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新京報:北京の出稼ぎ子女学校がなくなる

2011-08-20 17:33:50 | 中国異論派選訳
北京の出稼ぎ子女学校がなくなる


@新京報浦峰:北京の約30か所の出稼ぎ子女学校が閉鎖通知を受け取った。その範囲は大興区、朝陽区、海淀区の3万人近くの学童に及んでいる。海淀区東昇郷の新希望実験学校の保護者の一人は地面に寝転んで、「おれたちだって北京に貢献しているのに……」と叫んでいた(出典写真参照)。

二日後、この日は海淀区東昇郷の出稼ぎ子女学校--新希望小学校の新学期の予定日だったが、800人以上の子供の学んでいた校舎があったところはガレキの山しか残っていない。

8月10日、賃貸契約の期限が来たので、新希望小学校の用地は東昇郷科学技術管理所に没収され、校舎は全部壊された。

調査によると、6月中旬から、大興区、朝陽区、海淀区で30か所近くの出稼ぎ子女学校が相次いで閉鎖通知を受け取った。その影響は3万名近くの学童に及んでいる。

学校によると学校運営許可申請が承認されなかった

「もう10年も学校を続けているのに、こんなに簡単に閉鎖するなんて」大興区西紅門鎮団河実験学校の楊校長は憂い顔で話した。

6月9日、団河実験小学校の560名あまりの学童が期末試験が終わって校門を出るとき、一枚の通知書を配られた。通知書には「検査の結果、団河実験小学校は違法建築で違法教育を行っており、重大な安全上のリスクがあるので、2011年6月20日より取り締まる。保護者は前払い学費を納入しないように。」と書かれていた。

その後、大興区の10か所余りの出稼ぎ子女学校が相次いで閉鎖通知を受け取った。学校運営許可証、不動産証明書がなく、校舎が違法建築で、安全上のリスクがある、というのがこれらの学校の閉鎖の共通の理由である。

「2006年から、区ではどこの出稼ぎ子女学校にも学校運営許可証を交付したことがありません」と楊校長。学校を2002年に創立してから、彼女は何度も各級〔郷鎮・区県・市〕の教育委員会に学校運営許可証を申請したが、承認されることはなかった。

楊校長が言うには、現在大興区で学校運営基準を満たしていない学校は少なくとも17校あり、今回の閉鎖で、1万名あまりの出稼ぎ労働者の子女が教育の機会を奪われる。

市教育委員会は「状況をよく把握していない」と言った

大興区と似たような状況は朝陽区と海淀区の多くの出稼ぎ子女学校でも起こっている。

「今年6月末、学校は契約がもめて、村民委員会〔村役場〕から水と電気を止められた。」と海淀区紅星小学校の謝校長は話した。8月9日午前、学校側と家主は海淀区裁判所からの電話を受けた。「裁判官は建物と土地は強制収用すると言った。すると村民委員会の人はすぐに建物を壊しはじめた。」

長い間出稼ぎ子女学校に関心を寄せている田坤弁護士によると、現在北京には100か所以上の学校運営基準を満たさない出稼ぎ子女学校がある。これらの学校に対して、区・県は異なる監督政策をとっている。だが、閉鎖と学童の分散は共通の政策方向だ。

昨日、多くの出稼ぎ子女学校が閉鎖されていることについて、市教育委員会はそれは区や県のことで、自分たちは把握していないと語った。

朝陽区教育委員会の責任者はすでに十分な準備をしており、閉鎖された学校の児童は一人も教育の機会を奪われることはないと語った。海淀区と大興区の教育委員会は回答していない。

個別事例

出稼ぎ子女学校:正規化は夢に過ぎない

「納得できません。出稼ぎ子女学校を初めて10年以上、ずっと良いこと、善行を行っていると思ってやってきたのに、いつも追い立てられる」団河実験学校の校長は目を赤くして話した。

楊女史によると、学校は2002年に創立し、最初は合わせて100平米ほどの数部屋を借りて出発した。2003年、鎮教育委員会の要求に応じ、楊女史はこの4000平米の村所有の土地を借り、自分たちで18部屋の平屋教室を作った。

四川汶川地震〔2008年〕の後、大興区の出稼ぎ子女学校は教育委員会の要求に応じ、校舎を補強し設備を増やした。去年大興区育紅学校は2階建ての校舎まで建て、監視カメラ、消防設備を設置し、各教室にエアコンも付けた。聞くところによると200万元もかかったそうだが、1年使っただけで閉鎖命令を受けた。

「前任の大興区共産党委員会書記もわが校に視察に来て、よく運営しているから、学校運営許可証を申請してもいいと言ったんです。」と楊女史は語る。その時はすごく喜んだが、教育委員会に何度申請しても承認されなかった。2006年、北京の多くの区県で出稼ぎ子女学校に対する学校運営許可証発行を停止した。

「北京市小中学校運営条件基準」の中の「基本基準」によると、学校敷地は1万5千平米以上、 校舎延べ床面積は3587平米以上、そのうち運動場にはすくなくとも200メートルトラックなどを設けていなければならないとなっている。「まったく、この条件はどこの出稼ぎ子女学校だって満たせるわけがありません。正規化は夢に過ぎません。」と楊女史は語った。

