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秦暉:ポピュリズムもエリート主義もいらない

2010-01-29 14:40:53 | 中国異論派選訳
秦暉:ポピュリズムもエリート主義もいらない(2005)

近年国内のいくつかの論文がポピュリズム〔もしくは人民主義〕反対問題を取り上げている。「グローバル化」する市場経済改革の中で、ポピュリズムも「グローバル」な話題になっており、「社会移行とポピュリズム」の問題が注目を集めている。一つの代表的な意見は、ポピュリズムは一種の「革命」を主張する急進思潮であり、社会の害虫だから、大いに取り除いて権威主義をもってこれに代えるべきだとか、ポピュリズムは破滅的な「大民主」をもたらすから、名君と順民の組み合わせの「伝統的」制度の方がましだと主張する。もう一つのより穏健な意見は、ポピュリズムが「人民」を重視するのは一定の合理性があるが、「人民崇拝主義」の極端に走っているから、エリート主義によってそれを矯正するか、少なくとも調和させて、大衆とエリートの双方に配慮し、下層と上層の妥協を図る主張をすべきであるという。

これらの見解の共通点は、ポピュリズムを「人民の利益」、「人民の立場」の主張と理解し、それに対してエリート至上、権力者本位の傾向の人はこれを全面否定し、上下に目配りを主張する人はその極端を否定し穏健化させようとする。その共通点はたぶん「ポピュリズム」という名前が人に与える印象からきているのだろう。漢語の「民粋主義」という訳名は正確さに欠ける。その英語とロシア語の原語は「人民」〔ピープルとナロード〕を語幹としているから、漢語では「人民主義」もしくは「平民主義」と訳すべきである。この字面からは、エリート排斥的傾向ないし権威排斥的傾向のように受け取れる。

だが、歴史をみると実際は全く違う。歴史上のポピュリストは権威に反対しないばかりか、むしろ極端な権威崇拝者だ。かれらは反対派の存在を容認しないばかりか、「傍観者」さえ容認しない。ロシア・ナロードニキに名言がある。「我々の側に立たない者は、我々の反対者だ。我々の反対者は、我々の敵だ。そして敵はあらゆる手段を使って消さなければならない」。ナロードニキの最も有名なリーダーのトカチェフは、革命とは何か?革命とは少数者が多数者に対し前者が与える幸福を受け入れるよう迫ることだ、という意味の発言をしている。当時ロシアマルキストとナロードニキの最初の論争は「政治問題」を巡って展開された。ナロードニキは西側式の民主主義に反対した。西側の「統治機関は選挙によって選ばれた金持ばかりだ。金持のやり方は非常に不公正で、貧者を抑圧している」。だから、「人民にとっては、両方を比べて軽い方を取れば、独裁のツァーリの方が立憲のツァーリよりましだ」(1)。これに対しマルクス主義者は厳しくこの「政治的自由に反対する徹底的なナロードニキ主義者の観点を(それは政権をブルジョアジーに渡すだけであるとして)批判し」、議会制民主主義は決して「ブルジョアジーの道具に過ぎない」わけではなく、それはプロレタリアートの道具でもあると主張した(2)。

一方、ナロードニキは決してエリート主義に反対しなかったし、極端なエリート主義者でもあった。ロシア・ナロードニキの「英雄が蒼氓を操る」という著名な理論が典型だ。この理論は英雄が歴史を創造し、英雄が正義を実現するのであって、人民は取るに足りない「背景」、無知もしくは「真似」しかできない蒼氓に過ぎないとみなす。

もちろん、ナロードニキの主張の中には無数の「人民」を崇拝し「民主」を強調する言葉を見出すことができる。ではそれらの言葉と上にのべたエリート主義、権威主義的言説はどう統一されるのか? 一方が主で他方が従なのか、一方が真実でもう一方が口先だけなのか?

明らかに違う。実際はナロードニキは平民主義者とかエリート主義者というよりは、むしろ全体主義者というべきだし、平民主義やエリート主義と対立しているというよりは、むしろまず各種の「個人主義」と対立しているというべきだ。そして、彼らの平民的傾向とエリート的傾向、「民主」的傾向と独裁的傾向は、まさにこの点で統一される。

ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝するというのはうそではないが、彼らが崇拝するのは抽象的全体としての「人民」、であり「人民」を構成する一人ひとりの具体的な「人」に対しては、その「人」が労働者すなわちいわゆる「平民」であれ、知識人すなわち「エリート」であれ、むしろ極めて軽蔑的な態度を取る。ナロードニキ主義の中で最も欠けているのは人の個人としての尊厳と基本的人権の観念である。ナロードニキにとって、一人ひとりの「人」は全体としての「人民」の道具でしかなく、前者は後者にとって取るに足らないものであり、後者の「利益」のためなら、何のためらいもなく前者は犠牲になるべきであり、その人の意思は考慮する必要はない。ロシア・ナロードニキが農奴制時代の伝統的な農村コミューン(ミール)を高く評価し、「ミールの集団の中に自我を解消する」ことを主張したのは、この種の全体主義意識に基づいているのだ。ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝し、とりわけ当時のロシアの人口の大多数を占めミール共同体の中で生活する農民を崇拝していた。そのため、彼らは重農主義的傾向があり、都市労働者を軽視していたとしばしばみなされている。だが、この種の「重農」と自由経済を尊重するフランス重農学派とは全く逆である。ナロードニキが尊重する農民とは農村コミューン精神の化身に過ぎず、ミールの束縛を脱したいと求める現実の個々の農民のことは非常に敵視していた。ナロードニキの著作の中では、これら独立傾向の農民を「守銭奴」(кулак、この単語はのちに「富農」と漢訳されたが、もともとのロシア語は罵り語の一つであり、「富」の語義も「農」の語義もない)と罵っている。そのため次のような現象が出現した。ロシア・ナロードニキは一方で知識人の不誠実と狭量に対し農民の素朴、崇高を言い立て、「知識人は農民の足元にひざまずくべきだ」とさえいうが、一方で農民を束縛すべきだと強調する。彼らが言うには農民が一旦「土地を離れて『農業』を忘れたら、ロシア人民、人民の世界観、人民が発する光と熱は失われ、残るのは空虚な霊魂、『完全な自由自在』、恐るべき『好きなところに行く』ことだけだ」。そこで、知識人は「農民の足元に」ひざまずくべきだと言った同じナロードニキ思想家が別の時には厳しく「コミューンの最も凶暴な敵は『自作農』、『農場経営者』と『資産のある』農民である」と指弾する(3)。

同様に、ナロードニキ主義者は「英雄」を崇拝するが、それはカーライルやフックのような西側市民社会の「英雄」論者とは全く異なり、彼らにとっての「英雄」は共同体の人格的化身、全体意思の代弁者に過ぎない。ナロードニキは一方で一人一人の農民に農村コミューンを代弁して主張する「英雄」に従うことを求め、もう一方で「個人主義」のプチ知識人に全体「人民」の足元にひざまずくよう強く要求する。「平民主義」と「エリート主義」、「人民崇拝」と救世主意識、個人の「大衆」に対する罪責感と「蒼氓」に対する優越感が彼らの中で完全に一体に融合していたのだ。

明らかに、この種の状況下で「エリート主義」もしくは権威主義によって「平民主義」もしくは民主主義に反対(もしくは拮抗)することでは、ポピュリズムの落とし穴から抜け出すことはできない。それはちょうど民主主義の「多数決」メカニズムの欠陥を「少数決」や個人独裁で補うことができないのと同じである。「多数決」が「少数」もしくは個人の基本的人権を侵害することによって形成される多数の横暴を避けるためには、一人ひとりの市民が(多数に属するか少数に属するかに関わらず、たとえたった一人だけでも)、誰もが基本的人権を享有する権利を確立しなければならない。この権利は「多数」(ないし「全体」)によって奪われてはならず、もちろん少数者によって奪われてはならない。

平たく言えば、ポピュリズムの特徴は、5人の意見が一致したら、6人目の人の財産(もしくは生命、個人意思)を奪うことができるというものだ。このような考え方の弊害は明々白々である。だがそれを正すために決して逆転させて、一人の権力者が5人の財産を奪うことにしてはならない。実際、このような「逆転」はまさにポピュリズム自身の論理の中から導き出される。5人の決定で6人目の人の権利を奪うことができるのなら、「5人の共同意思」の化身である1人は6人目の人の権利を奪うと同時に、同じ理由で5人の中の任意の一人の権利を奪うことができる。言い換えれば一人が5人の権利を奪うことができる。明らかに、この危険を避けるためには、「多数の特権」を主張することもできないし「少数の特権」を主張することもできず、一人ひとりの基本的人権の不可侵を主張するしかない。

市場経済改革の中で、「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことが実際に意味するのは全ての市民が市場経済競争の中で個人的利益を追求する権利を認めることであり、競争の結果一部の人だけが勝者としてより多くの利益を得るとしても、彼らが他人の権利を侵害しない限り、「全体」の名義(例えば「共に豊かになる」の名義)で彼らから富を奪ってはならない。

しかし、それは決して少数の人だけに個人的利益を追求する特権を与えることを意味してはいない。「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことは、(たとえ彼らが「エリート」だったとしても)決して一部の人だけに「豊かになる」権利もしくは機会を与えることを意味しない。彼らがその権利と機会をどのように利用し、どのような結果を得るかは別の問題であるが、「豊かになる」権利と機会自体は全ての市民に与えられるべきである。農村の農家経営請負制は「一部の人が先に豊かになるのを認める」実践だった。そして、豊かになるための機会としての土地は「一部の人」に与えたのではなく、基本的に平等に全人民公社員に分配した。

まさにこの点に改革の「人民性」が体現されていた。この「人民性」は決して「エリート主義」によって取り消されたりエリート主義を混入させたりしてはならない。だが現在確かに一種の懸念すべき観点が存在する。すなわちポピュリズム反対を理由として、改革の人民性を傷つけ、一部の人が先に豊かになるのを認めることを一部の人にだけ豊かになる機会と権利を与えることに歪曲している。これには絶対反対しなければならない。

改革は確かにポピュリズム観念を打破しなければならない。すなわち全体主義的な(「エリート」の尊厳と権利だけでなく)市民の個人の尊厳と基本的人権を侵害する発想と行為を打破しなければならない。この任務は非常に難しい。だがこの任務と「寡頭主義」の打破とはコインの両面の課題である。「第一級のミサイル」とか「原始的蓄積」の類の理由で改革の公正性を傷つける寡頭主義的傾向を制止することで初めて、効果的に全体の利益を理由として市民の基本的権利を侵害するポピュリズムの危険を排除できる。同様に、政治観念の上での「人民崇拝主義」と「役人崇拝主義」もコインの両面である。歴史上ポピュリストが「人民独裁」を扇動する一方で、英雄による救済を扇動したのも同様である。「役人崇拝主義」で「人民崇拝主義」に反対することも、寡頭主義でポピュリズムに反対することや、不公正な「競争」で「反競争の公平」に反対するのと同様であり、悪循環に陥るだけである。

今日すくなからぬ論文がポピュリズムの危険は社会の移行期に生ずると強調しているが、それはおおむね正しい。だが人々は次のことを指摘することを忘れている。不公正な移行方式こそがその種の危険を生む主な土壌であり、寡頭主義こそ移行期の不公正の主な表現である。ロシア・ナロードニキは19世紀の知識人の間だけの思潮に過ぎず、「人民の中へ」の数々の努力も実らず、世紀末には知識人の間で影響力を失った。だがまさに「国家は強者のために存在する」という寡頭主義の発想を掲げたストルイピン改革が、ナロードニキを復活させ、急速に社会的思潮に発展させ、ついにはストルイピン体制を打倒し、自由主義と社会民主主義までがこの体制の副葬品になってしまった。またイランのパーレビ王朝が「有力者の資本主義」と「白色革命」を大々的に展開したことが、イスラム教をシンボルとするポピュリズムの大波を起こし、市民的権利までもがパーレビ王朝の副葬品になってしまった。

その反対に、公正な移行方式はポピュリズムの最も優れたワクチンである。米国の歴史上ポピュリズムはあまり流行ったことがないのは、米国の「文化」がヨーロッパと違うからでも、米国にポピュリストの土壌と言われる「コミューン」がないからでもなく(米国の初期の植民者たちはその多くがコミューン生活を送ったことがあり、オーウェン、カーベから今日のモルモン教徒まで、各種の「コミューン」の実験はずっと続いている)、米国にはヨーロッパのような封建ヒエラルキー制度の遺産がなく、工業社会に向かうときに寡頭主義のゆがみが少なかったために、人々がポピュリズムの「反競争の平等」よりも公平な競争を信じたためである。今日の「チェコ・モデル」もその実例であり、東欧諸国の中で最も左派の伝統の豊かなこの国は急進的移行への抵抗がむしろ最も少なかったので、移行過程の公正さがポピュリズム的気分の発生を防いだ主要な原因である。

まとめると、ポピュリズムと寡頭主義は見たところ逆だが実は双子であり、それによって順調な移行が阻まれる。ポピュリズムは不要だが、人民には配慮しなくてはならない。寡頭主義は不要だが、エリートを窒息させてはならない。「大衆」と「エリート」は個人の尊厳と基本的人権においては平等でなければならない。彼らの競争社会において生じた格差は、出発点の平等・ルールの平等の公正な原則の下で承認されなければならない――もちろん、この原則の下ではその格差は動態的なものだ。だれも生まれながらの、もしくは永遠の「エリート」を自任することができないのは、だれも生まれながらの、もしくは永遠の「大衆」の代理人を自任することができないのと同様である。

(1) Л.А.チホミーロフ「我々は革命に何を期待するのか?」『民意新聞』1884年合本第2冊pp.230-253.
(2)レーニン「ナロードニキ主義からマルクス主義へ」、プレハーノフ「我々の意見対立」。
(3) H.H.ツラトウラツキーの言葉。ストルーベ著『ロシアの経済的発展に関する問題の批判的覚え書』(1894)より引用。漢語版、商務印書館1992年、p20, p140.

原文出典:
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bce17b70100df1j.html
~type=v5_one&label=rela_nextarticle

転載自由・要出典明記

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聯合早報:陳情者の肖像画を描く于建の思い

2010-01-26 22:51:58 | Weblog

被喻为“用脚做学问”的社会学家
于建嵘为上访者 画出生命的尊严

韩咏红 (2010-01-25)

 
  因为难以抚平内心对受调查者的愧疚,他有一天拿起画笔,一笔一笔将自己采访过、对自己哭诉冤屈的上访民众肖像画了下来。他想通过画作将自己对他们的感受记录下来,也让观者知道中国社会底层还有这样一些受屈的弱者,希望唤醒大家对每一个个体生命的尊重。

  关注中国社会发展的,很少有人不知道于建嵘:著名的农村问题专家、中国社科院教授,曾经长期在农村、矿场、上访村进行直接深入的调查。中国学界形容他“用脚做学问”,就是肯定他不畏艰苦,通过常年在底层行走,掌握底层社会的真实情况。

  他曾经冬天到北京永定门东庄上访村住了一个多月,两次被当成访民给抓走。对方怎么都不相信他是社科院学者,打电话到社科院查证后,批评他穿得“破破烂烂”,怎么都不像学者。

  本报记者去年底到于建嵘在北京郊区宋庄的房子拜访,意外发现于建嵘成了个画家。

  诺大的厅堂安置了大量画作,屋内一角摆着未完成的作品与颜料,像画家的画室多于像书斋。满屋子画作只有一类主人翁:男女老少访民。他们双眼饱含泪水,拿着状纸或在身上、头上披戴着呼喊主人悲愤的自制帽子或服装,一个“冤”字仿佛充斥了室内的空间。于建嵘说,那些是中国访民的典型形象。

  他说,他原本请画家将他拍摄的访民照片画下来。每幅画2000元(人民币,下同,约400新元),画好后作品归画家,他只求让访民的肖像能被记录下来。他当时准备了2万元,想记录下10个访民肖像。

  结果,专业画家受委约画出来的产品,他全不满意,认为它们太匠气。去年五六月,他偶然知道画家们是用投影作画,“我就想这样我也可以画”。于是毫无绘画基础,连三原色的概念都不知道的于建嵘,就这样开始了绘画的第一步。

为老太太“画冤”

  第一幅画,主角就是戴着“冤”帽的老太太,这名老年访民为死去的儿子上京告状,她愤怒不平的眼神震慑了她的听众,也成为于建嵘一再重复描画的主题。

  于建嵘说:“我每次画到她时,我都会想到这个人,想到她的故事。这个老太太,冬天在这里上访,我请她吃饭,她一直对我哭,她一直在说,她跪在地上。”

  “她不知道我是干什么的,以为我能解决她的问题,但是实际上我是解决不了,甚至我写文章连她的名字都写不上去。我对她是有歉疚,每画一笔我都在想,我要对你有交代,也是对自己的交代,我没有别的办法。”

  从第一幅画开始,画画成了于建嵘日常生活中的固定内容。宋庄是北京著名的画家村,他平常与画家们讨论,技术也慢慢长进。开始有作品被外国的大学图书馆、书展买去,他计划用这些钱在宋庄建立大型资料库,收藏中国底层社会的各种档案。

  倒是,他自认是“乱画”的处女作,却被许多画家评为他最好的作品:“特别有一笔红的,那些人要研究了半天,他们根本没有想到我会这样画,那是其实就是我心里的激愤,我不知道怎么表达才好。”

底层的经验

  用绘画释放淤积在心中的压力与困惑,这是社会学者于建嵘给自己寻找到的精神出路。理论是冰冷的,但是人心是火热的,他无法在学术研究抽离冷静的要求下,表达对每个具体生命的关怀,倾诉自己的无能为力,绘画成了解答。

  然而,他对探寻底层苦难的执着也与个人童年经历密不可分。

  生于1962年的于建嵘,童年的生活被当时席卷中国的政治运动“文化大革命”所左右。共产党游击队员出身的父亲,在“文革”伊始就变成了国民党游击队的匪兵。父亲被抓了起来,小于建嵘与母亲、姐姐三人称了没有户口的“人”。

  没有户口,他们在城市根本没有容身之地,1967年全家回到湖南永州家乡,亦遭乡亲白眼,冬天时家里的棉被被偷走,永州代呆不下去,母亲又带着孩子们流浪回城里。

  8岁时,父亲的朋友帮忙将小于建嵘安排到一所小学的旁听名额。于建嵘穿上最好的衣服--用染的麻布包改装成的衣服,高高兴兴去上学了。岂料,上班第一天就被女班长发现:“他是人,怎么可以来我们班上?”

