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王力雄:チベット問題解決の鍵(1)

2008-08-28 18:42:28 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット問題解決の鍵(1)

原文:http://www.weekmag.com/html/3706.htm

2000年7月

 表面的には、チベット問題は歴史問題であり、1959年インドに亡命したダライラマと彼の10万人余りの追随者の問題である。しかし本当のチベット問題はチベットの外にあるのではなく、チベットの中にある。もし問題が亡命チベット人だけだとしたら、中国にとって脅威とはならない。国境の外でどれほど多くのデモが行われようと中には影響しない。たとえ海外でハンストや焼身自殺のような激しい抗議が行われても、「安定」のために自国の首都で数百人の庶民を射殺するような政府を動揺させられるだろうか? 海外世論はしばしば次のように北京に勧告する。「早くチベット問題を解決しないと、亡命チベット人は最終的に暴力に訴えることになる」。しかし、世界最大の軍隊を持つ北京政権にとっては、このような脅しは歯牙に掛けるに足らない。

 北京が重視しないわけにいかないのは国内のチベット人である。彼らの人数は亡命チベット人の数十倍であり、生活地域も中国の版図の4分の1近くを占める。彼らは本気で服属しているのだろうか、それとも敵意を抱いているのだろう? 甘んじて帰順しているのだろうか、それともいつか蜂起するのだろうか? これこそ北京にとって本当のチベット問題だ。民族問題は突き詰めたところ人心の問題である。国内のチベット人と海外のチベット人の連合を恐れるがゆえに、北京は多少なりとも亡命チベット人に気をつけている。もし国内のチベット人が本当に北京が言うように「共産党に心を寄せ」、「社会主義の大家庭を熱愛」しているのであれば、北京はとっくに亡命チベット人を無視し、問題とみなさないだろう。同様に、亡命チベット人がもし国内チベット人の呼応を得られないとしたら、とっくにばらばらになって、国際世論の支持を失い、自然消滅して歴史から忘れ去られているだろう。

 北京は当然そのような結果を望んでいる。それは北京の天安門事件後の亡命中国人に対する作戦――国内中国人と離間させる――でもあり、彼らについてはかなり成功している。しかし、北京にとって不幸なのは、チベット人亡命者の中にダライラマがいることである。彼は中傷して忘れさせることのできる人ではなく、全チベット人の生命の意義と人生の目標にかかわる「菩薩」なのだ。世俗の実力も軍隊、政治権力もその菩薩の前では、ほとんどなすすべがない。

なぜ人心と「発展」は背反するのか

 小平時代から、北京のチベット統治の考え方はずっと経済発展だった。小平の打ち出したチベット工作の善し悪しの基準は「鍵はどのようにチベット人民に有利に、どのようにすればチベットを急速に発展させ、中国の4つの近代化建設の先頭に立てるようにするかだ」(注1)。現在チベットで最高権力を10年近く握っている自治区共産党書記陳奎元(在任1992年11月から2000年9月)は、一歩進めて次のようにまとめている「共産党中央国務院が全国人民を動員してチベットを支援し、チベットの発展を加速させ、チベット人の貧困脱出を助けることは、中国共産党の最も現実的、もっとも具体的な民族政策である」(注2)。

 この20年は北京が経済的にチベット人に最も多く与えた時期である。1997年北京がチベットに与えた財政支出は1952年の財政支出の324倍、1978年の7倍である(注3)。今日のチベットでは金のかかることは、ほとんど北京の出資である。北京の扶養を離れたら、チベットの現有社会システム(少なくとも都市部)は数日も維持できないだろう。1997年に北京がチベット自治区に与えた財政支出は33億9776万元、チベット自治区自身の財政収入は2億9537万元、そしてチベット自治区の当年の支出は38億1952万元であった(注4)。もし北京が金を出さなければ、チベット自治区の赤字は収入の13倍になった。チベット自治区の1997年の人口で計算すると、北京の出した金は平均一人当たり1410元になる(注5)。その年の少なくとも5つの省(甘粛、陝西、貴州、雲南、青海)の農村一人当たり年収はこの数字より低い(注6)。つまり、チベット人は何もしなくても、座っているだけでこれら数省の数千万農民の1年の収入より多くの金が入ってくるのだ。