善後策

朝陽区

2方式で児童を分散

説明によると、朝陽区は2つの方式で児童を分散する。もし子供が現住地の「校区外就学証明」〔中国では戸籍移動は出来ず、戸籍がなければ実際に住んでいても「校区外」〕を取得できる場合、居住地の公立学校に無償で就学できる。もし「校区外就学証明」を取得できなければ、教育委員会はその子を教育委員会が委託した学校に通わせる。その場合今年の教育費は350元/学期、教材費は免除する。

博雅小学校は東壩付近の政府委託学校だが、昨日急にこの地区の閉鎖された学校の学童の保護者の相談場所に指定された。5か所の委託学校がここで相談を受ける。保護者は子供の現況説明表を1枚記入し、就学の意向を書き、表を受入希望学校に提出する。その後各校が受け入れの可否を保護者に通知する。

朝陽区教育委員会の責任者は、「原則として最大限保護者の就学希望を満足する。たとえば委託学校が定員になったら、教育委員会が他の学校を紹介する」と言った。

だが、閉鎖された藍天実験学校の竹道静校長は、東壩地区だけで閉鎖された学校は4校あり、学童総数は3900人を超えるから、委託学校の受け入れ能力全く足りないと語る。

これについて、朝陽区教育委員会の責任者は、区教委が受入学校の受け入れ能力を保障するから、絶対一人も漏らさないと語った。

海淀区

「五証」で公立学校に申請

朝陽区と異なり、海淀区紅星小学校、新希望小学校が閉鎖されてから、その所在地の東昇郷政府職員は保護者に対し、自分たちで「五証」を申請し、公立学校に入学申請するよう告げた。

いわゆる「五証」とは、保護者もしくは監護者の在北京暫定居住許可証、在北京実居住地居住証明書、在北京就業証明書、戸籍所在地〔出身地〕郷鎮政府の発行する出身地に監護条件がないことの証明書、家族全員の戸籍証明書のことである。

「『五証』は大多数の保護者にとって、非常に敷居が高い。」と多くの学校担当者が直言する。出稼ぎ子女学校の学童の保護者は、大多数が野菜農家、街頭販売業者、臨時工、さらにはスカベンジャーであり、「五証」などそろえられるはずがない。

昨日までの時点で、紅星小学校の1400名あまりの学童のうち、わずか70名の学童の保護者が「五証」をそろえることができて、公立学校に入学申請した。新希望小学校は800名あまりの学童のうち、わずか100名あまりが申請できた。

「ほかに100名あまりの保護者は、やむなく子供だけ故郷に帰すと言っています。残りの600名の子供は、まだ学校が壊されたことを知りません。」と新希望小学校の肖校長は語った。

本誌記者 石明磊 王佳琳 杜丁

来源:新京报(2011年8月16日の記事)

出典:http://tetui.me/?p=1663
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『南風窓』:狭隘な民族主義と外交政策

2011-08-17 19:28:56 | Weblog
この記事を載せたために『南風窓』社長が解職されたらしい。

狭隘民族主义与外交政策

在国人的印象里,清末和民国时期的中国外交丧权辱国、一塌糊涂,简直就是一部“国耻史”、“卖国史”,左右离不开“颟顸”、“误国”、“无能”、“卖国贼”、“汉奸”、“妥协”、“投降”等负面形容词。这种悲情的近代史理解,是近代中国狭隘民族主义的源头,到今天仍然深刻影响着国人看待世界的角度和方式。

近日,一封署名为“项城袁氏家族联谊会”的公开信引发了人们的广泛关注,信中认为袁世凯从未签署所谓的“二十一条”,而只是签署了《中日关于山东问题条约》和《中日关于南满即东蒙古问题条约》,这两个条约加起来也只有11条,而且没有出卖主权的条款。前几年热播的电视剧《走向共和》,也为我们塑造了一系列与以往截然不同的晚清民国历史人物形象。

那么,在我们惯常的非即白的革命爱国叙事结构之外,那一时期的外交到底有着怎样的历史风貌?记者就此采访了专治近代中国外交史的台湾政治大学历史系教授唐启华。

独尊“革命”的近代史

《南风窗》:对辛亥革命前后的历史人物,如孙中山和袁世凯,人们已经形成了刻板的思维定势:前者好,是革命先行者;后者坏,是坏蛋卖国贼。但唐刚先生在《袁氏当国》里,对孙中山后期专制的一面进行了批评,也肯定了袁世凯“治世之能臣”的一面。那从外交史的角度看,您对他们两人有着怎样的评价?