  女班长下令同学将小于建嵘拖出去,他抱着桌子不肯走,拉扯中麻布衣被撕烂。他被拖到学校后面,被佯装经过的父亲发现了。那一次,于建嵘生平唯一一次看到父亲留下眼泪,自此,他坚持不进小学。

30出头赚了两百万

  直到文革结束,他们一家东逃西躲的流浪生涯终于结束,于建嵘才直接进了中学,此生他从没上过一天小学。

  文革结后,1979年,于建嵘考上湖南师范大学,毕业后当上了成功的商业诉讼律师。1990年代初,才30出头就赚到了人生的第一个两百万(中国城市人口当时一般月薪才百多元)。意气风发的他买了部日本进口车,一台手提电话,到全国去寻访人生的意义,最终遇到华中师范大学中国农村问题研究中心主任徐勇教授,开始了学术生涯,去寻找苦难的原因,并且利用学者的身份发表评论以引起社会关注。

  尽管早已衣食无忧,到手的富贵荣华更曾潇洒抛去,但是于建嵘心中,童年苦难的根源却是他挥之不去的思索命题。因为那番遭遇,他看到自己与最底层的农民、矿工、访民的命运是相连的。

  “我的经历,与他们(访民)遭遇的苦难,来源都是一样的,都是制度性的。”

  他分析说,现在的制度强调的是集体,是为了未来牺牲现在。在集体主义的理论中,个体永远可以被忽略不计。

  “我认为,不管是社会主义还是其他主义,都要强调个人生命的意义。每一个人的意义都是平等的,只要那个利益是正当合法的,就没有人有权力为了未来,为了大多数人牺牲我们的利益。如果制度为了所谓的发展剥夺一部分人的利益,这个制度本身是有缺陷的,是要检讨的。”

  于建嵘做的学问总是接触社会人士的不幸,他生活中却十分风趣。朋友称他做“侃爷”,对学生、同事,或是宋庄的农民、餐馆服务员,他见到什么人都爱与对方闲聊,而且常说些俏皮话把人逗乐。底层学问,外人看来是苦苦的追寻,但诚实面对自己命运而后得到的内心安适,只有当事人最清楚。

《联合早报》

出典:http://ow.ly/107l9

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秦暉:『田園詩と狂詩曲』韓国語版序文

2010-01-25 21:41:35 | 中国異論派選訳
秦暉:『田園詩と狂詩曲』(パストラルとラプソディー)韓国語版序文(2000年)

 我あるが故に我思う、そこに「問題」あり。我思う故に我あり、そこに「主義」あり。「五四」運動以降ずっと中国知識人は「主義」と「問題」の二つを苦労して探求してきた。「五四」運動自体は、大きくて意味不明な概念の「文化」運動というよりは、(知識人を代表とする)中国人が率直に「主義」を語り、「問題」を直視した運動だったというべきだろう。当時胡適と李大の間に「問題」か、それとも「主義」かの論争があったが、実際は、胡、李を含めた「五四」エリートの大部分が「主義」も語り、「問題」も語っていた。違いは「主義」が同じでないことと、「問題」に対する認識と回答が同じでないことだけだった。

80年が経過し、世紀の移り変わり、ミレニアムの中国は依然として大変革のさなかにあり、やはり率直に「主義」を語り、「問題」を直視する精神が必要とされている。確かに「問題」を避けた「主義」の説教は空疎な学問であり、「主義」を欠いた「問題」研究は贅言の学問と言うべきだろう。空疎な学問と贅言の学問は今後もこれまで同様存在し続けるだろうが、空疎化と贅言化を抜け出す「問題と主義」の討論は疑いもなく中国思想界の希望である。

私は15歳の時に文革で学業を離れ、農村に「下放」され9年間農民をした。その「早稲田大学」(日本の大学と混同しないように!)で、私は「農民学」との縁ができた。24歳の時「早稲田」から田植えをしない大学に研究生として編入したときに、「土地制度と農民戦争史」を研究方向と定めてから、農民問題はずっと私の関心の中心である。理論と実践の探求によって私は、中国のいわゆる農民問題は過去も現在もpeasants(農民)問題であり、farmers(農業経営者)問題ではないことを知った。それはずっと、単に農耕者に関わるだけでなく、本質的には「早稲田」の中の問題でもなかった。とりわけ1949年以降、中国は僅かに存在したcitizen(市民)も徐々に消滅させられ、「都会人」は「田舎の人」よりさらにpeasantization(農民化)(もしくはnon-citizenization(非市民化))した。そのため1978年以降もやはり田舎の人が都会人にどうやってcitizenになるかを教えていた――少なくとも経済的にはそうだった〔農村からの収奪による都市の育成を言っている〕。

9年の農業生活で私は農村と密接な関係を結び、多くの農民の友達ができて、農耕者の問題は「彼らの問題」ではなく私自身の問題となった。そのため狭義の農民問題研究、過去の農民戦争史や土地制度史、農業経済学や農村社会学から今の改革の中で直面しているいわゆる三農(農業・農村・農民)問題まで、どれも私は注目してきた。だが、これらの狭義の農民学研究のほかに、peasantology(農民学)にはより広義な内容がある。すなわち農民国家・農業文明・伝統社会の研究であり、とりわけそれらの改革と近代化、すなわちいかに市民国家・工業文明・現代社会に転換するかの研究である。それが関係するのは決して農耕者のいわゆる「三農」問題だけではない。9年間の農村生活で私は農耕者の感情を持つようになったが、それだからといって私は毛沢東が言ったように都会人は農民の「再教育」を受けることが「非常に必要である」とは感じなかったし、「深刻な問題は農民教育だ」(これも毛の言葉)などとはさらさら信じられなかった。それが私に感じさせたのは都会人と農民が同じように不自由であり、同様に「共同体の付属物」だということだった。もし両者に違いがあるとしても、それは都会人が田舎の人より共同体の保護をより多く受けていること(「三年困難時期」〔1959年~61年、大躍進政策がもたらした大飢饉〕に餓死したのは田舎の人だけだった。私達都会人の「上山下郷」は一種の不幸とみなされたが、いわゆる「下放青年待遇」を受けられたので村民の羨望の対象だった)、そしてより多く共同体の束縛(政治的統制から「単位」〔配属機関:役所や会社などで、生活のすべてを管理した〕の制約、私達の選択の余地のない「生産隊への編入」を含めて。)を受けていることだけである。だから共同体の束縛から自由になった改革時代には、田舎の人はより簡単に束縛を脱し、「保護」を失うコストもより少なかった。

だが煎じつめると、改革は私たちの都市と農村の社会にいずれにとっても再編である。都市と農村の人々はみな改革の中でpeasantsからcitizenになる。すなわち従属的な共同体構成員から個性ある自由人になる過程である。よって現代中国では、狭義の農民学と広義の農民学の結合は極めて重要な意義がある。もしすでにpeasantsがおらずfarmersだけの先進国なら、人々は農場の最適規模を中心概念としてミクロ農業経済学を構築し、農産物の価格=供給反応を中心概念としてマクロ農業経済学を構築できる。だが私たちのところでは農業について語る「農業経済学」はあまり意義がない。前近代の中国では、専制国家と社会の矛盾は一貫して農村内部の地主小作、貧富の矛盾より重要だった(多く発生した「農民戦争」はその全てが反役人反朝廷であり、反地主ではなかった)。

今日の中国ではまた「農民に問題はあるが、それは『農民問題』ではない」という説がある。私は以前「中国問題の実質は農民問題」だと言ったが、これはむしろ逆転させて、農民問題の実質は中国問題だというべきである。要するに、今日の農民研究は狭義の農民学と広義の農民学を結合しなければならない。狭義の農民学は農耕者すなわち「農」を生業とする「民」に関連する人文社会問題、例えば土地制度・農民運動・農村社会・コミュニティ組織・農民負担・農村文化・農民人口移動などに注目するものであり、広義の農民学は伝統社会・前工業社会・前近代社会・前市民社会ないし未開発社会(以前よく「封建社会」と言われたがこの言葉は正確ではない)の理論、とりわけその種の社会の近代化の理論を研究するものである。その種の社会は通常農業を主とするが、その基本的特徴はその職業性にあるのではなく、その問題も農耕者の問題に限られるものではない。言い換えれば、狭義の農民学は一種の「問題」の学であり、広義の農民学は一種の「主義」の学である。前者が欠ければ、農民研究は空疎に流れ、後者が欠ければ、農民研究は贅言に流れる。

私は「問題」と「主義」の結合、狭義の農民学と広義の農民学の結合という意図をもって本書を書いた。本書の前半は「関中モデル」〔関中とは陝西省秦嶺北麓の渭河沖積平野地域〕の研究で「問題」の検討と実証に重点をおき、後半は「前近代社会」の研究で理論もしくは「主義」に重点を置いている。原書は1988年に書き、当時私は陝西師範大学で教べんをとっていたので、本書の「問題」は「関中モデル」からとっており、「主義」は80年代の新啓蒙運動の特徴を帯びている。だが、1989年の中国の政治文化気候の急変〔天安門事件を指す〕で出版社がすでに印刷に付していた本書の出版を取り下げてしまった。そして、1996年にわたしが北京の清華大学に転じてから私が編集責任者となった『農民学双書』の1冊としてやっと北京で出版することができた。私が本書を書いた80年代後期の「問題」と「主義」に対する見方は今でも成り立っている。

また、私が最近新たに展開している観点は以下の数点である。伝統社会の共同体本位という基本的特徴に加えて、中国の伝統の大共同体本位と西側の小共同体本位の違いを指摘した。西側は近代化の初期に「市民と王権の同盟」すなわち個人と大共同体が連携してまず小共同体の人権に対する桎梏を打破する段階を経験した。一方中国のこの段階は個人と小共同体の同盟の代わりに、まず大共同体の束縛を打破した。近代中国農村の多くの現象、末期清朝の宗族自治から現代の郷鎮企業まで、このように解釈する方が、簡単に「封建の氾濫」とけなしたり「伝統の活力」とほめあげたりするより合理的である。90年代、「保守的文化決定論」が「批判的文化決定論」に取って代わり一時流行したが、私はそのどちらも拒絶し、「文化決定論の貧困」を指摘し、価値観の上での普遍主義と進歩主義、歴史観の上での非決定論(歴史決定論にも文化決定論にも反対)を主張し、「自分で自分に責任を持つ歴史観」を提示した。

私はかつて伝統共同体を解消し個性化した市民社会を確立する改革のプロセスを古い大家族の「分家」に喩えたことがある。その場合「分家すべきかどうか」は重要問題であるが、分家が完了してから新しい自由な小家族が直面する冷淡・孤立・危険などもまた重要な問題である。だがこの両者の間では、「どう分家するか」・どのように公平に分家するかこそが最も重要な問題である。なぜなら経済が私たちに示すのは、私たちに古い大家族が危機に陥った時最も起こりそうな矛盾とは分家するかどうかではなく、どう分家するかの争いだからだ。それは分家の過程でもめるかどうかにかかわるだけでなく、分家後に一体どうなるかにもかかわる。公平な分家の後に「実の兄弟も、明朗会計」の良性パターン・理性的な取引の中でむつまじい関係を維持するのか、それとも分家が不公正であったために禍根を残し、その後際限のない紛争が続き「分家後の問題」をいっそう深刻にするのか? さらにそれはすでに問題でなくなったはずの「分家すべきかどうかの争い」が再び問題になる事態も引き起こすかもしれない。不公正な分家に怒った人々が再び新しい大家長を求め、混乱の中で旧式の大家族を再建し、再び苦しい歴史のサイクルを繰り返すのではないか?

だから、「どう分家するか」もしくは分家における公正の問題は極めて重要である。それは分家過程自体についてだけでなく、我が国と人類が六道輪廻の悪循環を抜け出して、新しいミレニアムに新しい文明を築けるかどうかに関わってくる。古い家父長制の弊害を除去したいと心から願う全ての人、新しい現代病を本当に憂うる全ての人は、必ずそれを直視しなければならない。残念なことにいま本当に「どう分家するか」という問題を直視している人は多くない。その原因はたぶん、第一に、「どう分家するか」という問題は非常に具体的で、「分家すべきか否か」という類の問題のように形而上で「理論的」でないからだろう。第二に、この問題を語ることが歓迎されないのだろう。「家産」を盗み侵奪した人はもちろん「公平な分家」を議論するのを嫌がるし、しかも彼らは家の中で最も勢力の強い人々だから、彼らを怒らせたら自分たちの身が危なくなる。外の人は「分家」後の新しい世帯主と商売をしたいだけなので、ほとんど誰も「分家」の公平さに興味を示さない。また外の人は長いこと新しい小家族で暮らしていてその冷たさと孤独に嫌気がさしているので、同じような不満を聞くことは好きだが、「分家の不公正」の苦しみは理解できない。そこでこの国の人たちは二つのことに没頭する。どんな結果になるか構わず分家の利点を並べたて、実施的な「家産」の窃盗や侵奪にまで正当化の理由を提供すること、そして、ひたすら新しい自由な小家族の冷たさと孤独を攻撃し、実質的には古い大家長を称揚することである。そして往々にして家産侵奪者と古い大家長は同一人物なので、私たちはその二つの声を合わせた「左右同源」の声を聞く。

その議論に全く道理がないとは言えない。たしかに分家の利点と小家族の冷たさや孤独はどちらも事実である。だが「どう分家するか」を離れた選択により、それらの議論の価値は少なくとも大幅に値引きされる。そこで「公平な分家」すなわち公正な改革の呼びかけが私が関心を寄せる中心問題となる。1989年にさかのぼるが、私が本を書いた時――その頃はまだ「分家すべきかどうかの争い」が本当の中心問題だった――私たちは歴史上の「アテネ路線」と「マケドニア路線」、「アメリカ路線」と「プロイセン路線」の研究の中で「改革路線の選択は改革の是非の争いよりも重要である」という命題を提出した。1992年私たちは公正な改革を呼びかけ、「管理人の共有財産不正配分」を防止しなければならないし、「管理人の共有財産侵奪」はなおさら許されるべきことではないと訴えた。1994年から私は続けて5回「公正の至上」を論じる文章を書いた。そして歴史事例と現実問題の分析という二つの角度から現代化・改革の中の公正の問題の各領域での現れを検討した。それには農村、農民問題も含まれる。

