「好いも、悪いも、みなとられ、・・・」という言葉で表現された詩があります。「みなとられ」とは「みんな取られる」「すべて取られる」ということで、捨てるのではなく、何ものかに「取られる」ということです。至極当然の話で・・・つまらん話かもしれません。
世捨て人、世をはかなんで『下山の思想』のような生き方の中に身をおい苦人は今も昔も変わらないかもしれません。その中にあって何かを求めんとして遊行に旅立つものもあります。空也さん、一遍さんはそういう人でした。世俗を捨てたということで「捨てる」の思想がそこにあります。
上記の冒頭の句を空也、一遍流に言うならば「好いも、悪いもみなすてて・・・」となるでしょう。
「善し悪しを捨てる」即ち分別界を去る人びと・・・至は無分別智ということになるでしょうか。
鈴木大拙先生の『日本的霊性』で語られる「妙好人」、著書では蓮如上人に仕えたという赤尾の道宗の話からはじまりますが、何と言っても心打たれるのは、石見の片田舎で一生を終わった浅原才市老念仏者です。
好いも、悪いも、みなとられ、
なんにもない。
ないが楽なよ、安気なよ。
なむあみだぶつ、皆とられ、
これこそ安気な、
なむあみだぶつ。
さいちゃ、このたび、しやわせよ、
悪もとられ、自力もとられ、
疑もとられ、みなとられ、
さいちが身上まなとられ、
なむあみだぶつをただ貰うて、
これで、さいちが苦がないよ、
これが浄土にいぬるばかり。
冒頭の句は妙好人の浅原才市翁の冒頭の句だったわけです。
無我の境地は捨てるが過る世界ですが、才市翁は違うんですね。「とられる」なのです。
この表現の世界の境地というものが空也、一遍を超えているのではないか、そう語るのは唐木順三先生でした『無用者の系譜』(筑摩書房)p51-p55)。
「働くものから見るものへ・・・・見るものから働くものへ」
後半の「見るものから働くものへ」という言葉はありませんが、場における表現とはそういうものではないだろうか、ということを森哲郎先生から教えられたことがありますが、まさにそういう気がします。
「とられる」とは、盗まれるのかも知れません。「そっと」
何気ない生活のなかで、そっと仏にとられたい。
他ブログで唐木順三先生の名を見て、このような心境になりました。