唐启华:我们以往的教科书和外交史确实是批评袁世凯推崇孙中山的。袁世凯在外交方面的恶名,主要来自关于“二十一条”的交涉,以往的史学家认为他为了称帝,投日卖国,不惜接受“二十一条”。但我查阅过英国和日本的外交档案后,发现情形恰恰相反。事实上,袁世凯并未接受“二十一条”,在双方交涉之初,袁就疾言厉色地告诉日使,可让者自可谈判,不可让者如第五条等,则绝不能让。在其后历时4个月的谈判中,外长陆征祥,次长曹汝霖和驻日公使陆宗舆等,受尽折磨和屈辱,即使是有妥协情形的曹汝霖,也是“激愤之情溢于言表”。

最后,经过4个月的抗争,加上舆论的压力,日本放弃了“二十一条”中最凶残的要求,和中国签订了《中日新约》9条和关于山东问题的条约。我们如果把日本人最初的要求和签订的新约做比较,就会发现其中的天壤之别。在日方的档案中,这是一场失败的交涉,日本外务大臣因此辞职。当然,新约也是一部丧权辱国的条约,但日本要灭亡中国的目的终究没有达到。

相反,孙中山在护法运动失败后,长期寻求军阀对他的支持以失败告终后,转而向日本提出割让满洲,海南岛,组织国民革命军由日本军官带领,出让全国的警察管辖权和税务权,以换得日本派兵出战,后来甚至向日本表示平津和内蒙也不要了。这些权益是袁世凯也不敢让的。

《南风窗》:既然如此,为何我们的教科书、公众甚至历史学家都认为孙好袁坏呢?

唐启华:今天我们对历史包括近代史的理解,是基于片面扭曲的历史诠释之上。因为国共两党都是革命党,对历史的诠释往往出于宣传的需要,不一定是历史事实,甚至将党派利益放在国家利益和是非之上,认为为了目的可以不择手段。台湾虽然经过了政党轮替,国民党被塑造为独裁专制的代名词,但受影响的主要是对台湾史的诠释,中国近代史的部分并未受到挑战。

由于国共两党皆以反帝、反军阀、废除不平等条约为民初历史诠释的基调。两岸学界对当时外交史的研究,大多集中于广州、武汉到南京国民政府的“革命外交”。北京政府被视为革命的对立面,外交上纵使有零星的优异表现,也因政治不正确而长期遭到忽视与扭曲。独尊“革命”,在非常时期或有其必要,但数十年来成为常态,窄化了我们近代史理解的视野,导致中国外交史研究,不注重外交常规之交涉谈判,只注重谴责帝国主义侵略,宣扬“革命外交”之必要性。

《南风窗》:那么,您怎么评价北洋时期的内政和外交?

唐启华:北洋时代从袁世凯小站练兵开始,到国民革命军北伐成功,东北易帜结束。国共两党都极力攻击北洋时期,把北洋时期说成一个中国历史上最暗的时代,与洋务运动失败、北洋水师覆灭、北洋军阀卖国等刻板印象相连接。北洋时代是否是军阀混战,民不聊生?我个人觉得需要仔细研究之后才能下定论。

事实上,北洋是一个被丑化的时代和力量。中国要往上走,是可以从北洋时代得到启发的。那时虽然军阀混战,但彼此之间还是有道义上的约束,不会尽杀绝;北洋内部派系林立,轮流执政,这对今天的政改是有借鉴意义的;北洋时代是一个多元化的时代,社会氛围自由宽松,没有官方的意识形态,观念上百花齐放,有学术自由,是知识分子和教育的黄金时代。

在外交上,通过对清末旧的外交机构的改造,破旧立新,完成了外交机构的现代化,使得一批专业化、技术化的新式外交官登上了外交舞台。他们通过各种形式到国外接受专门教育,是中国最早开眼看世界的群体。由于军阀不管外交,外交官威望崇高,外交不受党派利益的牵制,能够从现实的国家利益出发,比起其他部门更能独立决策且具延续性。但由于长期的革命外交灌输,在列强档案中形容为狡猾、优秀、难缠的北洋外交官,在我们的教科书中成了“买办”、“走狗”、“西崽”,交涉成果被一笔勾销。

《南风窗》:但无论如何,这一时期的外交还是丧失了很多国家权益呀?比如巴黎和会,中国是战胜国,但在山东问题的交涉上依然失败了。

唐启华:外交的基础是国家实力。清末民初正值帝国主义外交高潮,弱肉强食被视为天经地义,中国赖列强均势,免于瓜分已属万幸;加以列强在华条约利益一致,中外实力差距太大。在这种情况下的外交,要全面挽救颓势是不可能的,只能寻求局部的突破,力求不丧失新的权利,或将已失权利加以严格限制。哈佛大学教授柯伟林认为,民国时期的中国外交相当不简单,在内乱不断的情况下,居然将清朝遗留下来的版图,大致维持完整,是不可忽视的成就。

巴黎和会上山东问题交涉的失败,是因为当时日美之争,美国以牺牲中国为代价,对日本做的让步。中国最终没有在对合约上签字,第一次对列强说“不”,而且日本最终也没有获得山东的统治权。除此之外,中国在巴黎和会上还是有很多外交成就的。中国签署了对奥合约、对匈牙利合约、对保加利亚和约,第一次以战胜国姿态出现于国际社会。顾维钧代表中国还签署了国际航空专约,使中国与其他国家具有同样的领空权。加入国联是中国加入形成中的国际社会的开端,中国当时缴纳会费所占的比例是今天中国联合国会费的3倍。入选国联行政院意味着中国具有处理世界问题的资格,王宠惠还成为入选国际法院法官的第一个中国人。

当然,北洋时期的外交有功有过,但我们不能只看到以前的坏,看不到它的好,更不能只强调今天的成就和过去的失误,不能自己让步就是顾全大局,别人让步就是丧权辱国,不能有双重标准。

被“废约”遮蔽的“修约”

《南风窗》:在近代中国人的脑海里,没有比“不平等条约”更能激起强烈的民族情绪。您怎样看待“废除不平等条约”这一口号?