1997年末に「自由主義と新左派」の争いが国内で「水面に浮かび上がった」。実際はそれ以前からこの種の論争は海外ですでに始まっており、国内では「問題」の争いという形で「水面」下で行われていた。私はどちらにも参加した。私は80年代の「文化ブーム」から90年代の「主義ブーム」で思想解放が一歩前進したと考える。「文化ブーム」のとこはまだ「問題」を直視し、「主義」を率直に語る雰囲気はなかった。当時人々は「文化討論」の形式で隠喩的に思想を戦わすしかなく、何でも孔子や「文化的伝統」に結び付けて、本来明晰に伝えることのできる問題を訳の分からないおしゃべりにしてしまっていた。今「主義」を議論する空間があることは、大進歩だ。だが足りないのは、今は「問題」のタブーが「主義」のタブーより多い――これは「どう分家するか」が「分家すべきかどうか」より突出しており、利益衝突が「信念の衝突」より突出しているという社会動向の思想界における反映である――ことでこの「主義」の議論がかなりの程度「思想資源」のレベルに留まってしまっていることだ。一方はハイエク、ロナルド・コース、もう一方は「ポスト学」、「ネオマルクス主義」と、まるで外国人の論争のようだ。「資源」の争いは確かに大いに意義があるが、もし現実の「問題意識」から離れたら、「資源」はむしろ「思想」を覆い隠してしまうだろう。なぜならどんなに深刻な「主義」も現実の「問題意識」から離れて学術伝承の脈絡の中だけで発展することはできないからだ。

ある人はハイエクとミュルダールの思想は調和しないと考えている。だがある種の「問題」の前で、ハイエクとミュルダールばかりか、同じく極端な自由主義の名声をもつハイエクとミーゼスでさえ調和しない。だが別の「問題」の前では、ハイエクとミュルダールと言わず、ハイエクとマルクスでさえ同じ立場に立っている――現在の我が国にハイエクの理念から容認し得ないだけでなく、マルクスの理念によっても容認し得ないことは少なくないでしょう? 帝政ロシアの一時期、社会民主派(マルクス主義者)は「アメリカ路線」を追求し、自由主義派は「合法的マルクス主義者」を自称した。そしてこの両者と寡頭主義、ナロードニキ主義〔もしくは人民主義〕との闘争こそが水と油の闘いだった。だが後のストルイピン時代には、一部の社会民主派がナロードニキ化し、一部の自由主義派は寡頭主義化して、両者の衝突が先鋭化して寡頭主義とナロードニキ主義の風潮は日増しに盛んになった。そしてついに「不公正な分家」に根差す社会不安から自由主義と社会民主主義は共倒れになり、むしろナロードニキ主義と寡頭主義が最も極端な形で結びついてロシアを長い夜に引き込んだ。

今日の中国の「主義ブーム」の中で当時の歴史を回顧するとき、学ぶべき教訓は多い。今日の「主義ブーム」の各アクターはみな現代の西側から「思想資源」と記号資源を汲み取っているが、自由秩序が確立して久しい西側に比し、いま私たちが直面している「問題状況」は実は自由秩序が確立する前の帝政ロシアにむしろ近い。そのような状況下では、自由の欠乏は社会民主が多すぎるからではなく、社会民主の欠乏も自由が多すぎるからではない。だから当時の社会民主派は自由競争の民主国家である「アメリカ路線」に憧れ、ビスマルク式の社会保障制度を持つ独裁国家である「プロイセン路線」を敵視したのだった。そして自由主義反対派はむしろ積極的な自由の視点からマルクスを称賛し、トーリー党〔イギリスの保守党〕式の(エドマンド・バーク式ではない)保守主義に反対した。似たように、中国の現実の「問題状況」を見れば、私たちには現在自由主義が多すぎるわけでも社会民主主義が多すぎるわけでもなく、寡頭主義とポピュリズム〔もしくは人民主義〕が多すぎるのだ。だから自由主義の立場から出発して寡頭主義を批判し、社会民主主義の立場から出発してポピュリズムを批判することは、どちらも非常に必要なことだ。私はまさに同時に「二つの戦線」で「主義の争い」に参加している。

こう聞く人もいるだろう「君は一体自由主義の立場に立っているのかね、それとも社会民主主義の立場かね?」。私の答えは、自由秩序が構築される前はこの二つの立場の価値観の重なる部分は非常に広く、自由秩序の構築に伴い両者の価値の重なり面が縮小してゆき価値観の対立が目立ってくるにすぎないということだ(だが現代国家ではこの両者はまた重なりつつある)。だから中国の現在の「問題」背景の下では、私が堅持するのは自由主義と社会民主主義のどちらもが肯定する価値であり、反対するのは自由主義と社会民主主義がともに否定する価値である。自由主義が肯定し社会主義が否定するようなもの(例えば「純粋市場経済」)、および自由主義が否定し社会民主主義が肯定するもの(例えば「強大すぎる」労働組合)は私たちの中国にはどちらもまだ存在しない。それらが存在するようになってから自分の立場を選択しても遅くはない。

私のこの態度はいわゆる「第三の道」だろうか? そうかもしれないが、「第一と第二の道の重なり」(二つの道の中間でもなく、二つの道以外でもない)という方が正確であろう。いずれにせよ、中国の現在の問題は「自由が多すぎて平等を妨げている」のでもなければ「平等が多すぎて自由を妨げている」のでもない。よって、私たちが追求すべきはより多くの自由とより多くの平等という「第三の道」であり、自由でもなく平等でもない「第三の道」でも、「半自由半平等」とか「自由と平等の間の折衷」の「第三の道」でもない。

ヒトラーはかつて「アングロサクソン式民主」と「ソビエト式民主」を超越する「ゲルマン式民主」を主張していた。これこそ自由でもなく平等でもない「第三の道」の例であり、私たちはもちろんその真似をすることはできない。一方、今日のブレアが主張している「第三の道」は「福祉国家でもなく、自由放任でもない」道で、それは彼らの福祉国家と自由放任がかつて多すぎたためだ。だが私たちの大多数の人口(農民身分)が全く社会保障を受けられず、また自由も非常に少ない(あちこちの「農民工整理」の状況を見よ!)ような国で、「より多く福祉国家、より多く自由放任」の路線を選ぶべきではないと言うことができるだろうか? だからブレアの模索は確かに貴重だが、我々は真似をしてはならない。要するに、我々が進むべきは決して反自由、反社会民主の路線ではなく、また親自由で反社会民主もしくは親社会民主で反自由の道でもなく、いわんや「自由と社会民主の中間の」道でもなく、自由と社会民主の二者の重なりあう基本的価値の追求路線以外にない。

この種の基本的価値は他の国ではすでに実現しているので、彼らは自由主義とか社会民主主義というそれぞれの価値観で、左や右もしくは中間の立場を選択できる。だが私たちのところでは、上述の基本的価値を実現のために奮闘している段階であり、実際は二つの立場の対立しかない。すなわち人道と反人道の立場、ハイエクとマルクスの立場対ヒトラーとスターリンの立場だ。今海外で「自由主義左派は自由主義右派に反対する」という命題が提出されている。よその国ではこれは真の命題かもしれない。なぜなら彼らのところでは「自由主義右派」の他に自由主義左派にとって反対すべき対象がなく、逆もまた同様だからだ。だが私たちのところでは、「自由主義右派」だけに反対する人や「自由主義右派」を最大の敵とみなす人は決して「自由主義左派」ではなく、(帝政ロシア時代の社会民主党員の言葉を借りれば)「警察ポピュリスト」である。一方、「自由主義左派」だけに反対したり、社会民主主義の原則だけに反対する人も「自由主義右派」などではなく、「警察寡頭主義派」だ。――そしてプレハーノフたちが当時指摘したように、警察ポピュリストは警察寡頭主義派に簡単に転化するので、自由主義者と社会民主主義者はお互い対立するのではなく、「別個に進んで共に撃つ」という関係に立つべきである。そして、自由主義派と社会民主派の関係さえそうなのに「自由主義左派は自由主義右派に反対する」などという説が一体なぜ出せるのだろう? だから私は「主義」問題で自由主義と社会民主主義が共有する基本的価値の立場、私の別の文章の中でのいい方だと「自由が主義に優先する」立場に立つ。この立場は西側では多分いかにも「中庸」に見えるだろう。左でも右でもなく、もっと正確にいえば左でもあり右でもある。だが中国ではこの立場は「過激な中庸」――経済的には、大家長が〔社会主義〕大家族を防衛したり復興したりすること(これには一部の「左派」が賛成している)に不利であり、大家長が家産を独占して子供たち〔=労働者〕を家から叩き出すこと(これには一部の「右派」が賛成している)に不利である。政治的には、それは擁護することだけを許す政府に反対し、反対することを許す政府を擁護する。ゆえにそれはもっぱら「擁護することだけを許す政府」を擁護する「保守主義者」の攻撃を受け、またもっぱら「反対することを許す政府」に反対する「急進主義者」の攻撃を受けることになる。この後二者の「急進か保守か」の論争は見ていて全く滑稽である。

間違いなく、これらの立場は現代の先進国では珍しいことではないが、今日の中国ではこの種の立場の前提が、大方の見るところ、全く欠如している。それなら、我々の努力は成果を得られるだろうか? 私はそれは問題にならないと思う。私は文化決定論に反対する。私が思うに、歴史には因果関係がある(だからこそ歴史は解釈できる)、だが歴史の主体としての人には主体性があるから、歴史の中の因果は確率的因果であり、必然的因果ではない。いかなる1以外の確率も何度も掛け続けて行けば0に近づくから、長期的にみると人々は自分で責任を負わなくてはならない。例えば、もし事件Aが事件Bを引き起こす確率が80%、事件Bが事件Cを引き起こす確率が60%、事件Cが事件Dを引き起こす確率が70%だとすると、事件Aが事件Dを引き起こす確率は33.6%に過ぎない。よって「原因の原因の原因は、原因ではない」。だからもし明日の中国がうまくいかないとしても、孔子を責めることはできないし、マルクスを責めることもできず、私たち自身を責めるしかないのだ。私たちが努力すれば必ずや成果を得られると、私は確信している。

原文出典:http://www.boxun.com/hero/qinhui/83_2.shtml

中国語版『田園詩与狂想曲』は現在品切れだが一部が下記サイトで読める。
http://book.ifeng.com/lianzai/detail_2010_01/23/298295_0.shtml
2010年1月漢語版重版出来。

(転載自由、要出典明記)

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韓寒:映画『孔子』を見た

2010-01-25 11:27:03 | Weblog

看孔子(2010-01-25 03:59:33)
   
今天我去看了《孔子》,在进场之前,我又离场了,是因为我要看清楚我究竟坐在哪里,免得一进去以后打扰到别人。一进场我就后悔了,电影院里不到十人,座位基本是自助的。在中国的古代,产生了一堆的子,虽然他们今天曰的和昨天曰的甚至还会自相矛盾,他们的意义不在于他们说的足够好,而在于他们说的足够多,各个时空的政客们各取所需,或推崇或批判。孔子就是里面最富有代表意义的一位。

 

说实话,我一直不觉得这些古代题材有什么拍成电影的必要,从电影的角度,类似的电影从诞生的一瞬间做的就是最反电影的事情,那就是扼杀想象力。但你要真说中国这些古代大片没有想象力吧,也不一定,编剧们经常创造出非常反历史的桥段,所以这本身是非常纠结的一件事情。之所以中国的大片大多数都要拍古代著名人物或者故事,源于制片方投资方没有什么安全感,他们觉得投了大钱,要完全建立在靠编剧导演创造出来的故事上不大靠谱,而偶然有导演同时拥有了巨大投资和自由创造的权利之后,拍出来的电影居然更加差。这一切,拧成了中国大片的悲剧史。至于周润发说,看完电影不哭的都不是人,我相信这是他的错觉,一定是在内部的看片会上,制片方都哭了。制片方哭的是,这得要拉多少的中小学生政府机关包场才能保本啊。

 

我们抛去一切政治的因素,从电影的本身看这部电影,这是一部失败的电影。电影里的说教毫无感染力,孔子一边在电影里说礼说仁的时候,我边上那人还用手机大声聊了十分钟的天,里面的战争如同儿戏,鲁国国力不济即将不保,而孔子的弟子只需要设一点路障向空中射箭就能退敌,而影片中,人和人之间的口交都没有任何的说服力,就好比小时候家长经常告诉我们,今日事要今日毕,但这句话其实不能说服你。这已经不是一个子多曰几下就能忽悠人的年代了。通过电影,你很难理解孔子这个团队里的员工为什么一直追随着孔子。在渲染人物性格的地方,我忍受了他们花十分钟让一碗马肉汤,来宣扬这个团队的凝聚力,因为我已经忍了孔子二十九代弟子孔融让一只梨的故事贯穿了我整个童年的时光。而任泉扮演的颜回最后居然为了多捞几卷文书,在冰水里冻死了,这不是感人,这是愚蠢。在前戏没有做够,过程乏善可陈的情况下,主人公就爽死了,这是不合逻辑的。在理想刻画的不够成功的情况下,这是毫无人性光环的桥段,放到现代电影里,就好比领导家被火烧了,领导的秘书冲进火海,救出了一本毛泽东文选,出来一看只救出了上卷,于是又冲了进去,又救出一本,出来一看妈的原来不是上下卷,自己救出的是一本中卷,于是明知道房子要塌了自己不行了,又冲了进去,然后房子就塌了他就死了。作为观众,你认为你能哭么。周迅的出场完全是因为制片方认为要加一个女人才能丰富电影,周迅扮演的南子对着孔子调情半天,但是子光曰不日,急死我了。最后南子的结局是不知道为什么被射死。

 

我给孔子打出了两分,首先,为了周润发之前在《阿郎的故事》中的精彩演出,鼓励这部电影一分,我想周润发的不哭不是人理论用在《阿郎的故事》中是成立的。最后,因为导演是女性,也鼓励一分。但是不得不说,无论是《孔子》或者另外一位女导演的《我是刘跃进》,这两位女性导演对于非情感类电影,尤其是比较庞杂的电影的把握能力都比较差,我不是特别理解他们为什么不去拍一些爱情电影或者生活电影,这是女导演的长项,类似张艾嘉的《心动》和许鞍华的《天水围的日与夜》都是女导演的好电影。女人何苦为难女人自己。

 

最后,我想说,《孔子》这部电影,无论从拍摄意义,商业利润,艺术追求,电影探索,教育启蒙,警世感人,视听震撼,娱乐消遣,记录历史等任何一个角度,都没有存在的必要,是一部完全可以抹去的电影。


出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4701280b0100gqf8.html

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王力雄:普通のファシスト(日本語)

2010-01-22 19:03:14 | 中国異論派選訳

王力雄:普通のファシスト

 

自由社会で生活している人の多くは中国人が民族主義を表明する時の独裁政権への共感を理解できない。中国人の人間性は、本当に独裁統治の下での生活を好むのだろうか? いくつかの面から観察してみよう。

 

第一に、中国民衆の政権に対する承認は、ほとんどここ数十年の経済発展に対するものだ。社会には様々な矛盾があるが、経済が高度成長を維持している限り、俗に言うように「色の白いは百難隠す」のだ。だが、常識で考えても経済の高度成長が永遠には続かないことは分かる。ひとたび経済に問題が起きたら、もともと隠されていた社会危機と政治危機が表に浮き出てくるだろう。その時は政権に対する不満に転化する。

 

第二に、現在外から見ることのできる中国人は基本的に都市に住んでおり、良い教育を受けた人々だ。彼らの声は大きいが、人口中の比率は大きくない。中国の広範な人民――下層大衆である労働者・農民・出稼ぎ労働者・陳情者にとって、民族主義は彼らの切実な公正・人権・自由・民主への願望にくらべればはるかに重要さは劣るが、彼らは声を上げる手段のない沈黙の多数なのである。

 

第三に、全体主義は大衆動員に長けている。大きな問題について民衆は十分な情報や知識がなく、容易に煽動され操作される。ドイツでかつて一人の高校教師が学級で実験を行ったことがある。その実験では僅か5日目で、民主社会で育った子供たちがファシスト的な集団に変ったという。中国は国家装置を挙げて60年間も吹き込み続けてきたのだから、民衆が今のような民族主義思想を持っていることはなんら不思議ではない。

 

それらに比べてさらに悪いことは、独裁制度が「普通のファシスト」もしくは「凡庸なファシスト」と呼ばれる人々を育てたことだ。彼らは決して独裁権力の実力者ではなく、独裁装置の小さな部品に過ぎない。彼らは決して自分の思想がないのではなく、正義・良心・真理が彼らの行動規範ではないのだ。彼らの心には個人の利益しかなく、独裁権力の指令に対する服従とその執行を生活のための職業とみなしている。自分の行為の責任を回避する理由は「生活のため」であり、やましさを感じることなく独裁権力の道具となって、政治的な迫害などの行為に従事している。この種の「普通のファシスト」は、漢人の中にもいるし、チベット人の中にもいる。