 チベット自治区成立20周年(1985年)と30周年(1995年)のとき、北京は贈り物として「43件のプロジェクト」と「62件のプロジェクト」、総額で50億元近くをチベットに贈り、中国内地の各省市を指定して施工させた。1994年の「第3次チベット工作討論会」のあと、北京はさらに10の中国内地の省市を派遣してチベットに対して長期「カウンターパート支援」、の無償援助を行わせた。全中国でチベットの農牧民だけが農業税・牧畜税を免除されている。チベットの都市では徴税があるが、徴収した税は全額チベットで使われる。北京がチベットに与えている優遇政策はしばしば中国のほかの地区の嫉妬をまねいてやまない。例えば、チベットの輸入税はかつてほかの地区よりはるかに低かった(自動車はほかの地区の輸入税が100%の時、チベットは10%だった)。チベット自治区はほかの地区に輸入品を売って大儲けした。多くのチベット企業と経営者がかつてこの政策を利用して原始的蓄積を達成した。

 多くの優遇政策でチベット自治区の90年代の経済成長率は平均10%を超えて全国平均より高く、都市住民収入の平均年間増加率は19.6%、農牧民の純収入平均年間増加率9.3%(1991年~1997年)であった(注7)。これは紙の上の数字だけではない、私は今年(2000年)チベットに旅行して、生活水準の顕著な向上を目の当たりにした。農村でも都市でも、新築住宅だらけだった。ラサなどの都市はとりわけ変化が大きい。文化の面でどう評価するかは別にして、便利さや快適さでは中国内地と遜色ない。経済発展と生活水準の面では、今日のチベットは歴史上のいかなる時代をも超えている。チベットの庶民は多くがその点を認めている。

 しかし、経済発展と生活の改善は北京が期待したようにはチベットの人心をつかんでいない。むしろチベット人はますます彼らに少しも金を与えたことのないダライラマに接近している。このところ80年代のような街頭暴動はほとんど起きておらず、チベットは表面的にはあたかも平静だが、チベット人の中に深く入り込んだら、彼らの心がどこにあるかはいつでもはっきり感じられる。周回巡礼路に行って群衆と一緒に歩いてみたり、寺院に参拝する群衆の中にしばらくとどまったりすれば、いつでも「ジェワ・テンジン・ギャムツォ」、「ジェワ・イシロプ」という声が聞こえてくる――それはチベット人のダライラマに対する尊称だ。ダライラマの平安長寿の祝福は多くのチベット人が必ずする祈りだ。ある興味深い話がある。中国の人気歌手朱哲琴が彼女のヒット曲「姉さん太鼓」の制作ためにジョカン寺で録音していたら、偶然チベット人の老婦人の祈祷も録音されていた。CDが発売された後で初めてそれがダライラマを祝福する祈りの言葉だとわかった。宗教祝祭日で人が集まる時は、多くのチベット人が禁令を無視してダライラマを祝福する。今日の若いチベット人の間で、一番重い誓いはダライラマに誓うことだ。また、ダライラマの名前がテンジン・ギャムツォだからチベット人の子供の間では「テンジン」という名前が近年激増している。

 どんなことでも、北京とダライラマが対立すれば、大多数のチベット人は必ずダライラマを支持する。パンチェンの争いでは、チベット人は一様に北京のパンチェンを拒絶し、ダライラマのパンチェンだけを認める。カギュ派の法王カルマパが北京から「統一戦線対象」にされていたとき、チベット人の間での声望は彼がダライラマのもとに走った後よりはるかに低かった。カルマパの加護を求める祈りはカギュ派寺院でのみ聞かれたが、カルマパが亡命してからはチベット中で聞かれるようになった。いまではほとんどすべてのチベット人の家でカルマパの写真を飾っている。かれは北京と決裂したことで一つの教派のリーダーから一躍各教派がともに受け入れるリーダーになり、多くのチベット人にダライラマの後継者とみなされるようになった。

 カルマパが北京が敷いた華やかな前途を捨てて亡命したように、多くのチベット人も同様の選択をしている。陳奎元書記はこれについて次のように話している。
 「近年、しばしば幹部、ジャーナリスト、有名な俳優、企業マネージャーなどが、祖国にそむいて外国に逃亡している。あるものは直接ダライグループに参加し、あるものは西側敵対勢力の反中国グループに加わっている。あるものは長期にわたって共産党と国家に丹念に育成されながら、今では悪辣に国家統一に反対し、中国共産党に反対し、中華民族に反対する分裂主義グループの中堅になっている」(注8)。

 陳書記は全チベットで一番多くの情報を握っている人間だから、彼がこう語ったということは状況を十分説明している。毎年何千人何万人ものチベット人が死の危険を冒してヒマラヤ山脈を越え、インドのダライラマを頼って行く。中共のチベット人官僚(ときには高級官僚までが)いったん退職するとたちまちマニ車を回してお経を唱え始める。こうした事例は珍しくない。また、小さいうちから内地に送られて中共の教育を受けたチベット青年はしばしば民族感情の最も強い反対派となる。

