思考の部屋

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真田信之の松代への転封と騎馬団の帰郷

2009年10月05日 | 歴史

 元和8年(1622)江戸に参府した真田信之は、二代将軍徳川秀忠から松代への転封を命ぜられます。

 写真の書状は江戸から上田へ帰途の中仙道鴻巣宿で受け取った国元の重臣出浦津島守からの書状に対する返書としたためられた書状と考えられるものです。

 東信史学会最新号は、堀内泰さんが懇切丁寧に解説されています。

 書状後半、「なお、私はもはや年老いても居り、致し方のないこととあきらめ、上意のでもあるので、子孫のためにご命令のまま松代へ移るつもりである・・・・」と堀内さんは解読されています。

 何かと松代藩への転封は謎が多いとされていますが、実際は上記のとおり裏などないすなおな承諾の意向が信之に感じられます。

 上州・信濃の上田・東部には戦国を生き延び信之に組した海野一族(海野衆)がおりました。清和源氏海野氏本家を語ることに転封後なるのですが、この海野一族の処遇に苦慮します。

 真田信之軍といっても多数の騎馬軍で構成され、身内の親族を生き延びさせる為の参戦でした。海野一族も元は海野家の最も近い親族一団です。全く信之の人格に不快感を感じ松代から帰郷するものが出てきます。

 それが「48騎の帰郷の騒動」ですが、この事件が真田三代のキーポイントなのですが歴史書には出てくることはありませんでした。


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4 コメント

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松代藩転封の考察 (匿名)
2011-11-12 01:09:48
上田から松代への転封について、本多正純失脚と関係すると思われますが、信之が転封を受け入れた理由は、上田より沼田の方が、収益が多かったからです。
米の収穫高は、上田の方が上ながら、山林資源と草津温泉の管理益を考慮すると、そう言えます。後の騒動で、沼田が松代藩ときりはなされた際、信之はかなり動揺しており、また、松代藩が貧乏になるのも、それからしばらくたってのことです。
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大変ありがとうございます。 (管理人)
2011-11-12 07:01:58
>匿名 様

貴重なご指摘ありがとうございます。
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都合の悪い歴史 (匿名)
2011-12-16 21:42:10
先日、投稿させていただいた者です。
騎馬団の帰郷が、真田氏歴史書にて記載されないのは、権力者にとって都合の悪い事実は、消去されるからです。
例えば、犬伏の別れは、信之の律儀さを顕す美談とされますが、あの話は事実ではありません。
関ヶ原の際、西軍に与して改易された大名の中には、立花宗茂のように、大名に復帰した者もおり、彼等は信之より徳川から優遇されていました。信之の子孫は、沼田藩を改易させているので、大名として血を残す価値は、低いように思えます。その一方で幸村子孫は、信之子孫より優秀なので、上田と沼田の真田氏が改易され、立花のように大名に復帰した場合、信之ではなく幸村が、大名真田氏を継承したかもしれません。
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コメントありがとうございます。 (管理人)
2011-12-19 06:48:00
>匿名様
コメントありがとうございます。
 騎馬団には、沼田の豪族と姻戚関係にあるものが多くいました。信之をあまりよく思わないもの、そのような根があったそんな気がします。
 海野一族は、真田家の家臣ではないそんな根があったということです。
 コメントありがとうございます。
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