 

「普通のファシスト」は普段は見たところ善良な市民、愛情深い父母、気さくな隣人だが、まさにこういう普通の人が、独裁装置を稼働させ、独裁制度の安定を維持している。もし彼らがいなければ、独裁政権は一日たりとも続かない。一つの民族が長期にわたって独裁政権に統治されることができるのは、この種の「普通のファシスト」を生み育てる土壌があるからである。そして楽観できないことに、この土壌は中国社会では非常に厚い。

 2009-10-6

 (この文章はRFAチベット語番組の記事である)

 原文出典:http://woeser.middle-way.net/2010/01/blog-post_19.html

(転載自由・要出典明記)

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王力雄:普通のファシスト

2010-01-19 22:16:28 | Weblog

王力雄:普通的法西斯

很多在自由社会生活的人不理解中国人表达民族主义时那种对专制政权的认同,难道中国人有不同的人性,真的喜欢在专制统治下生活吗?我认为不妨从几个方面看:

一是中国民众对政权的认可,大多来自这几十年的经济发展,虽然社会存在种种矛盾,只要经济保持高速长,按照中国俗话说就是“一俊遮百丑”。不过以常识也可以知道世上没有永远高速长的经济。一旦有一天经济出现问题,原本被掩盖的社会危机和政治危机就会随之浮出,那时对政权也就会转变为不满。

二是目前外界能看到的中国人基本是居住在城市、受过较好教育的人。他们的声音虽大,在人口中的比例并不大。对中国的广大人民——底层百姓,工人、农民、农民工、上访人而言,民族主义远远不如他们切身的公正、人权、自由和民主更重要,只是他们无从发出声音,是沉默的大多数。

三是极权主义擅长运动群众。面对宏大问题,民众因为没有足够信息与知识,容易被煽动和操纵。国曾经有一个中学老师在班级里做实验,只用了5天时间,就把在民主社会长大的孩子变成了具有法西斯性质的群体。那么,中国以整个国家机器进行了60年灌输,民众形成目前这种民族主义思潮不奇怪。

相比更糟的是专制制度培养出一种人,被称为“普通的法西斯”或“平庸的法西斯”。他们并非专制权力的当权者,只是专制机器上的细小零件。他们并非没有自己的思想,但是正义、良知、真理不会成为他们的行事准则,他们的心目中只有个人利益,把服从和执行专制的指令当作谋生的职业,对自己行为进行开脱的理由就是“要吃饭”,心安理得为专制权力充当工具,去从事政治迫害等行为。这种“普通的法西斯”,汉人中有,藏人中也有。

“普通的法西斯”平时看上去是善良市民、慈爱父母或是和气的邻居,然而正是这些小人物,保持了专制机器的运转,维持了专制制度的稳定。如果没有他们,专制政权一天也存在不下去。当一个民族长期被专制政权统治时,正是因为有培养和生长这种“普通法西斯”的土壤。而让人不乐观的是,中国社会的这种土壤十分丰厚。

2009-10-6

(本文为RFA自由亚洲藏语专题节目,转载请注明。)

出典:http://woeser.middle-way.net/2010/01/blog-post_19.html

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実際には今でも多数の農村留守児童が存在する

2010-01-11 19:24:00 | Weblog

(湖南省のボランティア活動記事の中の両親が出稼ぎで長期不在の農村留守児童。中国政府の中国通信社の2009年5月の報道によると「中国では農村留守児童が約5800万人おり、そのうち14歳以下が4000万人余りに上っている」とのこと。)

三千册图书赠留守儿童 志愿者送心灵关怀 
 
湖南频道 ( 2010-01-11 09:18:38 )  作者: 岳冠文 刘伟明  稿件来源: 长沙晚报  
 

    据星辰在线-长沙晚报1月11日报道 寒风、冷雨,但岳麓区莲区镇龙洞村的几十名留守儿童心中却充满着感动。昨日,市文明办、市作协为龙洞村的孩子们送来了一份精神大餐——由市作协会员编写的适合少年儿童阅读的3000册、价值5万余元的精选图书。

    在龙洞村,有一个由社会工作者和青年志愿者为“留守儿童”创建的特殊课堂——“农家学舍”。志愿者们利用周末及假期的时间,深入农村,将少年儿童集中起来进行传统文化、道礼仪、环境保护等方面的知识传授和心灵关怀。该课堂成立半年多来,已发展志愿者150余人,开设教学点4个,直接服务对象近5000人次。同时,志愿者融入龙洞村新农村建设,参与民间故事收集和村内刊物编辑等工作,举办了“六一联欢会”、“为孤寡老人送戏”、“国庆六十周年爱国电影巡演”等活动,受益群众达4000余人次。“农家学舍”是农村未成年人思想道建设、农村公共文化服务工作模式的创新,被列为2010年“两型社会”示范镇建设推广项目。

    市作协副主席杨学成表示,大量农村劳动力赴城市打工,大量“留守儿童”成为了社会的新课题。“农家学舍”打通家庭教育、学校教育和社会教育,志愿者言传身教,辅以心灵关怀,帮助少年儿童激发智慧、培养情操。希望更多的教学点在长沙农村生根发芽,使农村未成年人健康成长。(编辑 李兰香)

出典:http://www.hn.xinhuanet.com/newscenter/2010-01/11/content_18731215.htm

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揚州市広陵区の小学校生徒募集要項

2010-01-11 19:18:18 | Weblog
扬广府办〔2009〕52号


关于印发2009年
广陵区小学招生工作意见的通知

各乡镇人民政府、街道办事处,广陵新城、产业园、食品工业园、商贸物流园,区各有关部门,区直属各小学:
《2009年广陵区小学招生工作意见》已经区政府第14次常务会议讨论通过,现印发给你们,希认真遵照执行。

 二○○九年六月二十九日

主题词:教育 招生 意见 通知
抄 送:市教育局,区委办公室、区人大常委会办公室、区政协
办公室
扬州市广陵区人民政府办公室 2009年6月29日印发
共印60份
2009年广陵区小学招生工作意见

为认真贯彻落实《中华人民共和国义务教育法》,切实保障适龄儿童接受义务教育的权利,促进区域义务教育高位均衡发展,根据《江苏省义务教育阶段学籍管理规定》和扬州市教育局《关于做好2009年扬州市区小学招生工作的通知》等文件精神,结合我区实际,现对2009年全区小学招生工作提出如下意见:
一、招生对象
根据《中华人民共和国义务教育法》规定,小学新生入学年龄为六周岁,今年各小学应招收2003年8月31日以前出生的适龄儿童,不足六周岁的儿童不得招收;对年满六周岁无故不按时入学的,责成监护人保证其入学;有学习能力和自理能力的残疾儿童为正常招生对象,其入学年龄可适当延缓。
二、招生计划及招生时间
根据广陵区教育事业发展规模和生源情况,结合各校办学条件和区域教育现代化建设工作需要,我区今年计划招收一年级新生3680名(各校计划招生数见附表)。全区公办、民办小学招生时间统一为2009年7月3日—7月6日。
三、招生办法及注意事项
1、坚持规范招生。全区各公办小学必须确保本施教区内的每一个适龄儿童都有一个公办学位就读;招生规定时间内,适龄儿童由家长或其他法定监护人携带,携户口簿、房产证、幼儿教养手册、预防接种卡等材料,到所属施教区学校登记报名;实行《义务教育入学通知书》制度,各小学必须在8月15日前将入学通知书发给适龄儿童父母或其他监护人。民办小学招生方案、招生人数、招生广告等,要报区教育局审核备案,并按照审批同意的招生方案、招生计划和广告内容在规定时段内招生。
2、坚持就近入学。适龄儿童在法定监护人实际居住地(家庭住址)免试就近入学。适龄儿童家庭应具有施教区正式户籍,适龄儿童户口原则上应随父母或其他法定监护人在同一户籍,且户籍与监护人房屋产权证、实际常住地三者一致。
属下列情况之一的适龄儿童,持相关证明,按正常入学办理:
(1)适龄儿童随父母一方在施教区常住,父母另一方为非施教区户口的现役军人(含武警)或出国定居者、在外地工作者。
(2)父母双方均为非施教区户口的现役军人(含武警)或长期因公出国、长期支援边疆建设者,适龄儿童为施教区单立户口或投靠亲属在施教区常住的。
(3)父母离异,适龄儿童随监护人在施教区常住的。
(4)适龄儿童为孤儿,随监护人在施教区常住的。
(5)监护人确无自有房产,适龄儿童随父母在老一辈处落户,常年同住,且无户口迁移史的。
(6)承租单位公房,适龄儿童父母没有他处房产,确系长期居住于此的。
属下列情况之一的适龄儿童,由教育主管部门根据实际情况统筹安排学校就读:
(1)适龄儿童与监护人不在同一户籍,或家庭户籍、房屋产权证、实际常住地三者不一致的。
(2)适龄儿童父母有两套及以上住房,以实际居住地为准,其实际居住地不在施教区内的。
(3)拟通过购买二手房进入生源拥挤学校就学的(生源拥挤学校施教区内,同一处房产、不同户主原则上三年内只能有一个适龄儿童享受该施教区入学政策)。
3、坚持公平均衡。采取下列措施,保障区内所有弱势群体子女公平就学。
(1)宏志班、宏志生帮扶措施。对区内特困家庭子女,继续在东关小学举办“宏志班”,招收“宏志生”;由家长书面申请,凭《扬州市居民最低生活保障金领取证》《扬州市特困职工特困证》及相关材料到东关小学报名,学校审核、招生办审批后即可就读;符合“宏志班”入学条件,但不便在东关小学就读的特困家庭适龄儿童,其就近学校也设立有“宏志生”名额,同样享受“宏志班”学生待遇;“宏志生”享受学习费用全免,补助校服、书包、学习用品、牛奶及学业帮扶等其他优惠政策;“两证”不全的困难家庭子女提出就读“宏志班”,调查属实者可适当放宽条件;在我区就读的四川灾区学生,享受“宏志生”待遇。
(2)特殊教育帮扶措施。对区内残疾适龄儿童,可在施教区学校随班就读,也可到特殊教育学校入学。凡要求在普通小学随班就读且有一定学习能力的适龄残疾儿童少年,各学校不得拒收。我区培智学校面向全区招收符合条件的智力残疾儿童入学,与普通小学招生工作同步进行;聋、盲、哑适龄儿童入学,家长可到扬州市特殊教育学校办理入学手续。
(3)农村留守儿童帮扶措施。对施教区内的农村留守儿童,乡镇学校在入学时要做好登记,对家庭经济困难的农村留守儿童,补助校服、书包、学习用品,实施学业帮扶,明确教师与留守儿童一对一结对,积极开展“146”关爱行动。
(4)外来务工人员子女“市民待遇”。依据外来务工人员子女入学“流入地政府负责、全日制公办学校接纳为主”的原则,凡在广陵区务工的外来人员子女,家长凭“四证”,即独生子女证、原籍户口、我区公安部门核发的暂住证、与务工单位签订的合法劳动合同(或当地工商行政管理部门核发的营业执照),到居住地所属公办小学登记,若居住地所属公办小学生源已满,由区招办根据实际妥善安排到非生源拥挤学校,享受施教区内学生同等待遇;“四证”不全的外来务工人员子女,由区招办根据实际情况统一安排到相对就近的非生源拥挤学校就读;各小学要全面做好我区外来务工人员子女入学登记备案工作,一律免收借读费。
(5)拆迁户子女入学政策。拆迁户已分配或购买新的房产,凭房产证及户口簿到新房产居住地所属施教区学校报名;拆迁户在新房产尚未分配到位的过渡期间,凭户口簿、拆迁协议、暂住证等材料到原居住地所属施教区学校报名。
(6)特异体质儿童教育呵护。各小学在新生报名时,要做好预防接种证的查验和特异体质学生调查备案工作。学校应主动向新生的父母或其他监护人了解其身体健康情况,对有特异体质或者特殊疾病的学生,要求其父母或其他监护人及时书面告知学校,并提供二级以上医疗机构出具的相关书面材料;对施教区内的特异体质儿童,学校依法接纳,并做好教育呵护工作。
(7)教育服务民生相关措施。进一步放大优质教育资源,鼓励各学校积极开展小班化教育实践,继续在北柳巷小学及东关小学文昌分校举办小班化教育特色班;推进骨干教师支教交流,以生源均衡、师资均衡和办学条件均衡推进义务教育均衡发展;进一步规范学校办学行为,控制办学质量不高、办学条件不硬的民办学校招生规模。
四、工作要求
1、加强组织领导。小学招生工作涉及千家万户,事关群众切身利益。各校要加强领导,成立招生工作领导小组和工作小组,及时妥善解决小学招生中群众反应集中的热点难点问题,主动接受家长和社会监督,确保小学招生工作的顺利进行。
2、加大招生宣传。各校要认真学习招生文件,领会招生政策,高水平做好招生宣传、咨询、接待和准备工作;要在招生前一周将招生简章张贴公布,明确学校招生范围、报名手续、有关要求;招生接待人员要依据招生文件做好咨询接待工作,妥善处理好招生过程中出现的各种情况和问题,积极为群众排忧解难。
3、加快学校发展。各校要努力提高学校办学水平和质量,主动发展,特色发展,内涵发展,多种形式地开展校际合作,努力缩小校际间教学水平和管理水平的差距,努力为每个适龄儿童提供优质、公平的教育条件和教育机会。
4、严肃招生纪律。各校要自觉遵守招生纪律,认真执行招生政策,禁止任何学校提前招生、擅自招生;对符合入学条件的儿童不得以各种借口推诿、拒收;新生一律免试入学、均衡分班,禁止以任何名义分设重点班、实验班等;严格执行省、市关于义务教育免收学杂费、课本费的规定,禁止各类乱收费。对违反规定乱招生、乱收费的学校和个人,一经查实,将坚决予以纠正和处理。
5、妥善调处矛盾。各校要立足办人民满意教育,深入学习实践科学发展观,竭诚为群众服务,热情接待家长来访;凡属辖区内或施教区内发生的问题和矛盾,要立足自身力量,及时、妥善进行处理,确保社会稳定。广陵区小学招生办公室设在北柳巷小学内,联系电话:87365097。

2009年广陵区小学招生计划

学 校班数生数学 校班数生数
育才小学10450育才实验学校10380
扬大附小10450东关小学5225
艺蕾小学3120东关文昌分校4180
工人新村小学290广陵小学4160
北柳巷小学280东花园小学4180
文峰小学280沙口小学5225
汤汪中心小学3120解放桥小学3120
宦桥小学280新星小学280
湾头中心小学
(含二桥教学点)3120北京新东方扬州外国语
学校(小学部)12360
湾头实验学校280同心学校145
培智学校110向往学校145
合 计91个班3680人



出典:http://www.yzglq.gov.cn/html/200992193525.htm
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中国社会観察ネット:農村留守児童問題研究(2)

2010-01-11 19:10:47 | Weblog

1.监护人对留守儿童学习介入过少导致的学习问题

 

一方面,那些父母在外的家庭,由于爷爷奶奶、外公外婆的文化水平较低,对孩子学习上的问题往往不能给予帮助;另一方面,父母一方在家的家庭,留在家里的父亲或母亲由于承担了全部的家务和田间工作,也没有时间去关注孩子的学习。因而,从数据分析结果来看,如果学习上有了问题,孩子向家人求助的比例最低。这同时也说明了另外一个问题,由于农村人口文化素质普遍偏低,与城市相比,父母对孩子学习上的辅导相对要少了很多。

 

2.缺乏亲情抚慰导致的生活问题

 

父母在外打工对留守儿童生活的影响较为复杂。一方面,由于在外打工,经济较为宽裕,对留守儿童生活的支付能力较强,所以在生活(主要是物质生活)的满意程度上,留守儿童的满意度更高;但由于父母不在身边,留守儿童得到的关爱减少,所以,半数留守儿童不希望父母在外打工。从年龄维度看,随着年龄的长,留守儿童逐渐意识到家庭完整和父母关怀的重要性,因此,对生活的满意度逐步降低。

 

法国克里斯琴·施皮茨博士曾经这样忠告做父母的人:培养你们的孩子,多和孩子在一起,因为亲情的抚慰与关怀有助于孩子的成长。而留守儿童成长期间缺乏的恰恰是亲情的抚慰与关怀。这是我们应该引起充分重视的。

 

3.缺乏完整的家庭教育导致的心理问题

 