唐启华:近代中国与世界接触以来,饱尝屈辱与挫折,“不平等条约”可称得上最明显的伤痕。1920年代以来“反帝废约”、“废除不平等条约”等爱国宣传,开始深入人心,自此是谁“废除不平等条约”终结百年国耻,与政权的合法性密切相关。

国民政府受惠于五卅之后反帝反军阀激情,于大革命之后取得政权,强调其始终致力于废约,并在抗战期间,签订《中美新约》、《中英新约》等,废除“不平等条约”,但贬抑轴心国交还特权给汪精卫政权之重要性。钟供则贬抑国民政府废除“不平等条约”的成果,指出尚有许多未收回的权利,强调是钟供最先提出废约主张,并进行了坚持不懈的奋斗;1949年建国之后,彻底扫除帝国主义势力及影响,解除了套在中华民族身上“不平等条约”的锁链。最后,香港,澳门回归,才算真正终结百年国耻。

事实上,“不平等条约”负载了百年民族悲情,政治意涵浓厚,其概念的提出和使用,就意味着对条约的合法性及效力的怀疑与挑战,进而主张“废除”之,但太过强调“不平等条约”在道上的瑕疵,及“废约”在道上的优越性,会有自相矛盾之处。清政府也曾在外国享有条约特权,如在朝鲜有专管租界3处,另外在甑南浦等公共租界中也有中国租界,并享有领事裁判权。《马关条约》之前,中国和日本互享领事裁判权等。

应该说,“废约”的主要作用是对内的,与现实政治密切相关。丰富精彩的“修约”历程与成果,被“废约”观念所遮蔽,致使几代外交官的努力被遗忘,中国外交的诸多特色和发展历程被忽视扭曲,无法总结成果,平心理解过去。

《南风窗》:那么,“修约”和“废约”之间到底是什么关系?

唐启华:摆脱条约束缚是举国一致的目标,“修约”和“废约”都是达成目标的手段。“修约”循法律途径,依据法理要求改订平等条约;若对手国坚持不肯修订旧约,则可诉诸革命及民意,走政治路线“废约”,摆脱旧约束缚,目的仍在重订平等新约。“修约”和“废约”两者应是相辅相成的,可以视环境、时事及本身环境,做不同的选择或交互运用。“条约必须信守”是历史悠久的西方法律传统,条约可以修改,但修改条约不应否定“条约必须信守”的原则。

但1925年五卅惨案之后,国共两党力主“反帝废约”,强调废除与修改为截然不同的两件事,将“修约”定义为与帝国主义妥协投降的卖国行为,认为只有“废约”才能解除束缚,摆脱半殖民地位。自此,“修约”与“废约”成了泾渭分明不能调和的两条路线,是否主张无条件“废除不平等条约”作为爱国主义和反革命、好与坏的分水岭。“修约”在国人心目中已根深蒂固成为负面名词。

《南风窗》:在“修约”方面,北洋政府做了哪些努力?成效如何?

唐启华:当时北京政府虽然衰微,但仍是被各国承认的中央政府,在国际上代表中国。1919年以后,其“修约”朝有约国、战败国及无约国三个方向发展:对有约国,在巴黎和会上要求舍弃势力范围等7项特权,虽大会未予受理,但已系中国首次明确表达对条约束缚的不满;对战败国,要求废除旧约重订平等新约,得到允准。1921年5月签订的《中协约》是第一个明文规范无最惠国待遇、领事裁判权、协定关税各款的平等新约,也得到了独一无二的战争赔款;对无约国,1919年春北京政府颁令,与无约国谈判时坚持平等互惠不再给予特权,即使谈判不成,也不愿迁就。12月,北京政府与玻利维亚订约建交,开创完全平等互惠条约之先例。

1926年初,北京政府决定改采“到期修约”方针,陆续与条约期满国家个别谈判改约。4月,北京外交部通知比利时要求《中比条约》期满修约,由于比国不愿接受中方条件,北京政府乃毅然于11月6日宣布废止《中比条约》,是为中国外交史破天荒之壮举。不久,比利时宣布归还天津租界,其后双方达成新约。1927年11月,北京政府再宣布废止《中西条约》,由“到期修约”发展到“到期修改、期满作废”。

1928年,中丹、中葡、中意等条约到期,北京外交部分别交涉修约,但未有成果。北洋政府在倾覆之前,与波兰、希腊签订平等条约,是为北洋修约的最后成绩。

告别“革命外交”

