく写真を載せたり、長文の紹介をしたりしていた。フランクフルト・ブックフェアのブルーソファー講座に招かれたが、行かなかった。体調が良くなかったし、ドイツの新聞の宣伝が多くて、メディアにたくさん話したので、もう充分だった。行ったとしても言論出版の自由だしね。主催者は会議の席で俺が参加できなくて残念だと言っていた。その時は習近平も参加していた。だけど、ノーベル文学賞を受賞したばかりのルーマニア生まれで今はドイツ人の女性作家ヘルタ・ミュラーが俺との対談を申し込んできていた。彼女の作品は収容所を描いたもので、彼女は「私が生きているのは収容所で死んだ人のためです」と言っている。彼女は全体主義政治に非常に大きな怒りを表明している。彼女は全体主義に対する警戒を緩めてはならないと言っている。彼女は談話の中で俺にふれている。ネットで見れるよ。彼女が受賞する前、俺と対談しようと考えていたが、俺も彼女が受賞するなんて知らなかった。来年の3月には対談するだろう。

今月〔10月〕の18日の林希翎〔中共の1957年の反右派闘争で最後まで右派のレッテルを貼られ続けた6人の内で最後まで存命していた人。他の5人は章伯鈞、羅隆基、儲安平、陳仁炳、彭文応〕の追悼会のことに話が及んだ。

艾未未:彼らが俺に文章を書いてくれと言ってきたけど書かなかった。頭の調子も良くないし、帰ってきたばかりだから参加しなかった。百人以上が集まったが、会場の水道と電気を止められたと聞いた。これは当局が脆弱だと言うことだ。びくびくしてる。公明正大じゃない。全ての資源を独占しているくせに、何が怖いんだ、集まらせたらいいじゃないか。一人の人をしのぶ会さえ開かせないなんて、みんな70代80代の老人じゃないか。哀悼の意を示すことがなぜ怖いんだ?

私は、五柳村サイトに発表した追悼会の案内が、間もなくブロックされ、案内さえ伝えられなかったことを伝えた。

王さん:彼らのこのような下賤なやり方は目新しくないよ。三年前になるか、包遵信の追悼会の時も水と電気を止められた。君のお母さんがDVDを呉れたんで、君たちが撮ったドキュメンタリーを見たが、このように現場を記録したものは今までなかった。これを前にしたらもう誤魔化しはきかない。

艾未未:全く交渉の余地はない。これはぶつかりあいだ。香港じゃ今回のことを強気の人権行動と言っている。〔公安局の〕20階建ての建物に誰もいなくなった。上は取り締まれと言うし、どう取り締まっていいかわからなかったんだろう。

王さん:地震の子供たちの調査から、君を注目しているよ。

艾未未:現場に調査に行った人は、主に職員とボランティアだが、彼らはもう30回以上も警察に拘束されている。

王さん:国外で報道されて、帰国してから圧力はあるかい。

艾未未:ない。圧力を感じたことはない。なぜなら国外と国内は別のラインだし、官と民も別のラインだから。俺の国外での活動は大使館が外交部に報告し、外交部が国務院に報告する。私が大きく報道されたから、大問題だ。影響が大きい。国際的にはっきり分かってしまう。だが、やつらに正当性はないから俺に話しに来れない。国外から戻ってから家の入り口に監視カメラを二つ付けただけだ。俺たちの行動はみんな記録されている。

王さん:君の仕事には影響ないかい?

艾未未:俺の仕事はみんな国外だから、国内の影響は及ばない。俺の仕事は非常に順調だ。

王さんが鳥の巣について聞いた。

艾未未:あれは俺のコンセプトだ。つまりどんな形にするかということを俺が言って、彼らがそれを発展させた。俺のコンセプトがなければあの鳥の巣はなかった。だがそれは言わない。最初に北京オリンピック関係の仕事には関わらないと宣言したのは俺だ。俺は初めのうちは、これは全民族の楽しいお祭りだと思っていたが、政治的プロパガンダに変ってしまって、全くつまらなくなった。こういうやり方はすごく嫌いだ。今だに鳥の巣は見に行っていない。

彼の同窓生の張芸謀が大人気で、世間では張が御用芸術家になったという説が流れているという話になった。今回の国慶節の夜の番組は、胡錦涛が降りてきて民衆とダンスをしたのも含めて張芸謀の構想なのだろうか?