在此次问卷调研中,一个重要的事实是留守儿童有了烦恼向家人倾诉的比例最低。中小学生正处于身心迅速发展的时期,对自身变化、人际交往等方面有着自己的理解与认识,与此相关的也带来了一些烦恼与冲突。这时,他们需要有倾诉的渠道,也需要有人能够告诉他们怎样正确对待这些问题。家人在这方面应该起到非常重要的引导作用。但由于父母在外,留在家里的其他亲属或父亲/母亲无暇顾及他们的情绪情感变化,使得留守儿童缺少了起码的与父母交流的机会。这种情绪的长期积累,对于儿童心理的健康成长非常不利。

 

家庭教育是启蒙教育,也是影响人一生的至关重要的教育。良好的家庭教育氛围,有利于培养出身心都得到健康发展的下一代。在从婴幼儿期到儿童期、青春期的孩子的人格形成(其中特别是社会化)过程中,父母与子女间的关系是一个极其重要的构成因素。这种关系直接影响到孩子的行为、心理健康、人格与智力发展。因为父母在外,父母与子女之间的关系相对疏远,亲子关系发生了消极变化,这对留守儿童心理的健康成长也产生了诸多不利影响。另外,在缺乏父母关爱和正常家庭氛围的环境下成长起来的儿童,往往缺乏安全感,人际交往能力也较差。此次数据分析结果显示,留守儿童与同伴交流内心烦恼的比例要低于非留守儿童10%,而留守儿童半数住校,他们与同伴交往的时间更长,生活联系更紧密,但关系却更松散。另外,大多数留守儿童表现出对家庭经济、父母健康、安全的忧虑,从更深层次来看,反映了留守儿童内心的压力。心理问题的形成是一个长期的过程,其解决也是一个长期的过程。一旦形成畸形心理,进行矫正型教育要比教育更难。

 

五、问题形成原因分析

 

1.从社会整体发展来看,农村劳动力大规模流动与城乡壁垒存在矛盾

 

2003年,我国农村流动人口已达到1.139亿 ,比2002年加了8.8%,即长了1000万农村流动人口。流动人口的数量不断扩大,家庭化流动的趋势日益明显。但城乡二元结构使进城打工的农民工无法长期将子女带在身边给予照顾。原因在于城乡隔离的户籍制度以及与这种户籍制度相伴而生的子女免费或低收费入学、必须在原籍所在地中考、高考等制度形成的壁垒。农民工无法承担子女入学的高昂费用问题、在简陋的农民工子弟学校入学无法解决升学考试问题、各地教材的选用不同使得这些群体的子女在转学后面临两地教育内容不能衔接的困境等问题,直接推动了留守儿童这一群体的产生。

 

2. 从家庭认识来看,在经济收入与子女教育之间取舍失衡

 

为了改善家庭生活,越来越多的农民离开了土地,到城市里务工谋生。他们希望自己的生活越来越好,也希望给下一代成长提供更充裕的经济支持。但在外出务工与子女就学、教育之间产生冲突时,他们往往选择前者。农业部2004年发布的数据显示:劳动力不外出的原因中“怕影响子女上学”仅占第一、第二选择的6.7% 。这其中,既有生活压力的原因、也有教育意识的原因。但不同原因导致的结果却是相同的,即:使儿童在不完整的家庭中成长,在流动——留守——流动的变动中长大。

 

3.从家长自身来看,家长的教育能力与孩子教育需求之间形成落差

 

外出务工的家长整日忙于打工,没有时间与精力过问孩子的学习,对孩子的困惑、需求、交往、兴趣的关注就更少了,在家里的父亲或母亲忙于操持家务,对孩子的教育关注仅限于让孩子完成作业,家庭教育基本处于空白状态。正处于身心迅速发展时期的中小学生,对学习、生活、自身的变化有太多的问题需要解决,但家庭不能充分给予他们以精神上的支持和知识上的解答。

 

4.从学校教育来看,课程设置与儿童身心发展不相适应

 

由于家庭生活的不完整,留守儿童在心理发展上存在更多的困惑与问题,他们需要学校给予更多的帮助与疏导,需要通过教师、通过集体的温暖弥补亲子关系缺失对其人格健全发展形成的消极影响。但由于教育理念、办学条件、师资力量等多方面的制约,农村学校很少开设专门的心理课程并配备专门的心理教师。也很少有组织、有计划地对学生进行心理教育、生存教育、安全教育和法制教育。这些教育内容不但对留守儿童是必要的,对生活在社会飞速变化,媒体迅猛发展这一时代的所有儿童都是必要的。

 

六、对策与建议

 

不论是留守儿童教育,还是流动子女教育,它们都是当今农村劳动力转移过程中带来的问题,而且将是一个时期内长期存在的问题,由于这一人群正在加大,问题正在凸显,因此,我们必须从法律上、制度上整体地把这些问题纳入到社会经济发展总目标中加以解决,才能够标本兼治,彻底解决留守儿童教育的问题。

 

1.加快户籍制度改革,逐步消除城乡差距。

 

改革户籍制度的核心并不在于完全取消户籍管理制度,而是要逐步弱化乃至取消与户籍相联系的城乡隔离的各种制度,从而保障劳动力的合理流动。政府应制订和实施优惠政策和配套措施,使流入城市的农民享有与城市人口平等的权利和社会权益。同时,逐步实现以户籍制度改革为中心,拆除就业、医疗、住房、教育等制度壁垒,彻底打破维系多年的城乡“二元经济体制”,引导农村富余劳动力在城乡间的有序流动。这是解决农村留守儿童的根本所在。

 

2.加强社会组织的建设,加深社会力量帮助儿童的参与程度

 

社会组织是世界发达国家普遍具有的帮助机构,其中帮助儿童是重要的内容。在我国,这类系统尚欠发达,类似NGO的组织的作用还不十分明显。随着我国的不断发展,社会工作制度的建立应提到政府的议事日程上来。政府部门应充分引导和发挥NGO组织的作用,加强协作,在帮助农村留守儿童的同时,对进城务工的农村家长进行引导和教育,强化农民工家长的家庭教育观念及其重要性,让农民工家长学会与孩子沟通、交流以及教育孩子的正确方式,发挥家长对孩子的独特的教育功能,引导孩子健康成长。

 

3.建立农村社区儿童少年教育和监护体系

 

少年儿童的教育历来是家庭、学校与社会共同的责任。但是,就我国当前教育的现状来看,社会对少年儿童发展提供有效帮助的机构太少,尤其在广大的农村地区,由于基层很少或没有相关的少年儿童的社区教育组织,使得农村少年儿童的教育与成长发展在社区教育这一块尚处于真空之中。因此,解决农村留守儿童问题,需要家庭、学校和社会健全各自的教育功能,相互合作,促使孩子健康成长。

 

农村建立社区教育和监护体系,可以考虑由基层学区和共青团牵头,联合妇联、工会、村委会、学校,共同构建农村少年儿童健康发展的教育和监护体系。这些社区机构可由离退休教师、青年志愿者等人员构成。这对于保护农村少年儿童健康成长,帮助他们形成正确的生活态度,培育他们形成健康人格,提高其综合素质,沟通学校与家庭都会产生有利的影响。这是家庭、学校之外的另一种与孩子们互动的关系,同时也起到了一种沟通家庭、学校与孩子们之间关系的桥梁作用。

 

4.加强农村寄宿制学校的建设,切实有效地对留守儿童进行教育与管理

 

农村中小学普遍寄宿条件很差,甚至很多没有寄宿条件,这使得农村留守学生在家庭教育缺失的情况下,学校和教师的教育功能不能更有效的发挥。因此,政府应加大对农村寄宿制学校的建设力度,并不断完善其基础设施,要尽量为双亲在外地或亲友不能有效地提供完整成长环境的农村留守儿童提供住宿便利。让留守儿童在老师、同学群体中成长,以对缺失的家庭教育进行补偿。同时,学校要利用假期、或春节家长回家的时机,召开留守儿童家长会,与家长交流,使学校内外对儿童的影响产生合力效应。

 

5.在学校教育中设相关课程

 

联合国教科文组织在其所编的《学会生存》一书中指出:“把一个人在体力、智力、情绪、伦理各方面的因素综合起来,使他成为一个完善的人,这就是对教育基本目的的一个广义的界说。几乎在所有的国家,在整个历史过程中,在哲学家和道学家那里,在大多数教育理论家和理想家那里,都可以找到这个教育理想。” 4我们在为所有儿童提供良好的知识教育的同时,我们也要关注他们的身心健康发展,尤其是对生活在特殊状态下的儿童,我们更要给予更多的关注。我们呼吁所有学校要开设针对青少年身心发展规律的心理课程,引导儿童走过人生发展的关键时期。学校要专设心理教育教师,他们和其他任课教师一起共同对儿童的显性和隐性的心理压力进行疏导。帮助儿童健康、和谐发展。

出典:http://www.lookinto.cn/survey/469/

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中国社会観察ネット:農村留守児童問題研究(1)

2010-01-11 19:08:57 | Weblog

中国农村留守儿童问题研究

“中国农村留守儿童问题研究”
中央教育科学研究所教育发展研究部课题组

一、引言

自1978年改革开放以来,中国城乡间人口流动的限制被打破,由此开始了迄今世界上规模最大的人口转移。这一转移具有两个显著特点,一是农业劳动力向非农业转移,人数为由1978年的2827万人上升为2000年的17078万人。二是大量农民向城市转移,改革开放以来这类人数累计约在6000多万到1亿之间。此外,中国加入WTO之后,农村的隐性失业问题将更加突出,农村剩余劳动力的数量将进一步上升,这也将促使农村剩余劳动力向城市转移。

 

农村剩余劳动力向城市的转移也是工业化、城市化和现代化发展的必然结果。从世界各国发展的历史来看,现代化进程往往都伴随着大量的人口转移。二战后,日本、韩国、台湾地区在经济高长的过程中都伴随着大量的农业劳动力向城市转移,这种转移一方面带来了劳动生产率的提高,同时也扩大了消费的需求。在我国,从1985年中央1号文件打开了农民进城务工的大门,到2004年《中共中央国务院关于促进农民加收入若干政策的意见》等一系列政策的推动下,农村人口向城市(镇)转移的规模不断扩大。进城务工成为农民脱贫致富的一个主要途径,这一现象也成为我国经济持续高速长的动因。与此同时,人口的流动和转移也加大了城市对就业、住房、医疗、教育、交通和社区服务等许多方面的压力。我国现行的户籍管理制度和人口分割状况将这种压力转嫁给了流动者本身,这就使得促进城市发展的农村劳动力不能享受与市民同等的待遇,不能享有国家提供的各种公共服务。留守儿童问题就是在这样的背景下产生的。

 

在《中国农村留守儿童问题研究》课题由教育部基础教育司委托中央教育科学研究所开展,并具体由中央教科所教育发展研究部具体负责实施后,中央教科所教育发展研究部在2004年6月1日-7月5日之间,设计、发放、回收、分析、整理了“农村学生情况调查表”,并结合实地调研访谈,分别对河北省丰宁县、甘肃省榆中县、秦安县、江苏省沭阳县、宿豫县等中西部地区的农村留守儿童情况进行了调研。这一报告就是在这个调研的基础上形成的。

二、调研工作的组织与实施

 

《中国农村留守儿童问题研究》第一期调研的主要目的是了解农村留守儿童学习、生活状况,以及留守儿童占适龄儿童的比例,在这一目的下,调研组设计了《农村学生情况调查表》。

 

调查小组分为五个组,分别负责江苏省沭阳县、宿豫县、甘肃省秦安县、榆中县、河北省丰宁县五个县的调研工作。调研方法主要是班级整群抽样,每县选择1所初中样本校、一所村级小学样本校。各调查小组在2004年6月15日——7月5日之间,分别对五个县进行了问卷调研工作。

 

三、农村留守儿童的基本情况及分析

 

此次调查选取三省五县为调查区域,各县样本量占总样本量的比例分别为:甘肃省秦安县11.3%、甘肃省榆中县11.8%、河北省丰宁县17.4%、江苏省宿豫县30.4%、江苏省沭阳县29.0%。

 

调查对象为农村义务教育阶段1-9年级在校生,年龄分布在7-18岁之间。其中男生人数占59.1%,女生人数占38.9%;留守儿童人数占总样本数47.7%,其中,男性留守儿童占留守儿童总数62.2%,女性留守儿童占留守儿童总数35.5%;被调查的学生中有44.1%住校,53.2%走读,留守儿童中住校学生超过一半(占54.5%)。

 

1.父母在外打工情况分析:

 

中小学在校学生中(以县为单位),父母双方至少有一方在外打工甘肃省秦安县为32.9%,父母双方均在外打工为3.1%;父母双方至少有一方在外打工甘肃省榆中县为44.2%,父母双方均在外打工为8.4%;父母双方至少有一方在外打工河北省丰宁县为31.5%,父母双方均在外打工为5.0%。父母双方至少有一方在外打工江苏省宿豫县为24.7%,父母双方均在外打工为18.6%;父母双方至少有一方在外打工江苏省沭阳县为31.3%,父母双方均在外打工为27.3%。甘肃省、河北省、江苏省并不是劳动力输出大省,但从数据统计上显示,五个县中小学中单亲外出打工的孩子已占占总样本数31.5%,双亲外出打工的孩子占总样本数16.2%,二者合计为47.7%。也就是说,在此次调研的三省五县中,留守儿童占适龄就学儿童数的47.7%。由此可见,农村留守儿童群体比已知数字要庞大得多。

 

2.父母在外打工地域情况分析:

 

数据分析显示,甘肃省榆中县农村留守儿童的父母在县城内打工的比例为50.6%,跨县、跨市打工为17.6%,跨省打工为5.7%;甘肃省秦安县留守儿童的父母在县城内打工的比例为18.1%,跨县、跨市打工为34.5%,跨省打工为20.7%;河北省丰宁县留守儿童的父母在县城内打工的比例为26.5%,跨县、跨市打工为35.9%,跨省打工为14.9%;江苏省宿豫县留守儿童的父母在县城内打工的比例为12.3%,跨县、跨市打工为33.0%,跨省打工为33.2%;江苏省沭阳县留守儿童的父母在县城内打工的比例为13.6%,跨县、跨市打工为49.2%,跨省打工为21.5%。从总体来看,五个县中小学中留守儿童父母县城内打工的人数占总样本数的20.3%,跨县、跨市打工人数占总样本数的37.6%,跨省打工人数占总样本数的21.6%。此外,甘肃省秦安县、甘肃省榆中县、河北省丰宁县分别有19.8%、13.1%、17.7%的留守儿童不知道自己的父母在什么地方打工。

 

3.在外打工父母回家频度分析:

 

与此相应,甘肃省榆中县在外打工的父母常年在外的占4.0%,一年回来一次的占5.7%,半年回来一次的占15.9%,每个月回来一次或几次的占60.8%;甘肃省秦安县在外打工的父母常年在外的占11.2%,一年回来一次的占33.6%,半年回来一次的占37.1%,每个月回来一次或几次的占12.1%;河北省丰宁县在外打工的父母常年在外的占2.2%,一年回来一次的占6.1%,半年回来一次的占41.4%,每个月回来一次或几次的占44.8%;江苏省宿豫县在外打工的父母常年在外的占10.1%,一年回来一次的占26.3%,半年回来一次的占26.8%,每个月回来一次或几次的占26.3%;江苏省沭阳县在外打工的父母常年在外的占4.0%,一年回来一次的占16.2%,半年回来一次的占44.5%,每个月回来一次或几次的占27.9%。从数据显示的情况来看,在外打工父母与子女的亲子关系维系松散。

 

4.留守儿童的家庭生活环境情况分析:

 

从五县的总体情况来看,有53.4%的留守儿童与妈妈生活在一起,有3.0%的留守儿童和爸爸生活在一起,有4.9%的留守儿童和外公外婆生活在一起,有27.3%的留守儿童和爷爷奶奶生活在一起,有4.1%留守儿童和其他亲戚生活在一起,有0.9%留守儿童寄养在别人家里。生活上的“单亲家庭”合计为56.4%,隔代抚养为32.2%,家庭缺失的情况较为严峻。

 

5.留守儿童在学习和生活中寻求帮助的对象情况分析:

 

在问卷调研中,我们对留守儿童学习和生活中寻求帮助的对象进行了分析。在学习上遇到了问题,留守儿童选择的第一倾诉对象是教师,比例为67.0%,第二为同伴,比例为24.1%,家人的比例为6.1%;生活中有了烦恼,留守儿童选择的第一倾诉对象为教师,比例为34.0%,第二位为同伴,比例为33.9%,家人的比例为28.8%。这样的结果与样本校中半数留守儿童住校相关。我们又对非住校留守儿童的数据进行了分析,发现,在非住校留守儿童群体中,同伴的作用上升。在学习上遇到了问题,非住校留守儿童选择的第一倾诉对象是教师,比例为61.5%,第二为同伴,比例为26.6%,家人的比例为8.1%;生活中有了烦恼,非住校留守儿童选择的第一倾诉对象为同伴,比例为39.7%,第二位为家人,比例为36.8%,选择老师的比例为19.2%。