《南风窗》:您的这一系列观点,恐怕会被认为是在做历史翻案文章。

唐启华:我的研究不在于翻案,也不在于否定他人的历史记忆,检讨他人珍视的传统,而是提供一种多元看待历史的方式。过去80多年来,受革命宣传的影响,“废除不平等条约”与“反帝废约”激发了人民的爱国情操,在收回国权上取得了丰硕成果。“中国人民站起来”的民族自信心是弥足珍贵的。多年宣传的影响,已是铁一般的事实,每个人的历史记忆都应该尊重。然而,过去的历史记忆,过度一元、单调、贫瘠,“反帝废约”激情在完成阶段性任务后,可能会妨碍中国和平崛起的脚步,限制了迈向大国的历史想象空间。在此问题上,我们应该形成全面均衡的历史理解,进而能与各国平心对话,关照彼此的世界观,大步迈向全球化时代。

《南风窗》:您主要是在担心狭隘民族主义的影响吗?在处理对外特别是对西方的关系上,中国人往往爱、恨、怕交织,感情很复杂。在迈向大国的过程中,中国应该如何自我疗伤?

唐启华:中国必须告别革命外交,过去近百年,外交往往成为内部斗争和政治宣传的工具,告诉大家列强欺负中国,我们要报仇雪耻,这种灌输不容易形成平衡公允的世界观和民族性格。政治家对群众情绪的操控,虽然可以获得一时之利,但长远看会损害国家利益。如果我们认定自己是受害者,沉浸于八国联军、南京大屠杀等事件的悲情中,琢磨着有一天要一雪前耻,就只会让世界感到害怕。民族主义会激发爱国心,但狭隘民族主义会成为中国前进的绊脚石。中国要崛起,必须告别革命外交,在多元化的历史视角中,摆脱过往政治神话的束缚,以平衡自信的大国心态走向世界。

来源:南风窗

出典:http://www.douban.com/group/topic/21771318/
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蘋果日報:アイ・ウェイウェイ(艾未未)出獄後初インタビュー

2011-08-03 19:01:06 | Weblog
評価日報:アイ・ウェイウェイ出獄後初インタビュー 「初志は変わらず、信念は衰えていいない」(2011年8月2日)

私の父親についてのもっとも深い印象は、父が入獄したことだ。獄中にあったとき、よく父を思い出し、自分の方が父より大変だと感じた。父が国民党の監獄に入った時二十歳すぎたばかりの若さだったが、私が共産党の監獄〔正式な監獄ではなく闇監獄〕に入った時は五十を過ぎていた。出獄した時には息子が私の顔を忘れているのではないかと私は心配した。君が投獄されたら、空がたちまち暗くなると感じ、しょっちゅう気分が変わり、いかなる楽観もできなくなるだろう。私はそれを入獄して初めて知った。まるで身の回りの酸素が突然なくなったようで、誰もが影響を受けないわけにはいかない。君は私が恐怖を感じたかと聞いたが、私は恐怖を感じたことを認める。あのような状況で恐怖を感じない人はいないだろう。君たちのような若い世代はこの種の恐怖を知らないが、私やその上の世代はいつもこの恐怖に付きまとわれてきた。私は以前、自分を、振り返ることのできない暗い洞窟の中を一人で歩いているようだと形容したことがある。君に私の弱点を教えよう。それは感情だ。感情の上で私は今までずっと脆弱な人間だった。--アイ・ウェイウェイ

草場地、fakeアトリエ、青草がそよいでいる。彼が戻ってきた。外国メディアが消息を聞いて駆けつけても、彼は中庭で「私は生活を楽しむことだけを考えている」と語るばかりだった。81日間の暗黒が、彼にそう慨嘆させた。彼を待ち続けた見知らぬ人々に対し、彼は心から感謝していると語った。私は銀行で彼と偶然会った。彼はたった一人で、古いTシャツ、太いズボン、サンダル姿だった。出獄当日理髪していた。以前のようににこにこして、透き通ったまなざしには、ずる賢さも混じっており、12キロ痩せてもまだ太っちょだ。私が「家に行ってもいいですか?」と聞くと、彼はすぐに同意して言った「携帯電話の番号は変わってないが、盗聴されている」。はたして私が彼を訪ねる前に秘密警察〔原文「国安」(国家安全部)、旧ソ連のKGB、旧東独のシュタージ、戦前日本の特高警察に相当する組織〕は訪問を知っていた。

