生活パターンの中に日曜日の過ごし方としてNHK教育(Eテレ)の早朝(午前5時)からはじまる「こころの時代」を「観る」があります。見ると書かずに「観る」と書くのは心の立ち位置の翻訳があるわけで、心の目を含めた「みる」がそこにあります。
今朝の「こころの時代」は、2013年(平成25年)11月3日に放送された、精神科医で介護老人保険施設「あおばケアガーデン」施設長の永尾雄二郎先生の「普遍の法を聴くか」でした。
録画もしてはあるのですが一期一会の出会いの中で、今日という教えの世界で出会う最初の機会です。新たなる問いの世界に身をおくこと、長尾先生ならば仏の声を聴くに重なると自分では考えています。
宗教学者の鈴木大拙先生は、禅の世界、浄土宗、真宗の世界に自己の悟りの世界を読み解いていますが、この番組の最後の方で、
<『尊号真像銘文』から>
称佛六字即嘆佛(しょうぶつろくじそくたんぶつ)
即懺悔即発願廻向(そくさんげそくほつがんえこう)
一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごんそうごんじょうど)
について語られた際に、 次のように語られたいました。
【長尾雄二郎】これ簡単にいうと、経験感情になると。純粋精神の世界がそこに出てきますよと。全部一緒になって一つのものですね。ですからここにあるように、結局これ別々に書いてあるが、別々じゃない。「仏様有難うございました」ということは、先ず「その心が申し訳なかった」ということ。人間とは謝らなければ生きていけない存在です、ということですね。「申し訳なかった」ということ。申し訳なかったということは、すべて平和からくるんじゃないですか。ですから「一切善根荘厳浄土」なんかというと非常に難しいですが、簡単にいうと、「平和がくるよ」と。自分の心で言えば、「幸せがくる」と。「幸せになりますよ」ということではないかと思うんです。それはどうしても、この謝るということ。これは感謝ということが、誤りを感ずると。即ですね。別々のもんで、私は謝る必要はないというのが、大体今理論の世界です。ですから、こう言えばああいう。右だ左だと、そういうものが常に出てきて争うんですね。
【金光寿郎】そういうところが、エゴの世界がなくなった世界。エゴの底が抜けた世界ということにもなるわけですね。
【長尾雄二郎】 そうですね。ですから禅などのお坊さんなんかがおっしゃる「無我」ということ、その通りですね。
という話をされていました。 この話は我が作りだす世界、分別する世界を言っています。
我思う我がそうさせているエゴの世界では存在というものが珍しくなくなってしまいます。日々の明け暮れは日々の明け暮れでしかない、と悟りきったことを言っても、それならば日々を本当に知っているかとなると、知る先がわからない。知るものが見えない。
「我」があると相手の存在が珍しくなくなる。
とは哲学者西谷啓治先生が著作集にもおさめられている『或る結婚式にて』に出てくる言葉で、日常における「我がある」とはどういうことかをよく表わしています。
<『或る結婚式にて』著作集21巻随想Ⅱから>
・・・今まで申したことと関連して、最後に、私は結婚生活では「我」というものがあってはならないという感じます。
「我」を出来るだけ引込めることが互いに必要だと思います。「我」があると相手の存在が珍しくなくなる。不思議な縁の感じはなくなり生きた哲学がなくなります。
愛するとか知るとかということもなくなります。どうもそういうふうに思われるので、御両人はお互いに「我」を張ることだけは謹まれることを祈ります。
これで私の話は終わります。
<引用以上>
今朝の番組の紹介というよりも再び聞いたことからの思うところ、感慨です。この場合は門構えに内に耳、耳へんに懐(いだ)くの「心」立っ心片の代りの替わりに懐(ふところ)の右側を添えた「聴く」を使いません。理由があってこの漢字を使ったいるわけではなく、内に抱く、内心の感情的な感覚の世界で「きく」を見つめているだけです。
番組は、「念仏は普遍の法と特殊の機の呼応である」という話しから始まります。
その中で「頂(いただ)く」という言葉が出てきました。「頂だいする」の「頂」です。
【長尾雄二郎】「普遍の法をどのように頂くか」と。これはね、この前ちょっとご一緒させて頂いたのをご覧になった方が、それを感銘なさって、ご返事をくださった。その中に、〝「頂く」とはどういうことか〟と。永尾が、〝頂く〟ということを盛んに言っていた。その頂く姿勢というものが、何かこの頃、少し乏しくなってきているんじゃないか、と。
この結局普遍の法というのは、仏様の教え、「阿弥陀如来の世界」というそういうものを「普遍の法」というのであって、それを私たちは、学門ももち論大事でしょうが、それを身に付けるのにはどうしたらいいか、ということはやはり「拝む、頂く」その方は「頂く」という言葉が出ていたのをすごく感銘したと言ってくださって、私はその方に教わった。なるほど「頂くという姿勢」。
ところがこの頂くという姿勢が、この頃だんだん薄れてきている。1990年頃だったでしょうか。〝「国際頭脳サミット」〟 世界中の哲学者とか、宗教家みたいな方が集まって、「国際頭脳サミット」というのを、日本で開催したことがあったんです。その時の宣伝文が、「国際化、情報化社会における価値観の多様化を踏まえてアイデンティティ(自己確認)を確立し、かつ積極的自己実現を図ること」だと。これが「21世紀における理想的人物の姿だ」という宣言文が出たんですよ。なるほどと思うような、しかしちょっと分かりにくい。
結局私なりに簡単に言いますと、「世界中のあらゆることを知って、そして自分を主張できるような偉い人になりなさいよ」と。非常に学問的で難しいですが、簡単にそれを何回も・・・私もいい言葉のような気がしたんですが、・・・簡単にいうと、「世界中のどんなことでもよく知った偉い人になって自分を主張するような人になりなさい。これが21世紀の理想だ」という。
それを聞いて、私は、ちょっと残念だったのと同時に宗教の世界、さっき言った「自己を確立」するというものからすると、「自己を確立する」のはいいのですが「法の確立」というものがない。「法の確立」は今、価値観の多様を踏まえてという言葉がその頃から流行りだして、説明語としては非常にいいでしょう。親鸞の言葉を踏まえて・・・考えてみると、「普遍の法を頂くという姿勢」がまったく書かれていないんですね。それでちょっと失望して・・・まあ結局は、「拝む」という言葉が無くなって今の(価値観の多様を)踏まえるいう方に行ってしまった。どんなことでも「踏まえる」「踏まえる」「踏まえる」・・・「頂く」という言葉、さっきの賜る、普遍の法は賜るもの。わしが研究して勝ち取ってというものではない、と私は思うんです。
<以上>
金光寿郎さんのブッダの最期の言葉、法句経の言葉ですが、
「自帰依(じきえ)」「法帰依(ほうきえ)」
「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」
法に帰依しなさい、法灯明の説くところの普遍の法から「普遍の法の方は、どういうふうに受け取っていらっしゃるのかな」と言う質問に応えられて、長尾先生は上記のように話されていました。
やはり「キク耳」を持ち、機会は常にあるけれど、キクアンテナが作動していないと自(おの)ずから明らかにならない。自(みず)らが作用しない、反応しないということでしょう。
賜る世界がどうも異なる。信ずる宗教ではなく感ずる宗教である、のだと私は思うのです。親鸞さんが私の宗教だというのは、その確信であってそれを感得した、という意味理解が長尾先生の中、金子大栄先生から魂の引継ぎで語られたように思いました。