 

在学习上遇到了问题,非留守儿童选择的第一倾诉对象是教师,比例为52.0%,第二为同伴,比例为34.9%,家人的比例为9.7%;生活中有了烦恼,非留守儿童选择的第一倾诉对象为同伴,比例为44.5%,第二位为家人,比例为36.1%,教师的比例为14.3%。数据显示,留守儿童监护人对他们学习和生活等问题介入较少。

 

6.留守儿童对父母外出打工的态度分析:

 

通过数据分析结果,我们发现,各地留守儿童在表达是否希望父母外出打工的意愿时,表现出较高的成熟度。五县留守儿童希望父母出去打工的比例为39.6%,不希望父母出去打工的比例为44.7%,还有15.7%的留守儿童没有表达意见,其中甘肃省秦安县有20%的留守儿童没有表达意见。在叙述希望父母出去打工的理由时“我们家没有经济来源,生活贫穷,希望爸爸挣一些钱”、“能让家里过上好的生活”。在叙述不希望父母出去打工的理由时“怕爸爸妈妈在外面会出事故”、“不想让他们(爸爸妈妈)那么辛苦”占主体,说明留守儿童对自身的家庭状况有较为清楚的认识,对父母出去打工的缘由能够给予理解。从另外一个角度来看,家庭的生活状况和父母在外工作的艰辛程度在留守儿童心里留下了较深的印记。

 

另外一个值得注意的现象是,留守儿童与非留守儿童在学习兴趣上没有显著差异(留守儿童中喜欢学习的比例为80.7%,非留守儿童中喜欢学习的比例为77.2%),在对自身学习成绩的认识上,留守儿童与非留守儿童也没有显著差异。

 

四、农村留守儿童成长、发展呈现的主要问题

 

在此次调研中,我们发现父母外出打工对留守儿童成长、发展确实存在一些负面影响。通过深入分析这些影响,儿童发展问题和家庭教育问题逐渐凸显出来。

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中国社会観察ネット:農村留守児童--出稼ぎ労働者流入地と流出地政府の共通課題

2010-01-11 18:22:23 | Weblog

“留守儿童”:摆在流入地与流出地政府面前共同的课题
新华网重庆3月7日电(记者茆琛) 留守儿童引发的社会问题,是当前农村的不和谐因素之一。今年两会上,不少人大代表提交的建议与留守儿童有关。代表们建议留守儿童所在地政府推行“代理家长制”,发动当地人士做留守儿童的代理家长,为留守儿童模拟一个温暖的家庭,家长务工所在地政府则应尽快改革户籍管理制度,让外出务工人员能够与其未成年子女一起迁徙到务工地,保证留守儿童与父母生活在一起。

--缺位教育使留守儿童易“受伤”

目前我国留守儿童这一特殊群体人数众多且呈上升趋势,截至2006年底,西部农村地区14岁及以下留守儿童总量约为775万,其中学龄留守儿童不少于500万。在重庆南川区鸣玉镇,2800多名15岁以下儿童中,父母一方外出的近1500人,占总数的56%;双亲外出且不能得到有效监护、甚至无人管护的有412人,占15%。

全国人大代表韩云、张礼慧等认为,农民外出务工后,孩子长期不能和父母沟通,缺少亲情,孩子的学习、性格、人格都容易出现问题。由于缺乏监管和关爱,留守儿童侵害他人或被他人侵害的事件屡有发生。品培养、心理疏导、亲情教育已经成为留守儿童教育中的三大“缺位”,庞大的群体和频发的不良事件则在催逼政府尽快解决缺位难题。

  --变管理为关爱,“代理家长制”温暖留守儿童

如何给留守儿童一个温暖的家?张礼慧代表建议,在全国农村推行留守儿童“代理家长制”。在推行无偿代理为主,有偿代理为辅的原则下,倡议、发动当地的机关事业单位干部职工、离退休干部、青年志愿者、村社干部、有帮扶能力的共产党员和社会人做留守儿童的家长。代理家长们定期对留守儿童进行家访,到学校了解其学习情况,并与他们谈心。有条件的代理家长还可以把留守儿童接到家中寄住。

“代理家长制”可以将监护人对留守儿童的管理转变为社会对留守儿童的关爱,社会将缺失的家庭教育进行“还原”,使留守儿童父母和他们的托管人共同进行良好的家庭教育。

记者从“代理家长制”试点地重庆南川区了解到,“代理家长制”的主要措施是:由地方政府出面,动员有帮扶能力的社会各界有识之士自愿担任留守儿童的代理家长,呵护其心灵,关心其生活,指导其学习。这些代理家长要做到“三知”“三沟通”和“五个一”。“三知”即知道留守儿童的个人基本情况、家庭基本情况、班级和教师情况;“三沟通”为必须定期与留守儿童父母、托管人、教师联系沟通,交流留守儿童教育情况,形成管护合力;“五个一”指每月与留守儿童父母、任课教师、托管人联系一次,每学期制定一份帮扶留守儿童计划书;每学期撰写一份帮扶工作情况总结或留守儿童教育经验文章,每月向有关部门报告一次工作进展情况。

  --畅通进城读书通道,减少“留守儿童”数量

一些代表指出,“代理家长制”只能暂解燃眉之急,“在不影响家长进城务工的前提下解决留守儿童教育难”的长效办法是:城镇义务教育阶段中小学免借读费接收农民工子女读书。

2006年政府工作报告中明确表示,要解决城市低收入家庭和农民工子女义务教育阶段上学困难问题,让每个孩子都有平等接受义务教育的机会。此后,各大城市虽然指定学校接收农民工子女,但同时又制定出“办齐四证”的门槛,农民工子女进城读书的路并不顺畅。流入地公办学校无经费,流出地财政不“放”钱问题突出。

全国人大代表范徐丽泰认为国家应把农民工子女接受义务教育视为“投资”而不是“负担”。“农民工的子女也是国家下一代,如果他们得到好的教育,将来成才就能贡献国家,如果他们因失学误入歧途,反而真的成为负担,”范徐丽泰说,“给农民工子女好的教育,他们的父母就有了希望,对人生、社会的看法也会积极起来。而公民积极的人生观正是构建和谐社会的基础。”

一些代表指出,农民工流入地和流出地对农民工贡献的认识不统一制约农民工子女在城镇入学。很多流出地政府都有这样的看法:农民工到流入地做事,为当地创收,流入地有责任解决农民工子女的上学问题。而有的流入地政府的看法则完全不一样:农民工在流入地创造的税收很少,基本上等于农民工自己在这个城市里面的消耗,这就等于他们对流入地基本没有创收。

对此,周洪宇代表建议,考虑权利与义务平等的原则,流出地也要承担相应的责任。如学生随父母流动,国家级贫困地区拿到中央财政专项转移资金对该学生的补助时,要将补助转到流入地。

此外,由于父母打工流动性强,农民工子女难以纳入城市教育规划,客观上给城镇学习接收农民工子女带来困难。

目前,接收农民工子女入城面临两个困难,一是随着城镇化的进程,城市的人口越来越多,但是各个地方的义务教育学校的数量并没有加,城市的生源也没有严重的萎缩,实际上,很多学校单单是接收城区管辖片内的学生就已经趋于饱和。二是师资问题,高校扩招后中小学的师资力量比以前有所强,但是并不如想象的那样宽裕。中小学本身也在扩张,老师的数量显得不够充足。

要解决这些问题,教育专家建议,政府首先要对整个城市教育的发展有一个整体的规划。首先应建立一个流动人口子女信息的监测体系。其次,对所有规划一定要有经费预算,把农民工子女的费用也一并算在内,并对市本级财政和区一级的财政有一个合理的分担。

代表们认为,解决“留守儿童”教育问题,一方面要从经费、制度上对农民工子女进入城镇中小学给予双重保障,确保“留守儿童”人数逐年减少;另一方面,在 “留守儿童”所在地推行“代理家长制”等教育创新举措,为无法进城上学的孩子营造和谐温情的氛围,保障农村下一代身心健康成长。(完)2007年3月7日

出典:http://www.lookinto.cn/society/490/

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王力雄:中華民国の口先だけの主権――チベットと中国の歴史的関係(14)

2010-01-09 22:52:34 | Weblog
王力雄:中華民国の口先だけの主権――チベットと中国の歴史的関係(14)

1911年の清王朝の終焉から1949年の中国共産党の政権奪取まで、38年間続いた中華民国はほとんど最初から最後まで抜け出しがたい内憂外患に陥っていた。最初は何年も続いた軍閥の混戦だ。蒋介石が統一を達成するとすぐに、日本の侵略で8年の長きにわたる抗日戦争に引き込まれた。日本が降伏すると、抗日戦争中に増殖した中共がすぐさま政権奪取の戦争を開始した。民国政府はいつも慌てふためいて身の回りに手いっぱいで、遠く離れたチベットなどに精力を割くことはできなかった。この状況はチベットにとっては緩やかな環境をもたらし、40年の長きにわたって、完全な独立を維持することができた。それ以前も「骨抜き」によって実質的な独立を保ってはいたが、身近に人をあごで使う駐チベット大臣がいたし、領内には武力をひけらかす清国軍がいて、なにかと束縛されていた。だがこの40年間の独立は徹底していて、せいぜい民国政府とうわべだけの交際をするだけで、全てを自分たちで決めていた。この時期の歴史はいまでも多くの人にチベットが独立国家であることの根拠とみなされている。

それだけでなく、中国の内乱に乗じてチベットは武力でチャムド、デルゲなどカムのかなりの土地を回復し、国境を大きく東に移した。確かにダライラマ13世の行った新政とチベット軍がイギリスから得た新式武器は戦闘に勝利する一つの要因だったが、最大の原因はやはり中国内地の混乱に帰すべきである。以前川軍の西征を指揮して破竹の勢いだった尹昌衡は権力闘争によって袁世凱に監獄に送られ、新たに興った四川軍閥は互いの抗争に忙しく、省都の成都さえかれらの市街戦の戦場となっていた。チベット軍がチャムドを包囲したとき、守備隊長の彭日昇が何度も救援を求めたのに、民国政府が任命した四川辺境鎮守使は彭とかねてより確執があったので座視して救わず、チャムドは陥落し彭日昇はチベット軍の捕虜となって、結局チベットで客死した。その後イギリス人が外交的に介入し、民国にチベット軍勝利後の中国とチベットの国境を承認するよう迫った。

民国の初めの20年間は中国が最も弱くチベットが最も強かった時期である。ダライラマ13世は民族の受難の試練と亡命の鍛錬をへて、偉大な民族のリーダーになった。彼は漢人を追い出して独立を獲得してから、一連の新政を実行し、チベット軍を大規模に拡充し再編した。イギリス、日本、ロシアの訓練方法を導入し、外国の教官を招聘し、チベット人士官をイギリス式の士官学校で勉強させ、新型の武器を輸入し、チベットの兵器産業を興した。チベットは初めて西側に留学生を派遣した。彼はまた銀行を設立し、鉱業と郵便事業を興し、貿易を促進した。チベット社会は張蔭棠と聯豫が行った新政の上に、さらに近代化の啓もうを進めた。チベットが成し遂げた成果はイギリスをして「チベットが中国と比べて強大になり過ぎ、チベットの侵略的拡張と独立を招くのではないかと心配」させ、ついにはチベットへの武器輸出を中止するにいたった(1)。

もしイギリス人が本当にそんな心配をしていたとしたら、それは大げさすぎる。中国の数億の人口に対しチベットは百万から二百万人であり、チベットがいくら強くてもそこまで強くはなれないだろう? 民国が内部事務に全神経を集中していて、チベットにかまっている暇がない時、四川辺境の地方軍閥に対処するだけのために、チベットは軍事力の大部分を投入せざるをえなかった。この事実が当時のチベットの政治と外交を主導した。例を上げると、1920年にチベットとネパールに紛争が発生し、ネパールはチベットに攻め込むと脅した。チベット軍は全て中国との国境に投入しており、ネパールに対処するために呼び戻すことはできないので、ネパールの圧力に屈せざるを得なかった(2)。

チベットの歴史上の大きな不可解な事件――ダライラマ13世とパンチェンラマ9世の決裂の原因もこの時点までさかのぼる。中国との国境防衛の軍隊を維持することは、チベット政府にとって重い財政負担だった。中国が蒋介石によって統一されていくに伴い、チベットは一層の軍拡により中国に抵抗する力を強める必要に迫られた。そのためダライラマ13世はチベットの歴史上未曽有の決定――寺院からの徴税――をせざるを得なくなった。それ以前にもダライラマ13世とパンチェンラマ9世との間に対立があったとはいえ、決裂するほどには達していなかった。歴史的にパンチェンラマはシガツェを中心とするツァン地区を統治してきた。彼はチベット政府に次ぐ最大の土地所有者であり、多くの荘園のほかに、十数のツォン(県に相当)を管轄していた。パンチェンの権力は自己完結しており、自分の税収は自分で使い、それまでラサに上納したことはなかった。ダライの新税令はパンチェンの領地は今後チベットの軍事支出の四分の一を負担すると定めており、これがパンチェンの強烈な不満を引き起こした。対立が尖鋭化し、ついには1923年にパンチェンラマ9世は中国に亡命して民国政府に身を寄せ、これ以降チベット「親漢派」のリーダーとなってダライラマ13世の終生の敵対者となった。

軍拡のための増税は、パンチェンの国外脱出を招いただけでなく、僧侶や貴族階級の機嫌も損ねた。彼らはチベットの独立は支持したが、自分達が中国との対抗のために代償を払わざるをえなくなったら、不満の気持ちが生じた。とりわけ危険なのは、中国と対抗する実力を備えるためには、軍隊を近代化しなければならず、そうすると必然的にチベットの伝統秩序に対する挑戦することになるということだった。他の階級は全て中国に対抗するために代償を払うだけだが、軍隊は受益者だ。新思想を受け入れ西側式訓練を受けた士官たちは若くて活力ある集団であり、彼らは近代的知識と団結心を有してチベット近代化事業に打ち込んでおり、しかもしばしばチベットの伝統をチベットの後進性の原因とみなしていた。彼らはチベットの前途と安全は、ラマたちの祈祷によってではなく、軍事力によって守らなければならないと信じていた。彼らはイギリス人を羨み、生活の中で模倣した。洋服と皮靴を身につけ、会ったら握手をし、テニスとポロを楽しんだ。軍隊の号令は英語を使い、演奏するのは英国国歌――ゴッド・セイブ・ザ・キング――だった(3)。彼ら内部の思想傾向と団結はすでにいささか革新党の趣があり、そのためチベットの伝統政治にとっては非常に危険な勢力とみなされるようになった。ラマたちはその世襲の権威が脅かされることに我慢できなかった。チベットはこの世に二つとない仏教国であり、最も保護すべきは宗教の至高の地位であり、宗教を弱め堕落した世俗国家を守ることに一体どんな意義があるだろう、と彼らは考えた。

これは確かにダライラマ13世も考慮しないわけにはいかない根本的な問題だ。軍隊のダライラマの世俗的権力維持と中国との対抗における役割は良く知ってはいたが、いかなる宗教的権威に対する挑戦も容認できない。なぜなら宗教こそが彼自身の世俗的権力の源だからだ。

勢力の拡大に伴い、チベットの軍事集団は改革の矛先をダライラマにも向け始めた。彼らはひそかに連絡をとって盟約を結び、チベット伝統社会の政教一致体制を改めて、ダライに世俗権力を放棄させ、宗教面での精神的リーダーの役だけを務めさせよう図った。これは明らかに超えてはいけない一線を超えていた。ダライラマ13世はすぐさま彼ら親西側傾向の士官を解任した。反抗を避けるために、解任はすべて非政治的な取るに足りない理由で行われた。例えば、数人の士官が免職されたのは、イギリス人の髪型にしたためであった。ダライラマはこれをきっかけに軍隊を弱めることを決意し、チベットは再び近代化の道から退いた(4)。