「私の心配はこのまま声を失ってしまうことだった」
この数ヶ月間、あの暗緑色の門の前を通るたびに、悲憤と悔しさを感じてきた。その頃アイ・ウェイウェイは生死も明らかでなく、聞こえてくるうわさは根拠のないものばかりだった。極左派〔ウルトラナショナリストを指す、日本の政治地図では極右に相当〕はこれでもうアイが外に出てくる可能性はなくなったと見なし、公然と嘲笑し悪罵を浴びせた。中国の芸術界は誰もが自身の身を守るために沈黙した。さらには、アイの入獄は周到に計画されたもので、共産党が彼の名声を高めるために彼に手を貸したのだと見なして、水に落ちたアイに石を投げる者さえ現れた。より多くの人々は大声で叫んだり、じっと待ったり、楽観と悲観の間をさまよった。さらには新しい移民ブームまで巻き起こした。国の制度に徹底的に絶望し、一部の作家と外国籍の人々が急いで中国を離れた。私が毎晩通うフランス文化センターではフランス語を学ぶホワイトカラー達が「〔有名な〕アイ・ウェイウェイさえ捕まるんだから、〔無名の〕俺たちはどうなるんだ?」と心配していた。あの日、彼は空港でまるで拉致のように、頭巾をかぶせられ、手錠をされて、どこかに連れて行かれた(のちにその場所が密雲県だったということが分かった)。これは全く司法手続きを無視した手段であり、逮捕ではない。まして尋問や断罪なんてありえないだろう? 司法手続を無視した人々は強大な世論の下での〔正式逮捕できずに放免した〕この結果を、一体どう説明するのか? ほんとうに政府を冒涜したのは彼らだ。これはまさに恐ろしい不条理劇だ。今では当局も慎重になって、アイを「議論のある人」とだけ言っている。あの日彼を捕まえた人も、そのあとで彼を尋問した人も、芸術家が何かなんて分かっていない。アイが収監されたばかりの時、彼は「大胆不敵にも」自分の国際的な影響力は彼らに想像もつかず、劉暁波、胡佳、高智晟の3人を合わせたよりもっと大きい、と示唆したそうだ。すぐに想像がつくが、彼が獄中で受けた尋問は彼を政府転覆扇動の罪名を着せるための内容だった。それは前述の3人と同じだ。彼も以前語っていたが、やることは脅迫・拉致・失踪だけで、この〔統治〕集団には想像力がない。彼らは飛翔と自由の喜びを知らない。予想通り風雲が巻き起こり、彼が自由を失ってすぐに、国外の多くの政界・芸術界・民間団体がこの「失踪者」を探し始めた。だがアイ・ウェイウェイは、その時は孤立無援で外の動きを推測することしかできなかった。自由を奪われた人にとって、一日が過ぎるのが非常に長い。「外界との連絡が完全に断たれ、暗黒の中に身を置いていると、私は自分がこのまま声を失ってしまい、誰も私がどこにいるか知らず、永遠に知られずに終わることを心配した。私は一粒の大豆のように、地面に落ちて、どこかの隅の隙間に落ちて、声も立てられず、永遠にそこに閉じ込められそうだった」。彼は相手が強硬に出たら、長い刑期収監されるだろうと推測した。だが、もし獄中にあっても芸術はできる。考え付いたプランを外界に伝えて実施してもらうことができる。そうなれば、自分は監獄で作品のプランを作った最初の芸術家になる。この考えは彼を慰めた。「以前私は展示の現場に行きたくないとき、言い訳に飛行機に乗りたくないと言った。今でも理由が必要だろうか? 現場にいなくても思惟と意思は生み出すことができる--私にとってこれは一種の支えだ。困難は私にとって終わりではなく、新たな可能性の開始を意味してきた」。中庭は静かで、アトリエの若者たちはいつも通り仕事をしており、何匹かの可愛い猫が椅子を占領して休んでいた。奥さんの路青は以前と同じように美しくしとやかで、足にはペディキュアを塗っていた。家政婦はきれいに掃除をし、昼食の支度をしていた。時々客が来ると、声高のあいさつが二言三言聞こえてきた。

まるで何も起こらなかったようだ。あの数カ月の恐怖、心配、憶測、悲しみが、なかったかのように路青はにこにこと彼を見ている。この家庭が突然の災難に直面して見せた強靭さは人々の想像を超えている。彼が以前成都の警察に殴られたあとの開頭手術の傷跡は今でも分かり、足は無意識に揺れている。「出獄してから物覚えが悪くなった」。彼は自分の生命力を非常に気にしている。獄中の最初の日彼はよく眠れ、朝は警官に起こされた。彼は自身の状態に満足した。こんなに大きな事件が起きても眠れるというのは、彼の心理的耐性を証明している。ベッドはスチールのシングルベッド、ペラペラのベッドパッド。彼は自分の体重でベッドの金属枠を体感することができた。アイ・ウェイウェイは苦労したことがある。彼は子供時代、〔父が〕流刑された新疆の窯洞〔土を掘りぬいた家〕で寝たことがあり、青年時代にはニューヨークの地下室で寝たことがあり、陳情した時にはゲストハウスの板ベッドに寝たことがある。彼はかつて自由を奪われた人のために叫んだが、今は運命が彼により深い体験の機会を与えている。だが、傍らで人に監視し続けられるのは初めてだった。「二人の若い青年、19歳で、彼らはすごく眠いのに、何の罪があって眠らせてもらえないんだ? 収監された自分は『罪状』について考え、刑期を予想することもできるが、彼らは何を考えればいいんだ?」。

