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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・北朝鮮問題を考える(1)

2011年02月27日 | 哲学

 日本テレ制作の「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」が2月21日(17:00~20:54)放送されました。その中でハーバード大学のサンデル教授による「特別講座」が

ゲスト
石破 茂、荻原 博子、片山 さつき、勝谷 誠彦、カンニング竹山、北野 大、久保 純子、さくら まや、竹内 薫、テリー伊藤、内藤 大助、西尾 由佳理、原口 一博、はるな 愛、丸岡 いずみ、三倉 佳奈、三倉 茉奈、山本モナ

が参加して行われました。
 講義内容は、

 Lecture1「大相撲八百長問題を考える・嘘」
 
 Lecture2「北朝鮮拉致問題を考える・命と人権」
     Lecture2-1 「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」
     Lecture2-2 「拉致被害者の命と北朝鮮スパイの人権」

の2つのLectureに分かれています。Lecture1については既に2回に分け掲載しました。

 今夜は、番組後半で放送された、

 Lecture2---「北朝鮮問題を考える」

について、Lecture1と同様にシナリオ形式で綴りたいと思います。

 なぜこの形式にするかと言いますと、このブログは「思考の部屋」という名称で、思考ということに重点をおいています。

 人それぞれに話し方が異なります。そこにはご本人も気がつかない話の組み立て方があるわけです。

 何という言葉を最初に出すべきか。

 相手は理解してくれのか? 

 言い方を変えてみようか?

 説明を細かくしようか?

 十分に相手に伝わっただろうか?

などと思考回路全開の姿をみることが出来まし、また人柄も見ることが出来るからです。

なおこのLecture2も文字数超過になりそうですのでLecture2-1・Lecture2-2に分割し、今夜はLecture2-1を掲出することとします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その解決方法とは? とはじまった番組は、ハーバード白熱教室同様にサンデル教授の道徳的なジレンマの問題をゲストに問う形で行われました。

 5人を救うために1人を犠牲にするのか、これは道徳的ジレンマ定番の例題です。
 
<Lecture2-1「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」>

【サンデル教授】
 北朝鮮の拉致問題、それを考える前にちょっと想像してください。

 あなたは、電車の運転手です。
 今ものすごいスピードで走っています。
 その行く手に5人の作業員が見えました。


 
 彼らは線路の上で作業をしていて気がつきません。
 しかもブレーキが効かないんです。
 このままでは確実にひいてしまい、5人が死んでしまう。

 ところが、横にもう一本線路がありました。
 そこには作業員が1人だけです。
 あなたがハンドルを切ればそちらに行けるのです。

 5人を救うため1人を犠牲にするのか?
 その判断はあなた次第です。

<問>
【サンデル教授】
 1人を犠牲にして5人を助ける人?

 あなたがハンドルを切らなければその1人は助かるんですよ?

 結論は出ましたか? それでは理由を聞きたいと思います。愛さん。

【はるな愛】
 そのまま行って、5人の命がなくなる・・・・だったら、1人の人に・・・

【サンデル教授】
 5人を救うなら1人の犠牲は仕方がない?

【はるな愛】
 そうですね。

【サンデル教授】
 それは数の問題だということですね? 5対1だからと。

【たけし】
 先生作業員の歳はどうなるんですか?(爆笑つづく)

 年齢は・・・若い人と年寄りとでは・・・、どういう関係なんでしょうか?

【サンデル教授】
 それは関係ありますか!
 まさか若い人なら救って、お年寄りなら殺すというのですか!

【たけし】
 オレは、歳よりは先がないんで殺していいと思います。
 若い人の方がまだ可能性があるので、まだ人生が残っているような気がするので、若い人を生かしたいと思うんですが。

【サンデル教授】
 じゃあ~何歳からなら殺して良いというのですか?

【たけし】(外野から、何歳ならいいの・・・たけしさん。の声)
 60歳位から・・・・・

【サンデル教授】
 本気ですか、たけしさん。

 (じゃんじゃんクレームが来ちゃう。との声)

【サンデル教授】
 5人を救うためなら1人を犠牲にする。あなたの理由は何なんでしょう?(石破茂氏を指して)

 さきほどあなた、5人を助けるため、1人を殺すと答えましたね?