艾未未:(笑って)そんな構想あったのかな? 俺と張は同窓、同学年だから彼のことはよく知っている。分かり切ったことだ。やつらがどのようにねじ曲げようと、それは正常なことで、理解できる。やつらはすべてを持っている。全ての資源、法律までもやつらの手の中にある。だが、他の人にも空間を与えなければならない。人に話をさせないわけにはいかない。

私たちは未未を心配した。高瑛はなおさらのことだ。

高瑛:息子や、母さんに心配かけないでおくれ。

艾未未:(笑って)母さん、それはわがままというもんだよ。俺は母さんの息子だが、人民の息子でもあるんだ。

彼は振り向いて私たちに言った。

艾未未:俺はやつらは怖くない。何が怖いんだ? 公正と平等のために、どれだけ多くの革命の殉難者が首をはねられ血を流したことだろう。親父は国民党の監獄に入ったこともあり、流刑にされたこともある。それに今回は数千人の子供が死んだんだ。彼らに罪はないのに、誰が彼らのために発言する? 俺個人が何だ? 何を怖がることがある? やつらが一番怖いのは人が怖がらないことだ!

私たちは、君の勇気は非常に貴重だと言った。

艾未未:俺は勇気だけは十分ある! 俺は1993年に帰国するときに決めたんだ。12年間国外にいたが、米国のパスポートは取らなかった。自分の国に戻ると決めたんだ。

高瑛:うちの息子は何て愛国的なんでしょう! 本来ならいい暮らしができるのに。この国を愛しているからこその行動なのに、何でこんなに誤解されるんでしょう!

艾未未:母さん、違うよ。これは誤解じゃなくて正解だ! やつらははっきり分かっているんだ。誤解だなんて言っていたらやつらを正義の側とみなすことになるよ。お互い、根本原因は利益問題だということははっきり分かっている。ここ30年来、やつらは国の大部分の富を奪い取って、特権集団になった。お互い誤解がないことはよくわかってる。利益がなければ奴らもこうはならない。本来、共産党なら公明正大で、何も恐れるものはないはずだ。だが奴らは話し合いに応じない。誰とも正面から対話する勇気のない下司になり下がったんだ! この国は十数億人の国なのに、国民生活がこのままでいいわけがない。

艾未未:俺たちはこのドキュメンタリーの完成版を作って、二万枚をただで配るんだ。そうしたら、殴られ甲斐があるってもんさ。譚作人事件については60回も審理しているのに、まだ判決が出ない。どんな判決を出すんだろう? 彼は犠牲になった子供たちの名簿を作っていただけなのに、それがなんで国家政権転覆になるんだろう? この政権は真相に反対なのか? 俺はこの問題を徹底的にやる。どんな邪魔が入ってもやめない。5月12日にこんなに大勢の人が死んだのに、曖昧にしておけない。毒ミルク事件では三十万人の赤ん坊が被害を受けたのに、社長一人を有罪にしただけで、政府は責任を取ろうとしない。事実を直視することもできない。