「芸術家って何だ?」と彼らは聞いた
彼は今でも人々を愛している。彼は自由を愛するゆえに個人を愛する。体制とは長年対立してきたが、個人に対して悪意を持ったことはない。たとえ四川省で暴行を受けても、個人に対しては怒りを抑えて相手を尊重する話し方をした。アトリエの外の中庭で監視している秘密警察に対しても、彼は同情を寄せる。「酷暑の日に、彼らも大変だ。インターネットが発達した今、こんなに古いやり方にどんな意義があるんだ?」。彼が拷問を受けているという噂話が流れていたとき、彼の家族は気が狂うほど心配していたことを、彼は出獄してはじめて知った。45日目に、警察が路青との面会を認めたとき、彼は拒絶しようかとすら考えた。「すべてがあいまいな状況下で、私は彼女に何を話せばいいのか分からなかった」。「81日間の拘禁中に、52回の尋問があった。毎日6時半に起きて、尋問はふつう午前1回、午後1回、毎回の尋問には二人の警官が付いた。彼らは世間話風に私に話しかけた」。彼は以前、もしいつか逮捕されたら、沈黙で対抗すると言っていた。なぜなら、彼はこの国の司法を全く認めないからだ。だが入獄してから考えを変えた〔中国法では黙秘権は認められていないが、権力に拘禁された場では完黙が最良の(普通の人にとっては唯一の)手段だと訳者は考える〕。「私は何でも話せると思った。もともとこれは司法手続きではないし、尋問などとは言えない。こういう近い交流もいい方法かもしれない。私はこの国の個人を信じる。彼らも人間で、感情があり、判断力もある」。彼らはまったく彼を理解していなかった。「芸術家って何だ?」と聞いてきた。「彼らは私のことをせいぜいが芸術従事者だと言い、作品をこんなに高い金額で売るのは詐欺じゃないかと聞いてきた」。彼の温和・誠実さらには善意が、尋問をだんだんと難しくしていった。どんな罪を着せるか? どうしたらこういう人間に対して罪を並べ立てることができるか? 最後には彼らは炸醤麺の醤は黄麺醤がいいか鶏蛋醤の方がうまいかという議論をしていた。獄中で、彼は自分の下着や靴下を洗ったが、禁固の下でのこれら最小限の日常活動が彼の幸福な時間となった。三日目に、彼はシャワーを浴びることを許された。「シャワーを浴びれるなんて嬉しいじゃないか。人はどんな環境のもとでも渇望し、あこがれ続けるものだ。私だけじゃなく、私を見張っていた兵隊たちだって、信念と渇望が途切れたことはない」。「私は今でも希望を抱いている。その希望はこの国の個人に寄せている。社会が大勢の個人で成り立っていることが私の信念をゆるぎないものにしている」。賑やかな昼食時、アトリエの若者たちはテーブルに並んだご飯と料理を食べつくした。太っちょは立ちあがって皿に残ったご飯を食べ終わると、体をゆすりながら中庭に出て、手に持った共産党創立90周年の記念パンフレットを開いて笑って言った「ここに書かれたどれ一つとして彼らは実現していない」。彼は本来ここにいるはずがない。もしこういう〔軟禁に近い〕状況でなければ、彼はきっと温州の高速鉄道事故の現場に行って、以前と同様に、質問し、問い詰め、死者の名簿を作り、彼らに代わって政府に尊厳の回復を求めているだろう。彼は今回のメディアと民衆の高速鉄道事故に対する抗議の声に慰めを感じている。彼は何年も前にモデルを作った。1、生命の価値、2、個人は何ができるか?

「今は元気だ。傷の痛みは忘れた」
六年前に彼を訪問した時私はまだ若かった。私は彼に大切にしているものは何かと聞いた。彼は辛抱強く答えた「たくさんあるよ。一人の人、一輪の花、一枚の紙、一本の髪の毛」。一年前私は彼に怖いものは何かと聞いた。彼は「遠くまで行きすぎて戻れなくなることだ」と答えた。デブの目は湿っていた。こういう人は自由を愛し、未来を愛している。彼は彼が形容したように生活を享受する権利がある。「私は行かない、どこにも行かない。私と私の家族の生命の危険が生じない限り私は出国しない。私は獄中で、やつらが私にこんな扱いができるのは、私が外国パスポートを持っていないからだろうと思った。だが、いまは傷も治って痛みも忘れた。人には修復能力がある。私は出獄したら出国したくなくなった。見続けるんだ、この国の変化を」。彼は全体主義のやりかたについて間違った判断をしたことがない。だが、楽観的な信念を失ったこともない。彼は珍しく自分を皮肉った「私にはいつも錯覚がある。たぶん私の間違った判断が一連の間違いを生み、今の状況に至ったんじゃないだろうか」。だが彼は自分が変わらないだろうと信じている。彼はノーベル賞作家のヘルタ・ミュラーを尊敬している。彼女は今でも様々な場所で全体主義(Totalitarianism)について語り続けている。「彼女は亡くなった人々のために話をする。彼らは、誰にも注目されず、誰も彼らの声を聞かない。だから私たちが彼らの声を伝えなければならない」。若者がネット上で彼に、自分の世代の人生の選択について聞いた。彼は正直に言った「君たちがここで彼ら〔共産党政権〕と闘い続けなければならない理由はない。もし条件があれば、出国すればいい。少なくともこの世の中に別の生活があることを知ることができる。何が良いのかを知って初めて、君と君の同胞の境遇を理解することができる」。