 あるチベット人官僚は50年代の初期からずっと中共の熱心な追随者だった。畑を耕すときでさえ、自分の牛の角に五星紅旗を立てて、毎日家に農奴を集めて革命を宣伝したので、「ジャミ」(チベット語で中国人=漢民族の意)というあだ名がついた。このような「ジャミ」が、いまでは当局に「民族感情が強すぎる」として批判されている。この劇的な変化は何を物語るのだろう? 原因の一部は「チベット問題の文化的反省」という文章の中で既に述べたので、ここではふれない。確かなことは、その原因は物質や経済ではなく、また「発展」によって解決できるものでもないということだ。彼の生活は恵まれていて、家も広く、設備は最新だし、子供たちもみな今のチベットの成功者だ。しかし、政治に話が及ぶと、彼は気持ちが重くなり、感情が高ぶる。

 彼は私に警告して言った。もし今が「騒乱」時代より安定していると思ったら大間違いだ。当時騒いだのは僧侶と一部の扇動された青年だが、今は(共産党の)幹部、知識人、国の職員もみんな反対派になっている。今の安定は表面にすぎず、いったん鎮圧しきれなくなれば、騒ぎに参加する人は80年代よりずっと多い。

反ダライ運動

 なぜ北京はチベットに大金をつぎ込んでもチベット人の心をつかめないのだろう? 原因は様々だが、私が思うに根本的な原因は、北京がダライラマと敵対していることだ。ダライラマは決して単なる個人ではない。彼が代表しているのはチベットで500年余り続いているダライラマの家系とダライラマ体制だ。チベット人の転生観念によれば、当世のダライラマと敵対することは、以前のすべてのダライラマと敵対することであり、チベットの全宗教とチベット民族に敵対することである。そうであれば、金をつぎ込んで効果が上がるだろうか?

 80年代北京もダライラマを自分の側に引き寄せようとしたことがあった。その時は「ダライグループと海外チベット人を祖国に帰らせる」という工作項目(「争帰」と略称される)があって、専門機関も設立された。「争帰」は実質的な進展がなかった。原因は双方の距離が大きすぎたことだ。北京がダライラマに承諾したのは彼の「全国人民代表大会副委員長」と「全国政治協商会議副主席」の権限のないポストに過ぎず、彼がチベットに戻ることも、彼がチベットの職務を兼職することも許さなかった(注9)。一方、ダライラマが要求したのは「大チベット」(中国の数省に割譲された地方を含む本来のチベット人地区)全体において民主主義制度のもとで「高度な自治」を実現することだった。距離がここまで大きいと、対話の基礎もないし、進展も期待できない。

 行き詰まりを打開するための、ダライラマの戦術は西側から圧力をかけ、北京の譲歩を迫ることだった。彼はチベット問題の国際化に成功し、彼自身もその過程で世界でもっとも影響力のある人物の一人になった。一方、80年代末にラサで街頭抗議と騒乱が起きたとき、当局は流血の鎮圧を行い、419日間にわたって戒厳令を敷いた。こうしたことのすべてが西側社会を圧倒的にダライラマの側に立たせることになった。「チベット問題」も西側諸国が北京を批判するトピックになった。しかし、これらの圧力は北京の譲歩を引き出さなかったばかりか、ダライラマ「取り込み」の根気を失わせ、態度を硬化させた。北京はダライラマの国際舞台での活動を敵対行為とみなしただけでなく、チベット自治区内での騒動もダライラマのせいにした。チベット事務官僚は「1987年9月27日以降、ラサで発生した数十回の騒乱を、ダライは声明を発表して支持しただけでなく、資金と人を出して組織した。ダライの公然の支持と計画がなければラサで『殴打・破壊・略奪』の騒乱は起こり得ないし、連続した政治的爆発事件も起こりえない」(注10)。

 事ここに至って、北京のチベットでの「混乱の鎮静化」が悪循環に陥っていることに、北京はやっと気づいた。チベット人は宗教的民族である→宗教の性質が信者の宗教指導者への無条件の服従を決定づける→ダライラマはチベット宗教の指導者である→同時に彼は海外に亡命した政治指導者である。この悪循環の論理だと、チベットに宗教的自由を認めれば、チベット民族は必ずダライラマにひれ伏して拝み、ダライラマの宗教指導者としての精神的影響力は、簡単にチベット人を北京に反対させる政治的訴求力に転化し、そうしてチベット宗教はかれの政治的資源に転化する。このことは北京をジレンマに陥らせる。陳書記はこれについて明確に述べている「精神領域でダライにわずかでも余地を残せば、分裂主義は政治的に大きな空間を得ることになり、我々は必然的にいたるところで受け身に立たされる」(注11)。ここでいう「精神」とはつまりチベット宗教の代名詞である。