王さん:政治家ってやつは、どんな悪事でもやりかねないから、よく注意しなさい。

艾未未:毛沢東は、闘争には犠牲が伴うと言った。俺は犠牲を恐れない。

私は高瑛に、「あなたの息子と話して大いに励まされました。彼は私心がなく勇敢で、希望が持てます。こういう人が少ないのが残念です。」と言った。

艾未未:もしみんなが本当のことを話したら、やつらは終わりだ。役に立たないと思っちゃいけない。

高瑛:息子も嫁もこうなんです。とても善良。嫁の両親はどちらも瀋陽魯迅美術学院の教授です。

私は艾未未に私が民衆の権利擁護のために行ってきた経験を話した。

艾未未:いまはあなたのころよりもっとひどくなって、もっと権利擁護が難しくなっている。多すぎて書ききれない。あなたの本も今は出せなくなっている。

艾未未:いまはどこでも陳情ができなくなっている。陳情者は捕まって送り返される。一票で否決〔他の査定項目が良くても苦情の陳情が出た幹部は再任が禁止〕されるから、もし自分の任地で陳情があったら、その幹部は再任拒否されてしまう。だからやつらは必死になって陳情者を捕まえている。楊佳事件〔上海の警察から受けた暴行を恨みに思った楊佳が2008年7月1日警察署を襲撃して複数の警官を殺害した事件〕で俺の仲間4人が高級人民裁判所に陳情の手紙を送ったら捕まってしまって、戸籍地に強制送還された。一人は新疆の人で、彼は強制送還されたって北京に俺がいるから戻ってくると言っていた。各省は強制送還のために交通費を支出しているが、ばかげた話さ。長くは続かない。一人ひとりがみんな声を上げ始めたらやつらは終わりなのに、本当のことが話せない。まだこんなことをやってるなんて、一体いつの時代の話だ!

王さん:社会の君に対する注目は、君が有名な芸術家だからだ。君の名声はとても重要だ。君はいくつかの分野で影響力を持っているから、万人に注目される。それに君は大詩人艾青の息子だ。

艾未未:譚作人事件の弁護士は浦志強だ。3人の証人を申請したが、一人も出廷を認められなかった。去年北京では40人以上の弁護士の免許が取り消された。民衆のための弁護士を続けるのはとても難しいことだ。浦さんはいい弁護士だ。公盟〔北京の法律支援NGO〕も罰金処分を受けた。奴らがこういうことをするのは不思議じゃない、しない方が不思議だ。

私は共産党中央党学校の元校長高揚の談話について話した。高揚は、中国最大の問題は民主がなく、民主がひっくり返って主民になってしまっていることだと言った。このままなら、ソ連のように74年続くかどうかも疑わしい。

ドイツでの治療について、母親が聞いた:ずいぶんお金がかかったでしょ?

艾未未:ドイツのある議員が俺の病気を知って、俺の手術をした医者に電話をかけてくれた。この医者はドイツで一番腕のいい医者で、彼は俺に「手術は私がプレゼントするよ」と言ってくれた。俺はこの金を払えたが、そう言ってくれたんだから受け入れた。外国では病院は道義的なのに、中国ではそうじゃない。先に金を払わないと治療しないなんてとんでもない。先に治療するのが当然だ。中国の庶民は医者にかかれない。死にそうでも先に金を払わないと手術してもらえない。

私はどんな法的手段を取るのかと聞いた。

艾未未:俺はもう成都公安局に苦情を申し立てた。やつらは事案が複雑だから何日か待ってくれと言った。あと14日間やつらの回答を待つ。

私は、君たち父子は一冊の本だと言った。

艾未未:俺たち父子には反骨があるんだろう。けど俺の爺さんは江南の小地主で開明派の郷紳だった。すごく大人しい人だった。母さんはすごく善良だよ。子供のころ、青海省で、物乞いの子供に出会った時、母さんは俺の綿入れをその子にやろうとした。その時俺はすごく嫌だったよ。俺の綿入れをなぜその子にやらなきゃいけないんだって、それでも母さんは俺に脱げと言ったんだ。

艾未未は彼の母親からこの善良さ、人道、思いやりを引き継いだ。

王さんが高瑛に言った:あんたは艾青に嫁ぎ、こういう息子を持つなんて、誇らしいですね。息子が両親の精神を引き継いでいる。

開放〔1978年以降の時代〕初期に艾未未たちがやった星星絵画展の事に話が及んだ。彼と一緒に絵画展をやった王林〔共産党の作家。共産党の抗日戦争を描いた『腹地』で批判され、長く復権できなかった。〕の息子のことを私が話すと、艾未未は嬉しそうに「それは王克平だよ、俺の友達だ」と言った。私は未未に、11月4日に文学館で生誕百周年王林文集シンポジウムが開かれると告げた。未未はすぐにフランスにいる克平に電話して言った「11月4日はお前の親父の生誕百周年だけど帰国して参加するかい? お前が行かないで、俺だけ行くわけにいかないだろう。ここにお前の親父の友達がいるから、ちょっと話してみろよ」。