この転換はダライラマ13世の対外政策の変化ももたらした。彼はイギリスへの依存は後ろ盾探しの問題だけではなく、それに伴って西側民主思想が浸透してくるということに気づいた。後ろ盾としてはいざという時に頼りになるとは限らない。イギリスはこれまでチベットのために中国と戦争をしようと考えたこともチベットのために防衛費を負担しようとしたこともない。一方、西側民主思想はチベット社会にとって破滅的な脅威であることは明々白々だ。比較すると、伝統的に専制政治の中国の方がこの面ではむしろ危害は小さい。また、現実的に考えて、改革派の士官が解任されてから、チベットの軍隊は衰退に向かっていた。1931年チベット軍と中国軍がカムと青海〔アムド〕で戦争になったが、結果は惨敗で、チベットは多くの領土を失い、中国とチベットの国境は再び西に移り、中国のチベットに対する軍事的圧力が強まった。もし軍隊を弱めながら、中国との対抗を続けたら、その結果はより大きな敗北だろう。抜け目のないダライラマ13世は中国との関係改善の姿勢を見せ、中国とイギリスの間でバランスゲームをやり始めた。

中国人はダライラマ13世が「祖国の統一を擁護」していたと説明するのに、常々次の言葉を引用する。一つは彼が1920年に甘粛地方政府から来た数人の代表団に語った言葉だ。「余の親英は本心ではなく、欽差(聯豫のこと)の無理強いがひどすぎたので、そうするしかなかったのだ。このたび貴代表団がチベットに来られたことに余は非常に感激している。大総統〔蒋介石〕が速やかに全権代表を派遣し、懸案を解決するよう希望する。余は内部に力を傾注し、ともに五族の幸福をはかる」(5)。もう一つは1930年彼がラサで国民党政府のチベットと漢の混血の職員を謁見したときに語った言葉だ。「イギリス人は確かに私を誘惑しようとしているが、私は主権は失ってはならないことを知っており、性質も習慣も相容れないので、彼らが来てもいつも表面的な応対をしており、寸分の権益も与えていない」。チベットと中国のカムの領土紛争について、彼は「いずれにしても中国の領土なのだから、彼我に分けることがあろうか」(6)。これらの談話記録を残したのはいずれも使命を帯びた中国側要員であるから、彼らの記載が正確なのか、自分の功績とするために意図的に誇張したりこじつけたりしていないかは疑問なしとしない。だがたとえダライラマ13世が本当にそう言ったとしても、彼の本音だと断定できるだろうか? 彼はイギリス人に対して「表面的な対応」ができるのに、なぜ中国に対しては同じような手を使えないと言えるだろう? 耳触りのいい言葉を言うのは難しいことではない。イギリス人に対して「寸分の利益も与えない」のと同様、どうして中国がなにかを得たと言えよう? 口頭の二言三言で話者の内心を断定することは、政治分野の法則と一致しないばかりか、日常生活においてさえあまりにも単純だと言わざるを得ない。

ダライラマ13世が再び中国に近づいたのは、ほとんど仕方なくしたことであって、「祖国統一の擁護」には程遠い。彼の心の奥底では中国が四分五裂に陥り、永遠に統一や強大化しないことを切望していたはずだ。イギリス人のチャールズ・ベルは一つのディテールを書き残している。ダライラマ13世は日本がすでに中国に軍事的手段で圧力をかけ始めたと聞いて、「彼の顔には愉快そうな表情が浮かんだ」(7)。ダライラマ13世は日本の中国全面侵略の日までは生き延びなかったが、もし生きていたら彼にとって祝うべき記念日になっていただろう。実際、もし日本の中国侵略がなければ、チベットは共産党時代を待たず、民国時代に再び漢人の軍隊に占領されてしまった可能性が大きい。日本との交戦中においてさえ、蒋介石は強硬にチベットに軍隊を派遣し、「チベットに中央の命令に従わせなければならない。チベットに日本と結託するような動きがあれば、日本とみなし、直ちに空爆せよ」と命じている(8)。そして実際にアムドとカム方面においてチベット〔ウ・ツァン〕侵攻のための部隊配置を行っている。

ダライラマ13世は1933年末に享年57歳で逝去した。彼はその統治37年間チベット独立事業を指導し、そしてかなりの程度実現した。彼の死は中国に平和的手段でチベットを取り戻すチャンスを与えた。1934年、ダライラマ13世弔問の名義で、民国政府は参謀次長黄慕松を特使としてチベットに派遣した。それは1912年に中国人がチベットから追い出されてから初めての中国高官のチベット行きだった。黄慕松は清朝の駐チベット大臣を模倣し、四川からチベットまで伝統の路線を進み、儀式も非常に見栄えに凝って、チベット人の中国統治に対する記憶を呼び戻そうと努力した。

黄慕松チベット使節日記に、彼のラサでの儀式に参加した隊列を紹介されている。

一、騎馬隊三十騎。
二、完全装備の儀仗。
三、軍楽隊一班。
四、僧俗官四人の先導。
五、飾り付けた亭は、中に玉冊〔皇帝(この時は総統か)の詔を書いた玉簡〕と玉印を置き、外は黄色の縮緬で囲み、彩球を周りにつるし、国旗と党旗を前に交差させ、四人が肩に担ぐ。
六、郭隊長が衛兵四人を率いて亭を護衛する。
七、特使は大輿に乗る。
八、全職員が乗馬する。
九、衛兵十人。(9)

だが彼ができたのは見せ場作りに限られ、中国とチベットの関係は実質的な進展があったわけではない。彼の記述によると、彼に割り当てられたチベットとの交渉における中国の立場は次のようなものだった。

甲、チベットにまず認めてもらうべき前提の二条件。
一、チベットは当然に中国領の一部である。
二、チベットは中央に服従する。

乙、チベットの政治制度に対する声明。
一、共同で仏教を崇敬し、擁護し発揚する。
二、チベットの既存の政治制度を維持し、チベットに自治を許し、チベットの自治権の範囲内の行政は、中央は干渉しない。その対外関係は、双方が一致しなければならず、全国統一的な国家行政に関しては、中央政府が掌理する。それは以下のものである。
(一)外交は中央が担当する。
(二)国防は中央が計画する。
(三)交通は中央が設置する。
(四)チベットの重要官吏はチベット自治政府が選んでから、中央に申請し各個に任命する。

丙、中央がチベット自治を許可する以上、国家の領土主権の完璧を図るため、高官を派遣して常時チベットに駐在させ、中央を代表し、国家行政を行う一方で、地方自治を指導する(10)。

この国民党政府の立場は、後の共産党とチベットの「無血解放」交渉の基礎でもあることを知ることができる。チベットが共産党の主張を受け入れたのは、共産党の大軍がすでにチベットに侵攻してきたので他に選択の余地がなかったからだ。

ダライラマ13世の入寂からダライラマ14世の親政までの18年間、摂政の役割を担ったチベット政府は基本的にダライラマ13世の方針を維持し、うわべだけ調子を合わせて中国に対して口先の迎合をする一方、断固としてチベットの実質的な独立を維持した。彼らは黄慕松に対し「イギリス人との交際は、純粋な社交であり、チベットは独立できず、中国だけが頼りである。だが物ごとには手順があり、急ぎ過ぎてはならない」と言っている(11)。その口ぶりはダライラマ13世と全く変わらない。具体的な問題について承諾を与えず、逆に中国から恩恵を得ようとばかりした。結局、黄慕松は無駄骨折りで、そのチベット派遣の成果はラサに無線電信局一つと連絡事務所一つを残したことだけだった。チベット政府はその後イギリス人にも同様にラサに無線電信局と連絡事務所を設置することを認めた。この行動で両者の間でバランスをとろうとする意図がはっきり見て取れる。

黄将軍は内地に戻ると直ちにモンゴル・チベット委員会の委員長に任命され、チベット事務を主管した。彼はチベットを再び支配する希望を当時内地に亡命していたパンチェンラマに託した。チベットにダライとパンチェンの二人の活仏が並存する制度が生まれた効果の一つは、ダライ逝去の時にパンチェンが宗教リーダーの役割を引き継ぎ、次のダライが成人になるまでの長い真空を作らないようにすることだ。パンチェンラマ9世は1923年にチベットを逃げ出してからはずっと中国政府に養われていた。もし彼がこの時チベットに帰ることができれば、疑いもなく中国のチベットへの影響力発揮に有利だっただろう。チベット〔=ウ・ツァン〕とアムド・カム地区のチベット人の間に当時パンチェンのチベット帰還を求める声が湧きあがった。だがチベット政府にとってはパンチェンのチベット帰還は彼らの権力を弱めることであり、チベットの親漢勢力を強めることになるので、口先ではパンチェンに歓迎すると言っても、実際は幾重にも障害を設けていた。だが、いずれにせよ中国にとっては一つのチャンスが目の前にあった。チベット帰還を急ぐパンチェンラマ9世は中国に十分な合法性を提供することができるし、さらには「パンチェンの求めによって」武力を行使し、パンチェンをチベットに送り返すと同時に再びチベットを支配することもできるのだ。

まさにこの時、中国に「七七事変〔盧溝橋事件1937年〕」が起こって日本が中国に向けて大挙進攻してきた。中国はよりいっそう西側に頼らざるを得なくなった。イギリスはずっとパンチェンのチベット帰還に反対しており、まして中国がチベットに武力を行使するのは容認しない。民国外交部〔外務省〕は直ちに兵を出してパンチェンをチベットに送り返すという計画に異議を唱え、「この国難の緊急時に当たって、国際情勢の上からは、いかなる列強友邦の反発も招かないようにすべきである」と強く主張した(12)。国民政府はやむなくとりあえずチベット経営を放棄し、全力で日本人の侵攻に対抗した。1937年8月の行政院会議で「抗日戦期間中は、パンチェンのチベット帰還は遅らせるのがよろしい」と決議した。中国内地に15年放浪し、チベットに帰ることに心を砕いて来たパンチェンラマ9世はこの打撃を受けて、3ヶ月後にはこの世を去った。齢わずか55歳であった。

パンチェンチベット帰還問題で行き詰っていた中国・チベット関係はパンチェンの逝去で多少緩和した。黄慕松の後任としてモンゴル・チベット委員会委員長に就任した呉忠信はダライラマ14世の地位継承式の機会を利用して再び中央高官の身分で〔1940年に〕チベットに入った。彼はチベットに対して感情から籠絡する手段をとり、そのための贈り物として三百頭分を持って行き、ダライ個人への贈り物だけでも80人以上が担ぐ量だった。呉忠信の随員朱少逸の記録によると、ダライへの贈り物には次の物があった。

「純金製メダル一枚、重さ約3両〔1両=31.25グラム(Wikipediaより)〕。金文字の銀の屏風4扇、長さ各5尺〔1尺は1/3メートル〕、幅2尺。純銀製仏像1、花瓶2、高さ各3尺余り。純銀製果物入れ、径1尺余り。サンゴの数珠1連、計108粒、粒はみな親指ほどの大きさ。緑玉碗2、精凝滴翠。福州漆製つるし屏風4扇、技巧絶妙。他に湖南刺繍絵、七宝焼の器、高級磁器食器、金糸絨毯、および各色の絹織物と毛織物、上級と下級の茶、およそ26色、240種余りに上った。全て国産の高級品で、価値は10万元〔1935年の幣制緊急令で1元=14.5シリング=0.30ドル(http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/C031.htm)〕以上であり、贈り物の多さは民国の新記録だった」(13)。

チベットの300人以上の六品以上の僧俗の官吏全員に贈り物が贈られた。チベット三大寺院の1万人以上の僧侶も、みな平均一人当たりチベット銀7両5銭布施を受けた。呉忠信は自分で「今回の布施の範囲は広く、各人の得た実利もまたこれまでに例がない」と述べている(14)。彼はまた一人のドイツのハンブルグ大学を卒業した医学博士を連れて行って、ラサで治療行為を行わせ、奇跡的な治療効果を発揮し、「命を救われた人は数え切れず」、治癒した患者には貴族高官から活仏まで含まれた。同行者は彼に「仏は人を救っても自らは生きられないのに、君は仏を生かして人も生かす」という詩を贈った(15)。これは共産党が後にチベットで「統一戦線」を行ったのとまったく同じである。

だが政治というものの基本的特徴の一つは感情によって左右されないということだ。チベットの統治者は気前の良い贈り物を受け取っても、それによって原則を変えはしなかった。それどころか、呉忠信の地位継承式の前に転生霊童に会いたいという要求も認めず、呉忠信が代表団を引き揚げると脅して始めてチベット側は妥協した。その後また地位継承式の席順をめぐって口論になった。最後は宙チベット大臣の例に倣って呉忠信の席次を決めた。これが中国の主権を象徴する重大な勝利として、それ以降の中国人によって何度も引用されている。実際は主権をこんな小さなことに象徴させること自体が、すでにこの種の主権が嘘であり無力であることを物語っている。

当時のチベット摂政レティンは中国史学界に「祖国熱愛」「統一擁護」だったと評価されている。呉忠信がチベットに行った時レティンの態度は友好的だったが、実際問題に関してはすべてそつなく口実を設けて断っている。そして呉忠信のチベット訪問はほとんど実質的な成果を得られなかった。呉忠信の自筆の記録によると、レティンは民国政府のラサに駐チベット弁事長官公署を設置したいという要求に対して次のように答えている。

「(一)チベット内部の事情は複雑で、人民の疑念は深いので、いま急いで高級機関を設置すると、誤解を生じやすい。(二)イギリスの代表グールドもここに留まって、今まさに漢とチベットの問題の展開を注視しており、疑念を持っている。(三)ダライラマ13世の前例によると、このような重大案件はまず僧俗の民衆大会に諮って解決しなければならないが、それを通過するのは非常に難しく、不承認となると中央の威信を傷つけるのではないかと、自分は非常に心配である。(四)今回ダライの地位継承式が完了し、中国とチベットの感情はちょうど円満になったばかりで、今は呉委員長はできるだけ早く都に戻って復命し、自分はここで徐々に進めていけば、必ずや中央の希望に添えるであろう。(五)自分は中央の厚恩を受け、いつも誠心誠意報恩を考えているので、分かったことは全て伝えずにはいられない」(16)。

この記事で彼のそつのなさが少しは見てとれるだろう。レティンが本当に「親漢」をあらわにするのはその後任摂政のタクタとの権力闘争において劣勢に立たされたときである。その時彼の代表は民国政府に三つの要求をした。一、中央がタクタに対し権力を引き渡すよう命ずること。二、レティン復権の活動費用として20万元を貸与すること。三、もし前二項がうまくいかなかったら、国民政府が軍隊と飛行機を派遣して支援し、タクタに権力委譲を迫ること(17)。だから、親漢か親漢でないかは、役に立つか立たないかで決まるのだ。チベット人に自分から進んで中国のチベットに対する主権を守ることを期待するのは、勝手な思い込みに過ぎない。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49386
(脚注は出典の原文参照)

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http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/f1df05c99436cc7652faa33494dc9695

趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a599d7ca72593668ab8604632adce601

チベットの選択――チベットと中国の歴史的関係(12)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/be216fd526c90f6b8e15494c3fa35779

辛亥革命後のチベット独立ーーチベットと中国の歴史的関係(13)(1/2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/d7e57edb3011e87f38553c5c32dcaaef

辛亥革命後のチベット独立ーーチベットと中国の歴史的関係(13)(2/2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3b3a4b0f89c9d3aa4f0a1fe80c355ac9
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転載:緊急集会  「天安門事件と08憲章を考える」

2010-01-04 23:16:11 | Weblog

(子安宣邦氏のホームページからの転載)

中国の裁判所が09年12月25日、文学者劉暁波氏に懲役11年の厳刑を言い渡したと日本の新聞は報じた。彼は中国の民主化を求める08憲章の起草者の一人であり、署名者であった。だが中国におけるこの憲章の署名者はすでに一万人をこえている。ではなぜ劉暁波氏にだけ懲役11年の刑が言い渡されるのか。それは彼が天安門事件の犠牲者たちの証人であり続けているからである。その彼が08憲章の起草者の一人であり、署名者でもあるからである。いま中国ではこれが11年の刑に処せられる犯罪なのだ。私たちは耳を塞ぎ、目を覆わないでこの事実を見よう。私たちはこの事実から逃げてはいけない。この事実を隠して求められる日中の友好とは偽りのものである。それは中国の民主化を妨げるだけではなく、己れの民主主義をも危うくするものである。天安門事件と08憲章をともに考えよう。

□日時 2010年1月23日(土) 13:00~17:30
□会場 早稲田大学11号館6階604教室
□講演
  開会の挨拶として─民の自立について       高橋順一
  劉暁波とはだれか                   劉燕子
  08憲章と中国知識人                 及川淳子
  中国の民主化なくして日本の民主主義はない  子安宣邦
□質疑 
□会費 500円
   主催 昭和イデオロギー研究会