 しかし、再びチベットで宗教を禁止することはもう不可能であり、この悪循環を断ち切るのはダライ本人しかいない。1994年北京は「第三回チベット工作討論会」を開いたが、このときからチベット統治路線は強硬に転じ、ダライラマは「妖怪討伐」で真っ先に討伐すべき「妖怪の頭」になった(注12)。1995年にダライラマが北京に先んじてパンチェンを認定してからは、北京はさらに一層敵視するようになった。民族工作を主管する中共政治局常務委員李瑞環はダライラマを次のように決めつけている。

 「ダライはチベット独立をたくらむ分裂主義政治グループの頭目であり、国際反中国勢力の忠実な道具であり、チベットに社会的動乱をもたらす大本であり、チベット仏教に正常な秩序を作り出すための最大の障害である」(注13)。

 しかし、ダライラマとチベット宗教は不可分の関係にあるから、ダライ反対の運動の対象は彼個人だけに限られず、政治に限るわけにもいかず、必ず全チベット宗教に広がる。例えばダライラマに対して「暴露・批判」を行おうとしても、すべての寺院と多くのチベット人の家でダライラマ像を飾っていて、毎日拝んでいるのに、どうやって「暴露・批判」するのだろうか? そこで、ダライラマ像を没収して廃棄するよう命令した。このような古代社会にしかないような行為が、鳴り物入りで1996年からチベット全体で実施されている。最初の反抗はゲルク派三大寺院のガンデン寺でおきた。400名あまりの僧侶が「チベット独立」を叫んで寺院に進駐している警察組織を破壊した。ラサのセラ寺、デプン寺、ジョカン寺は仏事を中止し、寺院付属学校を閉鎖し、寺の門を閉ざすなどして抗議した。

 反抗にあって、陳奎元書記は次のように考えた「ダライグループの浸透が最も深刻で、最も広い場所は寺院だ。そこは彼らが陰謀をめぐらし、身を隠す場所になっていて、また彼らの追随者が最も多い場所だ。……もししっかり寺院を管理しなかったら、ダライグループのチベット反乱の陰謀は制止できず、チベットに安らかな日は訪れない」(注14)。彼はそこで寺院を「ダライの操縦から引きずり出す」(注15)ことを決意した。具体的には寺院を「整理整頓」したのだ。共産党政府官僚と公安職員で工作組を作って寺院に進駐し、僧侶たちは一人一人「関門を通過」することを要求され、審査された。多くの当局の信任を得らえない僧侶が寺院から追い出され(注16)、故郷に追い返され、一部は監獄に送られた。残った僧侶は必ずダライに反対すると言わなければならなかった。共産党の許可なく寺院を作ることを禁ずる、寺院の僧侶の定員を制限する、寺院間での連絡を禁ずる、寺院の外での宗教活動を禁ずる、など様々な寺院活動を制限する規則が作られた。活仏の転生でさえも「共産党の統制のもとで」行わなければならなくなった。寺院の自治は有名無実となり、政府官僚が寺院の管理部門に入り込み、すべての決定が彼らの許可を得なくてはならなくなった。

 運動の拡大は寺院にとどまらなかった。チベットのすべての中共党員、幹部、国家職員が明文で宗教を信仰してはならないと要求され、ダライラマを敵としなければならず、家の中にダライラマ像を飾ることが厳禁されただけでなく、仏壇を設けることも許されず、僧侶に経を上げてもらうことも許されず、仏事を行うことも許されず、宗教シンボルを飾ることも許されず、子女を亡命政府運営の学校で学ばせることも許されず、違反者は党籍をはく奪され、公職から追放され、退職者は退職年金の支給を差し止められ、学生は進学を禁じられた。チベット自治区にはいま6万人余りの幹部、9万人余りの党員、15万人の一般職員がいる。そのうち80%はチベット人であり、彼らの家族を加えると、この規則の影響を受けるチベット人はチベット総人口の10%に上る。多くの(役所・会社などの公的)組織が不意打ちで職員の家に押し入って検査した。今年のサカダワ祭(チベット人の最も重要な宗教祝祭日)には、当局は各組織に宗教活動場所に人を派遣して自組織の者が参加していないか監視するよう命じた。さらに、テレビ画面にルンダが映ってはならないなどというはばかばかしい禁令まで出た。その結果チベットのテレビ記者とほかの省からチベットに来た記者が一緒に取材しても、よそからの記者は民家の上ではためくルンダを撮影してチベットの特色を示そうとするが、チベットの記者はルンダの映らない角度を探し回らなければならなかった。