そこで、私は未未の携帯電話を受け取って、遠くフランスにいる克平と話した。克平が私を叔父さんと呼んだので、私は訂正して言った「君のお父さんは私の父より2つ上で、私は君のお父さんを伯父さんと呼んでいた。私は君のお父さんと1946年に知り合った。私が君の家に行った時私はまだ小さかった。私は君の兄と言った方がいいだろう。いつか君が北京に来た時会いましょう」。

私が携帯を未未に戻すと、彼は続けて話した「もうちょっとで会えなくなるところだったよ。頭に二つ穴をあけたんだ」。

電話を切ってから、艾未未は私から王林の経歴と彼の著作の悲劇について聞いた。

王さんはこの建物について聞いた。

艾未未:ここに来てから十数年になる。30年間の土地賃貸借契約を結んでいる。ここは強制収用されるらしい。このあたりの多くの画家の家が俺が設計したものだ。だが、最近問答無用で強制収用しようとしている。何日か前に測量しに来て、収用すると言っていた。ここにいくつも劇場を造り、ブロードウエーにするという話だ。ここを文化エリアにするのは難しいのに、収用は問答無用だ。政府は強制収用と土地使用権売却でたんまり稼ぐつもりだろう。農村の土地の強制収用は全国で大問題になっている。外国じゃあ勝手に強制収用なんかできない。それに勝手に人の家に立ち入ることはできない。もしかしたら俺たちは天安門の前に抗議に行くかもしれない。

王さん:こんなことは外国だったら裁判沙汰だ。いくらみすぼらしい家でも、国王も勝手に立ち入れない。風や雨は入って行けるが、国王は勝手に入れないということわざがある。たとえ収用に正当性があっても、時間の余裕を与えるべきだ。土地問題は大問題だ。

高瑛:これは国の土地、全ては国の物と言うけれど、実際は共産党の物ですよ。国のことを身内で処理している。一部の人だけで処理して、少しも民主的じゃない。

艾未未:今回ドイツのフランクフルト・ブックフェアの席で、作家協会の鉄凝は「中国の執筆環境は一番自由で、作家は誰一人として著述によって捕まっていない」と発言した。彼女がこう話すと、満場のブーイングが起こった。これが不道徳な発言でなくてなんだろう?

地震の時の余秋雨の発言に話が及んだ。彼の涙ぐみながらの勧告は、彼自身の名誉を失墜させた。艾未未は腹立たしげにもう一つの名を口にした、それは山東省の王兆山という作家〔山東省作家協会副主席〕で、子供の死をなんと天国に行ったと書いた〔むしろ祝福したと言うべき〕! ある四川北部の母親が艾未未に送った手紙には、「私のただ一つの希望はできるだけ多くの人に私の娘がかつてこの世の中で楽しく7年間を過ごしたこと、彼女の名前、犠牲になった人たちの名前を知ってくれることです」と書かれていた。

艾未未:俺たちは一軒ずつ訪ねて調査したんだ。

艾未未:政府の全ての情報は公開されるべきだ。いまでも市民の啓もうをしなくてはならない。それには多くの準備が必要だ。目的は地球上の6分の1の人たちがどんな状態で生きているのかを、より多くの人に知ってもらうことだ。俺ははっきり言うが、この全体主義は終わらせなければならない。60年前の共産党の国民に対する約束を見てくれ、誰が当時の約束を破ったんだ? 当時一党独裁を批判し、民主と自由を実現すると公約し、軍隊を一部の勢力の武装ではなく、国家化すると公約した。その自分たちが書いた文章を、奴らは今読む勇気があるだろうか? 俺も読んだが、いい話が書いてあった。ニューヨークタイムズの記者が俺を取材したとき、俺は誰が約束を破ったのかと言った。単純かもしれないが、単純も力だ。実際真実は皆単純なんだから。

