思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

フランケンシュタインとプロメテウス

2015年02月23日 | 哲学

 2月のEテレ100分de名著は、メアリ・シェリー著『フランケンシュタイン』で既に18日に第3回〝科学者の「罪」と「罰」〟が放送されました。2004年のアメリカ映画ケヴィン・コナー監督の『フランケンシュタイン』のDVDをみたものの、原作は読んだことはありませんでしたが、ホラー、人造人間製造のSF作品とみなされる以上に人間そのものを問う意味ある問いが与えられる作品であることを知りました。

 個人的に自立型、自律型のロボットを哲学的と言うほどではありませんが話題にしていると、人造人間、クーロン人間が近未来に存在する可能性がたまると生身の生命体同士でありながらその存在に非人格性をみてしまい、創られしもの、創りしものという関係性にを思考するこの営みにある人間それ自体の意味を考えてしまいます。

 さて第3回〝科学者の「罪」と「罰」〟ではギリシャ神話のプロメテウスの話が出てきます。ギリシャ神話のゼウスの怒りをかったプロメテウス。この名を聞くと3.11東日本大震災で発生した原発問題を取り扱っている連続ものの朝日新聞特別報道部編『プロメテウスの罠』を思い出します。

 ギリシャ神話を人類文明の神話として読み解いていくと、まさに現代の科学技術のもたらす脅威は『フランケンシュタイン』に行き着くところがあるように思います。個人的にこのプロメテウスに関係するパンドラという創られし女神がこの世における災厄の源基にもなっていることを重ね合わせるとさらなる教訓を与えているように思います。

 このNHKのテキストの表紙には、

 本当の「怪物」とは誰だ

 善とは何か? 悪とは何か?
 答えるのは、あなたです。

と書かれています。ヴィクター・フランケンシュタイン博士は、世界の自然科学的な秘密を解き明かしたい野望にとらわれ、遂には人造人間を製造してしまいます。他の動物とは異なる存在を創り上げてしまいます。創造主でもないヴィクターは、ヴィクター自身の内側に潜む原因のためにおのずから破滅の道をたどることになります。

 ギリシャ神話のプロメテウスの話に戻すと、プラトン著『プロタゴラス』においてプロメテウス神話が語られている。この『プロタゴラス』では、プロメテウスはゼウスのもといる鍛冶と工作の神ヘパイトスと知恵と技術の女神アテナのところから技術的な知恵を火とともに盗みだしこれを人間に備わした。この知恵は生活のための知恵であって、人間は国家社会をなすための知恵はもたないままでいた、という話をプロタゴラスは語り、さまざまな物語を続ける。その中に国家に係わる次の話が実におもしろい。

<『プロタゴラス』(岩波文庫)から>

 いったい、いやしくも国家が成立するためには、必ずすべての国民に分けもたなければならないような、何か一つのものがあるだろうか、それともないだろうか?

 君の行きあたっている先の問題の解決は、一(いつ)にかかってほかならぬこの点にあるのである。すなわち、もしいま言ったような何か一つのものがあるとして、その一つのものとは、大工の技術でも、鍛冶屋の技術でも、陶工の技術でもなく、じつに正義と節制と敬虔であり、これを一言にしていえば、人間としてもつべき徳こそがそれであるとしよう。------もしこれこそが万人の分けもたなければならぬものであって、人間は誰でも、学んだり行なったりしようと思うことが何かある場合には、必ずこのものをもって行わねばならず、それなしに行ってはならないようなものだとしよう。------そしてこの徳を分けもっていない者は、長幼男女を問わず、懲戒によって人間が改善されるまで、かつは教えかつは懲らしめ、もし懲らしめても教えても聞き入れぬ者があれば、癒すことのできない病根とみなしてこれを国家から追放するなり、死刑にするなりしなければならないとしよう------もし事情がこのような条件のもとに考えられなければならぬものであるとするならば、そして、先に言った一つのものというのが、本来このような性質のものであるのに、もしすぐれた人物たちが、ほかの事柄については息子たちに教育を与えながら、この肝心のものを教えないとするならば、考えてもみたまえ、すぐれた人物とは何と不可解な人々ということになるだろうか。(以上同書p52から)

話しは途中なのですが、このような思考で国家の成立、人間の不徳を語るのもなかなか何かを問われます。作り話の典型的な例であると一笑にするのもいいでしょうが、私には思考の転回が現われます。

 絶対的な徳道国家

この国家の話の前に次のような話も出てきます。話しの順番としては最初に書くべきでしょうが、逆に話をたどるのは、大から小への視点で見ると作者の思考視点とは異なる思考視点が発見できるかもしれないからです。意味がないと思う人もいるかもしれませんが・・・・

<『プロタゴラス』(岩波文庫)から>

 すなわち、お互いがもっている欠点が、生まれつきや偶然によるものであると人々が考えるような場合には、何びともそのような欠点の持ち主に対して、これを是正しようという意図のもとに、怒ったり、叱ったり、教えたり、懲らしめたりするようなことはしない。ただ気の毒だと思うだけである。(以上同書p49)

どうでしょうか。人の欠点が生まれつき、偶然の産物であることを納得の確実な事実として、是認し気の毒だという性質、人格を備える存在であったならば・・・・。

バカバカしい話ですが、なぜ世の中はそうでないのか。人の人たる所以だからバカバカしいのか。

 絶対的な徳道国家とは厳しいというよりもホロコーストです。

 人はいったい何を望んで存在しているのか。

 絶対的な徳道国家は善なのか、悪なのか?

 正しい行いに対して、正しい生き方にある者にとっては決して怖れるような国家ではない。

 正しさのうちに生きることは苦しいことなのか?

 正しさは誰が測るのか?

 どうしても他者にその測定を負かせるのか?

 生まれながらに人は自律する人間(自分をコントロールできる人間)であることが、自明の理であるとしたながばどうだろうか?

 何も決定はされていないということです。

 問うことのできないリアルさに覆われている。それは問われるものとしての地位だけが与えられている、したがって背後に敷かれたレールがあるだけということです。

 気づくべきはことは、私がここにいて、私であるということ、ただそれだけ。