【石破茂】
 私はそう思います。その決断をするのが政治家であって、良いとか悪いとか言ってられません。5人の命の方が、(また)1人の命も大事だと、その決断をするために政治家という仕事はいる(必要・居る)と私は思います。


          (※注:誤りテロップ)

 <管理人注意:※ 石破氏は、実際にはこのように5人の命も1人の命も大事と語っています。そのどちらかをとるかを決めるのが政治家の仕事ということであると言っています。

 この部分日テレのテロップは、「5人の命の方が 1人の命よりも大事」と書いてありました。この掲出は大きな誤りです。

 実際このように石破氏が1人の命をないがしろにしているとの批判のブログを見ますが、よく聞き取ることが重要です。

 サンデル教授の質問に対し、歯に衣を着せたような発言と取られそうですが、防衛庁長官という立場を経験された人の発言とみると、非常に冷静な落ち着きのある答弁だと思います。
 
 急な質問、事前のシナリオがあるようには見えません。なかなかの御仁です。

 ※(また)を入れたのは、思考が先に展開すると言葉を飲み込んでしまい、言いたいことが先に出てしまうからで、話の流れから再度(また)の欠に気がつかなかったと推測し、小生が付けました。

 ※ 石橋氏は、最後に「その決断をするために政治家という仕事はいると私は思います。」と語っています。「いる」は「必要・居る」のことと思いましたので、(必要・居る)という言葉を入れました。以上>


【サンデル教授】
 なるほど。みなさんのほとんどが同じ答えですよね。5人を救うため1人を犠牲にすると。
 
<次の質問>
 ~5人の命と1人の人権~

【サンデル教授】
 では少しだけ状況を変えて想像してください。

 今回あなたは運転手ではなく、線路のすぐそばの橋の上から電車を見ています。

 猛スピードで電車が走ってくるのが見えました。そして、その行く手には、5人の作業員がいます。

 このままでは彼らは死んでしまう。

 あなたには何もできない。

 しかし、あることに気づきました。あなたの隣にとても大きな男がいます。
 彼を線路の上に突き落せば、電車が止まるかも知れない。

 もち論彼は死ぬでしょう。でもそれで電車が止まれば5人は助かる。どうでしょう。
 この場合もあなたは5人を救うために1人を殺しますか?

 <橋の上から電車を見ているあなた、5人の作業員か隣の大男、どちらの命を助けるか?>

【サンデル教授】
 それでは聞きましょう?
 隣の大きな男を突き落して、5人の命を助ける、自分ならばそうするという方は手を挙げてください。

(手を挙げるゲストなし)

 誰もいませんか? なぜでしょう?
 最初の例では、1人を犠牲にして5人の命を救うのが正しいと答えていましたよね。

 今度は何が違うんですか? 理由を教えてください。

【石破茂】
 自分はまったくそこに立っているだけなのに、そこの横にいる人が、コイツを落とせば5人が助かるぞという、本人の同意も何もないままに、その人の命が失われる。

 本人の同意がないのに、人を殺すことと、5人を助ける。どっちが重いかということは単純にどれだけの人が助かりますか、とは違う価値が入ってくる、と私は思います。

【サンデル教授】
 あなたも同じ意見ですか?

【三倉茉奈】
 私も同じような意見で、大きな人が落とされるということは、その人は全く関係のない人で、その人が助けたいと思ったかどうかも判らない。それなら落とすんでなく自分から飛び降りるならわかるけど、関係のない人を落というのは、わたしは間違っていると思います。

【サンデル教授】
 今、重要なことが見えてきました。

 第1の例では、みなさん5人の命を救うために1人を犠牲にすべきという意見でした。 より多くの命を救うべきだと。

 しかし2番目の例では、命の数よりも個人の意志や権利が重要だという意見が出ました。
 ※注:テロップは意思という表記でした。

 より多くの人の幸せを優先するのか? それとも個人の権利を優先するのか?

 実は哲学において・・・この2つの価値観の対立は・・・とても重要なことなんです。

[この問題の本質]
<より多くの命を救う>vs<個人の自由と権利を守る>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上が前半のLecture2-1「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」です。

<たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・北朝鮮問題を考える(2)に続く>

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原始仏教典から学ぶ・智慧・哲学の心

2011年02月27日 | 宗教

 写真は日本の卑弥呼の時代ごろのガンダーラ地方出土の「涅槃」像です。これが流れ流れて江戸期には「絵解き」として仏教の教えの絵巻物になりました。
※『Gandhara Art of Pakisutan』(パキスタン・ガンダーラ美術典図録 日本放送協会1984から)