 当局は公職にない民衆に宗教活動への参加を禁止することはできない。しかし、以前のチベットの宗教祝祭日は寺参りのほかに、リンカを散歩したり、友達に会ったり、酒を飲んだり、トランプをしたりしたものだった。女性なら自分の服装や首飾りを見せたりしていた。しかし今の「宗教の自由」のもとでは、宗教活動の場所は何重にもゲートが設けられ、制服と私服の警官があふれているので、庶民は仏事が終わったらそそくさと帰ってしまう。酔って喧嘩をしたなどという些細なことで監獄に送られてしまい、恐怖が祝祭日の喜びを跡形もなく消してしまった。

 当局の考えをまとめると、チベットの宗教を再び全面禁止することのできない今日、当局が試みているのは、第一はチベットの宗教を二つの部分に分け、一部を容認し、一部を禁止することだ。第二は、チベット人を二つの部分に分け、一部の人の信教を容認し、一部の人の信教を禁止することだ。

陳奎元書記はいう「宗教が社会主義社会に適応するというのが、我々の宗教に対する基本的要求である。……たとえば群衆が完全に宗教の指導を受け入れたら、それは社会主義への道ではない。多くの人が宗教的信仰のゆえにダライに祖国分裂、社会の安定を害する危険な境地に引き込まれる」(注17)。

 よって、宗教に対して彼は「社会主義に適応しない」部分を禁止する。またチベット人の中で「給料をもらっている」人も、一律に信教を許さない。――共産党の飯を食うんだったら党の命令を聞け! しかし、宗教は一体のものであり、1千年以上にわたって形作られ、髪の毛一本引っ張ると体全体が動くのだ。自分自身を維持するのも難しい社会主義に適応するよう求められるだろうか? また、民族主義が日増しに高まる今日の世界で、いったいどんな手段で一つの民族を対立する二つのグループに分けられるのだろう? 生活の糧を失うという脅迫でしばらくは一部のチベット人を従わせることができるかもしれないが、生活の糧は人心ではない。人心は脅迫によってもっと離れてしまうだろう。

 ましてや、この種の分割は場当たり的な計画というべきであり、陳奎元書記がいろいろな場所でもらす「有神論と無神論」唯心主義と唯物主義は相容れない」(注18)、「宗教は人民の精神的アヘンである」(注19)、「宗教は決して正しい世界観ではない」(注20)、「宗教的唯心主義から思想領域のヘゲモニーを奪う」などの言葉は、宗教の信徒にとっては宗教に対する公然たる宣戦布告である。そしてチベット当局が今進めている「宗教の希薄化」政策は、信者にとっては計画的、系統的な宗教の消滅政策である。これは、表面だけを見る観光客には見えない。形式的な宗教活動はあたかもみな正常に行われている。しかし、チベット宗教の命脈――「三宝」と呼ばれる仏、法、僧はみな支配され踏みにじられている。前に述べた「寺院整頓」だけでなく、チベット宗教界が最も心配しているのは、当局の説法の禁止である。宗教が哲学思想の伝道を失えば、庶民の信仰は形式と迷信のレベルにとどまるしかなく、宗教の真諦を理解できないので、必ずや宗教の衰退を招き、また浪費の気風と風紀の退廃を招く。また、宗教会内部の理論研究と伝承もできなくなっており、宗教規範は禁じられたり制限されたりし、宗教学位の試験もすでに10数年実施を許可されていない。今のチベット自治区内の僧侶は宗教的造詣の面で国外に大きく遅れている。不満を抱く宗教家は、表面上は参拝客でにぎわっている寺院は実際は展覧館と同じで、庶民にろうそくを供え参拝する自由を許しているだけで、効果は外国の訪問者をごまかすことだけだから、ない方がましだ(注21)と言っている。

 今日の北京のチベット統治路線は日増しに強硬になっており、「すべての不穏な要因を萌芽のうちに摘み取る」というのがすべての行動の指針になっている。しかし、「萌芽」は計ることができないし、「消滅」もほしいままに進められるので、虐政の温床となる。チベットは今表面的には安定しており、人々は異議さえ表明しないが、問題がないのではない。小平は次のような名言を述べた「一番怖いのは人民大衆が静まりかえることだ。もし人が不満を表明したら、彼らは論議で問題を解決できると考えていることを物語るが、人が何も言わなくなったら、議論を持ち込む場がないと考えているということであり、暴力によってしか伝わらないと考えているということだ!」。

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チベット問題解決の鍵(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/
e/c634f72b42b3b60305ec1c9b44c4105a

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