以下省略

原文出典: http://21ccom.net/newsinfo.asp?id=3438&cid=10352200

転載自由・要出典明記
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任彦芳:私の見た艾未未(アイ・ウェイウェイ)(1)

2009-11-03 23:09:55 | 中国異論派選訳
任彦芳:私が見た艾未未

なぜ私の目はいつも涙をたたえているのだろう
それは私がこの土地を深く愛しているから

――艾青

私が艾未未を知ったのは、インターネットを通じてだった。彼は北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計チームの中国側アドバイザーで、鳥の巣は彼のコンセプトだ。艾未未がいなければ今の世界中の注目を集める鳥の巣はなかった。そのことを私は彼の牛博のブログで知った。私はそこに彼の国のため民のための純潔な心を見た。しかしその後彼のブログは閉鎖され、彼の書いたものは見ることができなくなった。

私の艾未未に対する理解は、彼の母親の高瑛を通じてのものだ。私が何回か高瑛の家に行ったときは、いずれも硬筆書道の名家の龐中華が車で連れて行ってくれ、そのたびに高瑛から彼の息子未未についての話を聞いた。母親は息子の話になると、自慢ばなしもしたが、心配してもいた。彼女は言った「私はいつも未未に気を付けるように言っているんだけど、私の話は聞かないからどうしようもないの。未未に、教訓を忘れずに、当局が聞きたがらない話しはなるべくしないように、面倒を起こさないようにと言っているんだけど、あの子は、『俺の体に母さんと父さんの遺伝子がないと思うかい?』と云うのよ。

こうして、高瑛は未未について話し始めた。彼は1957年6月に生まれた。その頃、艾青は右派として迫害されていた。子供の出生届を出さなければならないが、名前を付けていなかった。艾青にはとても子供の名前を考えられるような余裕はかったので、高瑛に「『辞海』を持ってきてくれ」と言った。彼は『辞海』を開いて、目を閉じて、指を適当に置いた。目を開くと指は「威」の字を指していた。権威、威力、威信、威勢。艾青は威勢なんてよくない、この字はよくないと言って、同じ音で違うアクセントの字を探した。そして、「未、未、子供に未来を信じさせるために、未未と名付けよう」と言った。

高瑛は息子とともに経験した苦難を語った。正にこの苦難の大学が、彼を民衆を忘れず、いつも被害者の立場に身を置き、彼らのために発言する人に育て上げた。

高瑛の応接間の一角には、私が一番好きな詩人艾青の銅像がある。その日、私たちが記念撮影したとき、私は艾さんの近くで撮ろうと言った。まるで彼がまだ生きているようで、私は彼の生命の息吹を感じた。部屋には高瑛と彼女の子供たちの引き伸ばした写真も飾ってあった。母親の横に立っている大きなひげを蓄えている男が未未で、私は彼の性格をそこからはまだ想像できなかった。しかし、彼の体に詩人艾青の生命を見た。この写真の横には、胡錦涛と高瑛が話している写真があった。それは1996年5月5日、艾青が亡くなった次の日のものだ。彼女は想像もしていなかったし、事前の通知もなく、胡錦涛は作家協会党員グループ書記と中共中央宣伝部部長を引き連れて私たちがいま話しているこの応接間に来た。胡錦涛は艾青が亡くなったことを哀悼し、家族に体に気をつけるようねぎらった。

艾青の死からまたたく間に13年が過ぎた。しかし、今日の高瑛は平和で静かな日々を失ってしまった。彼女は心配で、しばしば不眠になり、体に気を配る余裕がない。

彼女は私に言った。「ある日突然庭がいっぱいになるほど大勢の警官が来て、艾未未を捜索すると言ったの。みんなまるで私を敵を見るように睨みつけていたわ。私は、もし未未を探しているのなら、ここには住んでいないから彼の家に行きなさいと言ったわ。警察は彼の戸籍はここだろうと聞いたから、「戸籍はここだけれど、自分の仕事があるからここには住んでいないです。彼にどんな用事があるのか私に話してもらえますか?」と聞いたら、彼らは、絶対未未に会わなければならないと言っていた。私は警察に協力しましたよ。私が住所を教えるから会いに行くか、そうでなければ私が彼に電話して彼の方からあなた方に連絡するよう伝えると言いました。