後記:アイ・ウェイウェイは今安静にしていなければならないので、私は彼の獄中での出来事について多くは書けなかった。彼はいつも若者の「年上の友人」だ。理性的、寛容で、有名な芸術家という地位にあっても人を見下したことはなく、人を煽動したこともない。彼が怒りっぽいと思い込んでいる人は多いが、彼は個人と向かい合うときは最大限の温和さと忍耐で接する。この太っちょは柔軟でユーモアがある。彼は出獄後、彼が獄中にあるとき、外でだれが彼を傷つけ、誹謗したかを知ったが、全て許し、彼らを憐れんだ。あのような暗黒の時を経験してもなお、彼は耀いている。(鞠白玉記者)

アイ・ウェイウェイ経歴

54歳、北京生まれ。学歴:1978年北京映画学院入学。1981年渡米。ニューヨークのパーソンデザインスクールで学んだ。2010年ベルギーゲント大学から社会学部名誉博士学位を授与された。父艾青と母高瑛はどちらも詩人。1958年アイ・ウェイウェイが1歳の時両親は中共の反右派闘争で新疆に流刑となった。1975年になってやっと北京に戻れた。妻の路青は画家で、アイ・ウェイウェイが脱税の疑いをかけられているアトリエ「フェイク公司」の代表者である。1994年から1999年まで中国の前衛芸術雑誌『黒書』、『白書』、『灰書』の編集長。2003年から2008年まで北京オリンピック委員会メイン会場「鳥の巣」の設計芸術顧問。2007年の作品『童話』は1001脚の椅子で自由の到来の待望を表現し、1001人の中国人をドイツに招待してカッセル・ドキュメンタに参加。2010年イギリスの雑誌『アートレビュー』の「現代芸術界で最も影響力のある100人」の第13位に選ばれる。2011年3月焼き物で作った一億個を超える『ヒマワリの種』がイギリスで三十五万ポンド(約440万香港ドル)で売れた。2011年4月アイ・ウェイウェイと4人の裸婦の写真「一虎八乳図」を発表し、メディアによって中共の官僚と商人の癒着、農民工〔出稼ぎ農民〕軽視など今の中国芸術データベース芸術総監督に対する風刺と解釈された。2008年12月から2010年3月まで汶川〔四川〕大地震市民調査を組織し、5212人の死亡学童・生徒名簿を作成。2009年8月成都に行って人権活動家譚作人のために法廷証言しようとしたが、警察に殴られ拘禁された。2010年2月、20数名の芸術家と横断幕を掲げて北京の長安街をデモ行進し、芸術エリアの強制収用に抗議し、警察と衝突。2010年11月上海の馬陸のアトリエが強制収用されることになり、アイ・ウェイウェイは千人に呼びかけて河蟹宴〔中共のスローガン「和諧」(調和の意)と同音の風刺〕を開催しようとしたが、沿海前に当局により軟禁された。(出典:『蘋果』資料室)

アイ・ウェイウェイの今回の拘束の経緯
4月3日香港に向かう際に北京空港で出入国係員に連れ去られ、住所とアトリエが家宅捜索を受け、妻と8名の職員が連れ去られて尋問された。4月7日新華社はアイ・ウェイウェイが経済犯罪に関与して当局の捜査を受けていると報道。4月9日新華社はネット上の情報を引用してアイ・ウェイウェイが脱税と他人の芸術作品の剽窃を行ったと報道。4月11日アイ・ウェイウェイを支援する落書きが香港に出現、警察は重大事件として捜査。その後香港では何度もアイ・ウェイウェイ支援デモが行われた。4月18日全世界37都市の民衆が中国大使館に抗議し、アイ・ウェイウェイの釈放を要求。5月10日アイ拉致38日目、刑事拘留期限(逮捕状なしで警察判断で拘束できる期間)を超過。5月15日アイと妻が15分間の面会。事件について語ることは禁止された。5月20日アイ拘禁48日目、新華社は北京市公安機関の話として、アイのアトリエ「フェイク公司」が脱税と会計証憑の隠滅等の行ったと報道。6月11日路青が再び〔1回目について言及なし〕公安部に対しアイと従業員の「失踪」事件の捜査を要求したが、回答を得られず。6月22日アイ拘禁81日目当局は〔中国法上の「逮捕」をしてないのに〕「保釈」名義で釈放。6月27日北京市税務局がアイに対し1200万元以上の追徴税と罰金を指示。7月14日路青が北京市税務局に公聴会を公開で〔!〕行うよう要求したが果たせず、また会社の財務資料の返還も認められなかった〔当局による証拠隠匿〕。7月15日アイはメディアに対して罪を認めたという情報を否定し、逮捕されたことも起訴されたこともないことを明らかにした。

出典:http://fatzone.org/news1/apple/art_main.php?iss_id=20110802&art_id=15485780

(転載自由、要出典明記)
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