出典: http://homepage1.nifty.com/koyasu/remark.html

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蕭瀚:憲政--人類政治実践の自然選択(下)

2010-01-02 23:40:45 | Weblog
由于现实政治运作的千差万别和复杂,自由、民主、宪政之类的词语常常被弄得面目全非,因此,对这些概念的梳理就显得极为重要,帮助人们清晰地了解它们,并且在根本性上达成罗尔斯所谓的重叠共识,这是理论和思想最重要的功能之一。萨托利对宪政词义从政治社会学和语言社会学的角度作出了精彩的分析;而美国宪法学家奥舒克则通过各国宪政实践的比较,总结了33条宪政规则;《布莱克维尔政治学百科全书.宪法/宪政》条,则对各国宪政宪法的基本结构作了共性分析。弗里里希则从对宪政最大的敌人——极权主义的研究中获得宪政最纯正的信念和宪政最重要的本质——保障人权——信仰自由是人权的核心权利。
歌说理论是灰色的,而生命之树常青。这话同样适用人类悠久的宪政实践史,就在宪政理论黯淡的文艺复兴时代,威尼斯共和国和荷兰共和国在宪政的具体实践中,都没有什么理论的来源,这是令人饶有兴趣的历史。然而正是这些基本的甚至可能被酷评为幼稚的宪政实践给思想家们带来灵感,马基雅维利对共和政体的垂青正是基于此,从他这里诞生的近现代国家理性观念和主权论都与当时威尼斯共和国的宪政实践分不开。
因此,从发生学意义上看,现代宪政在本质上与民族国家观念的兴起密切相关。
如果回到我们中国的历史,远溯三代,近观晚清,西周封建制(与郡县制相对)与礼制、汉初无为之治、唐初三省六部制、宋代文官选拔制、清代满洲贵族与汉官相互制衡以及督抚制度等历代政治智慧中都蕴涵了宪政的部分要素,尽管不系统。古代中国并非毫无约束政府权力的公法,更不是一句“2000年专制”就可以盖棺论定的,史家钱穆说过,历史上相权就构成对皇权的制衡,因此权力抗衡在国史中可算有实无名的概念,至少不是“卓越千古,推倒一时”意义上的全新舶来。中国从1911年清朝崩溃、帝制覆灭开始,步履蹒跚地进入现代,进入以构建民族国家为主要目标的时代。
但是,相对于西方,中国历史上存在过对皇权制约的因素,并不能推翻宪政实践在中国历史上相对陌生这一基本事实。这导致了百年民族国家的构建过程波诡云谲。史家唐刚先生将近代中国百年转型,视为二百年历史三峡中的湍流激荡时代,时至今日,我们似乎尚未从历史三峡中走出来。
套用托尔斯泰的名言:“幸福的家庭家家相似,不幸的家庭各各不同。”“良好的宪政都相似,邪恶的政治各各不同。”而实际上,良治和恶政,各自都是相似的,从结果意义上说,前者的差别是政治形式的差别,而后者的差别只是程度而已。
然而,各国宪政的相似性却在一些非宪政国家,常常导致是否实行宪政的争论。在这个时候,重要的就不是有必要实行宪政的研究,对于宪政论者而言,他们所要研究的只是,如何在坚持宪政主义的基础上,研究具体到某国的宪政如何实践的问题。也就是说,在这个时候,与相似性相应的相异性反而成为最重要的问题。
当代中国固然非宪政时代,但已进入公法时代。所谓公法时代,举其大端,是要厘清公权力的权限,划清公民自由和权利、社会权利与公权力的边界,是要追求有限政府的规则化、法治化。
具体而言,由经过正当程序产生的良法调整全社会的底线关系,法律就是底线规则,因此一国良治需要权威的立法部门。按照经典的宪政理论,立法部门应当由代议代表组成,以代表社会各界立法,唯有如此才可能制定良法,然而以中国历史验证,此项未必就是良治社会的必要条件,可暂置不论。
行政部门需按照法律执法,这是所有法治国家通例,现在的中国也在走向这条道路,似乎无需多加论证。
司法权是一项静态和被动的权力,司法权对于启动司法程序状态下的立法权和行政权,都具有更改甚至否定其权力之效能,因此其权威性举足轻重。如果司宪权归属于法院,那么司法权在整个国家的良治秩序中,具有最高地位。
社会权利是一种团体性权利,它是公民权与公权力之间的缓冲地带,所有良治社会都证明了正常行使社会权利对社会的公正与稳定具有巨大作用。它在协调公民与国家、社群与国家、社群与公民的关系中都能够发挥很好的作用。其中言论自由、出版自由尤其重要。
公民权是每个个体公民所享有的各类基本自由和权利,于国家良治而言,公民言论自由与结社自由的实现当为重中之重。
当代中国转型过程中权力与权利的相互关系中存在三大问题,一是社会权利和公民权不健全,尤其是言论自由、结社自由无法全面实现所导致的良治滞后甚至良治不能现象;二是司法权软弱无力,尤其司宪权缺席导致的立法错误无法纠正、行政专横难以遏制的问题;三是社会与公民缺乏公益诉权所导致的公共利益空亡问题,严重地妨碍了社会公正与社会效率。
上述是横向的权力与权利配置,在中国这样的大国还涉及纵向权力配置的问题。
顾亭林先生曾有《郡县论》九篇,谈及中国历史上中央与地方公权力配置上的痼疾,他说:“封建之失,其专在下;郡县之失,其专在上。”未来中国必须制定出一套能够“寓封建之意于郡县之中”的制度,才能解决这个老大难问题。
目前正在推行的省管县改革,似乎有亭林先生上述说法的苗头,但恐怕不能彻底解决问题,因为这一改革的最高水平也只是回归到汉代的中央与地方权力配置模式上,无法达到目前世界上联邦制国家的纵向分权水平,因为除了大大小小的权力分配问题,在权力最核心要素上的自治还是统治问题尚未明确。
横向分权与纵向分权必须综合解决,在解决横向分权时也必须同时考虑纵向分权的合理方案,反之亦然。如此才能使得公民权利、维护国家安全以及各项社会需求能够同时处于均衡之中。
若以权力与权利的均衡配置为目标,那么三权分立还是N权分立(例如根据目前中国现状,如果让环保权独立,直接对人大负责未必就是坏事),人大至上还是法院至上(这要看司宪权归属于谁),精英立法配以人民监督的立法诉讼还是代议立法,一党执政还是多党轮流,两院制还是独院制,单一制还是联邦制抑或半单一半联邦制(看需要看可能性)……这一切统统不能作为意识形态问题考虑,都不是讨论的关键——正如讨论姓资姓社意义不大一样。
理性的中国在权力与权利的配置问题上应该只有一个目标,就是要创造一种制度,以达到两者的均衡,为当代后世造福。关键只在于,根据中国的历史和现状,参诸外法,如果合乎中国国情,照抄国外的现成制度亦不妨,或根据需要损益其现有制度以补我缺,或者完全另起炉灶,都可以。
百年中国,吃意识形态的亏太大,现在我们应当放弃所有以僵化意识形态为鹄底的思维方式,历史与现实似乎已经越来越清晰地展示出一幅图景,即中国未来的良治制度模式可能将不同于世界上任何国家。
但愿这本小书中选编的经典作品能够对我们今天的宪政事业有所助益,虽然这小小的20多万字篇幅,并不能将许多重要作品一一网罗,但是入选的这些经典作家的创造性思维方式本身——而不仅仅是他们的结论,或许对我们有更为重要的启发意义。
2007年8月12日于追远堂
 
出典:http://www.yadian.cc/book/2693/
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蕭瀚:憲政--人類政治実践の自然選択(上)

2010-01-02 23:38:18 | Weblog
    此文是去年写就的拙编《宪政二十讲》的序,此书现已出版(中国青年出版社2008年6月第一版)。这篇序在出版时因为众所周知的原因,而未能全文发表,现将原文发表于此。
2008年6月5日
宪政:人类政治实践的自然选择
萧瀚
性、财富还有权力,是人类历史上最重要的三大动力。人分男女,所以性是第一动力,几乎不辨自明;财富是生存与发展的基础,于是,在资源有限欲望无限的人类生活史上,财富也就极端重要;权力,则是秩序的需要,两人以上的人类生活,就需要划定自由与资源配置的界限,于是,权力就变得至关重要。
宪政就是关于权力有效配置的制度与学说。
从人类生存的历史来看,关于权力的制度远远重要于关于它的学说,但是学说并非无用,它常常具有协助制度良性化和传播性的功能,它与制度既能够形成良性互动,也会导致恶性循环,因此它的发展史也就变得重要,编选这本书的目的就在于探讨哪些学说与迄今为止的权力配置制度之间关系密切。
无论是古典时代还是现当代,人类一直在为权力的有效配置烦恼,它直接涉及资源配置能否合理,关涉人类能否获得真正的自由。正如顾准先生所言,没有终极目标,只有永远的问题,因此,对宪政的研究也一样。目前通行于全世界的宪政制度,依然存在新的创造点,关键恰恰在于各国自己的特殊情况,但无论如何,有效配置权力的原理则具有一定的共性。这正是我们要尊重历史、研究历史的基本原因。
早在古希腊,人们就已经发现权力中的不同类型,于是亚里士多提出无论哪种政体,政府的基本权力构成是立法权、行政权、司法权,立法权是制定规则的权力,行政权是执行规则的权力,而司法权则是对规则是否被有效执行作出裁判的权力,秩序就是因这三大权力结合行使而发生,如果这三项权力的配置是有效的,那么秩序就是良性的,反之,就是恶性的。
西方历史上,亚里士多开启的这一权力分析的经典传统,在很长时间内都没有得到很好的回应,虽然制度性的零星回应或者偶然自发回应一直没有停歇过,但理论的深度自觉回应并没有能够同步展开(虽有西塞罗、波利比乌斯等人的研究,但依然是远远不够的)。这是因为掌握权力者都有无限追求权力的本能,一旦制度不能跟上,掌握权力者就挣脱绳索奴役他人,他们也就不能允许人们自由地探讨如何限制权力。若以私而论,凯撒常被认为几乎完美无缺,但是如果我们认为最伟大的政治家必须能够自觉地知道应该限制权力,那么凯撒就不能算是一个伟大政治家,反而是刺杀他的勃鲁托斯更有远见:“并不是我不爱凯撒,可是我更爱罗马!”(莎剧《裘力斯.凯撒》)。罗马帝制的建立在西方历史上具有深远影响,原因就在于它开启了西方1500年的权力配置的畸形时代,也正是它使得善妒、不宽容的基督教主宰了世俗的权力。虽然基督教的超验正义在中世纪以暗光烛照着宪政主义的萌芽,但从总体上说,至少教会是负面的,教义所表达的正面效用,就像所有毒品对医疗可能都存在价值,我们不能说教会不是基督教的产物。宪政学家弗里里希对此作出了重要阐释(但是本书限于篇幅没有收录)。
就在文艺复兴的曙光照耀欧洲的前夕,1215年,在英国,约翰王与教会和贵族之间发生了大规模的冲突,战争以约翰王失败告终,于是贵族和教会胁迫约翰王签署了一项协议——大宪章,旨在限制国王的权力,保证贵族和教会的特权,由于它对国王的权力限制性质,而成为现代宪政制度的滥觞。
这一重要事件改变了历史的轨辙,从此英国成为全世界宪政制度实践重要的启明星,他们的制度也成为宪政理论们最重要的灵感源泉。麦基文对英国中世纪的宪政实践所作的研究有助于我们了解这一历史,当时英国一批法学家如布拉克顿对罗马法的全面继承和创造,使得英国能够有效地逃离欧陆的天主教会专制,而实践自己的宪政制度,麦基文得出一个重要结论说:“中世纪宪法之区别于现代,因其有两个显著特征,一是治理权和审判权的分离,二是管理命令和权利决断之法律效力上的差异。”
这些政治实践都对启蒙时代的思想家产生深远影响,洛克提出权力二分论便是基于此历史事实。之后,孟斯鸠提出了权力三分说,不仅仅回归到亚里士多的最初起点上,而是进一步推进了宪政学说。他说:“如果同一个人或者由显要人物、贵族和平民组成的同样的机构行使以上所说的三种权力,即立法权、司法权和行政权,后果则不堪设想。”这一睿智而石破天惊的论断,开启了现代宪政制度的最重要理论,就是权力抗衡学说(这一理论从滥觞到成熟,有英国宪政学家维尔的全面梳理,他在《宪政与分权》一书中关于均衡政制理论的历史梳理,有助于我们了解孟斯鸠的地位,也有助于对现代宪政制度的核心价值——权力抗衡学说有更为透彻的理解,参见本书第十六讲),这是孟斯鸠被认为现代宪政理论鼻祖的重要原因之一,因为亚里士多尚未探讨及这个问题。
随后,古典自由主义的集大成者约翰.密尔,对代议制政府许多具体权力运作的细节,作了清并且极富创造性的论说,他对言论自由的关注,对两院制是否必需问题的研究极大地丰富了宪政理论,后来的杰斐逊甚至说:“如果让我来决定,到底应该有政府而没有报纸,还是应该有报纸而没有政府,我将毫不犹豫地选择后者。”可见言论自由的重要,这在后发而非自然演化的宪政国家尤其重要,并且已经被证明是无可撼动的历史性经验。一定意义上,密尔最初确立了宪政制度的最重要基础,就是言论自由,后来发展出来的所谓新闻自由是三权之外第四大权力之说,正是奠基于此。
财产权的重要性在所有宪政理论家那里都是极为重要的宪政基础,因此对它的论述大同小异,几乎所有的经典理论家们都对此有研究和论断,本书所选的当代英国宪法学家奥格斯借美国宪法对财产权在宪政制度中的重要性论述,言简意赅,值得一读。
至此,宪政的两大基石就是私有产权和言论自由。这充分说明权力相互抗衡而致权力配置有效,必须奠基于一个更为基础的抗衡,就是权利和权力的抗衡,这种抗衡在良性状态下,可以达到两者的均衡。
启蒙运动最伟大的成果之一,就是新大陆沿着英格兰道路,产生了一个现代宪政制度的模板——美国宪政,这是一个几乎完全按照孟斯鸠三权分立理论设计的宪政制度,旨在达到人民的幸福。美国联邦宪法的出发点就是限制政府的权力,使得政府能够为人民谋取利益而不是压迫人民。因此,美国联邦宪法至今还是现代宪政理论和制度最重要的参考文献。在美国人民接受联邦宪法的过程中,汉密尔顿、杰伊和麦迪逊写了85篇短小精悍、分析深刻、思想活泼、灵感勃发的文章,就是著名的《联邦党人文集》,成为现代宪政理论中关于权力抗衡理论方面最经典的作品。
宪政美国正是在一批杰出的法律家手里诞生,这充分说明了思想对历史的巨大塑造作用,思想巨人哈耶克对此发生了浓厚兴趣,特别关注这群法律家在一个动荡而风云变幻的年代,是怎样将一块幅员辽阔的土地和土地上的人民引向一条幸福之路。
在美国立国之初,国父华盛顿坚持不作国王,这是因为他看到英国政制的弊病,他的选择因其远见而正确,虽然我们并不能推断在美国确立君主制是不是会导致国王专制,但是华盛顿彻底地根绝了这一可能性,这正是他和凯撒的重要区别——即使相对于凯撒开启的共和政体崩溃来说,华盛顿的决定是历史的后见之明,但也是十分伟大的创举。
孟斯鸠说英国是披着君主制外衣的共和制,但这件外衣并不是可以随便脱掉的,对于一个有着千年历史的英国来说,国王的权力虽然在历史发展过程中逐渐被议会消化,但它依然存在着对权力均衡的威胁,只是在英国政制下,它被不断地限制,从而产生了一些其他君主制所没有的良性效果,英国宪政学家白哲特对此的研究令人信服,然而,这在其他国家却往往难以复制。
正如美国是现代宪政制度的重要先驱,英国作为老牌宪政国家、宪政之母国,他们的理论家在新的历史条件下也常常产生新的杰出思想。当民主浪潮刚刚开始席卷全球的时候,上个世纪初的宪政学家宁斯因此而注意到民主在宪政制度中的极端重要性,从而敏锐且反思性地注意到三权分立学说在本质上只是一个韦伯意义上的“理想类型”分析,因此,它只是一个理论的假设,而现实政治生活的实践却远比这种分析复杂得多,他认为在现实政治权力的运作中,三权交织,刻意区分只是不得不然,由此他认为民主比分权更为重要,民主比分权对于宪政来讲更为本质,这正好回应了托克维尔在100年前对美国民主的关注。
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