私の息子に何があったんでしょう? 警官の態度からすると、何か大問題が起きたのは確かだから、心配でたまらなかったわ。

私が息子に電話したら、息子は母さん心配しなくていいよ、人に後ろ指を指されるようなことはしていないから、怖がることはない、と言っていたわ。

私はそれで初めて知ったんだけれど、息子は地震で亡くなった子供たちの調査をしていたんです。彼は百名以上のボランティアを組織して、四川地震の被災地に行かせて、一人一人亡くなった子供たちの親を調査し、子供がいくつだったのか、何年に生まれたのか、どの学校の何年生だったのかを聞いて回っていました。彼らは親たちの語るのを聞き、録音録画した。彼はずっとこの仕事をしていました。彼は、「これは政府の代わりにやっているんだ、温家宝総理は何度も、この子供たちがどのように亡くなったのか、どれくらいの崩壊した学校の建物が手抜き工事だったのかを必ず調べると約束した。もちろん役人たちは面白くないだろうが、これは政府がはっきりと民衆に説明すべきことだ。」と言っていました。

私は息子がやっているのは正しいことだと思うから、息子を止めたりはしません。

高瑛のこの話を聞いて、私は以前より一層この民衆の権利を守る活動をしている世界的に有名な芸術家未未に会いたくなった。

9月12日、龐中華の車で高さんの家に行った。入ってすぐに、艾未未が帰っているかと聞いた。

彼は1か月前に、「国家政権転覆罪」で起訴された譚作人の8月12日の法廷証人として出廷するために11日に成都に行ったところ、予想もしなかったことに、彼が泊ったホテルで警察が彼を不法拘禁し、その上彼を殴打し、彼は負傷した。そして結局譚作人の弁護側証人全員が出廷できないという事態になっていた。この日は、未未が北京に戻ったと聞いたので、私たちは会いに行ったのだった。午前中は中華は時間がなかったので、夜行くと伝えた。しかし、私たちが高さんの家に着いたときに、彼女は「息子はさっき出発して、今はたぶん飛行機に乗っています。ドイツで個展を開くために、18個もコンテナを持って行ってしまったわ」と言った。

残念、ひげの未未に会うにはちょっと遅かった。私は高さんに「未未が殴られたと聞いたけど、大丈夫でしたか?」と聞いた。

高瑛は言った「未未は私に殴られたことは言わなかったわ。きっと大丈夫でしょう。個展のことしか言わないで、急いで飛行場に行ったわ」。

そこで私はインターネットで見たことを話した。高瑛は言った「あの子ったら、きっと私が心配すると思って、そんなことは全然言ってなかったわ。でも、私は少し嫌な感じがするの。何か不安だわ」。

私たちは彼の無事と順風満帆を祈った。

9月15日、私はインターネットで次のようなニュースを見て、びっくりした。

警察に殴られたのが原因で出血か、艾未未ドイツで手術

明報:中国の芸術家、人権活動家の艾未未が14日ドイツ・ミュンヘンで「重度打撲による頭蓋骨と脳実質の間の大面積出血」が発見されて入院しており、現地時間の14日午後もしくは15日午前に手術を行う予定である。本紙が14日夜艾未未に連絡を取ったところでは、彼の声はか細く、先月四川警察と交渉したときとは非常に違っていた。彼の話では、溢血が大脳を圧迫していることが彼の話し声に影響していると医師は言っているということだった。艾未未は先月12日に人権活動家の譚作人の事件の証人となるために成都に行っていて、未明にホテルに押し入ってきた警官に顔の右側を一撃され、現地の医者の診断では「軽度の打撲」ということだった。しかし艾未未の話では、彼はそれ以降ずっと頭痛が続いており、最初は数日でよくなると思っていたが、9月14日にミュンヘンで個展の準備をしていて、頭痛がひどくなって受診したということである。