 と書くとその手の専門家というと私は全くの素人です。しかし間違いないと誰でも確信できるのではないかと思います。

 伝わるものの中に何が立ち現れているのか、もの的思考で動的にとらえるとそこに現れてくるのは制作者の言葉と身体動の結晶です。アリストテレスの目的的論法、そのものの善きとするもの、これを哲学すると結晶の結実以外にはないと思います。

形に囚われると見えるものが見えてこなくなる。死後に囚われ、輪廻に囚われる涅槃に秘められたものは何であろうか、ふとそんなことを思う今朝の心境。

 仏の像に愛を思うならば幸いである。私などは前にも書きましたが、携帯(今はスマートホンにしましたが)は国宝の阿弥陀様です。信じるとか信じないの次元の話ではありません。

 こんな話があります、有名な話で以前にもブログに書いたことがあります。キリスト教の布教の際の勧誘の言葉です。

 布教者 神を信じますか。

 一般者 特に信じてはいません。

 布教者 死んで神様に、なぜ信じなかったのか?
     と質問されたらどうします。

     どちらかといったら信じないよりも、信じた方が良いと思いますよ。

     その時のために信じておきましょう。

最もな話で、信じておけば間違いなく神の御国に入れるわけです。

 実に納得のいくところです。前提は既に超越的な神は存在するにあります。愛の神は立ち現れているのです。その神は私の心を見透かしています。過去の行状も全て知っています。

 神の前に立たされた人間は、今は100%それ以上の感慨が彼を襲っています。すべての過去の行状に反省以上の念が走馬灯に映し出される行状を打ち消していきます。

 どんな愚かなものであろうと、そうであろうと確信しています。かれは100%信じています。

 こんないたいけな彼を神は地獄へと蹴落とすのでしょうか?

 その時信じればよいという話ではありません。100%信じるしかないからです。これは絵空事ではなく、夢のごとくにその場の現実で、全くの矛盾のない世界です。

 それでも蹴落とすとなると、神は瓦解してしまいます。

これはパラドクッスでもなく単純な思考の世界です。キリスト教批判でも全くありません。

神の愛とはそういうものなのです。

 原始仏教典、これを知りたい、となると純な君は中村元先生のお力を借りるがよいと言われ、春秋社から出版されているもの、岩波文庫のものを紐解きます。私はそうでした。

 今朝はそんな話の流れで、春秋社の中村先生の原始仏教典(第一巻)「長部経典Ⅰ」を久し振りに紐解きました。

<原始仏教典から>

〔心から成り立つ智慧〕
「このようにして、心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れのない、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、〔そのもの自身が〕堅固不動なものになると、かれは、心(意)から成り立つ身体を創りだすことに心を傾け、心を向けるのです。かれは、この物質的な身体とは、異なった、形はあるが心から成り立ち、四肢もすべて備え、感覚器官もかけることなく備わった身体を創りだします」

〔蛇と脱けがらのたとえ〕
「また、さらにカッサパよ、たとえば、ある人が〔脱皮の途中の〕蛇を皮から引き出すとします。その人は『これは蛇で、こちらは脱けがらである。蛇と脱けがらは別のものであるが、蛇は脱けがらから引き出されたのだ』と考えるでしょう(p370)。

 このようにして心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れのない、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、〔そのもの自身が〕堅固不動なものになると、かれは、心から成り立つ身体を創りだすことに心を傾け、心を向けるのです。かれは、この物質的な身体とは、異なった、形はあるが心から成り立ち、四肢もすべて備え、感覚器官もかけることなく備わった身体を創りだします。これもまた、修行僧の智慧の完成なのです」(p371)

<以上※(?形梵志経)から>

※?=イに右に果の文字
 漢訳『長阿含』第16(大正経1、102以下に相当するもの)とのこと。

 この二つの教えに何を読み取るか、私は修行僧ではありません。五体満足を保持することは五感であること、五感の感得を意味するに違いはないのですが、この五体満足の意味するところは、何か?

<形はあるが心から成り立ち、・・・・>

ここに智慧が潜んでいるわけです。ものは身体性をも含みそれは心から成り立っているのだと思います。言葉でもあり、像でもあり、絵画でもあり、森羅万象ことごとくなのかも知れません。

 形を形のみに囚われると、仏教の教えにほど遠くなるように思います。ギリシャ神話の歴史そこにあるギリシャ哲学の思想そこをも知悉してゆく、己の納得は己で、できない人は善き人を誤りなき智慧で発見するしかありません。哲学の心は、そんな智慧の発見でもあると思います。

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