このニュースを高さんに伝えて良いものかどうか、私は彼女が心配することを恐れて伝えないことにした。

9月16日の朝8時、私の電話が鳴った。誰がこんなに朝早くかけてきたのだろう? 受話器を取ると、聞こえてきたのは高さんの声で、彼女の声は震えていた。

「昨日の夜、ドイツから電話があって、未未が頭を警察に殴られたことが原因でドイツの病院に入院して手術を受けたそうなの。医者は頭に溢血があって、もし受診が一日遅れていたら、個展を見られなかったかもしれないって……息子が何でこんな目に会わなきゃいけないの? 彼は国のために働いていたのに、証言をしようとしたのに、どうしてなんでしょう? 彼らが一体何考えているのか本当に分からない。彼らの卑劣な無法行為を憎みます! 私は警察の盗聴なんか怖くないわ。こうやって彼らを非難しても、何も怖くありません。息子はあの日ドイツに行ったおかげで助かったけど、もし中国だったら命がなかったかもしれない。彼らは策略をめぐらして息子を殺そうとしているのよ。彼らがこんなふうに民心に背き、民衆を害し、民衆の恨みを買っていて、長く続くと思う? あなたも真っすぐな人で、いつも本当のことを言って、民衆の権利を守ろうとしているんだから、あなたも注意して。彼らはあなたにも目を付けているかもしれない。それはあなたにとっては名誉かもしれないけど、自分を守るよう注意してね。一晩中眠れなかったから、起きてすぐにこの気持ちを誰かに話したくなったのよ」。

高さんの話を聞いて、この母親の涙ながらの訴えを聞いて、私は彼女の心が血を流していると感じた。私も泣いた。私は言葉が出ず、一言あなたも体に気をつけてとだけ言った。

国慶節の翌日〔10月2日〕午後3時、中華が車を運転して、私たちは高さんに会いに行った。彼女の気持ちはだいぶ落ち着いていた。彼女は『老[女馬]蹄花』という題名のドキュメンタリー番組を持ち出して応接間で私たちに見せてくれた。この日彼女は他にも工人出版社の王さんを呼んでいて私たちに引き合わせた。このドキュメンタリーは未未に対する拘禁、暴行をその場で記録し、また、未未たちが西安路派出所、金牛公安分局、成都公安局に抗議に行った時の経過を記録している。そこに私は恐れを知らない艾未未、力強く邪悪と戦う艾未未、本当の男、詩人艾青の息子として恥ずかしくない艾未未を見た! このドキュメンタリーは、具体的な事実で中国の警察の現状を明らかにした。これは何とも恐るべき現実だった! 私はこの事実に衝撃を受けた。

ドキュメンタリーを見終って、高さんは彼女の考えを話した。胡錦涛と温家宝に手紙を書いて、艾未未の状況を伝えるという。「彼は温家宝が涙ぐみながら言った『必ず地震で倒壊した公共施設を調べつくし、人民に説明する』という約束を実行するために地震で亡くなった子供たちの調査をしているんです。彼は裁判所のために調査をし、同じように子供たちの死因調査をしていた譚作人の証人として行ったのに、一体どんな法を犯したというの? 息子にどんな罪があると言うんでしょう? こんな風に彼に暴力をふるって! 私は手紙を書いて、胡錦涛と温家宝に知らせます」。

私たちは皆彼女がそういう手紙を書くことを支持した。私たちは、彼女に息子が帰って来てから相談して、彼の同意を得たほうがいいと言った。

10月25日8時、高さんは友人に頼んで私を迎えに車をよこした。息子の艾未未が帰って来たのだった。これは本当に得難い会見だ。私は高さんの家に行って、最況を話した。私は彼女に今記録文学作品を書いていることを話し、彼女はそれに意見を述べた。私は言った。「私は精力がないけれど、もしあったら艾青と彼の息子の二世代の話、あなたという偉大な母親の話を書きたいんです。今回の地震で亡くなった子供たちの調査での経験を書くだけでも、国内国外を震撼させるルポルタージュになりますよ」。このテーマを書く作家を他に探せるだろうかしばらくして、王さんもやってきて、家で餃子を食べてから、彼女は息子に電話した。彼は家で我々を待っていると言った。午後2時、私たちの車は草場村の未未の仕事場に着いた。

その建物に入ると、まるで古代の城砦に入ったようで、四囲は高い塀で囲まれていた。中庭の柿がちょうど熟して、黄金色のランプのようだ。二つの高くて大きな磁器が中庭に据えられていて、私たちは二つの照明かと思った。未未が迎えに出てくると、すぐに彼の頭の手術跡が私の目に入った。二つの穴が、髪を剃ったところに空いていた。母親は一目見て、「息子や、今はどうだい、まだ痛むかい?」と痛々しげに言った。未未は「母さん心配しなくて大丈夫だ。なんともない」と言った。

私たちは庭で記念撮影をした。艾未未が傷跡の残る側をそらしたので、写真には傷のある側は写っていなかった。あとから高瑛がそれを見つけて、特に息子の頭の右側、警察に殴られて手術した側を写真に撮った。息子は母親が心配しないようにだろう、部屋に入ってから彼の頭部のレントゲン写真を持ち出して、言った「このクルミのようなのが脳みそで、こちら側が血で一杯になっていて、脳を圧迫していた。これは命にかかわる症状だ。母さんわかるかい、今は大丈夫だ。こちら側の溢血はみんな抜き取った。まだ少し血が染み出しているが、もう問題ない」。

息子はレントゲン写真を元に戻した。私は高さんに、レコーダーのスイッチを入れて未未の話を録音してもいいかと聞いた。高さんが、もちろんいいと言ったので、未未の語ったままを記録した。

艾未未:今はまだ集中力がないけど、良くなる。3か月もすれば良くなる。個展の準備で必要だったから、俺は入院6日で退院した。(話しをしていると、大きな爆竹の音がしてきた。未未は、これじゃあ話もできないから、彼らに注意してくると言った。私たちは大丈夫だからと彼を引きとめた。未未は、「うるさくて話もできない、これが外国だったら、電話一本すればやめるのに、そうでなければ訴えられる」と言った。)

私は、未未に彼の母親が中央の指導者に手紙を書こうと思っていると告げ、彼に何を書くべきか聞いた。

艾未未:少なくとも二つの問題をはっきり言わなければならない。一つは真相の隠ぺい。証人の出廷を妨害するなんて、ヤクザの世界だけで通じる話で、世界中どこでも通じない。政権党だったら、司法の正当な手続きを妨害できないはずだ。これで公正だなんて言えるだろうか? こんなことは法的に絶対許されない。
もう一つは違法な取り締まりのことだ。人を殴っておいて否定する。私が殴られたことは小さな問題だが、こんな状態なら全国で一体どれだけの冤罪、どれだけの民衆の不満が生まれるだろう。こんなことをしていたら信任を失うし、政府の語る政治的理想はすべて口先だけの話になってしまう。俺はやつらが何でこんなことをするのか全く理解できない。国には国の法律があるし家には家の決まりがあることは、やつらだって知っているはずだ。これ以上言っても無駄だ。胡耀邦や温家宝も末端から出世していったのに、今じゃ腐ってしまって言えなくなったんだろう。新疆ではもう2カ月もインターネットに接続できない〔実際は7月5日の事件直後から4カ月近く〕。携帯のショートメールも送れない。新疆はいつ独立国になったんだ? いくら自分たちの少数民族政策が正しいと主張しても、この2カ月間やってきたことは、全世界に知れ渡っている。やつらは万策尽きたのか、それともそうせざるを得ないのか? 他に手がないのか? 俺たちが言っても効果はないが、言うことは俺たちの責任だし、義務だ。

 
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